2020年8月6日木曜日

【読書感想文】障害は個人ではなく社会の問題 / 伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

目の見えない人は世界をどう見ているのか

伊藤 亜紗

内容(e-honより)
私たちは日々、五感―視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚―からたくさんの情報を得て生きている。なかでも視覚は特権的な位置を占め、人間が外界から得る情報の八~九割は視覚に由来すると言われている。では、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、そして世界の捉え方はどうなるのか―?美学と現代アートを専門とする著者が、視覚障害者の空間認識、感覚の使い方、体の使い方、コミュニケーションの仕方、生きるための戦略としてのユーモアなどを分析。目の見えない人の「見方」に迫りながら、「見る」ことそのものを問い直す。

目が見えない人はどうやって世界を認識しているのか。
学術的にではなく、福祉の視点からでもなく、「おもしろがる」という視点で解説した本。

なるほど、たしかにおもしろい。
著者の「おもしろがる」視点が伝わってくる。
いい本だった。



目が見えない人のほうが物事を正確にとらえている場合もある、という話。

見える人は、富士山を思い浮かべるとき「台形のような形」、月を思い浮かべるときは「円」を思い浮かべることが多い。ぼくもそうだ。

ところが見えない人の中には、富士山を「円錐台(円錐の上部が欠けた形)」、月を「球」でイメージする人がいるそうだ。

言うまでもなく、実態に近いのは後者のイメージだ。
見えないからこそ視点にとらわれず正確なイメージを描くことができるのだ。
 決定的なのは、やはり「視点がないこと」です。視点に縛られないからこそ自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく太陽の塔の三つの顔をすべて等価に「見る」ことができたわけです。
 すべての面、すべての点を等価に感じるというのは、視点にとらわれてしまう見える人にとってはなかなか難しいことで、見えない人との比較を通じて、いかに視覚を通して理解された空間や立体物が平面化されたものであるかも分かってきました。もちろん、情報量という点では見えない人は限られているわけですが、だからこそ、踊らされない生き方を体現できることをメリットと考えることもできます。
ふうむ。
見えるがゆえに、見える部分にとらわれてしまって全体を正確に理解できない。
たしかにそうかもしれない。
矛盾しているようだけど、見えるからこそ見えないこともある。



目が見えないと、他の感覚が鋭敏になる。
と聞くと、ふつうは「耳が良くなるのだな」「手で触ってみるのだな」とおもうけれど、必ずしもそれだけではない。
 見える世界に生きていると、足は歩いたり走ったりするもの、つまりもっぱら運動器官ととらえがちです。しかしいったん視覚を遮断すると、それが目や耳と同じように感覚器官でもあることがわかる。足は、運動と感覚の両方の機能を持っているのです。地面の状況を触覚的に知覚しながら体重を支え、さらに全身を前や後ろに運ぶものである足。暗闇の経験は、「さぐる」「支える」「進む」といったマルチな役割を足が果たしていることに気づかせてくれます。
 そう、見えない体の使い方を解く最初の鍵は、「足」です。「触覚=手」のイメージを持っていると、見えない人が足を使っているというのは意外かもしれません。しかし言うまでもなく、触覚は全身に分布しています。
ふだんは意識しないけれど、足は触覚器官なのだ。

舗装された道を歩いているときは気づかないけれど、山道を歩くときは足から入ってくる情報が多いことに気づかされる。
ぼくが登山をするときは底の厚い登山靴を履いているけれど、それでも足の裏からいろんな情報が入ってくる。
石が多い、落ち葉が多い、濡れているからすべりやすい、土がやわらかくて崩れやすい、道が少し平坦になった。歩くだけで地面の情報が伝わる。

白杖をついた人がぐんぐん進んでいくのに驚かされるけれど、あれも足で「見て」いるんだろうな。



障害者について語るとき、ついつい同情的になってしまう。
「かわいそうな人に手を差しのべる」「少しでも失礼があってはいけない」という意識がはたらいてしまう。身近に障害者がいない人ほどそうなる。

でも、著者はもっと中立的に考えている。
日本人とブルガリア人が接して「へえー。そっちの国ではそんな風習があるんだ。おもしろいねー」と語りあうように、「目が見えない人の世界」をおもしろがっている。

