2020年1月21日火曜日

【読書感想文】「イヤさ」がいい / 吉田 修一『悪人』

悪人

吉田 修一

内容(e-honより)
小説、映画ともに大ヒットした不朽の名作。福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃が、出会い系サイトで知り合った土木作業員に殺害された。二人が本当に会いたかった相手は誰なのか?佐賀市内に双子の妹と暮らす馬込光代もまた、何もない平凡な生活から逃れるため、携帯サイトにアクセスする。そこで運命の相手と確信できる男に出会えた光代だったが、彼は殺人を犯していた。彼女は自首しようとする男を止め、一緒にいたいと強く願う。光代を駆り立てるものは何か?その一方で、被害者と加害者に向けられた悪意と戦う家族たちがいた。悪人とはいったい誰なのか?事件の果てに明かされる、殺意の奥にあるものは?毎日出版文化賞と大佛次郎賞受賞した著者の代表作。
残忍な殺人事件が起こると、テレビの報道では
「明るくていつも元気に挨拶してくれるかわいい子だった〇〇ちゃんが、どうして殺されなければならなかったのか……」
なんてナレーションをつけて報じられる。

あれが嫌いだ。

ひねくれもののぼくとしては、
「じゃあ内向的で無愛想でブサイクな人間は殺されてもしかたないのかよ!」
と言いたくなる。

うがった見方だとはわかっている。
でもやっぱり気に入らない。
「あんなにいい子がどうして殺されなくちゃいけないの」の裏には、そういう気持ちが隠されている。

近しい人が「どうしてあんな優しい子が」という感情を抱くのは当然だ。ぼくだって親しい人を失えば同じようにおもう。
「どうせ殺すなら××とか△△とかを殺せばいいのに」ともおもう。
でもそれは個人の本音であって、社会全体の意見であってはいけない。
近代国家に生きる者としては、建前としては「どんな人にも等しく生きる権利があるんですよ」と言わなくてはならない。

被害者がどんなクズだったとしても、逆に加害者が明るく社交的でまじめな人物だったとしても、殺人は殺人。
罪と被害者の人格は切り離して考えなくてはならない。

死体に鞭打てとは言わないが、ことさらに死者を美化するのも気持ち悪い。



吉田修一『悪人』は、ぼくが常々おもってる「被害者を必要以上に美化するな」という思いを代弁してくれるような作品だった。

被害者だからといって善ばかりではない。加害者だからといって悪ばかりでもない。
無罪の人間のほうが有罪の人間より「悪人」なこともある。

うちの六歳児は映画を見てると「この人いい人? 悪い人?」と訊いてくる。世界が善悪で二分されているのだ。
映画の世界はそれでいいし子どもの世界もそれでいいんだけど、現実はそうではない。優しい悪人もいれば嫌われ者の善人もいる。


吉田修一作品は、善悪の「まじりっけ」を誠実に書いている。
『怒り』や『パレード』もそうだったけど、登場人物がみんな善人じゃない。
ぼくらと同じように見栄っ張りで、ぼくらと同じように怠惰で、ぼくらと同じように小ずるくて、ぼくらと同じように自分勝手だ。
生まれたときからの血も涙もない極悪非道の人間ではないし、優しさあふれる聖人でもない。
だからこそ我が事のように感じられる。

行動に整合性がないのもいい。
登場人物たちは、「なぜこんなことをしたの?」と訊かれても「なんとなく……」としか言いようがない行動をとる。
どう考えたって得にならない、損をするだけの行動。
小説のお作法からするとルール違反かもしれない。

たいていのミステリ小説では、犯人はいついかなるときもベストを尽くす。
周到に計画を練って、綿密に準備して、必死に犯罪をおこない、あらゆる手を使って証拠を隠してアリバイを作り、あの手この手で捜査の手から逃れようとする。

でもじっさいの犯罪の99%はそうじゃないはずだ。
なんとなく罪を犯して、すぐわかる嘘をつき、自分自身に対しても嘘をつき、漫然と嫌なことを先延ばしにし、なんで自分がこんな目に遭うんだと逆上し、いよいよどうしようもなくなっても見苦しく自己を正当化したりするんじゃないだろうか。
もしぼくが犯罪者になったらそうするとおもう。

