2024年12月13日金曜日

小ネタ27 (熱中症対策 / おばけと二酸化炭素の違い / 別の木管楽器)

熱中症対策

 制汗スプレーの説明に「汗を抑えてすっきり! クールミントでひんやり! 熱中症対策に効果的」みたいなことが書いてあった。

 いやいや「汗を抑えて放熱を妨げる」「クールミントで冷えた気分になるけど実際の体温は下がっていない」って、熱中症対策としては完全に逆効果じゃないか。

 無知ゆえなんだろうけど、さすがに厚労省が叱ったほうがいいぜ。


おばけと二酸化炭素の違い

 童謡『おばけなんてないさ』の2番の歌詞に
  れいぞうこにいれて カチカチにしちゃおう
とある。

 おばけは冷蔵庫でカチカチになるんだ。

 ということは5℃ぐらいで固体になるわけだ。

 液体のおばけというのは聞いたことがないから、気体からいきなり固体になるのだろう。

 ……おばけってほぼ二酸化炭素(冷やすとドライアイスになる)なんだな。

 ちがうのは、おばけは肝を冷やすのに対し、二酸化炭素は地球を温暖化させる点だけだ。


別の木管楽器

「これでわかった!? 今度のコンクールでクラリネットを吹くのはア・タ・シ! あんたはオーディションで負けたんだから別の木管楽器でも吹いてなさい!!」


 負け犬のオーボエ。



2024年12月11日水曜日

女子の遠慮、男子の欲望

 娘(小学五年生)と、その友だち(女の子二人)といっしょにファミレスで食事をする機会があった。

 女の子たちは「ピザをとってみんなで分けよう」と言い、一枚のピザを頼んだ。

 興味深かったのが、ピザの分け方。


 三人いたので、まずピザカッターでピザを六つに分ける。とはいえもちろん均等に分けることなんてできないから、大きさはばらばら。

「けっこう大きさちがうね」「どうするー」と話していた彼女たちは、驚いたことに、なんと大きなピザの押し付けあいをはじめた。

「わたしこの小さいのでいいから大きいのどうぞ」

「いやいや、〇〇ちゃんが大きいの食べなよ」

「いいって。△△ちゃんが食べて」

 遠慮かなとおもっていたら、いつまでたっても押し付け合いが終わらない。どうやら彼女たちは本気で大きなピザをとることを嫌がっているようだ。

 結局、大きなピザをさらに分割してなるべく公平に近づくようにして、さらにじゃんけんをして、じゃんけんで負けた子がいちばん大きなピザを食べることになった


 その様子を見ていて、女子だなあと感心した。

 これが男子ならどうだろう。よほどの満腹とかでないかぎりは、「おれが大きいのを食べたい!」で揉め、じゃんけんをした場合は「勝った人がいちばん大きいものを取る」になるだろう。もしかすると、話し合うより先に誰かが「早い者勝ち!」といちばん大きいピザをつかんでしまうかもしれない。

 男子はこうだ女子はどうだと言うのもアレだけど、やっぱり傾向として違いはある。


 たとえ軋轢や争いが生じても己の欲を優先する男子と、争いを避けることが最優先でとにかく妬みや恨みを買いたくない女子。

「ピザの分配」にはっきりと違いが表れていると感じた。


2024年12月9日月曜日

【読書感想文】櫛木理宇『死刑にいたる病』 / ミステリというよりホラー

死刑にいたる病

櫛木理宇

内容(e-honより)
鬱屈した日々を送る大学生、筧井雅也に届いた一通の手紙。それは稀代の連続殺人鬼・榛村大和からのものだった。「罪は認めるが、最後の一件だけは冤罪だ。それを証明してくれないか?」パン屋の元店主にして自分のよき理解者だった大和に頼まれ、事件を再調査する雅也。その人生に潜む負の連鎖を知るうち、雅也はなぜか大和に魅せられていく。一つ一つの選択が明らかにする残酷な真実とは。


