2022年12月12日月曜日

子どもに本を買ってあげたい病

 娘の友だちのおねえちゃん(小学二年生)と 話していると、彼女がたいへんな本好きだということがわかった。

 彼女が好んで読むのは小説ではなく伝記や歴史の本らしい。中でもたくましい女性が好きらしく、平塚らいてう、与謝野晶子、ジャンヌ・ダルク、ヘレン・ケラーやサリバン先生、津田梅子など、なかなか渋い人選をしている。

 しかも自分なりに年表をつくったり、読書日記をつけていたり、読むだけでなくちゃんと血肉となっている。

 聞けば、小学校で話があう子がいないそうだ。休み時間も本を読んでいたいのに、おにごっこやドッチボールに誘われるのがいやだと言っていた。まあそうだろう。小学二年生で青鞜社の話をできる子はそうはいまい。

 ぼくが感染している「子どもに本を買ってあげたい病」が発症してうずうずしてきた。



 勝手に、頭の中で「買ってあげるとしたら何がいいだろうか」と検索が始まる。


 歴史上の女性を主役にした本かー。壺井 栄『二十四の瞳』とかかな。でもあれはフィクションだしな。大石先生はジャンヌ・ダルクや平塚らいてうのような「戦う女性」とはちがうしなあ。

 最近読んだ中だとハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』とかチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』とかもよかったけどなあ。でも子ども向けじゃないからさすがに小学二年生にはむずかしいかなあ。

「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた新島八重とかいいかもしれないな。たしか以前大河ドラマになっていたから児童向けの本も出てそうだし。


 ……なんてことを考えていたのだが、そもそも「娘の友だちのおねえちゃん」なのであまり会うこともないし、そんな関係の薄いおじさんからいきなり本をプレゼントされても困るだろう(特に親が)。

「あ、いや、べつに他意とかなくて、ただ単に本をあげるのが好きなので買ってきて、あ、買ったっていってもわざわざ買ったとかじゃなくてついでに、そう、Amazonのポイントが余ってたし、他に買いたい本があって一冊だけ届けてもらうのも悪いなっておもったからついでに……」
と、しどろもどろになって余計に怪しいおじさんを演出してしまいそうだ。


2022年12月9日金曜日

キディランドと紀伊國屋書店

 子どもたちを連れて、大阪・梅田に行った。

 他の地域の人には伝わりにくいかもしれないが、梅田というのは大阪の中心部で、すなわち関西、ひいては西日本でいちばんの繁華街だ(ちゃんと調べたわけじゃないからまちがってたらスマン)。

 ぼくは兵庫県の校外で育ったので「梅田に行く」というのはビッグイベントだった。自宅からバスと電車を乗り継いで約二時間。時間的にも経済的にもふらっと行ける距離ではなく(父親はその距離を毎日通勤していたが)、半年に一度ぐらいのことだった。


 家族で梅田に行くのは年末年始だった。梅田にはキディランドという大きなおもちゃ屋と、紀伊國屋書店梅田本店というそれはそれは大きな書店がある(ちなみに梅田本店という名前だが登記上の本店は新宿本店らしい)。

 小さい頃はキディランドにおもちゃを見にいった。クリスマスプレゼントや誕生日プレゼントを物色したり、あるいはお年玉で買うためだ。

 また、パズル雑誌もキディランドで買っていた。ぼくが大好きな『ニコリ』というパズル雑誌はかつて一般の書店には置いてなくて、おもちゃ屋であるキディランドまで行かないと買えなかったのだ。

 また、小学校高学年ぐらいからはおもちゃよりも本を欲しがるようになり、紀伊國屋書店に行くたびに十冊ぐらいの文庫本を買ってもらっていた。


「プレゼントを買ってもらうための場所」だったから、子どものぼくにとって梅田という場所はとてもわくわくする場所だった。ただでさえ年末年始の街は浮かれているのに、そこに浮かれているぼくが行くのだ。こんなに気持ちを昂らせてくれる場所はない。


