2022年1月11日火曜日

【読書感想文】『あやうしズッコケ探険隊』『ズッコケ心霊学入門』『とびだせズッコケ事件記者』

 中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想。

 今回は4・5・7作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら


『あやうしズッコケ探険隊』(1980年)

 子どもの頃に好きだったズッコケシリーズベスト3を選ぶなら、『うわさのズッコケ株式会社』『花のズッコケ児童会長』そしてこの『あやうしズッコケ探険隊』だ。

 中盤のズッコケシリーズは幽霊に取り憑かれたりタイムスリップしたりはては宇宙人に連れ去られたりとずいぶんぶっとんだ設定のものが多いが、ぼくは地に足のついた作品が好きだった。この『あやうしズッコケ探険隊』は、リアリティを持たせながらもわくわくさせる大冒険を見せてくれる。

 モーターボートで海に出た三人組。すぐ近くの島まで行くはずだったが、燃料がなくなったために漂流。そのうち救助されるさとたかをくくっていたらどんどん流され夜を迎える。翌朝、流れ着いたのは絶海の孤島。幸い三人組はこの島で生きていく決意をする……。

 当時はよくわかっていなかったが、細かい設定がしっかりと書かれている。愛媛県伊予灘から出航して漂流、そのまま太平洋に流されたと三人組はおもうが、じつは瀬戸内海をぐるぐる回っていただけで大分県・国東半島のすぐ近くの島だった。

 石川 拓治『37日間漂流船長』(感想)という本に、実際に漂流した人の体験談が出てくるが、ズッコケ三人組の漂流の様子もそのときの状況によく似ている。はじめはなんとかなるさとたかをくくり、助かるチャンスがあっても本気で手を打とうとはしない。そうしているうちにどんどん流されて取り返しのつかない事態になるところがまったく同じ。
『あやうしズッコケ探険隊』の漂流シーンはリアリティのある描写だったんだなあ。

 またハカセが太陽の南中高度や北極星の位置から緯度と経度を天測するシーン。小難しい上に長いので小学生のときは読み飛ばしていたけど、今読むとあれは必要な描写だったのだとわかる。あそこに十分ページを割くから「太平洋のど真ん中だ!」という勘違いに説得力が生まれるんだよね。まあ、おバカ小学生からすると太平洋も瀬戸内海も違いがよくわかんないんだけど。

 サザエやゆり根をとって食べたり、ゆり根から団子を作ったり、住居やトイレまで作ったりと、三人組のサバイバル生活はなんとも楽しそう。このへんは児童文学の都合のいいところで、苦労らしい苦労はほとんど書かれない。まあ三人組がサバイバル生活をしたのは実質三日ぐらいなので、水と食糧さえ豊富にあればキャンプみたいなもので楽しいかもしれない。

 無人島サバイバルだけでなく、もうひと展開あるのがいい。なんと島の中で三人組はライオンに遭遇するのだ。なぜこの小さな島にライオンが? そして出会った謎の老人の正体は? と、次々に新しい謎を提示してくる。さらに三人組はライオンを生け捕りにすることに……とハリウッド映画もびっくりの息もつかせぬ展開。

 ラストはすべて丸く収まり大団円となるのだが、とうとう最後まで老人がなぜ島にひとりで住んでいるのかがはっきりと書かれていないのが味わい深い。想像はさせる材料は与えるけど、はっきりとは書かない。文学だなあ。

 ところで、中盤に島の地図の挿絵が入ってるんだけど、そこに「老人の家」とか「助けの船がやってきたところ」とか書いてあるんだよね。まだ無人島だとおもっていたところなのに。地図をよく見たら「人が住んでいるのか」とか「船で助けが来るのか」とかわかっちゃう。挿絵でネタバレしちゃだめだよ。



『ズッコケ心霊学入門』(1981年)

 1970年代に心霊写真ブームがあったそうで、その流行りに乗っかった一冊。ハチベエが雑誌に投稿するために心霊写真を撮ろうと奮闘。空き家となっている屋敷で撮った写真には奇怪なものが写っており、さらに幽霊研究家の博士とともに降霊実験をおこなったところほんとうに怪奇現象が起こり……という話。

 ハチベエが使っているのはフィルムカメラ、しかも白黒カメラとなんとも時代を感じさせる。そもそも〝心霊写真〟が今となっては絶滅寸前だ。デジカメになってフィルムカメラのように光が入りこんだりピントがずれたりしにくくなったのと、誰でもかんたんに画像の加工がおこなえるようになったことで心霊写真の怖さがなくなったのだろう。

