2023年2月27日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『天使の耳』 / ドライバーの頭おかしいルール

天使の耳

東野 圭吾

内容(e-honより)
深夜の交差点で衝突事故が発生。信号を無視したのはどちらの車か。死んだドライバーの妹が同乗していたが、少女は目が不自由だった。しかし、彼女は交通警察官も経験したことがないような驚くべき方法で兄の正当性を証明した。日常起こりうる交通事故がもたらす人々の運命の急転を活写した連作ミステリー。


 交通事故を題材にしたミステリー。

 読みはじめて「あれ? これ知ってるぞ?」と以前にも読んだことをおもいだした。十五年ぐらい前かな。それでもだいたいの内容は覚えていたので、当時はけっこう印象に残ったのだろう。

 今改めて読んでみて、つくづくよくできた短篇集だとおもう。

 前方不注意、あおり運転、違法駐車、車からのポイ捨て、接触事故など、違反行為ではあるが道路上では毎日のように起こっているわりと一般的な出来事をミステリに仕立てあげる技術はさすが。

 特に表題作『天使の耳』は秀逸。事故の証人となったのは盲目の少女だった。はたして彼女の証言は信用に足る証拠として扱うことができるのか……。

 緊張感のある筆運びでストーリーを運び、あっと驚く鮮やかなクライマックス。いやあ、見事だった、とおもいきや最後にもうひと展開。おお、うまい。切れ味の鋭い短篇にしあがっている。




『分離帯』『危険な若葉』『通りゃんせ』に関しては、よくできてはいるけど「いくらなんでもそこまでするかなあ」という感じだ。復讐や嫌がらせ目的でそこまで時間と労力かけるかね、という印象。

 小説だから、リアルでなくてもいい。とはいえ「ふつうはしないけど日本にひとりぐらいはこれぐらいやる人いるかも」とおもわせてくれるぐらいのギリギリのラインを攻めてほしい。この三篇に関しては、ちょっとそのラインをはみ出しているように感じる。

『鏡の中で』は逆に、わりとありそうな話。こっちは意外性がなくてケレン味に欠ける。現実離れしててもダメ、現実的すぎてもダメ、自分でも贅沢なこといってるけど。


『捨てないで』は唯一殺人がからむ本格ミステリ。殺人事件そのものは目を惹くようなトリックではないが、その推理過程にうまく交通違反をからめている。何度も書くけど、小説の名手って感じだなあ。

 さすが東野圭吾作品だけあってどの短篇も平均以上の水準を保っている。が、一篇目の『天使の耳』がいちばんよかったので右肩下がりの印象。他が悪いんじゃなくて『天使の耳』が良すぎたんだけど。構成って大事だね。




 ぼくは車の運転をしない。十年ぐらい前には仕事で使っていたけど、転職を機にやめた。車を売ってしまってそれ以来一切運転していない。

 まあ、性に合わなかったんだよね。毎日乗っていたけど、とうとう慣れなかった。事故も起こしたし。趣味はドライブです、なんて人の気持ちがまったく理解できない。ずっと緊張するんだもん。「事故って死ぬかも、誰かひき殺しちゃうかも」って毎日のようにおもいながら運転してた。

 そして車を運転していて嫌だったのはもうひとつ、「倫理観が失われること」だった。


 車を運転する人って頭おかしくなってるじゃない。

 いや、ほんと。

 ほとんどのドライバーが多かれ少なかれ違反をしている。スピード違反、違法駐停車、黄信号でも交差点に進入、一時停止を守らない、横断歩道で渡ろうとしている歩行者がいるのに止まらない。一度もやったことのないドライバーなんてまあいないだろう。

 これ、頭がおかしくなってるとしかおもえない。だってそういう人だって、ふだんは善良な市民なんだよ。毎日犯罪をする人なんてめったにいない。むかついても殴りかかったりしない、会社の金を着服したりしない、同僚が机の上に財布を置きっぱなしにしていても盗まない、行列でちょっと隙間があいてても割りこまない。そんな人がハンドルを握ると、あたりまえのように制限速度を超過し、黄信号で交差点に進入し、駐車禁止区域に駐車する、ちょっとでも車間距離があいてたら車線変更して割り込む。完全に頭おかしくなっている。

