2022年1月21日金曜日

【読書感想文】今野 敏『ST 警視庁科学特捜班』

ST 警視庁科学特捜班

今野 敏

内容(e-honより)
多様化する現代犯罪に対応するため新設された警視庁科学特捜班、略称ST。繰り返される猟奇事件、捜査陣は典型的な淫楽殺人と断定したが、STの青山は一人これに異を唱える。プロファイリングで浮かび上がった犯人像の矛盾、追い詰められた犯罪者の取った行動とは。痛快無比エンタテインメントの真骨頂。


(一部ネタバレあり)

 警視庁の科学特捜班(ST)の活躍を描いたハードボイルド小説。

 班長の警部を除けば、「一匹狼を気取る法医学者」「秩序恐怖症のプロファイリングの天才」「武道の達人でもある、人並外れた嗅覚の持ち主」「達観した僧侶」「紅一点でグラマー美女の超人的な聴覚の持ち主」と、漫画じみたキャラクターが並ぶ。小説というよりは、テレビドラマのキャラクターっぽい(実際ドラマ化されたようだ)。

 ただ、ギャグ漫画のようにコミカルなキャラクターばかり出てくる割には、起こる事件は妙に猟奇的で生々しい。殺された女性の身体の一部が持ち去られていたり。そのへんはちょっとちぐはぐな印象を受けた。


「そうじゃありません。殺人の動機の話をしているのです」
「動機などは刑事が考えることだ」
「え……?」
「キャップ。しっかりしてくれ。俺たちは何なんだ? 科捜研の職員だぞ。俺は、殺人そのものにしか興味はない。そして、この捜査本部の連中だって、俺たちに動機だの、殺人の背景だのの推理など期待していないはずだ。どういう犯人がどういう手段で殺人を行ったか。その正確な情報だけを期待しているはずだ。違うか?」
「そりゃそうですけど......。でも、STは、ただの科捜研の職員じゃなくて……。どう言うか、これまでの科捜研の範囲を超えた活動を期待されているわけで……」
「基本を忘れちゃ何にもならないよ」
「基本?」
「そう。俺たちがやるべきことは科学捜査だ。探偵の真似事じゃない」
 赤城の言うことはもっともだった。百合根は、急に気恥ずかしくなった。
「そうでしたね。どうやら僕は、功をあせるあまり本来の役割を忘れかけていたようです」


 はじめは「コミカルなドラマとシリアル・キラーとの対決とのどっちを書きたいんだろう」と戸惑ったが、「どっちも書きたいんだな」と気づいてからはおもしろく読めた。

 リアリティやヒューマニズムを捨て、ひたすらエンタテインメントに徹する姿勢は嫌いじゃない。

 警察小説ってテーマが重厚になって、やたらと登場人物(の口を借りた作者)が説教を垂れたがるけど、この作品にはぜんぜんそんなところがない。STのメンバーはほんとに犯人を見つけることにしか興味がなくて、犯行動機にも、世直しにも、市民の安全にも、まったく興味がない。これはすがすがしい。


 ……とはいえ、三人もの女性を殺した犯人の内面がまったく描かれていなくて、もやもやしたものが残った。金銭目的でもなく、恨みもない人を三人も殺すなんて……。

 マフィア同士に抗争を起こさせるのが目的だったらしいけど、それだったらもうちょっとうまいやりかたがあったとおもうけどな……。


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2022年1月20日木曜日

【読書感想文】キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』 ~見事なほら話~

わたしたちが光の速さで進めないなら

キム・チョヨプ (著)
カン・バンファ (翻訳)  ユン・ジヨン (訳)

