2019年6月4日火曜日
訓示語呂合わせ
えー、新年の訓示というとえらそうですが、今日はみなさんが仕事に取り組むうえでの心構えについて話したいとおもいます。
昔からこんなことわざがあります。
「いい国つくろう鎌倉幕府」
このことわざはですね、鎌倉幕府のような難しい事業でも、みんなで力を合わせればいいものができるよ、という意味ですね。
諸君にも、ぜひ「いい国つくろう」の精神で取り組んでもらいたい。
昨今はですね、個人主義といいますか、自分さえよければよいという考え方が蔓延しているようにおもいます。
けれど、仕事というのはそういうものではないと私はおもうんですね。
自分のため、会社のため、それだけではいけません。
チームのため、お客様のため、ひいては社会のため。こういう考え方を持っていない会社は長続きしないと私はおもうんです。
「人並みにおごれや」
これはマザー・テレサの言葉ですが、やはり博愛の精神を忘れてはいい仕事はできません。
自分だけよければいい、「水兵リーベぼくの船!」というような独善的な考え方は捨ててください。
そうすれば必ず、「なんと見事な平城京」と呼ばれるような立派な功績を残すことができるはずです。
また、過去の成功に溺れてはいけません。
昔から、「白紙に戻そう遣唐使」といいますよね。
遣唐使のように一世を風靡したものでも、時がたてば時代遅れになってしまう。
こうした時流の変化に取り残されないために、常に自己研鑽を怠ってはいけません。
せいいっぱいひたむきに努力する、「しゃかりきコロンブス」じゃなかった、「意欲に燃えるコロンブス」の精神で励んでください。
それでは、今年も4649お願いします。
2019年6月3日月曜日
刺青お断り
多くの銭湯や銭湯には「刺青お断り」の貼り紙がある。
ぼくは刺青もタトゥーも入れていないからべつにかまわないんだけど、ふと「刺青お断り」はなぜ許されるんだろうか、と疑問におもった。
「刺青の人お断り」は、「タオルを湯船につけてください」や「身体をよく洗いながしてから湯船につかってください」とはちがう。
なぜなら、刺青はそれ自体が他人に迷惑をかけるものではないから。
「いやわたしは刺青を見るだけでも不快だ。だから迷惑だ」という人もいるだろうが、それは禁止の理由にならない。
たとえばぼくは刺青を入れてようが入れてまいが、他の男の裸を見るのが不快だ。
太ったおじさんのケツなんか見たくない。でもそんなことを言いだしたら公衆浴場自体が成り立たなくなる。
個人の好き嫌いをもって入場制限をすべきではない。
「刺青お断り」というのは要するに「ヤクザお断り」だ。
でも「ヤクザお断り」と書いたって「おれはヤクザじゃない」と言われてしまえばそれまでなので、わかりやすい外見的特徴である刺青を「ヤクザを表す記号」として入場禁止のシグナルにしているわけだ。
でも刺青はヤクザは一対一で対応するものではない。
刺青を入れていないヤクザもいるし、ヤクザじゃないけど刺青を入れている人もいる。
「刺青を入れている人はヤクザであることが多いだろう」というあやふやな根拠で、一律に入場を制限してもよいものだろうか。
ある属性に多い特徴を持って一律に禁止する。
ずいぶん乱暴な話だ。
これが差別でなくてなんだろう。
「〇〇村出身者は犯罪者が多いので〇〇村出身の人間は雇いません」と同じではないだろうか。
「スーツを着ている人は男性が多いので、この女性用トイレはスーツの人禁止です」としてもよいだろうか。だめに決まってる。
ふうむ。
考えれば考えるほど「公衆浴場は刺青禁止」と「女性用トイレはスーツ禁止」が別物とは言えなくなってきた。
考えてみれば、トイレだって自己申告だ。
入るときに戸籍の提示も求められないし、パンツを脱いで見せるわけでもない。
「女っぽければ女性用トイレに入っていいし、男っぽければだめ」というあやふやなルールでやっている。
だったら公衆浴場も自己申告でよしとするのがスジじゃないだろうか。
「ヤクザお断り」と書いておく。それだけ。
