2025年3月14日金曜日

【読書感想文】伊沢 拓司『クイズ思考の解体』 / こんなにも手の内を明かして大丈夫なのか

クイズ思考の解体

伊沢 拓司

内容(Amazonより)
東大卒クイズ王・伊沢拓司の待望の新刊!
執筆2年半のALL書き下ろし。クイズ業界関係者から大絶賛!
「高校生クイズ」で史上初の2連覇を果たし、「東大王」や「QuizKnock」創設で日本のクイズ界を牽引する伊沢拓司。彼の「思考過程」がまるっと見えてくる”
「クイズは無限の可能性を持つエンターテインメントです。クイズが文化として見直され注目をされている今こそ、クイズを解く時に何を考えているかという過程を解剖したい! それが私を育ててくれたクイズ界への恩返しになる。その使命感で無心に執筆を続けた、『クイズのために書いたクイズの本』です! 」(伊沢)
クイズを愛しすぎた“時代の寵児"が、「クイズ本来の姿」を長大かつ詳細に、繊細だが優しく解き明かす、クイズの解体新書。伊沢氏自らが長期間に渡って調査を行い、圧倒的な情報量を詰め込んだ超大作である。熱意のこもった、かつ親しみやすい筆致で、クイズの現在地をロジカルに体系化し、未来への発展をいざなう。クイズプレーヤーはもちろん、クイズ愛好者にはぜひとも手に取ってもらいたい、クイズ史の「マイルストーン」となる一冊になるだろう。


 最近読んだ小川 哲『君のクイズ』がめっぽうおもしろかったので、競技クイズについてもっと知りたくなって読んでみた。

 クイズメディア・QuizKnockの代表である伊沢拓司氏によるクイズ論。

 テレビ番組『東大王』で有名になった人らしいが(高校生クイズで前人未到の2連覇をしたことでも有名になったそうだが)、ぼくは『東大王』を観たことがないので、この人のことは最近まで知らなかった(別の番組で、クイズに答えた後に「どのような思考を経てこの回答にたどりついたのか」という思考の流れを説明しているのを見て、おもしろい人だとおもった記憶がある)。


『クイズ思考の解体』を読んで、あまりにあけすけに語っていることに驚いた。もうクイズから離れた人ならまだしも、今後もクイズプレイヤー・クイズ作家として活躍するであろう人がこんなにも手の内を明かしちゃって大丈夫だろうか、と他人事ながら心配になった。

 伊沢さんがここまで手の内を明かしている理由は序文で「マジックからロジックへ」というフレーズとともに丁寧に説明されている。

 だがそれを読んだ上でも、やっぱり「こんなに書いちゃって大丈夫?」とおもってしまう。個人の損得よりもクイズ界全体の発展のことを考えている人だからこそなんだろうな。



 この本で最も多くのページが割かれているのが、第2章の『早押しクイズの分類』だ。

 早押しクイズをパターン分けし、それぞれの構文を解剖し、クイズプレイヤーたちがどのような思考を経てどこでボタンを押しているのかを解説している。

 結論から述べてしまえば、「クイズ王たちの頭の中には、クイズの問題文をパターン化した『構文集』的なものがあり、それを用いることで問題文の展開をある程度予測できる」のである。そして、構文集の中から当てはまるものを引っ張ってくることで予測が可能になり、それゆえに他人より多くの情報を早い段階で手にすることができる。情報の先取りをすることで、他人より早い段階で多くのヒントを得て、正解を導き出す。これが早押しの仕組みであり、「構文の把握」が重要な理由でもあるのだ。ゆえに、この章ではそうした脳内「構文集」の可視化を目指す。こうした構文ひとつひとつがどのように成り立ち、なぜ展開が推測できるのか、というところにフォーカスしていくことで、早押しを構造的に捉え、クイズプレーヤーの技術を可視化することが本章のゴールである。

 問題文の序盤を聞いただけで構文を推測し、どこで早押しボタンを押せるかを判断する。

 この際「どこで早押しボタンを押せるか」というのは「どこで正解にたどりつくのか」とイコールではない。正解がわかってからボタンを押していたのでは、レベルの高いクイズプレイヤー同士の戦いには勝てない。「もう少し問題文を聞けば正解がわかりそう」「八割ぐらいの確率でこういう問題だろうと推測できる」ぐらいのタイミングで押しているのだそうだ。