内容(e-honより)
打ち棄てられたはずの宇宙ステーションで、その老人はなぜ家族の星への船を待ち続けているのか…(「わたしたちが光の速さで進めないなら」)。初出産を控え戸惑うジミンは、記憶を保管する図書館で、疎遠のまま亡くなった母の想いを確かめようとするが…(「館内紛失」)。行方不明になって数十年後、宇宙から帰ってきた祖母が語る、絵を描き続ける異星人とのかけがえのない日々…(「スペクトラム」)。今もっとも韓国の女性たちの共感を集める、新世代作家のデビュー作にしてベストセラー。生きるとは?愛するとは?優しく、どこか懐かしい、心の片隅に残り続けるSF短篇7作。


 韓国の作家によるSF短篇集。

 出生前の遺伝子コントロールによって欠陥のない存在として生まれた〝新人類〟と、欠陥を持つ人類との間の差別意識を描いた『なぜ巡礼者たちは帰らない』

 ワープ、コールドスリープ技術、ワームホールといった宇宙探求技術の進化のはざまに取り残された人の悲劇を描く『わたしたちが光の速さで進めないなら』

 様々な感情を得ることができる商品が登場する『感情の物性』

 生前の人間の意識だけを保管することができる〝図書館〟で、亡き母親の意識がなくなり、それを探す娘が再び母親の記憶と向かい合う『館内紛失』

 宇宙探求のために人体改造を施した人間の意識の変化を描く『わたしのスペースヒーローについて』


 どれも、ザ・SFという感じでおもしろかった。遺伝子コントロール、ワープ技術、意識のデータベース化、人体改造など、SFの素材としてはわりとおなじみの発想だ。だが、それを主軸に据えるのではなく、「遺伝子コントロールによって、コントロールされなかった人はどう扱われるようになるのか」「ワープ技術が古くなったとき、何が起こるのか」「意識のデータベース化がおこなわれた後、データが紛失したら」と〝その一歩先〟を想像しているのがおもしろい。




 中でも気に入ったのが『スペクトラム』と『共生仮説』。

『スペクトラム』は、はじめて人類以外の知的生命体と遭遇した人物の話。いわゆるファースト・コンタクトものだが、この宇宙人の生態がおもしろい。

 ヒジンには皆目理解できないやり方で、彼らは以前の個体が残した記録を読んで習得し、彼らの感情や考えを受け入れる。それまでのルイたちがヒジンの世話をし、大切に扱ったため、新しいルイもヒジンの世話をすることに決める。その過程で何か重大な決断があるわけではない。彼らは当然のように「ルイ」になる。
 彼らは別々の個体だ。ヒジンは一体のルイが死に、次のルイがその後釜に納まるとき、連続しない二つの自我のずれを目撃していた。魂は引き継がれない。それだけは確かだ。彼らは別のルイとしてスタートする。
 だが彼らはやはり、同じルイになると決めた。そこにはいかなる超自然的な力も働いていない。ルイたちは単に、そうすることに決める。記録されたルイとしての自意識と、ルイとしてのあらゆるものを受け入れる。経験、感情、価値、ヒジンとの関係までも。

「ルイ」が死ぬと、別の個体が「ルイ」を引き継ぐ。まったく別人が死んだ個体になりすますわけだ。なりすますというか、完全になりきるというか。人格の乗っ取りだ。

 これは地球人の考えとはまったく異なるようで、案外わからなくもない考え方だ。

 たとえば落語や歌舞伎の「襲名」。たとえば人間国宝になった桂米朝さんは便宜上「三代目」と呼ばれることもあるが、基本的に桂米朝は桂米朝である。「初代や二代目と同じ名前を名乗っている別人」ではなく、「桂米朝」という人格はひとりなのである。「桂米朝」が死んだりまた生まれたりして、百年以上生きているのだ(今は死んでいるが)。

 死ねばすべてが消えるが、襲名とは死なずに永遠の命を手に入れるための方法なのだ。

 そこまではいかなくても、「○○家を継ぐために養子をとる」なんてのもめずらしくない話だ。あれも人格の乗っ取りに近い。

 またアメリカ人なんか、息子に父親と同じ名前をつけることがある。有名な例だとジョージ・ブッシュ。日本人の感覚だとなんでだよとおもうけど、あれも「いつまでもジョージ・ブッシュとして生きていたい」という意識の表れなんだろう。人格というのは個体としての生命とは少し離れたものなのだ。


