2024年9月30日月曜日

【読書感想文】浅倉秋成『六人の嘘つきな大学生』 / 白黒つけない誠実さ

六人の嘘つきな大学生

浅倉秋成

内容(e-honより)
IT企業「スピラリンクス」の最終選考に残った波多野祥吾は、他の五人の学生とともに一ヵ月で最高のチームを作り上げるという課題に挑むことに。うまくいけば六人全員に内定が出るはずが、突如「六人の中から内定者を一人選ぶ」ことに最終課題が変更される。内定をかけた議論が進む中、発見された六通の封筒。そこには「●●は人殺し」という告発文が入っていた―六人の「嘘」は何か。伏線の狙撃手が仕掛ける究極の心理戦!


 就活で大人気企業の最終選考に残った六人。みんなそれぞれ優秀でまじめでユーモアもあり人当たりのいいメンバーばかり。

「六人で話し合って内定者を一人選んでください」というテーマでグループディスカッションをおこなうことに。はじめはそれぞれお互いを讃えあっていたが、メンバーの過去を暴露する封筒が見つかったことで様相は一変。状況から考えて封筒を仕掛けたのはこの六人の中の誰か。はたして“犯人”は誰なのか。残りの封筒に書かれているのは何か。そしてこのグループディスカッションを制する者は誰なのか……。


 就活の場を舞台にしたサスペンスミステリ。以前に根本聡一郎『プロパガンダゲーム』の感想でも書いたけど、だましあいゲームの舞台として就活の選考はふさわしい。なぜなら、現実にいろんなゲームをやらされるから。ディスカッション、ロールプレイング、協力ゲーム。そして就活生は言いなりになるしかないから。

 安い漫画だと「さあここにいる皆さんで殺し合いをしてください」みたいに言われてすんなり話が転がり始めるけど、実際にはそううまくいかなくて、硬直状態が続くとおもうんだよね。デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』によれば、銃を持っている兵士のほとんどが、自分の身に危険が迫っているときでさえ敵兵に向かって発砲しなかったのだそうだ。人間の「殺したくない」という意識はすごく強いので、急に加害的にはなれないのだ。

 でも就活という舞台があればけっこう変なことでもできちゃう。引っ込み思案な人が自分の美点について朗々と語ったり、温和な人がやたら攻撃的になったり。なぜなら就活生はほとんど狂っているから。狂わないとやってられないから。だって就活自体が異常な場なんだから。


 何も成し遂げていない学生を集めて「あなたは弊社にどんな貢献をできますか?」と尋ねるとか、どう考えてもおかしいじゃん。

 常識的な人間ならそう聞かれても「いやわかりませんよそんなの。まだ働いたことないんですから」「やってみないとわからないですけど、あんまりお力になれないとおもいますよ」とか言うでしょ。

 でも就活では「はい、私には行動力があり、深い洞察力があります。それを裏付けるエピソードとしては……」みたいな自慢が披露される。狂ってるから。

 新卒採用する側の担当者も頭おかしくなっちゃうんだろうね。何百人、何千人も応募してくるから、えらくなったとおもっちゃう。かぐや姫みたいに「私の心を射止めたかったら私の出す無理難題に答えなさい」と高飛車になっちゃう。



 ということで『六人の嘘つきな大学生』は異常な人が異常なことをしでかす小説なんだけど、人を狂わせる場である就活の舞台を用意することでけっこう調和がとれている。

 あー就活のときだったらこれぐらいおかしなことをやっちゃうかもなーって気になる。ぼくも就活をやっていたのでよくわかる。あのときはほんとに追い詰められてて気が変になってたからなあ。