 大きくなってからは梅田に行く機会も増え、昔に比べて特別な場所ではなくなった。前の職場は梅田にあったし、今も通勤で毎日通っている。

 とはいえ子どもにとってはやはり心躍る場所にちがいない。子どもたちを喜ばせてやろうと「明日おっきいおもちゃ屋さんに行こうか」と宣言して、子どもたちを梅田に連れていった。

 キディランドと紀伊國屋書店は、今も現役だ。多くのお客さんが来ている。しかし、どちらもぼくの記憶にある店とは少し様相が異なっていた。


 まずキディランド。たいへんにぎわっている。が、どうも昔とは客層がちがう。ずいぶん年齢が高いのだ。大人のひとり客も多いし、カップルで来ている人も多い。そして子どもの数が少ない。ファミリー客よりも、大人だけで来ている人のほうが多かった。

 今でもおもちゃは売られているが、どちらかといえば隅に追いやられていてメインの商材ではなくなっている。その代わりに店の中央に集められているのはキャラクター商品だ。

 サンリオ、くまのがっこう、おさるのジョージ、ミッフィー、ムーミンなどのグッズが多く売られている。その多くはおもちゃではない。クリアファイル、食器、コスメ用品、文具などでどちらかといえば大人が持つためのものだ。セーラームーンとか夏目友人帳とか、明らかに大人にターゲットを絞ったキャラクターも多かった。

 店の中央で行列ができていたので何かとおもったら、とあるキャラクターのグッズが限定販売されていた。並んでいるのは全員大人だった。

 久々に行ったキディランドは、おもちゃ屋さんというよりキャラクターグッズの店になっていた。


 ことわっておくが、おもちゃ屋からキャラクターグッズの店に経営方針を変えたキディランドを責める気は一切ない。むしろいい判断だとおもう。

 少子化だし、ネット通販もあるし、おもちゃ屋をやっていても儲からないことは目に見えている。申し訳ないけど、ぼくもおもちゃはたいていAmazonで買う。

 十数年前にキディランドの前を通ったらもっと閑散としていたような記憶がある。キャラクターグッズの店になったことでうまく経営を立て直したのだろう。賢明な判断だ。

 ただ、ぼくの知っていたキディランドではなくなったな、とおもった。


 その後に行った紀伊國屋書店もまた、昔ほど唯一無二の場所ではなくなった。

 というのは、我が家から歩いて行ける距離に大きな書店があり、児童書に関してはそっちのほうが品ぞろえが充実しているのだ。まあ梅田という場所柄、児童書よりもビジネス書を充実させるのは当然なのだが……。


 キディランドにしても紀伊國屋書店にしても、かつては「そこに行けばたいてい揃っている。そこになければ他を探してもまず見つからない」場所だったのだが、今はそうでもなくなった。まあこの二店舗にかぎらず、Amazonに匹敵する品ぞろえの店舗なんて世界中どこにもないのだが……。


「ここに行けばなんでもあるようにおもえて胸躍る場所」って、今はもう現実世界にはなくなってきているのかもしれないな。


2022年12月8日木曜日

たこ焼き風 文化祭風

 高校三年生の文化祭で、模擬店をやったんだよね。

 それがさあ、ものすごくつまらなくてね。

 まず、なんだか知らないけど「三年生は模擬店をやる」って決まってるの。まあ演劇とかは練習とかに時間がかかるから、受験を控えてる三年生は準備期間の短い模擬店をやらせとけって感じなんだろうね。

 模擬店で売れるものも決まっていて、基本的に火は使えない。ホットプレートぐらいならセーフ。ナマ物を扱うのはだめ。生肉や魚介類は(たとえ火を通したとしても)売ってはいけない。

