2018年12月19日水曜日

【芸能鑑賞】『リメンバー・ミー』


『リメンバー・ミー』
(2018)

内容(Amazonプライムより)
家族に音楽を禁じられながらも、ミュージシャンを夢見るギターの天才少年ミゲル。ある日、彼はガイコツたちが楽しく暮らす、カラフルで美しい死者の国に迷い込んでしまう。日の出までに帰らないと、ミゲルの体は消えて永遠に家族と別れることに…。唯一の頼りは、陽気だけど孤独なガイコツのヘクター。だが、彼にも生きている家族に忘れられると、死者の国から存在が消えるという運命が…。絶体絶命のふたりと家族をつなぐ重要な鍵──それは、ミゲルが大好きな名曲リメンバー・ミーに隠されていた…。

ピクサーの真骨頂といってもいいような映画だった。
個性豊かな登場人物、ストーリーが進むにつれて明かされる真実、手に汗握るアクション、シンプルながら力強いメッセージ。どこを切り取ってもすばらしい。

ピクサーファンのぼくとしてはもっと早く観たかったのだが、五歳の娘に「これ観ようよ」と誘っても「やだ。プリンセスが出てくるやつがいい」と断られて、なかなか観ることができなかった。
そりゃあね。五歳の女の子からしたら『リトル・マーメイド』とか『眠れる森の美女』とかのほうがいいよね。ということで、そのへんの作品も観てもらった上で、「じゃあ次はいよいよ『リメンバー・ミー』ね」ということでようやく観させてもらった。



(ここからネタバレ)


いやあ、泣いたね。
中盤ぐらいで「たぶん最後はミゲルがママココといっしょに『リメンバー・ミー』を歌うんだろうな」と思って、その通りの展開になったんだけど、やっぱり泣いた。まんまとしてやられた、って感じだ。音楽の力って偉大だなあ。

序盤に
「祭壇に写真を飾られていないと死者の国から帰ってくることはできない」
「現世で誰からも忘れられたとき、死者の国で二度目の死を迎える」
というふたつのルールを自然な形で提示する。
そして中盤以降はその二つのルールが物語にいい制約を与え、ラストはこのルールが感動を生む。
ピクサーはほんとに物語作りがうまいよね。

最近「ラストに意外などんでん返し! あなたは伏線を見抜けるか?」みたいな小説や映画がよくあるけど、その手の物語はまあたいていつまらない。
伏線やトリックが読者を驚かせるためのものでしかないんだよね。驚かせたその先に何があるかが大事なのに。

その点『リメンバー・ミー』は、伏線の貼り方が巧みすぎて観終わった後でも伏線だったと気づかないぐらい。なんて上質な仕掛け。
しかも「観客をだますための仕掛け」自体は物語の中心に据えられていない。あくまで、メッセージを届けるための手段でしかない。

ミゲルが歌う『リメンバー・ミー』を聴きながらぼくは、自分が死んで数十年たった日のことに思いを馳せた。
自分が死に、娘が歳をとり、百歳の娘にも死期が迫る。そのとき、娘はぼくのことをおぼえていてくれるだろうか。ぼくと過ごした日のことをいまわの際に思いだしてくれるだろうか。

百年後のことまで想像させてくれる映画は、文句なしにいい映画だ。



ピクサー作品にははずれがない(『カーズ』を除く)。
だからこそこんな映画が作れたんだろう。

この設定を思いついたとしても、ふつうは金をかけてつくれない。
かわいいキャラは出てこないし、主人公もごくごくふつうの少年だし、行動を共にするのはガイコツだし、舞台は死者の国だし、とにかく地味だ。主人公の相棒も汚い野良犬だ。
とても客を呼べる設定ではない(現に、ぼくの娘はなかなか観ようとしなかった)。

それでもぼくが観ようと思ったのは、それがピクサー制作だから。信頼と安心のピクサーブランド。
そして見事に期待に応えてくれた。
名作ぞろいのピクサー作品の中でも、『トイ・ストーリー』シリーズ、『インクレディブル』シリーズの次に好きな映画になった。



ところで、この映画の舞台である死者の国には、
「現世の誰からも忘れられたら消える」
「死んだときの年齢で死者の国にやってくる」
という設定があるが、この世界は現世以上に少子高齢化がすごいだろうな。