 かつては優等生で自信に満ちあふれていたが、自信を失い卑屈になっていった大学生の主人公。彼のもとに、連続殺人犯として収監されている死刑囚・榛村大和から手紙が届く。

 刑務所に面会に行くと、榛村大和は語る。たしかに自分は罪のない少年少女八人を己の快楽のために殺した。それは認める。だが裁判で自分がやったとされた九件目の罪だけは冤罪だ。やってもいない罪で裁かれたくはない。真犯人は他にいる。君に見つけてほしい――。

 はたして榛村大和が語っている内容はどこまで本当なのか。九人目を殺した真犯人がいるとしたら誰なのか。そして榛村はなぜ、さほど接点のあったわけでもない自分を指名して手紙を送ってきたのか――。



 よくできたミステリだった。というより、ミステリだとおもって読んでいたらサスペンスというかホラーというか。

 冤罪をテーマにしたミステリでいうと高野 和明『13階段』が有名だ。とある死刑囚の冤罪を晴らすために調査をする話。

 冤罪ということになれば、「犯人とおもわれていた人物が犯人でない」と同時に「真犯人が別にいる」という真相があることになる。両面からドラマを作れるので、気の抜けない展開になる。

『死刑にいたる病』も中盤までは『13階段』と似ている。ああこういうパターンね、ということはきっと主人公は少しずつ真相に迫り、真相に迫ったところで真犯人に……という展開になるんだろうな、とおもいながら読んでいた。


 が、ぼくの予想はまんまと裏切られた。なるほどね。ミステリとしてのおもしろさよりもシリアルキラーの不気味さを掘るほうに持っていったわけか。

 これはこれでありだね。ミステリとしてはこうなるだろう、という予想を裏切るのが逆説的にミステリっぽい。

 きれいに謎が解けてすっきり終わる話じゃないからこそ、いい意味でもやもや感が残る。個人的には鮮やかな謎解きよりも「なんかしっくりこないものが残る」この展開のほうが好きだな。


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パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』

【読書感想文】最悪かつ見事な小説 / 櫛木 理宇『少女葬』



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2024年12月6日金曜日

【読書感想文】中村 計『笑い神 M-1、その純情と狂気』 / まじめにふまじめ

笑い神

M-1、その純情と狂気

中村 計

内容(e-honより)
M-1とはネタの壮大な墓場でもあった。にもかかわらず漫才師たちは毎年、そこへ向かった――。 一夜にして富と人気を手にすることができるM-1グランプリ。いまや年末の風物詩であるお笑いのビッグイベントは、吉本興業内に作られた一人だけの新部署「漫才プロジェクト」の社員、そして稀代のプロデューサー島田紳助の「賞金をな、1千万にするんや」という途方もないアイディアによって誕生した。このM-1に、「ちゃっちゃっと優勝して、天下を獲ったるわい」と乗り込んだコンビがいた。のちに「ミスターM-1」「M-1の申し子」と呼ばれ、2002年から9年連続で決勝に進出した笑い飯である。大阪の地下芸人だった哲夫と西田は、純情と狂気が生み出す圧倒的熱量で「笑い」を追い求め、その狂熱は他の芸人にも影響を与えていく――。 芸人、スタッフ80人以上の証言から浮かび上がる、M-1と漫才の深淵。笑い飯、千鳥、フットボールアワー、ブラックマヨネーズ、チュートリアル、キングコング、NON STYLE、スリムクラブ……。漫才師たちの、「笑い」の発明と革新の20年を活写する圧巻のノンフィクション、誕生!