 価格も決まっていて、すべて一品百円。

 とまあものすごく制約が多くて、食材も予算も決まっているわけだから、やれることはほとんど決まっている。

 ぼくらのクラスが選んだのは「たこ焼き風」だった。魚介類がダメなのでたこ焼きはできず、たこの代わりにこんにゃくとかチーズとかを入れるわけだ。

 で、ホームルームの時間に、どんな「たこ焼き風」にするかという話し合いがもたれるわけだ。たこの代わりにキムチはどうだとか、ハムはいいかとか、カニカマはどうでしょうとか、わいわい議論が交わされるわけだ。


 それを聞きながら、うわあ、くそつまらねえ、これのどこが〝文化〟祭なんだよ。文化もクソもねえじゃん、こんなのほぼ授業じゃん、タコの代わりにこんにゃくを入れるのが創意工夫ですか、とおもったわけですよ。

 ちょっと待って、みんな「高校最後の文化祭だから盛り上げようぜ」みたいなテンションでしゃべってるけど、ほんとに〝たこ焼き風〟を売るのが楽しみなの?  だったら飲食店でバイトしたほうがなんぼかマシじゃない? ハムとカニカマのどっちがいいか本気で悩んでるの? もううちのクラスだけでもボイコットするほうがよっぽど文化的じゃない?

 って言いたくなった。もちろん言わなかったけど。


 ぼくがうんざりしてたら、店の名前はどうするとか、ポスターは誰が書くとか、クラスみんなでおそろいのTシャツを作ろうとか、あれこれ話が進んでくわけね。そういうのも全部新しく出たアイデアじゃなくて、店の名前は「担任の名前をおもしろおかしく取り入れたもの」で、ポスターも「怒られない程度にふざけた感じ」で、おそろいのTシャツも「例年三年生がやっていること」なわけですよ。

 おい文化ってなんなんだよ。革新的なことをやるだけが文化とはおもわないけど、これが文化の祭だったら、自治体のごみ拾いだって文化祭じゃねえかよとげんなりしてしまった。


 そんなわけで、ぼくはクラスの手伝いを一切せず、もちろん店番もサボり、別のクラスの友人といっしょに「余った段ボールで等身大の人形を作って校舎の四階から吊るす」活動と、「みんなが後片付けをしているときに中庭でゲリラ演劇ライブをする」活動に全精力を注いでたのね。

 そんで、一致団結して〝たこ焼き風〟を売っているクラスの連中をばかにしていたわけだから、我ながら嫌なやつだったとおもう。ぼくらがやってたことも楽しかったけど、クラスのみんなと一致団結することも今おもえばそれなりに悪くなかったのかもしれないとおもう。

 でもなあ。あれを文化祭と呼ぶのはやっぱり欺瞞だとおもうんだよなあ。文化祭じゃなくて「飲食店体験学習」と呼ぶのであれば、なんら異論はないけどさ。

 これじゃまるで「文化祭風」だよ。たこ焼き風がよくお似合いだ。


 ぜったいに食中毒を出したくないとかトラブルを起こしたくないとかの学校側の事情もわかるけど、少なくともあれを「生徒の自主性を養う行事」という嘘だけはつかないでくれよな。出なきゃ熱々のたこ焼き風を口の中に詰めこむぞ。


2022年12月7日水曜日

【読書感想文】古田 靖『アホウドリの糞でできた国 ナウル共和国物語』 / 消息不明国家

アホウドリの糞でできた国

ナウル共和国物語

古田 靖(文) 寄藤 文平(絵)

内容(e-honより)
太平洋の赤道付近にぼんやりと浮かぶ島国、その名はナウル共和国。アホウドリの糞という資源(燐鉱石)で、世界史上類を見ない“なまけもの国家”となった島のゆる~い危機をユーモラスに描いた作品から9年。その後のナウルはどうなったのか。文庫版大幅加筆でいま、真相があきらかに(ただし、やわらかめ)。

 ナウル共和国という国を知っているだろうか。太平洋に浮かぶ、小さな島国。オーストラリアの北東に位置する。

 国土面積は21平方km、人口約1万人。郊外の市町村ぐらいの規模の独立国家だ。

 Twitterで積極的に情報発信をしているナウル共和国政府観光局(@nauru_japan)も有名だ(なんとこのアカウント、フォロワーが40万人以上いる。ナウル国民は約1万人しかいないのに)。




