2022年3月7日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ宇宙大旅行』『ズッコケ結婚相談所』『謎のズッコケ海賊島』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第五弾。

 今回は12・15・16作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら


『ズッコケ宇宙大旅行』(1985年)

 子ども向け、特に男子向けのフィクション作品には定番ジャンルがいくつかある。昆虫、戦国、恐竜、乗り物、幽霊、推理など。そのひとつに「宇宙」がある。

 ということで定番の「宇宙」を題材にしているのだが、さすがは那須正幹先生、安易に宇宙人を登場させたりはしない。アメリカのUFO研究機関の蘊蓄を並べたり、バードウォッチングをしたところ奇妙な音がカセットテープに録音されることから磁力線が発生していることに気づいたり、これでもかと説得材料を並べ立てている。このあたり、非常に理屈っぽい。はっきりいってUFOの歴史や定義など子どもには難解でいまいち伝わらないとおもうんだけど、きっと著者自身が書かずには納得できないのだろうな。児童文学だからといって細部まで手を抜かない矜持を感じる。

 ただ、設定がしっかりしていることが裏目に出たのか、宇宙をテーマにしているわりにはこぢんまりした印象だ。「大旅行」といいながら宇宙に行っているのは数時間だけだし、小宇宙船と母船の中をうろうろしているだけで、他の星に行くわけでもない。

「敵」が出てきて頼みの綱の宇宙人がやられて……とスリリングな展開になりかけたところで、あっさり「敵」の正体がゴキブリだと判明。

 地球人をはるかに上回る科学力を持っているのに、防疫システムだけはザル。他の星に行って動植物をサンプルとして採集し、それを自分たちの食糧といっしょに保管しておくなんて、バカすぎるだろ宇宙人。

 バルサンでやられる「敵」、UFOの形状や内部構造、宇宙人の姿などどれも「漫画で見た通り」な感じで、全体的にチープさが否めない。


 ……とおもいきや。

 エピローグで明らかになる、意外な事実。

 あーなるほどー。宇宙人やUFOがあまりにもステレオタイプだとおもったらこういうわけかー。このどんでん返しは見事。
 うまいことやったね。宇宙人やUFOの描写っていろんな人が試みてるから、既視感があるものになっちゃうもんね。かといってあまりに新奇なものにすれば少年読者がついていけないし。「地球人にも理解できるように」かつ「地球人の想像も及ばないようなもの」という正反対の要求を見事にこたえる、すばらしい逃げ道、じゃなくて解決法だ。

 ぼくが小学生のときにもこの本を何度か読んだはずだけど、ゴキブリ退治のくだりは印象に残っているが、エピローグはまったく記憶に残っていなかった。小学生にはちょっと難しいオチだったかもしれない。当時はあんまり好きな作品じゃなかったしな。
 小学生のときと大人になってからで大きく評価が変わった作品だ。

 似たようなメタなオチは、後の作品『ズッコケ文化祭事件』でも使われてて、そっちはよくおぼえてるんだけどなあ。



『ズッコケ結婚相談所』(1987年)

 ズッコケシリーズの話の導入には大きく二種類あって、「三人組がおもわぬ事件に巻きこまれる」型と、「三人組(特にハチベエ)が行動を起こして周囲を巻きこんでいく」型がある。

 前者は『探偵団』『探偵事務所』『山賊修行中』『時間漂流記』『恐怖体験』『宇宙大旅行』などで、後者は『探検隊』『心霊学入門』『事件記者』『児童会長』『株式会社』『文化祭事件』などだ。
 好みはあるだろうが、ぼくはだんぜん後者のほうがおもしろい作品がおおいとおもう。

 殺人事件に遭遇したり、幽霊に憑りつかれたり、宇宙人と出くわしたりする導入だと終始「お話」感がついてまわるが、「学校の壁新聞を作るための取材をはじめたら……」「子どもだけで会社を作ったら……」といった導入には「あるいは自分も同じような体験をできるかも」とわくわくさせてくれたものだ。