 それにしても、就活って今考えてみても、本当にキモかったよね。え? 思わない? 私、死ぬほど不愉快だったな……。何って、就活の全部が。もちろん状況的に追い込まれてるから少し周囲に対しての目がシビアになっていたのはあると思うけど、でもたぶんそういうことじゃないよ。未だに思い出すと鳥肌が立つし、何ならね、電車で就活生を見かけるだけでもキモいなぁ、って思うよ。悪いけどね、でも、しょうがないでしょ。キモいもんはキモいんだから。
 あれとか最悪だった、ほら、あの、集団面接とか、グループディスカッションが終わった後に声かけてくる人。この後、ちょっとみんなでお茶でも行きましょうよ、ってやつ。死ぬほど気持ち悪かった。「人脈を作るのって大事ですよね。やっぱりこういう情報交換の時間が貴重ですから」って、ガキ同士でつるんで何が生まれるんだよって、本気で思ったよ。吐き気がしたね、本当。ああいう人たちって会社入ってからどんな顔して働いてんだろ。気になるわぁ。

 実際に就職して何年か経つとあの就活時代が異常だったと気づくんだけど、渦中にいるときはわからないんだよなあ。

 ぼくは何度か転職して面接を受けたし採用側として面接したこともあるけど、就職のときのような「我々があなた方を試します」みたいな雰囲気はあんまりなかった。「あなたはこういうことができるんですね。我々はこの条件を提示できます。お互いに納得すれば入社してもらうことにしましょう」という、いたってまともな“条件すりあわせの場”だった。就活だけが異常なんだよな。就活が金になることを発見した採用コンサル会社が一大イベントにしちゃったからかな。

 特に新卒採用やってる人事担当者がおかしくなっちゃうんだよね。

 当時、どうだった? 大げさに言うわけじゃなく、僕は人事っていうのは、会社の中でもエリート中のエリート、選ばれた社員の中の一握り中のたった一握りだけが配属されることを許される部署だと信じて疑わなかったんだよ。今思えば笑い話だけど、だって、そうだと思わない? 就活生を前にした彼らの、あの尊大な態度。そうでもなければ説明がつかないでしょ。入社してからびっくりしたよ、社内での人事部の立ち位置。誰一人として人事部を花形部署だとは認識していなかった、どころか──それ以上、敢えては言わない。でも、こんな無能どもに生殺与奪の権利を握られてたんだって思ったら、いよいよ殺意が湧いてきたよ。人を見極められるわけないのに、しっかりと人を見極められますみたいな傲慢な態度をとり続けてさ。当時、彼らは何を見ているんだろうって必死になって考えた。この間も言ったとおり、漫画の中みたいに画期的で、だけれども揺るぎようのない絶対的な指標があるに違いないって思い込もうとしてたんだ。間違いを犯さない、裏技があるって。
 でもさ、そんなもの、なかったんだ。あるわけがないんだ。
 すごい循環だなと思ったよ。学生はいい会社に入るために噓八百を並べる。一方の人事だって会社の悪い面は説明せずに噓に噓を重ねて学生をほいほい引き寄せる。面接をやるにはやるけど人を見極めることなんてできないから、おかしな学生が平然と内定を獲得していく。会社に潜入することに成功した学生は入社してから企業が噓をついていたことを知って愕然とし、一方で人事も思ったような学生じゃなかったことに愕然とする。今日も明日もこれからも、永遠にこの輪廻は続いていく。噓をついて、噓をつかれて、大きなとりこぼしを生み出し続けていく。そういう社会システム、すべてに、だね。やっぱりものすごく憤ってたんだ。

 そうだよなあ。ぼくがいた会社でも、新卒採用をする人事担当者って、会社の中でも“何をやってもだめな人”だった。営業で成績が出せず、広報でもとにかく問題を起こし、最終的に「新卒採用でもやらせとくか。どうせ最後は役員面接をするんだからあいつがヘマしても大きな問題にはならんからな」みたいな感じで人事に異動させられてた。考えてみれば当然で、仕事のできる人を利益を生まない部署に配置するはずないんだよね。まあ世の中には優秀な新卒採用もいるのかもしれないが、ぼくが見てきた中にはいなかった。


 人はとにかく人を見抜くのが下手らしい。管賀江留郎『冤罪と人類 ~道徳感情はなぜ人を誤らせるのか~』にこんなことが書いてあった。

 何故か根拠なく、自分は人の噓が見抜けるという〈自己欺瞞〉に掛かる者が多くいることが、心理学実験によって判明している。取調官がこういう根拠のない自信を持つと悲劇が生まれることになる。警察官や裁判官などは経験を積むほど自分は噓を見抜く能力があると思うようになるが、現実には素人と能力は変わらず、しかも噓を見抜く能力があると思っているほど逆に成績が下がることが実験によって証明されているのである。