それはこんな文章にも表れている。
 見えない体に変身したいなどと言うと、何を不謹慎な、と叱られるかもしれません。もちろん見えない人の苦労や苦しみを軽んじるつもりはありません。
 でも見える人と見えない人が、お互いにきちんと好奇の目を向け合うことは、自分の盲目さを発見することにもつながります。美学的な関心から視覚障害者について研究するとは、まさにそのような「好奇の目」を向けることです。後に述べるように、そうした視点は障害者福祉のあり方にも一石を投じるものであると信じています。
すごいよね、この文章。

「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」

ふだんは意識せずに使う比喩表現だが、 これを読んでおもわずぎょっとした。
「視覚障害者の話をするときにこの表現は不適切では」 と一瞬躊躇してしまった。

たぶん著者は意識的にこういう表現を使っているんだろう。
「えっ、それって不適切では」 とおもわせるために。
そして「あっ、べつに不適切じゃないのか」と気づかせるために。

「片手落ち」という表現は差別的だ! と言っている人がいるそうだ。
両腕がない人への差別だ、というのだ。
「片手落ち」は「片」+「手落ち」なのでその指摘は見当はずれなのだが、仮に本当に身体障害者に由来する言葉だったとしても、それを使うのが差別だとはぼくには思えない。

言葉狩りをすることで障害者が生きやすくなるとは思えないからだ(「言葉狩り」も口のきけない人への差別とされるかもしれない)。


「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」といった言葉を取り締まることで視覚障害者が生きやすくなるのなら、喜んで協力する。
でもそれは取り締まる人を満足させることにしかつながらないのかもしれない。

「なんだか障害者の話をすると『不謹慎だ』とか『配慮が足りない』とか言われてめんどくさいから話題にしないようにしよう」
と、むしろ「見えない人」を「見える人」から遠ざけるだけなんじゃないか。


……ってことが言いたくて著者はあえてこういった表現を使ったんじゃないかな。
 象徴的な話があります。それは、「障害者」という言葉の表記についてです。「障害者」という表記に含まれる「害」の字がよろしくないということで、最近は「障碍者」「障がい者」など別の表記が好まれるようになってきました。
 ところが、見えない人がテキストを読むときは、たいていは音声読み上げソフトを使います。すると、音声読み上げソフトの種類によっては、「障がい者」という表記が認識できないらしい。「さわるがいしゃ」という読みになってしまうそうです。つまり、誤った単語になってしまう。
 もちろん「さわるがいしゃ」と誤読されても、というか誤読されて初めて、見えない人は執筆者の配慮に気づくことができます。だからこの失敗は、配慮を必要とする障害者にとっては成功なのかもしれません。
 けれども、それが差別のない中立的な表現という意味での「ポリティカル・コレクトネス」に抵触しないがための単なる「武装」であるのだとしたら、むしろそれは逆効果でしょう。障害の定義を考慮に入れるなら、むしろ「障害者」という表記の方が正しい可能性もある。
いいエピソードだ。

「配慮」は相手のためではなく自己満足のための行為なのかもしれない。



『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んでいると、
「目が見えないことって必ずしもマイナスとはいえないんじゃないか」とおもうようになった。

世界には、視力が弱い動物がいっぱいいる。
例えばコウモリは視力が弱い。
じゃあコウモリは他の動物よりも劣っているかというと、そんなことはない。
他の感覚器官を研ぎ澄ませて生きている。
光が消えて他の動物が滅びてもコウモリだけは生き残っているかもしれない。

コウモリに「目が見えなくて不自由してますか?」と訊いても、たぶん「いやぜんぜん不便じゃないっすよ」と答えるだろう。
ぼくらが超音波を感じ取れなくてもべつに不自由を感じないように。


でも現実問題として、人間は目が見えるほうが生活しやすい。
それは、見える人が多数派で、見えることを前提に社会が設計されているからだ。
 そして約三十年を経て二〇一一年に公布・施行された我が国の改正障害者基本法では、障害者はこう定義されています。「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」。つまり、社会の側にある壁によって日常生活や社会生活上の不自由さを強いられることが、障害者の定義に盛り込まれるようになったのです。
 従来の考え方では、障害は個人に属していました。ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた。見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だと言うわけです。障害学の言葉でいえば、「個人モデル」から「社会モデル」の転換が起こったのです。
「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。

なるほど……。
いやたしかにそうだよな。

中度の近視や乱視の人って、今の日本だったら多少の不便はあってもほとんど視力の良い人と同じ生活をできる。
でも、もしもメガネやコンタクトレンズがなければ視覚障害者だ。