 この物語のキーマンとなるのが、四年生の浩介少年。おとなしいのになぜかハチベエになついていて、俳句好きという個性的な少年だ。
 屋敷についている地縛霊だとおもっていたのが、浩介のマンションでも異常な現象が次々に起こりはじめる。じつは浩介の潜在能力によって引き起こされたポルターガイスト現象だということをハカセが「ヘビの種類やサイズ」をヒントに見破る。ここまではおもしろい。

 だが、その後がなんとも残念。三人組が超常現象を解決するのではなく、三人がいないところで精神科医が解決してしまうのだ。三人組は「もう手を打ったから安心だよ」と聞かされるだけ。えええ……。『幽遊白書』の魔界統一トーナメントかよ……。
 この尻すぼみ感ったらない。「もう解決しときました」と聞かされるだけだなんて。せっかくハカセが原因を突き止めたのに、それが治療に活かされていない。

 他にも、空き家の主人がすんなり降霊実験の許可を出してくれたり、悪霊が霊媒の身体に入りこむという危険な降霊実験なのに小学生の参加が許されたり、非科学的なことは信じないはずのハカセが幽霊博士が出てきたとたんころっと信じたりといろいろと粗の目立つ作品。



『とびだせズッコケ事件記者』(1983年)

 クラスの各班で壁新聞をつくることになり、ハチベエ・ハカセ・モーちゃんの三人は新聞記者に抜擢(というか押しつけ)される。

 前半は行動力あふれるハチベエの本領発揮、といった感じ。自分で名刺を刷り、ひとりでお寺に取材に行って談話をとってきたり、交番に突入して警官に名刺を渡したり。なんともたくましい。
 そういや小学生のときって、金にもならないことでめちゃくちゃがんばってたなあ。目の前のことに全エネルギーを注げるのって小学生の特権かもしれない。
 これが中学生になると照れが出てくるだろうし、小学校低学年だとここまで行動範囲が広がらない。小学校高学年という設定がここで活きている。

 ただ事件記者としての活躍を描くだけでなく、記者になったハチベエが私憤を晴らすための記事を書いたり、起こった出来事をおもしろく見せるために針小棒大に書いたりするところはさすがズッコケ。権力を手にしてえらそうにふるまう報道機関に対する風刺も効いている。


 小学生のときは気付かなかったが、今読むとおもしろいのはハチベエの班の班長・金田進の中間管理職っぷり。

 ハチベエをおだてて記者をやらせ、(書かれてはいないけどおそらく)編集会議では女子の言うことに賛同し、こっそりハチベエの記事の扱いを小さくする。ハチベエに文句を言われたら「おれはおもしろいとおもったんだけどなあ」と保身に走り、先生に褒められたら「八谷くんのおかげです」と手柄を譲る。調整役としての立ち居振る舞いが見事。こういう男子は稀少だ。

 もうひとり、重冨フサというコミカルなキャラクターが出てくる。通称、探偵ばあさん。推理小説が好きで、近所のうわさに精通していて、何にでも首をつっこむ人騒がせなばあさんだ。

 なかなか魅力的な人物で、ラストは三人組がこのばあさんの命を救うのだが、終盤でばあさんの台詞がないのが寂しい。助けてもらって感謝しながらも憎まれ口のひとつも叩く、といったシーンがほしかった。


  記者になったハチベエが張り切る
→ モーちゃん、ハカセも記者になり、三人が奮闘
→ だがおもったような成果を上げられずすっかり自信をなくす
→ 人命救助により一躍ヒーローに

と、絵に描いたような起承転結ストーリー。
 それぞれ追いかける記事が、ハチベエは恋愛ゴシップ、モーちゃんはグルメ記事、ハカセは重厚な歴史レポートってのもいいね。三人のキャラクターがよく出ていて、これぞズッコケ三人組という感じのお話だった。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』


 その他の読書感想文はこちら



2022年1月7日金曜日

満員電車で立っていて、眼の前の席が空いたのに座るわけでもなく移動して他の人が座りやすいようにするわけでもなくただそこに立ちつづけて他人が座るのを妨害する人間の思考


 おっ、目の前の席空いた。

 右のおっさん座りたそうだな。左のねえちゃんも座りたそうだな。

 だがダメだ! おれは立つ! だからおまえらも立て!