 で、この『ズッコケ結婚相談所』である。これは典型的な「三人組の行動が周囲を巻きこむ」パターンの話だ。

 女子小学生の自殺を伝える新聞記事、という異様に暗いシーンから物語が幕を開ける。ズッコケシリーズの中でも、いや全児童文学をさがしても、ここまで陰鬱なシーンからスタートする物語は他にそうないだろう。

 新聞記事を読んだハチベエは顔も知らぬ女子小学生の死に心を痛め、同じ境遇にある小学生を救うために何かできることはないかと知恵を絞る。で、おもいついたのが「子ども電話相談室」の開設。

 このあたりはコミカルに描かれているけど、すばらしい行動力だ。いきなり全員を救うことはできなくても、まずは近くの子どもに手を差し伸べる。自分にできる範囲の小さなことをやる。こうした小さな行動の積み重ねがやがて世界を変える。かもしれない。

 しかしそんなハチベエ先生の奮闘むなしく、ハチベエはクラスの女子から嘘の相談を持ちかけられてまんまと騙され(このいたずらはほんとにひどい)、ハカセはヒステリックな母親から説教され、「子ども電話相談室」はあえなく終了することに。

 そして後半はうってかわって、モーちゃんのお母さんの再婚話が主題となる。

 この作品は、前半と後半でまったく別の作品だ。そしておもしろいのは断然前半だ。「周囲を巻きこんでいく」型の前半と、「巻きこまれる」型の後半なので当然かもしれない。


 児童文学で親の離婚、再婚をテーマに据えた意欲は買いたい。今の時代でも挑戦的だと感じるのだから、三十年以上前の出版当時は相当新しいチャレンジだったのだろう。

 意欲的な作品なのは事実だが、物語としておもしろいかというとそれはまた別の話。

 親の離婚や再婚って子どもからすると人生を大きく左右する一大事件でありながら、自分が介入できる余地は少ないんだよね。納得いかなくても、親の決定に従う以外の道はないんだから。

 だから母親の再婚話に直面したモーちゃんは大いに悩むし、それを知ったハカセやハチベエも親友のために東奔西走するけれど、子どもたちが悩んだり話し合ったところで事態は変わらない。なのでずっと空回り感はぬぐえない。

 モーちゃんの行動が母親の最終的な決断に影響を与えたのはまちがいないけど、あくまで要因のひとつ。「あの行動がこの結果につながったかもしれないし、無関係かもしれません」では、読み終わった後の爽快感は得られないなあ。

 モーちゃんの気持ちがいまいち伝わってこないのもマイナス。ずっとうじうじ悩んではいるけど、それは父親に対するものだけで、母親に対する思いはまったくといっていいほど書かれていない。子どもにとっては母親って絶対的な存在なわけじゃん。母子家庭だったら余計に。その母親が再婚するかもしれない、って自分のアイデンティティが揺さぶられるぐらいの出来事だとおもうんだけど、モーちゃんがそこについて戸惑っている描写がぜんぜんない。
 モーちゃんは過去との決別のために実父に会いに行くわけだけど、どっちかっていったら「物心ついてから一度も会ったことのない父さん」よりも「生まれたときからたった一人だった母さんがよその人と結婚する」のほうが重要事項だとおもうのだが。そこを書かないのは片手落ちじゃないだろうか。

 試みはおもしろかったけど、このテーマをエンタテインメントにするのはむずかしいよなあ。


『謎のズッコケ海賊島』(1987年)

 モーちゃんが食べるものがなくて困っているおじさんを助けてあげたところ、後日そのおじさんから海賊の宝のありかを示したメモを渡される。そしてはじまる宝探し、暗号解読、小島の洞窟探検、そして悪者の登場……。

 と、定番要素をぜんぶ詰めこんだ王道すぎる冒険譚。大人の目から見ると、王道すぎて逆に退屈なぐらい。手塚治虫の初期作品(貸本時代)にこんな話がよくあったなあ。つまり1987年当時でもすでに新しくない。

 しかし「はやての陣内」という海賊を登場させ、歴史背景をもっともらしく語ることで洞窟の実在に説得力をもたせているところはさすが。那須先生はこういう「もっともらしいほら話」が非常にうまい。