「階段を昇れない」という人がいたとする。数十年前であれば、ひとりでは出歩けない要介護者だった。
でも今の日本だったら、エレベーター、エスカレーター、スロープの整備がだいぶ進んでいるので、たいていのところにはひとりで行ける。

テクノロジーや都市の設計が、障害者を障害者でなくするのだ。

高齢化が進んで寿命が伸びれば身体障害を抱える人は今後どんどん増えるだろう。
一方でスマートスピーカーや読み上げソフトなど、テクノロジーによって障害をリカバリーできる範囲は増えつつある。

今後、どんどん健常者と障害者の垣根がゆるやかなものになっていくのかもしれないなあ。

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2020年8月5日水曜日

【読書感想文】死後にビデオテープを学習する貞子さん / 鈴木 光司『リング』

リング

鈴木 光司

内容(e-honより)
同日の同時刻に苦悶と驚愕の表情を残して死亡した四人の少年少女。雑誌記者の浅川は姪の死に不審を抱き調査を始めた。―そしていま、浅川は一本のビデオテープを手にしている。少年たちは、これを見た一週間後に死亡している。浅川は、震える手でビデオをデッキに送り込む。期待と恐怖に顔を歪めながら。画面に光が入る。静かにビデオが始まった…。恐怖とともに、未知なる世界へと導くホラー小説の金字塔。

言わずと知れたホラー小説の金字塔的作品。
たぶん日本で一番有名なホラー小説だろう。

ぼくは小説も映画も見たことがなかったが、「呪いのビデオ」とか「井戸の中から貞子」といった断片的な知識はあったので、小説を読んでいて貞子という名前が出てきたときには
「いよっ、待ってました!」
と掛け声をかけたくなった。
歌舞伎『リング』だったらじっさいに言っていた。

それぐらい有名なので、もうあんまり怖くない。

発表当時(まだ映画にもなる前)、ホラー好きの母がこの小説を読んで
「私もいろんなホラー作品を観てきたけど、こんなに不気味な小説は読んだことない!」
と絶賛していた。

そのときに読んでいたら怖がれたのかもしれないな。



映画版の「テレビ画面から貞子から這い出してくるシーン」が有名だけど(ぼくはパロディしか見たことないけど)、原作には貞子は登場しないんだね。

こっちのほうがいいね。
姿が見えない、なのにその存在が感じられる。だからこそ怖い。
見えちゃったら想像力をかきたてられないもの。

まあ映像作品で「姿が見えない怖さ」を描くのはむずかしいんだろうけど。
とはいえ貞子に具体的なビジュアルを与えたのは“逃げ”だよなあ。映画観てないけど。



なんで「呪いのビデオテープ」なのか知らなかったけど、読んではじめて「ああ、なるほど。拡散させるためにビデオテープにしたのか」と合点がいった。

ホラーの小道具としてはちょうどいいよね。
「呪いのYouTube動画」だったらあっというまに全世界に拡散しちゃうからじわじわ拡がる怖さがないもんね。

しかし気になったのが一点。
貞子は1966年に殺されている。ところがVHSの誕生は1976年。
つまり貞子は生前ビデオテープを知らなかったはずで、なぜ「呪いのビデオテープ」を生みだすことができたのだろう。
カセットテープですら日本で発売されたのが1966年なので、貞子は使い方を知らなかった可能性が高い。

死後にビデオテープの機能について学んだんだろうか……。
VHSとベータの戦いを見守って、VHSが勝ったからVHSに怨念を込めたのだろうか……。

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2020年8月4日火曜日

怖い怖い児童文学 / 三田村 信行『おとうさんがいっぱい』

おとうさんがいっぱい

三田村 信行(著)  佐々木 マキ (挿画)


 子どものときから本は好きだったのでいろんな本を読んだが、もっとも印象に残った本を一冊だけ選べと言われたら『おとうさんがいっぱい』を挙げたい。

 好きだったわけではない。
 むしろ嫌いだった。
 なぜならめちゃくちゃ怖いから。
 児童文学とはおもえないぐらい怖い。


 ぼくはいわゆる『怖い話』は好きじゃない。
 怖くないから。
 幽霊とか心霊現象とかをまったく信じていないので霊的な怪談はなんともおもわない。心が無風。
 事故物件だって住めと言われたら住めるぜ(あえて選ぶほどではないけど)。ラララ科学の子。