 笑い飯の足跡を中心に、M-1グランプリの歴史(笑い飯が主軸なので主に2001~2010年)をふりかえるノンフィクション。

 ひとつひとつのエピソードはテレビやWebメディアのインタビューなどで語られたものも多いのだが、これだけ多くの証言をもとに網羅的に書かれたものはめずらしい。

 ひとつには、「お笑いを語るのはダサい」という風潮のせいだろう。お笑いにかぎらず、サブカルには「言語化されないからこそおもしろい部分」というのが存在している。深く携わっている人の間ではうっすらと共有しているけどあえて語らない。語らずして共有することで共犯関係が築かれる。わざわざ語る人は「野暮」「無粋」「つまんねえやつ」とみなされる。

 だからこの本に載っているインタビューを集めるのに著者はすごく苦労しただろうな、と想像する。「ぼくたちこんな苦労をしてきたんですよ。あの大会のときはこんな算段で漫才を作りました」なんて語っても芸人からしたら損しかないもんな。

 特に漫才は「即興っぽさ」が大事な芸だ。台本があっても、さも今おもいついたかのように語る芸。余計に裏話は求められない。

 

 ただ、どうであれ、M-1はあくまで通過点のはずだった。ところが、今や目的そのものになりつつある。漫才のメジャー化と競技化に拍車がかかり、本質から遠ざかっていってしまっている面も否めない。ケンドーコバヤシも、そこに苛立っていた。
 「漫才愛を語るヤツが増えた。おれ、法律がなかったら、そんなやつ、その場で顎カチ割ったろうと思いますもん。カッコ悪いことすんな、と。あいつらにはあいつらなりの矜持があるんやろうけど、俺には俺の矜持がある。そこは絶対、交わらんやろな」
 ケンドーコバヤシは論をぶつ人間を嫌悪した。
 芸人たるもの、芸論を語るなかれ。ピエロであるならば、その仮面を生涯、かぶり続けるものだ。それが芸人の美学だった時代が確かにあった。
 しかしM-1は、その舞台裏を完全に可視化した。本番直前、舞台では決して見せないような形相でネタ合わせをする芸人たち。さらには、勝って号泣し、破れて打ちひしがれる姿までをも撮影し、番組に組み込んだ。そのことで人気を博したわけだが、昔気質の芸人からすると、それは「あるまじき行為」に映る。
 ケンドーコバヤシの矛先は、私にも向けられた。
「中村さんのやっている行為が、一番寒いと思いますよ」
 突然の口撃に対し、反射的に笑って誤魔化そうとしたのだが、マスクの下で顔が引きつった。「私は芸人じゃないので……」と釈明したが、許してくれなかった。
「笑いの解説とか解析とか。そんなん、教える必要あります?

 こういう考えが、四半世紀前の芸人の多数意見だっただろう。だが今では少数派かもしれない。

 変わった要因はいくつかあるだろうが、そのひとつが、M-1グランプリという大会だ。M-1グランプリはただの演芸番組ではなく、ドキュメンタリーでもあった。舞台裏を映し、予選を映し、負けて悔しがる漫才師を映し、大会に向けて努力する漫才師を映した。今ではめずらしくないが、大会が始まった2001年にはこれは画期的なことだった。『熱闘甲子園』をお笑い番組に持ちこんだのがM-1グランプリだった。

 ふざけたことをやらないといけないのに、真剣にやっているところを見せないといけない。相反する難題をつきつけるからこそM-1は難しい。多くの芸人がそのせいで道を踏みあやまった。

 だが、難しいことをやっているからこそおもしろいのもまた事実だ。



 九年連続決勝進出という空前絶後の大記録を打ち立てた笑い飯のネタ作りについて。

 笑い飯は、M-1の時期が近づくと、難波にあった「baseよしもと」の楽屋に籠った。
 baseよしもとは、かつてあった若手主体の劇場で、笑い飯は長くそこの看板コンビとして舞台に立っていた。村田が説明する。
 baseよしもとには二つの楽屋があって、笑い飯はいつもちっちゃい方の楽屋でネタをつくってました。扉を開けたままなので、中の様子が丸見え。椅子二席分あけて、横並びで座ってるんです。いつ見ても無言。出番が終わって、そんな様子を見つつ、先輩とかと飲みに行くじゃないですか。飲んだ後、よく劇場に戻ってくることがあったんです。八時間後とか九時間後ぐらいに。そうすると、二人は出た時のまんま。動いた気配すらない。そんなの、ザラでしたね。だから、不思議でしたよ。あの二人の漫才はなんであんなにおもしろくなるんやろう、って」