『アホウドリの糞でできた国』というタイトルだが、これは誇張でもなんでもない。サンゴ礁に集まってきたアホウドリが糞をして、それが堆積して島になったのだそうだ。

 で、サンゴ礁とアホウドリの糞は、長い年月をかけてリン鉱石になる。リン鉱石は良質な肥料となるので、高く売れる。このリン鉱石を求めて、いろんな国がやってきた。

燐鉱石を求めて世界中の国が
押し寄せてきました。
最初に来たのはドイツ。
次にイギリスがやってきて、燐鉱石を
運び出すための鉄道が敷かれました。
島に住んでいた人々には何が
起こっているのか
わからなかったでしょう。
海の彼方の見たこともない国の
都合で第一次世界大戦が起こります。
すると、オーストラリア軍が
占領をしにやってきました。
と思ったら、知らないうちに
戦争は終わったみたい。
今度はオーストラリア、
ニュージーランド、イギリスが
共同で統治すると決まりました。
国際連盟というところが決めました。
第二次世界大戦では日本軍が
この島を占領します。

 1968年に独立してからはリン鉱石の輸出で儲けた。島を掘ればリン鉱石が出て、それが高く売れる。

 こうしてナウル共和国は、世界一金持ちの国となった。

ナウル共和国に税金はありません。
教育、病院は無料。電気代もタダ。
結婚すると、政府が2LDKの
新居を提供してくれます。
つらくキビシイ採掘作業を
自分でやる必要もありませんでした。
周辺の島からやってくる
出稼ぎ労働者にまかせます。
みな仕事をしなくなりました。
「成金国家」「太平洋の首長国」なんて
カゲロをたたかれてもメゲません。
飛行機をチャーターして海外に
ショッピングに出かける人もいました。

 中東の産油国のように、一部の王族が富を独占することもなく、国民全員が金持ちになった。

 国民は働かなくなり、かつておこなっていた農業や漁業などの文化も廃れた。そして裕福な国民は糖尿病だらけになった。

 が、ナウルが裕福な暮らしを送ったのは2000年頃までだった。島にあるリン鉱石は有限であるため、近いうちに枯渇することが明らかになり、国家がおこなっていた投資などもことごとく失敗。

 政治も混乱状態に陥り、大統領がめまぐるしく変わる事態に。そして2003年。

2月になると、オーストラリア政府が
「ナウルと連絡がつかない」と
発表しました。突然、
ナウルへの電話、インターネットが
通じなくなったのです。
国がまるごと行方不明になるなんて
前代未聞のこと。
「難民たちが政府を転覆した」
「通信機が故障しただけ」
「アメリカの対テロ作戦で狙われたのだ」
「どうやら洪水が起こったらしい」
ウワサが飛び交いました。

やがてホンモノだと思われる
ナウル大統領からSOSが
発信されたので、すぐに
救援チームが送られます。
3月には連絡手段が回復しました。
ちなみに救援部隊が着いた時、
なぜか大統領府は
焼けてしまっていました。
この国家失踪事件の本当の原因は
いまだに不明のままです。

 唯一の入国手段だったナウル航空も営業を休止しており、電話もインターネットもつながらない。なんと国家まるごと音信不通。

 ちなみにこの大統領、アメリカに亡命しており、さらに亡命先で急死したそうだ。というわけで真相は闇の中。

 その後も、借金を返せなくなったり、援助をもらう代わりに難民を受け入れたり、その難民たちに訴えられたりと、迷走をするナウル。

「21世紀にこんないいかげんな国が存在していいのか……」と呆れてしまう。

 でも、だからこそナウルには親しみが湧く。いいかげんだからこそ、なぜか愛おしい。




「オランダ病」という言葉がある。オランダでガス田が見つかったために他の産業が衰えたことに由来する言葉で、「資源があることでかえって他の産業が衰えてしまう」状態を指す言葉だ。