 なので『スペクトラム』に出てくる異星人の行動は、そこまでけったいなものではないかもしれない。ただ、その〝人格の乗っ取り〟をおこなう手段がユニーク。

 「ルイ」は絵を描き、後に残す。後からきた別の個体はその絵を観ることで新しい「ルイ」になるのだ。絵を媒介として自我をひきつぐ。

 うーん、まったく共感はできないけど理解はできる。「異星人ならこれぐらいのことはやるかも」とおもわせてくれる絶妙なラインだ。SFとは結局「ありえないけどあってもおかしくないかも」をいかに書くかだ。この作品は見事にそれをやっている。




『共生仮説』もおもしろかった。

 様々な動物の言語を翻訳できる装置を使って人間の赤ちゃんの言葉を翻訳したところ、赤ちゃんたちが複雑な会話をしていることがわかった。どうやら赤ちゃんの脳内に別の個体がいて、そいつらこそが赤ちゃんを「人間らしく」させているらしい。では、人間以外のものによって備わった「人間らしさ」ってほんとに「人間らしさ」なのか……?

 脳内に別の存在がいるというのは一見荒唐無稽におもえるが、我々の体内にはミトコンドリアや大腸菌のように別の個体が存在している。だったら知覚できないような知的生命体がいてもふしぎではない。
 また、幼児期健忘(人間は3歳ぐらいまでのことを覚えていないこと)の納得のいく説明として「脳内の生命体」を持ち出しているので、妙な説得力がある。

 もちろんほら話だが、これまた「ありえないけどあってもおかしくないかも」とおもわせてくれる。


 見事なほら話、上質なSF短篇集だった。


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2022年1月19日水曜日

プールとトイレと風呂椅子と

 先月、三歳の次女を連れて区民プールに行ったときのこと。

 今までも連れて行きたかったのだけど、ところかまわず小便を垂れる幼児を連れてプールに行くのはしのびない。まあ明らかにおむつとれていない子ども連れてきてる親もいるけど。

 だが最近ようやっとちゃんとトイレに行けるようになったので、プールに連れてきた。


 で、幼児用の水深五十センチぐらいのプールで遊んでいると、娘が「おしっこ」と言う。

 よしよしよく言えた、と急いでトイレに連れていくが、「いやだ」と駄々をこねる。慣れないトイレだし、補助便座もないし、暴れて座ってくれない。

 どうしよう。ここで我慢させたらプールサイドとか更衣室で漏らされるだろうしな。
 あっ、子育て経験のない人のために説明しておくと、幼児が「おしっこ出そう」と言ってから我慢しきれなくなって決壊するまでは三分ぐらいしかありません。限界の三分前に「おしっこ」と言う生き物なんです。

 しゃあねえ、漏らすよりは、ってことで更衣室にあるシャワー室に連れていく。で、シャワーをかけながら「ここでおしっこして」と小声で娘に告げる。はたして、すぐに娘はおしっこをする。

 シャワー室でおしっこするのもダメだけど他でやるよりはマシだよね。ごめんなさい、区民のみなさん。

 とおもいながらシャワー室を出たんだけど、ふと隣のシャワー室を見たら、おっさんがマイ風呂用椅子を持ちこんで、全裸で座りながらシャンプーしてやがんの。プールを銭湯代わりに使うんじゃねえ。

というわけで、シャワー室で幼児におしっこさせてことで後ろめたさを感じていたけど、「全裸でシャンプーしてるおっさん」に比べたらぜんぜんどうってことないやとおもって罪悪感はふっとびました。ありがとう。いやありがたくねえ。


