2022年10月27日木曜日

スケボーのがらがら

 人は千差万別だからなかなか意見が一致することはないけれど「公共スケボーがみっともない」ってことだけは万人が共感するところだろう。多様性の時代とはいえ、これだけは未来永劫変わらない。

 公共スケボーってみっともないじゃない。公園とか駅の通路とかではしゃいでる連中がいるけど、まあ例外なくみっともない。スケボーのやつらに比べたら、コスプレイヤーの写真を撮ろうと地面に這いつくばって望遠カメラを構えている連中が高貴に見えるぐらい。

 またふしぎなのは、スケボーがうまければうまいほどみっともないってこと。

 スポーツでもダンスでも歌でも、ふつうはうまければかっこいいじゃない。なのに公共スケボーとゲーセンのダンスゲームだけは逆。うまいやつほどみっともない。

「わっ、公園であんな大技決めてる。なんてかっこわるいの」
「駅の通路であんなにうまくなってるってことはこの場所で相当練習したにちがいないわ。恥の概念を母親の胎内に忘れて生まれてきたのかしら」
ってなるじゃない。

 まだへたなやつのほうが見てられる。ぶざまにころんで傷をつくりながらスケボーをやってるやつのほうが、ひたむきさがあるだけまだマシ。うまいやつは「本人がおもっているオレかっこいいっしょ」と「周囲から見えるみっともなさ」のギャップが大きい分、見ていられない。


 なんでスケボーってあんなにかっちょわるいんだろう、同じようなことやってるスノーボードはそうでもないのにって考えたんだけど、ひょっとしてあの「がらがら」のせいじゃない?

 ほら、スケボーってがらがら鳴るじゃない。公園でやってる連中、ずっとがらがらがらがらがらがらがらがらいわせてるじゃない。がらがらがらーってすべってきて、がらがらっとジャンプして、がっらーんと着地して、またがらがらがらーとすべっていく。

 あの音こそがみっともなさの根源じゃないだろうか。

 考えてもみてよ。モデルがランウォークを歩くとき、ばたばたばたって音を立てて歩いてたら。ノーベル賞受賞者が発表する間ずっとずずずずずって鼻をすすってたら。戦闘ロボが怪人をやっつける間ずっとギーギーガチャガチャガチャーンって音がしてたら。

 かっちょわるい。

 そうなのだ。音を立てて行動をする人は例外なくかっちょわるいのだ。だから食事中に音を立てるのはマナー違反とされているのだ。

 優雅な動作って音を立てないじゃない。上手な人のバレエなんか、すーっと移動して、ふわっと舞うように跳んで、まるで羽が降りてきたかのように音もなく着地する。がらがらのスケボーとは大違いだ。


 そういえば、駅でスーツケースを引きずって歩いている連中もみんな下品だ。空港だとスーツケース用に平らな地面になってるけど、駅はそうじゃない。だからちょっとした段差や視覚障害者用ブロックに引っかかってがらがらがらがら鳴っていて聞き苦しい。

 スケボーにしてもスーツケースにしても、もうちょっと耳あたりのいい音にできないのかね。もしもスケボーの音色が美しかったなら、きっと今頃は皇族などがたしなむ上流階級スポーツになっていただろうに。



2022年10月26日水曜日

【読書感想文】サエキ けんぞう『スパムメール大賞』 / どう見ても犬じゃないですよね?

スパムメール大賞

サエキ けんぞう

内容(e-honより)
パソコンの受信メール箱を埋め尽くすスパムメール。だが、じっくり読むと奇想天外な面白さのメールが隠れているのだ。「訳アリ人妻のご奉仕」「禁煙中で口寂しいからフ×ラしたい」「あなたは30億円で落札されました」など抱腹絶倒のスパムメールの数々を紹介、激しい突っ込みコメントを入れながら、メール文化の根源に迫る。

 今から二十年近く前、スパムメールがよく届いた。

 LINEもSNSもなかった時代。遠くの人とメッセージを交わす方法はメールしかなかった。なので多くの人はプライベートで一日に何通ものメールをやりとりしていた。多い人だと、一日に何十通、もしかしたら百通以上送っていたかもしれない。

 そんな時代だったから、あの手この手で人を騙してやろうとする業者や個人も、メールを使っていた。それがスパムメールだ。メールフィルタ機能もしょぼかったので、スパムメールは頻繁に届いた。「スパムが多いのでメールアドレス変えました」なんて人も多かった。

 最初は「素敵な出会いが貴方を待っている★」みたいな単純な手口だったが、業者の手口も洗練(?)されてきて、次々に新しいスパムメールが開発されていった。

 そんなスパムメール全盛期の2004~2006年に、著者が積極的に怪しいサイトにメールを登録したり、届いたスパムメールに返信したりして、数々のスパムメールを集めたのが本書だ。



