2024年12月11日水曜日

女子の遠慮、男子の欲望

 娘(小学五年生)と、その友だち(女の子二人)といっしょにファミレスで食事をする機会があった。

 女の子たちは「ピザをとってみんなで分けよう」と言い、一枚のピザを頼んだ。

 興味深かったのが、ピザの分け方。


 三人いたので、まずピザカッターでピザを六つに分ける。とはいえもちろん均等に分けることなんてできないから、大きさはばらばら。

「けっこう大きさちがうね」「どうするー」と話していた彼女たちは、驚いたことに、なんと大きなピザの押し付けあいをはじめた。

「わたしこの小さいのでいいから大きいのどうぞ」

「いやいや、〇〇ちゃんが大きいの食べなよ」

「いいって。△△ちゃんが食べて」

 遠慮かなとおもっていたら、いつまでたっても押し付け合いが終わらない。どうやら彼女たちは本気で大きなピザをとることを嫌がっているようだ。

 結局、大きなピザをさらに分割してなるべく公平に近づくようにして、さらにじゃんけんをして、じゃんけんで負けた子がいちばん大きなピザを食べることになった


 その様子を見ていて、女子だなあと感心した。

 これが男子ならどうだろう。よほどの満腹とかでないかぎりは、「おれが大きいのを食べたい!」で揉め、じゃんけんをした場合は「勝った人がいちばん大きいものを取る」になるだろう。もしかすると、話し合うより先に誰かが「早い者勝ち!」といちばん大きいピザをつかんでしまうかもしれない。

 男子はこうだ女子はどうだと言うのもアレだけど、やっぱり傾向として違いはある。


 たとえ軋轢や争いが生じても己の欲を優先する男子と、争いを避けることが最優先でとにかく妬みや恨みを買いたくない女子。

「ピザの分配」にはっきりと違いが表れていると感じた。


2024年12月9日月曜日

【読書感想文】櫛木理宇『死刑にいたる病』 / ミステリというよりホラー

死刑にいたる病

櫛木理宇

内容(e-honより)
鬱屈した日々を送る大学生、筧井雅也に届いた一通の手紙。それは稀代の連続殺人鬼・榛村大和からのものだった。「罪は認めるが、最後の一件だけは冤罪だ。それを証明してくれないか?」パン屋の元店主にして自分のよき理解者だった大和に頼まれ、事件を再調査する雅也。その人生に潜む負の連鎖を知るうち、雅也はなぜか大和に魅せられていく。一つ一つの選択が明らかにする残酷な真実とは。


 かつては優等生で自信に満ちあふれていたが、自信を失い卑屈になっていった大学生の主人公。彼のもとに、連続殺人犯として収監されている死刑囚・榛村大和から手紙が届く。

 刑務所に面会に行くと、榛村大和は語る。たしかに自分は罪のない少年少女八人を己の快楽のために殺した。それは認める。だが裁判で自分がやったとされた九件目の罪だけは冤罪だ。やってもいない罪で裁かれたくはない。真犯人は他にいる。君に見つけてほしい――。

 はたして榛村大和が語っている内容はどこまで本当なのか。九人目を殺した真犯人がいるとしたら誰なのか。そして榛村はなぜ、さほど接点のあったわけでもない自分を指名して手紙を送ってきたのか――。



 よくできたミステリだった。というより、ミステリだとおもって読んでいたらサスペンスというかホラーというか。

 冤罪をテーマにしたミステリでいうと高野 和明『13階段』が有名だ。とある死刑囚の冤罪を晴らすために調査をする話。

 冤罪ということになれば、「犯人とおもわれていた人物が犯人でない」と同時に「真犯人が別にいる」という真相があることになる。両面からドラマを作れるので、気の抜けない展開になる。

『死刑にいたる病』も中盤までは『13階段』と似ている。ああこういうパターンね、ということはきっと主人公は少しずつ真相に迫り、真相に迫ったところで真犯人に……という展開になるんだろうな、とおもいながら読んでいた。


 が、ぼくの予想はまんまと裏切られた。なるほどね。ミステリとしてのおもしろさよりもシリアルキラーの不気味さを掘るほうに持っていったわけか。

 これはこれでありだね。ミステリとしてはこうなるだろう、という予想を裏切るのが逆説的にミステリっぽい。

 きれいに謎が解けてすっきり終わる話じゃないからこそ、いい意味でもやもや感が残る。個人的には鮮やかな謎解きよりも「なんかしっくりこないものが残る」この展開のほうが好きだな。


