2019年2月7日木曜日

【読書感想文】選挙にマイナス票を導入という思考実験 / 森下 辰男『ハイド氏は2票方式で落選させる』

ハイド氏は2票方式で落選させる

森下 辰男

内容(Amazonより)
選挙で棄権ばかりしている有権者でも、議員にしたい人物に投票するだけでなく、議員にしたくない人物を落選させる☓投票用紙があればきっと投票に行くでしょう。小著は議員にしたい候補者を〇票で選出する現行の1人1票の投票方式を憲法の精神に反する不完全で差別的な制度と断定して、議員にしたくない候補者に☓の票を入れて落選させる、有権者1人に2票〇☓方式の投票制度を披露しています。この制度の面白さはサッカーをラグビーの楕円球でしたり、ゴルフのコンペを卵型のボールでするようなスリリングな政治家の淘汰論です。

Amazon Kindleでのみ販売。たぶん自費出版なんでしょう。
個人が手軽に本を出せるようになったのはいいことだ。

とはいえいろいろ読みにくくて、「編集者の仕事って大事なんだなあ」と痛感する結果に。

中盤までは選挙制度改革の話だけど、ひたすら同じことのくりかえし。
そして後半は政権批判、自民党の改憲草稿批判、原発政策批判と、テーマとほぼ関係のないことを好き勝手書きつらねているだけ。
怒りに任せて書き散らしているので、反政権派のぼくですら読むに耐えない。

「2票方式」自体は悪くない制度なのに、この本では同意を集められないなあ。



このブログでもさんざん書いてるからここでは長々と書かないけど、ぼくは今の選挙制度に不満を持っている。特に小選挙区制には大反対だ(読みたい方は記事下のリンクよりどうぞ)。

国民の一割が支持する政党は、国会でも一割の議席を占めるべきだ。それが民主的な選挙というものだろう。
ところが今の選挙制度はまったくそうなっていない。小選挙区制では、一割に支持される政党は一議席も獲得できない。数百万、数千万もの票が死票になってしまう。
国民の三割にしか支持されていない政党が国会では圧倒的多数派を占め、独断専行ですべてを決めることができる。こんな制度はどう考えたっておかしい。

選挙制度が悪いから民意が政治に反映されないし、民意が政治に反映されないから投票率は下がるし、投票率が下がるからますます民意が政治に反映されなくなる。

……いかん、長々と書かないといいつつ書きだしたら止まらない。



『ハイド氏は2票方式で落選させる』で訴えていることはいたってシンプル。
ある候補者が立候補した場合、その候補者に好感、好意を持っている人が〇票を投じるのなら、その候補者の悪行、醜聞を知っていて悪感情を持っている有権者も☓票を投じることができなければ不公平で、有権者を差別することになります。 したがって公平で正しい選挙は、有権者が候補者を〇と☓の2票で審判して、〇と☓の差し引きの得票数で当落を決めることです。
ほぼこれだけ。これだけの内容を、手を変え品を変えあれこれ語っているだけ。
(本筋とは関係ないが、上にあるようにバツだけ半角で表記しているのがすごく読みにくい。「☓票」と書いてあるのをずっと「エックス票って何のことだ?」と思いながら読んでいた)

ぼくも以前、似たような制度(【思考実験】もしも選挙で1人複数票制度が導入されたら)を考えついたことがあるので、すごく納得できる。
マイナス票を入れられるというのは政治に緊張感があっていいと思う。

現行の選挙制度だと
「7割から嫌われても3割から熱狂的に支持されれば当選する」
ということになり、そんな制度で選ばれた代表が国民の支持を得ているかとはとても言えないだろう。

とはいえ、「2票方式」が民主制を守るためにはいい制度だとしても、実現可能かと考えたらまあ無理だ。
なにしろ「良くも悪くも注目されやすい現職」が今よりずっと不利になる制度だからだ。

与党に不利、現職に不利。
そんな選挙制度改革が国会で通るわけがない。満場一致で否決されるかもしれない。

となれば「2票方式」を公約にする党をつくって支持を集めるしかないわけだが、仮にその党が第一党になったとしても、権力を手にしたとたんに撤回する可能性が高い。自分が不利になる制度なんて誰も導入したくないでしょ。

『ハイド氏は2票方式で落選させる』では「そのためにはSNSでみんなが声を上げればOK!」みたいに書いてるけど、いやいやSNSってそんな万能じゃないよ。ただの情報発信ツールだから。