 ばかなことを言い合いながら作っているように見える笑い飯の漫才だが、実際は沈黙の中で作られているという。何時間もじっと座ってひたすら考える。会話もなく、おもしろいやりとりを。小説家みたいなネタの作り方をしているんだな。それであの漫才が生まれるのは、ほんとふしぎ。



 M-1グランプリの成功を受けて、いろんなお笑い賞レースが生まれた(M-1以前は関西ローカルの賞はあったけど全国区の賞なんてなかったね)。

 が、どれもM-1グランプリには及ばない。

 大きな理由として、在阪局であるABC放送が番組を手掛けていることがある。

 ABC放送の漫才への愛情の深さは、番組作りのいたるところから感じられる。漫才番組は通常、客が笑っている様子を頻繁に映す。それによって、ついてこられていない視聴者も「おもしろいんだ」という安心感を得られるからだ。

 だが、M-1ではそれを絶対にしない。現チーフプロデューサーの桒山哲治は、その理由をこう語る。
「漫才に失礼だろう、と。その数秒でも、漫才は進んでいるので。審査員を抜く(映す)ことも毎回、議論になる。いいことかどうなのか。なので、このタイミングでは間違いなく『笑いしろ』(演者が客の笑いが収まるのを待つ時間)ができるだろうというところで、カメラをスイッチするようにしています」
 また、笑いは足さない。第一回大会と第二回大会でプロデューサーを務めた栗田は断固たる口調で言った。
「なんで足さないといけないんですか。M-1だけでなく、ABCのお笑い番組は基本的に足さないです」

 そういや関西ではいろんなお笑い賞があるが(NHK上方漫才コンテスト、上方漫才大賞新人賞、ytv漫才新人賞、かつてやっていたMBS漫才アワード)、ぼくはABCお笑い新人グランプリがいちばん好きだ。

 単純に番組としておもしろいし(M-1グランプリよりおもしろいときもある)、何よりネタが聞きやすい。他の賞は漫才に不向きな大きなホールでやるから聞きにくいんだよね。

 客の笑い声を足さない、余計なものを映さない、ヤラセをしない、芸人じゃない人に審査させない。あたりまえだけど、それをちゃんとやっている番組は少なかった(今でもそんなに多くない)。あたりまえのことを継続的にやることでM-1グランプリは他の追随を許さない大会になった。

 あとは「スタジオに呼ばれたM-1大好き芸能人」と「くじを引くために呼ばれた旬のアスリート」さえなくしてくれれば完璧なんだけどな!


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M-1グランプリ2023の感想



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2024年11月29日金曜日

【読書感想文】アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』 / 人間の命のなんという軽さよ

ベルリン陥落1945

アントニー・ビーヴァー (著)  川上洸(訳)

内容(e-honより)
ヒトラーとスターリンによる殱滅の応酬を経て、最終章、戦場は第三帝国の首都ベルリンへ…。綿密な調査と臨場感あふれる筆致、サミュエル・ジョンソン賞作家による、「戦争」の本質を突く問題作。

 イギリスの歴史作家が書いた、1945年(つまり戦争末期)の独ソ戦争の情景。


 読んでいて感じるのは、おそらく意図的だろうが、数字が少ないこと。「○万人が命を落とした」といった事実の羅列はほとんどなく、体験談を中心に、ひとりひとりの生の物語を書いている。おかげで戦争の悲惨な光景が眼の前に立ち上がってくる。これがストーリーの力。教科書に書いてある「百万人が命を落としました」よりも、たったひとりの体験記のほうがはるかに強いメッセージを放つ。