 就活の場ではほとんどの学生が嘘をついている。その嘘を見抜ける人はいない。経験を積んでも嘘を見抜けるようにはならず、それどころか自信の強い人ほど己の自信に目がくらんで嘘を見抜けなくなるらしい。

 結局、優秀な学生を採用するのに必要なのは“運”ということだ。つまり誰がやってもほとんど一緒。当然、優秀な社員にやらせるわけがない。

 就活の選考方法は多種多様なのが「面接やテストなどで学生の資質など見抜けない」ことの何よりの証左だろう。もし本当に効果のある方法があるのなら、どの会社もとっくにそれを取り入れているはずだから。




 就活についての愚痴ばかり書いてしまった。『六人の嘘つきな大学生』の感想。

 うん、おもしろかった。ネタバレになるのであまり書けないけど。

「誰が封筒を置いた犯人なのか、誰が内定を勝ち取るのか」パートもおもしろかったが、選考が終わった段階で物語はまだ半分。後半は、前半に見えていたのとはまた違う景色が見えてくる。

 白に見えたものが黒であったことがわかり、そうかとおもったら意外と白くてうーんやっぱりグレー、みたいな感じ。


『六人の嘘つきな大学生』は起伏の富んだミステリとしても成立させつつ、はっきり白黒つけないという誠実さも持ち合わせている。すごくむずかしいことをしている。この人は悪い人に見えて本当は善人でした、こいつは実は悪人でしたーってやるほうがずっとかんたんだし、ミステリであればそれも許されるわけだし。

 すごく信頼のおける書き手だね。就活に対する醒めた見方も含めて。


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2024年9月23日月曜日

【読書感想文】管賀江留郎『冤罪と人類 ~道徳感情はなぜ人を誤らせるのか~』 / わざと読みにくくしているらしい

冤罪と人類

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか

管賀江留郎

内容(e-honより)
18歳の少年が死刑判決を受けたのち逆転無罪となった“二俣事件”をはじめ、戦後の静岡で続発した冤罪事件。その元凶が、“拷問王”紅林麻雄である。検事総長賞に輝いた名刑事はなぜ、証拠の捏造や自白の強要を繰り返したのか?アダム・スミスからベイズ統計学、進化心理学まで走査し辿りついたのは、“道徳感情”の恐るべき逆説だった!事実を凝視することで昭和史=人類史を書き換え、人間本性を抉る怪著。

 かつて静岡県警に紅林刑事という人物がいた。数々の難事件を解決したことで三百回以上も表彰を受けた“名刑事”。だが彼が捜査を担当した事件で、後に冤罪であったことが発覚。紅林刑事(およびその部下)が拷問で偽の自白を引き出していたことがわかり、現在では「拷問王」と不名誉な名前で呼ばれることもある。

 そんな紅林刑事が捜査に関わった「二俣事件」などを糸口に、冤罪につながった背景に迫る。



 無罪の人を拷問して自白に導き、真犯人を見逃すことにもなったため紅林刑事は極悪非道な人物だとおもわれがちだ。ぼくもこの本を読むまではそうおもっていた。浜田 寿美男『自白の心理学』という本で紅林刑事の存在を知ったのだが、なんてひどい男なんだろうと憤慨したものだ。きっと、逆上しやすく、知性に欠け、血も涙もない人物なんだろうと。

