最強新コンビ決定戦
THEゴールデンコンビ
(Amazon Prime)
(勝敗に関するネタバレを含みます。ネタの内容についてはなるべく具体的に書かないようにしています)
スウェーデンでは国政選挙の投票率が80%を超えているという。なぜスウェーデン国民は政治参加への意識が強いのか。その謎を探るべく、スウェーデンの小学校(厳密には日本の小学校相当)の社会科の教科書を読むという大学のゼミの様子を収めた本。
うーん、試みはおもしろいんだけど、このゼミのレベルはひどいわ……。
学生たちがあまりに教授の誘導に乗りすぎている。きっとこの学生たちはみんなそこそこ賢いのだろう。だから「教授が求めている感想」を的確に判断して、きちんとそれを述べている。うん、お利口だね。
だけど自分で調べようというほどの熱意はない。ま、専門以外のゼミなんてそんなもんだよね。ごくごくふつうのゼミだとはおもうけど、そこで語られていることには本にするほどの価値はない。
学生たちはみんな「大学生になってから読んだ現在のスウェーデンの教科書」と「自分が小学生のときに読んだ昔の日本の教科書のおぼろげな記憶」を比較してあれこれ語っている。あたりまえだけど、そんな比較になんの意味もない。
たとえば、スウェーデンの教科書には「なぜ歴史を学ばないといけないのか」が書いてあるんだけど、それを読んだ学生が「すごいよね。日本の教科書では歴史を学ぶ意義みたいなものは教えないよね」なんて語っている。
んなわけあるかい。歴史の教科書には、必ず歴史を学ぶ意義が書いてある。少なくとも今までぼくが使ってきた教科書はみんなそうだった。
きっとこの学生の教科書にも書いてあっただろう。ただ忘れているだけ。なぜなら序文なんてほとんどの授業で扱わないし、テストにも出ないから。
ほんとにやるべきなのは、今の日本の教科書を改めてじっくり読んでみて、その上でスウェーデンの教科書と比較することだろう。今の教科書なんてそのへんの図書館に行けばかんたんに閲覧できる。かんたんなことなのに、誰もやっていない。
まあこれは学生じゃなくて指導教官の問題なんだけど。
そもそもなんだけどさ。「小学生がまじめに教科書を読むはずがない」という視点がごっそり抜け落ちている。自分たちがそうだったくせに。
教科書の序文なんか読まない。本文もほとんど読まない。読んだとしても、そこから何かを読み取ろうとはしない。読み取ったとしてもすぐに忘れてしまう。
小学生ってそんなもんでしょ。現に、自分たちは小学五年生の社会の教科書に何が書いてあったかなんてまるっきりおぼえてないわけじゃない。それがあたりまえ。
なのに、なぜ「スウェーデンの小学生は教科書を隅から隅まで熱心に読み、そこに書かれていることを完全に理解し、それを己の血肉とし、大人になった後も教科書に書かれていたことを基に社会とのかかわり方を決定している」とおもえるのか。
「小学校の社会の教科書が社会思想を育んでいる」という前提そのものがまちがっている。まったく関係ないとは言わないけど、それよりは教師がどんな話をしているかとか、家庭内で親がどんな話をしたかとか、テレビやネットでどんなことを語っているかとか、身近な大人がどんな行動をしているかとかのほうがずっと大事だろう。
人は教科書のみで学ぶわけにあらず。
「スウェーデンの政治参加率が高いのは学校教育、教科書が優れているからだ」という結論が先にあって、それに合うストーリーを作っているだけなんだよね。
ということで、ゼミで話し合った内容の部分は途中から読むのをやめた。学生たち、ひたすら先生が喜びそうなことをしゃべってるだけなんだもん。
しかしスウェーデンの教科書の内容自体はおもしろかった。
ぼくが感じたのは「スウェーデンの教科書はずいぶんあけすけだな」ということ。ぼくも現在の日本の教科書をじっくり読んだわけじゃないから比較はできないけど。
でも「議員は当選するために行動する」なんて書いてあるのはおもしろい。こんなことは誰しもが知っているけれど、日本だとなかなか書けないよね(書いてある教科書があったらごめんね)。
また、メディアとの接し方でいえば「どうやってメディアの情報を受け取るべきか」は習ったことがあるけど「どうやって情報を発信していくか」は学校で習った記憶がない。
これもスウェーデンの教科書ではしっかり書かれている。