 第二次世界大戦のドイツといえばヒトラー、ナチス、ゲシュタポ、ユダヤ人弾圧、強制収容所……と、とにかく「ドイツはひどいことをした」話ばかりを教わった。

 だがことはそう単純ではない。ドイツの人々も苦境にあえいだ。劣勢に追い込まれた1945年は特に。

 ブルーの照明灯に照らされたこれらの待避所そのものが、いったん入ったら二度と出られぬ地獄を連想させるたたずまいで、寒さにそなえて着ぶくれし、サンドイッチと魔法びんを入れた小さな厚紙製のスーツケースを手にした人びとが、そこに詰め込まれた。たてまえとしては、あらゆる基本的必要をみたす設備が内部に完備していた。ナースの常駐する救護室もあって、ここで出産することもできた。地表からではなく地の奥底から伝わってくるような爆弾炸裂の振動が、分娩を促進するようだった。空襲中の停電はしょっちゅうのことで、まず照明が薄暗くなり、チラチラ点滅して消えてしまう。そのため天井に発光塗料が塗ってあった。水道本管がやられると断水した。そこで「アボルテ」、すなわちトイレはたちまち惨憺たる状況となった。衛生にやかましい国民にとってはまったくの苦行だ。当局はしばしばトイレを閉鎖した。絶望した人びとがドアにカギをかけたまま自殺するケースが頻発したからだ。
 ベルリンの三〇〇万前後の人口を全部収容するスペースがないので、待避所はいつも超満員だった。通路も、座席つきのホールも、宿泊室も、人いきれと天井から滴下する結露で空気がよどんでいた。ゲズントブルンネン地下鉄駅の下のシェルター群は一五〇〇人を収容するように設計されたのに、じっさいにはその三倍を詰め込むこともしばしばだった。酸欠の度合いをはかるのにローソクが使われた。床の上に立てたローソクが消えると、幼児を肩の高さまで抱き上げた。椅子の上のローソクが消えると、その階からの退去がはじまった。あごの高さに設置された三本目のローソクが明滅しだすと、おもての空爆がどんなにはげしくても、全員が出ていかねばならなかった。
 しかしブレスラウ市外に出た女性たちは、とにかく自力で逃げなければならないことに気づいた。市外に出る自動車はほんの数両で、幸運にも乗せてもらえたのはごく少数にすぎなかった。道路上の雪は深く、ついに多数の女性が乳母車を捨て、幼児を抱いて歩くはめになった。凍りつくような寒風に魔法ビンの中身も冷めてしまった。おなかをすかした赤ん坊には母乳をあたえるしかないが、授乳のため身を寄せる場所もなかった。すべての家はドアを閉ざし、すでに放棄されたか、あるいは住人がだれにもドアを開こうとしないか、どちらかだった。やむにやまれず一部の母親は、納屋その他の風よけとなる建物のかげで乳首をふくませたが、それがよくなかった。子どもは飲まないし、母親の体温は危険なまで下がった。乳房に凍傷を負った人さえ出た。ある若い母親は、わが子の凍死を実家の母に知らせる手紙のなかで、ほかの母親たちの様子も書いている。ぐるぐる巻きにした赤ん坊の凍死体をかかえて泣きさけぶ人もいれば、道ばたの樹木に寄りかかり、雪のなかに坐りこんだ人もいる。そばでは年長の子どもたちが、母親が気を失ったのか、死んだのかもわからずに(この寒さのなかでは、どちらでもたいしたちがいはないが)、恐怖のあまりベソをかきながら立ちつくしている。

 こういう「戦時下での悲惨な暮らし」って、日本のものはよく知っているんだよ。いろんな小説や漫画や映像作品でも扱われているから。でも日本だけじゃないんだよな。どの国も同じなんだよな。