ということで実際の選挙に導入するのはまず不可能だろうけど、こういう思考実験自体はおもしろい。

会社の役員会議とかで「2票方式」を取り入れてみてもいいかもしれないな。
会社や学校なんかであたりまえのように使われるようになれば「じゃあ国政もこっちのほうがいいよね」ってなるかもしれないね。
その前に「2票方式」のいろんな欠点も見えてくるだろうし。

2019年2月6日水曜日

【読書感想文】ゴキブリ出て騒いでるの大差ない / 貴志 祐介『雀蜂』

雀蜂

貴志 祐介

内容(Amazonより)
11月下旬の八ヶ岳。山荘で目醒めた小説家の安斎が見たものは、次々と襲ってくるスズメバチの大群だった。昔ハチに刺された安斎は、もう一度刺されると命の保証はない。逃げようにも外は吹雪。通信機器も使えず、一緒にいた妻は忽然と姿を消していた。これは妻が自分を殺すために仕組んだ罠なのか。安斎とハチとの壮絶な死闘が始まった―。最後明らかになる驚愕の真実。ラスト25ページのどんでん返しは、まさに予測不能!

「驚愕のラスト」という謳い文句の小説はまずつまらないという法則があるが、『雀蜂』もご多分に漏れずがっかりさせられる出来だった。
貴志祐介作品って当たり外れが大きいなあ。

スズメバチとの戦い、しかも過去に刺されたためこれ以上刺されたらアナフィラキシーショックで死ぬかもしれないという設定自体はスリリングで悪くない。
狂犬病のセントバーナードと戦うスティーブン・キング『クージョ』を思いだした。『クージョ』はシンプルな設定なのに長篇で読むに耐えうる出来だった。さすがはキング。

一方の『雀蜂』はというと……。
舞台は冬の雪山。主人公が目覚めると、家の中には大量のスズメバチ。どうやら妻が浮気相手と共謀して自分を殺すためにスズメバチを仕掛けたらしい。という話。

まず、主人公が命を賭けて戦う理由が理解できない。
『クージョ』の場合は、
「屋外の車の中に閉じこめられた」
「外に出ると狂犬病のセントバーナードが襲いかかってくる」
「このままだと車内の温度がぐんぐん上がって子どもの命が危ない」
という設定があるので、命賭けでセントバーナードと戦うことに説得力がある。

『雀蜂』のほうは
「家の中にスズメバチがいるが、全部の部屋にいるわけではない」
「電気は通じているし数日食いつなぐ食糧も十分にある」
「数日待てば人が来る」
「殺虫剤などハチと戦う武器も多少ある」
「雪山なので窓を開ければハチは活動できなくなる」
という条件なので、戦う必要がまったくない。
せめて、なぜ舞台を夏にしなかったのかと言いたい。殺人ではなく事故死に見せかけるとしても夏のほうが自然だろう。

根幹となる「命を賭けて戦わなければならない理由」に説得力がないので、どれだけ主人公が一生懸命戦っても「この人なにばかなことやってんの」としか思えない。
本人は必死でも、読んでいる側としては「キャー、ゴキブリ!」と騒いでるのと大差ないように思えちゃうんだよなあ。



「ラスト25ページのどんでん返し」については、むりやりオチをつけたという感じで、まあひどいものだった。(一応理由付けがあるとはいえ)語り手が読者に対して嘘をつくというのは小説のルール的には反則だし。

さらに「ラスト25ページ」のくだりでは、オオスズメバチが飛びまわってる中で平然とおしゃべりしてたり、のどに穴が空いて大量出血してる人を警察がほったらかしにしてたり、ツッコミどころしかない。

スズメバチの知識が得られること以外にはおもしろみは感じられなかったなあ……。


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2019年2月4日月曜日

【読書感想文】虐げる側の心をも蝕む奴隷制 / ハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』

ある奴隷少女に起こった出来事

ハリエット・アン ジェイコブズ(著) 堀越 ゆき(訳)

内容(e-honより)
好色な医師フリントの奴隷となった美少女、リンダ。卑劣な虐待に苦しむ彼女は決意した。自由を掴むため、他の白人男性の子を身篭ることを―。奴隷制の真実を知的な文章で綴った本書は、小説と誤認され一度は忘れ去られる。しかし126年後、実話と証明されるやいなや米国でベストセラーに。人間の残虐性に不屈の精神で抗い続け、現代を遙かに凌ぐ“格差”の闇を打ち破った究極の魂の物語。

アメリカにあった奴隷制のことを、ぼくは知っていた。
奴隷貿易がおこなわれ、奴隷制の維持を訴える南部と奴隷解放の北部に分かれ、アメリカを二分する南北戦争がおこなわれ、リンカーンが奴隷解放宣言を出したと。
教科書に書いてあったし、リンカーンの伝記も読んだ。