 ところが著者は、紅林刑事の捜査ミスを暴きつつも、通りいっぺんの残虐イメージもまた誤っていることを指摘する。

 一方の出張ってきた紅林警部補も、二俣署員を配下に加えて捜査を指揮したものの、あくまで自分たちは応援部隊だという建前を守って二俣署員には非常に気を遣っていた。 「誰れもやり手は無いだろうが、一応捜査はしなくてはならんでな。地元である二俣署の人にやって貰いたい。山崎君すまんがやってくれんか」
 仕事を頼むにもこんな調子だった。さらには、捜査方針に疑問を持った山崎刑事の進言を退けるときなどでも威張ったり莫迦にしたりすることはなく 「山崎君、捜査というものはなあ、そう深く考えては駄目だよ」 といった具合に柔らかく丁重に接していることが、紅林警部補を憎んでいるはずの山崎氏の著作『現場刑事の告発』からも読み取れる。
 現代の県警本部の捜査主任でも、捜査方針に口出しをしてきた所轄署の一番下っ端の刑事にこのような接し方ができる者はそうはいないだろう。ましてや、これまで難事件を次々解決して全国に名を馳せている犯罪捜査界の生ける伝説なのである。
 冷血そうに見える顔つきや、数々の拷問冤罪事件によって誤解されているが、紅林警部補は部下の面倒見が大変によく、また慕われており、たとえ小さな町の自治警相手でも気配りのできる人であった。むしろ、こういう周りに良い顔をしたい性格が、部下の働きに報いて自分の評判も高めるために無理やりにも成果を上げようとして、恐ろしい災禍を招いたとも云えるのであるが。

 ここで描かれる紅林刑事は謙虚で人当たりのいい人物だ。さらに知性派刑事であり、正義感の強い人物だったとも書かれる。いくつもの冤罪が知れ渡ったことで彼の刑事としての功績がすべて否定されるようになったが、それもまた逆方向に歪んだ見方であり、実際にまっとうな捜査で解決に導いた事件も多かったそうだ。

 紅林刑事は極悪非道な人物などではなく、むしろ正義感と責任感が強かったがゆえに違法捜査に手を染めてしまったのではないだろうか。

 紅林麻雄刑事が次々と冤罪を引き起こした根本的な原因に、この〈間接互恵性〉を成り立たせる原理である〈評判〉が関わっているのは明らかだからだ。
 紅林刑事は部下思いで誰にでも気配りのできる、〈共感〉能力の人一倍高い人だった。こういう人物が、マスコミにも注目される大事件で大勢の部下を引き連れて捜査をしているのに、一ヶ月以上も犯人を挙げることができず非難を浴びたらどうなるのか。〈浜松事件〉によって実像以上の権威に祭り上げられて、巨大なる虚構の〈評判〉をすでに得ていたらなおさらである。
 しかも、〈浜松事件〉の事例を見る限り犯罪捜査にはあまり向いていなかったようだが、彼の知性は極めて高く、また非常に熱心な性格であった。これらが組み合わさって初めて、あれだけの大掛かりな冤罪事件が引き起こせたのである。
 清瀬一郎弁護士も『週刊読売』で、こんなことを云っている。 「わたしは、紅林君には、なんの恩怨もない。熱心で、頭のよい、有能な刑事にはいる人でしょう。ただ、その方法が悪かった。そこを反省してもらわなくちゃあ」
 一連の冤罪事件でほんとうに怖いのは、紅林刑事が〈共感〉能力の高い、ある意味、善人だからこそ引き起こされた点にある。彼自身は悪を憎み、冤罪被害者をほんとうの犯人だと思い込み、でっち上げの意識は微塵もなかったと思われる。拷問や時計のトリックなども、彼の中では「真犯人」を逃さずにきちんと罰するためなのだろう。
 本書を読んで、自分が被害を受けたわけでもないのに紅林刑事を憎み、罰したいと思った読者諸氏の胸奥から突き上げるであろう感情は、〈間接互恵性〉の進化により人間が身につけた〈道徳感情〉だ。しかし、その同じ〈道徳感情〉が惨憺たる冤罪を生み出したのである。まず、この点を多くの人々が自覚せねばならない。

 このブログでも常々書いているが、正義は暴走する。これはまちがいない。とんでもなく非道なことをするのは、悪ではなく、正義だ。自分は悪だとおもっている人は、ほどほどのところで止める。なぜなら「これ以上やったら捕まるな」「結果的に損しそう」といった計算が働くから。だが正義はとどまることを知らない。どこまでも突き進んでしまう。

