
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
妻を亡くしたショックで新聞社を辞め婦人向け雑誌の記者になった主人公。心霊ネタの取材の途中で「幽霊の目撃談が多発している踏切」の存在を知る。
取材を進めるうちに、その踏切のすぐ近くで殺人事件が発生していたことが判明。犯人は既に逮捕されているが、殺された女の身元は不明。はたして殺された女は誰なのか……?
【以下ネタバレを含みます】
ホラー&ミステリ小説。幽霊話を追っているうちに殺人事件にたどりつき、殺人事件を掘りすすめているうちにある大物政治家のスキャンダルにたどりつき……と、どんどん話が転がっていくのがおもしろい。
オカルトものは好きじゃないんだけど、こういう社会派ミステリは好きだぜ、オカルトとおもわせた本格ミステリか、おもしろいじゃないか。
とおもって読んでいったのだが……。
結局またオカルトに戻ってしまった。幽霊の正体見たり枯れ尾花、かとおもったらやっぱり幽霊。
この展開は嫌いだなあ。不可解な現象の原因を霊に求めてしまうと、なんでもありになっちゃうんだもん。何が起きたって、どんなご都合主義の展開になったって、霊の仕業ですっていえば一応の説明はついちゃう。ずるいよ。
実際、『踏切の幽霊』でも「事件の黒幕が怪奇現象に巻きこまれて不可解な死を遂げる」という、なんとも都合のいい展開になってしまう。
そんなあ。だったら主人公の記者が丁寧に事件の真相を追い求めてきたのはなんだったんだ。はじめから幽霊が悪いやつに憑りついて祟り殺せばよかったじゃないかよ。なんで主人公が黒幕と対峙するまで待ってたんだよ。
この幽霊ってもはや全知全能の神といっしょなんだよな。すべてをお見通しでどんなことでもできちゃう。こんなやつが出てくる小説、おもしろいわけがない。
密室殺人が起こりました。犯人は神様でした。凶器は天罰でした。ちゃんちゃん。これと一緒。
せっかく主人公が丁寧な取材で事件を追ってたのに、ラストの「考えもなく政治家をぶん殴る」と「政治家を追い詰めることができなかった主人公の代わりに幽霊が復讐」のせいで台無しになってしまった。
小説に幽霊を出すなとは言わないけど、幽霊に力を与えちゃだめだよ。
ちょっと前まで、テレビは強いメディアだった。誰もが認めるところだ。
テレビの影響力はすごかった。視聴率10%だったら、単純計算で1000万人近くが観ていたわけだ。世帯視聴率なので実際はもっと少ないけど、それでも数百万、多ければ数千万人に同時にリーチできていたわけだから、とんでもないメディアだ。
ある番組で健康にいいと言われた食材が翌日のスーパーから消えた、なんて話も聞く。1000万人が視聴して、そのうち5%が買いに行ったとしても50万人が買うことになるわけだ。それも同じ日に。すごい。
今それに匹敵するメディアってないだろう(テレビ自身も含めて)。
YouTubeを月に一度以上利用する人が、日本で7000万人ぐらいだそうだ。
少し前ならテレビを月に一度以上視聴する日本人なんて100%に近かっただろう。月に一度どころかほとんどの人は日に一度以上は視聴していたはずだ。しかもYoutubeは観られている動画が無数にあるけど、地上波放送は数チャンネルしかない。ほとんどの人が同じものを観ていた。
じゃあ昔のテレビがそれだけおもしろかったのかっていうと、必ずしもそうとは言いきれない。テレビが強かったのは「テレビがおもしろかったから」ではない。
テレビの最大の強みは、「手軽に見られる」ことと「みんなが見てる」ことだ。
まず手軽さだけど、リモコンのボタンを押すだけですぐに再生が始まる。テレビ放送の再生に特化したデバイスが居間にどんと置いてあって、ボタンを1個か2個押すだけで再生が始まる。
パソコンの起動ボタンを押して、起動するのを待って、ブラウザを立ち上げて、検索するなりURLを入力するなりブックマークを探したりして目的のサイトを開き、そこで動画を検索し、再生ボタンを押すのに比べてずっと手軽だ。
そしてみんなが観ていること。
テレビの話題は、かなりの確率で共通の話題になりうる。いきなり映画や小説の話題を振ってくる人はあまりいないが、いきなりテレビの話題を振る人はけっこういる。
以前、同じ職場のおばちゃんから朝いきなり「X(女優)とY(芸人)が結婚したのびっくりしたねー」と話しかけられて驚いたことがある。みんながワイドショーネタに興味を持っているとおもっているのだ。それぐらい芸能ネタというのは一般的な話題だ。
人は「昨日のあのドラマ観た?」「こないだの〇〇おもしろかったなー」という会話をしたいものだ。だからネット動画になってもコメント欄がにぎわっている。
テレビは娯楽の王様とか言われていたけど、決してテレビのコンテンツが優れていたからではないだろう。もちろんおもしろい番組もいっぱいあったが、それと同じぐらい、おもしろい映画、おもしろい小説、おもしろい舞台演劇もいっぱいあった。コンテンツ自体の強さでテレビに劣っていたわけではない。
それでもテレビが圧倒的に強かったのは、手軽に、みんなが観ることができたからだ。