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2024年12月6日金曜日

【読書感想文】中村 計『笑い神 M-1、その純情と狂気』 / まじめにふまじめ

笑い神

M-1、その純情と狂気

中村 計

内容(e-honより)
M-1とはネタの壮大な墓場でもあった。にもかかわらず漫才師たちは毎年、そこへ向かった――。 一夜にして富と人気を手にすることができるM-1グランプリ。いまや年末の風物詩であるお笑いのビッグイベントは、吉本興業内に作られた一人だけの新部署「漫才プロジェクト」の社員、そして稀代のプロデューサー島田紳助の「賞金をな、1千万にするんや」という途方もないアイディアによって誕生した。このM-1に、「ちゃっちゃっと優勝して、天下を獲ったるわい」と乗り込んだコンビがいた。のちに「ミスターM-1」「M-1の申し子」と呼ばれ、2002年から9年連続で決勝に進出した笑い飯である。大阪の地下芸人だった哲夫と西田は、純情と狂気が生み出す圧倒的熱量で「笑い」を追い求め、その狂熱は他の芸人にも影響を与えていく――。 芸人、スタッフ80人以上の証言から浮かび上がる、M-1と漫才の深淵。笑い飯、千鳥、フットボールアワー、ブラックマヨネーズ、チュートリアル、キングコング、NON STYLE、スリムクラブ……。漫才師たちの、「笑い」の発明と革新の20年を活写する圧巻のノンフィクション、誕生!

 笑い飯の足跡を中心に、M-1グランプリの歴史(笑い飯が主軸なので主に2001~2010年)をふりかえるノンフィクション。

 ひとつひとつのエピソードはテレビやWebメディアのインタビューなどで語られたものも多いのだが、これだけ多くの証言をもとに網羅的に書かれたものはめずらしい。

 ひとつには、「お笑いを語るのはダサい」という風潮のせいだろう。お笑いにかぎらず、サブカルには「言語化されないからこそおもしろい部分」というのが存在している。深く携わっている人の間ではうっすらと共有しているけどあえて語らない。語らずして共有することで共犯関係が築かれる。わざわざ語る人は「野暮」「無粋」「つまんねえやつ」とみなされる。

 だからこの本に載っているインタビューを集めるのに著者はすごく苦労しただろうな、と想像する。「ぼくたちこんな苦労をしてきたんですよ。あの大会のときはこんな算段で漫才を作りました」なんて語っても芸人からしたら損しかないもんな。

 特に漫才は「即興っぽさ」が大事な芸だ。台本があっても、さも今おもいついたかのように語る芸。余計に裏話は求められない。

 

 ただ、どうであれ、M-1はあくまで通過点のはずだった。ところが、今や目的そのものになりつつある。漫才のメジャー化と競技化に拍車がかかり、本質から遠ざかっていってしまっている面も否めない。ケンドーコバヤシも、そこに苛立っていた。
 「漫才愛を語るヤツが増えた。おれ、法律がなかったら、そんなやつ、その場で顎カチ割ったろうと思いますもん。カッコ悪いことすんな、と。あいつらにはあいつらなりの矜持があるんやろうけど、俺には俺の矜持がある。そこは絶対、交わらんやろな」
 ケンドーコバヤシは論をぶつ人間を嫌悪した。
 芸人たるもの、芸論を語るなかれ。ピエロであるならば、その仮面を生涯、かぶり続けるものだ。それが芸人の美学だった時代が確かにあった。
 しかしM-1は、その舞台裏を完全に可視化した。本番直前、舞台では決して見せないような形相でネタ合わせをする芸人たち。さらには、勝って号泣し、破れて打ちひしがれる姿までをも撮影し、番組に組み込んだ。そのことで人気を博したわけだが、昔気質の芸人からすると、それは「あるまじき行為」に映る。
 ケンドーコバヤシの矛先は、私にも向けられた。
「中村さんのやっている行為が、一番寒いと思いますよ」
 突然の口撃に対し、反射的に笑って誤魔化そうとしたのだが、マスクの下で顔が引きつった。「私は芸人じゃないので……」と釈明したが、許してくれなかった。
「笑いの解説とか解析とか。そんなん、教える必要あります?

 こういう考えが、四半世紀前の芸人の多数意見だっただろう。だが今では少数派かもしれない。

 変わった要因はいくつかあるだろうが、そのひとつが、M-1グランプリという大会だ。M-1グランプリはただの演芸番組ではなく、ドキュメンタリーでもあった。舞台裏を映し、予選を映し、負けて悔しがる漫才師を映し、大会に向けて努力する漫才師を映した。今ではめずらしくないが、大会が始まった2001年にはこれは画期的なことだった。『熱闘甲子園』をお笑い番組に持ちこんだのがM-1グランプリだった。

 ふざけたことをやらないといけないのに、真剣にやっているところを見せないといけない。相反する難題をつきつけるからこそM-1は難しい。多くの芸人がそのせいで道を踏みあやまった。