 以前、歩道橋の上で通路いっぱいに広がって「盲導犬のために募金をお願いしまーす」とやってる団体がいた。ものすごく邪魔だった。

 きっと彼らひとりひとりはふだんは常識人で「他の人の通行の邪魔をしてはいけない」という意識を持って行動しているとおもう。でも「正義」という大義名分を手にしてしまったとたん、「他の人の邪魔にならないように」なんて意識は己の正義の前にふっとんでしまい、平気で迷惑行為をできる人間になってしまう。

 ほとんどの人は平和を愛しているのに戦争が起こるのも、正義のせいだ。「隣の国を侵略してやれ」という悪意では、戦争のような大きな行動は起こせない。「愛する家族や友人を守るため」「殺された同胞の無念を晴らすため」という正義を掲げたとたん、ふつうの人がどこまでも残虐な行動をとってしまう。正義は法や常識や、もっといえば自分の命よりも強くなりうるので、特攻のような愚かな行動もとってしまう。



 断片的には興味深いことも書かれていたのだが……。

 とにかく読みづらい。話にまとまりがない。時代も空間もテーマもあっちへ行き、こっちへ行く。事実を事細かく並べているかとおもったら、著者の主張が滔々と展開される。

 なんでこんなに読みづらいんだろう。編集者のいない自費出版か?

 とおもっていたら……。

 本書はいくつかの出版社を渡り歩き、紆余曲折のうえに世に出すことができたものです。内容については誰も何も突っ込みを入れてくれなかったのですが、最初の編集者には「とにかく接続詞を入れろ」と、ただそれだけをうるさく云われました。
 仕方がないので、「だから」とか「そのために」とかの接続詞を入れていくと、バラバラだった話がどんどんつながって、ひとつの壮大なる〈物語〉になってゆくのにはいささか参りました。あらゆる事象を因果の織物として捉え、〈物語〉として読み取ってしまう人間の図式的理解を、すべての誤りの素であると批判する本書がそんなことで果たしてよいものなのか。
 もっとも、当方も、従来の冤罪本や歴史書の図式的記述が、それらの本で批判する冤罪事件や歴史的悲劇を引き起こした図式的理解とまったく同じ誤りを犯していたことを喝破する、という程度の〈図式〉は当初から用意して執筆をはじめたのでした。
 人間は、〈物語〉の形で提示しないと何事も理解はできないのですから致し方ありません。一冊でも多くの本を売ろうとする編集者が、バラバラの記述の羅列ではなく、ひとつの連なりとしての〈物語〉を要求するのは当然のことであります。かく云う当方とて、多くの人々に読んでもらいたいと思うからこそ本を執筆しているのであって、理解しやすい図式は用意します。また、読者も思った以上に〈物語〉を求めていることは、前著『戦前の少年犯罪』に対する反響で思い知ったことではあります。

 どうやら編集者は「もっと接続詞を入れてわかりやすく書け」と言っていたのに、著者の意向であえてわかりにくくしていたらしい。わざとまとまりをなくして、物語になるのを避けようとしていたそうだ。

 うーん……。裁判で「裁判員に予断を持たせたくないのでわざとストーリー性を排除した」とかならまだわからんでもないのだが……。でもなあ。やっぱり本として出版する以上は物語性って大事だとおもうぜ。時系列順に並べたり、時間や空間が大きく変わるときは章を区切ったり、接続詞を入れたり。

 物語性を排除した結果、読み終わった後の印象があまり残っていない。これでは元も子もないとおもうぜ。やっぱり何かを伝えるうえで物語性ってのは大事だよ。


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2024年9月17日火曜日

【読書感想文】森絵都『カラフル』 / ザ・ティーン小説

カラフル

森絵都

内容(e-honより)
生前の罪により、輪廻のサイクルから外されたぼくの魂。だが天使業界の抽選にあたり、再挑戦のチャンスを得た。自殺を図った少年、真の体にホームステイし、自分の罪を思い出さなければならないのだ。真として過ごすうち、ぼくは人の欠点や美点が見えてくるようになるのだが…。不朽の名作ついに登場。

 死んだあと、天使の世界の抽選にあたって、ある少年の身体に入って人生をやり直せることになる……というあほみたいな導入。まあこのへんはどう書いても嘘くさくなるので、このぐらいのハイテンポでさっくり片付けちゃったほうがいい。変にもっともらしい理由をつけようとするほうが見苦しい。