 暗号もいっぺんに解読されるのではなく、「二枚で一セット」「浄土にまいるべし」「『女島の南』というフレーズの意味が陸の人間と海賊とでは異なる」など、徐々に謎がとけてゆくところはうまい。

 目新しさはないが、ズッコケシリーズとしてはまあまあの良作といっていいんじゃないだろうか。モーちゃんの人の好さ、ハカセの博識、ハチベエの行動力と三人の長所がそれぞれ発揮されているのもいい。子どもの頃は「つまらなくもないが、シリーズ上位に入るほどではない」という評価だったが、大人になって読んでもその評価は変わらなかった。

 ただ、最後にほんとに宝を手にして三人組が全国区のヒーローになってしまうのが個人的にはちょっと物足りない。最後の最後でズッコけるのがこの三人組の魅力だし、物語にリアリティを与えてくれているのに。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



 その他の読書感想文はこちら



2022年3月4日金曜日

洞口さんはうがいができない

 あたしはうがいができない。

 ガラガラペッ、ってやつ。あたしがやるといつもゲボバボバゴボッ、とか、ゴボベバババッ、とかになる。
 そんで、周囲がびちょびちょになる。なぜか。

 だってやりかたがわかんないもん。

 理屈はわかる。水をのどに入れて、そんでのどを震わせるんでしょ。でも理屈でわかるのとじっさいにできるのとは違う。ボールにタイミングよくバットをあわせて鋭くスイングすればボールをスタンドまで運べるとわかっているだけではホームランが打てないのとおんなじで。

 考えてもみてほしい。のどは何のためにあるのか。ひとつ、水や食べ物を食道へと運ぶ器官。もうひとつは、空気を震わせて声を発するため。決して水を震わせるための器官ではない。その証拠に、人間以外のどの動物もうがいをしない。

 わかる? のどの役割はふたつ。
「空気が出てきたときは震わせる、または吐き出す」
「水や食べ物が入ってきたときは飲みこむ」
 AならばA'、BならばB'。ごくごくかんたんなプログラミング。

 なのにうがいがやろうとしていることは、BならばA'。
 なんじゃそりゃ。規則違反。Excelだと#NUM!とか出るやつ。

 だからあたしがのどに水を入れたら自動的に飲みこんでしまうのも、飲みこまないようにぐっとこらえてのどを震わせようとしたらおぼれてしまうのも、しかたないとおもわない?


 まあそれはいい。子どものときは「ちゃんとうがいしなさい」なんて言われたものだけど、大人になると人前でうがいをする機会なんかなくなる。もうあたしは一生うがいとは無縁の人生を送っていくのさ、さらばうがい、このうがいからの卒業。と、晴れ晴れした気分で日々の生活を送っていた。

 ところがどうよ。このコロナ禍とかいうやつのせいで、またうがいが脚光を浴びるようになってきた。ちくしょううがいのやつ、あのとき確かに殺したはずなのに。まさか虎視眈々と再び脚光を浴びるチャンスを狙ってたとはね。

 医者も、テレビのアナウンサーも、政治家も、教師も、サラリーマンも、何かと言えば「手洗いうがいを徹底しましょう」だ。ばかの一つ覚えみたいに、手洗いうがいを徹底させようとする。

 そりゃああたしだって、うがいが防疫に有効だということは百も承知だ。だけどできないんだもん。しかたないじゃない。
「コロナウイルス予防には後方二回宙返り一回ひねりが効果的であることがわかりました」って言われても、体操選手以外にはどうしようもないじゃん。それといっしょよ。

 まあテレビで言ってるだけなら聞き流せばいいんだけど、あろうことか、うちの会社の社長が「昼休み明けに全社員で手洗いうがいをすることにします」なんてことを言いだした。

 ほらー。医者やアナウンサーや政治家が言うからー。真に受ける人が現れるじゃんかよー。

 だいたいなんでみんな一斉にやるのよ。どう考えたって別々にやったほうが衛生的でしょうに。こうやってすぐ横並びでやりたがるのが地球人のよくないとこよね。あっちじゃ、もっと個々の意思を尊重してるってのに。