2022年1月18日火曜日

【読書感想文】鹿島 茂『子供より古書が大事と思いたい』

子供より古書が大事と思いたい

鹿島 茂

内容(e-honより)
仏文学者の著者が、ある時『パリの悪魔』という本に魅せられ、以来19世紀フランスの古書蒐集にいかにのめりこんだか―。古書や挿絵芸術の解説からランクづけ、店の攻略法、オークション、購入のための借金の仕方まで、貴重な古書にまつわる様々な情報と、すべての蒐集家のための教訓が洒脱につづられる。

 フランス文学研究者であり、フランス古書蒐集家でもある著者のエッセイ。

『子供より古書が大事と思いたい』とはなんとも不穏なタイトルだが、あながちおおげさでもない。ほんとにすべてを犠牲にして古書を蒐集しているのだ。

 ちょっと注釈が必要なのだが、フランス古書というのは我々の想像する古本とはちょっと違う。
 19世紀のフランスの本というのは、今のように表紙がついておらず、仮綴本の状態で売られていたのだそうだ。買った人が装丁屋に依頼してオリジナルの表紙をつけてもらう。また印刷技術が今ほど高くないので本によって印刷の質がちがう。さらに著者直筆の訂正や献本メッセージが入っている本もある。
 したがって、大げさでもなんでもなくすべての本が世界に一冊の本となる。

 なので、フランス古書というのは古本というより美術品に近い。実際、貴重なものであれば数千万円の値がつくそうなので、ほとんど骨董品である。


 ぼくは本が好きだが、本に対して読むもの以上の価値を見いださない。コレクション品として本を買ったのはただ一度、星新一の全集を買ったときだけだ(すでに文庫で全作品を持っていた)。

 一度、古書店で文庫をレジに持っていったら「800円です」と言われ驚いた。「えっ、定価より高いじゃないですか」と言うと、店主が「初版本だからね」と答えた。ぼくは買うのをやめた。絶版本でもないのに定価より高い値段で本を買おうとはおもわないが。

 しかし、共感はできないが古書蒐集をする人の気持ちもちょっとわかる。めずらしい本、世界にひとつしかない本を手元に置いておきたい心理はわからなくもない。本とは著者の思考の表出である。世界に一冊しかない本であれば、それを所有することは著者の思考を独占することである。これはさぞや大きな快楽をもたらしてくれるに違いない。

 西村賢太氏や井上ひさし氏の「古書蒐集について書いた文章」はいずれもおもしろい。古書を集めることは、きっと多くの人に共通する願望なのだろう。




 愛書家のことをビブリオフィルと呼ぶそうだが、それが高じて〝愛書狂〟にまでなった人のことを〝ビブリオマーヌ〟と呼ぶそうだ。この言葉は十六世紀からあるそうなので、本の蒐集に狂った人はいつの時代にも存在するのだ。

 鹿島茂氏はまぎれもなくビブリオマーヌである。

そして、その日から私はビブリオマーヌとしての人生を生きることを決意した。私が本を集めるのではない。絶滅の危機に瀕している本が私に集められるのを待っているのだ。とするならば、私は古書のエコロジストであり、できるかぎり多くのロマンチック本を救い出して保護してやらなければならない。これほど重大な使命を天から授けられた以上は、家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい。

 この心境。もはや信教に近い。

「家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい」と書いているがこれは決して大げさな表現ではなく、ほんとに家族の生活を犠牲にして本を買っているのだ。

 はっきり言って、私の資金源は、これみな借金である。しかも親や親類からの出世払いの借金などという甘っちょろいものではなく、銀行やローン会社から、自宅を抵当に入れて借りた本格的な借金ばかりである。したがって、当然、ローンの返済は毎月容赦なく襲いかかってくる。そして、その額は、多重債務者の常として絶えず増加傾向にある。この調子でいけば、破産宣告はまずまちがいのないところである。にもかかわらず、私はあいかわらず古本を買い続け、借金は雪だるま式に増加している。

 借金をしてまで本を買うのだから相当なものである。ちなみに著者が古書を買い集めていたのはバブルの頃だそうで、バブル期は銀行もほいほい金を貸してくれたんだなあ(とはいえさすがに「本を買うため」という理由では銀行も金を貸してくれなかったそうだ)。