 おれはダイエット中だから座らない。電車内で立っているだけダイエットだ。

 でも、おれだけがつらい思いをするのは嫌だ。できるだけ多くの仲間がほしい。

 だからおれは席には座らんが、その前に立ちはだかって他の人が座るのも妨げる!


 よく見たら隣のねえちゃん、鞄にマタニティマークつけてるじゃないか。

 さすがのおれも心が痛む。

 だがここが我慢のしどころだ。おれは耐える。苦しいけど、座らない。苦しいけど、空いてる席の前に立って他の乗客の邪魔をする。


 わかってる。おれが右か左にちょっと移動すれば他の人が座れる。

 そうでなくても、おれが座ればその分スペースが空くからこのぎゅうぎゅう詰めがちょっとは緩和される。

 周囲の誰もが「あいつ座らないんだったらどけよ。どかないんだったら座れよ」とおもっているにちがいない。それはわかっている。

 でもおれは座らないし移動もしない。

 なぜなら、ただただ空席の前に立ちつづけて他人が座るのを妨害することこそおれの悦びだからだ!



2022年1月6日木曜日

価値観がちがう人

 今までに出会った、価値観がまったくちがう人。


1.皿を捨てる人

 家に、陶器やプラスチックの食器が一切なかった。紙皿と紙コップのみ。一度使ったら捨てるとのこと。

「環境にやさしくないな」と言ったら、「水も洗剤も使わないから環境にいい」とうそぶいていて、ふしぎな説得力があった。

 たしかに良心さえ傷まなければ合理的な方法かもしれない。皿が割れたり、食洗器や洗剤を買ったり、皿洗いに時間をかけたりすることを考えれば、紙の食器を使うのもコストはあまり変わらないかもしれない。

 でもぼくにはできない。やっぱり胸が痛む。


2.コーラを箱で買う人

 家にコーラの箱があった。1.5リットルのペットボトルが冷蔵庫にぎっしり詰まっていた。

 ぼくはコーラをまったく飲まないので、コーラを大量に買う人の気持ちが理解できない。食事中の飲み物も必ずコーラだと言っていた。毎日一本以上消費するらしい。ONE PIECEのフランキー並みの消費スピードだ。


3.デアゴスティーニを買う人

 そりゃまあ買う人がいるから商売が成り立つわけだけど、あれを買う人の気持ちが理解できない。一括で買った方が圧倒的に安いし。

 この人は車も必ずローンで買うと言っていた。ローンで買って、返しおわる頃にまたローンを組んで車を買い替えるのだそうだ。

 払わなくてもいい金ばかり払ってる。致命的に買い物が下手なのだ。こういう人がいるからリボ払いが成り立つんだろうな。


4.給料日前にかつかつになる人

 決して少なくないけど、存在する。「あと○円で○日過ごさなきゃいけないんですよー」って人。

 ぼくにはまったく理解できない。給料が少なくて食うや食わずの生活を送っているならしかたないが、遊びに行ったり飲みに行ったり趣味にお金を使ったりしていてこうなる人の気持ちが理解できない。
 一ヶ月だけ我慢してちょっと貯金をつくれば、給料日前にひもじいおもいをしなくて済むじゃない。ま、でもこういう人は貯金があればすぐ使っちゃうんだろうな。

 心配症で、常に余分なお金がないと不安になるぼくとしては信じられない。

 そういや本屋で働いてたとき、五百円ぐらいの雑誌を買う際に「クレジットカードの分割払いで」って言ってきた客がいた。信じられん。そんなに金ないなら雑誌なんか買うな。


2022年1月5日水曜日

人を人とも思わない

 前いた職場のY部長の話。

 Y部長は切れ者だった。いつでも冷静。どんなときでも落ち着いた話し方をし、理路整然と語る。また理解も早い。一を聞いて十を知るとは彼のような人のことをいう。
 理不尽に部下に当たるようなことはない。しかし厳しさも持ち合わせていて、感情を昂らせることはないものの、不出来な部下にはこんこんと理詰めで説教をするような人だった。

 当然ながら上司からも部下からも信頼が厚く、Y部長は支部長としてオフィスに数十人いたパート社員をまとめる役目を任されていた。

 ほとんどパート社員は小さい子を抱えているので、子どもが熱を出して休むことなど日常茶飯事。それでもY部長は嫌な顔ひとつせず、てきぱきと指示を出して仕事を割り振る。パート社員からの苦情や要望も丁寧に吸い上げ、大きなトラブルなく業務をこなしていた。


 ある年の忘年会のとき。
 ぼくはY部長の隣の席になった。ぼくはY部長を立派な人だとおもっていたので、素直に褒めた。

「Y部長はすごいですよね。あれだけの部下を抱えていて、パート社員の管理もきちんとしていて。誰からも信頼されてますしね。Y部長のことを悪く言う人はいませんよ」

 すると、Y部長は「ありがとうございます」と微笑みを浮かべながら、こう言った。

「でもねえ。私は、パートの名前をぜんぜん覚えてないんですよ」


 え? え?

