2021年1月22日金曜日

【読書感想文】江戸時代は百姓の時代 / 渡辺 尚志『百姓たちの江戸時代』

百姓たちの江戸時代

渡辺 尚志

内容(e-honより)
江戸時代の人口の八割は百姓身分の人々だった。私たちの先祖である彼らは、何を思い、どのように暮らしたのだろうか?何を食べ、何を着て、どのように働き、どのように学び、遊んだのか?無数の無名の人々の営みに光をあて、今を生きる私たちの生活を見つめなおす。

 江戸時代の人々、と聞いて我々がイメージするのは将軍、武士、商人、町人などが多い。歴史の教科書でも時代劇・時代小説でも舞台になるのはたいてい町か城。農村が舞台になることはほとんどない。
 庶民の娯楽である落語でも、農村が出てくるのは『池田の猪買い』『目黒のさんま』などほんのひとにぎりの噺だし、それらも主役は町人や武士であって百姓は脇役だ。

 だが江戸時代、人口の八割以上は農民だった。江戸時代の庶民とはつまり、農民なのだ。我々も祖先をたどればほぼ間違いなく百姓にいきあたるだろう(ぼくは二代前であたる)。

 圧倒的多数が農民であったにもかかわらず、ぼくらは江戸時代の農民の暮らしを知らない。
 小学校の社会の教科書に「千歯こきなどの道具が広まって農業が便利になった」とか書いてあったぐらい。あとは「飢饉のときは娘を売った」「厳しい年貢の取り立てで食うや食わずの生活を送っていた」「米などめったに食えずあわやひえを食っていた」といった〝過酷な生活〟のイメージしかない。




『百姓たちの江戸時代』では、当時の文献をもとに江戸時代の農民の生活を暮らしをしている。

 この本によると、一般的なイメージよりずっと豊かな生活が浮かびあがってくる。
 けっこう米を食べていた。頻繁に貨幣を使って買物をしていた。農業だけでなく金融や投資で稼いでいる農家もあった。寺子屋で勉強して読み書きのできる農民も少なくなかった。

 意外といい暮らしをしている。

 信濃国(今の長野県)の農家であった坂本家という家の文書によるデータ。

 坂本家の年中行事と交際をみましょう。元旦に賽銭の記載があり、行き先は不明ですが初詣に行っています。年始・年玉の記載もありますが、数は多くありません。年始には、柿やするめを持参しています。二月には、初午(二月の最初の午の日に、稲荷社で行なわれる祭り)・二ノ午への小遣いがあります。桃の節句には、離・離菓子を買い、文政八年(一八二五)には、離餅を作って、他家にも配っています。また、慶応元年(一八六五)には、端午の節句のために、五月三日に飾り鯉一枚を買っています。一二月には、歳暮・門松・羽子板を買っている年があり、海老や田作を買っているのも正月用でしょう。餅は、文政七年(一八二四)一二月に餅米四斗、粟四升、文政八年末に餅米三斗二升、餅粟四升をついています。今日につながる、各種の年中行事が行なわれていたのです。

 この坂本家は村の中ではトップクラスの裕福な農家だったらしいが(収支を記録して文書にして残しているぐらいだから当然だ)、とはいえ桁外れな金持ちというほどではなく、村に数軒あるレベルの家だった。今でいうなら年収1000万ぐらいの層だろうか。

 これを見ると、けっこう生活に余裕があるなという気がする。雛人形や鯉のぼりや羽子板や、季節ごとの食べ物といった縁起物を頻繁に買っている。

 さらに坂本家では農地を人に貸して小作料をとったり、農具や種子や馬を売買したり、お金のやりとりを頻繁にしている。
 江戸時代というと遠く離れた昔という気がするが、じっさいは百年前(大正時代)の農村とそう変わらない生活をしていたのかもしれない。