おもしろいなあ。ウェブやSNSで情報発信をしやすくなった現在だからこそ、受け取り方と同じぐらい発信の仕方も重要だもんね。
しかし「フェイスブックでグループをつくりましょう」「デモを行いましょう」なんて、学校側は嫌がりそうだよなあ。
だって、学生たちがおかしなことに対して批判の声を上げだしたら、真っ先に矛先が向かうのは学校であり教師だもんな。
この課題もおもしろい。
単に独裁制はよくないと書くだけでなく、独裁制を敷くためには何が必要か、独裁制に対抗するためには何が必要かを考える機会を与えてくれる、いい思考実験だ。
もっとも、スウェーデンの子どもたちがこれを読んでじっくり考えているかどうかは知らないけど(たぶん考えてない)。
YOASOBIのファンである娘が、「YOASOBIが主題歌を歌っている映画を観てみたい」と言うので、主題歌以外前情報はまったくない状態で鑑賞。
以下、ネタバレを含みます。
謎の生物“ふれる”と出会った三人の少年。“ふれる”が近くにいると、身体を触れ合わせることで言葉を交わさずとも互いの心の中を伝えあえるようになる。この能力のおかげで三人は隠し事のない親友となり、やがて青年となった三人は“ふれる”とともに東京で同居生活を送ることになる。順調な三人暮らしだったが、女性の同居人を迎えたことでお互いの考えていることがうまく伝わらないことが増え……。
うーん、最近よくあるアニメ映画って感じだなあ。ファンタジー設定はいいとして、後半は世界が崩れて主人公が内面世界へ吸い込まれる。で、変な世界で変な冒険をして、心情を叫んで、収束。
なんで最近のオリジナルアニメ映画作品ってみんなこんな感じなんだ。何匹目のドジョウを狙ってるんだろう。
それでも登場人物やストーリーが魅力的ならいいんだけど、『ふれる。』に関しては、登場人物のほとんどに共感できなかった。嫌なやつばっかり。
他人とうまく話せなくて、もどかしくなるといきなり暴力に訴える主人公。
女の子とキスをして、それをすぐ誇らしげに友人に語り、さらに交際記念サプライズパーティーとやらを勝手に開く男と、女のほうに付き合う気はないとわかると女を責めたてるその友人。
ストーカーに追われているからといって、住人の一人が露骨に嫌がっているにも関わらずシェアハウスに強引に住みつき、さらに「この時間帯は洗面所に入らないように!」と身勝手ルールを作る女たち(個人的にはこれがいちばん嫌だった。ぼくだったらこんなことされたらどんな美人でも嫌いになる)。
営業時間外の店(飲み物だけのバー)に入ってきて、店員のまかない飯を勝手に食う老人(それがなんと有名レストランのオーナーという無茶苦茶な設定)。
全員嫌なヤツ。まともなのはバーのオーナーと島の先生ぐらい。“ふれる”はべつにかわいくないし、不気味さもないし、中途半端な造形だったな。
まあ嫌なヤツが嫌なヤツと惚れたはれたをやってるのはお似合いだからいいんだけど、勝手にしろという以上の感想は出てこない。うまくいこうがフラれようがどうでもいい。
で、ストーカーにつきまとわれているという理由で転がりこんできたくせに、女がひとりで夜道を歩いて案の定ストーカーに遭遇する。まあそうだろうね。あまりに予定調和的で、ストーリーを進めるために襲われただけにしか見えない。
で、そのへんからいざこざがあって、“ふれる”が単に心を伝えるだけでなく悪意やいさかいの種をフィルタリングしていることが判明。このへんはちょっとおもしろくなりそうだったのに、主人公たちは内面世界へ連れていかれてしまう。あーあ、現実世界でうまく解決する方法を思いつかなくて内面世界へと逃げちゃったんだな。はっきり言って手抜きだよなあ、こういう演出。困ったら異次元をさまよわせとけばいいとおもってるんだろうな。
そして伝えられるメッセージが「軋轢を恐れずにちゃんと言葉にして伝えるのが大事だよね」なんだけど、安易に登場人物たちを内面世界に飛ばしといてそれを言うのかよ。制作者が観客との対話から逃げてるじゃん。
終盤は、登場人物たちがべらべら内面を吐露しはじめる。ダサいことこの上ない。打算なく己の心の中を素直にぶちまけるやつを見たことあるか? 行動や表情で感情を表現することができないから、内面の吐露をやらせちゃうんだろうな。人間はみんな正直な感情を言葉に出して伝えることができないからこそ、“ふれる”が価値を持つんじゃないの?