どうせヤクザの入場を防げないんだからそれでいいんじゃないかな。
こっちとしても、「刺青丸出しのわかりやすいヤクザ」よりも「どこにでもいるふつうのおじさんだとおもっていたら実はヤクザだった」のほうがぞっとするし。
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2019年5月31日金曜日
【ショートショート】社会貢献ポイント
国民の社会貢献度が厳密に計測できるようになった。
国民のありとあらゆるデータは国家によって管理されている。数万ものパラメータを解析することで、個人の歩む人生、周囲に与える影響が相当な精度で予見できるようになったのだ。
SCP(社会貢献ポイント)と呼ばれるその数値は最大100のスコアで表される。
90を超えるような傑出した人物はそうそういない。ほとんどは30から70ぐらいに収まる。
ごくまれに、0を下回る人物がいる。社会にとって特に危険度が高いとされる人物だ。過去30年間に0を下回った人間は20人ほどだが、その大半が殺人犯、それも生涯のうちに複数の人間を殺害した凶悪犯だ。残りは「これから大量殺人を犯すであろう」人物だ。
SCPは暗号化されて厳重に管理されており、個人が知ることはできない。
いってみればSCPとは「人の価値」をポイント化することであり、それがかんたんに公表されれば人権が脅かされるというのがその理由だ。
犯罪者であろうとこれは変わらない。
SCPとはあくまで社会の全体的な変化をとらえるために考案された指標であり、国民に優劣をつけるためのものではない。国民一人あたりの国内総生産には意味があるが、自分ひとりの生産額は知らないのと同じだ。
ところが、ある若手国会議員がインターネット番組の対談でおこなった発言により風向きが変わる。
「人権はたしかに必要なものです。ですが他の人の幸福を犠牲にしてまで守らなければならないものでしょうか。
たったひとりの独裁者によって数万人の命が奪われることもあります。それでも独裁者の生命は守られなければならないものでしょうか。
SCPが著しく低い人間、いってみれば社会にとって有害である人間。これをあらかじめ社会から排除することの何がいけないのでしょうか。
洪水が起きてからダムを建設しますか? 火事が起きてから消防訓練をおこないますか? それと同じです。人を殺してから裁くのでは遅すぎます。SCPによって殺す前に裁くことができるようになったのです。これからの時代、犯罪は捜査するものではなく、予防するものになるのです!」
議員の長身と甘いマスクが与えるスマートな印象、自信ありげにふりかざされるトレードマークの扇子、わかりやすい語り口、そして誰もが心のなかに隠していた本音をむきだしにしたその主張は、観ている者の心をとらえた。
この動画は何千万回と再生され、好意的な反応が多数を占めた。
新時代の功利主義は閉塞的な時代の空気にマッチして受け入れられた。
超高齢社会、先の見えない不況、拡がる一方の格差。追い詰められた者たちによる自己破壊的な殺人事件も増えていた。
罪のない市民を狙った凶悪犯罪に胸を痛めていた優しい市民、生産性の低い労働者はいらないとおもっている経営者、悪質なクレーマーに悩まされている従業員、認知症の老人の介護に疲れはてたヘルパー、時間稼ぎとしかおもえない野党の質問にうんざりしていた与党議員。
立場を超えて賛成の声が上がった。
もちろん反対派や慎重派も存在したが、彼らの声は説得力に乏しかった。
きれいごとだけでは世の中は良くならない、犯罪者の味方をするやつは自分が犯罪者予備軍だからだ、反対するなら代案を出せ。そうした意見の前には沈黙するしかなかった。
SCPが著しく低い人物、すなわち社会にとって著しく有害であるとされる人物を処分する法案、通称SCP法が国会を通過するまでに何年もかからなかった。
「この法案は善良な市民にとってはもちろん、処分されるSCPの低い人にとってもまた福音となるはずです」
今やすっかり党の重鎮となった議員は、優雅に扇子を振りながらカメラの前で微笑んだ。