 だが、難しいことをやっているからこそおもしろいのもまた事実だ。



 九年連続決勝進出という空前絶後の大記録を打ち立てた笑い飯のネタ作りについて。

 笑い飯は、M-1の時期が近づくと、難波にあった「baseよしもと」の楽屋に籠った。
 baseよしもとは、かつてあった若手主体の劇場で、笑い飯は長くそこの看板コンビとして舞台に立っていた。村田が説明する。
 baseよしもとには二つの楽屋があって、笑い飯はいつもちっちゃい方の楽屋でネタをつくってました。扉を開けたままなので、中の様子が丸見え。椅子二席分あけて、横並びで座ってるんです。いつ見ても無言。出番が終わって、そんな様子を見つつ、先輩とかと飲みに行くじゃないですか。飲んだ後、よく劇場に戻ってくることがあったんです。八時間後とか九時間後ぐらいに。そうすると、二人は出た時のまんま。動いた気配すらない。そんなの、ザラでしたね。だから、不思議でしたよ。あの二人の漫才はなんであんなにおもしろくなるんやろう、って」

 ばかなことを言い合いながら作っているように見える笑い飯の漫才だが、実際は沈黙の中で作られているという。何時間もじっと座ってひたすら考える。会話もなく、おもしろいやりとりを。小説家みたいなネタの作り方をしているんだな。それであの漫才が生まれるのは、ほんとふしぎ。



 M-1グランプリの成功を受けて、いろんなお笑い賞レースが生まれた(M-1以前は関西ローカルの賞はあったけど全国区の賞なんてなかったね)。

 が、どれもM-1グランプリには及ばない。

 大きな理由として、在阪局であるABC放送が番組を手掛けていることがある。

 ABC放送の漫才への愛情の深さは、番組作りのいたるところから感じられる。漫才番組は通常、客が笑っている様子を頻繁に映す。それによって、ついてこられていない視聴者も「おもしろいんだ」という安心感を得られるからだ。

 だが、M-1ではそれを絶対にしない。現チーフプロデューサーの桒山哲治は、その理由をこう語る。
「漫才に失礼だろう、と。その数秒でも、漫才は進んでいるので。審査員を抜く(映す)ことも毎回、議論になる。いいことかどうなのか。なので、このタイミングでは間違いなく『笑いしろ』(演者が客の笑いが収まるのを待つ時間)ができるだろうというところで、カメラをスイッチするようにしています」
 また、笑いは足さない。第一回大会と第二回大会でプロデューサーを務めた栗田は断固たる口調で言った。
「なんで足さないといけないんですか。M-1だけでなく、ABCのお笑い番組は基本的に足さないです」

 そういや関西ではいろんなお笑い賞があるが(NHK上方漫才コンテスト、上方漫才大賞新人賞、ytv漫才新人賞、かつてやっていたMBS漫才アワード)、ぼくはABCお笑い新人グランプリがいちばん好きだ。

 単純に番組としておもしろいし(M-1グランプリよりおもしろいときもある)、何よりネタが聞きやすい。他の賞は漫才に不向きな大きなホールでやるから聞きにくいんだよね。

 客の笑い声を足さない、余計なものを映さない、ヤラセをしない、芸人じゃない人に審査させない。あたりまえだけど、それをちゃんとやっている番組は少なかった(今でもそんなに多くない)。あたりまえのことを継続的にやることでM-1グランプリは他の追随を許さない大会になった。

 あとは「スタジオに呼ばれたM-1大好き芸能人」と「くじを引くために呼ばれた旬のアスリート」さえなくしてくれれば完璧なんだけどな!


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2024年11月29日金曜日

【読書感想文】アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』 / 人間の命のなんという軽さよ

ベルリン陥落1945

アントニー・ビーヴァー (著)  川上洸(訳)

内容(e-honより)
ヒトラーとスターリンによる殱滅の応酬を経て、最終章、戦場は第三帝国の首都ベルリンへ…。綿密な調査と臨場感あふれる筆致、サミュエル・ジョンソン賞作家による、「戦争」の本質を突く問題作。

 イギリスの歴史作家が書いた、1945年(つまり戦争末期)の独ソ戦争の情景。


 読んでいて感じるのは、おそらく意図的だろうが、数字が少ないこと。「○万人が命を落とした」といった事実の羅列はほとんどなく、体験談を中心に、ひとりひとりの生の物語を書いている。おかげで戦争の悲惨な光景が眼の前に立ち上がってくる。これがストーリーの力。教科書に書いてある「百万人が命を落としました」よりも、たったひとりの体験記のほうがはるかに強いメッセージを放つ。