 ぼくが子どものときに怖かった話は三つ。

『世にも奇妙な物語』の『替え玉』というエピソード。
『まんがにっぽん昔話』の『影ワニ』というエピソード。
 そして『おとうさんがいっぱい』。
 ぜんぶよくわからない話だ。
 奇妙なことに巻きこまれるが、なぜそうなったのか説明できない。
「おまえがあのとき殺した女の怨念が幽霊となった」みたいなわかりやすい説明がない。
 そういうのが怖い。

『おとうさんがいっぱい』は怖かった。
 幽霊もお化けも殺人鬼もゾンビも血も出てこない。描写も最小限で淡々とした文章。なのに怖い。

 ごく平凡な日常の隣にぽっかりと口を開けた、ほんの少しだけこっちと違う世界の入口。
 そんな感じ。
 カフカみたいだ。カフカ読んだことないけど。



『おとうさんがいっぱい』には五編の短編が収録されている。

 もうひとりの自分と出会う『ゆめであいましょう』

 異次元に迷いこんでしまう『どこへもゆけない道』

 部屋から脱出できない上に自身が世界から切り離されてしまう『ぼくは5階で』

 父親が異空間に閉じこめられる『かべは知っていた』


 どれも怖いが、やはりいちばんおっかなかったのは表題作『おとうさんがいっぱい』だ。

 『おとうさんがいっぱい』はこんな話だ。

~ 以下ネタバレ ~

 おとうさんが家に帰ってきた。もうおとうさんが家にいるのに。
 顔も背格好も話し方もそっくり。記憶もたしか。どちらも完璧なおとうさんだ。
 お互いに自分こそが本物だと主張するがまったく見分けがつかない。
 さらに翌日もうひとりのおとうさんがやってくる。
 同じ現象があちこちの家庭で起きる。なぜかおとうさんばかりが複数に増えたのだ。社会は大混乱。

 政府は方針を定める。家族がひとりのお父さんを選ぶこと。
 おかあさんがショックで寝こんでしまったので、我が家では「ぼく」が決めることに。
 三人のおとうさんは「どういう父親でありたいか」「どういう家庭にしたいか」を必死でプレゼンする。
 それを聞いたぼくは、ひとりのおとうさんを選択する。
 選ばれなかった二人のおとうさんはどこへともなく連れ去られてしまう。激しく抵抗するが強制的に連行される。
 どこへ連れていかれるのかと尋ねても誰も教えてくれない。
 二人のおとうさんの行方を案じていたぼくだが、次第に忘れてゆく。
 これでいいんだ、あれは悪い夢だったのだ……と。

 そんなある日、ぼくが学校から帰ってくるとそこには「ぼく」がいた……。

 ひゃあこわい。
 星新一作品はぜんぶ読んだが、ここまで切れ味がよくて後味の悪い作品はショートショートの神様・星新一ですらそう多くは残していない。

 もう一度書くけど、児童文学なんだよ。おっかねえ。

 いつか娘にも読ませたいけど、夜眠れなくなりそうだしな。
 一年生にはショックが大きいだろうな。いつがいいんだろうな。

 ところで、この本があまりに怖かったので、ぼくはいまだに佐々木マキ氏の絵も怖い。
 佐々木マキ作の絵本(『ぶたのたね』とか)を読んでいても「これ最後にとんでもなくおそろしいことが起こるんじゃ……」とドキドキしてしまう。


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【読書感想文】村上春樹は「はじめての文学」に向いてない / 『はじめての文学 村上春樹』

2020年8月3日月曜日

【読書感想文】悪の努力家 / 高木 彬光『白昼の死角』

白昼の死角

高木 彬光

内容(e-honより)
明晰な頭脳にものをいわせ、巧みに法の網の目をくぐる。ありとあらゆる手口で完全犯罪を繰り返す“天才的知能犯”鶴岡七郎。最後まで警察の追及をかわしきった“神の如き”犯罪者の視点から、その悪行の数々を冷徹に描く。日本の推理文壇において、ひと際、異彩を放つ悪党小説。主人公のモデルとなった人物を語った秘話を収録。
舞台は戦後すぐ。
東大生の鶴岡七郎が悪の天才・隅田光一と出会い、金融会社「太陽クラブ」を結社して徐々に悪の道の魅力をおぼえはじめる。
隅田光一の失敗そして自殺により太陽クラブは解散するが、詐欺の経験と自信を手に入れた鶴岡七郎はさらなる綿密な詐欺計画を次々に実行する……。