 これといった天然資源のない日本にいる者からすると、産油国のような資源豊富な国はうらやましい。でも、豊かな資源が国民を幸せにしてくれるかというと、意外とそうでもないようだ。

 以前読んだトム・バージェス『喰い尽くされるアフリカ』という本によれば、天然資源の豊富な国が、その資源が原因で「他国の植民地になる」「政治の独裁が進む」「他の産業が衰える」「国内で争いが起こる」といった問題が発生することが多いようだ。なんと天然資源が豊富な国のほうが、そうでない国よりも成長の速度が遅いそうだ。

 もしも日本に貴重な資源があったなら、明治か太平洋戦争後にどこかの植民地になっていただろう。




『アホウドリの糞でできた国』に書かれているナウルの歴史は、まるでおとぎ話だ。

 おとぎ話だと、この後「ナウル国民は心を入れ替えてまじめに働くようになりましたとさ」となるのだろうが、そうならないところがナウルのナウルたるゆえん。

 この本にはナウルを訪れた旅行者たちの話も載っているが「ポストに手紙を入れたら10ヶ月後に届けれらた」「ビザ申請のメールがまったく返ってこないのでビザ無しで行ってみたらなんとかなった」なんて話が次々に出てくる。

 まじめで勤勉なナウル人は国外に出ていってしまうらしく、今でもナウルの人たちはのんびり暮らしているようだ。

 でもそれこそが幸福かもしれないね。そんなに金持ちじゃなくても、あたたかい南国で食うに困らない程度の生活ができるのであれば。


 ちなみに一度は枯渇したリン鉱石だが、その後技術の向上なのでまた採掘ができるようになったらしい。今度は過去の反省を生かして、リン鉱石で得た外貨を投資して国内に産業を育成……とはならないんだろうな、たぶん。

 こういう国が世界のどこかにある、とおもえるだけでちょっと生きるのが楽になるよね。みんながみんな勤勉じゃなくてもいいよねえ。


【関連記事】

【読書感想文】資源は成長の妨げになる / トム・バージェス『喰い尽くされるアフリカ』

【読書感想文】寺尾 紗穂『あのころのパラオをさがして』



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2022年12月6日火曜日

【読書感想文】NHKスペシャル取材班『ルポ車上生活 駐車場の片隅で』/野次馬だということを忘れるな

ルポ車上生活

駐車場の片隅で

NHKスペシャル取材班

内容(e-honより)
老い、病気、失業、肉親からの虐待、配偶者との死別、人間関係のつまずき―。車しか行き場がなかった。貧困だけではない“漂流の理由”とは?話題のNHKスペシャルが待望の書籍化!


 車上生活を送っている人たちを取材したルポ。

 日本には、車で生活している人たちが少なからずいる。が、その実態についてはほとんど何もわかっていない。

 まずは車上生活者の全体像を理解する上で参考になるものはないかと、関係する調査を探した。しかし、車上生活者についての調査はこれまで国も自治体も行っていない。
 ホームレスの概数調査は、厚生労働省が各地のNPOに委託して行われている。しかしあくまで土手や公園に段ボールやブルーシートなどを広げている人々を遠目から見て「ホームレスとみられる人」を数えているにすぎない。当然ながら、道の駅は調査の対象外。仮に対象となったとしても遠目から見て車上生活者かどうか判断するのは不可能だ。つまり、国のホームレス調査には、車上生活者は含まれていない。だから全国に車上生活者がどの程度いるのかは、誰にもわからないのだ。

 ホームレスの概数調査はおこなわれているが、車上生活をしている人は調査そのものがおこなわれていない。車の中で生活していても、ほとんどの場合は外からわからない。だから我々が気づかないだけで、じつは周囲にもけっこういるのかもしれない。

 そういやこないだ読んだ『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』という本にも、車内で生活していてそのまま亡くなった人のケースが載っていた。