……と悪口ばかり書いてしまったけど、本当のところはそこまで悪い映画ではなかった(登場人物がみんな嫌なやつなのは本当だけど)。
細かいところがいろいろ気になっただけで、大筋としては悪くない。ただ、ほんとに「悪くない」というレベルで、この映画にしかない要素は特になかった。
ただやっぱり細部が雑なんだよなあ。
二十歳ぐらいの男三人がいて、エロいことに関する考えがまったくないこと。考えていることがそのまま伝わってしまうなら、エロばっかりになってしまいそうなもんだけど。それも“ふれる。”のフィルター? “ふれる。”は争いの種とエロをフィルタリングするのか? YouTubeかよ。
離島とはいえそこそこ人口がいたし、同年代の女の子も描かれている。島でも恋愛はあっただろうに、そこで“ふれる。”フィルターは発動しなかったのか? 発動していたらそれでフィルターの存在に気づきそうなもんだけどな。
これまで十数年心を通わせてきた三人なのに、フィルターの存在にまったく気づかなかったってのはだいぶ無理がある設定だ。
あらすじに“三人は20歳になった現在でも親友同士。それは島から連れてきた不思議な生き物「ふれる」が持つテレパシーにも似た力で趣味も性格も違う彼らを結び付けていたからだ。”とあるけれど、ほんとにこのあらすじ以上の設定は考えてないんだろうな。映画内では省略したっていいけれど、制作側は「十数年の背景」を考えておいてほしい。けれどそれをしていない。だからあちこちほころびが生じる。
表面上はそれなりにうまくまとまっているけれど、骨のない作品だった。
小川淳也という衆議院議員がいる。『なぜ君は総理大臣になれないのか』というドキュメンタリー映画の主人公になった人なので、野党議員の中では党首クラスを除けばそうとう有名なほうの議員である(ちなみにぼくはまだ『なぜ君は総理大臣になれないのか』は観てない。気にはなっている)。
その小川淳也氏に、政治については素人に近い(政治の素人ってのも変な言い方だけど)フリーのライターである著者が、あれこれと意見をぶつけて議論を闘わせた本。
なのだが……。
著者のレベルがあまりにも低い。
いや、政治の知識が乏しいことはべつにいいんだよ。政治は誰にでも関係のあることだから、政治の知識が乏しい人でも積極的に参加すべきだ。だから「あまり知識のない人代表」として政治家に意見をぶつけにいくというスタンスはすごくいい。
ただなあ。知的謙虚さがまるでないんだよな。視野の狭さというか。
たとえば、小川さんとベーシックインカムの話をしていて。
「国民ひとりあたり一人七万円を支給する。誰が必要か不必要か判断するのにはコストもかかるし不正する人もいるので、誰であれ一人につき七万円を支給する」という案を提示した小川さんに対し、著者は、自分は単身世帯でいろいろ割高だから、単身世帯だけは一人十万円にしてほしいと主張する。
小川さんは反対。そうやって差をつけると、我も我もと増額を主張するので、余計なコストがかかるし不正の温床になる。だからとにかく全員同額。
著者はさらに主張。自分はフリーランスで家を借りるのが大変だから、ベーシックインカムとは別で住居費を出してほしい。
小川さんは反対。住宅政策はそれとは切り離すべきで、公営住宅などを充実させて全員が住むところに困らないようにするべきだと。シェアハウスをすれば単身世帯の割高も解消されるし、住宅問題も解消に向かう。
著者の主張はこう。他人とは住みたくない。公営住宅や団地はイヤ。住むところは自分で選びたい。でも家賃を自分の財布から出すのはイヤなので、国が負担してほしい。
……こいつは何を言ってるんだ?