 第二次世界大戦のドイツといえばヒトラー、ナチス、ゲシュタポ、ユダヤ人弾圧、強制収容所……と、とにかく「ドイツはひどいことをした」話ばかりを教わった。

 だがことはそう単純ではない。ドイツの人々も苦境にあえいだ。劣勢に追い込まれた1945年は特に。

 ブルーの照明灯に照らされたこれらの待避所そのものが、いったん入ったら二度と出られぬ地獄を連想させるたたずまいで、寒さにそなえて着ぶくれし、サンドイッチと魔法びんを入れた小さな厚紙製のスーツケースを手にした人びとが、そこに詰め込まれた。たてまえとしては、あらゆる基本的必要をみたす設備が内部に完備していた。ナースの常駐する救護室もあって、ここで出産することもできた。地表からではなく地の奥底から伝わってくるような爆弾炸裂の振動が、分娩を促進するようだった。空襲中の停電はしょっちゅうのことで、まず照明が薄暗くなり、チラチラ点滅して消えてしまう。そのため天井に発光塗料が塗ってあった。水道本管がやられると断水した。そこで「アボルテ」、すなわちトイレはたちまち惨憺たる状況となった。衛生にやかましい国民にとってはまったくの苦行だ。当局はしばしばトイレを閉鎖した。絶望した人びとがドアにカギをかけたまま自殺するケースが頻発したからだ。
 ベルリンの三〇〇万前後の人口を全部収容するスペースがないので、待避所はいつも超満員だった。通路も、座席つきのホールも、宿泊室も、人いきれと天井から滴下する結露で空気がよどんでいた。ゲズントブルンネン地下鉄駅の下のシェルター群は一五〇〇人を収容するように設計されたのに、じっさいにはその三倍を詰め込むこともしばしばだった。酸欠の度合いをはかるのにローソクが使われた。床の上に立てたローソクが消えると、幼児を肩の高さまで抱き上げた。椅子の上のローソクが消えると、その階からの退去がはじまった。あごの高さに設置された三本目のローソクが明滅しだすと、おもての空爆がどんなにはげしくても、全員が出ていかねばならなかった。
 しかしブレスラウ市外に出た女性たちは、とにかく自力で逃げなければならないことに気づいた。市外に出る自動車はほんの数両で、幸運にも乗せてもらえたのはごく少数にすぎなかった。道路上の雪は深く、ついに多数の女性が乳母車を捨て、幼児を抱いて歩くはめになった。凍りつくような寒風に魔法ビンの中身も冷めてしまった。おなかをすかした赤ん坊には母乳をあたえるしかないが、授乳のため身を寄せる場所もなかった。すべての家はドアを閉ざし、すでに放棄されたか、あるいは住人がだれにもドアを開こうとしないか、どちらかだった。やむにやまれず一部の母親は、納屋その他の風よけとなる建物のかげで乳首をふくませたが、それがよくなかった。子どもは飲まないし、母親の体温は危険なまで下がった。乳房に凍傷を負った人さえ出た。ある若い母親は、わが子の凍死を実家の母に知らせる手紙のなかで、ほかの母親たちの様子も書いている。ぐるぐる巻きにした赤ん坊の凍死体をかかえて泣きさけぶ人もいれば、道ばたの樹木に寄りかかり、雪のなかに坐りこんだ人もいる。そばでは年長の子どもたちが、母親が気を失ったのか、死んだのかもわからずに(この寒さのなかでは、どちらでもたいしたちがいはないが)、恐怖のあまりベソをかきながら立ちつくしている。

 こういう「戦時下での悲惨な暮らし」って、日本のものはよく知っているんだよ。いろんな小説や漫画や映像作品でも扱われているから。でも日本だけじゃないんだよな。どの国も同じなんだよな。


 読めば読むほど、戦争でやることはどの国も同じだな、とおもわされる。

 戦争末期のドイツにはびこっているのは根性論。決して退くな、最後の最後まであきらめず戦え。勝てる見込みのない無謀な作戦(まるで訓練されていない少年や老人で組織された国民突撃隊、武器を積んだ自転車で戦車につっこむという実質特攻隊……)、悪いことは知らせない大本営発表、冷静な意見は排除されて無謀なことを言うやつだけが重用される。

 そして、威勢のいいことを言うやつほど真っ先に逃げ出すところもどの国もおんなじ。ドイツでも、無謀な命令で部下を死なせた上官が、いざ危なくなるとすぐに降伏したり逃げだしたりする。

 想像力がないんだよね。想像力が欠如しているからこそ他人に強く言える。想像力が欠如しているから自分の身に危険が迫ったときのことを本当に想像できない。だから危険が現実のものになると泡を喰って逃げだす。少なくとも犬ぐらいの思慮があれば「逃げずに戦えばいい!」とは言いださないものだ。


 戦争末期のドイツ国民は大いに苦しんだが、それは敵国に苦しめられたというよりむしろ、過去のドイツが自分自身にかけた“呪い”のせいだ。

 逃げてはいけない、退却する兵士は殺す、上層部の指示に対する批判をするやつは粛清、ソ連の人間は劣っていて野蛮だ……。戦況が良いときはそれなりに効果を上げた言説が、劣勢に追いこまれたときには自分たちを苦しめる“呪い”となった。

 どんなに戦況が悪くても退却できない、上層部が無謀な作戦を指示しても従うしかない、勝てるわけなくても赤軍に降伏できない……。自国の教えがすべて呪いとなって自国民にはねかえってくる。多くのドイツ国民たちは、赤軍に殺されたというより、自国の司令部に殺されたんだよな。もちろん日本も同じ。