 ぼくもそうだった。「みんなやってるから」って感覚で軽微な違反行為をくりかえしていた。

 車道の上って、一般社会とは別の法意識があるんだよね。「十キロぐらいの違反は違反じゃない」みたいな謎のルールが幅を利かせている。それって「五百円円までなら盗んでもいい」みたいなわけのわからないことなのに、なぜかドライバーたちはそのルールでやっている。逆に、法定速度を守っているドライバーのほうが迷惑なやつ扱いされたりする。運転するなら〝ドライバーたちの頭おかしいルール〟に従わないといけない。


 すっかり車の運転をやめた今、『天使の耳』を読むと、あらためてドライバーたちの頭のおかしさにぞっとする。

 捕まらなければ法を破ってもいい。そんな考えの連中が大きな鉄の塊を高スピードで動かしているのか。自分もそんな頭おかしい連中のひとりだったのか。

 やっぱり車の運転なんてするもんじゃないな。


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2023年2月24日金曜日

【読書感想文】SCRAP『すごいことが最後に起こる! イラスト謎解きパズル』 / 複数人推奨パズル

すごいことが最後に起こる!
イラスト謎解きパズル

SCRAP

内容(Amazonより)
ゆるーくかわいいイラストとは裏腹に、手強すぎるイラスト謎解きパズルの数々。解くには論理的思考だけでなく、ひらめき力も必要になります。1冊一通り解き終えたところで、前半戦終了。あっと驚く後半戦では、「最後のイラスト謎解きパズル」が待ち受けます。ヒントも大充実。パズルはリアル脱出ゲームのコンテンツディレクター荒浪祐太が制作。完成直後、「とんでもないものができてしまった」と彼は震えていました。途中であきらめず、この本の最後を見届けてください。


 イラストを使ったパズルを解いていくと、最後に「これまで解いたパズル」「途中にあった謎の記号」「本の表紙やカバー」などを使った大仕掛けのパズルが現れて最後には想像もしなかったことが起こる……という本一冊をめいっぱい使った趣向のパズル。

 タイトルに「すごいことが最後に起こる」と書かれているしAmazonの口コミでも「すごかったです!」といったコメントが並んでいたのである程度「すごいこと」を想像しながら解いていったのだけど、その想像を超えることが起こった。いい意味でまんまと予想を裏切られた。

 あんまりネタバレになるので詳しくは書けないけど、たしかにすごいことが起こる。2,200円とパズル本にしては高めだけど、これだけのことが起こるのならこの値段も納得、という感じだ。




 とはいえ。途中のパズルの質はさほど高くない。

 ぼくはパズル雑誌の最高峰『ニコリ』の三十年来の愛読者なので、ペンシルパズル(紙に書くタイプのパズル)には少々目が肥えている。そんなパズルファンからすると、この本のパズルは物足りない。

 つまらない難しさ、なのだ。どうしようもない難しさ、といったほうがいいかもしれない。

 この本に載っているのは基本的にイラストパズルで、描かれているイラストから「これは何の絵かを当てる」という作業が必要になる。これが、非常にかんたんなものもあれば、難解なものもある。「絵が伝わらない」問題だ。これはイラストパズルであれば必ず生じる問題なので、ここまではしかたない。

 良くないのは、この本に載っているパズルの場合、「絵が伝わらない」問題が起こるとそこで手詰まりになってしまうことだ。もう答えを見るしかなくなる。

 たとえばイラストクロスワードパズルであれば、「絵が伝わらない」問題がひとつふたつ起きても、他のイラストを読み解いているうちにヒントが増えてきてやがて解けるようになる。『ニコリ』のパズルにはたいていこういう配慮があるのだが。

 パズルが難しいことはいっこうにかまわない。時間をかけたり、一生懸命頭をひねったり、総当たりで解いていったり、あれこれ手を尽くして解けるような難しさであれば大歓迎だ。

 だが「この絵を描いた人は何を伝えたいでしょう?」という問題は、わからなければ永遠にわからない。どれだけ頭をひねってもわからない。「私は今何を考えているでしょう?」という世界一つまらない問題と同じだ。

 こういう〝世界一つまらない問題〟が散見されるのがマイナス点だ。




 とはいえ、どうしようもない問題はヒントや答えを見ればいいので、最後まで解けないということはまず起こらないだろう。

 途中のパズルの質は高くないが、それでも最後の〝すごいこと〟はほんとに圧巻なので、中盤のもやもやを吹き飛ばしてくれる。これ以上のネタバレは避けるけど、紙の本ならではの大仕掛け、とだけ言っておこう。


