2018年11月16日金曜日

Mー1グランプリ2018決勝進出者についてのあれこれ


Mー1グランプリ予選、三回戦と準々決勝の動画をGYAO!で視聴した。
いやあ、いい時代になった。
昔は観にいった人のレポートに頼るしかなかったもんなあ。

その中でぼくがおもしろいと思ったベスト3は、さらば青春の光(準決勝敗退)・天竺鼠(準々決勝敗退)・金属バット(準決勝敗退)だったので、つくづく予選審査員とは趣味があわない。まあ天竺鼠と金属バットに関しては落とされた理由もわかるけど。

あとマヂカルラブリーもおもしろかったが、一本調子なので決勝に行ったら前年同様撃沈していたような気がする。落とされるのもむべなるかなという感じだ。

さらば青春の光は抜群に良かったけどなあ。特に3回戦で披露していた「野球で例える」のネタは最高だった。発想もさることながら、後半になるにつれてどんどん無茶になっていく構成がいい。
しゃべりも立つし、ここを落とす理由がちょっとわからない。準々決勝の「怪談」は3回戦ネタよりは見劣りしたが、それでも悪くはなかったと思うけど。

それからミルクボーイはいつ決勝に行くんだろう。毎年準々決勝止まりなのがふしぎでしかたない。独自性もあるしめちゃくちゃおもしろいのに。元々おもしろかったのにひどい偏見を放りこんでくるようになってさらにおもしろくなった。
近いうちに決勝に行ってくれることを切望する。



決勝進出は、
和牛、霜降り明星、ゆにばーす、見取り図、かまいたち、スーパーマラドーナ、ジャルジャル、トム・ブラウン、ギャロップ
だそうだ(+敗者復活組)。

「このコンビが落ちて残念!」というのはあるが、「なんでここが決勝に?」と思うところはない。わりと納得のメンツだ。

とはいえ、個人的な好き嫌いはあって、和牛スーパーマラドーナがやるようながっちがちに固まったネタは好きじゃない。一字一句台本通り、どんな舞台で演じても寸分たがわず一緒、というような漫才は「よくできている」という思いが先に来てしまい、どうも笑えない。
ぼくが漫才に求めるのは「どこまでが台本通りなんだ」と思わせてくれるような即興性だ。昨年とろサーモンが和牛に勝っていた点はそこだと思う。
和牛とスーパーマラドーナはスタイルも完成されつつあるし、昨年までの自分たちを大きく上回ることはむずかしいんじゃないかなあ。

ジャルジャルぐらい徹底的にやるんだったら逆にその不自然さが気にならなくなるんだけどね。でもあれはもうコントでしょ。



今年はめずらしく正統派のしゃべくり漫才が評価されたな、とうれしく思う。やっぱり正統があってこその変わり種ですよ。

たとえばギャロップ。昔からずっと安定して質の良い漫才をしてきたコンビが評価されるのはうれしい。うれしいが、なぜ今、と思ってしまう。
予選のネタはたしかにおもしろかったけど、昨年までと比べて飛躍的に成長したかというとそうでもない。ギャロップはずっとこれぐらいの水準のネタをやってきた。今になって評価するんだったらもっと早くに評価してあげてよ。去年のとろサーモンもそうだったが。

かまいたちも二年連続の決勝だが、ネタの質は五年前から大きく変わったわけではない。というか五年ぐらい前にめちゃくちゃ脂に乗っていて、2012年にNHK上方漫才コンテストで優勝したときなどはぼくは腹を抱えて笑った。しかし全国的には鳴かず飛ばずだった。
たぶん今年だって去年のキングオブコント優勝がなければ二年連続の決勝進出はむずかしかったんじゃないかな。
評価するのが遅すぎるだろ、と言いたい。

見取り図も好きなコンビなので決勝進出はうれしい。が、逆にここはまだ早いのでは? という気もする。ツッコミはほぼ完成されてるんだけどね。
まだまだ伸びるコンビだと思うので、今年顔を売って来年以降で決勝常連になってほしい。

トム・ブラウンは今年の予選で知ったけど、これは決勝でウケるだろうなあ。出番順が後半だったら会場の雰囲気ごとかっさらってしまいそうだ。ただし審査員からの評価は分かれそうだが。
おもしろいが、でもこのコンビのネタを一日に二本観たいとは思わないな。2017年キングオブコントのにゃんこスターみたいになりそう。売れるだろうなあ。

霜降り明星ゆにばーすに関しては特に言うことないでーす!
みんながんばってくださーい。終わり。

2018年11月15日木曜日

【読書感想文】ショートショートにしては右肩下がり / 洛田 二十日『ずっと喪』


『ずっと喪』

洛田 二十日

内容(e-honより)
天才か、それともただの変わり者か…。異能の新人、デビュー!第2回ショートショート大賞受賞!受賞作「桂子ちゃん」を含む奇想天外な洛田ワールド、全21編!

