「わたし、眼が大きいんで人よりごみが眼に入りやすくて困るんですよ~」
って言ってる人がいたんだけど、嘘つけ! それはただの「眼が大きい」自慢だろ!
なぜなら、そいつはたしかに眼が大きいんだけど、そいつは「眼が大きい人間のごみが眼に入りやすさ」しか知らないはずだ。
眼が小さい人間の人生を送ったことがないんだから、人よりごみが入りやすいかどうかはわからないはずだ!!
それを言っていいのは、眼を大きくする美容整形手術をしたやつだけだ!
「わたし、眼が大きいんで人よりごみが眼に入りやすくて困るんですよ~」
って言ってる人がいたんだけど、嘘つけ! それはただの「眼が大きい」自慢だろ!
なぜなら、そいつはたしかに眼が大きいんだけど、そいつは「眼が大きい人間のごみが眼に入りやすさ」しか知らないはずだ。
眼が小さい人間の人生を送ったことがないんだから、人よりごみが入りやすいかどうかはわからないはずだ!!
それを言っていいのは、眼を大きくする美容整形手術をしたやつだけだ!
昨年、『イグ・ノーベル賞の世界展』という展覧会に行ってきた。
イグ・ノーベル賞はノーベル賞へのパロディとして誕生した。「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に贈られる賞だ。
日本はイグ・ノーベル賞大国で、過去に30回近く日本の研究がイグ・ノーベル賞を受賞している。『ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させることに成功したことに対して』心理学賞が贈られ、『床に置かれたバナナの皮を人間が踏んだときの摩擦の大きさを計測した研究に対して』物理学賞が贈られ、『火災など緊急時に眠っている人を起こすのに適切な空気中のわさびの濃度発見と、これを利用したわさび警報装置の開発』により化学賞が贈られるなどしている。
その他、さまざまな独創的な研究に対してイグ・ノーベル賞が贈られているが、共通しているのはいずれも「研究した人は大まじめ」ということだ。まじめに変なことを研究している。その姿勢を評価するのがイグ・ノーベル賞である。
「そんなこと何の役に立つの?」「そんなこと勉強したって社会に出たら何の役にも立たないからやめろよ」と言う人がいる。そういう人間が人の役に立つ研究をできたためしがない。役に立たない研究の価値を理解しない人が、役に立つ研究などできるはずがないのだ。
実際、ほとんどの偉大な発明は偶然から生まれている。エジソンは最初から蓄音機を発明しようと思って学んでいたわけではない。何の役に立つかはわからないけど学ぶことがおもしろいから学んでいたら、たまたま役に立つ発明につながっただけだ。
『ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させる』ことはそれ自体何の役にも立たないだろうが、この研究が別の研究の役に立つ可能性はある。その研究がほかの研究の役に立ち、それを生かした別の研究が世界を変える大発明になるかもしれない。
イグ・ノーベル賞はノーベル賞のパロディではあるが、科学に対する向き合い方はノーベル賞に負けず劣らず真摯なものだ。アンドレ・ガイムという物理学者は、イグ・ノーベル賞を受賞し、その10年後に本物のノーベル賞を受賞している。
「たまたま役に立ったかか立たなかったか」の結果が異なるだけで、アプローチ自体はノーベル賞もイグ・ノーベル賞も大して変わらないのだ。
日本の研究力低下はずっと叫ばれているが、日本人がイグ・ノーベル賞を受賞できなくなったときはいよいよ日本もおしまいかもしれない。
そんなイグ・ノーベル賞について説明した本。
といっても『イグ・ノーベル賞の世界展』ですでに同賞についての基礎知識は身につけていたので、あんまり新しい情報はなかったな(ま、この本が2009年刊行だしね)。
知らなかったのは、誰でもイグ・ノーベル賞を申請できること。
へえ。じゃあぼくでも「これはイグ・ノーベル賞に値する!」とおもえば推薦できるんだ。