徹頭徹尾自分の都合しか考えていない。不便なところや古い家には住みたくない。他人と暮らすのもイヤ。単身だから生活費が高くつく。だから国が単身者の面倒を見ろ。
いや、べつにいいんだけど。個人の願望を述べたって。でもそれって「国民全員が俺に十円くれたら十億円もらえるから遊んで暮らせるじゃん!」レベルの話だ。政治でも何でもない。
よくそんな恥ずかしい話を、国会議員に向かって臆面もなく主張できるな。
とにかく想像力が欠如してるんだよね。単身者だけが大変だとおもってる。子どもがいてフルタイムで働きに出られない家庭、介護や看護を必要としている人のいる家庭、いろんな事情で持ち家に住み続けないといけない家庭。どっちが大変と比べることに意味はない。みんなが「うちだけが大変!うちだけ優遇してくれ!」と主張したらどうなるか、子どもにだってわかることなのに。
著者はいろんなことに関心は持つけれど、自分と異なる立場の人のことはまるで考えようとしない。
原発の話にしてもそう。小川淳也さんは「いずれは原発ゼロにするべきだから新設や増設には反対。だが今すぐ全停止しても稼働しているときと運用コストやリスクは大きく変わらない。また原発全停止になれば化石燃料を使った発電を増やさねばならず、環境負荷も大きい。だから原発は数十年単位で段階的にゼロに持っていく」という主張をしている。
それに対して著者は「原発は怖いから今すぐ全停止!」の一点張り。
いやそれはそれでひとつの立場なんだけどさ。実際そういう市民も多いし。
でも、じゃあ原発全停止にする代わりに火力発電を増やして地球温暖化が進むことは許容しますとか、電力不足に陥って停電が頻繁に発生する国になることは許容しますとか、どっかで妥協しなきゃいけないわけじゃない。それが政治というものでしょ。
著者の場合は、そういう譲歩が一切ない。原発は止めろ、地球温暖化には今すぐ全力で対処しろ、電力不足? そんなの知らん、どっかの誰かがすごい案出して何とかしてー!という感じ。
あんたが求めているのは正しい政治じゃなくて魔法の力だよ。
著者の知的レベルがアレな分、それに根気強く対話を重ねている小川淳也さんがすごい人だとおもえる。
いやあすごい。議員もたいへんだよなあ。ぼくらが見る議員って国会でふんぞりかえっている姿ばかりだけど、実際は、こういう身勝手な人の相手をするのも仕事なんだよなあ。頭が下がります。
ぼくだったら「それはだめですね」「何言ってるんですか、まじめに考えてください」「それだったら訴える先は国会議員じゃなくて神社ですね。神頼みしかないです」とか一蹴しちゃうけど、ちゃんと聞いて誠実に答えてるんだもん。
しかも「そうですね、あなたのおっしゃる通り」と適当に調子を合わせてその場をやり過ごすのではなく、聞いた上で、きちんと否定している。もちろんぼくのように「は? あほちゃう?」などとは言わずに、(たぶん理解してもらえないことをわかった上で)懇々と主張を述べている。適当に合わせるほうが楽なのに。
著者は自民党政治に反対の立場(というか敵視している。自民党議員やその支持者にもそれぞれの立場や生活があることなど想像しようともせず絶対悪のように扱っている)なんだけど、著者みたいに自分の都合だけ考えて身勝手な要求をする支持者がいて、身勝手な要望に応えていった結果が今の自民党政治であり、日本の惨状なんだとおもう。
おらの村に道路を作ってくれ、おらの会社にだけ補助金を出してくれ、おらの業界だけ消費税の軽減税率を適用してくれ、おらのようなフリーランスで単身世帯で他人と一緒に住みたくない人にだけ手厚く税金使ってくれ。
自民党を敵視している著者が、自民党支持者の悪いところを煮詰めたような思考をしているのはなんとも皮肉なことだ。
ということで、主張が身勝手百パーセントで、文章もつまんねえので、途中から著者のお気持ちは飛ばして、小川淳也さんの話だけを読むようにした。
うん、ここだけ読むといい本だ。
これねえ。みんなわかってるじゃない。日本の抱える問題の大半は、高齢者が多すぎることだと。高齢者に使っている金が多すぎること。それ自体は誰のせいでもない。高齢者のせいでもない。逆に若者が多ければ、ずっと人口が増え続けているということなので、それはそれで別の問題が生まれるわけだし。
良くないのは、問題をはっきり口にする政治家がいないこと。選挙で落ちるのを恐れて、高齢者への手厚すぎる保護を減らしましょうと言わない政治家だらけなこと。
ぼくが政治家に求めるのは、耳に痛いことを言ってくれる人なんだけどな。耳に痛い事実を告げられて、ひどいことを言うやつだ、あいつは選挙で落としてやれ、となるほど高齢者も有権者もバカばっかりじゃないですよ、と言いたい(とおもってたけど少なくともこの本の著者はそっちのタイプだよなあ)。
民主主義について。
