2018年9月15日土曜日

子どもの喧嘩から学ぶこと


五歳の娘の友だち、Nちゃん。
保育園の組が同じで近所に住んでいる。しょっちゅう一緒に遊んでいる。
仲の良い友だちがいるのはええこっちゃ、と親としては思う。

だが娘とNちゃんは会うたびに喧嘩をしている。
おもちゃの取りあいだったり「かくれんぼにするかおにごっこにするか」だったり、とにかく頻繁に意見が衝突している。
女の子同士なので手を出すことこそないがどちらかが泣きわめくことはしょっちゅうだ。
「イヤだ!」「〇〇が先に使ってた!」「それやりたくない!」「ごめんって言って!」

そんなに喧嘩するんだったらもう遊ばなきゃいいのにと思うけれど、激しく喧嘩をした日の午後にはもう「Nちゃんと遊びたい」と言っている。


子どもは喧嘩上手だ。
大人はめったに喧嘩をしないけど、喧嘩をしたときは長く引きずる。激しく意見を衝突させた相手に、その日のうちに「遊びにいこうぜ!」なんて言えない。
一生絶縁するかも、ぐらいの覚悟がないと喧嘩ができない。

その点子どもは喧嘩をしても、謝るわけでもなく菓子折りを持っていくわけでもないのに気づいたら仲直りしている。
余計なプライドがないのだろう。たいしたものだ。


もうひとつ、娘たちの喧嘩を見ていて気づいたことがある。
意見の衝突はあるが、人格を否定したり、別件を持ちだしたりしない、ということだ。
「そっちに行きたくない!」ということはあっても、「〇〇ちゃんのバカ!」とか「そんなの選ぶなんて〇〇ちゃんはおかしい」なんてことは口にしない。
また「こないだ公園でもめたときもわがまま言ってたじゃない!」みたいな過去のことを持ちだしてきたりもしない。いつも今のことで喧嘩している。

夫婦喧嘩でもそうだが「だいたいあなたはいつも……」「三年前の旅行のときだってあなたは……」「あなたのような××な人にはわからないだろうけど……」みたいな論調になると話はこじれる一方だ。
今のこととこれからのことだけ話していれば、たいがいの問題は収束してゆく。

・後々まで引きずらない
・人格を否定しない
・別件や過去の出来事を持ちださない

子どもたちの喧嘩には、見ならわなくてはならないことがたくさんある。


2018年9月14日金曜日

【読書感想文】「絶対に負けられない戦い」が大失敗を招く/『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』


『失敗の本質
日本軍の組織論的研究』

戸部 良一 / 寺本 義也 / 鎌田 伸一
/ 杉之尾 孝生 / 村井 友秀 / 野中 郁次郎

内容(e-honより)
大東亜戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、 これを現代の組織一般にとっての教訓あるいは反面教師として活用することを ねらいとした本書は、学際的な協同作業による、戦史の初の社会学的分析である。

太平洋戦争(本書の中では「大東亜戦争」と表現されている)で日本が惨敗に至った理由を探るため、ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦という六つの作戦の背後にどのような失敗があったのかを分析し、そこから日本軍、ひいては日本社会が抱える「失敗の本質」を見いだそうとする本。

著者たちも「こうすれば日本はアメリカに勝てた」と考えているわけではない。
ただ、もっとうまく負けることはできた、もっと犠牲を少なくできた、もうちょっとマシな講和条約を引きだせた可能性は十分にあったと指摘している。

じっさい、日本がアメリカに勝てた可能性は一パーセントもなかっただろう。
どんな作戦をとっていたとしても、部分的に勝利することはあっても最後には敗北を喫していただろう。
だが「もっといい戦い方があったのでは」と研究することはたいへん意味のあることだ。
敗戦分析は、軍事にかぎらず、ビジネスや教育や政治などあらゆる局面で「何が失敗を引き起こすのか」を教えてくれる。

しかし我々は敗戦分析が好きじゃない。日本人の特質なのか、人間共通の性質なのかはわからないが、失敗からは目を背けたがる。

サッカーワールドカップなんかでも、試合前はああだこうだと様々な分析がおこなわれるのに、敗退が決まったら潮が引くように報じられなくなる。勝ったら「〇〇が活躍した」「この采配が当たった!」と喧伝するのに、負けたときは何も言わない。
「負けたのは誰のせいでもない」と責任の所在を明らかにしない。
「私が悪かった」という人間はいても「じゃあどこをどうしていたら良かったのか」と追及する人間はいない。
負けた人たちを誰も責めない。
それどころか「負けたけどよくがんばった。胸を張って帰ってこい!」と、逆に褒めたりする。
敗戦から学ぼうとする人の姿はどこにもない。