「愛国心」なんて言葉は、他人をコマとして都合良く利用するための口実でしかない。




 大戦前、大戦中のドイツはひどいことをした。でも、1945年のドイツで起こったことを読むかぎりでは、赤軍(ソ連軍)のほうがずっと悪だとおもう。
 この部隊がシュヴェーリン〔スクフェジーナ〕の町を攻略したとき、グロースマンは見たことのすべてを小さなノートにエンピツで走り書きした。「一面の火の海……燃える建物の窓から老女が飛び降り……略奪が進行中……なにもかも炎上しているので夜も明るい……[町の]警備本部で黒衣をまとい、あおざめたくちびるのドイツ女性が、弱々しいかすれ声でなにかしゃべっている。連れの少女は首と顔に傷あとがあり、ふくれあがった目をして、両手にもひどい傷を負っている。部隊本部通信隊の兵士にレイプされたという。その兵士もここにいる。赤い丸顔で、眠そうに見える。警備隊長が双方を尋問中」。
 グロースマンのメモは続く。「女性たちの目には恐怖の色……ドイツ女性はひどい目にあっている。教養あるドイツ人男性が、しきりに身ぶり手まねをまじえながら、片言のロシア語で説明する。この日、彼の妻は一〇人に暴行されたという……収容所から解放されたソ連の娘たちも、やはりひどい目にあっている。昨夜、その一部が従軍特派員に割り当てられた部屋に身を隠した。夜中も悲鳴で目をさます。特派員の一人が黙っていられなくなって大激論となり、秩序は回復された」。さらにグロースマンは、明らかに彼が聞いたと思われるある若い母親の話を記録している。彼女は農場の納屋でつづけさまに暴行を受けた。身内の人たちが納屋にやってきて、赤ん坊が泣き止まないので、せめて授乳の時間をあたえてくれと頼んだ。こういったことがすべて警備本部のすぐ隣で、しかも軍紀維持に責任を負うはずの将校たちの見ているまえで、おこなわれていた。

 掠奪、強姦、無抵抗な民間人や子どもへの虐殺……。「ドイツにひどい目に遭わされたからその復讐」という気持ちもあっただろうが、それだけではない。ドイツ軍に捕らえられた捕虜や、ドイツに支配されていたポーランド人に対しても残虐の限りを尽くしている。

 ドイツが悪くないとは言わないが、負けず劣らずソ連もひどい。

 正しい戦争なんてないってことよね。戦場においてルールやモラルなんてかんたんに破られる。ルールを守っていたら死ぬから。正しいも悪いもない。戦場において兵士は基本的に悪をはたらく。あるのはばれるかばれないかだけ。勝てばもみ消せる。戦争の歴史は勝ったものの歴史だ。



 スターリンやヒトラー、およびその取り巻きたちの話も多いのだが、読んでいておもうのは「なんと命の軽いことか」ということ。

 ここに軍を投下、数万人が死ぬがしかたない、みたいな作戦の立て方をしている。将棋で歩兵を捨てるぐらいの感覚なんだろう。まあそれぐらい割り切ってないと軍略なんてできないのかもしれないが、「ちょっとタイミングがちがえば自分がその数万分の一の歩兵だったかもしれない」という想像力があればそんな作戦立てられないよな。想像力がないから戦争をできるのだ。


 この本では、命を落とし、家族を失い、レイプされ、生活のすべてを奪われる市民たちの姿と交互に、各陣営トップたちの「政治」の様子も描かれている。

 もはや大勢は決した。ドイツが負けるのはまちがいない。ソ連は英米より先にベルリンを落としたほうが戦後の世界情勢で有利に立ち回れる。なんとしてもベルリンを先に落とさねば。「祖国を守るため」の戦いならまだしも、政治のために命を賭けて戦わされる兵士たちが気の毒でならない。

 そしてドイツはドイツで、負けることはわかっているが、ひどいことをしたソ連に占領されるより英米の占領下におかれるほうがまだ有利に事が運びそうということで、政治的な目的で降伏を遅らせる。その間にも市民たちがばたばたと死んでいるのに、政治のほうが優先される。

 なんともやるせない話だ。国民が死ねば死ぬほど命の重さは軽くなってゆく。

 戦時国際法で、捕虜や民間人への攻撃などを禁止しているけど、あまり意味がない。そんなのより「戦争が起こったときは元首、総司令官が最前線に立つこと」というルールをひとつ設けるだけでいいとおもうよ。それだけで、残虐行為や無謀な作戦はきれいになくなるだろう。それどころか戦争そのものも。