「でもY部長、いろんなパートさんと話してるじゃないですか。仕事を依頼することもあるでしょうし」

「いやあ、でもひとりひとりの名前なんかおぼえてませんよ。名前おぼえてなくても仕事の依頼はできますしね」

「いやでも何度も顔を合わせていたら自然におぼえません?」

「おぼえませんね。関心がないんで。パートの名前なんか知る必要ないでしょ

 そう言って、Y部長はにっこりと笑った。


 こ……こえー!

 この人、誰に対しても人当たりがいい人だとおもってたけど、「誰にも興味ない人」だったのか……。



 とはいえ。

 それから十年ほどたった今、ぼくはY部長の気持ちがちょっとわかる。

 ぼくは転職を機に、職場での人間付き合いを大きく減らした。といってもべつに「人と関わるのはよそう!」と決意したわけではない。前の職場では、やれ忘年会だ、やれ送別会だ、やれバーベキューだ、やれ朝礼だチーム会議だ全社会議だとなにかと濃密な人付き合いを要求されていたが、今の職場では「こなすべき仕事さえやっていればいい」という風土だ。社員全員参加の飲み会は年に一度の忘年会だけだし、それすらも「子どもをお風呂に入れないといけないので」という理由で断ったらそれ以上しつこく誘われることもなかった。たいへんありがたい。

 前の職場ではたいてい誰かとランチを食べに行っていたのだが、今の職場だとみんなばらばらに食べる。ぼくは自席でパソコンや本を見ながらおにぎりを食べる。同僚とは、仕事以外の話はほとんどしない。だから彼らが休みの日に何をしているのか知らないし、彼らもぼくのオフの生活を知らない(はずだ)。


 人付き合いを減らした結果、ストレスも大いに減った。
 結局ストレスなんてものはほとんどがつきつめれば人間関係に由来するものだ。人との付き合いを減らせばストレスは減る。

 人と人との付き合いをすれば、好き嫌いの感情も湧くし、期待もする。期待をすれば裏切られることもある。
 一方、電車でたまたま隣り合わせた人であれば、よほどのことがないかぎりは腹が立つこともないし失望することもない。電車でたまたま隣り合わせた人のことはほとんど人とおもっていないからだ。物体である。物体に腹を立てることはあまりない。急な雨でずぶ濡れになったからといって雨に対して怒ったりしない。

 人付き合いを減らせばストレスが減る。ストレスが減るから人に優しくできる。なにしろ興味がないのだから。そのへんにある物体をいちいち壊しながら歩かないのと同じだ。


 ってことで「優しい人」は、じつは「人を人とも思わない人」であることが多いんじゃないだろうかとおもう今日この頃。


2022年1月4日火曜日

【読書感想文】阿佐ヶ谷姉妹『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』

阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし

阿佐ヶ谷姉妹

内容(e-honより)
40代・独身・女芸人の同居生活はちょっとした小競合いと人情味溢れるご近所づきあいが満載。エアコンの設定温度や布団の陣地で揉める一方、ご近所からの手作り餃子おすそわけに舌鼓。白髪染めや運動不足等の加齢事情を抱えつつもマイペースな日々が続くと思いきや―。地味な暮らしと不思議な家族愛漂う往復エッセイ。「その後の姉妹」対談も収録。

 正月に帰省した折、母に「最近おもしろかった本ない?」と訊くと、「最近は阿佐ヶ谷姉妹にはまってる」と言われ、この本を手渡された。

 女性コンビ芸人である阿佐ヶ谷姉妹(を名乗っているが姉妹ではない)が交代でつづったエッセイ。

 そういや阿佐ヶ谷姉妹の生活がNHKでドラマ化されたと聞く。ドラマは観ていないが、おもしろいと評判だ。

 タレント本はあまり手に取らないが、阿佐ヶ谷姉妹はなんとなく気になる存在だ。




 なぜ阿佐ヶ谷姉妹が気になるのかというと、芸能人特有のギラついた感じがないからだ。

 芸人にかぎらず、役者でも歌手でもアナウンサーでも、テレビにいる人からはたいてい「おれの才能を見せつけてやろう」「チャンスをつかんでのしあがってやろう」という野心を感じる。