医学の発達によって若い人はどんどん死ななくなっていて、死ぬのは年寄りばかり。おまけに子どもは忘れられて死者の国から消えるのも早い(子孫がいないから)。

じっさいにこの設定の死者の国があったら、年寄りであふれかえっていて目も当てられない状況かもしれないな。

戦争があったら一気に死者の国も若返るんだろうけど。


【関連記事】

【読書感想文】ピクサーの歴史自体を映画にできそう / デイヴィッド・A・プライス『ピクサー ~早すぎた天才たちの大逆転劇~』

【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』

【芸能鑑賞】 『インサイド ヘッド』


2018年12月18日火曜日

一日警察署長アイドルの所信表明


わたしはアイドルですが、警察署長になったからにはその責務を十分に果たしたいと考えています。
たとえ一日警察署長だからといってイベントに参加して愛想を振りまくだけでお茶を濁すつもりは毛頭ありません。
この警察署を県内一、いや日本一の警察署へと大改革をする所存であります。

もちろん容易なことではないのは承知しております。
なにより、わたしには明日になれば任期が切れるという時間的制約があります。
ですが時間を言い訳にするつもりはありません。

「今は時間がないから練習ができない」そう言って歌やダンスの稽古から逃げる人たちをわたしはたくさん見てきました。彼女たちはみんなアイドルの道を諦めていきました。

トップアイドルになるために必要なものはなんでしょうか。持って生まれた容姿、音感、魅力あるキャラクター。そういったものもたしかに必要です。ですがそれらは努力で補えるものです。
トップアイドルになるために欠かせないものは、決して諦めずに努力を続けることだとわたしは考えます。
自分でいうのもなんですが、わたしには才能があります。それは歌やダンスの才能ではなく、ましてや見た目でもありません。わたしが持っている才能は、言い訳をせずに努力を続けることができるという能力です。

ですから警察署長として、その才能を活かし、より良い警察署にするための努力を惜しまないつもりです。



まず、署員のみなさんには、前任者のやりかたは捨ててもらいます。

わたしはこの一日警察署長の依頼をいただいてから、過去十年分の公表している資料にあたり、重大犯罪検挙率、軽犯罪の発生率、交通事故発生率、そういったものの推移を確認いたしました。
全国平均と比較して、この署の数字はいずれも悪化しております。

ええ。みなさんの言いたいことはわかっています。
港湾部の再開発がおこなわれたことによって住民の流入が増え、それに伴って治安が悪化したといいたいのでしょう。そういった背景が治安に与える影響についてはわたしも重々承知しております。

ですが、あえて厳しいことをいいますがそれは言い訳です。
外部要因を見つけだして「我々のせいじゃないからどうしようもない」ということはかんたんです。ですが、それでは何も解決しません。

じっさい、これは他県の事例になりますが、同じように港湾部の再開発をしたT市の犯罪発生率はここ五年で低下しています。警察署と行政の連携による防犯キャンペーンが実を結んだ事例です。

同じような背景を持ちながら数字を向上させている事例がある以上、わが署管轄内の数字悪化は警察署に原因があると見られてもいっていいでしょう。



わたしはなにもみなさんに限度以上の努力を強いているわけではありません。
先ほど努力の重要性を説きましたが、それは自らに課すことであって、他人に強いることではありません。
ただやみくみに「努力しろ!」「がんばれ!」と叫ぶ人間は管理職失格です。管理職の仕事は、努力したくなるような仕組み、努力しなくても結果が出るような仕組みを整備することです。

これまで思うような成果が出なかったということは、方向性が誤っていたということ。それはつまりトップである警察署長の責任です。
これを修正するのが一日警察署長であるわたしの役割です。

そこでわたしが手はじめにおこないたいのは、警察署によるPRイベントの廃止です。
具体的にいうならば、今ここでやっているイベントです。「警察ふれあいさんさん祭り」でしたっけ? わたしに言わせれば、こんなイベントくそくらえです。

市民に開かれた警察署なんていりません。
警察官に求められるのは市民に迎合することではない! 市民を守ることです!
市民に「警察は何をやっているのかわからない」と思われるぐらいがちょうどいいのです。平和で安全な暮らしをしている人は警察の存在を意識しませんからね。

わかりましたか?
わかりましたね?
では、解散!