 問題文を聞いている数秒の間に、この先に読まれる問題文を推測し、そこから答えの候補を記憶からひっぱりだし、同時に他のプレイヤーがどのあたりでボタンを押すかを読み、ボタンを押す/押さないの判断をする。

 もしクイズプレイヤーの頭の中をのぞくことができたら、きっと1秒未満の間にとんでもない量の思考をめぐらせていることだろう。もしかするとそうした処理を身体化してしまい思考より先に動作があるのかもしれない。

 ほとんどスポーツと一緒だ。


 では、具体的に「ここで押せる」を見ていきたい。
 いくつか、「ここで押せる」ポイントを並べてみよう。わかるものがひとつでもあったら素晴らしい。
 「いまにお」
 「おおかみのふ」
 「きがいっ」
 「ひゃくはちじゅうどいじょ」
 そして、対応する問題文と答えはそれぞれ以下のようになる。
 「『今に王になれ』という願いを込めて、所属する力士のしこ名に『琴』という字が〜」「佐渡ヶ嶽部屋」
 「狼の糞を混ぜていたことから、漢字では『狼の煙』と書く、~」→「狼煙(のろし)」
 「木が一本立つ舞台で、ウラジミールとエストラゴンのふたりが~」→「『ゴドーを待ちながら』」
 「180度以上の広角な範囲を撮影できるレンズのことを、~」→「魚眼レンズ」

 さて、これらは納得のいくものだろうか。それとも、思わずツッコミたくなるものだろうか。
 そこで行われるツッコミはおそらく、「いやいや、他にも答えの選択肢がありそうじゃねえか!」というものだろう。しかしながら、ここに挙げたものはどれも、他の選択肢について考え尽くされた結果として実践された「ここで押せる」なのだ。「80%を目指す」と先に述べたが、これらの場合は95%以上の確率で正解にたどり着けるようなポイントであろう。
 これらは多くのプレーヤーが別解を探し、それでもなお「高確率でこの正解になるだろう」と認識されているものである。

 このへんはほとんど競技かるたと一緒だ。

 ただし競技かるたと違うのは、「ここで押せる」でも100%正解が確定していないこと。
 百人一首で「む」と読まれたら上の句は「むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに」しかないから下の句は「きりたちのほるあきのゆふくれ」と決まる(こういう字を“決まり字”という)。でも「きがいっ」で始まる問題の答えは『ゴドーを待ちながら』とは限らない。

「きがいっぽんなら木、木が二本なら林、では木が三本なら?」という問題かもしれない。ただしこれだとかんたんすぎるので、クイズ愛好家向けの大会ではまず出題されないだろう。そういうわけで「ここで押せる」なのだ。「ここで決まる」ではない。

 そして競技かるたと異なるのは、クイズの問題は無限にあり、ということは「ここで押せる」もまだ発見されていないだけで無限にあるということだ。

 勝負の強さだけでなく研究や勝敗を決する、そのあたりは将棋や囲碁に似ているかもしれない。




『クイズ思考の解体』ではクイズの問題だけでなく、その周辺に関する思考も開陳している。

 また、置かれた状況によっても判断が異なってくる。
 苦手なジャンルの問題だとわかったとしても、その問題が最終問題、かつ自分が負けている状況なら、勝負しなければダメだ。どうせ最後まで聞いてもわからない確率が高いなら、ひとまず早く押して、自分の中にある少ない選択肢から何か答えなければならない。まずは解答権を取るのが先決である。
 一方、序盤戦なら当然考え方が変わってくるはずだ。苦手ジャンルなんだから、余計な誤答をするわけにはいかない。得意ジャンルが来たときのためにも、ここは我慢しよう……などと考えることができるだろう。

 クイズの大会とは「多く正解することを目指すゲーム」かとおもっていたのだが、どうもそうではないらしい。

 戦略的にあえて間違えたり、確率が低い勝負に出たり。極端なことを言えば、1ポイントしかとれなくても、他のプレイヤーが全員0ポイントであればそれでいい、という考えになる。