 ってことで毎日昼休みの直後に同僚たちの目の前でおぼれてるのがこのあたし。あげくにはあたしがうがいができないせいでオフィスビルが全館停電になっちゃったわけだけど、その話をする時間はもうないや。ガバラベボボベッ。


【関連記事】

洞口さんとねずみの島

洞口さんじゃがいもをむく


2022年3月3日木曜日

【コント】少年サッカーチームのお手本

「いや、見事なプレイでしたね」

「ありがとうございます!」

「今日はいつにも増して精彩を放っていたように見えましたが」

「そうですね、今日はぼくが支援している少年サッカーチームを客席に招待していたので、子どもたちにかっこ悪いところは見せられないとおもっていつもより気合が入りました!」

「なるほど、そうでしたか。子どもたちにもハナカミ選手のプレイはしっかり届いたとおもいますよ」

「ありがとうございます! おーい、ジュニアチームのみんなー! やったぞー!」

「特に前半二十四分のフリーキックにうまく頭をあわせたシーン」

「あれは自分でも会心のシュートでした」

「シュート直前に相手チームのユニフォームをがっしりつかんで離しませんでしたよね」

「えっ」

「ユニフォームの裾をひっぱることで相手がジャンプするのを見事に妨害していました」

「えっ、いや」

「あれはやはり日頃から練習を重ねていたんですか」

「いや、練習っていうか、とっさに」

「なるほど。とっさに手が出てしまったということですね。非常にラフなプレイでした」

「……」

「それから後半開始直後。相手のスライディングによって転倒したシーン」

「あれはヒヤッとしました」

「そうですね。でも当たらなくてよかったですね。スロー映像で確認したところ相手の足はまったく当たっていませんでした」

「えっ、そうでしたっけ」

「ですがその直後の大げさに痛がるシーン、あれは見事でした。まるで当たったかのように見えました(笑)」

「大げさにっていうか、実際に痛かったし……」

「ははあ、自分自身も騙されるほどの演技だったということですね。やはりああいった演技は普段からイメージしているのでしょうか」

「演技っていうとアレですけど、まあ誰しもやっていることですので」

「そうでしたか。『みんながやっていることだったらフェアじゃないプレイでもやってもかまわない』というハナカミ選手のメッセージ、しっかり子どもたちに届いたとおもいます!」

「いやそんな意識はないんですが……」

「そして最後にロスタイムに大きくボールを外に蹴りだしたシーン。あれは見事な時間稼ぎでした」

「時間稼ぎっていうとアレですけど、あれも戦術っていうか」

「最後まで手を抜かない、勝利のためならどんな手も使う、勝利への執着。ハナカミ選手のひたむきなプレイ、プロを目指す子どもたちにも刺激になったんじゃないでしょうか」

「ですかね……」

「では最後に、ハナカミ選手から、客席にいる少年サッカーチームの子どもたちにメッセージをお願いします!」

「ええと、あの、ぼくみたいな薄汚れた大人にならないでください……」



2022年3月2日水曜日

動物キャラクター界群雄割拠

 各動物ごとの、国内知名度1位動物キャラクターについて考えてみた。


ネズミ

 これはもうミッキーマウスで決まり。異存はあるまい。

「某ネズミのキャラクター」といえば誰もがミッキーマウスを思い浮かべるぐらいに圧倒的なパワーを持っている(版権の厳しさをネタにされるから、ってのもあるけど)。

 ジェリー(『トムとジェリー』)、ぐりとぐら、メイシー、ねずみくん(『ねずみくんのチョッキ』シリーズ)などはとうてい足下にも及ばない。

 1位がミッキーマウス、2位がミニーマウス。この座は揺るがない。唯一善戦できるとしたらピカチュウぐらいか。あいつをネズミと見なしていいのであればだけど。

 

イヌ

 これまた世界に通用するキャラクター・スヌーピーが圧倒的知名度を誇る。主役じゃないのにこの知名度。「主役じゃないのに主役よりはるかに有名ランキング」があるとすれば、これまたスヌーピーが上位にくるだろう(ピカチュウと一、二位を争うぐらい)。