『悪人』の登場人物は、ちゃんと、だらしない。だから信用がおける。

吉田修一作品はたいてい読んでいてイヤな気持ちになる。でもそのイヤな気持ちがくせになる。ウンコをした後についつい出したものを見てしまうように。どんなにイヤでもそれは自分自身(の一部だったもの)なのだ。

『悪人』も、イヤな自分をつきつけられる感じがたまらない。


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2020年1月17日金曜日

【読書感想文】時代劇はいろいろめんどくさい / 大森 洋平『考証要集 秘伝! NHK時代考証資料』

考証要集 秘伝! NHK時代考証資料

大森 洋平

内容(e-honより)
織田信長がいくら南蛮かぶれでも、望遠鏡を使わせたらドラマは台無し。「花街」を「はなまち」と読ませたり、江戸っ子に鍋料理を食わせようものなら、番組の信用は大失墜。斯様に時代考証は難しい。テレビ制作現場のエピソードをひきながら、史実の勘違い、思い込み、単なる誤解を一刀両断。目からウロコの歴史ネタが満載です。
NHKでドラマの時代考証を担当している著者による、時代考証資料集。
読み物ではなく製作者向けの手引きなので少々読みづらい(五十音順じゃなくてテーマ順にしてほしい!)が、素人が読んでも十分おもしろい。

時代も、戦国・江戸だけでなく、平安から昭和まで幅広い知識が紹介されている。
立ち上げる 【たちあげる】 これはパソコン用語で九〇年代前半から次第に使われ始め、九五年の「ウィンドウズ95」発売によって一気に広まった言葉で、それ以前には一切ない。台詞・ナレーションともに、「設立する」「生み出す」「編成する」「創立」「設置」等と正しく改める。
へえ。立ち上げるってそんなに新しい言葉なのか。
今じゃ「新規事業の立ち上げ」とかあたりまえのように使うけどね(逆にPC用語としてはほとんど使わなくなった。起動に時間がかからなくなったからかな)。

考えたことなかったけど、よく見たら「立ち上げる」って変な言葉だよね。自動詞+他動詞だもんね。
複合動詞って「立ち上がる(自動詞+自動詞)」とか「持ち上げる(他動詞+他動詞)」という形をとるもんね。「立たせ上げる」のほうが日本語として自然なんじゃないかな。



時代劇というと「言葉遣いに気をつけなくちゃいけないんだろうなー」と素人でも想像がつくが、言葉以外にも留意すべき点はいろいろあるようだ。
オーストラリア 【おーすとらりあ】 オーストラリアの発見は一七世紀初めであるから、戦国時代劇の「南蛮地球儀」に同地が描かれていたら間違いである。ドラマのシーンで織田信長に地球儀を回させたい時は、オーストラリアが映る前にカメラを切り替える必要がある。織田武雄『地図の歴史─日本篇』(講談社現代新書、九一頁)によると、司馬江漢の『地球全図』(寛政四年:一七九二年)にはオーストラリアが出ているが、これが日本での最初の例である。小道具にはアンティークな地球儀がいくらもあるだろうが、使う前に必ずオーストラリアの有無をチェックすることが戦国時代劇の鉄則。
こんなのとか。
へえ。オーストラリアが発見されたのって、地球が丸いと明らかになったよりも遅かったのか。
こんなの言われなかったら思いもよらないよなー。

冲方丁『天地明察』に渋川春海が地球儀を水戸光圀に贈るというシーンが描かれていたけど、あれにもオーストラリアはなかったんだな。

小説なら「地球儀を見せた」で済むことも、時代劇なら現物を用意しないといけない。オーストラリアが描かれていないものを。
あやふやなことがあっても、小説のように「書かずにごまかすというわけには」いかない。