これね。ぼくが為政者に求める、最も重要な条件が「反対派の意見を聴き入れる」ことなんだけど、なかなかやれる人はいない。与党にも野党にもほとんどいない。はっきり言って「反対派の意見を聴き入れる」ことさえできるのであれば、どの人、どの党が政権をとってもかまわない。結果的に同じことになるわけだから。
あげくには「我々は民意を得ている」なんて大きな勘違いをしてろくに国会審議もしないまま法案を通しまくった政党もあった。中学教科書からやりなおしてほしい。選挙なんて「俺たち全員が政治をするのは面倒だからとりあえず全員を代表して少数を選んでおくけどいつでも首をすげかえられるからな」というシステムだということをわかっていない。
また坂井豊貴『多数決を疑う』あたりを読めばよくわかるけど、多数決というシステムはまったくもって民主的じゃない。相手より一票でも多く票を取ったほうが議席総取り、なんて民主主義の真逆みたいなやりかただ。
多数決が他の選挙方法に勝っているのは、ほとんど「集計が楽」しかない。その「ただ集計が楽なだけで、民意をぜんぜんまともに反映できないシステムでその場しのぎの代表として選ばれた」のだとわかっている議員であれば、「選挙で勝利したのだから全権委任された!」という発想にはならないだろう。中学公民の知識さえあれば。
経済政策。
ぼくは経済のことはよくわからないので、これがほんとにインフレ政策になるのか、人々の暮らしが良くなるのかはわからないが、この発言をする人は信頼できるということはわかる。
あらゆることに反対の意見を語る右派も左派も、「増税=悪」という前提で語ることだけは一致している。いやいや、そうじゃないだろ。税金ってのは富の再分配機能なんだから、税金が高くなれば貧しい人ほど得をする。なのに貧しい人ほど増税に反対する。
税金の問題は、高所得者を捕捉しきれていないことだったり、現役世代の負担が大きいことだったり、使われ方が適切でないことだったりすることであって、高い税金それ自体は悪ではない、むしろ君たちの味方なんだよとぼくは声を大にして言いたい。
だから増税のメリットについてちゃんと語れる政治家を、ぼくは信用する。増税と聞いただけで考える前に拒否反応を示す人も多いけど(もちろんこの本の著者もそのひとりだ)、ちゃんと財政や貧困対策や経済政策について考えている政治家なら増税を語って当然だとおもう。少なくとも減税なんてもってのほかだ。
たやすく減税を約束する政治家は、よっぽど無知か嘘つきのどちらかだとおもっている。
「社会の構造変化が雇用構造の硬直さによって阻止される」という視点は興味深い。日本だけの問題かどうかはわからないけど。
たしかに、会社という組織があり、そこに守るべき従業員がたくさんいる場合、会社のやっていること自体は古くなってきてもそうかんたんにつぶせない。たとえばガソリン自動車を作っている日本トップクラスの大会社があって、ガソリン自動車が時代に合わなくなっても、おいそれと方向転換をすることができない。今いる従業員を大幅に減らして、電気自動車に特化した人材を新たに採用します、というわけにはいかない。
時代の移り変わりはどんどん早くなっている。十数年前の大学生が選ぶ就職先の人気業種は、銀行、電機メーカー、テレビ局、新聞社、出版社などだった。今やどこも斜陽産業だ。
だけど数十年働くつもりで入った人はそうかんたんに辞めて別の業種に行くことができない。優秀な人が先のない業界で延命のために努力し、国もまた死に体とわかっていてもそれを支える。あまりにももったいない。
終身雇用制はもうなくなりつつあるとはいえ、まだまだ大企業では一社で何十年の勤続する人は多い。そこを崩さないかぎりは社会全体が時代の流れについていくことはむずかしいだろうな。だからって安易に解雇規制緩和と言うつもりはないが。
花屋に花束を買いに来た客。「花のことはよくわからないのでおまかせします」と言いながら、できあがった花束にケチばかりつけて……。
花屋という設定、花束だけの必要最小限のセット、芝居の枠を出ない抑えめかつ辛辣なツッコミと、とにかくおしゃれなコント。おしゃれでありながらトップバッターで大きな笑いをとるパワーも隠し持っている。そして平気で人の神経を逆なでしそうなことを言いそうな兎さん、弱気そうな見た目でずばっときついことを言う堂前さんという当人たちのキャラクターにもあっているすばらしいコント。審査員をうならせるセンスと観客受けするベタさを兼ね備えている。
とことんうざい客(でも現実にいそうなちょうどいいライン)の言動に対して、花屋の店員の立場を守ったまま花言葉で返す店員。それにもひるむことなく「こっちが譲ってやる」とばかりに偉そうな立場を崩さない客。目に見えない火花が飛び交うようなせめぎあいが見事。この客のような人間はどこにでもいて、誰しも「明確な指示を出せないくせにアウトプットにだけとにかくケチをつけるクライアント(あるいは上司)」に辟易した経験があるからこそ、花屋の店員の反撃に溜飲が下がる。不快でありながら胸がすっとする。