 犬のキャラクターで他におもいつくのは、プルート、グーフィー、ポムポムプリン、シロ(『クレヨンしんちゃん』)など。どれもぱっとしない。イヌってペットの定番なのに、なぜかキャラクターとしてはあまりかわいいやつがいない(愛らしいのってリトル・チャロぐらいでは?)。ケンケン(『チキチキマシン猛レース』)とかイギー(『ジョジョの奇妙な冒険』)とか、かわいくないどころか憎らしいもんな。

 ちなみに小さい子がいる家庭に限ればワンワン(『いないいないばあっ!』)が1位になりそうな気もするが、あいつはほぼ人間だからな……。


ネコ

 ダントツ有名なのはハローキティだろう。やつの強みは、誰とでも寝る節操のなさ 何とでもコラボする社交性の高さ。

 しかしネコのキャラクターってたくさんあるようで、案外思い浮かばない。ジジ(『魔女の宅急便』)、トム(『トムとジェリー』)、タマ(『サザエさん』)、タマ(『うちのタマ知りませんか』)、ねこ(『すみっコぐらし』)、トロ(『どこでもいっしょ』)……。意外と地味だな。
 化け猫のイメージがあるからか、なぜか妖怪化したやつが多いのがネコキャラの特徴。ジバニャンとかネコバスとかひこにゃんとか。


クマ

 日常的になじみのない猛獣でありながら、なぜかキャラクター界では絶大な人気を誇るクマ。

 プーさん、くまモン、ダッフィー、リラックマ、パディントン、ジャッキーなど人気者がひしめきあう。知名度ではプーさんが圧倒的人気だったが、ここ数年でいえばくまモンがそれを抜いたかもしれない。とはいえひこにゃん人気があっという間についえたように、くまモンの人気もいつまで続くかわからない。まだまだクマキャラクター争いからは目が離せない。


ウサギ

 1位はやはりミッフィーか。本名ナインチェ・プラウス、過去の名はうさこちゃん、と複数の名を持つキャラクターだ。本名でない名前がここまで広まっているのはミッフィーくらいのものだろう。

 かわいくないやつが多いイヌ界とはちがい、マイメロディ、ピーターラビットなど、ウサギのキャラクターはただ純粋にかわいらしいやつが多い(ピーターラビットは性格がかわいくないけど)。
 かわいくないウサギキャラといえば……ウサビッチぐらいかな。


トラ

 寅年なのでトラのキャラクターを考えてみたが、しまじろう、ティガー(『くまのプーさん』)、トニー(コーンフロスティ)あたりが横一線で並んでいて、「トラといえばこれ!」というほどの知名度のあるキャラがいない。しかもどれもあんまりかわいくない。

 これから動物キャラをつくるのであれば、トラはねらい目じゃないですかね。トラの赤ちゃんはかわいいし。



2022年3月1日火曜日

【読書感想文】北尾 トロ『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』

ぼくはオンライン古本屋のおやじさん

北尾 トロ

内容(e-honより)
ここ数年で急激に増えているネット古書店。たった一人でサイドビジネスとして始める人、従来の古本屋さんのネット進出、さらには脱サラ独立組みもいて、活況を呈している。開業のための講座も人気だ。著者はライター稼業から、ネット古書店・杉並北尾堂を始めてしまったのだ。具体的なノウハウはもちろん、日々の楽しみなどを綴る。

 まだインターネットといえば個人ホームページが中心だった時代(1999年)に、ネット古書店を立ち上げた著者のルポルタージュ。北尾トロさんといえば裁判傍聴の人(『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』)というイメージだったのだが、それ以前はこんな活動もしていたのか。

 この本では「ネット古書店の作り方・運用の方法」を懇切丁寧に書いてくれているのだが、残念ながらここに書かれていることは今となってはまったく役に立たない。なぜなら、インターネットの世界がこの二十年でまったく様変わりしてしまったから。