2018年12月17日月曜日

地下鉄がこわれた


地下鉄が止まった。
「信号故障のため停止しています」とのアナウンス。

信号故障とはめずらしいな、と思いながら文庫の続きを読む。


しばらくしても動かない。
地下鉄の駅と駅の間で停車しているので、どうすることもできない。職場に「少し遅れます」との連絡だけ入れ、また読書に戻る。

電車は動かない。
「信号故障のため停止しています」のアナウンスだけがくりかえし流れる。
うるせえなあ、進捗ないんだったらアナウンスしなくていいよ。ずっと同じメンバーが乗ってるんだからみんなわかってるんだよ。

時計を見るともう十五分も停まっている。
少し疲れてきた。
気づくと、本を読みながらずっと吊り革を握っている。電車が走っていないのだから吊り革につかまる必要などないのに、いつもの習慣で、目の前に吊り革があるとついつい握ってしまう。
こんなことならさっき座っておけばよかった。
さっき目の前の席が空いたのだが、隣にくたびれたおっちゃんが立っていたので座らなかったのだ。
ぼくが座らなかった席に座っているおっちゃんは、ずっとスマホでゲームをしている。おい、ちょっとはぼくに感謝しろよ。こっちはずっと立ってるんだぞ。そこは本来ぼくの席だぞ。譲ってもらった席でゲームやってんじゃねえよ、自己研鑽に励め。
おっちゃんは悪くないのに、憎らしくなってくる。

窓の外に目をやる。真っ暗だ。地下鉄なのであたりまえだけど。
なんでこんなところで止まるんだろう。
ブレーキの故障とかならしょうがないけどさ。
信号機の故障なら、そろそろっと徐行してせめて次の駅まで行くとかできないもんかね。電車のことは知らないけど、徐行運転とかできないんだろうか。

地下通路で停まるのと駅で停まるのではぜんぜん気分がちがう。
地下通路に停車するのはこわい。閉塞感がすごい。
気分が悪くなったらどうしよう。火が出たら。変な人が暴れだしたら。便意をもよおしたら。

どうせ停まるなら駅に停まってくれればいいのに。
トイレにも行けるし他の路線に乗り換えることもできるし一駅ぐらいなら歩けるし。

たぶん次の駅までは百メートルぐらい。
徐行で走ったって一分かからないだろう。だのにどうしてそこまで行かないんだ。こんな真っ暗の地下道で停車しているんだ。

ひょっとして何者かの意図がはたらいているのか。
わざわざぼくらをここに閉じこめたのか。いったい誰が。何のために。どうやって。いつまで。いま何問目。

こわいこわい。
大声でさけびたくなる。わああ。
ぼくがさけんだらみんなどうするだろう。逃げるかな。でも駅じゃないから逃げるとこなんてどこにもない。
案外みんな同じような心境かも。誰かがさけぶのを待っているのかも。
わああとさけぶ。となりのにいちゃんもさけぶ。本来ぼくの席だったところに座っているおっちゃんもさけぶ。おねえさんもじいさんもみんなさけぶ。

ぼくらのさけび声はどんどん反響して地下通路内に鳴りひびく。通勤電車の声の力はものすごい。その力は止まっていた地下鉄を動かす。さらに声は枕木を吹っ飛ばし、ホームに立っている人たちをなぎ倒し、時空も超えて、さけび声はぐんぐんぐんぐん飛んでいって信号を破壊する。

地下鉄が止まった。
「信号故障のため停止しています」とのアナウンス。

2018年12月14日金曜日

【読書感想文】岸本佐知子・三浦しをん・吉田篤弘・吉田 浩美「『罪と罰』を読まない」


『罪と罰』を読まない

岸本 佐知子 三浦 しをん 吉田 篤弘 吉田 浩美

内容(e-honより)
「読む」とは、どういうことか。何をもって、「読んだ」と言えるのか。ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがない四人が、果敢かつ無謀に挑んだ「読まない」読書会。

誰もが名前は知っているが、その分量の多さから「読んだことありそうでない本」であるドストエフスキー『罪と罰』。
その『罪と罰』を読んだことのない四人が、無謀にも読まずに『罪と罰』について語りあうという座談会。