時代劇を作るのってたいへんだなあ。



軍議・本陣 【ぐんぎ・ほんじん】 最近の戦国時代劇では、幕で四方を閉ざした本陣の中に諸将が座り、地図の上に駒をおいて作戦指揮をしているシーンが多いが、これは慣習に過ぎず、多分スタジオのセットの組み方等、収録上の制限から来たものだろう。関ヶ原古戦場の東西両軍の本陣跡に登ればすぐわかるが、実際には戦況を見ながら指揮をとる(ナポレオンの時代でも同様)。往年の大河『天と地と』の川中島合戦では、両軍ともちゃんと戦場に向かって視界の開けた本陣で指揮していた。「地図を見ながら大兵力の配置を考えつつ指揮する」というのは近代ヨーロッパの戦争方式で、電信機がない戦国時代にそんなことをしても無意味である。
「幕で四方を閉ざした本陣の中に諸将が座り、地図の上に駒をおいて作戦指揮をしているシーン」
たしかに観たことある気がするわ、これ。
言われてみれば意味ないよね。戦闘がはじまってから現場を見ずにあれこれ策を練っても。
大将は絶対に戦況が一目で把握できる場所(山の上とか)にいなきゃいけないよね。電話もモールス信号もないんだから。

しかし戦場がよく見える場所ということは、裏を返せば戦場にいる兵士たちからも容易に見つかる場所だ(しかも肉眼で見ているわけだからそう遠くないはず)。
飛び道具の発達した近代戦だったら「超危険な場所」だから、まずそんなところに本陣を置かない。
現代の感覚だとまちがえちゃうよね。

おつかれさま 【おつかれさま】 これは日本の一般的伝統的なねぎらいの言葉ではない。時代劇なら「ご苦労様でございます」「お役目ご苦労に存じまする」、旧日本陸軍なら「ご苦労様であります!」等が適切である。大河『篤姫』で「ごくろうさまでございます」という台詞がでた時、視聴者から「『おつかれさま』でないと失礼だろう」という批判があったが、そういうことはない。 一例をあげると、劇評家でエッセイストの矢野誠一著『舞台人走馬燈』(早川書房、二四頁)に、俳優の長谷川一夫が隣に住んでいた少年時代(一九四六年)の思い出として「私は隣家でもって交わされる、『おつかれさま』という挨拶語を生まれて初めて耳にした。いまでこそ立派に市民権を得ている『おつかれさま』だが、その時分はもっぱら藝界や水商売の世界で用いられていて、少なくとも山の手の生活圏には無かった言葉だ」とある。
「目上の人に“ご苦労さま”は失礼。“おつかれさま”と言いましょう」
と何度となく聞いたことがあるけど、“おつかれさま”は水商売の言葉だったんだね。

言葉は変わるものだから「だから“おつかれさま”は失礼!」とは言わないけど、「“おつかれさま”じゃないと失礼」も同様に間違いだよなー。



この本の端々に、時代劇を観た視聴者から「この時代に〇〇はおかしいだろ!」という電話がかかってくることが書かれている。

まあ誤りに対する指摘なら「ありがとうございます」といって拝聴すればいいけど、まちがった認識で電話をかけてくる人がたくさんいるらしい。

「江戸時代に〇〇はなかったはずだ!」
「いやあるんですよ。文献に出てきます」
なんてことが多々あるようだ。

自分の思いこみだけで他人の仕事にケチをつける人って……なんていうか……頭おかしい自己肯定感が高いんだなあ。

テレビで時代劇が減った理由のひとつに「めんどくさい人の相手がたいへんだから」ってのもあるかもしれないね。


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2020年1月16日木曜日

給料安いよ!来てね!


北新地という大阪でも有数の繁華街のすぐそばの地下街に、ひっそりと「各自治体のPR会場」がある。
ブースがいくつかあって、そこに「〇〇県就農体験者募集」「〇〇県〇〇町でお見合いパーティー」みたいなポスターがたくさん貼ってある。
わりと人通りもある場所なのにその一角だけやたらと薄暗く、妙に静まりかえっている。そこを通るたびにぼくはいたたまれない気持ちになる。

ポスターたちの発するうらさびしいオーラに吸い込まれそうになるのだ。とても直視できない。つらい。

なにがつらいのかというと、みんな「虫のいいこと」しか言ってないのだ。
就農だの移住支援だのお見合いパーティーだのと書いているが、内容はどれも同じ。
「この地域で生まれ育った若者にすら見放されるような土地だけど、働き者で文句を言わずに土地の蛮習に従ってくれる若者来てくれませんか? 給料安いよ! 不便だよ! 不自由だよ!」
としか言ってないのだ。