「彼らは言ってみれば未来の犯罪者。罪を犯して後ろ指を指され家族に迷惑をかけながら死刑になるよりも、罪を犯す前に潔く身を隠すほうがずっといいと思いませんか?」
カメラの向こうの犯罪者を説得するようにこう述べた。「もちろん運用は慎重におこないますよ。まずはSCPが0未満のお方、つまり大量殺人犯予備軍ですね。この人たちに社会から退場していただくことになります。さすがに彼らを守れという人はいないでしょう」
法案が施行され、最初の[退場者]が決定した。
[退場者]のSCPは-2758。歴代ワーストの数値だ。
数千人の命を奪う人物、という計算になる。
[退場者]の身柄は速やかに拘束された。
「そんなわけがない。何かのまちがいだ!」
当然[退場者]は抵抗したが、SCPの測定にまちがいが起こらないことは国会審議中に十分に検証されたことだ。決定は絶対に覆らない。
「おれは社会を良くするために……」
絶叫は途中で途絶えた。
自由を奪われた[退場者]の手から扇子がこぼれ落ちた。
2019年5月30日木曜日
結婚たからくじ
既婚者の友人K(男)。
同世代の平均以上の収入があり、家事育児もこなし、性格は穏やか、酒もタバコもギャンブルも女遊びもギャンブルもやらない。
男のぼくから見ても、いい夫だとおもう。
とある集まりで、Kの妻が未婚女性たちから
「どうやったらKくんみたいな人を見つけられるの」
と訊かれていた。
Kの妻は笑ってごまかしていたけど、ぼくは知っている。
Kが無職でやさぐれていたときから、ふたりが付きあっていたことを。
二十代前半のKは収入はなく、気むずかしく、しょっちゅう飲みあるいていた。
それが十年たって、その間にいろんな変化があって、Kは「いい夫」になったのだ。
その変化をつくったものは、K自身であり、のちにKの妻となった彼女だ。
Kは最初から「いい夫になりそうな男」だったわけではない。
K夫妻が「いい夫」をつくりあげたのだ。
「どうやったらKくんみたいな人を見つけられるの」
という質問をした女たちには、ぼくが代わりに答えてあげよう。
「宝くじの結果が出た後で、一億円の当選くじを買えるとおもう?」と。
2019年5月29日水曜日
黙ってついてゆくやつ
Kは中学時代からの友人。
住んでいるところも仕事もぜんぜんちがうけれど、今でも年に数回は会う。
Kはよくなにかのイベントに誘ってくれる。
それも変わったイベントばかり。
「フランス文学者と精神科医のトークイベントがあるんだけど行かへん?」とか
「昭和歌謡のライブがあるんだけど」とか
「ドヤ街の立ち飲み屋にいってみないか」とか
「ちんどん屋のイベントがあるんやって」とか
「キリスト教の牧師とバーベキューをすることになったから来ない?」とか。
ぼくからすると、まったく興味のないジャンルばかりだ。
でも、他の予定がないかぎりは断らないようにしている。
興味がないジャンルだからこそ、誘われるとうれしい。Kに誘われなければぜったいに知らなかった世界だ。
たのしいことばかりではない。
ちんどん屋のイベントは退屈だった。二度と行かないとおもう。
でもそれがわかっただけでも収穫だ。行ってみなければ、自分はちんどん屋をみてもすぐに飽きるということを知らないままだっただろう。
歳をとると、新しいことに挑戦する意欲が衰える。
慣れ親しんだことをやっているほうが楽だし、新しいことをやるときでも失敗しないように十分調べてからやる。事前に他人の口コミや評価もかんたんに手に入るようになったし。
でもKの誘いに乗るときは、そういうことを何も考えない。
下調べもしない。
ぼくは黙ってついてゆく。
これがたのしい。
KはKで、ぼくのことを「人数があわないときや誰かにドタキャンされたときに誘えばたいていついてきてくれるやつ」として重宝しているらしい。
今後も「黙ってついてゆくやつ」でありつづけたいとおもう。
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