 車上生活はたいへんだろうが、ホームレスに比べればはるかに楽だろう。雨風はしのげるし、冬の寒さも車外よりはマシ。荷物を持って移動するのもかんたん。

「ホームレスになるほどではないけど生活が苦しくて車を所有している」人であれば、車上生活に行きつくのはそう不自然なことではないのだろう。




 しかしこの本を読むかぎり、意外と「食うに困って車上生活をするしかなくなった」以外の車上生活者もいるらしい。

 この〝謎の車上生活者コミュニティ〟のメンバーを簡単に紹介させてもらう。

 ①Uさん(60代男性)。車は軽自動車。車上生活歴20年。借家があるがほとんど帰らないという。離婚を経験しており、現在は独身のため、「家にいてもうつになるだけ。車上生活は楽しくてやめられない」という。
 ②Iさん夫婦(夫・50代/妻・60代)。車はキャンピングカー。車上生活歴2年。自宅はないため、ホームレスに当たるのだろうか。もともと夫婦で車上生活をすることが夢だった。資金獲得のため、夫はリタイアするまでいくつかの仕事を掛け持ちで続けたという。現在は無職。
 ③Sさん(70代男性)。車は年季の入ったミニトラック。車上生活歴12年。持ち家が青森にあるが、「青森にいると寒くて頭が痛くなる」という。1年のうち、9ヵ月間は九州地方を中心に車上生活をし、夏の期間だけ青森の自宅で過ごす。
 ④Xさん(60代? 男性)。車はワゴン車。妻と離婚し愛人と過ごしていたが、関係が悪化。アパートを飛び出し、小型犬と一緒に車上生活を始める。「車上生活は楽しい」というが、そこに至った経緯を詳しくは教えてくれなかった。現在も自宅はない。

 こんな感じで、「車上生活が好き」「車に大切な思い出がつまっている」「家にいたくない」「家庭の事情で家にいづらい」といった理由で車上生活を選んでいる人もいるようだ。

 また、年金をもらっていたり、仕事をしたりして、収入がある人もいるそうだ。さらに自宅があるのに車上生活を送っている人も。

 まあ深刻な悩みを抱えていない人のほうがインタビューに答えてくれる率は高いだろうから、取材をすると〝そこまで困ってない人〟の割合が実態よりも高くなるのかもしれないけど。


 たしかに、車上生活をしたくなる気持ちはわからなくもない。ぼくは運転が嫌いだけど、もしも家族がいなくて、一箇所にとどまらないといけない仕事もないのであれば、あちこち移動しながら生きていくという暮らしにあこがれる部分もある。フーテンの寅さんだって免許と車を持っていれば車上生活を送っていたかもしれない。

 人によっては「移動もできるワンルーム」に住んでいるぐらいの感覚なのかもね。




 とはいえ、もちろん食うに困って車上生活を余儀なくされている人もいる。さらに単身ではなく、夫婦や家族で車上生活を送る人も。

 子どもと共に車上生活を送っていた家族の話。

 しかし、夜になると厳しい現実が家族を襲った。日が落ちると、急激に気温が下がる。日中機嫌がよかった子どもたちも、寒さと空腹からかぐずりだす。子どもの大好きなカレーライスやポテトフライなどを食べさせてやりたいが金はどんどんなくなっていき、お腹を空かせた子どもに、満足に食事も食べさせられない。100円のパンやおにぎり、時にはお菓子などを与え、なんとかその場をしのぐしかなかった。
 夫婦は、2日間ほとんど何も食べられない日もあったという。次女に授乳中だった妻は、十分な食事がとれないなかで、健康な母乳がでているかどうか不安を感じていた。
「本当に、どうなってもおかしくない状態でした。仕事が見つからないなかで、私自身もどんどん不安になっていくし、今日はなんとか食べられたとか、明日はどうしようかとか、そんなことばかり考えていました。車でどこかに移動するのにも、ガソリン代がかかるので、道の駅の駐車場でただじっとしているしかなかったですね」