メリットがないか、せいぜい「空気がきれい」ぐらい。
そりゃあ来ねえだろう。こういうポスターを作っちゃうところがもう絶望的にセンスがない。
ブラック企業が「やりがいのある職場です!」「オンとオフの切り替えは大事。土日はみんなバーベキューをするぐらい仲良しです!」と求人票に書いちゃうぐらいまちがっている。


まあそれはいい。感覚は人それぞれだ。ぼくも地方で育ったのでその感覚はわからなくもない。

ただ心配になるのは、こういうポスターにお金を使っていること。
いろいろ背景を想像してしまう。
街のコンサルだか広告代理店だかが村役場を訪れて
「このままじゃいけませんよ。他の町村はいろんな手を打ってますよ。たとえばお隣の〇〇町なんか××っていうプロジェクトをやってますよ。ほら」
なんて持ちかけて、町長さんだか広報課長だかが「そっか。お隣もやってるのか。じゃあうちもやらなきゃな」
なんつってお金払って、各部署からだったらこれも載せてくれこれも書いといたほうがいいだろなんて言われて、見た目だけきれいだけど結局何が言いたいのかわからないポスター作って、ろくに効果検証もしないままお金を垂れ流しているんだろう。

「そんなお金があるなら今いる若者のために仕事をつくりましょうよ」なんていう人はひとりもいないまま、誰も足を止めないブースにポスターを貼るためにお金を払いつづけている。

そりゃあさ。
「来てね!」って呼びかけるだけで来てくれるならそれがいちばんいいけどさ。
でもじっさいは逆なわけじゃない。
「働き手がいねえんだよー。嫁さんが来ねえんだよー。若い夫婦もいないんだよー」って言ってる自治体に行きたい人はほとんどいないわけじゃない。

なんだか、貧乏人ほど宝くじを買うって話みたいで切なくなる。もう配当率の低い一発逆転に頼るしかないんだよなー。


2020年1月15日水曜日

書店の飾りつけは自己満足


とある書店員のツイートを目にした。
その人は売場をPOPや装飾できれいに飾りつけた写真を投稿して、「Amazonには負けない」とつぶやいていた。

それに対して賛同するコメントもあったが、「努力の方向がまちがってる」「客はそんなの求めてない」「飾りつけをがんばるんじゃなくて本を切らさぬようにしろ」という辛辣なコメントも並んでいた。

ううむ。
元書店員であり現Amazonヘビーユーザーであるぼくとしては、どちらの気持ちもわかるので心苦しい。


飾りつけは自己満足


「努力の方向がまちがってる」、厳しいがその通りだ。
まったくの無駄とは言わない。
でも飾りつけに使う材料費と人件費以上の効果があるかといわれれば、残念ながら首をかしげざるをえない。
シビアにコストと効果を計算すれば、おそらく「やらないほうがマシ」だろう。

そもそも店舗内で目立たせてどうする。
書店が二店舗並んでいるので、看板やのぼりを目立たせてライバル店から客を奪ってくるのならわかる。
でも自店舗内で〇〇フェアをやって一角だけ目立たせるということは、相対的に他の売場を目立たなくさせることになる。

ぼくも文庫コーナーで「〇〇フェア」を何度となくやったのでわかるが、フェアをやればたしかにその売場内の本はよく売れるが、文庫全体の売上が伸びるわけではなかった。
店舗内で売上をあっちからこっちに動かしているだけなのだ。

書店員のやれることに限界がある


とはいえきれいに飾りつけをしたくなる書店員の気持ちもわかる。
「大事なのは売場を飾りたてることじゃなく買いたくなる本を置くことなんだよ」
そんなことは客から言われるまでもなく書店員自身がよーくわかっている。できることなら人気の本を山のように積みたい。

が、やりたくてもできない事情がある。
まず売場面積の事情。
オンライン書店とちがって実店舗の棚には限りがある。すべての本を置くのが理想だが、そうはいかない。「この本を置いておけば一年に一冊ぐらいは売れるんだけどなあ」という本でも泣く泣く返品せざるをえない。