「絶対に負けられない戦いがある」ということは、裏を返せば「負けたらその戦いはもうなかったことになる」である。



日本が惨敗した原因はいろいろあるが、あえてひとつ挙げるなら「負けから何も学ばなかった」ことに尽きる。

ノモンハン事件は日本にとってはじめての近代戦、ミッドウェー作戦は不運にも見舞われた戦いだった。ここで負けたのはある程度しかたがない。
しかし日本軍はそこから何も学ばなかった。

生き残った者を卑怯者とみなしたため、敗戦の経験を持つ指揮官は左遷されたり、自殺したりした。
敗者の貴重な体験がその後に活かされなかった。

どんな強い軍隊でも全戦全勝というわけにはいかない。世界最強のアメリカ軍がベトナムゲリラに敗れたりする。だからこそ「負ける可能性を低くする」ことは重要だ。それは「絶対に負けない」とはまったく違う。

日本軍は「必勝の信念」を持って戦略を決めていた。作戦不成功のことを考えるのは士気に悪影響を及ぼすと考え、失敗のことは考えないようにしていた。これでは勝てるわけがない。
失敗することを考えない組織は大失敗する。



日本軍の不運は、はじめはうまくいったことにあるのかもしれない。
日清、日露戦争で大国を破った。パールハーバーの奇襲作戦も成功した。開戦直後は連戦連勝だった。
これが「負けから学ぶ」機会を奪ったのかもしれない。
 いずれにせよ、帝国陸海軍は戦略、資源、組織特性、成果の一貫性を通じて、それぞれの戦略原型を強化したという点では、徹底した組織学習を行なったといえるだろう。しかしながら、組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。その場合の基本は、組織として既存の知識を捨てる学習棄却(unlearning)、つまり自己否定的学習ができるかどうかということなのである。
 そういう点では、帝国陸海軍は既存の知識を強化しすぎて、学習棄却に失敗したといえるだろう。帝国陸軍は、ガダルカナル戦以降火力重視の必要性を認めながらも、最終的には銃剣突撃主義による白兵戦術から脱却できなかったし、帝国海軍もミッドウェーの敗戦以降空母の増強を図ったが、大艦巨砲主義を具現した「大和」、「武蔵」の四六センチ砲の威力が必ず発揮されるときが来ると、最後まで信じていたのである。
成功体験が大きいほど、負けを認めるのは難しい。

「負けられない」は「負けを認められない」である。
誰もがもうだめだとうすうす気づいている作戦から、いつまでも撤退できなくなる。

戦後もその意識は変わっていない。ほとんどの組織は負け戦がへただ。

国民年金はいい制度だったが、もう破綻することが避けられない。
日本はものづくりで戦後の復興を果たしたが、いいものを作れば売れる時代は終わった。
自動車産業も電機メーカーも大手銀行も繁栄したが、ビジネス形態自体が時代遅れになりつつある。
書店は文化や教育の水準を向上させることに貢献したがもう売れない。
家を買えば将来の安心につながったが今や不安材料のほうが大きい。

みんな気づいている。だけど認められない。
「ここまでやってきたことは失敗でしたね」とは誰も言えない。誰かに言ってほしいと思っているが、自分は言いたくない。
誰かに止めてほしいけど自分で終わりにしたくはない。
「オリンピックなんてもうやめたら」と言う人間はいても、「おれがやめさせる」と言える人間はいない。かくして、これはまずいと思いながら引き返せずにどんどん深みにはまってゆく。抜けだすのはますますむずかしくなる。


この本が上梓されたのは1984年だが、こういう報告が戦後四十年近く経つまで成されなかったということこそが我々が「負け戦がへた」だということを表しているように思う。


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2018年9月13日木曜日

敬遠の語


小学生のときは友だちの親にも学校の先生にも敬語を使っていなくて(せいぜい丁寧語ぐらい)中学校に入ったら先輩に対して敬語。
だいたいの人はそんな感じで敬語を身につけていく。

だからだろうか、敬語を使う間柄=上下関係だと思っている人がいる。学校で教わる「敬語とは相手を敬う言葉です」を鵜呑みにしている。
だから、敬語を使われたら自分は敬われている、偉そうにしないといけないと誤解してしまうのかもしれない。