奇想天外なショートショート集、ということだが正直いってどれも出オチ感がすごい。

たとえばはじめに収録されている『桂子ちゃん』
月に一回桂馬になってしまい(月経のようなものらしい)、桂馬のようにナナメ前にしか進めなくなってしまう少女が出てくる。

「桂馬の動き」という時点で個人的には受け付けなかったのだが、それはさておき。
(十年前ぐらいにぼくはネット大喜利にハマっていたのだが、大喜利の世界では「桂馬の動き」は手垢にまみれた発想とされていた。中級者が使いたがる安易な発想よね、という扱いだった)

「月に一度桂馬になってナナメ前にしか進めなくなってしまう」という導入はまあいい。
でもその後の展開がすべてこちらの期待を下回ってくる。「みんなは歩なのに」とか「敵地に入ったことで金に成った」とか、ぜんぜん想定を超えてこない。
でもまあ中盤はつまらなくても最後は鮮やかに落としてくれるんだろうと思っていたら、「妹は香車だった」というオチ。えっ、それオチ? 意外性ゼロなんですけど(オチばらしてもうた)。

『桂子ちゃん』が特につまらないのかと思っていたが、これが第2回ショートショート大賞受賞作らしい。
この賞のことは知らなかったが、これが大賞?
ううむ、ぼくの期待するショートショートとはちがうなあ……。

ショートショートの構成って「起・承・転・結」だったり「転・承・結」だったり「転・承・転・転・結」だったりするもんだけど、『ずっと喪』は「転・承・承・承」ばっかり。ほぼ全部が出オチで、右肩下がりの小説だった。



串カツに二度漬けをしてはいけない真の理由が語られる『二度漬け』や、村おこしのために桜前線の進行を食いとめようとする『円い春』はばかばかしくてよかった。

しかしこれは本の後半になって、ぼくが『ずっと喪』の読み方をわかってきたからかもしれない。

はじめは「ショートショート大賞」という肩書きや表紙や帯に釣られて「意外なオチ」を期待しながら読んでいたのだが、どうやらそれが良くなかったらしい。
どうせ大したオチはないんでしょ、と期待せずに読めばそれなりに楽しめることがわかった。

でもなあ。
やっぱりショートショートを名乗っている以上は、あっと驚く意外な顛末を期待しちゃうんだよな、こっちは。

いいショートショートになりそうなアイディアもあるのにな。「ここの種明かしを最後に持ってきたらおもしろくなったのに」と思う作品もあった。
小説として発表する以上は、アイディア一本勝負じゃなくて技巧もほしいなあ。

【関連記事】

星新一のルーツ的ショートショート集/フレドリック ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』

【読書感想文】 氏田 雄介『54字の物語』



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2018年11月14日水曜日

歯みがきをしているおじさんに訊きたい


職場のトイレで歯みがきをしている人がいる。

昼食後も歯をみがいたほうがいいに決まっている。だから歯みがきをする。
理屈はわかる。わかっちゃいるが、他人の歯みがきを見ることにどうも慣れない。

トイレに入って洗面台の鏡に向かって歯みがきをしている人がいると「あっ」と思う。
見てはいけないものを見てしまったような気分。
トイレの個室を開けたら中に人がいたときのような気分。

なぜだろう、歯みがきってなんか恥ずかしい。見られるのも見るのも。

職場で歯みがきをする人は、恥ずかしくないのだろうか。手を洗うくらいの感覚なのだろうか。
耳かきはどうだろう。職場で歯みがきをする人は耳かきも人前でできるだろうか。爪きりはどうだろう。垢すりはどうだろう。