しかし知識として知っていることと理解することはまったくの別物だと、『ある奴隷少女に起こった出来事』を読んでぼくは痛感した。

「黒人は奴隷として虐げられていた」
その一文がぼくの頭の中にあるだけで、その奥にどれだけ多くの人がどれだけ長い間苦しんでいたかということをまったく想像したことがなかった。

 多くの南部婦人の例にもれず、フリント夫人は完全に無気力な女だった。家事を取りしきる意欲はないが、気性だけは相当激しく、奴隷の女を鞭で打たせ、自分は安楽椅子に腰かけたまま、一打ちごとに血が流れ出るまで、平然とそれをながめていた。彼女は教会に通っていたが、聖餐のブドウ酒とパンを口に入れてもらっても、キリスト教徒らしい考え方は、なじまなかったらしい。教会から戻ったばかりの日曜日でも、指定した時間に夕食の用意が整わなければ、夫人は台所に陣取り、食事ができるのを待った。そして、料理が残らず皿に盛られるのを見とどけると、調理に使われたすべての深鍋や平鍋につばを吐いてまわった。こうすることで、鍋のふちに残った料理や肉汁の一さじが、料理女とその家族の口に入らないようにと気を配った。
 チャリティのまだ幼なかった息子のジェイムズは、感じの良さそうなご主人に売られたと思ったが、やがてご主人は借金を抱えるようになり、ジェイムズは、裕福だが残虐なことで知られる別の奴隷所有者に売られてしまった。この男のもとで、犬の扱いを受けながら、彼は大人になった。ひどい鞭打ちのあと、あとで続きを打ってやると脅かされ、その苦痛から逃れるために、ジェイムズは森の中に逃げこんだ。考えられる限り、最も悲惨な状態に彼はいた――牛革による鞭打ちで皮膚は裂け、半裸で、飢えに苦しみ、パンの耳すら口に入る手だてはなかった。
 数週間後、ジェイムズは捕まり、縛られて、主人の農場に連れ戻された。数百回の鞭打ちのあと、パンと水だけを与え牢に閉じ込めておくいつもの処罰は、この憐れな奴隷の不届きには軽すぎると主人はみなした。よって、奴隷監督の気の済むまで鞭で打たせたあと、森に逃亡した期間だけ、ジェイムズを綿繰り機の鉄のつめにはさんで放置することに決めた。この手負いの生き物は、頭からつま先まで鞭で切り裂かれたあと、肉が壊死せず治るようにと、濃い塩水で洗われた。そして綿繰り機の中に押し込められ、あおむけになれないときに横に向けるだけのわずかな隙間を残して、ギリギリと鉄のつめは締められた。毎朝、一片のパンと水を入れた椀を奴隷が運び、ジェイムズの手の届くところに置いた。奴隷は、そむくと厳罰に処すと脅されて、彼と口をきくなと命令されていた。
 四日が過ぎたが、奴隷はパンと水を運びつづけた。二日目の朝、パンはなくなっていたが、水は手つかずなことに奴隷は気がついた。ジェイムズが四日五晩締め上げられたあと、四日間水が飲まれておらず、ひどい悪臭が小屋からする、と奴隷は主人に報告した。奴隷監督が確認のためにやられた。圧縮機のねじを開けてみると、そこには、ねずみや小動物にあちこちを食べられた死体が転がっていた。ジェイムズのパンをむさぼり食べたねずみは、その命が消える前にも彼をかじったのかもしれない。
こういった描写を読むと、とても軽々しく「まるで奴隷のような生活だ」なんて言う気になれない。
人間扱いされないどころか、家畜よりもひどい扱いが黒人奴隷に対しておこなわれていたのだ。

それも、たった百数十年前に。
今では自由の国と呼ばれているアメリカで。



この本の作者であるリンダ(作者の偽名)は、アメリカ南部の奴隷の子として生まれている。
幼少期はいいご主人に恵まれたこともあり(奴隷としては)幸福な生活を送っていたが、ご主人がなくなり、ドクター・フリントという医師の家に売られた(正確にはドクター・フリントの幼い娘の所有物となった)ことから運命が暗転する。
母親は死に、奴隷としてさまざまな侮蔑的な扱いを受ける。さらには十代半ばにして性的な関係を迫られ、苦悩する。

リンダはドクター・フリントの束縛から離れ、ある白人と関係を持ち、子を産む。ドクターを怒らせ、売らせようとしたのだ。
しかしドクターはリンダを決して手放そうとしなかったため、自分ばかりか子どもまで不幸になると考えたリンダは脱走を決意する。