 サッカーのリーグ戦で「この試合は引き分けでもいい」とか「1点差の負けならかまわない」みたいな状況が生まれるが、それに近い。しかもその状況が刻一刻と変わる。




 ただの知恵比べではない、クイズの本当の魅力を存分に教えてくれる本だった。

 なにしろ「どうやって知識を増やすか」という話はほとんど出てこない。一流のクイズプレイヤーにとっては知識を増やすことなんて自明のことで、そこからがスタートなのだろう。

 知識があることは、将棋で言うところの「駒の動かし方を知っている」ぐらいの話なのだ。


小ネタ 31(見たことがない踊り / 一人称 / 幸せ)

見たことがない踊り

名前は多くの人が知っているが誰も見たことがない踊り

それはアルペン踊り


一人称

ケイちゃん「ケイちゃん、きのうあそびにいってね」

担任「自分のことを『ケイちゃん』と呼ぶのは小さい子みたいでみっともないですよ。もう三年生なんだから、おうちの外では、まわりの人から呼ばれる呼び名で自分のことを呼ばないほうがいいと先生はおもいますよ」

ケイちゃん「先生の一人称は『先生』ですよね? 『先生』というのは周囲の人が使う敬称であって、敬称を一人称として使うのは名前を一人称にすること以上にみっともないとケイちゃんはおもいます」


幸せ

 あるコンテンツを褒めるときの「まだ〇〇を読んだことがない者は幸せである」という陳腐化した言い回しをまだ聞いたことがない者は幸せである。

 これから先も聞かずにすむ者はもっと幸せである。



2025年3月12日水曜日

【読書感想文】森見登美彦『四畳半王国見聞録』 / 学生時代に通っていた定食屋の味

四畳半王国見聞録

森見登美彦

内容(e-honより)
「ついに証明した!俺にはやはり恋人がいた!」。二年間の悪戦苦闘の末、数学氏はそう叫んだ。果たして、運命の女性の実在を数式で導き出せるのか(「大日本凡人會」)。水玉ブリーフの男、モザイク先輩、凹氏、マンドリン辻説法、見渡すかぎり阿呆ばっかり。そして、クリスマスイブ、鴨川で奇跡が起きる―。森見登美彦の真骨頂、京都を舞台に描く、笑いと妄想の連作短編集。


 森見登美彦の真骨頂というか、いつもの森見登美彦というか。京都(その中でも主に左京区や上京区)を舞台に、『四畳半神話大系』『【新釈】走れメロス 他四篇』『有頂天家族』の家族が登場し、ボロアパートの四畳半が舞台で、図書館警察や詭弁論部などの組織も書かれており……と、どこを切っても森見登美彦ワールド。


 内容もいつもの感じで、四畳半世界の在り方を高らかに宣言する『四畳半王国建国史』『四畳半王国開国史』、マジックリアリズム満載の『蝸牛の角』、愛に飢えた男が詭弁を弄して哀れな自己弁護の言い訳をこねくりまわす『グッド・バイ』など、「らしい」作品が並ぶ。

 いくつもの森見作品を読んできた身からすると、またこれか、とおもいつつも、これこれこの味、と安心する感覚もある。大学時代に通っていた定食屋に久しぶりに行ったら当時とまったく変わらない料理が出てきた感じに近い。

 まったく新しいものを読みたければ他の作家の本を読むので、森見登美彦作品はこれでいいのだ。




 気に入ったのは『大日本凡人會』。凡人であることを目指す、非凡人たちによる結社「大日本凡人會」。メンバーは、マンドリンを弾きながら人生論を説くことで迷える学生をさらに迷わせることのできる丹波、妄想的数学により存在を証明することで物質を出現させることのできる数学氏、モザイクを自由自在に操る能力を持つモザイク氏、気分が落ちこんだときは周囲の空間を凹ませる能力を持つ凹氏、そして存在感がなさすぎて誰にも気づいてもらえない無名君。