自薦でもいいが自薦での受賞はほとんど例がない、というのがおもしろいね。そうだよね。大まじめに研究している人に授賞するからおもしろいんだもんね。
「おれの研究はユーモアがあって独創的だからイグ・ノーベル賞にぴったりだ!」って人の研究はまずまちがいなくつまらないもんね。自薦で受賞にいたった一件が気になるな。
この本ではイグ・ノーベル賞を受賞した日本人の研究についていくつか紹介しているけど、どっちかっていったら海外の例を紹介してほしかったな。日本の受賞例はすでに有名なものが多いし(たまごっちとかバウリンガルとかカラオケとか)、海外のほうが突飛なものが多いので。
配信にて視聴。
すばらしかった。おもしろいというより、すごさに圧倒されたといったほうがいいかもしれない。はじめてラーメンズの公演を観たときにも同じような衝撃を受けた。
とんでもなくいい舞台だったんだけど、同時にちょっと悔しさというか悲しさも感じて、というのはこれまでクリエイティブの分野で尊敬する人って年上ばっかりだったんだよね。
ところがぼくよりずっと年下で、それなのにぼくよりずっとずっとずっとおもしろいことを考えて、いいところに目をつけて、それを上手に表現する人が現れた。くそう、くやしいけど、こんなの尊敬するしかない。
以下、ネタバレ含みます。
わりといい大学を出て、不動産屋の営業として就職した主人公の仕事っぷりを描いた小説。
主人公が入社したのは、いわゆるブラック企業。パワハラが横行している。暴言どころか暴力もあたりまえのように飛び交う職場。なので従業員はどんどんやめていく。
令和の今では「こんな会社あるのか」とおもうかもしれないが、ほんの十数年前まではこんなのはめずらしい話じゃなかった。というか今でもこれに近いことをやっている会社あるし(ぼくが知っているのは不動産業界じゃないけど)。
なんせパワハラなんて言葉もなかった。言葉がなかったということは、それがいけないという認識もなかった。業務に関することであれば上司が部下をどれだけ口汚く罵ってもいい、というのが日本の社会のルールだったんだよ。ほんとに。
ひどい時代だったなあ。21世紀初頭になっても日本はまだ野蛮な未開国だったんだよ。
前半は会社のブラックっぷりの描写や不動産業のうんちくが語られるのでわりとよくあるお仕事小説かとおもったら、途中から毛色が変わる。
まったく契約がとれなくてやめさせられる寸前だった主人公が、契約をとれたことや上司からのアドバイスを機に自信をつけ、売上を伸ばしていく……と書くと順調そうに見えるのだがそうでもない。
睡眠時間を犠牲にし、酒量が増え、金儲けに邁進し、身につけるものに金をかけ、彼女を疎んじるようになり、周囲の人間をぶつかるようになる。
「仕事はできないけどいい奴」だった主人公が「仕事はできるがいやな奴」に変わってゆくのだ。
こういう人、ぼくも見てきたなあ。ブラック企業の中で成功しようとおもったら悪いやつになって適応するのが最短距離なんだよね。
中盤の「嫌な奴になる少し前」の主人公は過去の自分に重なる部分が大きかった。
ぼくもこうだった。書店で働いていながら、心のどこかで「ここが自分の本当の居場所じゃない」とおもっていた。そして周囲をうっすらばかにしていた。自分を特別だとおもっていた。まさにぼくだ。
ま、その後別業界に転職したからじっさい居場所じゃなかったんだけど。
多かれ少なかれそんなもんだよね。これが自分の天職だ! とおもいながら仕事をしている人なんてほとんどいないだろう。
でも、ふしぎと歳をとると「本当の居場所がどこかにあるはず」という意識が薄れていくんだよな。なんでだろう。あきらめもあるし、ぼくの場合は家庭を持ったこともあるし。
大きかったのは、じっさいに何度か転職をしたことかな。転職をしてみたら「どんな仕事をしてもいいこともあれば不満もあるし、嫌ならやめればいい」という心境になれる。
そしたら「何の仕事をするか」が「今日はどの店で飯を食うか」ぐらいの問題におもえてくる。それはさすがに言いすぎか。