 趣味というのは人によれば生きる目的そのものだから、趣味にどれだけ金を遣おうが他人がとやかく言うことではない。……とはいえ、借金をしてまで趣味に金をかけるのはどう考えても度が過ぎる。

 しかし、今回だけは、なんとしても金をつくらなければ、『さかしま』を手に入れる千載一遇のチャンスをみすみす取り逃がすことになる。買うも地獄、買わぬも地獄なら、いっそ買う地獄のほうを選んだほうがいい。ええ、ままよ、銀行が貸してくれないなら、サラ金でも暴力金融でもなんでもいい、なんとしても金を作るんだ! と叫んで、ついに買い注文のファックスを入れた。待つこと数分、折り返しのファックスが届いた。『さかしま』は売却済みと書いてある。
 ああ、よかった。ほっとした。とりあえずは、破産→一家離散→ホームレスの運命は回避された。買えなくて本当によかった。先に買ってくれたお方、どこのどなたかは存じませんがありがとうございます。感謝してます。あなたはわが家の恩人だ。
 しかし、考えてみれば、買えなくてうれしがるというのも変な話である。だれだって、それなら、初めから、買い注文など出さなければいいのにと思うだろう。ところが、買い注文を「入れない」のと、注文を「出したにもかかわらず買えなかった」のとは、本が手に入らなかったという現象面では同じなのだが、心理面では、これがまったく違うのだ。たとえてみれば、オリンピックに参加できたのにしながったのと、参加したが敗れたのとの違いである。後者の場合、とにかく、やれるだけはやったのだという爽やかさが残る。

 ほら、もう頭おかしくなってるじゃん!

 買い注文を入れておいて、「買えなくてよかった」ってもうまともじゃないじゃん。オリンピック選手もこんな頭おかしい人といっしょにされたくないだろう。


 しかし、たいていの頭おかしい人のエッセイがそうであるように、このエッセイもめっぽうおもしろい。

 でもぼくは美術品とか骨董品にまったく興味ないからいいけど、そういうのが好きな人がこのエッセイを読むと集めたくなってしまうかもしれないので要注意。そこは地獄の入口ですよ……。


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2022年1月17日月曜日

【DVD感想】ロングコートダディ単独ライブ『じごくトニック』

内容紹介(Amazonより)
『キングオブコント2020』決勝に進出した実力派コンビ・ロングコートダディの単独ライブをDVD化。7月に行われた東阪ツアーの大阪公演より、「厳格お父さん」「時をかける兵藤」ほか新作コント7本と東京公演限定コントほかを収録。

厳格お父さん

 犬を拾ったので飼いたいと言う息子に対して父親が放つ言葉が……。


 基本的にはひとつのボケ。それも大ボケではなく「ちょっとした違和感」程度。オープニングアクトにふさわしい上品なコント。


時をかける兵頭

 職場の先輩に後輩が誕生日プレゼントをあげる。お礼を言う先輩。なんのへんてつもないシーンだが、なぜか同じようなシーンが延々くりかえされる……。


 違和感だけが残る前半。後半の説明で前半の謎が解け、続きが気になる展開に。謎のちりばめかた、最小限の説明、そして何とも言えない絶妙なボケ。

 いやあ、これはロングコートダディらしさがあふれているなあ。ボケらしいボケがほとんどない。プレゼントの内容自体で笑いが起きるのだが、冷静に考えるとぜんぜんおかしなプレゼントじゃないんだよね。どっちもおかしな人じゃないしふざけてもいない。なのに絶妙におもしろい。

 この、説明のしようのない笑い。センスあふれるコントだ。


カットステーキランチ

 ファミレスで話すバイトの同僚。どうということのない職場のうわさ話なのだが、徐々に片方の価値観のずれが目立ってきて……。


 これまた大掛かりなボケはないものの、じわじわとおもしろい。「気にするところ、そこ!?」と言いたくなる。なのにコント中では誰も指摘しない。

 そして秀逸なのが、カットステーキランチの使い方。序盤のカットステーキランチがずっと気になってたんだけど、もっとも効果的なタイミングで登場。ほんとにファミレスでカットステーキランチが焼かれるぐらいの時間なのがたまらない。