 

 導入がそうであったように、展開も結末もあくまでライト。悪いことは起こっても、あたりまえのように最後はすべて丸く収まる。しこりなんて残らない。生まれ変わる前の“ぼく”はどんな人間だったのかという謎もあるが、これも「そうなるだろうね」というところに結着する。

 とにかくきれいにまとまっていて、良くも悪くも“十代向け小説”だった。



『カラフル』では生まれ変わりを通していじめや身体や進路や恋愛など中学生の悩みが描かれるが、そこで描かれる悩みは「一般的に想像されるもの」の域を出ない。

 いじめも、援助交際も、進路の問題も、どこかで聞いたことのあるようなレベルの話。中学生のいじめ、と聞いて大人が想像するレベルのいじめ。

 だから読んでいて、頭を使わなくていい。想像の埒外にあるようなハードな展開は待っていないから。新聞の社会面やワイドショーで消化されるぐらいの深みしかない。読んでいて「これはいったい何が起こっているんだろう?」と頭をひねるようなポイントはない。


 とまあ、個人的には浅い小説だなという感想だったのだが、それはぼくがいろんな小説を読んできたおっさんだからであって、児童文学を卒業したばかりのローティーンには十分刺激的な内容だとおもう。

 実はこの小説、ぼくが読んだのではなく、小五の娘が読んで「おもしろかったよ」とぼくに貸してくれたのだ。

 せっかく娘が貸してくれたので最後まで読み、娘に感想を訊かれたら「いろいろ仕掛けがあってけっこうおもしろかったわ」とお茶を濁した。「浅いねー」なんて大人げないことはいいませんよ、もちろん。

 いや実際、ぼくが小学生のときに読んでたら十分おもしろかったとおもうしね。

 児童文学と大人向けの小説の橋渡し役のような、ティーン向け小説としてはすばらしい小説。つまりおっさんが読んでぶつくさ言うような小説じゃないってことです、ごめんなさい。


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すごろく向きのサイコロをつくる

  ふつうのサイコロを1つ振ったとき、出る目は1~6の6通りで、その確率はそれぞれ1/6ずつだ。


サイコロを2つ振ってその差を求め、それに1を加えたものを出目とする」としてみよう。この場合もやはり出目は1~6の6通りとなる。

 ただし確率はそれぞれ等しくない。1(つまり2つのサイコロが同じ目)になる確率は1/6。これは通常のサイコロと同じ。

 2や3になる確率は1/6より高く、6になる確率はかなり低い。

(分母を18にそろえるとわかりやすい。
  1:3/18
  2:5/18
  3:4/18
  4:3/18
  5:2/18
  6:1/18)

左の表は出目 右の表は出目の確率
ABS関数と参照の絶対/相対をうまく使ってるのがオシャレだね♪

「1~6の6通りの出目」を維持したまま、確率に傾斜があるサイコロができるわけだ。


 すごろくをすると「おもしろいイベントマスがあるのに、誰も止まらない」ということがままある。みんなが5とか6とかの大きい目を出して、すっ飛ばしてしまうのだ。

 この「(2つのサイコロの目の差+1)サイコロ」だと、5や6が出にくいので、指示のあるマスに誰も止まらないという事態が起こりにくくなる。

 それでいて2~4あたりはよく出るので「あらゆるマスに止まってしまう」というイライラ展開も防げる。

 すごろく向きのサイコロといえるだろう。




2024年9月13日金曜日

【読書感想文】唐渡 千紗『ルワンダでタイ料理屋をひらく』 / 念願の不便を味わえてよかったね

ルワンダでタイ料理屋をひらく

唐渡 千紗

内容(e-honより)
電子レンジを水洗いするスタッフ。施工代を返さないまま逮捕されたエリック。初めてのお客さんは泥棒!?今日もまた事件勃発。日本人シングルマザー、アフリカで人生を変える!一見ハチャメチャな彼らが教えてくれたルワンダフル・ライフ!戸惑いながらも働くうちに見えてきたのは、どんな過酷な状況も生き抜く彼らのたくましさだった。人生という「旅」の醍醐味を味わう傑作ノンフィクション!