だが敬語は「敬意の語」だけでなく「敬遠の語」でもある。特に丁寧語に関しては後者の意味が強い。

ぼくはあまり人付き合いが好きではないので「敬遠の語」としての敬語を使っているときは居心地がいい。
仕事の付き合いの人、近所の人、娘の保育園の先生、保護者同士の付き合い。こちらも敬語、向こうも敬語。
あんたに対して敵意はないが心を許したわけでもないぜ、この線からこっちに入ってくんじゃねえぞ。
武士と武士がすれちがうときに相手の間合いに入らないようにするような緊張感。これが安全な距離だ。

ところがこのメッセージを正しく汲みとることができない輩が急にため口で話しかけてくる。
これいわば侍の刀に触れてくるようなもの。刀をチャキっと鳴らすように「あぁ」と露骨に不機嫌な声を出せば相手も斬られまいと離れてゆく。それでも間合いの中から出ようとしない不届き者に対してはいたしかたあるまい、刀を振り上げてばっさり。
斬られた無礼者は傷口を押さえながら「な、なんで……」とよろよろ。
「なんでですか、ですよ」
ぼくはそう言い残して、後ろを振り返らずに歩きさる。


2018年9月12日水曜日

【読書感想文】これまで言語化してこなかった感情/岸本 佐知子『なんらかの事情』

なんらかの事情

岸本 佐知子

内容(e-honより)
これはエッセイ?ショート・ショート?それとも妄想という名の暴走?翻訳家岸本佐知子の頭の中を覗いているかのような「エッセイ」と呼ぶにはあまりに奇妙で可笑しな物語たちは、毎日の変わらない日常を一瞬で、見たことのない不思議な場所に変えてしまいます。人気連載、待望の文庫化第二弾。今回も単行本未収録回を微妙に増量しました。イラストはクラフト・エヴィング商會。

おもしろい本ない? と訊かれたら、ぼくはまっさきに岸本佐知子氏の名前を挙げる。
本業は翻訳家だが、エッセイが最高。
いやエッセイにくくってしまっていいのだろうか。だって書いてあることの一割~九割ぐらいが嘘なんだもの。一割~九割とずいぶん幅があるのは、どこまでほんとでどこから嘘かわからないからだ。気づいたら空想の世界に連れていかれている。

ダース・ベイダーが寝るときに考えること、耳の中に住んだらどんな気持ちか、江戸時代のカーナビは今何を語るのか、地球で捕獲された宇宙人は何を思うのか。

着想もすごいが、そこからの飛躍もすごい。
たったひとつのもの、たった一言をきっかけに岸本氏の想像は異世界へと羽ばたく。
 エリツィンが死んだ、という記事を新聞で見る。プーチンが追悼演説をすると書いてある。
 いったいどんな演説をするのだろう。と思うそばから、もうプーチンの代わりに草稿を考えてあげている自分がいる。
「同志ボリス・エリツィンに私は非常な親愛の情を感じておりました。何となれば、エリツィンの”ツィン”に、プーチンの”チン”。”ツィン”と”チン”。二つの間にはなんと響きあうものがあることでしょう!」
 頭の中で、プーチンが私の差し出した草稿をびりびりに破いて捨てる。
この短い文章にドラマが詰まっている。プーチンと秘書の姿がはっきりと立ちあがってくる。びりびりに破いているときのプーチンの冷徹な眼まではっきり浮かぶ。秘書であるキシモト同志が粛清されるのではないかと心配になる。そんな秘書いないのに。

プーチンがエリツィンの追悼演説をするという短いニュースから、たったの数行でこんなに遠くまで連れていってくれるのだ。
この距離、この速さ、この具体性。想像力というものの持つ力を知らしめてくれる。

小説家でも、これだけ想像力豊かな人いないでしょ。




また「これまで言語化してこなかった感情」を目覚めさせてくれる能力もすごい。
「ない場合は」も、聞くと変な気持ちになる言葉だ。
 料理番組で、おいしそうなものを作っている。唾をわかせながら見ていると、材料に「花椒」とか「XO醤」とか、普通の家庭になさそうなものが出てくる。がっかりしかけると、「もしない場合は入れなくても結構です」などと言ったりする。それを聞いた時に胸にわきあがる気持ちは、一言でうまく説明できない。まず、え、入れなくてもいいの、という拍子抜けの気持ち。それから、本来なら入れるべき材料を「なくてもいい」とする英断へのそこはかとない尊敬。それと、「どうせ入れても入れなくてもお前ら素人には変わるまい」と甘く見られたような、子供向けにやさしくアレンジされたシェイクスピア劇を見せられたような、淡い屈辱感。そういうものがないまぜになって、なんだかひどくモヤモヤする。
ああ、わかる。
この文章を読むと「ぼくもそう思ってたんだ!」と言いたくなってしまう。そんなこと一度も考えたことないのに
でも、この気持ちの一パーセントぐらいはぼくの心にもあった。ぼくはそれを見逃していた。だが岸本氏はそのひとしずくのひっかかりを丁寧にすくいあげて、こうやって文章にしてくれる。おかげでぼくは気づく。そうか、ぼくはこう思ってたのか。屈辱感を味わっていたのか。