終盤でドラマチックな展開を用意しながらも安易なハッピーエンドに持っていかず「まだマイナスです」と赤裸々かつ婉曲的な表現のオチ。一から十まですばらしいコントだった。
一曲で四発しか打ってはいけないという謎のルールのある伝統芸「富安四発太鼓」を披露する中年男性とそれを見物する若い男。
四発しか打てない謎設定もばかばかしければ、早々に三発打ってしまうのもばかばかしい。カッカッカッで使ってしまうのもばかばかしいし、うっかりバチが当たってしまうのもくだらない。とにかくばかばかしいコントでありながら音響スタッフに対して厳しい、そのせいで仲間が減っているなど背景が見えてくる細かい設定もニクい(審査員の山内さんが指摘していたけどイヤな腕時計もいい)。二人の顔や体形が田舎の祭りにいるおじさんと純朴な学生っぽい感じなのも高ポイント。
終盤の観客が参加するあたりからは予定調和的な流れだったかな。本当は五発以上叩きたかったという心情を吐露するあたりは好きだった。
ロバートの秋山さんが高得点をつけていたのが印象的。たしかにロバートのコントっぽい設定だよなあ。
あまり頭を使わずに観られるネタだったので、序盤じゃなくて10本目とかの疲れてきた時間帯に見たかったな。
テレビショッピングで、商品メーカーの社長が止めるのも聞かずに司会の芸人が暴走してむりやり値下げをさせてしまう。とおもいきや、それすらも社長の書いた筋書きであることが明らかになり……。
うーん。最近よく見る「開始1分ぐらいで意外な設定が明らかになるコント」だけど、その意外性のレベルが低かったな。正直、予想の範疇だった。「実はシナリオ通りでした」はキングオブコントの舞台だけでも、しずるやザ・マミィも披露しているし。
本当の設定が明らかになった後の展開も「この設定だったらこれぐらいやるだろう」と観ている側が想像する範囲。審査員には芝居がうまいと言われていたが、種明かしが中心なので言動がすべて説明的でまったくうまいとおもえなかったなあ。
劇中劇のシナリオについて言及するネタって、よく考えられている風に見せられる反面、台本の余白が少なくなっちゃうんだよな。
職場の休憩スペースで、財布から一万円札がなくなっていることが発覚。正義感の強い同僚が犯人探しをはじめるが、正義感の強さゆえに海外の麻薬捜査官のような厳しい取り調べをしだして……。
おもしろい。かなり無理のある設定なのだが、熱量とディティールの細かさで押し切ってしまう。つくづく力のあるトリオだ。三人のキャラクターも浸透してきて、受け入れられやすくなった。
しかし、どうしてもや団がキングオブコント初登場時に披露した「キャンプ」のネタを想起してしまう。ネタの構造がほとんど一緒なんだよな。そしてキャンプでは伊藤さんの狂気にくわえて「埋められそうになっているのにネタばらしをしようとしない」中嶋さんの異常さも光っていたが、このネタでは捜査に協力的な中嶋さんはそんなに異常ではない。「自分の潔白を証明したい」という動機が理解できるから。このネタもいいネタなんだけど、「キャンプ」が印象的だったがゆえにどうしても比べてしまう。
本筋だけでなく、子どもの描いた絵、誕生日といったディティールもうまく使い、ラストで真犯人が明らかになることでもう一度見え方がひっくりかえる隙のない構成。トリオでしか表現できないコントだった。
公園で人形遊びをしている子ども。その演技があまりにも真に迫っているため、隣で聞いていた老人もだんだん引き込まれていき……。
まず、今こういうネタをやるのか、と驚いてしまった。悪い意味で。人形劇ネタといえば、二十年以上前にFUJIWARAや次長課長がよくやっていた印象で、つまり「古い」。お医者さんコントと一緒で手垢にまみれているので、よほど新しい切り口がないと厳しい。それもいろんな人形劇コントを見てきた歴戦の芸人審査員の前で。
で、新しい切り口があったかというと……。何もなかった。観ている人が劇中に入り込んでしまうのも予想通り(逆にそれをしない人形劇コントのほうがめずらしいのでは)。
たしかに西村さんの芝居はうまい。が、劇中劇のシナリオのほうが目も当てられないほど平凡。幼なじみの男女、悪くてかっこいい先輩、実は女たらしで人の心のない最低なやつ、それに迎合する舎弟、何から何まで「どっかで何度も見たことある」ストーリーだ。みゆき、というヒロインの名前も含めてまるで知恵を絞った形跡がない(どうでもいいけどコントに出てくる女性の名前はみゆきが圧倒的に多いのはなんでだろう。ネルソンズとか毎回みゆきだ)。そして観客が人形劇の世界に入り込んでしまう設定も、人形劇コントの定番。