また経済的な事情もある。
返品すれば取次からお金がかえってくる。つまり在庫を持つことには金がかかるのだ。
資本が無限にあるならいいけど、使えるお金に制約がある以上、一定数は返品にまわさざるをえない。
在庫量を二倍にすれば売上も二倍になるのならいいけど、実際は十パーセント増えればいいほうだ。
棚に置いておくより返品するほうが確実に収入になるのだから、コンスタントに売れない本は返品に回さざるをえない。

そしてなによりいちばん大きな理由は、注文した本が手に入らないことにある。
話題の本、人気作家の新刊、映画の原作、文学賞受賞作品。いくら注文しても入荷しないのだ。
どこにもないのならあきらめもつく。だがあるところにはあるのだ。
取次や書店によって力の強弱があり、力の弱い書店がどれだけ注文しても入ってこない本が、力の強い書店には山のように積んであったりする。
返品すれば基本的に仕入れ値でお金がかえってくるのだから、力の強い書店は必要以上に仕入れる。で、弱いところにはまわってこない。まわってくるのはもうブームが去ってから。

もちろんこんな事情は客の知ったことではないのだが、書店員だって「もっと大事なことがある」ことはとうに承知なんだよ。

意欲だけがからまわり


で、意欲のある書店員はPOPや売場の飾りつけに走る。
「とりあえず何かやった気になれる」からだ。
フェアを組んで売場の一角を目立たせればとりあえずそこの売上は伸びるから、達成感も得やすい(さっきも書いたように店舗全体の売上が増えているわけではないのだが)。

たぶんほとんどの書店員は、こんなことをしても大して意味がないと気づいているとおも(「Amazonには負けない」と書いていた人は書店が好きすぎて気づいてないかもしれないけど)。

でも他に打てる手がないから売場を飾る。不安から逃げるために。
意欲はあるけどできることがなくてからまわり。

そしてある日気づく。
もうだめだ、と。
書店が息を吹き返すには、業界全体をリセットしてやりなおすしかない(それでもうまくいかない可能性のほうが高いけど)。
でもそんなことは不可能だと。
書店といっしょに沈むか、沈む船から逃げだすか。選択肢は二つだけ。


ああ。
書いてていやになった。
同じようなことを今までにも何度も書いている。書店で働いているときからずっと同じことを考えていた。でもどうにもならない。

書店は好きだ。だけど「買って応援」なんてする気にはなれない。
そんなことしてたらますます現状にあぐらをかいてAmazonとの差が拡がるに決まってるんだもの。

でももうしかたない。

いっそ完全に滅んでみんなが「リアル書店があったころはよかったなあ」と懐かしむ……。

それが書店にとっていちばん幸福な未来のかもしれない、とまで最近はおもうようになった。
想い出の中で美しく生きていてくれればそれでいいよ……。

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書店員の努力は無駄

書店が衰退しない可能性もあった

2020年1月14日火曜日

【読書感想文】差別意識が生まれる生物学的メカニズム / ロブ・ダン『わたしたちの体は寄生虫を欲している』

わたしたちの体は寄生虫を欲している

ロブ・ダン(著)  野中 香方子(訳)

内容(e-honより)
「キレイになりすぎた人体」に、今すぐ野生を取り戻せ!腸に寄生虫を戻す。街に猛獣を放つ。大都市のビルの壁を農場にする。―無謀な夢想家たちの、愛すべき実験の数々。
人類の歴史をざっとなぞる第一章は正直退屈だったが(ついこないだ読んだビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』と内容が重複していたので)、第二章で寄生虫の話が出てきてからぐっとおもしろくなった。

医学の歴史は、基本的に体内から異物を排除することの歴史だった。
病気をもたらす細菌や寄生虫や微生物を排除するために、手を洗い、風呂に入り、殺菌し、抗生物質を飲む。
現在我々は人類史上最も清潔な暮らしをしている。