『同志少女よ、敵を撃て』でも引用されていたけど、いちばん印象に残った文章。

 ドイツ国内に赤軍が攻めてきて市民たちが逃げまどっている列車での風景。

 翌日、ディーター・ボルコフスキという名の一六歳のベルリン市民が、アンハルター駅発の混雑したSバーン列車内で目撃した情景を描いている。「みんな顔に恐怖の色を浮かべていた。怒りと絶望がうずまいていた。あんな不平不満の声はいままで聞いたことがない。とつぜん、だれかが騒ぎに負けない大声でさけんだ。『静かに!』見ると、小柄なうすぎたない兵士で、鉄十字章二個とドイツ金十字章をつけていた。袖には金属製の戦車四個のついたバッジがあって、肉薄攻撃で戦車四両をしとめたことを物語っていた。『みなさんに言いたいことがある』と彼はさけび、車内は静まった。『おれの話なんぞ聞きたくもないだろうが、泣き言だけはやめてくれ。この戦争に勝たねばならん。勇気をなくしてはならんのだ。もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ』。車内は針の落ちる音も聞こえるくらいしんと静まりかえった。

 戦争が泥沼化して終わるに終われなくなる理由が「もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ」という一文に表れている。


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2024年11月21日木曜日

【読書感想文】大島 新 他『なぜ君は総理大臣になれないのか』 / 政治家になるのはおかしい人だけ

なぜ君は総理大臣になれないのか

大島新  『なぜ君』制作班

内容(e-honより)
人間は失敗する。政治家も失敗する。しかし失敗を認めて苦悩する政治家は少ない。より良い社会をつくろうと苦悩する人間は、権力を握れるのだろうか。コロナ禍の只中で異例のヒットを記録した小川淳也の17年を追ったドキュメンタリーそのシナリオを完全収録!

 2020年に『なぜ君は総理大臣になれないのか』という映画が公開され、ドキュメンタリー映画としては異例の3万人以上を動員し、さらには各種動画配信サービスでも公開されて大きな話題となった。

 わりと政治には関心を持っているぼくとしては「これは観ておいたほうがよさそうだな」とおもったものの、なにぶん長い映像作品を観るのが苦手で、ここ十年ぼくが映画を観るときはたいてい子どもと一緒だ。子どもが興味を持つテーマではないので「いつか退屈で退屈で死にそうになったら観ようかな……」リストに入ったままになっていた。

 そんな『なぜ君は総理大臣になれないのか』の書籍版があるということを知ったので、読んでみた。映画のシナリオ(って書いてるけどドキュメンタリー映画でシナリオって言っちゃうと筋書きがあるみたいにおもえるので「書き起こし」のほうがいいのでは?)を収録し、かつ映画に関する対談やコラムを掲載したものだ。


 映画を書き起こしで読むことにはメリットとデメリットがある。デメリットとしては、あたりまえだけど映像がないこと。語っている言葉以外の表情やしぐさや周囲の雰囲気がほとんどわからないこと。

 メリットは、映像がないこと。これはデメリットでもあるがデメリットでもある。特に今作のような政治を扱ったものであれば余計に。

 我々は、語られている内容だけでなく(ときにはそれ以上に)「誰が語っているか」を重視する。それも、顔の造形だとか着ているスーツだとかのような、本人の信頼性とは無関係の要素に大きく左右される。あの政治家やあの政治家が人気があったのは、他の政治家よりも見た目が良かったからだ。

 だからこそ『なぜ君は総理大臣になれないのか』をテキストだけで読むことには意味がある。

 読んだ感想としては、「この小川淳也さんという人はいいことを言っている。だが発現を読むかぎりでは群を抜いてすばらしいというほどではない。そのわりにはこの映画を観た人からは小川淳也さんはすごく高く評価されている。ということはきっと小川淳也さんは見た目が良くて話し方も誠実そうに見えるんだろう」だった。映像は正しくない情報も伝えてしまう。



 いやもちろん小川さんはすばらしい人なんだよ。少なくとも『なぜ君は総理大臣になれないのか』で描かれる小川さんは。

小川「何事もやっぱりゼロか100かじゃないんですよね。何事も51対49。でも結論は、出てきた結論は、ゼロか1に見えるんですよね。51対49で決まってることが。だから……」
大島「なるほど」
小川「政治っていうのは、やっぱり、勝った51が、よく言うんですよ。勝った51がどれだけ残りの49を背負うかと。勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま」

 これってあたりまえのことだよね。代議制における議員は全国民を代表している。中学校でも習うことだ。

 でもこれをほんとうに理解している国会議員がどれだけいるだろうか。まだ選挙で落ちた議員や野党議員は「負けたほうの意見も尊重しろ!」とおもっているかもしれないが、少なくとも与党議員の中には「負けた議員に投票した人たちの思いも背負って政治をしなければ」と考えている人はいないんじゃないだろうか。野党議員だって、自分たちが与党になったらそんな気持ちは忘れてしまうとおもう。小川淳也さんには、この気持ちをずっと忘れないでいてもらいたい。


 ぼくは小川淳也さんひとりに日本政治の未来を託すつもりはない。

 小川さんは今は立派なことを言っているが、この先どうなるかはわからない。今は腐った政治をしているあいつだってあいつだって、はじめて立候補したときは立派な信念を持っていたんじゃないだろうか。