 都市の生活は近代以降で一変しただろうが、農村の暮らしはあまり変わっていないかもしれない。ぼくの父(昭和30年生まれ)も家で牛を飼ってたらしいし。




 江戸時代の土地・財産に関する考え方について。

「どの農家にも、先祖から譲り受けた耕地や財産がある。それらを自分の物だと思うことは、最大の誤りである。ゆめゆめ自分の物だとは思うな。それらは、家を興した先祖の耕地・財産であって、先祖からの預かり物である。大切に所持して、子孫に伝えるべきだ。……家の先祖は主人、現時点での家長は手代・番頭のようなものだ。時の家長は、主人の宝を預かって家を経営しているのであり、生涯に一度は功績を立てて家を発展させることが、父母・先祖への孝となるのだ」(『農業要集』)。
「家督相続について。先祖より代々伝わった家財・田畑・山林などは、皆預かり物である。預かり物はすべて大切に手入れし、損じた品は補充し、一品たりとも不足のないようにして子孫に譲るのが、家長の第一の務めである」(『吉茂道訓』)。
 以上の例からわかるように、江戸時代においては、村の耕地は個々の家のものであると同時に村全体のものでもあり、耕地の所有は村によって強い規制を受けていました。百姓たちは、土地を排他的・独占的に所持しようとするのではなく、村に依拠し村の力に支えられつつ所持地を維持していこうと考えていたのです。
 こうした土地所有のあり方は、近代以降のそれとは大きく異なっています。しかし、多くの百姓たちは、自分の所持地について独占的な権利を主張するだけでは所持地を維持していくことは難しいと考えていました。他者を排除して土地を囲い込むことだけを考えていては、経済的困難から所有権を手放さなければならないような危機的状況におかれたとき、誰も助けてはくれません。逆に、共同所有(共有)と個別所有(私有)が重なり合ったような江戸時代の所有形態であれば、個々の百姓が困窮したときには村が援助してくれます。そこで、江戸時代の百姓たちは、前記のような所有のあり方を主体的に選択したのです。
 われわれは、他者を完全に排除するほど所有権が強固になると考えがちですが、江戸時代の百姓たちは、村の共同所有のもとで、村の保護と規制を受けたほうが、家の所有権が確かなものになると考えました。村、すなわちほかの村人たちの総意を受け入れるなかで、自家の永続を目指したのです。個と集団の共生の思想だといえるでしょう。

 村に所属する家が、家や田畑を村外の人間に勝手に売ってはいけないことになっていたそうだ。

 この考え方、非合理的なようですごく理にかなった考えかもしれない。

 資本主義社会では、基本的に「取引は自由である」という考えにのっとって動いている。当事者間の同意さえあれば、法に触れないかぎりはどんな契約をしても自由。
 資本主義社会では「個人の土地売買を村が制限する」ことは、自由な取引を阻害するものとして悪とみなされる。

 だが、自由な取引がおこなわれた結果どんな世の中になったかというと、富める者がますます富み、貧しい者はどんどん奪われる社会だ。当然だ。「なくなっても生活に困らない金がふんだんにある者」と「明日の生活に困っている者」が対等の契約を結べるわけがないのだから。

 たとえば古い商店。商店街組合に属していて、何をするにも組合のお伺いを立てないといけない。他との兼ね合いもあるので勝手に安売りをすることもできない。不自由だ。
 ところが組合がなくなって競争が完全自由化されると、大手資本のショッピングモールがやってきて、資本にものをいわせた価格と品揃えで古い商店を軒並みつぶしてしまう。
 これと同じことが様々な業界でおこなわれている。小資本は根こそぎつぶされて、大手資本の言いなりになる以外の生きる道は絶たれてしまう。