 ひとつ言っておくと、このパズルは絶対に誰かといっしょにやったほうが楽しいです。最後の感動を誰かと共有したくなるので。

 そして、たっぷり時間のあるときにやること。ぼくは娘とやったけど、ラストの一連の仕掛けを解くだけでも一時間かかったからね。


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2023年2月21日火曜日

ツイートまとめ 2022年9月

マイバラードあるある

フライング

国葬義

アナグラム

秘技

首相

パイナップル味≠パイナップルの味

課金システム

逃走中

アシ絵

一を聞いて

共生関係

プラモデル

小泉先生

捨てどき

永遠のライバル

のりものあつまれ

持続可能

プリンセスプリンセス

アンパンマン



2023年2月16日木曜日

ディベートにおいて必要な能力

 小学生のときにディベートの授業をした。

 そのとき、自分は「ディベートが得意な人間」だとおもっていた。口が立つし、切り返しも早い。相手の論の瑕疵を突いたり、比喩を用いてわかりやすく説明するのもうまい、と。


 数十年たった今、とんでもないおもいちがいだったとつくづくおもう。はっきりいって、そんな能力ぜんぜん役に立たない。むしろマイナスだ。

 小学生のときは、「ディベート能力」=「話す能力」だとおもっていた。だけど大人になってみて気づく。話す能力なんかより、話さない能力のほうがずっと大事だ。


 話を最後まで聞く、意見を否定されても人格の否定として受け取らない、意見の相違を認める、仮に自分が正しいとしても相手をこてんぱんに言い負かさずに言い逃れの余地を与えてやる……。

 「攻め方」よりもそういう「受け方」や「攻めない方法」のほうがずっと大事だ。


 たいていの場合、相手を言い負かしていいことなんかひとつもない。消耗して、恨みを買って、(一部の取り巻きをのぞく)周りの人からも嫌われて、得られるのは「勝ったぜ」という何の役にも立たない自己満足だけ。失うことのほうがずっと大きい。

 Twitterで喧嘩をしている人なんかを見ると「弁論で他人を変えることができるとおもってはるなんて、人間に対する信頼が深くてよろしおすなあ」としかおもえない。

 Twitterで喧嘩をすると、味方は離れていき、敵ばっかり寄ってくる。なんもいいことない。


 言い負かす能力よりも、負けたふりをしてやるスキルとか、うまくはぐらかすスキルとかのほうがずっと大事だ。いちばんいいのは、敵対しようとしてくる相手と距離を置くこと。

 だから学校の授業でディベートをやるときは「ムードが悪いとおもったらその部屋から自由に退出してもよい」というルールを作ってやったらいい。

 で、最後まで残ってたやつが負け。



2023年2月15日水曜日

チョコハラ

 今年はついにバレンタインデーのチョコレートの受け取りを拒否した。


 ぼくの勤める会社には、まだ「女性社員数十人から男性社員数十人にチョコレートを贈る」という昭和の蛮習が残っている(平成にできた会社なのに)。

 数年前から、もらうついでに「こういうの、もういいですよ」「お互い無駄なんでやめましょうよ」「みんなからみんなに贈りあうってあほらしいでしょ。来年からはくれなくていいですよ」と迷惑であることを伝えていた。

 自分ではけっこうはっきりと伝えていたつもりなのに、本気だと伝わっていなかったのか、今年も女性社員からお菓子の包みを渡されたので覚悟を決めて「いらないです」と受け取りを拒否した。それでも冗談だとおもわれたらしく「いやいや~」みたいな感じで再度渡そうとしてきたので「これは女性みなさんでめしあがってください」と突き返した。


 一応言っておくと、ぼくは甘いものが好きだ。会社でもお菓子を食べるし、近くの席の人からお菓子をもらったり、あげたりもする。お菓子をもらったときは素直にうれしいし「ありがとうございます」と言って受け取る。ちょっとしたもののやりとりは、サルの毛づくろいといっしょで「私はあなたに敵意を持っていませんよ」という意思表示になる。人間関係を円滑にする上で必要なものだとおもっている。

 ただ、バレンタインデーのチョコレートの押し付け(あえて言おう、押し付けだと)に関してはもはやコミュニケーションとしての意味はない。どれだけうぬぼれの強い男であっても、会社で「女性社員一同から男性社員一同へ」のチョコレートを渡されて「おれは女性社員から好かれてるんだ!」とはおもわないだろう。