序文で吉田篤弘氏がこう書いている。
 こうしてわれわれは、本当に『罪と罰』を読まずに読書会をしたのだが、「読む」という言葉には、「文字を読む」という使い方の他に、「先を読む」という未知への推測の意味をこめた使い方がある。
 このふたつを組み合わせれば、「読まずに読む」という、一見、矛盾しているようなフレーズが可能になる。「本を読まずに、本の内容を推しはかる」という意味である。他愛ない「言葉遊び」と断じられるかもしれないが、言葉遊びの醍醐味は、遊びの中に思いがけない本質を垣間見るところにある。
この試みはすごくおもしろい。
ぼくも「読んだことはないけどなんとなく知っている」作品をいくつも知っている。
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』といわれれば「あー強欲なユダヤ人の金貸しが血を出さずに肉をとれと言われるやつでしょ」といえるし、カミュの『異邦人』といわれれば「人を殺して太陽がまぶしかったからと答えるやつだよね」といえる。

ガンダムもエヴァンゲリオンもスターウォーズも観たことないけど、「黒い三連星が出てくるんだよね」とか「シンジ君がエヴァンゲリオンに乗せられて惨敗するんでしょ」とか「フォースの力を使って親子喧嘩をするんだって?」とか断片的な知識は持っている。

そういった「断片的に知っている」作品について、やはり知らない人同士で憶測をまじえながらああだこうだと話すのは楽しいだろうな、と思う。

だが。
企画自体はおもしろかったが内容は期待はずれだった。
まずメンツがイマイチ。
岸本佐知子氏、三浦しをん氏はよかった。両氏とも想像力ゆたかだし、どんどん思いきった推理をくりひろげてくれる。
篤弘 トータルで千ページ近い――。どうだろう? もしかして、第一部で早くも殺人が起きますかね。もし、しをんさんが、六部構成の長編小説で二人殺される話を書くとしたら、いきなり第一部で殺りますか?
三浦 いえ、殺りませんね。
岸本 どのくらいで殺る?
三浦 ドストエフスキーの霊を降ろして考えると――そうだなあ、これ、単純計算で一部あたり百六十ページくらいありますよね。捕まるまでにどれぐらいの時間が経つのかによるけれど、私だったら第二部の始めあたりで一人目を殺しますね。
岸本 それまでは何をさせとくの?
三浦 金策をしてみたり、人間関係をさりげなく説明したり。
岸本 そう簡単には殺さず、いろいろとね。
三浦 主人公をじらすわけですよ。大家がたびたび厭味なことを言ってきて、カッとなっては、「いやいやいや」と自分をなだめたり。
三浦しをん氏の「自分が書くとしたら」なんて、まさに作家ならではの視点で、なるほどと思わされた。

しかし吉田篤弘氏、吉田浩美氏は正直つまらなかった(この二人は夫婦らしい)。
わりとマトモなことを云う進行役みたいな立ち位置をとっているが、そのポジションに二人もいらない。
おまけに吉田浩美氏はNHKの番組で『罪と罰』を影絵劇で観たことがあるらしく、大まかなストーリーをはじめから知っている。はっきりいってこの企画には邪魔だ。他の三人の空想の飛躍を妨げている。おまけに「私は知ってますから」みたいな口調で語るストーリーがけっこうまちがってる。ほんとこいつは邪魔しかしてない。
おまえ何しにきたんだよ。ていうかおまえ誰なんだよ(経歴を見るかぎりデザイナーっぽい)。

読んでいて椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二の四氏がやってた『発作的座談会』を思いだしたのだが、発作的座談会のほうがずっとおもしろかった。
よくわかっていないことを適当にいう「酒場の会話」が自由気ままでよかったし、メンバーも行動派の作家、常識人の弁護士、世間知らずのイラストレーター、活字中毒の編集者とキャラが立っていた。あの四人で「〇〇を読まない」をやったらおもしろいだろうなあ。



あとちょっと冗長なんだよね。
『罪と罰』がボリューム重厚なわりにそれほどストーリー展開があるわけではないので、はじめは四人の謎解きを楽しんでいたが、だんだん飽きてきた。

分量を四分の一ぐらいにして、いろんなジャンルの本を四冊ぐらい扱ってほしかったな。「『東海道中膝栗毛』を読まない」とかさ。

ぼくも『罪と罰』を読んだことがないけど、この本を読んで、ますます読みたくなくなった。
ロシア人の長ったらしい名前も疲れるし。
あらすじで読むだけでも飽きるんだから、つくづく読むのがしんどい小説なんだろうなあ。