ランプの精

 願いを三つ叶えてくれるランプの精を呼び出した男。彼の願いを聞いたランプの精はなんともいえない顔をして……。


 個人的にいちばん笑ったのがこのコント。男の倫理観や価値観が狂ってる。それも、わかりにくく狂ってる。わかるようでわからない。でもちょっとは理解できるのかなーとおもったら、やっぱり理解できない。

 コントや漫画で「三つの願い」って定番の設定だけど、キーとなるのはやっぱり「三つ」をどう使うか。三段落ちにするとか、一つめと二つめを三つめで使うとか、三つだからこその笑いを作らないといけない。
 その点、このコントでは「三つ」をうまく処理している。「三つめ」がアレだからこそ、男の狂気性がよりいっそう浮かび上がる。ディズニー版『アラジン』を観てからこのコントを観ることをお勧めします。


脱がせてもらっている時間は時間に含まれていないと思っていたでござる

 もうこれはタイトルがすべて。ほぼ出オチのコント。
 一分もないコントなので説明のしようがない。


魔物

 甲子園を目指すエースと、お互いに好意を持っているらしいマネージャー。地方予選決勝前日にいちゃついていたのが原因でエースが指を怪我してしまい……。


 十年ほどの時間の経過を見せてくれる、スケールが大きいようで小さいコント。「指の怪我をマネージャーに知られるとあいつが責任を感じてしまうから隠し通さないと」というエースの優しさが哀しい笑いを生む。


じごくトニック

 小説家が自殺をすると、そこに死神のような存在が現れる。死後の行き先は天国か、地獄か、はたまた転生か。転生先は選べないが、その三つのどれでも好きに選んでいいという。はたして男が選ぶのは……。


 三十分を超す大作コントだが、個人的にはあまり好きになれなかった。他のコントはどれも人生におけるある一瞬を切り取ったものだが、このコントだけは起承転結がしっかりしていてちゃんとした芝居である。それが逆に性に合わなかったというか、ロングコートダディにはもっと「人から見ればどうでもいいような一瞬」をすくいあげるコントを期待してしまう。

 個人的な好みの話になってしまうが、「単独ライブのラストに収められているちょっと人情的なコント」があまり好きではないのだ。ラーメンズのライブ『鯨』のラストである『器用で不器用な男と不器用で器用な男の話』はたしかに素晴らしかった。あの一作によって『鯨』というライブ自体がすごく引き締まった。ただそれは『器用で不器用な男と不器用で器用な男の話』が非常によくできたコントだったからである。

 特にオークラさん(バナナマンや東京03のライブにもかかわっている人)がその手のコントを好きらしく、彼が手がけたライブのラストはたいてい「しんみりコント」だ。もちろんその中にはたいへんすばらしい作品もあるが、中には「しんみりさせようとすればいいってもんじゃないよ」と言いたくなる作品もある。「ラストにしんみりするコントを入れておけば、観終わった後に『ああいいものを観た』という気になるだろう」という狙いが透けてしまうというか。ああいうのはたまにやるからいいのであって、毎回毎回松竹新喜劇みたいになられても「お笑い」を観にきている側としては醒めてしまう(松竹新喜劇観たことないけど)。

 そんなわけで、当然ながらラーメンズやバナナマンや東京03がコント界に与える影響はすさまじいものがあるから、昨今はなんだか「コントライブのラストは笑いあり涙ありの人情派コントにしなくちゃいけない」かのような風潮まで感じてしまう。考えすぎかもしれないが。

『じごくトニック』の話に戻るが、せっかくここまでナンセンスな笑いを披露してきたのに最後にストーリー性豊かなコントを見せられると「出来は悪くないんだけど今求めているのはそれじゃないんだよな……」という気になってしまう。