では病気とは無縁になったのか。答えはノー。
一部の病気はほぼ撲滅することに成功したが、まだまだ病気はなくならない。それどころかクローン病、糖尿病、花粉症といった病気の患者はどんどん増えている。
 こんなありふれた病気がまだあまり理解されていないというのは、奇妙に思えるかもしれないが、実を言えば、人間を苦しめる病気のほとんどは、原因がいまだによくわかっていないのだ。人間がよく罹る病気の四○○余りが命名されているが、名前のついていない病気が、まだ数百は残っているはずだ。名前のある病気にしても、ポリオ、天然痘、マラリアなど一○余りの病気は比較的、理解が進んでいるが、その他の大多数は、謎の部分が多い。症状を抑える方法や、厄介な病原体(原因が病原体だとしたら)を殺す方法がわかっていたとしても、その病気に侵された体の中で何が起きているのかは、よくわかっていないのだ。
素人からすると、現代の医学ではほとんどの病気は原因も対処法もわかっていて対処できないのは一部の難病だけかとおもっていたが、実際は逆なのだ。
圧倒的に多くの病気は原因不明で、一部の病気以外は「なんかわからんけど〇〇をすればよくなることが多いとわかっている」「手の打ちようがないけど生命にかかわるほどではなく、ほっておけば身体が勝手に直してくれる」だけ。

コンピュータシステムで
「でたらめにあちこちさわってみたら一応正常に動くようになったけど、どこがあかんかったのか、何をしたのがよかったのか、ようわからんわ」
なんてことがあるけど、人体で起こっているのはまさに同じ。
ジェンガの後半みたいに、絶妙なバランスで立っていてどこを動かしたら倒れるのかはわからない、それが人体なのだ。

にもかかわらず我々は、薬を飲み、注射をされ、手術をされている。

数百年前の医者は手当たり次第に変な薬品や草を飲ませていたけど、今の医学もやっていることは基本的に変わらない。
ただ臨床実験を厳密にやるようになっただけで「なんかわからんけどこれをやったら病状が良くなることが多いみたい」という理由で変な薬品とか草とかを飲ませていることに変わりはない。



ここ数百年にわたって医学がやってきた「体内から異物を排除する」も、それが正しいことだったのか誰にもわからない。

プログラムコードの中の不要に見える1行を消したら動作が速くなったように見えても、実はそのコードは十年に一度だけ機能する大切なコードだったかもしれない。
 ワインストックの成功は他の人々を激し、ほどなくして多くの研究者が、自己免疫やアレルギー性の病気は、寄生虫の欠如が原因だと考えるようになった。うつ状態や一部のガンまで、寄生虫の欠如とのつながりが疑われ、漠然とした見通しの上に、さらなる実験が行われた。これらの追跡調査は、次第に過激で意義深いものになっていったが、いずれもワインストックの仮説の正しさを証明した。寄生虫を導入すると、炎症性腸疾患の患者たちは快方に向かった。糖尿病のマウスは血糖値が正常値に戻った。心臓疾患の進行は遅くなり、多発性硬化症の症状さえ改善した。
ここ数十年で我々は体内から寄生虫を追いだしたが、人類の歴史を考えれば寄生虫と共存してきた時代のほうがはるかに長かった。
ヒトは寄生虫がいることを前提とした体内環境を作り、寄生虫もまたヒトが健康に生きていける環境を整えることに協力した(なぜなら宿主が死ねばいちばん困るのは寄生虫なのだから)。
たまーにごく一部の寄生虫が悪さをすることはあっても、全体としてはうまくいっていた。

が、寄生虫は駆逐された。
結果、寄生虫が攻撃していた外敵は居座るようになり、寄生虫が消化を助けていた食べ物は栄養を吸収されぬまま体外に排出され、免疫細胞は寄生虫の代わりに自らの臓器を攻撃するようになった……。

これがこの本で唱えられている説だ。
あくまで一説だが(なにしろさっきも書いたように人体はわからないことだらけなのだ)、ありそうな話だ。
自然界には相利共生関係(互いにとってメリットのある共生関係)が多数見られるので、ヒトだけが例外であるとおもうほうが不自然だ。

ヒトの内臓のひとつである虫垂も、昔は不要な器官と考えられていた(ぼくも子どもの頃そう教わった)が、今では有用なものだとわかっているらしい。
細菌を蓄えて、必要に応じて体内の最近の活動を制御するはたらきをするのだそうだ。
細菌もまた、ごく一部が悪さをするだけで大半は人体にとって有用または善でも悪でもない存在なのだ。