ぼくはぜんぶ恥ずかしい。歯みがきも耳かきも爪きりも垢すりもぼくの中では「排泄」に近い行為だ。


歯みがきをしているおじさんに訊きたい。

ねえ、歯みがきを赤の他人に見られるのって恥ずかしくないですか。口を大きく開いたり横に伸ばしたりして、毛の生えた棒を口の中につっこんで、歯くそをかきだす行為ですよ。どうですか、それをぼくに見られている気持ちは。歯ぐきまで丸見えですよ。ほらほら、恥ずかしいんでしょう、顔が真っ赤になってきましたよ。もう歯ブラシはよだれでびしょびしょですよ。口では嫌がってても身体は正直なんですね、おじさん。そんなにも口の中をきれいにしたいんですか、おじさん。「きれいにしたい」って言ってごらんなさいよ。人前で歯をみがいて喜ぶなんて、ほんとにいやらしいおじさんですねぇ。

2018年11月13日火曜日

【読書感想文】朝ドラのような小説 / 池井戸 潤『民王』


『民王』

池井戸 潤

内容(e-honより)
「お前ら、そんな仕事して恥ずかしいと思わないのか。目をさましやがれ!」漢字の読めない政治家、酔っぱらい大臣、揚げ足取りのマスコミ、バカ大学生が入り乱れ、巨大な陰謀をめぐる痛快劇の幕が切って落とされた。総理の父とドラ息子が見つけた真実のカケラとは!?一気読み間違いなしの政治エンタメ!

総理大臣とその息子の心が入れ替わってしまい、さらには大臣や野党党首もそれぞれ子どもと心が入れ替わってしまい……というドタバタ小説。

なんというか、お手本のようなエンタテインメント小説って感じだったな。悪い意味で。

起承転結がはっきりしていて、ほどほどに諷刺とユーモアが散りばめてあって、スピード感があって、後半にはピンチが訪れて、主人公が熱いセリフを吐いて、いろいろあったけど最後は大団円……とまあ、ほんとにエンタテインメント小説の教科書を読みながら書いたのかなってぐらい。

よくできているし誰が読んでもそこそこ楽しめるだろうなって感じの小説だけど、終わってみればあんまり印象に残らない。
官能小説のストーリーぐらい印象に残らない。



ぼくは「半端なリアリティ」が嫌いだ。
フィクションなんだからむちゃくちゃ書いたっていい。だけど世界感は統一させてほしい。どんなに無茶な設定でも、その中では整合性を持たせてほしい。

『民王』はまさに「半端なリアリティ」を持った小説だった。
もう「総理大臣と息子の心が入れ替わる」って時点でむちゃくちゃなんだから、そこに理由なんていらないんだよ。どれだけ理由をつけたって嘘くさくなるだけなんだから「気がついたら入れ替わっていた」だけでいい。

それなのに長々と、やれテロだのやれ製薬会社の陰謀だの、愚にもつかない理由を並べはじめる。
うるせーよ。どんな技術だよ。
なんで心を入れ替える技術を使って総理を息子と入れ替えて失脚させようとするんだよ。まわりくどすぎるだろ。企んだやつが総理になるほうがよっぽど手っ取り早いじゃねえか。

矛盾点を書きだしたら永遠に終わらないのでもうやめとくが、とにかく設定がぐずぐず。
もっとうまく読者をだましてくれよ。



政治を扱った小説ということで政治家に対する諷刺も効かせてるんだけど、その諷刺もやたらとお行儀がよい。
 自分の口から出てくる言葉のたどたどしさに、翔はあきれた。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。「なんつーか、我が国はいま、アメリカ発の金融、えーと、金融キキンによる、あー、ミゾユーの危機にジカメンいたしており、景気は著しくその、テイマイしておるところでございます」
 場内がざわつき始めたが、翔にはその理由がわからなかった。
麻生太郎元総理がぜんぜん漢字を読めなかったことをなぞっているんだろうけど、こんなのは当時さんざんイジられていたことだから、ぜんぜん毒っけがない。

「ほら政治諷刺をしてみましたよ。こういうの書いたらみなさんおもしろがるでしょ」
という小手先テクニックって感じなんだよね。笑えねえよ。ザ・ニュースペーパーかよ。
やるなら政党から怒られるぐらいやってよ。

皮肉もメッセージもエピソードも、ぜんぶどこかで聞いたことのあるような平べったい内容で、なんでこんなワイドショーの薄口コメントみたいな小説を読まなきゃいけないんだとだんだん嫌になってきた。