 なお、本編もさることながら幕間映像もおもしろかった。

 特に、堂前・ビスケットブラザーズきん・kento fukayaが18禁のゲーム『話れ』をやる映像は声に出して笑った。
「一生懸命話をしてくれていますが話が入ってきません。アイテムをゲットして話が入ってくるようにしよう!」というさっぱり意味のわからない説明でゲームがスタート。だが次の映像を観ると、一瞬にして説明の意味が理解できるようになる。

 すばらしくばかばかしい。18禁どころか、何歳でもアウトだろ、これは!


 他にも、YouTube動画の編集をする映像、『兎の好きな食べ物ランキング』、『阪本と中谷が近づいたらマユリカの漫才が聞こえてくる動画』などナンセンスな笑いに満ちた映像がたくさん。これに関しては、DVDでツッコミを入れながら観るほうがだんぜん楽しい。舞台で観たら「ツッコミたいけど声を出すわけにはいかない……」というもやもやが残りそうだ。




 全篇通してまずおもうのが、金と時間のかけ方が贅沢だということだ。

 たとえば『脱がせてもらっている時間は時間に含まれていないと思っていたでござる』なんて、そこそこ大掛かりなセットや衣装を用意しているが、コントの時間はおそらく1分にも満たない。セッティングや片付けのほうがはるかに長い。もちろんその時間は幕間映像でつないでいるけど。

 ふつう、これだけのセットを用意するのであれば、もっと展開を持たせて長いコントにしようとか、あるいは準備のコストに対して得られる笑いの量が見合わないからこのコントはボツにしようとか考えそうなものである。

 なのに、数十秒であっさり終わらせている。贅沢だ。

『厳格お父さん』も非常に短いし、『ランプの精』だってあんなにドライアイスをたく必然性はない。劇団四季ばりにふんだんにもくもくもくもくやっている。

 手間や金のかけかたと笑いの量が比例していなくて、そこがまた単独ライブらしくていい。いろんな芸人が出るライブでこんなことをやったらきっと怒られるだろう。

 この贅沢さ、現実的な枠組みにとらわれない、自由な発想ができるからこそなのだろう。「もったいない」ともおもうが、その贅沢さがなんとも上品。

 聞けば、ドリフのコントや、『ごっつええ感じ』のコントでも、たった数分のコントのためにものすごい金をかけて豪華なセットを組んだという。

 きっと、一流のクリエイターには、頭の中にビジョンがあるのだろう。そのビジョンに現実を近づけていく作業がコント作りなのだ。だから、観ている側にとっては「もったいない」とおもえるようなコストのかけかたになるんじゃないだろうか。想像上の絵を描くときに「ここにこんな建物があったら建築費が高くつくな」とはいちいち思わないのと同じで。


 ただ、気になったのが女装のクオリティ。『脱がせてもらっている時間~』と『魔物』で堂前さんが女装しているのだが、そのクオリティが低いのだ。まったくもって女性に見えない。ただカツラをかぶって女の服を着ただけ、という感じ。美人である必要はないけど、女性らしさがまったくない。

 いや、いいんだよ。コントだから女装のクオリティが低くても。バカリズムなんて女性を演じるときにカツラすらかぶらないし。
 ただ、ロングコートダディのは中途半端なんだよね。やらないんならやらないで「観客に想像させる」でいいし、やるならメイクとか小道具にもこだわって徹底的に女性らしさを出してほしい。半端な女装のせいでコントの世界に入りづらかったのが残念。ここはもっとコストをかけてもいいとこだとおもうぜ。


 どの作品もおもしろかった。でも、「お笑いDVDを観て大笑いしたい」という人には正直いってお勧めしない。爆笑するようなコントはほとんどないからだ。作品性は高いが、笑いを取りにいく姿勢はいたって控えめだからだ。

「じんわりおかしい」を味わいたい方にはおすすめ。



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