 また、空腹以上に厳しかったのが冬の「寒さ」だった。
 残りわずかになったガソリンを節約しようとエンジンをかけずに眠っていたため、毛布にくるまっても夜は冷え込んだ。寒さで目が覚めるたびに、少しだけエンジンをかけ、暖房をつけて車内を暖める。これを繰り返すうち、気がつけば夜が明けていた。銭湯などに行くこともできなくなり、冷たい水で濡らしたタオルで子どもたちの体を拭いてやることしかできなくなった。不安と寒さで眠れないことも多くなり、深夜になると、これからどうするか、夫婦で答えの出ない話し合いを続けた。
 季節は1月。この年、冬の寒さはとくに厳しかった。
 たとえ頼れる人がいなかったとしても、他の選択肢はなかったのだろうか。そんな気持ちが私の表情に表れていたのだろう。恵理子さんは続けて、当時の思いを語ってくれた。
「全然、お金もなかったし、ネットカフェって子どもがいたら駄目ですよね。だから子どもと一緒にいるためにどうしようか、だったと思います。ヘンに助けを求めて、子どもと引き離しますよって言われても困るし。それだと自分がもたない。今思えば、何も考えていなかったというか、自分本位と言われればそうですけどね……」
 それまで淡々と話していた彼女の顔が曇る。子どもたちの顔を思い浮かべているのかもしれない。いち早く行政に頼れば、なんらかの救済措置があったことはわかっていたはずだ。しかし、子どもと離ればなれにならないために、彼女はあえて別の道を探ろうとしたのだ。私には子どもはいないが、女性としてその気持ちを察することはできる。きっと口で言うよりもずっと悩んだだろうし、想像以上につらい選択だったに違いない。

 これを読んで「なんて身勝手な親だろう」とおもった。

 自分が車上生活を送るのは好きにしたらいい。頼れる人がいない、生活保護に頼りたくない、親戚との関係がよくない、仕事がない、いろんな事情があるだろう。

 でも、こんな生活を送りながら「子どもと離ればなれにならない」ことを選ぶのは、親のエゴでしかないとおもう。そりゃあ子どもは親といっしょにいたがるだろう。親といっしょの生活しか知らないんだから。

 けど、命の危険にさらしてまで子どもといっしょに車上生活を送る権利はない。子どもだけでも行政に任せるべきだろう。

 なにが「想像以上につらい選択だったに違いない」だよ。ただの虐待親じゃねえかよ。こんなもんは親の愛じゃねえよ。




 車上生活を送っている人のいろんな面を見ているうちに「必ずしも車上生活って不幸でおないのかもしれないな」とおもうようになった。

 もちろん不幸な人はいるが、それは車上生活にかぎらない。自宅があっても不幸な人もいれば、車でそこそこ幸福な生活を送っている人もいる。

 こういう道があってもいいとおもう。道の駅のように、車上生活を送っている人が過ごしやすい場所があればいい。

 彼らに住居をあてがうことだけが福祉ではないとおもう。放っておいてやるのもまた優しさなんじゃないだろうか。放っておいてほしいから車上生活をしている人が多数派なんじゃないかろうか。




 いろんな記者が交代で書いているのだが、謙虚な人もいれば傲慢な人もいる。傲慢というか、「善意の押し付けがすぎる」というか。

「おれたちジャーナリスト様が社会正義のために取材してやってんだぜ」臭がぷんぷんする。

 さっきも書いたように「放っておいてやるのも必要」とぼくはおもうのだが、「こんな生活を送る人がいてはならない! 救済すべき! 『NHKスペシャル』で取りあげてやって社会問題にすべき!」みたいな気持ちが行間から漂ってくる記者もいる。


 熱いね。

 でもさ。ぼくが車上生活者だったら、ぜったいに社会問題なんかにしてほしくないとおもうんだよね。「『NHKスペシャル』で取りあげます」なんて言われたら「大きなお世話だやめろ」とおもうだろう。社会とかかわりたくなくて車上生活をしているんだから。社会のほうから近づいてこないでほしい。