池井戸潤氏の『空飛ぶタイヤ』は自分の経験を活かした熱いメッセージが胸に響く小説だったのに、『民王』はぜんぜんだった。

あ、言っておくけどつまんなかったわけじゃないよ。おもしろかったよ、そこそこ。
そこがまたイヤなんだよね。安定感がありすぎて。少しもドキドキしない。

おもしろくなくてもいいからこれを書くんだ! みたいな文章がひとつもなかった。
朝の連続ドラマ小説のような平和きわまりない小説だった。

【関連記事】

"大企業"の腐敗と終焉/池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』【読書感想】



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2018年11月12日月曜日

【読書感想文】アヘンの甘美な誘惑 / 高野 秀行『アヘン王国潜入記』


『アヘン王国潜入記』

高野 秀行

内容(e-honより)
ミャンマー北部、反政府ゲリラの支配区・ワ州。1995年、アヘンを持つ者が力を握る無法地帯ともいわれるその地に単身7カ月、播種から収穫までケシ栽培に従事した著者が見た麻薬生産。それは農業なのか犯罪なのか。小さな村の暖かい人間模様、経済、教育。実際のアヘン中毒とはどういうことか。「そこまでやるか」と常に読者を驚かせてきた著者の伝説のルポルタージュ、待望の文庫化。

稀代の冒険ルポライター高野秀行さんの出世作。

高野さんの本は何冊も読んでいるが、その上で『アヘン王国潜入記』を読むと、文章が若い。肩に力が入っているというか。
誰もやったことのないことをやったるでえ、という気負いのようなものが感じられる。
決死のルポルタージュって感じよね。個人的には近年の「肩ひじ張らずに誰もやったことのないことをやっちゃう」感じのほうが好き。



東南アジアに、ゴールデン・トライアングルという世界最大の麻薬密売地帯がある。
その中でも特にアヘンの栽培量の多いワ州に高野さんが潜入して、村人の生活を観察したルポルタージュ……というとずいぶんものものした感じだが、描かれているのはいたってのんびりした生活だ。

そもそもアヘンの栽培が現地では非合法ではないので、殺伐とした雰囲気はない。村人はアヘンの種をまき、間引きをし、草刈りをし、アヘンが実ってきたら収穫をする。ただの農業だ。
ワ州というところは、国家でいうと一応ビルマに属しているが、そこに住んでいるのはワ族という少数民族であり、言語もワ語という独特の言葉を使うので、ほとんど独立国家である。
村人は基本的にアヘンはやらない(一部やる人もいる)し、村人間で現金のやりとりをほとんどしないので、村の生活はいたってのどかなものだ。
(とはいえワ族は少し前まで首狩り族として付近一帯に知られていたらしい)



本の後半には、高野さんがアヘンを吸うシーンも出てくる。
そりゃあね。
「アヘン王国に行ってきました。アヘンを栽培してきました。でも吸ってません」ではルポにならないよね。
やっぱりいちばん知りたいのは「アヘンを吸うのってどんな気分?」ってとこだもんね。

たぶん高野さんがいちばん伝えたかったのはそこじゃないんだろうけど、読者が知りたいのはそこなんだよなあ(このギャップに対する歯がゆさがあとがきなどからびんびん感じられる)。
 私の番になった。ランプの灯にアヘンをあてながら、ゆっくりと長く吸い込む。私の吸気でゆらめく薄い炎、ジジジッというアヘンが身を焦がす音、たなびく天上の香り、そして肺ではなく腹の底に降りていくようなモワッと柔らかい煙。
 アイ・スンと交互に何回吸っただろう。時間にして一時間以上たっていた。アヘンはなくなり、アイ・スンは「そのまま静かに寝ていろ」と言って寝床を出た。言われるまでもなく、私はもう夢うつつであった。しかし、このアヘンの効き目のすごさといったら! 頭蓋骨痛も、胃の不快感も、下痢も、節々のだるさも瞬時に消えてなくなった。身体は毛細血管の隅々まで暖かい血流がめぐり、全身がふわふわと浮き上がるような感じだ。眠りに引き込まれるときのあの心地よい瞬間が持続しているのを想像してもらえば、いくらかわかるかもしれない。
まずい、これを読んでると吸いたくなる……。
めちゃくちゃ甘美な気分なんだろうなあ。だからこそ多くの人が中毒になるし、それがきっかけで戦争まで起こっちゃうんだろう。