 飲食店経営未経験で、ルワンダでアジア料理店を開いた女性の体験記。

 そんな風に、導かれるようにルワンダ行きを決めた私だけれど、一応プランはある。それもズバリ、タイ料理屋を開く!
 どういうこと?と驚くのもわかる。私も他人からそんな話を聞いたら、きっとそう思う。実は旅行で訪れた際に、ルワンダでタイ料理屋を開くところまではもう決定していた。はじめにルワンダに移り住みたいという願望があって、子どもを連れて一人で行くんだけど、当然生活の糧がいる。何かしないといけない。旅行中に気がついたのは、まずとにかく飲食店のバリエーションがない。単純だけど、レストランを開くのはどうだろう?
「タイ料理屋とか、絶対いいと思う」と現地に住む友人のマリコさん。よし、それならタイ料理屋にしよう。決定!

 この文章だけでもびしびし伝わってくるのだが、「私って人とはちがうことをやってるでしょ! すごく変でしょ! どや!」感がすごい。

 筆者の略歴を見て納得。リクルート出身。ああ、リクルートっぽいなあ。もちろん悪い意味で。

 ぼくも多くのリクルート出身者を見てきた(人前に出たがる人が多い)ので「この人リクルート出身っぽいなあ」とだいたいわかるようになってきた。

 とにかく「何者かになりたい!」っていう感が強いんだよね。今はちがうみたいだけど、以前のリクルートって数年で会社を辞めなきゃいけない、辞めた人はたいてい独立しているので、たぶん在籍中に「独立してこんなすごいことやってる人がいます!」って事例をさんざん見せられてるんだろうね。そのせいで「何者かにならなきゃいけない」病にかかってしまうのだろう。

 結果、この本の著者みたいにいい歳して自分さがしをしてしまう。

 ま、自分の人生だから好きにしたらいいんだけど。ぼくはこの人の息子じゃないし。


 とある候補者は、名前をアラファトといい、ルワンダに数店舗展開する有名レストランの現職のシェフだ。名前からわかるようにイスラム教徒で、頭にターバンを巻いている。
 野菜の切り方や鶏肉のさばき方などは、朝飯前といった腕前を見せていたが、レシピを渡されても、何のことか全くわからないという様子。材料を切る前になぜか鍋に油を敷いて強火で熱してから、はて、どうしたものか、と止まってしまう。
 まず野菜を切るところから、とヒントを出す。するとものすごい速さで野菜を切って、また最大火力で炒め出した。次はココナッツミルク五十ミリリットルの投入だが、まだ缶が開いていない。缶切りを渡す。上手く使えない。ナイフでこじ開けようとする間に、鍋ごと黒こげになってしまった。
 聞いてみると、レシピ通りに作るなんて、やったことがないようだ。 「普段はどうやってるの? 働いているレストランではもちろんレシピはあるでしょう?」 「ノー。そんなのありません」と、アラファト氏はキッパリと答える。
 え?? どういうこと? シェフがそれぞれ雰囲気で作ってるってこと? メニューはどれも「シェフの気まぐれスープ」みたいな感じなの? 頼むからうちでは気まぐれを起こさないでもらいたい。でもここまで説明しても全く気にしない人たちに、どう教えればいいのだろう。

 こんな感じで「ルワンダの常識は日本とぜんぜんちがう! 日本人だったらあたりまにやってくれることをルワンダ人はやってくれない! インフラもひどいし生活が不便だし困った困った!」と騒いでるんだけど、正直、共感できない。

 だってこの人はそういうのを求めてルワンダに行ったんでしょ? “人とちがう生き方を選択するアタシ”を求めてルワンダで飲食店を開くことにしたんでしょ? のっぴきならない事情でルワンダに住まざるをえなくなったわけじゃないでしょ?

 あれが大変だ、これで苦労した、と言われても、はあそうですか、望んでいた経験ができてよかったですね、としかおもえない。

 ルワンダの人には失礼な例えだけど、キャンプに行って、不便だ不便だと騒いでるように見えちゃうんだよね。そりゃそういうものでしょ、としかおもえない。日本と同じような文化を享受できることを期待してルワンダに行ったわけじゃないでしょ?