これは教養の問題だろうな。明るくて、見た目もよくて、芸達者で、周囲から愛されるコットンというコンビの最大の弱点といっていいかもしれない。
よく知らないけど、たぶん彼らは努力家で、たくさん他の芸人のコントも見てきたのだろう。ただコント以外の教養が感じられない。たくさん映画を観たり、いろんな小説を読んだり、成功しなかった人と会って話をしたり、あるいは孤独の中で妄想を膨らませたり、そういうバックボーンが感じられないんだよな。だから「どこかで見聞きしたような話」しか展開できない。題材はテレビの世界の中にあるものだけ。
一般審査だったらこのコントのウケはかなり上位だったんじゃないかとおもう。ただ「どうやったらこんな発想思いつくんだ」とうならされれるようなものをぼくはひとつも感じなかった。演者としてはすごい二人なんだけど。
強豪野球部に入ってきた新入生。守備もバッティングもピッチングも言うことなしだが、声が小さいという理由で監督にしごかれる……。
上に書いた説明がストーリーのすべて。なのだが、めちゃくちゃおもしろい。むちゃくちゃだし、最初の「声小さいねん」以降は基本的に同じことのくりかえしで大きな裏切りもないのだが、なぜか笑いが増幅してゆく。
声を張らない辻さんのツッコミ、風貌に似合わない野球センスとどれだけひどい目に遭ってもかわいそうに見えない摩訶不思議な能力を持ったケツさんのパワーが存分に発揮されていた。いちばんゲラゲラ笑えるコントだった。
そして風刺も感じる。野球部ってこういうとこあるもんな。どれだけいいプレーをしても、見せかけの元気がなかったら評価されない。勝利よりもフェアプレーよりも選手の成長よりも、監督や先輩の満足感のほうが優先される。ぼくがいた高校でも「バントのサインを無視して打ちにいって長打になったのに監督から叱られてスタメンを外された」部員がいた。うーん、野球部。
『毒舌散歩』という番組で待ちゆく人々に口汚いツッコミを浴びせた芸人のもとに刑事が訪ねてきて「警察に来てほしい」と告げる。刑事によると、芸人が番組内で口にしたツッコミがことごとく的中していて……。
こちらも「開始1分ぐらいで意外な設定が明らかになるコント」。ただ、この手のコントを数多く手がけているファイヤーサンダーだけあって演出が見事。「警察に来てほしい」というミスリードでしっかりと緊張感を高めて「毒舌が過ぎて起訴されたのかな」と思わせておいて、「本当にそうでした」の一言で見事に裏切る。スカウトだったことを明かした後も「あの日の阿佐ヶ谷」「巡回」「たとえすぎた」などのフレーズでしっかりと笑いを重ね、刑事の裏の顔に迫る展開でファーストインパクト頼りにしない。とはいえ、それだけやってもこの手の種明かし系コントはどうしても尻すぼみになってしまうんだけど。
構成がよくできてはいるが、惜しむらくはこてつさんの芝居。わかりやすさ重視のコントの芝居って感じで、どう考えても毒舌芸人として人気が出るタイプじゃない。
ファイヤーサンダーの脚本をコットンが演じたら最強かもしれんな。
部員二人しかないためグラウンドが使えない弱小野球部。しかたなく狭い部室内でキャッチボールをするがどんどん上達してゆき……。
フレッシュで動きがあって見ていて楽しいんだけど、これはコントというより創作ダンスだよなあ。上手で楽しいダンスでした。
チンパンジーと同居しているおじいさん。どんどん知恵をつけていって機械音声を使って人間くさい会話までできるようになったチンパンジーに恐怖を感じるようになったおじいさんが、チンパンジーに出ていくように命じるが……。
ん-、どうも中途半端。じっさい賢いチンパンジーは人間とコミュニケーションとれるしなあ。機械音声を使ったら、チンパンジーがすごいのか機械音声のほうがすごいのかわかりにくくなるし。異常な世界でもなければ、すごくリアルでもない。
そして、おじいさんが冷淡すぎる。長年いっしょに住んだチンパンジーをいきなりあんな感じで追いだすだろうか。目も合わせずに今から出ていってください、ってひどすぎない? 別れがつらいからわざと冷淡にふるまってる設定なのかとおもいきや、そういうわけでもなさそうだし。
十年一緒に生きてきてはずの背景がまるで感じられない。誰もが認めるチンパンジーコントの第一人者にしてはちょっと細部をおろそかにしすぎてないか。
息子が引きこもって家から一歩も出ようとしないことを嘆く両親。だが息子の服のポケットからどんぐりが出てきたのを見つけ、息子が外に出ているのでは? と希望を持ちはじめる……。
よくできた脚本だとはおもう。スリリングな展開に似つかわしくないどんぐりという小道具がいい味を出している。どんぐりは腐るかどうかで時間を使う必要はなかったんじゃないかとおもうが、ぶちまけられるどんぐりは見ごたえがあった。