昨今、テレビ業界も斜陽産業になりつつあるらしく、有料配信などの会員制ビジネスを始めたりしている。
たぶんうまくいかないだろうな、とおもう。そういう囲い込みって、テレビの強みであった「手軽さ」「大衆性」の対極にあるものだから。
ついでに言えば、新聞も似たようなものだ。
日本の新聞が強いメディアだったのは、大衆性(みんなが同じような記事を読んでいる)と手軽さ(毎朝家に配達されるのでかんたんに読める)に依るところが大きい。
だから多くの人が購読をやめて大衆性が失われれば読まなくたって平気だし、一度購読をやめてしまえばわざわざ買ってまで読もうとはおもわない。
我々はとにかくめんどくさがりなのだ。
仕事以外でパソコンを使う人が減ってスマホにシフトしているのも、やはり手軽さが理由だろう。
だから今後スマホに取って代わるものができるとしたら、スマホを手に取って画面をオンにするよりも手軽なもの、たとえばまばたきするだけで眼前に映像が浮かびあがってくるようなメディアなのだとおもう。
認知バイアスとは、思いこみ、偏見、先入観などによって適切な判断をしてしまうことを指す。これはほとんど誰にでも起こることである。
思いこみや偏見というとネガティブなイメージがつきまとうが、必ずしも悪いことではなく、むしろ判断をスピーディーにしたり、脳のエネルギー負担を抑えたり、プラスにはたらくことが多い。だからこそ人間の脳は思いこみ、偏見を持つように進化したわけだ。
食物は腐ると刺激的なにおいを放つことが多い。だから刺激的なにおいがするものは食べないほうがいい。これは“偏見”だ。レモンのように刺激的なにおいだけど食べてもよいものも存在する。
だが、採集生活をしている人がいちいち食べてみて「これは大丈夫」「これは危険」と判断していたら命がいくつあっても足りない。だから「刺激臭のするものは食べるな」「色鮮やかなキノコは食べるな」といった“偏見”にもとづいて行動するわけだ。すごいぞ偏見。
認知バイアスを持っていなければとっくに人類は絶滅していたかもしれない。
しかし認知バイアスがあるせいで、判断を誤ることも多々ある。
人間は、見たものを見たまま記憶することが苦手なのだ。
ぼくは以前、裁判員に選ばれたことがある。裁判で検察官の主張、被告人側弁護士の主張を聞き、その後評議室で裁判官と裁判員で議論をおこなう。
そのとき、「たしか検察の主張ってこうでしたよね」「あれ、そうでしたっけ? 私の記憶だとこうだったような……」「じゃあもう一回裁判の記録を見返してみましょう」となることが何度かあった。それで記録を見返すと、どちらの記憶もまちがっていた、なんてこともあった。
かなり集中して裁判を聴いているのに、採番から評議まで数日しか経っていないのに、細部はけっこう忘れている。裁判員だけでなく、プロの裁判官も記憶がおぼろげなことがあった(一応書いておくと、ちゃんと記録を見返すので誤認のまま評議が進むことはほとんどないはず)。
以前別の本で読んだのだが、鳥はヒトに比べてものの形を正確に覚えられるらしい。
だが、正確に記憶するせいで、ちょっと形が変わっただけで別のものと認識してしまうのだそうだ。これは不便だ。人の顔をおぼえても、ちょっと髪型が変わっただけで別人と判断してしまっては困る。
つまり記憶はあいまいであるほうがよい面もあるのだ(むしろそっちのほうが多いのだろう)。
この本によると、幼児期には写真のように見たものを記憶できるが、言語の発達とともにその能力は衰えていくのだそうだ。写真のように正確におぼえるよりも「眉が太くて柔和な顔つきのひげの濃い男性」のように特徴を取り出しておぼえるほうが効率がいいからだろう。
言語能力が高いのも良し悪しである。
対応バイアス、について。
他人の行動の原因をその人の人間性に求めてしまうのが対応バイアスだ。
「罪を憎んで人を憎まず」の逆の思考だね。
近所に騒音を出す人がいる。その人は外国人だった。「外国人だからマナーが悪いのだ」と考える。じゃあうるさいのが日本人だったら「日本人はマナーが悪い」と考えるのかというと、そうは考えない。「大学生はマナーが悪い」「派手な服を着てるからマナーが悪い」など、べつの“それっぽい属性”に理由を求める(もちろん自分自身がその属性に含まれていないことが前提である)。
対応バイアスは、差別を生みだす大きな原因なのだろう。戦争を持続させるきっかけだって同じかもしれない。
「A国人はおれたちの国の人間を殺した。A国人は残虐だ。おれたちの国にもA国人を殺したやつがいるが、それはそいつが特別に悪いやつだっただけだ。よってA国人は滅ぼすべし!」みたいな発想になるのだろう(そしてそういう思考に導く政治家がいる)。
バイアスを持つことは避けられないし、必ずしも悪いことではない。バイアスは我々が利用する道具だ。言語や自動車やナイフのように、いい使われ方もするし悪い使われ方もする。
バイアスを抱くのは避けられないが、ただバイアスを持っているという意識は忘れないようにしたい。
脳科学者が人間の思考についてあれこれとつづった本。
様々な知見が紹介されてはいるが、研究報告というよりエッセイに近い。