 べつに悪いことではなく、野心がなければ狭き門に向かって努力を続けなければテレビに出続けられるような人にはなれないのだから当然だ。

 ところが阿佐ヶ谷姉妹からはそういったギラつきを感じない。もちろんそう見えているだけで彼女たちだって野心はあるだろうし努力もしているのだろうが、観ている側にちっともそれを感じさせない。ほんとに、そのへんにいるおばさんのたたずまいなのだ。前に出る機会があっても「あたしは遠慮しときます」と一歩下がるタイプのおばさん。まず芸能界にはいないタイプだ。

 いったいどうして彼女たちが芸人を目指すことになったのだろうとずっとふしぎだったが、この本に少しだけ答えが書いてあった。

 まだ阿佐ヶ谷姉妹を始める前、姉と川秀さんに行った時、ご主人から「2人は似ているけど姉妹なの?」と聞かれ、似てますけどお友達なんですと言うと、そんなに似てるんだったら、阿佐ヶ谷に住んでいる姉妹みたいな2人、「阿佐ヶ谷姉妹」という名前で何かやったらいいのにと言われ、姉がやっていたブログに阿佐ヶ谷姉妹に何かご用命ありましたら、と書いたら、最初にお笑いライブへのお誘いがきたので、まあ1回だけならと軽い気持ちで出演したのが始まりでした。
 なので、ご主人に名付けてもらわなかったら、阿佐ヶ谷姉妹は生まれなかったのです! 不思議なものでございますね。

 なんとも人を食ったような経歴だ。今テレビに出ているお笑い芸人で、赤の他人から「お笑いやりませんか」と言われて芸人になった人は他にいないだろう。

(とはいえその前は劇団の養成所で役者をめざしていたらしいので、彼女たちにもちゃんと野心があったのだ)




 テレビでのたたずまい同様、エッセイも力が抜けている。

 一生懸命書いているらしいが(エッセイのネタがなくて苦労しているという話がよく出てくる)、それにしてはたいしたことが書いていない。いや、いい意味でね。

 仮にもテレビに出る芸能人をやっているのに、こんなすごい経験をしたとかこんなめずらしい場所に行ったとかの話はまるでなく、半径一キロメートルぐらいの日常しか出てこない。そういうコンセプトのエッセイだからなんだろうけど、それにしても地に足がつきすぎている。西友でこんなものを買ったとか、商店街の人からこんなものをもらったとか、自宅でこんな動画を見ているとか。話が阿佐ヶ谷から出ない。

 それも、ショッキングな出来事とか貴重な体験はまるでなく、そのへんのおばちゃんをつかまえて一年間エッセイを書いてもらったらこんな内容になるだろうなーというぐらいの話だ。

 文章からも「おもしろい文章を書いてやろう」というケレン味をまるで感じない。インターネットにおもしろおかしいコンテンツがあふれている今、それがかえって新鮮だ。

 書かれているのはなんとも平凡な日常なのだが、それがいい。「阿佐ヶ谷姉妹にはこういう人であってほしい」というこちらの願望そのものの生活だ。
 やらしい話だけど、テレビに出演する機会も増えて、稼ぎもなかなかのものだろう。それでもこのエッセイから伝わってくるのは「年収200万円ぐらいの人の生活」だ。どれだけ売れてもこの阿佐ヶ谷姉妹でいてほしい。というよりあまり爆発的に売れないでほしい。勝手な願いだけど。




 平々凡々とした日々がつづられるけど、第3章の『引っ越し騒動』でほんの少しだけ様相が変わる。

 6畳1間に同居していたふたりが、ついにそれぞれの部屋を求めて(とはいえ探すのは2DKでやはりいっしょに暮らせる家)阿佐ヶ谷の物件めぐりをはじめる。

 気合が入っているのか、テンションも高めだ。

 続いて伺ったのは閑静な住宅が立ち並ぶ南口。ベランダにも両部屋から出られて、過ごしやすそう。ただ、なぜか玄関のドアが、塗り直したのか内側だけすごく水色。みほさんは、「私は水色、大丈夫ですけど」とこれまた高らかに宣言。
 さてベランダに出てみると、2人の視界のすぐ先に、とある大学の有名相撲部のお稽古場が見えました。日も暮れかかった時間に、うっすら見える干されたまわし達。まわしもお相撲も嫌いではないけれど、あちらのまわしがこちらから見えるという事は、あちらから見ようとしたら、こちらのまわし的なものも見えてしまうのではないかしら。いや、こちら側のまわし的なものって何? という問いはさておき結局こちらも保留に致しました。