これを知ってしまったらもう知らなかった頃には戻れない。今後「ない場合は」と聞くたびに、甘く見られたような気持ちになる。
自分でも気づいてなかった感情を強制的に引き出させる文章。
ああ、こんな文章書きてえなあ。


【関連記事】

【読書感想】岸本 佐知子『気になる部分』



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2018年9月10日月曜日

【DVD鑑賞】『勝手にふるえてろ』

『勝手にふるえてろ』

(2017年)

内容(Amazon Prime Videoより)
24歳のOLヨシカは中学の同級生"イチ"へ10年間片思い中!過去のイチとの思い出を召喚したり、趣味である絶滅した動物について夜通し調べたり、博物館からアンモナイトを払い下げてもらったりと、1人忙しい毎日。そんなヨシカの前へ会社の同期で熱烈に愛してくれる"リアル恋愛"の彼氏"ニ"が突如現れた!!「人生初告られた!」とテンションがあがるも、いまいちニとの関係に乗り切れないヨシカ。"脳内片思い"と"リアル恋愛"の2人の彼氏、理想と現実、どちらも欲しいし、どっちも欲しくない…恋愛に臆病で、片思い経験しかないヨシカが、もがき、苦しみながら本当の自分を解き放つ!!

友人から勧められての鑑賞。
綿矢りさの同名小説の映画化。

おもしろかった。全員ヘンな登場人物、クレイジーな疾走感、ばかばかしいセリフまわし、なにより主役の松岡茉優の演技が光っている(ただちょっとかわいすぎる。このキャラクターならもっとダサい恰好、ダサいメイクをしててほしい)。
偏執的、オタク、人見知り、攻撃的、ナイーブ、メルヘンチック。困った部分を寄せ集めたようなキャラクターをうまく演じている。
突然のミュージカルパートも最高(歌がすごくうまいわけでもないのがまたリアルでいい)。

主人公は、周囲の人間に勝手なあだ名をつけていたり、ずっと片思いをしている男に接近するために興味ない男から言い寄られたときの手口をまんま使ったり、SNSで他人になりすましたり、好きじゃない男から告白されて舞いあがったり、なんつうか「賢い人がバカやってる」感がたまらない。

かと思ったらちょっとしたことで傷つく中学生のような繊細さを持っている。他人のことは平気で攻撃するくせに自分がちょっと傷ついたら大げさに騒ぎたてる。他人に対して成熟したコミュニケーションがとれない、ほんとにめんどくさい女だ。

でもそういうところがすごく魅力的だ。誰の心にもあるガキンチョな部分を具現化したような存在。こんなふうに生きられたらいいだろうな、いややっぱり嫌だな。
ぼくも昔、こういうタイプの女性と仲良くしていたことがあるが、やはり付きあいきれずに離れてしまった。遠目に見ている分には魅力的なんだけどね。でもその身勝手さを受け入れられるだけの度量の大きさはぼくにはなかった。



映像自体にトリックが仕掛けてあって、これまでのあれやこれが実は××だったということが明らかになるのだが(ネタバレのため伏字)、この種明かしをラストに持ってこないところがいい。
「ラストのどんでん返し!」みたいな安易な展開はいらない。そういうのつまらないから。さりげなくやるのがいいんだよね。「驚愕のラストがあなたを待ち受ける!」みたいに書かれたらぜったいに驚愕しない。

テンポの良さもあって序盤から最後までまったく退屈しなかったのだが、ラストで想定内の場所に着地してしまったのは少し残念。ここまでぶっとんだ話をつくるんならもっと思いきったラストでもよかったんじゃないかと思う。まあそれは原作の問題か。

安野モヨコ『ハッピー・マニア』を思いだした。『ハッピー・マニア』のカヨコを内向的にしたらこんな感じだろうな。
どこまでも自分のためにつっぱしる姿って、女性作者とよく合う。男が描いたらもっと周囲を気にしてかっこつけちゃうだろうなあ。

煩悩のままにつっぱしる女性はただただまぶしい。自分ができないからこそ。やりたくないからこそ。