 人は必ず変わる。どんな人だって道を踏み外すことはある。だから「小川淳也さんが総理大臣になれば日本は良くなる!」と考えている人がいるとすれば、それは大間違いだ。そんな人がたくさんいる限り政治は良くならない。どの党が政権をとるかとか、誰が総理大臣になるかなんてのは、小さな問題だ。我々は絶えず政治をコントロールしつづけれなければならない。




 この本を読んでいておもうのは「まともな人は政治家になれないし、総理大臣になれない」ということ。

 小川淳也さんの妻・明子さんに話を聞いているところ。

大島「娘たちは政治家になるのも嫌だけど、政治家の妻になるのも嫌だって」
明子「ああ、だろうね。はははははははは」
明子・八代田「(同時に)そりゃそうだよねえ」
明子「私もねえ、嫌だなあ。ははは。
 でもほんとねえ、これだけのことがあるって知ってたら、もうちょっと躊躇したね。たぶんね」
八代田「確かに、知らんもんね」
明子「分からないからね、知らないからね。まあ、やれるだけやろうみたいな感じで始まったけど。まあね、仕方ないっすね。ははははは」
大島「もう仕方ないよね」
明子「もう仕方ない」

 小川さんの妻も娘も、選挙に協力してくれている。選挙事務所に詰めて仕事をして、一緒に街頭に立つこともある。そんな人でも「政治家になりたくない」「政治家の妻になりたくない」と語る。それがふつうの感覚だ。ぼくだっていやだ。自分の家族が出馬するのもいやだし、落選するのもいやだし、当選するのもいやだ。市議だろうが市長だろうが代議士だろうが総理大臣だろうがいやだ。だってまちがいなくふつうの生活が奪われるんだもん。娘が皇室に入るのと同じくらいいやだ。

 何かやらかせば叩かれて、やらかさなくても非難されて、うまくやっていても周囲の人からは「政治家だからうまいことやってるんでしょうね」とおもわれる。ろくなことない。お金はそこそこ多く入ってくるけど、出ていくお金も多くて手元にはぜんぜん残らないと聞く。だいたい残ったところで立場上派手には使えないだろう。

 まともな人は政治家になんてなりたくない。どう考えたって報酬が労力に見合わない。政治家としてうまくやっていく才覚のある人なら、ビジネスの世界ではずっと多くのお金を稼げるだろう。非難されることも少ないし、自由に使える。どう考えたってそっちのほうがいい。みんな政治家なんてやりたくないからこそ代議制というシステムがあるのだろう。


 小川さんも語っているけど、政治家になる人なんておかしい人だけだ。または政治家の家に生まれ育った人。もちろんそれもおかしい人だ。

 小川さんだっておかしい。自分や家族の幸せを考えるなら、官僚を続けるか、ビジネスをやったほうがずっといい。

井手 僕はいろいろな政治家の方と接する機会があって、じつは、小川さんみたいに真っ直ぐな人がたくさんいるんだということを知っています。地方議員さんもそう。みなさんのまわりで一生懸命に汗をかいて頑張ってる人、大勢いますよ。それなのに政治に関わるとか、政治家を褒める、応援するってことがみなさんにとっては異様にハードルが高い。
 そう、この「敷居の高さ」がいやなんです。映画を観て強く感じるのは、あそこまで家族を巻き込んで、「選挙ってここまでやんなきゃいけないの?」っていうこと。
 僕、よく「選挙に出ろ」って言われるんですよ。昨日も朝イチで滋賀県に行って、地方議員さんを相手に講演して来たんです。終わった後にバーッと並ばれて、「先生、選挙出られませんか?」って言われちゃうわけですよ。「いやです」「いやです」って断るんですけど(笑)。
 それは第一に思想的なものだけど、それ以前に、うちには子どもが4人いて、生活のこと考えるとまずムリですよね。だって、この社会は僕が慶應大学の教授職)を辞めないと認めてくれないもの。慶應の先生をやりながら選挙に出た時点でもう、「背水の陣じゃないだろ」「あいつ、腰かけだ」って叩かれるでしょう。(会場に向かって)みなさんだって叩くでしょ?
 何もかも投げ捨てて、家族巻き込んで、娘も連れ合いも泣かして、ってやらないと政治家になれないという、恐ろしい現実がある。
 現実の政治に関わるのはもの凄くしんどい。でも、「じゃあ傍観してていいのか」と言うと、みんなそりゃいかんと思ってる。ここの突破口が見えて来ないんですよね。
大島 う~ん、わかりますね、それは。
 私は政治家と言ったら小川さんだけを知っているぐらいの感じで、あとはまあ、テレビ業界にいますので、報道の記者とかから個々の政治家の評判を聞くぐらいでしかないんですけれど、やっぱり、「なぜ私たちは君のような人を総理大臣にすることができないのか」ということも考えているんですね。「君のような人」というのは、必ずしも小川さんでなくてもいいのですが、井手先生もおっしゃられた、「ちゃんと真っ当で誠実で一生懸命やっている人」もいると。それは自民党にもいるかもしれないし、共産党にもいるかもしれない。
 でもやっぱり、既得権益もそうなんですけれども、そういった人たちを阻んでいるものがあるんですよね。選挙の問題も凄く大きくて、恐らく安倍さんとか麻生さんは、地元に1回も帰らなくても勝つわけじゃないですか。そういう政治家が一定数いるという状況の中で、野党の、特にバックボーンも何もない人たちは家族を巻き込んで、あそこまで辛い思いをさせてと言うか.......。