『奇跡のリンゴ』なる本に、木村秋則さんという人が無農薬でリンゴを作ることに成功したことが書かれている。
無農薬でリンゴを育てる秘訣は、なるべく余計なことをせずに自然に任せることだそうだ(すごくかんたんに言うとね)。
基本的にリンゴは、虫や細菌と共存しながらバランスをとって勝手に成長してくれる。それを支えてやるだけでいい。これが木村秋則さんが何十年もかかって導きだした答えだ。

人間もリンゴと同じで、手を入れすぎるとかえって調子が悪くなるのかもしれない。

はたして寄生虫を追いだしたことは健康にとっていいことだったのか。
その答えを知るためには寄生虫を体内に戻してみるしかないけど、いまさら後戻りはむずかしいだろう。ぼくも、いくら健康になるとしてもできることなら寄生虫を腸内で飼いたくない。



タイトルは『わたしたちの体は寄生虫を欲している』だが、寄生虫の話がすべてではない。
本の後半では、今もヒトの肉体が、捕食者の存在におびえ毒や伝染病を避けるよう設計されている例をいくつも挙げている。

「ここ数百年、あるいは数十年で我々の暮らしは劇的に変わったが、肉体や脳はまだ旧時代のやりかたをひきずっている。そのギャップのせいでいろんな不具合が生じている」
が全体を通しての論旨だ。

たとえば、病気が蔓延している地域の人ほど、個人主義的であり、閉鎖的な傾向があるという(因果関係は証明されていないのであくまで傾向)。
知らず知らずのうちに他人との接触を避けて病気を回避しようとしているのだ。
 病気の兆候を誤解することで生じるさらに危険で深刻な問題は、その誤解ゆえに、わたしたちは無意識のうちに、何らかの社会集団を避けようとする可能性があるということだ。シャラーは、高齢であることや、伝染性でない病気(たとえば病的な肥満など)、身体障害なども嫌悪感の原因になりうると主張し、いくらかは証明している。そうだとすれば、その嫌悪は誤解によるもので、わたしたちの潜在意識が、高齢や肥満、身体障害を、感染症と間違えたのだ。人は、病気の脅威を認識すると、高齢者を差別する行動をとりがちになることをシャラーは示してきた。肥満に対しても同じような行動をとり、病気になることを心配している人の場合、嫌悪はさらに強くなる。
 こうした反応が実際に広く起きているとしたら、社会における高齢者や障害者、慢性疾患患者に対する扱いに大きな影響を及ぼしているはずで、そうした人々は社会の周辺的な地位に追いやられることになるだろう。行動免疫システムの機能は、完璧と呼べるものとは程遠い。人間が自分たちのために作った世界において、部分的にしか機能していない。何が正しく何が間違っているかをわたしたちが判断できないうちに、そのシステムは、無意識の行動と免疫反応を引き起こしてしまうのだ。
ふうむ。
あまり大きな声では言えないけど、ぼくは年寄りが嫌いだ。個人個人でいえば例外もあるけど、総じていえば嫌いだ。身内以外の年寄りとは関わりたくない。

たとえば電車で隣の席に年寄りや顔色の悪い人が乗ってきたとき、ぼくは不快感をおぼえる。内心でおもってるだけのつもりだけど、もしかすると顔にも出てしまっているかも。
無意識のうちに「病気を保有している可能性の高いもの」を忌避しているのかもしれない。

外国人を嫌う人は世界中にいるが、これも同じ理由なのかもしれない。
違う民族の人は「コミュニティの外の人」なわけで、新たな病原菌を持ちこむ可能性が高い。
だから接触を避け、排除することで健康を守ろうとする。

もしかすると世の中にある差別の多くは「病気になる確率を下げたい」という無意識の免疫反応から生まれているのかもしれない。
屠畜業者を避けるのも、動物の死体に触れる人は病気を持っている可能性が高いからだろうし。

だからといって差別を肯定するつもりはない。我々は生理的な欲求に打ち勝つことで文明社会を築いてきたのだから。
でも、免疫学を知ることで差別意識が生じるメカニズムを理解する一助にはなるかもしれない。

「生理的にムリ」の根っこにあるのは「健康でいたい」という自然な欲求なのかも。

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