 なにしろ、書かれているのが個人ホームページの作り方。それも、アクセスカウンターを設置とか、掲示板を作るとか、リンク集ページを作って相互リンクを貼ってもらうとか。ああ、なつかしいなあ。ぼくがかつて作っていた大喜利ホームページ(2004~2010年ぐらい)もまさにこんなんだった。この頃はまだこれで人を呼べたんだよなあ。インターネットのつながりっていっても口コミの延長みたいなもんだった。

 この頃って、まだインターネットは個人のものだったんだよね。企業はホームページを持っていない会社も多かったし、持っていても「とりあえず作っておくか」ぐらいの気持ちだったのでWeb上で集客をしたり販促をしたりというのはあまり本気で考えてなかったんじゃないかな。

 楽天市場ができたのが1997年、Amazonの日本向けサイトAmazon.co.jpが誕生したのが2000年11月。まだまだ「インターネットで本を買う」のがめずらしかったどころかほとんど誰も知らなかった時代だ。

 北尾トロさんが作ったネット古書店「杉並北尾堂」は、かなり先駆け的存在だった。当然ながらWeb決済なんて影も形もなかった時代ので、注文はメール、決済は郵便為替。メールで注文して、入金方法や発送方法はメールでやりとり。今から見ると、ずいぶんのどかな時代だ。

 Web広告もSEOも存在しない。なんせGoogle日本版がサービス開始したのが2000年。「検索する」という行為すら一般的でなく、Yahoo!のようなポータルサイトからリンクをたどってWebサイトを見つけなくてはならない時代だった。

 だからこの本に書かれている集客方法は「有名サイトにリンクを貼ってもらって集客しよう」。インターネット自体がこぢんまりとしたコミュニティだったのだ。ああなつかしい。


 懐古しだすときりがないのでこのへんにしておくが、とにかく「杉並北尾堂」がそれなりの集客をできて、スタートしてすぐにある程度の売上を確保できていたのは、「インターネットで商売をやる」がまだめずらしかった時代だからだ。当然ながら今このやりかをまねても、一ヶ月で一冊も売れないとおもう。それどころかほとんど誰もやってこない。

 今はどうなっているんだろうと「杉並北尾堂」を検索してみたが、やはりというべきか、跡形もなかった。当時北尾トロ氏がやっていたブログは見つかったが、店へのリンクは当然ながらリンク切れ。

 Amazonや楽天やマーケットプレイスに飲みこまれ、個人古書店サイトが生き残る余地などなくなってしまったのだ。寂しいことだ。

 だが、古本屋自体は今の時代も健在。大きい街には古本屋は存在するし、Amazonなどのサービスを使ってオンラインで売上を立てている古本屋も多い。「個人ホームページで売る」という販売形態が立ちいかなくなっただけで、ビジネス自体は衰えていない。まあ楽な商売ではないだろうけど。

 結局、始めやすいものは終わりやすいんだな、ということをつくづく思い知らされる。

 毎年毎年「これからは〇〇で副業の時代!」と次々に新しいサービスが生まれるが、その中で十年後も同じように稼げる仕事がいくつあるだろうか。うまくいかないものは消えるし、うまくいくものには大手資本が参入してきて競争力を持たない個人は駆逐される。
「〇〇でかんたん副業」は、趣味程度に考えておいた方がよさそうだね。




 やってみてわかったのは、こんな本が売れるのかと半信半疑でアップしたものは、よく売れることである。どんな古本が売れるかを一般論で考えてはいけない、逆だ。一般性がないものだから新刊で売れず、すぐ絶版になり、ずっと探し続ける読者がいるのである。本好きをナメてはいけないのだ。彼らの懐はぼくなど及びもつかないほど深い。

 なるほどなー。
 たしかに素人考えだと、人気作家の本やベストセラーのほうがよく売れるだろうとおもってしまうが、そんな本はブックオフにもあるし新刊書店でも買える。わざわざオンライン古本屋で買う必要がない。

「こんなの誰が買うんだ」とおもうような本は新刊書店からはすぐに姿を消し、市場に多く出まわっていないから古本屋でもなかなか見つからない。

 そういやぼくがはじめてインターネットで買い物をしたのもたしか星新一の絶版になっていたエッセイ集だった。ショートショートはどこでも買えるけど、エッセイは需要が少ないので見つからなかったのだ。