結果的に脱走は成功するが、立ちあがることすらできない屋根裏部屋に七年も隠れなければならなかったり(食事やトイレの描写が一切ないのだがどうしていたのだろう?)、子どもとは離れ離れになったり、自由州であるはずの北部に逃げてからも追手におびえながら暮らしたり、その脱走劇も決してハッピーなものではない。

何の罪も犯していない人間が、自由を手に入れるため、子どもを守るために多くのものを犠牲にしなければならなかったのだ。

ことわっておくが、リンダは奴隷の中では比較的恵まれた境遇にあった人だ。
幼い頃は教育を受けさせてもらっているし(それが逃亡生活にも役立っている)、おかげで仕事も他の奴隷よりよくできたようで奴隷保有者からも一目置かれている。また黒人・白人問わず言い寄ってくる男もいることから、容姿も優れていたのだろう。多くの支援者にも恵まれている。
なにより、彼女は運が良かった。だからこそ脱走にも逃亡にも成功している。
極悪非道の「ご主人」として描かれているドクター・フリントにしても、当時の奴隷保有者としてはまだマシな部類だったんじゃないかと思う。頭の中には差別意識が詰まっているとはいえ、リンダに対して暴力や性的暴行をくわえたという描写はほとんどない(書かなかっただけかもしれないが)。医師という職業についていたわけだし、きっと理性的な人物だったのだろう。

そんな(比較的)恵まれた環境にあったリンダですら、今の日本人からすると直視できないほどのひどい目に遭わされているのだ。
いわんや他の黒人奴隷たちのおかれた境遇は、想像するに余りある。

『ある奴隷少女に起こった出来事』の原著が刊行されたのが1861年。『若草物語』の刊行されたのが1868年。どちらも自伝的作品なので、同じ時代の同じ国の少女の物語である。
しかし、かたやお父様の帰りを待ちながら仲良く助けあって暮らす姉妹であり、かたや逃げだせばねずみに食い殺されるまで折檻される環境で子孫の代まで永遠の奴隷として生きていかなければならない少女の物語。
北部と南部、白人と黒人というだけでこれほどのちがいがあると考えると、なおいっそう奴隷制の残酷さが浮き彫りになる。



特に印象に残ったのはこの文章。
 読者はわたしの言うことを信じても良いかもしれない。わたしはわたしの知っていることしか書かないから。いやらしい鳥ばかりが入った鳥かごで、二一年間も暮らしたのだから。わたしが経験し、この目で見たことから、わたしはこう証言できる。奴隷制は、黒人だけではなく、白人にとっても災いなのだ。それは白人の父親を残酷で好色にし、その息子を乱暴でみだらにし、それは娘を汚染し、妻をみじめにする。黒人に関しては、彼らの極度の苦しみ、人格破壊の深さを表現するには、わたしのペンの力は弱すぎる。
 しかし、この邪な制度に起因し、蔓延する道徳の破壊に気づいている奴隷所有者は、ほとんどいない。葉枯れ病にかかった綿花の話はするが我が子の心を枯らすものについては話すことはない。

この本を読了した後では、「奴隷制は、黒人だけではなく、白人にとっても災いなのだ」この言葉がなおいっそう重くのしかかる。

黒人奴隷たちを虐待する白人も、そのほとんどは奴隷制がなければ、穏やかで礼儀正しい人たちでいられたはずだ。
奴隷制があり、生まれたときからその制度にどっぷり浸かっていたからこそ、彼らは冷酷で無慈悲で不節操な生き方をすることになった。それは彼ら自身にとってもすごく不幸なことだ。

『ある奴隷少女に起こった出来事』の中で最大の悪役として描かれるドクター・フリントも、奴隷制度がなければむしろ人徳のある医師として生きていたんじゃないかと思う。
人を人として扱わないことは、虐げられる側だけでなく、虐げる側の心をも蝕んでいく



この本、一度は自費出版で刊行されたものの大きな話題にはならず、人々からほぼ忘れられた。
しかし出版から126年後に歴史学者がこの本がノンフィクションであることを明らかにし、それをきっかけにアメリカでベストセラーになったそうだ。
そして、訳者はプロの翻訳者ではなく、翻訳とは無関係の会社員。たまたま原著に出会い、翻訳しようと思い立ったのだという。

たまたま無事に逃げることができた黒人女性が書いた本が、たまたま学者の目に留まって再販され、たまたま一人の日本人が出会ったことでこうして日本語で読むことがができる。
偶然のつなわたりのような経緯をたどってこの良書が文庫として読めることに心から感謝したい。