篤弘 もしかして、ソーニャって探偵役でもあるのかな。
三浦 「『リザヴェータおばさんを殺したのは誰なの!』。ソーニャは悲憤し、ついに安楽椅子から立ち上がった。」
篤弘 名探偵ソーニャ。
岸本 やがて憤りが愛に変わっていく。
浩美 捕まえたら、わりにイケメンだった。
三浦 「犯人はあの栗毛の青年に違いない。ああ、だけど彼って、なんてかっこいいのかしら。憎まなければいけない相手なのに、神よ、なんという残酷な試練をわたくしにお与えになるのですか!」
岸本 濃いめのキャラ(笑)。
三浦 「彼は敵。いけないわ」――第二部はこのようにハーレクイン的に攻めて、第三部で神の残酷さを本格的に問う宗教論争になだれこむ。

こういう、妄想がどんどん飛躍していくノリはすごくおもしろかったんだけどなあ。だけどこのノリが続かないんだよな。
三浦しをん氏、岸本佐知子氏の二人は残して、メンバー変えてべつの本でやってほしいなあ。


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2018年12月13日木曜日

【読書感想文】見えるけど見ていなかったものに名前を与える/エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』


『翻訳できない世界のことば』

エラ・フランシス・サンダース(著)
前田 まゆみ(訳)

内容(e-honより)
FORELSKET フォレルスケット/ノルウェー語―語れないほど幸福な恋におちている。COMMUOVERE コンムオーベレ/イタリア語―涙ぐむような物語にふれたとき、感動して胸が熱くなる。JAYUS ジャユス/インドネシア語―逆に笑うしかないくらい、じつは笑えないひどいジョーク。IKUTSUARPOK イクトゥアルポク/イヌイット語―だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること。…他の国のことばではそのニュアンスをうまく表現できない「翻訳できないことば」たち。

翻訳できない言葉、つまりある言語だけにしかないユニークな概念の言葉を集めた本。
日本語からも「こもれび」「積ん読」などが紹介されている。
「こもれび」なんて、なくても特にこまらない。日常会話でつかうことまずない。詩や歌詞ぐらいでしかつかわない。
でもこういう「なくてもいい言葉」をどれだけ持っているかが言語の豊かさを決める。なくてもいいからこそ、あるといいんだよね。

「積ん読」もすばらしい言葉だ。ダジャレ感も含めて。かゆいところに手が届く感じ。
積ん読も読書の一形態なんだよね。読まない読書。読んでないけど「いつか読もうとおもってそこに置いておく」ことが大事なんだよね。読書好きならわかるとおもうけど。
その感覚を「積ん読」という一語は見事に言いあらわしている。



『翻訳できない世界のことば』で紹介されている中でぼくのお気に入りは、トゥル語の「KARERU」。
これは「肌についた、締めつけるもののあと」という意味だそうだ。

言われてみれば、たしかに存在する。
パンツのゴムの痕やベルトの痕など。
だれもが見たことある。毎日のように見ている。
でもこれを総称して表現する言葉は日本語にはない。「肌についた、締めつけるもののあと」としか言いようがない。

この言葉を知るまえと知ったあとでは、目に見える世界が少し変わる。
これまではなんとも思わなかったパンツの痕が「KARERU」として意識されるようになる。ほんの数ミリだけ世界が広がる。

ドイツ語の「KABEL SALAT」もいい。
「めちゃめちゃにもつれたケーブル」という意味だそうだ(直訳すると「ケーブルのサラダ」)。
かなり最近の言葉だろう。ふだん意識しない。けれども確実に存在する。今ぼくの足元にも「KABEL SALAT」がある。イヤホンのケーブルもよく「KABEL SALAT」になっている。見えるけど見ていなかったものが、名前を与えられることではっきりと立ちあがってくる。


あとになって思いうかんだ、当意即妙な言葉の返し方」なんてのも「あるある」という現象だ。
だれもが経験しているはず。
「あのときああ返していればウケたはずなのに」と、後になってから気づく。言いたい。でももう完全にタイミングを逃しているから今さら言ってもウケない。あと二秒はやく思いついていれば。あのときあいつが話題をそらさらなければ。くやしい。



いちばん笑ったのはドイツ語の「DRACHENFUTTER」。


龍のえさ!
「こないだワイフが怒ってたからDRACHENFUTTERを与えたんだけど高くついたよ」みたいに使うんだろうな。
まるっきり反省していないのが伝わってきていいな。ぼくもつかおうっと。


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【読書感想文】骨の髄まで翻訳家 / 鴻巣 友季子『全身翻訳家』




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