 というわけで、前半の「私ルワンダでこんなに苦労しました」話は、わざわざお化け屋敷に行って怖い怖いと叫んでる人を見るような目で読んでしまった。楽しそうでよろしおすなあ。



 中盤以降の、生活者視点でルワンダという国を観察した章はわりとおもしろかった。

 アフリカというと、物価がとにかく安いイメージがあるだろう。だがルワンダの場合、日本人が日本人の感覚で、最低限快適・安全に暮らしたい場合、「東京で暮らすよりもだいぶ不便だけど、ちょっと安い」くらいの感覚でいた方がいい。東京のような快適さを求めれば、東京で暮らすよりも確実に高くつく。
 コストが高くつく理由は様々あるが、やはりまずは物流だろう。日本では気づきにくいが、「島国である」というのは、実はすごい恩恵なのである。私もルワンダで暮らして初めて、内陸国の苦悩が少しずつ見えてきた。
 先述のように、ルワンダはアフリカ大陸のほぼ真ん中、内陸に位置し、港がない。地の利がとにかく悪い。陸路だけでも、近代的な物流が整っていれば、なんとかなるんじゃないかと思われるかもしれない。ただ、鉄道、高速道路などが見事に整備されている日本では想像し難いが、まずルワンダには鉄道がない。道路も、中国企業がルワンダ全土にせっせと道路を作っているが、丘だらけなので簡単ではない。場所によっては崖に近いような山道を、日本では走っていないようなオンボロトラックが行き交う。実際、事故も多い。
 そうなると、製造業が育つのはかなり厳しい。そもそもモノを作ろうにも、資源に恵まれているわけでもなく、材料に乏しい。それでも頑張って材料を輸入して作るとする。そうして作られたものは当然高くなる。そうした商品を国内で買える層などごくごく一部だ。では外に輸出しよう、と考えるかもしれない。するとまた、輸送費や関税が乗って、消費者に届くころにはすごい値段になっている。つまり成り立たない。日本のように材料を輸入し、加工し、輸出してビジネスが成立するのは、島国だからこそできることなのだ。
 ルワンダでは、輸入品がとにかく高い。例えば、日用品。中国からの輸入品が多く出回っているが、日本の百円均一で売られているものの品質を三分の一にして、値段が三倍であれば良い方だ。もっとも、これについては、日本の百均がすごすぎるとも言える。

 なるほど、内陸国ってのは貿易をする上ではすごく不利になるんだな。そういや先進国で、海を持たない内陸国はほぼないんじゃなかろうか。主要都市もたいてい海か大きな河川を持ってるしね。

 あまり意識することはないけど、我々は海洋国のメリットを享受しながら生きてるんだな。



 

 ルワンダといえば1994年のルワンダ虐殺。当時730万人いたルワンダ人のうち、100万人ほどが約3ヶ月の間に殺されたという空前の大虐殺事件だ。それも爆弾や空襲のような大量破壊兵器を用いず、人々が武器を取り隣人同士で殺しあったという凄惨な事件だった。

 30年前のこの事件は、今もルワンダに深い傷跡を残している。当時生きていた人で、事件に巻き込まれなかった人はほぼいない。親しい人を亡くし、生き残った人も暮らしが一変した。大量の孤児が発生し、教育を受けられずに育った人も多い。


 この本ではルワンダ虐殺を経験した人の語りが紹介されるが、その胸の内は想像もできない。「隣人だった人々に殺された」は、「戦争で死んだ」「敵国に殺された」よりずっとずっとキツいだろう。家族の仇が今もすぐ近くで暮らしている、なんて例もあるんじゃないだろうか。想像を絶する世界だ。とてもこれからは手に手を取って平和な世の中を築いていこう、とできるとはおもえない。

 だがルワンダ人はそれをやってのけている。人間ってどこまでも残酷になれるし、人間はどんなことでも許すことができるのだと、ルワンダ人の暮らしぶりを読んでいておもう。

 どんな環境にも適応できるのが人間。いい面でもあり、悪い面でもある。


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