前半は実際にあった光クラブ事件(Wikipedia)を下敷きにしている(というかほとんどそのまんま)が、隅田光一の死後に鶴岡七郎が潜在的に持っていた悪の才能を徐々に開花させてゆくのがこの小説の見どころ。
鶴岡七郎は天才・隅田光一よりもずっと人間的な深みがある(このキャラクターにも実在のモデルがいるらしい)。

「生まれもっての悪人+天才」というキャラクターは魅力的だ。
フィクションの世界にはたくさんいる。
『羊たちの沈黙』のレクター博士とか『模倣犯』のピースとか『悪の教典』の蓮実聖司とか。
どれも魅力的だが、どうも現実味がない。
「悪の大魔王」みたいなもので「こんな人が近くにいたらどうしよう」という気にはならない。だってもしいたらどうしようもないもの。ただただ逃げるしかない。
まして「自分がこうなったら」とはおもえない。自分が悪の大魔王になることを想像するのはむずかしい。

ところが『白昼の死角』の鶴岡七郎は根っからの悪ではない。
より大きな悪に触れて悪の道に引きずり込まれた、自分は周囲より頭がいいとおもっている、だが上には上がいるともおもっている、欲望を満たすためなら悪事をはたらくこともあるがその場合でも「だまされるほうが悪い」という自己正当化をおこなう。

隅田光一のほうは生まれついての悪だが、鶴岡七郎は後天的な悪。前者は悪の天才で、後者は悪の努力家。

「自分も環境によってはこうなるかも」と思わされるぐらいの悪人なのだ。
ぼくだって出会う人によっては鶴岡七郎のような生き方をしていたかもしれない。



「約束の期日までに金が用意できず、すぐに百万円を用意しなければ詐欺罪で捕まってしまう」
という状況での鶴岡七郎の言葉。
「あるとも。いますぐ、百万の金が作れたら、なんの文句もないわけだろう」
 いかにも自信ありげな七郎の態度は、善司をすっかりおどろかせてしまったらしい。そんなことがどうしてできる――、というような表情で、眼を見はり、七郎の顔をしばらく見つめていた。
「まあ、僕がいろいろ法律の問題を調べてみたところでは、このままでいったら、僕たち四人が、詐欺で起訴されることだけは、ぜったいに間違いがなさそうだ。まあ、これからの方針は、この現実を頭にたたきこんで、覚悟をきめることから出発するのだね」
「それで?」
「どうせ、そういう運命になっているものなら、毒をくらわば皿までで、ほんとうに詐欺をするんだよ。しくじったところでもともとだ。うまくいって、ここで百万の金ができたら、両方の罪がいっしょに逃げられる。たしかに一か八かの非常手段だが……」
「なんだって! 詐欺から助かるために詐欺をするのか?」
「そのとおり。いやならここであきらめて、刑務所へ行こうか」
詐欺で捕まらないために詐欺をする……。
なるほど、どうせ捕まるなら少しでも助かる目があるほうに賭けたほうがいい。
最後まであきらめない。まるで高校球児のようなひたむきな姿勢だ。すばらしい!

「このままだと捕まる」という局面で、「逃れるためにさらに罪を重ねる」という選択をできるかどうかが、大悪党と小悪党を分ける境目なんだろうな。
そしてたぶんどうせやるなら大胆に行動したほうが成功する。

……だけどふつうはそれができないんだよな。
どうしても守りに入ってしまう。

やはりぼくは大悪党にはなれなさそうだ。
「悪の道から足を洗うのです。それ以外、あなたが救われる道はありません」
「とおっしゃると?」
「犯罪の道で成功することは、世間が考えているよりも、ずっとむずかしいことですよ。そこには人なみはずれた知恵と、不撓不屈の勇気と、たえざる練磨が必要です。戦争以上に、常住座臥、緊張の連続が要求されます。あなたのような人間には、それはとうてい無理でしょう。ですから今後犯罪からは、ぷっつり縁を切りなさいと申しあげるのです」
鶴岡七郎は詐欺行為を重ねて財産を手に入れるが、彼のような知能、演技力、大胆さと緻密さ、そして人間的魅力があれば、まっとうに働いてもきっと成功していただろう。
もしかしたらそっちのほうが稼げていたかもしれない。
それだったらもちろん警察に追われることもないし。