 消費者にとっては一時的な恩恵があるかもしれないが、総収入が減ることは長期的には損だ。生産者もまた消費者なのだから。

 カルテルやギルドは不自由だが、すべてのメンバーが長期的に繁栄していくためには必要なものだったのだ。


 斎藤 貴男『ちゃんとわかる消費税』という本に、こんな一節があった。

航空機のキャビン・アテンダント(CA)が真っ先に契約社員に切り換えられていきました。もちろん当事者は怒ったけれど、世間は「企業にとってよいことなら労働者にとってもよいはずだ」というように受け止めたのです。
 これは労働組合のナショナルセンターである連合の人に聞いた話ですが、最初がキャビン・アテンダントだったことには大きな意味がありました。他にも、早くから派遣に切り換えられていったのは、女性の、当時で言うOLたちでした。男性の仕事はすぐには派遣にならなかった。今は性別に関係なくどんどん派遣や請負に切り換えられてしまっていますが、あの頃の連合は、女性について「主たる家計の担い手ではない」という古い認識から離れられずにいたのです。連合の組合員の圧倒的多数は大企業の男性正社員でしたから、「女性の労働者がいくら非正規になったところで関係ないし、社会全体にとってもたいした影響はないだろう」と放置してしまっていた。ところが、次第に製造業に派遣が広がって、主たる家計の担い手であった男性も同じような目に遭っていきます。新自由主義の搾取のスタイルに当事者として被害を受けるようになるまでは、労働組合も問題の所在に気づくことができなかったわけです。

 規制緩和がなされれば、当初は「ごく一部の人だけが大きく損をして、他の人たちはちょっとだけ得をする」んだよね。
 だから「規制緩和だ」「既得権益をなくせ」という為政者に民衆は喝采を送る。
 だが、はじめはごく一部だった「大きく損をする人」はどんどん広がる。CAだけだった派遣労働者が、他の業界にも拡がっていったように。


 様々な規制緩和の結果、日本の財産(土地とか労働とか種子とか水とか流通とか)はどんどん海外に売られている。

 江戸時代の農村のような「村人の財産は村のもの」という考えを守っていれば、防げていたかもしれない。今さらもう遅いのかもしれないけど。


 江戸時代の農村のやりかたのほうが百パーセントいいとは言わないけど、古くからあった(一見無駄な)システムには合理的な理由があると気づかされる話だ。


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2021年1月21日木曜日

いちぶんがく その3

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



「悪者退治をしたくてうずうずしてるやつらはわんさといるんだから、そいつらが大挙して押し掛けてくるよ」


(星野 智幸『呪文』より)




「イラクでのAV撮影」という、現地で死刑になってもおかしくないような仕事の依頼もあった。


(雨宮処凛『「女子」という呪い』より)




砂糖を腹一杯食べているアリを捨てる手があるか?


(高野 秀行『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』より)




事件後、彼らの暮らしていた部屋のベランダに置かれた洗濯機には、脱水をかけられたままの洗濯物が残されていたという。


(吉田 修一『女たちは二度遊ぶ』より)




二回目の西洋トイレの試みはさらに難解で、意表を突いたディズニーランドだった。


(M.K.シャルマ(著) 山田 和(訳)『喪失の国、日本 インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』より)




「あいつら人間の内側を金に変えよる」


(塩田 武士『騙し絵の牙』より)




ポケットにつっこんでいた手がマッチに触れたとたん、ぼくにはすばらしい思い付きが生れた。


(加賀 乙彦『犯罪』より)




20歳以上サバを読んでる人との会話ってものすごい大変だということを知った。


(田房 永子『男しか行けない場所に女が行ってきました』より)




お袋の口から出てくるべき音じゃないと思った。


(いとうせいこう『想像ラジオ』より)




「どう見ても、瓶の口が仔猫の頭よりも小さいのに、どうやって入れたっていうの?」


(道尾 秀介『向日葵の咲かない夏』より)




 その他のいちぶんがく



2021年1月20日水曜日

【読書感想文】原発事故が起こるのは必然 / 堀江 邦夫『原発労働記』

原発労働記

堀江 邦夫

内容(e-honより)
「これでは事故が起きないほうが不思議だ」。放射能を浴びながらテイケン(定期点検)に従事する下請け労働者たちの間では、このような会話がよく交わされていた―。美浜、福島第一、敦賀の三つの原子力発電所で、自ら下請けとなって働いた貴重な記録、『原発ジプシー』に加筆修正し27年ぶりに緊急復刊。


 いい本だった。ものすごく読みごたえがある。これぞプロレタリア文学、という読後感。

 著者は1978年から1979年にかけて美浜原発(福井県)→福島第一原発(福島県)→敦賀原発で働き、その体験記を『原発ジプシー』として発表。絶版になっていたが、2011年の福島第一原発事故を受けて内容の一部を削除して再刊したのがこの本だ。