 読めば読むほど、戦争でやることはどの国も同じだな、とおもわされる。

 戦争末期のドイツにはびこっているのは根性論。決して退くな、最後の最後まであきらめず戦え。勝てる見込みのない無謀な作戦(まるで訓練されていない少年や老人で組織された国民突撃隊、武器を積んだ自転車で戦車につっこむという実質特攻隊……)、悪いことは知らせない大本営発表、冷静な意見は排除されて無謀なことを言うやつだけが重用される。

 そして、威勢のいいことを言うやつほど真っ先に逃げ出すところもどの国もおんなじ。ドイツでも、無謀な命令で部下を死なせた上官が、いざ危なくなるとすぐに降伏したり逃げだしたりする。

 想像力がないんだよね。想像力が欠如しているからこそ他人に強く言える。想像力が欠如しているから自分の身に危険が迫ったときのことを本当に想像できない。だから危険が現実のものになると泡を喰って逃げだす。少なくとも犬ぐらいの思慮があれば「逃げずに戦えばいい!」とは言いださないものだ。


 戦争末期のドイツ国民は大いに苦しんだが、それは敵国に苦しめられたというよりむしろ、過去のドイツが自分自身にかけた“呪い”のせいだ。

 逃げてはいけない、退却する兵士は殺す、上層部の指示に対する批判をするやつは粛清、ソ連の人間は劣っていて野蛮だ……。戦況が良いときはそれなりに効果を上げた言説が、劣勢に追いこまれたときには自分たちを苦しめる“呪い”となった。

 どんなに戦況が悪くても退却できない、上層部が無謀な作戦を指示しても従うしかない、勝てるわけなくても赤軍に降伏できない……。自国の教えがすべて呪いとなって自国民にはねかえってくる。多くのドイツ国民たちは、赤軍に殺されたというより、自国の司令部に殺されたんだよな。もちろん日本も同じ。

「愛国心」なんて言葉は、他人をコマとして都合良く利用するための口実でしかない。




 大戦前、大戦中のドイツはひどいことをした。でも、1945年のドイツで起こったことを読むかぎりでは、赤軍(ソ連軍)のほうがずっと悪だとおもう。
 この部隊がシュヴェーリン〔スクフェジーナ〕の町を攻略したとき、グロースマンは見たことのすべてを小さなノートにエンピツで走り書きした。「一面の火の海……燃える建物の窓から老女が飛び降り……略奪が進行中……なにもかも炎上しているので夜も明るい……[町の]警備本部で黒衣をまとい、あおざめたくちびるのドイツ女性が、弱々しいかすれ声でなにかしゃべっている。連れの少女は首と顔に傷あとがあり、ふくれあがった目をして、両手にもひどい傷を負っている。部隊本部通信隊の兵士にレイプされたという。その兵士もここにいる。赤い丸顔で、眠そうに見える。警備隊長が双方を尋問中」。
 グロースマンのメモは続く。「女性たちの目には恐怖の色……ドイツ女性はひどい目にあっている。教養あるドイツ人男性が、しきりに身ぶり手まねをまじえながら、片言のロシア語で説明する。この日、彼の妻は一〇人に暴行されたという……収容所から解放されたソ連の娘たちも、やはりひどい目にあっている。昨夜、その一部が従軍特派員に割り当てられた部屋に身を隠した。夜中も悲鳴で目をさます。特派員の一人が黙っていられなくなって大激論となり、秩序は回復された」。さらにグロースマンは、明らかに彼が聞いたと思われるある若い母親の話を記録している。彼女は農場の納屋でつづけさまに暴行を受けた。身内の人たちが納屋にやってきて、赤ん坊が泣き止まないので、せめて授乳の時間をあたえてくれと頼んだ。こういったことがすべて警備本部のすぐ隣で、しかも軍紀維持に責任を負うはずの将校たちの見ているまえで、おこなわれていた。