アヘンは麻薬ヘロインにもなるが、医療用のモルヒネにもなる(ちなみにヘロインも元々は薬として売りだされたそうだ)。
壮絶なガンの痛みを抑えるのに使われるぐらいだから、ちょっとした疲れなんかはたちまちふっとんでしまうんだろう。

一生に一度ぐらいはやってみたいなあ、すごくしんどいときに使う分にはいいんじゃないかな、要は風邪薬で熱やだるさを抑えるのと同じだろう。
……なんて思いながら読んでいたんだけど、高野さんがだんだんはまっていく姿を読むにつれて「やっぱりアヘンこえぇ」とおそろしくなってきた。

べつの本で高野秀行さんが「ルポのためにもぐりこんだはずがアヘン中毒になりかけたことがある」と書いていたが、中毒になりかけたなんてもんじゃない、完全に中毒者だ。
なにしろ毎日のようにアヘンを吸って、吸引をやめたら動けなくなり、アヘンを育てている村人たちから「おまえもうアヘンはやめとけ」と止められるぐらいなのだ。
よく無事に帰ってこられたものだと思う。

アヘンダメ、ぜったい。
とはいうもののやっぱりちょっとは気になる。
末期ガンになったらモルヒネ打ってもらおうっと。



ワ人の男は、あまり死をおそれないそうだ。
 ワ人はふだんはけっして勇ましくもないし、気性も激しくない。どちらかといえば温和で、ひじょうに礼儀正しい。そして、何より従順だ。こういう人たちが戦争になると、死を恐れず敵に向かって突っ込んでいくのだ。
 しかし、この夜、「どうして怖くないの?」と重ねて聞いたときのアイ・スンの答には、ほんとうに驚いた。「おれが死んでもアイ・レー(長男)がいる。アイ・レーが死んでもニー・カー(次男)がいる。二ー・カーが死んでもサム・シャン(三男)がいる。サム・シャンが死んでもアイ・ルン(四男)がいる」
 こう平然と言ってのけたのだ。ふつうなら「おれが死んでも子どもたちがいる」くらいで止まるだろう。仮にも「長男が死んだら」などと口には出さないものだろう。それを息子三人までは死んでもかまわないと明言するのだ。ひどいことを言うものだと思った。末っ子のアイ・ルンは彼が毎朝あやしている赤ん坊でまだ生後三カ月である。それさえ生き残ればいいと言うのだ。

この死生観は、現代日本人からするとなかなか理解できない(戦時中の日本人には理解できるのかもしれない)。
いやいや自分が死んだらそれでおしまいじゃないか。いちばん大事なのは自分の命でしょ、と。
子どもを守るなら命を落としてもかまわない、であれば理解できる。ぼくも究極の選択をせまられたら命を捨ててでも子どもの命を守るほうを選ぶかもしれない。
でも「子どもを守るためなら死ねる」と「子どもがいるから戦争で死ぬのが怖くない」はぜんぜんちがう。なによりやっぱり死ぬのはこわい。


でも、もしかしたら生物としては「死ぬのがこわい」のほうが異常で、「自分が死んでも子どもがいる」のほうがずっと自然なことなのかもしれない。
ミツバチやアリはこういう行動をとる。同じ遺伝子を持ったきょうだいのためなら命を投げだすことをいとわない。
生物なんてしょせん遺伝子の乗り物。遺伝子的に見れば各個体の命なんてものはたいして価値がない。
ミツバチやアリにかぎらず、人類の歴史においても「子孫やきょうだいが生き残ればそれでいい」のほうがふつうだったのかも。そうじゃなきゃ戦争なんてできないし。
長いスパンで見れば、「死んだらすべておしまい」のほうが例外的な価値観なのかもしれない。

この本には、ワ州の村の風習である「その家の男が死んだら家をつぶしてしまう」という行動が描写されている。
「まだ女が住んでいるのにずいぶん乱暴な話だ」とびっくりした。

でも、これもよく考えたら自然なことかも。
女だけでは子孫を残すことができないのだからいつまでも古い家で思い出にひたっていてもしかたがない。
それなら家は壊して建材は他で使い、残された女はさっさと他の家に嫁いだほうが(遺伝子を残すという点では)いい。

原始的な生活を送っているワ州のほうが、文明国の人間よりも「遺伝子を次の世代に受けつぐ」という観点では合理的な行動をとっているのかもなあ。


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【読書感想文】高野 秀行『世にも奇妙なマラソン大会』

自分の人生の主役じゃなくなるということ




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