 だが、あちこち物件をまわったもののいろいろ欠点が目について決められず、「今の家がいいのよね」となってしまう。

 このあたりの心境、よくわかるなあ。ぼくもそういうタイプだ。妻も同じタイプなので、何度家探しをして「うーん、もう少し今のとこでいっか」となったことか。

 結局阿佐ヶ谷姉妹は引っ越し先が決められず、隣のワンルームが空いたのでそこも借りてお隣同士で暮らすことになる。今なら余裕でもっといいマンションにも住めるだろうに、それをしないところが阿佐ヶ谷姉妹の魅力なのだ。




 見た目はよく似ているのでちがいもよくわからなかった阿佐ヶ谷姉妹だけど、このエッセイを読むとふたりの性格の違いがよく見えてくる。

 細かいことを気にするけど忘れ物も多い江里子さんと、思い切りがよくてマイペースな美穂さん。

 この文章にも、江里子さんの人柄がよく表れている。いっしょに食事をしたときに、みほさんが自分の分のシチューしか持ってこなかったときの話。

 2人の部屋からみほさんの部屋になったとて、間取りは変わらず6畳1Kの狭い部屋です。コタツから立ち上がり、シチュー鍋まで5歩。自分の好きな分をよそって、また5歩。おそらく何カロリーも使わぬ動作で、シチューをゲットできます。いい歳をした女が、「なぜシチューをよそってくれないの」と、同じ位いい歳をした女につっかかるなんて、何だかあまりに器の小さい人間のようで言葉に出せず。普通に自分でよそってきて、普通のやりとりをして、ごちそうさまをして、隣の部屋に戻りました。
 自分の部屋に戻ってから、何だか無性に切ない気持ちになってしまいました。理由は間違いなく「シチューをよそってもらえなかった」という1点。こんな小さな事に引っかかっている自分も情けないのだけれど、どうにものどに刺さったお魚の骨のように、気にかかってしかたないのです。

 しばらく、みほめ~あの冷血人間め~なんてカリカリしていましたが、こう考え始めました。「私だったら、持ってくるけど」という考え方が違っているのかしら。
 私がそうしているから、あちらにもそうしてもらえるものだと思っている所から、ものさしが狂い始めるのかも、と。
 実際夫婦でも家族でもない2人が、たまたま生活様式を共にしているだけで、本来は個個。むしろ、私がみほさんにしている事は、頼まれてやっている事でもなく、こちらがよしとしてやっている事なのだから、それを相手に勝手に求めて勝手に腹を立てたりするのは、変な話で。やってもらう事は「必須」でなく「サービス」なのだ。そう思うと、落ち着いてきました。

 このエッセイを読んでいるとよくわかる。江里子さんはこういうことをいつまでもくよくよと考えているタイプで、美穂さんはたぶん気にしていない。たぶん「たまたま忘れていた」とか「なんとなくめんどくさい気分だった」とかで、深い意図があったわけではない。でも江里子さんは気になる。

「あたしの分は?」と訊けばいいのに、タイミングを逃してしまうともう訊けない。だったら気にしなきゃいいのに、気にしてしまう。余計な勘繰りで疲れてしまう。

 たぶん誰しも同じような経験があるだろう。
 ぼくも結婚生活を十年続ける中で何度も経験した。江里子さんは「夫婦でも家族でもない2人が、たまたま生活様式を共にしているだけで、本来は個個」と書いてるけど、夫婦だって同じだ。しょせんは他人。

 相手のちっちゃい行動が気になる。でもちっちゃいことだからこそ、余計に言えない。言えば「そんな細かいこと気にするなよ」とおもわれそうで。

 でもこういうのって、「言う」か「忘れる」のどっちかしかないんだよね。相手に察してもらうなんて無理だから、自分が変わるしかない。

 同居生活でうまくやっていく秘訣は「相手に心の中で求めない」だよね。つくづくおもう。


【関連記事】

くだらないエッセイには時間が必要/北大路 公子『流されるにもホドがある キミコ流行漂流記』【読書感想】

紙の本だから書けるむちゃくちゃ/島本慶・中崎タツヤ『大丈夫かい山田さん!』



 その他の読書感想文はこちら