 掠奪、強姦、無抵抗な民間人や子どもへの虐殺……。「ドイツにひどい目に遭わされたからその復讐」という気持ちもあっただろうが、それだけではない。ドイツ軍に捕らえられた捕虜や、ドイツに支配されていたポーランド人に対しても残虐の限りを尽くしている。

 ドイツが悪くないとは言わないが、負けず劣らずソ連もひどい。

 正しい戦争なんてないってことよね。戦場においてルールやモラルなんてかんたんに破られる。ルールを守っていたら死ぬから。正しいも悪いもない。戦場において兵士は基本的に悪をはたらく。あるのはばれるかばれないかだけ。勝てばもみ消せる。戦争の歴史は勝ったものの歴史だ。



 スターリンやヒトラー、およびその取り巻きたちの話も多いのだが、読んでいておもうのは「なんと命の軽いことか」ということ。

 ここに軍を投下、数万人が死ぬがしかたない、みたいな作戦の立て方をしている。将棋で歩兵を捨てるぐらいの感覚なんだろう。まあそれぐらい割り切ってないと軍略なんてできないのかもしれないが、「ちょっとタイミングがちがえば自分がその数万分の一の歩兵だったかもしれない」という想像力があればそんな作戦立てられないよな。想像力がないから戦争をできるのだ。


 この本では、命を落とし、家族を失い、レイプされ、生活のすべてを奪われる市民たちの姿と交互に、各陣営トップたちの「政治」の様子も描かれている。

 もはや大勢は決した。ドイツが負けるのはまちがいない。ソ連は英米より先にベルリンを落としたほうが戦後の世界情勢で有利に立ち回れる。なんとしてもベルリンを先に落とさねば。「祖国を守るため」の戦いならまだしも、政治のために命を賭けて戦わされる兵士たちが気の毒でならない。

 そしてドイツはドイツで、負けることはわかっているが、ひどいことをしたソ連に占領されるより英米の占領下におかれるほうがまだ有利に事が運びそうということで、政治的な目的で降伏を遅らせる。その間にも市民たちがばたばたと死んでいるのに、政治のほうが優先される。

 なんともやるせない話だ。国民が死ねば死ぬほど命の重さは軽くなってゆく。

 戦時国際法で、捕虜や民間人への攻撃などを禁止しているけど、あまり意味がない。そんなのより「戦争が起こったときは元首、総司令官が最前線に立つこと」というルールをひとつ設けるだけでいいとおもうよ。それだけで、残虐行為や無謀な作戦はきれいになくなるだろう。それどころか戦争そのものも。




『同志少女よ、敵を撃て』でも引用されていたけど、いちばん印象に残った文章。

 ドイツ国内に赤軍が攻めてきて市民たちが逃げまどっている列車での風景。

 翌日、ディーター・ボルコフスキという名の一六歳のベルリン市民が、アンハルター駅発の混雑したSバーン列車内で目撃した情景を描いている。「みんな顔に恐怖の色を浮かべていた。怒りと絶望がうずまいていた。あんな不平不満の声はいままで聞いたことがない。とつぜん、だれかが騒ぎに負けない大声でさけんだ。『静かに!』見ると、小柄なうすぎたない兵士で、鉄十字章二個とドイツ金十字章をつけていた。袖には金属製の戦車四個のついたバッジがあって、肉薄攻撃で戦車四両をしとめたことを物語っていた。『みなさんに言いたいことがある』と彼はさけび、車内は静まった。『おれの話なんぞ聞きたくもないだろうが、泣き言だけはやめてくれ。この戦争に勝たねばならん。勇気をなくしてはならんのだ。もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ』。車内は針の落ちる音も聞こえるくらいしんと静まりかえった。

 戦争が泥沼化して終わるに終われなくなる理由が「もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ」という一文に表れている。


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