 選挙に出たいけど家族に猛反対されて出馬をあきらめる人も多いという。選挙に出るために離婚する人もいるそうだ。よほどの強い信念(というよりは妄執)を持っているか、議員であることからよほどの私益が得られる人だけだろう。

 おかしい人たちの中からまだマシなおかしい人を選ぶ場、それが選挙だ。




 さらに政治家になってからも、まともな人は党内で出世できない。

 鮫島浩さんの文章より。

 政党や内閣の重要ポストを歴任すると、「この人はいずれ党首となって、さらには総理大臣となるかもしれない」と期待する人が世の中に増え、政治献金も集まってきます。その資金を元手に「子分」の政治活動を支援したり、選挙を応援したりして、さらに「子分」を増やしていくのです。そして、いざ党首選挙となると、「派閥」の「子分」たちは「親分」が勝つように懸命に応援します。もちろん「親分」の政治理念や政策に共鳴して応援する「子分」もいますが、たいがいは「親分」が党首になって自分が重要ポストに抜擢される「見返り」を期待して応援するのです。資金力を増した「親分」から政治資金を援助してもらうことを期待して応援する「子分」もいます。かつて民主党代表を務めた小沢一郎氏は豊かな資金力大勢の「子分」を抱えていることで有名でした。民主党政権で総理大臣を担った鳩山由紀夫氏、菅直人氏、野田佳彦氏の3人も自らが率いる「派閥」を持ち、多くの「子分」がいました。
 もう、わかりますね。党首選に勝つためには、多くの国会議員を「子分」として従え、応援してもらわなければなりません。そのために数々の重要ポストを歴任して知名度や資金力をアップさせ、「子分」の人事や資金の面倒をみて、仲間を増やしていかなければならないのです。だから国会議員たちは連日のように仲間とともに「夜の街に繰り出して結束を固め、さらに仲間を増やすことを目指して昼夜、勧誘に励んでいるのです。そうして多くの国会議員たちに支えられる「強い政治基盤」をつくらなければ、党首選挙に勝つことはできません。党首にならなければ総理大臣にもなれません。まずは党内で「子分」を増やさなければ総理大臣への道のりは険しいのです。
 小川議員は幹事長や政調会長などの重職を担ったことはありません。資金力もさしてありません。その結果、小川議員を党首に担ごうとする「子分」はほとんどいません。それが厳しい現実です。本人が告白しているように「夜の街」も苦手です。仲間を増やすための「飲み会」もほとんどしません。そのうえ「フェアな政治」を掲げているため、仮に小川議員が党首になっても「仲間」を優遇する人事をしてくれるとは限りません。どんなに小川議員の人気が国民の間で急上昇しても、小川議員を党首に担ぐことにメリットを感じる国会議員の仲間が極めて少ないのです。

 たくさん金を集めて、自分の言うことを聞く「子分」には便宜を図ってやって、金を出した組織にも見返りを与えてやって、それによってより多くの金と子分を集めて……ということをやらないと党内でえらくなれない。

 構造的にそうなっている。国会での評決なんてほぼ記名投票だからね。信念に従って投票した議員は造反者なんて呼ばれて犯人探しをされるからね。


 つくづく異常な世界だよ、政界って。

 でも、そうやって距離を置いていたらますます政界が異常な世界になって、まともな人との距離が広がってゆき、二世三世と業界の利益代表者と異常者だけの世界になってしまう。

 だから何度も書いているけど、議員の数を増やしたらいいとおもうんだよね。「議員の数を減らせ!」って人もいるけどその逆。百倍にしたらいい。その代わり、給与も権限も百分の一。仕事の量も百分の一だから、兼業でもできる。会社員だって主婦だってフリーターだって片手間でできる。議会に集まる必要もないし。

 国会議員が何万人もいたら変に注目もされないので負担なくやれる。市議だって何千人、県議だって何千人。立候補だけでたりなければ裁判員みたいに抽選で選べばいい(これはやけくそで言ってるわけではなく「くじ引き民主主義」といういたってまじめな案だ。実現して成果を上げている国もある)。

 議員の重みを軽くしようぜ。PTA役員と同じぐらいに!


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