 これらのほとんど役に立たない能力を、決して人の役に立てないことが大日本凡人會の会則である。

 だがある日、この会則をめぐって亀裂が走り、メンバーが脱退。脱退したメンバーはその能力を駆使して他メンバーの行動を邪魔するようになる……。

 能力バトルでありながら、言うこと、やることが徹頭徹尾くだらない。

 このファンタジーとくだらなさの融合、これぞまさに森見登美彦! という感じだ。

 森見氏の他作品を楽しめた人なら迷わずおすすめできる一冊。


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2025年3月10日月曜日

【読書感想文】奥田 英朗『罪の轍』 / わからないからこそ魅力的

罪の轍

奥田 英朗

内容(e-honより)
昭和三十八年十月、東京浅草で男児誘拐事件が発生。日本は震撼した。警視庁捜査一課の若手刑事、落合昌夫は、近隣に現れた北国訛りの青年が気になって仕方なかった。一刻も早い解決を目指す警察はやがて致命的な失態を演じる。憔悴する父母。公開された肉声。鉄道に残された“鍵”。凍りつくような孤独と逮捕にかける熱情が青い火花を散らす―。ミステリ史にその名を刻む、犯罪・捜査小説。

(少しネタバレを含みます)


 息詰まる迫力のクライムサスペンス。

 北海道の礼文島で漁師をしていた青年。記憶力が悪いため周囲から「莫迦」と呼ばれ、道徳心が低くあたりまえのように窃盗をはたらく。放火と窃盗をはたらいて逃げるように東京に出てきてからも悪気なく窃盗をくりかえす。

 やがて青年の周囲で殺人事件が起きる。殺人を犯したのは窃盗常習犯の青年なのか。警察の捜査の手が青年の近くまで伸びたとき、日本中を揺るがす誘拐事件が発生。はたして誘拐事件の犯人は「莫迦」と呼ばれる青年なのか……?


 作中では「吉夫ちゃん誘拐事件」となっているが、明らかに戦後最大の誘拐事件とも呼ばれる 吉展ちゃん誘拐殺人事件(Wikipedia) をモチーフにした事件。

 ただしあくまでモチーフであり、酷似している箇所もあれば、ぜんぜんちがう創作の部分もある。

 この年に黒澤明の『天国と地獄』が公開され、その影響で身代金目的の誘拐事件が増えたそうだ。背景には電話機の普及もあるそうだ。なるほど、電話はスピーディーかつ匿名でのやりとりができるから誘拐事件に向いているのか。考えたこともなかったな。


 吉展ちゃん誘拐事件は日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、テレビで犯人の音声を公開して大々的に公開捜査がおこなわれた事件であり、この事件を契機に電話の逆探知が可能になった事件でもあり、様々な面で日本誘拐事件史における転換点の事件だったようだ。

 それはつまりこの時点で警察に誘拐事件捜査のノウハウがなかったということでもあり、『罪の轍』ではそのあたりの警察のドタバタを丹念に描いている。

 警察署ごとの面子争いのせいで連携がうまくとれなかったり、身代金として用意していた紙幣の番号を控えわすれたり、急な予定変更に対応できず身代金から目を離してしまいその隙に持ち逃げされたり、テレビで情報提供を呼びかけたせいで有象無象の情報が寄せられて混乱をきたしたり……。

 これらの大部分は、実際の吉展ちゃん誘拐事件でも実際にあったことだという。戦後の日本の誘拐事件で、犯人が捕まらず、身代金奪取にも成功したのは0件だそうだ(もっとも警察に知らされなかった事件があった可能性はあるが)が、それもこうした失敗を踏まえて捜査が洗練されてきたからなのだろう。



 犯人側の視点から描いたクライムサスペンスはいろいろ読んだことあるが、『罪の轍』が特異なのはその犯人像だ。

 通常、そうした小説で描かれる犯人は、知能が高く、用意周到で、落ち着いて計画を遂行する実行力を持った人物として描かれる。

 だが『罪の轍』に出てくる宇野寛治はそうした人物像とはかけ離れている。記憶力が弱く(ただし思考力が低いわけではなさそう)、いきあたりばったりに生きている。その刹那的な生き方ゆえに逮捕されることをあまり恐れておらず、それが犯罪に対する実行力につながっている。実行力があるというより理性が弱いといったほうがいいかもしれない。