 2011年3月の東日本大震災の影響で福島第一原発で事故が起こったことはみんな知っているだろう。
 ぼくは「想定を超える大きな地震と津波が起きたせいで事故が起こった」とおもっていた。だが『原発労働記』を読んでその認識は変わった。たしかに地震と津波は事故の引き金になったが、もし地震が起きていなくてもいつか必ず事故は起きていただろう。




 実際に現場で働く労働者から見た『原発労働記』を読むと、その安全管理の杜撰さに驚かされる。

 作業は、線量の関係でもう従事できないと言われていた「雑固体焼却助勢」。計画線量が当初の一○ミリレムから、三倍の三○ミリレムに引き上げられたという。実際に浴びた線量が計画線量をオーバーしかけると、その労働者を作業から外すのではなく、逆に、計画線量のほうを上げてしまう……。所詮、「計画線量」とは、この程度のものでしかないのだろう。
 木村さんが「IHI」(石川島播磨重工)の下請労働者として福島原発で働いていたときのことだ。そこの労働者たちは、現場に着くとポケット線量計やアラーム・メーターなどをゴム手袋に詰め、それをバリア(木製の箱)の下に隠してから作業にとりかかっていた。五〇ミリレムのアラーム・メーターが一〇分で〝パンク〟するような高線量エリアで、一時間から二時間の作業。が、ポケット線量計の値は、二〇~五〇ミリレム程度。彼らはその値を一日の被ばく量としてそのまま報告していたという。
「最初はオレだって、そんなことやらなかったよ。でも、みんなやってるんだし……。会社の者もなにも言わんしねえ」

(注:100ミリレムは1ミリシーベルト)

 こんな話ばかり出てくる。
 電力会社は「厳しい基準で運用されているのでぜったいに事故が起こることはありません」と主張している。たしかに厳しい基準はある。だが、問題は現実にその基準が守られていないということだ。

「一定以上の被曝をした労働者は働けない」というルールを作ったって、
「あと五分だから」「せっかく来てもらったのに追い返すわけにはいかないから」「人手が足りないから」となんのかんのと理由をつけて破られる。
『原発労働記』には、

「検査の結果、基準値を上回ったから何度も検査を受けなおさせる。基準値を下回るまで再検査をする」

「放射能測定器が壊れていたから基準をオーバーする放射能を被曝してしまったが、そのまま報告すると始末書を提出しないといけないので嘘の数値を書くように指示された」

「息苦しくて作業にならないので全員規定のマスクを取って作業している」

「急に汚染水があふれたから防護服を着ないままあわてて水をかきだした」

といったエピソードがくりかえし語られる。
 めちゃくちゃ杜撰だ。これでよく「原発は安全です」なんて言えたものだ。


 原発に限らず、どんなルールもどんどんゆるくなるのは世の習わしだ。当初に作ったルールが何十年も厳密に守られることなんてない。まして現場を知らない人間が作ったルールなんて。

 今の新型コロナウイルス対策だってどんどん基準がゆるくなっている。当初は「〇人以上の新規感染者が出たらレッドゾーン」みたいなことが言われていたのに、感染者数が増える一方だからその基準はどんどんゆるくなり、とうとう最近では国や都道府県は明確な数字を言わなくなった。やっていることは四十年前とまったく変わっていない。




 そもそも、ルールをばか正直に守るメリットがまったくないんだよね。
 厳密に基準を守っていたら、人手が足りなくて原発が運用できなくなる。労働者も、働けないと給料がもらえない。
 働かせる側も働く側も、嘘をつくほうがメリットがある。これでルールを守るはずがない。

 そして、どんどん環境が悪くなっていく。

  過酷かつ危険な仕事をしているので、原発労働者の体調が悪くなる
→ 働き手が減る
→ 人手が足りないから無理して働かせる
→ 事故や健康被害が増える
→ さらに働き手が減る
→ 労働者が集まらないからいろんなところに声をかける
→ 仲介会社が入ることで労働者の給料が減る
→ ますます働き手が減る