 バレンタインデーの「女性みんなから男性みんなへのチョコレート」のは、ただただ全員に負担を強いるだけのシステムだ。女性も、お返しをする男性も、みんな。

 労力を割いてお菓子を買いに行き、お金を払い、得られるのは「自分が選んだわけでもないお菓子」だ。どう考えたって割に合わない。自分のためにお菓子を買う方がずっといい。

 払った分よりずっと少ない額しか受け取れない年金。それがバレンタインデーとホワイトデーだ。


 もういいかげんこの悪習を断ち切らないといけないとおもい、今年はついに受け取りを拒否したのだ。

 当然ながら、拒否したときはかなり気まずい雰囲気が流れた。相手だってたぶん善意でやっているのだから、拒絶するのは心が痛む。善意とはたちの悪いものだ。しかしプレッシャーに負けて受け取ってしまうと来年からもバレンタインで嫌なおもいをすることになるので、心を鬼にして断った。はあ、疲れた。なんでこっちが気を遣わなきゃいけないんだ。

 どう考えたって「いらないです」と言っている相手に贈りつける相手のほうが悪い。お返しがどうという問題ではない。

 逆で考えてみたらわかるだろう。女性社員が、会社で隣の男性から毎年毎年誕生日にバラの花束をプレゼントされる。「もういいです」と毎年言っても、ずっと贈られつづける。「お返しはいらないから」と言われるが、そういう問題じゃない。ただただ気持ち悪い。それといっしょだ。

 この「いらないと言っているのにバレンタインデーにチョコレートを贈られる」気持ちについて考えてみたのだが、そうか、セクハラをされる人ってこんな気持ちなんだろうなとおもった。


 セクハラにもいろいろあるが、「セクハラをする側はされる側に好意を持っている」ことが多いとおもう。上司が部下を執拗に口説くとか、上司が円満なコミュニケーションのつもりで性的な質問をぶつけるとか。

 そうすると、セクハラを受けた側はそれが好意にもとづいているがゆえに拒絶しにくい。「おい、一発なぐらせろ」は悪意から生じているから「嫌です」と断りやすいが、「今晩ふたりっきりで飲みに行かない?」は好意由来なので無下に断りづらい。たいていの人は断るにしても「嫌です」とは言わずに「今日は友だちと約束がありまして……」とか「明日早いので……」とかなんのかんのと理由をつけるだろう。

 それで引き下がってくれるならいいが、だったらいつならいいかと言われたり、毎週のように誘われたりすると、断るほうも神経をすり減らす。そういう相手にははっきり断らないと伝わらないが、その後も職場で顔を合わせることを考えると角が立つ断り方はしづらい。手ひどい断り方をして逆恨みされたり妙な評判を流されても困る。

 断りたい、けれど後々のことを考えると断りづらい……。セクハラはこうして生まれるわけだ。

 バレンタインデーも同じだ。おそらく「嫌だな」と感じながらも、断って人間関係にひびが入るのをおそれてしかたなく付き合っている男女も多いだろう。ぼくは「もらってもちっともうれしくないしお返しをするのは負担になるのでやめてほしい」と男性の立場から考えているが、「あげたくないけど周囲の圧力で半強制的に参加させられる」女性も多いようだ。

「チョコハラ」という言葉で検索してみたら、いくつもの記事が見つかった。同じように考えてる人がいっぱいいるのだ。

 セクハラで訴えられた人の多くは「よかれとおもってやった」「スキンシップのつもりだった」などと言うらしい。きっと本心だろう。よかれとおもってやっていることほど迷惑なものはない。バレンタインも同じだ。善意でやっているからこそたちが悪い。

 とある調査によれば半数以上の男女が職場のバレンタインデーの風習をやめたいと感じているらしい。


 ありがたいことに、世の中は少しずつ変わっている。無駄で、多くの人が嫌だと感じていることは徐々になくなってきている。

 昭和の会社員にとってはあたりまえだったお歳暮やお中元、年賀状も、今ではずいぶん滅びかけている。きっとバレンタインデーも同じような道をたどることだろう。


 まあやりたい人はやったらいいけど、半数以上が嫌がっているわけだから、せめて「やりたくない人が意思表示しなくちゃいけない」システムじゃなくて「やりたい人が意思表示する」システムになってほしいよね。

「チョコレートを贈りあう風習に参加したい人は二週間前からピンクのリボンをつけること」とかさ!