 この人物像がなかなか新鮮で、悪いことをしでかしてもどこかユーモラスで憎めない。落語に出てくる滑稽な泥棒みたいな感じ。また生い立ちが不幸なのもあいまって、もちろん本人も悪いけど社会も悪いよね、という気になってしまう。

 大きな犯罪を成功させるのって周到に計画を立てる知能犯じゃなくて、案外こういういきあたりばったりのタイプなのかもしれないな。いきあたりばったりで無駄な行動が多いから警察も行動パターンが読みにくいし。自分が捜査する側だったら、「なんも考えてない犯人」がいちばん恐ろしいかもしれない。




 犯人側、その周囲の人々、警察の動き、どれも丁寧に書いていてそれぞれおもしろかった。

 ただ、ラストの復讐のための逃亡劇だけは違和感をおぼえた。ここだけ人が変わったようになるんだもの。無目的に生きてきた犯人が、突然使命感に燃えて行動しはじめる。きっかけがあるとはいえ、ころっとキャラクターが変わってしまうのにはついていけない。

 そもそも、何を考えているかわからないこそ不気味で魅力的だったのに、最後は復讐のためというわかりやすい行動。凡庸な人間になってしまった。


 ところでこの小説、同著者の『オリンピックの身代金』の登場人物がかなり登場している(書かれたのも、作中の時系列的にも『罪の轍』のほうが先)。

 単独の犯罪者 VS 警察組織 という物語の内容も似ているが、個人的には『オリンピックの身代金』のほうが好み。『オリンピックの身代金』の犯人のほうが心理がわかりづらくて不気味だったのと、国民の命よりも面子のほうを重視する警察や国家という組織の姿をも描いていたから。

 やっぱり人間も組織も、わからないからこそ魅力的だしわからないからこそ怖いんだよね。

 

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2025年3月7日金曜日

ブログにコメントをつけることについて

 このブログにはコメント投稿があるのだが、ほとんどコメントを頂戴することはない。

 数ヶ月に一度あるかどうか。明らかなスパムとかもあるので、まともなコメント(記事に対する意見や感想など)は年に十件ぐらいだろうか。

 アクセス解析ツールによると、このブログには月10,000ぐらいのアクセスがある。それだけアクセスがあってもほとんど誰もコメントをつけないのだ。


 ことわっておくが、ぼくのスタンスとしてはコメントは大歓迎だ。

 さすがに悪口雑言は勘弁してほしいが、たいていのコメントはもらえるとうれしい。


 以前やっていたブログも含め、ぼくはもう二十年近く前からブログをやっている。

 その二十年で感じたのは、ブログというのはコミュニケーションツールではなくなったということだ。

 二十年前のブログは、書き手と読み手のコミュニケーションの場だった。書き手が話題を提供して、読み手がそれに対してコメントをする。場合によっては読んだ人が自分のブログにアンサー記事を書いたりもする。そこから別の人へと話題が広がり……ということがよくあった。

 それが、SNSが普及したことで、他者とのコミュニケーションはSNSでやりましょう、ブログは書き手が一方的に見解を述べる場、という感じになった。ある日突然そうなったわけではなく、ちょっとずつそうなった。


 ブログにコメントがつかないことを嘆いているぼく自身も、他者のブログにコメントをつけることはほとんどしなくなった。

「あーわかるわかる。ここに書かれている以外にもこんな事例もあるよね」なんてことをおもったりするけど、たいていコメント欄には書かない。

「コメントを書いたら、知らない人が急に会話に参加してきたみたいでいやな気持ちにさせてしまうんじゃないかな」なんて考えてしまう。

〝ブログがコミュニケーションツールだった時代〟を知っているぼくですらそうおもうのだから、物心ついたときからSNSがあったような世代の人にとっては「ブログにコメントをつけるなんてそんな非常識な!」という気持ちかもしれない。


 だからといって「もう一度ブログをコミュニケーションの場にしよう!」なんて唱える気もないし、「このブログを読んだ人はコメントを残せよな!」なんて言う気もないのだが、でも基本的にコメントをもらえたらうれしいですよ、ということだけ書いておく。

 ぼくも他の人のブログに臆せずコメントするようにしようかな。

 コメント機能をオフにしてないってことは、知らない人がなんか書いてもいいってことだもんね。