 今でこそネットでものを買うのはあたりまえだが、当時はごく一部の人だけの行為だった。一般的じゃない人が一般的じゃない方法で買うんだから、そりゃあ世間一般のトレンドとはちがうよなあ。

 人気のないもののほうがよく売れる、というのはおもしろい(もちろんまったく人気がないものはダメだろうけど)。




 古本屋は大好きな商売だけど、好きだからこそ古本屋ごときに必死になりたくないという気持ちがぼくにはある。せめて古本屋ぐらいは儲けた損したなんて二の次でいたい。なぜなら、オンライン古本屋になることは、ぼくがようやく見つけた余計なことはみんな忘れて熱中できる仕事』なのだ。大切にしないとバチがあたると、甘いのは承知でそう思う。

 この気持ちはよくわかる。

 ぼくはこうして読書感想文を書いている。ほんのわずかながら広告料も入ってくる(といっても年間で本を一冊買えるぐらいなので大赤字だが)。

 いろんな本の感想文を書いているうちに、どんな本の感想を書けばページビュー数を稼げるかはわかってきた。出てまもない本、話題の本、コミック、タレント本。要するに「多くの人が読む本」だ。

 そういう本の感想を書けば、アクセス数は稼げるだろう。人気作家の本を発売日当日に読んで誰よりも早く感想をアップすれば、ひょっとすると広告費が増えて黒字化できるかもしれない。

 でも、それをやると「いやいややる仕事」になってしまう。ぼくは読書感想文を書くのが好きだからこそ、必死になりたくない。市場を読んだり仮説を立てたり成果を検証したり利益を増やすために努力したり、そんなのは仕事だけで十分だ。わざわざ読書感想文を嫌いになることはない。




 ほんとはぼくも、こんなふうに好きなことを仕事にして生きていきたい。たとえ月の収益が数万円でも。

 でもぼくにはそういう生き方はできない。「なんとかなるさ」ではなく「どうにもならなくなるかもしれない」と悲観的に考えてしまう人間なので。

 だから筆者が古本屋稼業を楽しんでいる姿を読むだけでも愉しい。

 でも「その後オンライン古本屋がどうなったか」を知っているものとしては、読んでいて胸が痛む。

 文庫版(2005年)のあとがきより。 

 一方、アマゾンでは自分で値段がつけられる。しかも、新刊書との値段の比較になるので、どこにでもありそうな本でも、よく売れるという。そのためか、仕入れに混じる不要本だけをアマゾンで売る古本屋はかなりいる。ブックオフに代わる本の処分法として、これはこれで悪くないと思う。
 じゃあなぜやらないかと言えば、価格競争で消耗したくないからだ。アマゾンでは各店の値段が一目瞭然だから、安いものから売れていく。使用するデータは共通で、他にライバルがいたら値段の勝負になるわけだ。
(中略)
 そんなことが繰り返されれば、やがてはオンラインの古本屋はアマゾンがあればいいってことにもなりかねない。売り上げを伸ばすための参入が、めぐりめぐって店の存続をおびやかすことになるかもしれないのだ。最後に笑うのは、参加費と手数料で儲けるアマゾンだけ? うーん、それじゃあ哀しい気がする。 「ぼくとしては個人も業者も入り乱れた土俵には上がらず、なるべくマイペースで店をやっていきたいと思っている。

 著者の懸念である「やがてはオンラインの古本屋はアマゾンがあればいいってことにもなりかねない」がまさに現実化したのが今の状況だ。寂しいことだ。アマゾンヘビーユーザーのぼくがいうのもなんだけど。

 オンライン古本屋だけでなく、あの頃はまだ「インターネットをうまく使えば無名の個人でもすごいことできる」という夢が十分現実的だった時代だったな。じっさいうまくやってた人もいたし。 

 でも誰もがPCやスマホを使うようになると、結局は大手資本と著名人が人の流れを寡占してしまうようになった。ああ、せちがらいぜ。


【関連記事】

古本屋の店主になりたい

本の交換会



 その他の読書感想文はこちら