でもなあ。芝居がよくない。昨年の『結婚の挨拶』のネタもそうだったが、いきなりピークに達しちゃうんだよな、ラブレターズとジャングルポケットは。突然声を張り上げちゃう。0からすぐ100のテンションに達しちゃう。
息子が聞いているかもしれない状況であんな大声を張り上げるわけないじゃない。疑惑が確信に変わったところでおもわず大きな声が漏れてしまって妻にたしなめられる、ぐらいにしてほしい。
悪い意味で熱量がすごくて、何を言っているのか聞き取りづらい部分もしばしば。あの夫婦が背負ってきたはずの年月が感じられなかった。
以下、最終決戦の感想。
海辺にいる女性に外国人男性が声をかけたところ、女性がスキンヘッドであること、ジュビロ磐田の熱狂的すぎるサポーターであることが判明し……。
海岸、流木、スキンヘッドの女性、日本語がうまいことを鼻にかける外国人、ジュビロ磐田のサポーター、願掛けのバリカン、釣りで大物がかかる……と、とにかく要素詰め込みすぎなコント。たぶん意識的にやっているのであろう。
あえてコントのセオリーからはみだすことで狂気的な世界を表現したかったのだろうけど、伝わってくるのは「狂気的なものを表現しようとしている姿勢」だけ。内面からにじみ出てくるような異常さはまるで感じない。
昔、付き合いで大学生の小劇団の演劇を観にいったことがあるが、ちょうどこんな感じだった。わけのわからないものが次々に現れ、常識の埒外にある登場人物がわかりやすく己の非常識さを説明してくれる。「ああ、シュールレアリスムをやりたいんだな」とはっきりわかる演劇だった。
呪いを解くために、石の魔物に宝玉を捧げる冒険者。だが魔物の腕にかけるのではなく、台座に置くのが正解。そのことを伝えようとする魔物だが、冒険者に言葉が通じず悪戦苦闘……。
言葉が通じなくてもどかしい、の一点で勝負したネタ。魔物語が日本語と真逆の意味になる、日本語の音に近いなどの変化をつけてはいるが、どうしても単調な印象はいなめない。モニターを使うだけならいいが、観客がモニターを見て笑う形になってしまうのは、ロングコートダディの魅力を失わせてしまっている。
一本目のネタが「シンプルなセットで表層に表れない複雑なコミュニケーション」を描いていたからこそ余計に、「大がかりなセットで単純なディスコミュニケーション」を笑いにしたこのコントが軽く感じられてしまった。せめて魔物が顔を出して表情を伝えてくれていたらなあ。
九人しかいない野球部が甲子園を目指していることをバカにする不良生徒。「おまえらが甲子園に出られたら全裸でフルマラソン走ってやるよ」と笑う不良生徒だが、翌日から全裸マラソンに向けての練習をはじめる……。
これまた「開始1分で設定が割れる」系コント。設定判明後も全裸マラソン用のフォーム、校長にかけあうなどの展開を用意してはいるが、ファーストインパクトよりは見劣りした。右肩下がりの印象。終盤の不良生徒がチームに加わる展開も、すでにいいやつであることが判明しているので驚きはない。
一本目がサスペンス展開だった分、こちらは平坦なまま終わってしまった印象。
審査に関しては……。まあ言いたいことはいろいろあるけれど、言ってもしかたのないことなので書かない。
人間が審査してる以上、好みで結果が決まるのはしょうがない。
初期のキングオブコントに比べれば、明らかに全体のレベルは上がっている。「わかりやすく変なやつが出てきて変な言動をする」みたいなコントはほとんど見られないし、うならせるアイディアを二つも三つも放りこむネタが増えている。
上位に関してはもうほとんど差はない。ネタ順とかその日の客層とかでぜんぜんちがう結果になっていただろう。百点満点でシビアに点をつけることに意味があるのか、という気もする。各審査員が三組ずつ選ぶ、とかでもいいんじゃなかろうか。
だから。もう勝敗はどうでもいいからネタ数を増やしてくれ。結局好みの問題でしかないんだから審査員コメントの時間を削ってネタ時間を増やしてくれ。
特に今年は審査員コメントパートがひどかった。「コメント二周目」のやりとりを何回やるんだ。松本さんがいない分、浜田さんがボケなきゃと気負っていたのかなあ。
あんなに時間があまってるならその分ネタ数を増やしてほしい。できれば初期キングオブコントのように全組二本ずつ。絶対に二本できる確証があれば冒険的なネタもできるし、強いネタを後半に置いとくこともできる。
M-1のように競技性を高めるんじゃなくてお祭り感を強めるほうに向かってほしいな。二本目のためにセットを作っている大道具担当がかわいそうだし。二本目に用意していたのに披露できなかったネタ、芸人は他の場で披露すればいいけど、セットは日の目を浴びることなく壊されるわけでしょ。エコじゃない。