 だから、仮に取材するとしても「野次馬根性丸出しで申し訳ないですけど、なんとか取材させていただけないでしょうか」という姿勢で近づくべきだとおもう。それなのに、「我々が取り上げてやることで彼ら彼女らのためになるはず! だからなんとしても取材せねば!」みたいな気持ちが文章から伝わってくる。押しつけがましいったらありゃしない。

 社会的弱者のレッテルを貼られたくないから取材拒否しているんだということも想像せず、しつこく追いかけまわしている。

 記者の書いたものを読んでいるだけでも「強引な取材だな」と感じるのだから、こういう記者に追いかけまわされたほうからしたらたまったもんじゃないだろうな。

「どうやったら心を開いてもらえるだろうか」じゃないんだよ。心を開きたくないから車上生活をしてるんだよ。


 NHKの記者をやってると、自分が正義の味方だとかんちがいしちゃうのかな。しょせん我々視聴者の野次馬根性を満たすためにやってることなのにさ。

 いや、いいんだよ。野次馬根性で。おもしろいもん、変わった生活を送っている生活をのぞき見するのは。人間として、自然なことだとおもう。

 でもそれはどこまでいっても野次馬根性なんだよ。結果的に社会がいいほうに変わることはあるかもしれないけど、それは偶然の結果であって目的ではない。

 なのに、やれジャーナリズムだ、やれ社会的意義だ、やれ視聴者へのメッセージだのとほざいちゃあいけない。おまえらが扱っているのは生身の人間なんだよ。ただ車に住んでるだけで、犯罪者でもなんでもないんだよ。生きた人間を「視聴者へのメッセージ」の材料にするなよ。材料にしたいんだったら、フィクションを書けよ。

 

 そのバランスを取る上でカットせざるを得なかったのが、竹迫ディレクターが撮影した北海道の女性親子である。
 70代の母親とともに車上生活をしていた40代の女性。昼間は4人の子育てに追われる娘を手助けし、夜は近くの道の駅で寝泊まりしていた(第3章参照)。
 そんな女性にカメラを向けると、満面の笑みで語った。
「もう一回子育てさせてもらってるような感覚です。だから苦とかじゃなくて、自分の幸せですよね。お金で買えない幸せですね」
 初めに竹迫ディレクターから「車上生活の理由は、娘さんの子育てを手伝うためでした」と聞いたとき、その意外性に一瞬理解が追いつかなかった。
 それでも話を聞くにつれ、核家族化が進み定着するにしたがって子育てに悩む人が増えていく、という現代社会の一断面であると強く感じるようになった。私自身も、二人の保育園児の子育てをいつも妻の実家に助けてもらっているため、自らの境遇を重ね合わせたことは否定できない。この女性親子のエピソードは、1回目の試写では番組の中に入れていた。しかし2回目の試写以降はカットし、その後も復活させることはできなかった。
 理由は、バランスである。たしかに、娘の子育てを手伝うためという理由で車上生活をする人がいるという事実は重い。しかし、女性の弾けるような笑顔が画面一杯に映し出されると、どうしても「支援を必要としていない」という側面が強調されすぎてしまうのだ。

 こうやって舞台裏を書いてるから本のほうはまだ良心的だけど、番組のつくりかたとしてはひどいものだ。「こんなところを放送したら、この人が不幸に見えなくなってしまう。だからカット」ですってよ。不幸に見えないことの何が悪いんだよ。「支援が必要」かどうかはおまえや視聴者が決めることじゃないんだよ。


 いろんなことを考えさせられてたいへん意義深い本だったけど、同時にNHK記者の傲慢さも目に付いた。

 そのジャーナリズムは、今ここで困ってる人じゃなくて、NHKさんが仲良うしてはる政府のほうに向けてくださいね。政府がまともに仕事してたら「支援が必要な人」は減るんだから。


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【読書感想文】特掃隊長『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』 / 自宅で死にたくなくなる本

【読書感想文】社会がまず救うべきは若者 / 藤田 孝典『貧困世代』



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