という悪循環。

 病院にむかう車のなかで、安全責任者は「治療費の件だけど……」と、つぎのようなことを話しはじめた。
「労災扱いにすると、労働基準監督署の立入調査があるでしょ。そうすると東電に事故のあったことがバレてしまうんですよ。ちょっとマズイんだよ。それで、まあ、治療費は全額会社で負担するし、休養中の日当も面倒みます。……だから、それで勘弁してもらいたいんだけど、ねえ」
 そして彼は、二、三年ほど前に福島原発内で酸欠事故が発生し、「そのときには新聞にジャンジャン書き立てられて、そりゃあ大変でしたよ」とつけ加えた。
 なぜ彼がこの例を引き合いに出したのか、その理由は明らかだ。もしあんたが労災でなければいやだと言い張ったなら、事故が公になり、東電に迷惑をかけることになる。そうなれば会社に仕事がまわってこなくなり、最終的には、あんた自身が仕事にアブレることになるんだぜ」ということを暗にほのめかしているのだ。事を荒立てるな、そっとしておけ、そうすれば八方丸く収まるではないか……。ここに原発の「閉鎖性」が生まれてくる土壌があるようだ。

 ここに書かれている原発の実態は、ごまかしと隠蔽ばかりだ。
 原発内で事故があっても救急車を呼ばない。付近の住民やマスコミに知られて「やっぱり原発は危険だ」とおもわれたくないから。原発構内でゴミを燃やすと煙が上がって近隣住民に嫌がられるので、外に持っていってこっそり燃やす。

 安全や生命よりイメージ操作に腐心している。「原発は安全だ」という嘘のイメージを守るために、安全性を犠牲にしている。本末転倒だ。


 原発労働者は常に危険にさらされている。

 昼休み。いよいよ原発内で働くことになりそうだ、と、私をこの職場に紹介してくれた石川さんに話す。彼は開口一番、「そりゃ、良かったなあ」と言い、その直後に、「でも、良かったって言えないかもしれんなあ……」と、つぎのようなことを話してくれた。
「管理区域内には、キャビティと呼ばれる大きなプールがある。燃料棒を入れとく所だ。定検が始まると、そこの水を抜き、壁面を掃除する仕事があるんだが、これが実にシンドイ。潜水夫みたいに、空気を送るホースのついたマスク――エア・ラインというんだけど――をつけ、上から水が滝のように落ちてくるなかで、壁面をウエスで掃除するんだ。まあ、人間ワイパーみたいなもんさ。
 けど、堀江さんもこの仕事やるかもしれんから言っとくけど、気いつけんならんのは、エア・ホースから空気が来なくなることがあるんよ。ホースが折れたり踏まれたりでね。これがこわい。じゃあどうするか。まずは、エア・ホースを思い切って引っぱって、プールの上にいる者に合図することだ。それでもダメな場合は、マスクを脱いじゃうことだな。放射能を吸い込んじゃうって? その通りさ。……でも、だよ。空気がストップしてその場で死んじゃうのと、放射能を吸ってでも、少しでも長く生きてんのと、どっちがいい。なっ、そうだろ」
 石川さんは、そのあと私に、いかにして素早くマスクを脱ぐか、そのためにはマスクはどのようにつけたら良いか、といったことを具体的に教えてくれた。〝少しでも長く生きる〟ためのギリギリの生存方法を――。

 こんなふうに「どっちも危険だけどどっちがまだマシか」という選択を常に迫られている。
「酸欠でぶったおれるほうがマシか、マスクをはずして放射能を浴びるほうがマシか」とか。