この人、他の著書を調べると『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』とか『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』とか、どう考えてもまともな学者のものとはおもえないタイトルが並んでいたので、「これはたぶんヤベー学者だな……。だいたいメディアによく出る脳科学者ってろくなやついねえんだよな……」と眉にたっぷり唾をつけてから読んだのだが、エッセイとして読む分にはなかなかおもしろかった。
ぼくが好感を持ったのは、文章がわかりにくいところだ。
ぜんぜん論旨が明解でない。あれこれ読んだあげく、「で、結局何が言いたかったのかよくわからない」となることもある。
でも誠実な文章というのはそういうものだ。断定をしない、判断を避けて結論を保留にする、主張をする場合でも反対側の可能性も残しておく。結果、わかりづらくなる。真実に対して誠実であろうとすればわかりづらくなるのは必然だ。
声のでかい人が言う「〇〇は正しい! ××はダメだ!」とは真逆の態度だ。
とても『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』を書いたのと同じ人とはおもえない。ほんと、なんであんな本出したんだ。読んでないけど。
好かれやすい人、について。
好かれすぎる人、というのはいる。こちらが好きではない(どちらかといえば嫌いな)人から行為を向けられやすいタイプ、極端なことを言えばストーカーにつきまとわれやすいタイプだ。
個人的な印象でいえば女性に多いようにおもう。
ただ単にすっごい美人、という場合もあるだろうが、「誰にでも愛想がいい」「男性との距離が近い」など、「思わせぶりな態度をとりがちな人」であることも多い。
だからだろう、ストーカー被害に遭った女性が「気を持たせるような態度をとったあなたも悪いんじゃないの?」と責められる、なんて話も聞く。
でも、「その気もない相手に対して気を持たせるような態度をとる女性」も、決して相手をなぶって遊んでいるわけではなく、自分を守る手段として「思わせぶりな態度」をとっているのかもしれない。
周囲(特に異性)から敵意、攻撃性を向けられやすい環境にいた場合、「私はあなたを好きですよ。だから攻撃しないでくださいね。守ってくださいね」というメッセージを発していないと身の安全を保てなかったのかもしれない。
赤ちゃんがにこにこするのは「私を守ってください」というメッセージを(結果的に)発しているからだ、という話もある。
「気のない人に対して思わせぶりな態度をとる人」が女性に多い(ような気がする)のも、女性のほうが弱い立場に置かれやすく、誰かの庇護を求めることで身を守る必要があるとおもえばうなずける。
そうだとすると、身を守ろうとする行動がストーカーを招き寄せてしまうこともあるわけで、なんとも皮肉なことだ。
信用されやすい人、について。
さっきの「わかりづらい文章」の話にも通じるものがある。
論理的に、科学的に、謙虚にものを語ろうとすれば、どうしても不明瞭な物言いになってしまう。「Aである可能性が高いがBを主張する人もいるしCも完全に否定されたわけではない」のように。
だがメディアでは「絶対A! それ以外を信じるやつはバカ!」みたいな語り方をする人間のほうが重宝される。どっちが賢いかは考えたらすぐわかるとおもうのだが、それでも人は自信たっぷりの人間の言うことを信じてしまうのだ。
正しい人、について。
いやほんと、正しい人ほどおそろしいものはないよ。
ぼくは、駅前で通路をふさぎながら「盲導犬に募金を!」と呼びかけている団体を見たことがある。他方、たとえば路上ミュージシャンなどは通行の邪魔にならないようにしている。通路いっぱいに広がりながら演奏しているミュージシャンなんて見たことない。
商品の宣伝などをしている車などはそんなに大きな音を出していない(昔はうるさいやつもいたがたぶん規制されたのだろう)。だが選挙カーや政党の街宣車なんかはとんでもなくうるさい音を出している。
「自分は正しいことをやっている」とおもうと、「正しい目的のためなんだからみんなも少しぐらいの不便は我慢しろ」という傲慢な発想になってしまうのだろう。おそろしい。
うつ傾向について。
なぜ人間はうつになるのか。うつになると行動力が落ちたり、ひどい場合には自殺をしたりするので、生存・繁殖にとっては不利になる。だったら「うつになりやすい遺伝子」は淘汰されて、常にハッピーな人間ばかりになりそうな気がする。
だが、抑うつ傾向にもメリットはあるのだ。情報を正確に判断したり、問題の解消方法を考えたりするのには抑うつ状態は有利なのだという。有利な面もあるからこそ、人はうつになる。
うつ病という言葉もあるが、うつは病気というよりは症状に近いのかもしれない。風邪(病気)と発熱(症状)の関係のようなものだ。身体が熱を出して細菌をやっつけて風邪を治そうとするのと同じように、うつ状態になることによって問題に対処しようとするわけだ。
うつというと防衛的なイメージがついているが、実は戦闘状態なのかも。