でも彼は詐欺をやる。
それは金儲けや名声のためではない。
詐欺をしたいから詐欺をするのだ。

好きこそものの上手なれというけれど、詐欺師でもヤクザでもマフィアでも、成功するのはその道が好きな人、その道でしか生きられないような人なんだろうな。
「楽して金を儲けたい」みたいな動機ならまっとうに働いたほうがずっと楽なんだろうとおもうよ、ほんと。



ところでこの小説、中盤まではおもしろかったんだけど、後半は退屈だったなあ。

はじめのうちこそ死角を突くような大胆な手口で詐欺を実行するのだが、中盤からはぜんぜんスマートじゃない。

「酒に酔わせて都合のいい約束をさせる」とか。
なんじゃそりゃ。どこが「白昼の死角」なんだよ。おもいっきり力技じゃねえか。

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【読書感想文】貴志 祐介 『悪の教典』



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【読書感想文】軽妙な会話が読みたいなら / 伊坂 幸太郎『フィッシュストーリー』

フィッシュストーリー

伊坂 幸太郎

内容(e-honより)
最後のレコーディングに臨んだ、売れないロックバンド。「いい曲なんだよ。届けよ、誰かに」テープに記録された言葉は、未来に届いて世界を救う。時空をまたいでリンクした出来事が、胸のすくエンディングへと一閃に向かう瞠目の表題作ほか、伊坂ワールドの人気者・黒澤が大活躍の「サクリファイス」「ポテチ」など、変幻自在の筆致で繰り出される中篇四連打。爽快感溢れる作品集。
短篇集。
伊坂幸太郎らしい作品が並ぶ。

 動物園のエンジン


精神病、オオカミ、マンション建設というお題で三題噺をつくったらこんな話になるかな、というストーリー。
つまりとりとめのない話というか。
異質なものをむりやりくっつけてみたけどいまいちきれいにはつながらなかった感じ。
会話のおもしろさは楽しめる。


 サクリファイス


人里離れた山奥の村に古くから伝わる生贄の風習。
その風習を利用して村長が人を殺そうとしているのではないかと疑いを抱いた主人公・黒澤だが……。

と、サスペンス調の話運びに引きこまれたのだが、結末はどうも拍子抜けというか宙ぶらりんというか。
ミスリードの推理を真相が下回ってしまってるんだよな……。


 フィッシュストーリー

映画化されたものを以前観たことがある。
「なんだこれ。退屈な映画だな……。このバラバラのエピソードがどうつながるんだ……」
とおもいながら観ていたら、ラストで
「おお! そうつながるのか! 予想外の角度から来たな!」
と驚かされた。

既にストーリーは知っているので「バラバラのエピソード」部分で退屈せずに済んだのだが、ラストの切れ味は映画版のほうが上だったな。
もちろんぼくがネタを知っていたからというのもあるけど、映画の演出はスピーディーでわかりやすかったからな。
あれは映像の強みだよね。一気に全部種明かししても説明くさくならない。これを文章でやると野暮ったくなっちゃう。

ぼくが映画版を先に観たからかもしれないけど、映画版のほうがおもしろかったな。前半つまらなかったけど。
長編小説を映画化するとたいてい失敗するけど、短篇の映画化はうまくいくこともあるね。


 ポテチ

『サクリファイス』にも出てきた黒澤が再登場。伊坂幸太郎作品によく出てくるキャラだね。
この話では黒澤は主人公ではなくその後輩たちが主役。

ストーリーは特にどうってことのない話なんだけど、登場人物や軽妙な会話はこの短篇集の中でもっとも魅力的だった。
大笑いするようなものではないんだけど、ウィットに富んだ上品なユーモアが満ちあふれている。

伊坂幸太郎作品の魅力って会話にあるのかもしれない。
正直、ストーリー運びを軸に置いたものはあんまり好きじゃないんだよね。
ぼくは『ゴールデンスランバー』よりも『陽気なギャング』シリーズのほうが好きだ。



「おもしろい物語が読みたい!」という人にはものたりない短篇集だとおもうけど、時間つぶし的に楽しむにはおもしろいとおもうよ。