 そして当然ながら筆者たちも身体を壊している。白血球数が減少した、歯ぐきから血が出た、目まいがする……。
 身体を壊した労働者に対する電力会社からの補償は、ない。




 この本を読んでよくわかった。そもそも原発は無理があったのだ。最初から。
 地震が起きなくても、いつかは必ず大事故を起こしていた。

 メルトダウンまでいかなくても、小さな事故はしょっちゅう起こっている。
 そのとき、実際に対応する現場の人間はほとんど正しい知識を持っていない。

「そのサイクルなんとかいうのは、どんなテストなんだい」と、別の男の声。
「いや、ただね、そう新聞に書いてあったんよ。まあ……、運転前のいろんなテストじゃないのかなあ……」
 なんとも頼りない答えに、今度はバスの前の方から、「そうだよな、わしらが詳しいことを知ってたら、こんな仕事してないもんな」という声が飛んだ。
 このやりとりに、それまで静かだった車内が大爆笑となった。しかし、車内がふたたび元の静けさにもどったとき、「わしらが詳しいことを知ってたら……」のひとことが、なぜか妙に私の心に引っかかってきた。
 三日前、初めて「高圧給水加熱器」のピン・ホール検査をやったとき、この装置がどのような働きをするものなのかという疑問に、先輩の西野さんや、四年間も発の作業をしてきた石川さんでさえ、「わからん」と口を濁してしまっていた。
 近代科学の粋を集めたといわれている原発だから、それなりの高度で複雑な構造をもっていることはわかる。だが、自分たちがなにをやっているのかもわからぬままで仕事をしていることほど、「おもしろみ」のない労働もない。こんな疎外された労働、だからこそ、石田さんがグチをもらすのではないかと、ふと思った。


 この本を読んでまだ「日本に原発は必要なんだ」と言える人がいるだろうか。


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2021年1月19日火曜日

ツイートまとめ 2020年6月


コロナ禍

インターネットの闇

アリの生態

図書館

エンディング

映画の未来

バナナ

無責任

転職会議

受刑者向け

価値観

理科2

需要と供給

少年ナイフ

切り替え

リコメンド

アイドル

99.9%

0.01%

二重チェック

メガネ

定型文

理想

2021年1月18日月曜日

【読書感想文】女子校はインドだ/ 和山 やま『女の園の星』

女の園の星

和山 やま

内容(Amazonより)
ある女子校、2年4組担任・星先生。生徒たちが学級日誌で繰り広げる絵しりとりに翻弄され、教室で犬のお世話をし、漫画家志望の生徒にアドバイス。時には同僚と飲みに行く…。な~んてことない日常が、なぜこんなにも笑えて愛おしいんでしょう!?どんな時もあなたを笑わせる未体験マンガ、お確かめあれ!

『このマンガがすごい!2021』オンナ編第1位になった作品(しかしオトコ編オンナ編って区分、そろそろ時代遅れじゃないかね)。

「受賞時点での巻数が少ない」「メジャーな雑誌に連載されていない」「ギャグ」で、『このマンガがすごい!』に選ばれる作品って外れがないよね。『聖☆おにいさん』とか『テルマエ・ロマエ』とか(ぼくが漫画をよく読んでいたのは十年前までなので情報が古い)。

 ってことで『女の園の星』を読んでみた。うん、おもしろい。
 なんていうか、一言でいうなら「センスがいい」。
 ギャグなんだけど、舞台はごくふつうの女子校だし、ありえない状況も起こらないし、むちゃくちゃ変な人も出てこない。登場人物のテンションも低め。シチュエーション、キャラクター、ストーリー、どれもが常識の範囲内。なのに笑える。これはもうセンスがいいとしか言いようがない。

 やってることは「教師が学級日誌に描かれている内容に首をかしげる」「あまり付き合いのよくない教師がめずらしく同僚と飲みに行く」など、ごくごくふつうのことなんだけどね。
 女子校が舞台でありながら色気も一切なし。というか生徒はほとんど個性がない。変なのは鳥井さんぐらい。
「あるある」と「ねーよ」の間の絶妙なところをついてくる。「ない……けどひょっとしたらあるかも」ぐらい。

 ぼくは女子校生に通ったことがないので(あたりまえだ)、余計にそうおもうのかも。ほとんどの男にとって女子校って未知の世界だから、「ないとおもうけど女子校なら起こりうるのかも」とおもってしまう。
 どんな不思議な出来事でも「インドでの出来事」とつけくわえれば「いやインドならありうるかも……」という気になるのと同じだ。女子校はインドなのだ。


 おもしろかったので次の巻も買おうとおもったらまだ1巻しか出てないんだな。それで『このマンガがすごい』1位になるなんてすごい。

 仕方ないので同じ作者の『夢中さ、きみに。』を買って読んでみた。こっちは男子校が舞台。こっちもおもしろい。でもこっちは「ねーよ」が強すぎるな。ぼくが男子だったからかもしれないけど。


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