こういう世界を見せてくれるからこそ、本を読むのはやめられない。

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2019年2月2日土曜日

修学旅行の方法


ふと思ったんだけど、日本人って修学旅行によって旅行の方法を身につけてるんじゃないかな。

修学旅行ってめちゃくちゃ準備するじゃない。
たかだか二泊三日なのに、何ヶ月も前から綿密なスケジュール立てて、持ち物を用意して、何度も何度も忘れ物がないかチェックして、出発前日には結団式とかいうわけのわからん儀式までやって、やっと旅行に行く。

で、大人になって何度か旅行をしてみてやっと気づく。
ぜんぜんスケジュールなんて立てなくていいや。どうせ予定通りにならないし。予定通りにしすぎたらつまんないし。
持ち物も、わざわざ用意しなくてもふだん使っているものを鞄に詰めこめばいいや。何か忘れたって、お金とパスポートさえあれば後はどうとでもなるし。
修学旅行のときにかけられた呪いがようやくとける。


どっちのやりかたがいいというわけでもないんだけどさ。すべてをコントロール下に置きたい人だっているだろうけどさ。

でも修学旅行式の旅行ってダサいよね。

何週間も前から下準備していよいよ旅行当日です、ってよりもふらっと思いたってリュックひとつで旅に出ました、のほうがだんぜんかっこいい。
群ようこさんの本に『鞄に本だけつめこんで』ってのがあるけど(内容は旅行記ではなく読書エッセイ)、鞄に本だけつめこんで旅立つなんて理想の姿だ。

修学旅行の準備をガチガチにやるのもわかるんだけど。極力トラブルを起こさないようにしようというやりかた。教師の立場だったらそっちのほうがいいに決まってる。
でもあれは旅行の準備というより出兵の準備だよなあ。


2019年2月1日金曜日

国境に作るのは壁か溝かの考察


米大統領が国境に壁をつくるといってるけど、なぜ壁なんだろう?


素人考えだけど、不法移民の侵入を防ぐなら、壁より溝(または堀)のほうがいいんじゃないかと思うんだけど。
以下、その理由。

1.壁より溝のほうが建設コストが小さそう


壁を建てるより、穴を掘るほうがかんたんなんじゃないのかな。
掘った分の土を溝の両脇に固めれば、壁+溝+壁でより強固になるし。

2.溝を越えるほうがむずかしくない?


壁だったら、その近くに足場をつくって超えることができる。 でも溝から這いあがるためには、溝の中に足場を作らないといけない。こっちのほうがむずかしい。

3.不法入国者を捕まえやすい


溝の中に入ってしまえば、進むのも退くのも容易ではなくなる。溝の中にいるときに衛兵に見つかったらまず逃げられない。



……と、溝のほうがいいんじゃないか? と思ったんだけれど、よく考えると万里の長城やベルリンの壁など、人の行き来を制限するときに作られるのはまず壁だ。
日本の城は堀で囲まれていることが多いが、城は緊急時以外は出たり入ったりしないといけないものだから、国境に作られる壁とは性質がちがう。

先人たちが壁を選んでいるということは、やはり溝より壁のほうが侵入を防ぐのに向いてるんだろうな。なぜだろう。

以下、溝のデメリットを考えてみた。

1.壁のほうが建設コストが小さい?


ぼくは建築の素人なので溝を掘るほうがかんたんと思っているけど、実際は壁をつくるほうが穴を掘るより楽なのかもしれない。
壁は頑丈であればせいぜい一メートルぐらいの幅でいいけど、溝は最低数メートルの幅がないとかんたんに越えられるもんな。

2.向こう側が見える


溝は壁とちがって向こう側が見える。
刑務所が壁で囲っているのは、中が見えるとまずいからだろう。向こうが見えれば、あらかじめサインを決めておけば中と外で意思疎通もできるし。
また、弓矢や銃などの飛び道具を使えば溝を越えなくても攻撃をすることもできる。防衛上は壁のほうがはるかに強い。

しかしアメリカとメキシコを隔てる壁に関していえば、移民の侵入を防ぐのが目的なのだから、見えることは大した問題ではないと思うんだが。

3.橋をかけやすい


対岸に協力者がいた場合、溝のほうが壁より容易に向こう側に渡りやすい。ロープを渡して縄ばしごをつくるとかして。

4.埋まる


あっそうか。ここまで書いて気がついた。
溝は埋まるんだ。風などによって土砂が堆積して埋もれる。
それよりなにより、大雨が降ったら川になる。そしたら泳いだり船に乗ったりして渡れる。


そうかー。
やはり溝はだめだな。壁がいい。いや、国境に壁をつくるのがいいとは思わんけど。