 試みはおもしろいし、掲載されているスパムメールもおもしろいものも多い(ただし企画の性質上、下ネタ多め)。

 ただ、それに対する著者のツッコミがつまらない。まあこれは単純に文体が古いってのもあるけど……。

 古びやすい文章とそうでない文章があって、著者の文章は典型的な前者。いかにも2000年代前半の文章って感じで、今読むとうすら寒い。まあこれは十数年たってから読んだぼくが悪いんだけど……。



 ぼくはマーケティングの仕事をしているのだが、スパムメールはなかなかマーケティングの勉強になる。スパムメール業者だってみんながバカじゃないから(バカも多いだろうけど)、あれこれ作戦を立てて、反響を見て、うまくいったものをさらに改良して送信しているのだろう。いってみれば数々のPDCAサイクルをくぐり抜けてきたものが、我々の手元に届くのだ。

 そこには「どうすれば人はひきつけられるのか?」というマーケティングの永遠のテーマに対する答えがある。

 なかでもすごいのは〝逆援助〟だ。

 そんなスパムメールは、いよいよ2005年、恋愛革命を起こすことになります。
 まず、男が女性を誘う時代に終止符を打ったのです。
 それまでの恋愛は、男が女をしとめるものでした。たとえソープランドのような場所であっても、男の側から女性を選ぶ。そんな恋のあり方は、狩で生きてきた石器時代から続いてきた営みだったかもしれません。
 しかし、スパムメールの中で、女性は堂々と男を「捕らえ」はじめました。最初は恥ずかしそうに、しかしじょじょに大胆に。
 ついには女性が男を「買う」ことも常識になってしまったのです。スパムメールが持つ最大のコンセプト「逆援助交際」は、堂々と2005年大々的なデビューをしました。

 出会い系スパムメールの最終目的は「男に金を使わせる」ことだ。そのためにはどうしたらいいか。

 ふつうに考えれば「うちのサイトに登録すれば素敵な女性と出会えますよ」とか「まずは1ヶ月無料でお試しください」とアピールするだろう。商品の魅力を伝える、試用期間を利用して加入させる。いずれも王道のマーケティング手法だ。王道であるがゆえに、誰でもおもいつく。

 そこへいくと「あなたにお金を払いたい女性がいます」というスパムメールはすごい。常人にはまずおもいつかない。

 エロいことをさせてくれる上にお金までくれるという。まさに逆転の発想だ。送られたほうからすると「両方叶うならこんなにすばらしいことはないし、どっちかだけでもラッキーだ。両方叶わなかったとしても、何も失うわけじゃないしな」とおもえる。還付金詐欺と並ぶ、なんともずるがしこい発明だ。

 まあクリックはさせても、そこからお金を払わせるまでにもっていくのがまたむずかしいんだろうけど……。


 他にも「パソコンメールの調子が悪くなって送信はできるが受信ができなくなったから、連絡手段を考えました。出会い系サイトの掲示板を使うことにしましょう」という手口や、まちがいメールをよそおって「本来なら有料の出会い系サイトを無料で使う裏技を発見した!」といってサイトに誘導する手法、「部署移動させられた腹いせに会社に損害を与えたいのでこのサイトでがっぽり得してください」という文面など、よく考えられているなあと感心するスパムメールも多い(だましたらダメよ)。

 そうかとおもうと、本気でだます気があるのかとおもうようなメールも。

Subject:ズバリ言うわよ!アンタ、地獄に落ちるわよ!

アンタ、夏の恋は最悪でしょう!ズバリ、このままじゃ、ろくな恋しないわね。出会えないサイトばっかり、登録してるのは、分かってるのよ!アンタのやってる事はね、サクラにお金払ってるのよ!アンタ、頭いいのにサクラも知らないの?中途半端なサイトに登録しても、返信が無いだけ!断言するわ、アンタはサクラに弄ばれる!まあ、紆余曲折はあるけど…このサイトだけ、見ておきなさい。セフレできるわよ!セフレができなきゃ、アンタが悪い!一長一短にはいかず、乱気流するわね。

 このメールを受け取った人が登録しようとおもうか?

 もうやけくそになっているとしかおもえない。スパムメール業者も組織化されて、モチベーションの低い従業員が適当に送るようになったのかもしれない。


 そんなばかばかしいメールの中でも、特に手が込んでいるのがこれ。 

 初めまして。見知らぬ人間からいきなりのメールの到来、すわ何事かといぶかしんでいるかと思われます。
 当方、米田寅美という婆で御座います。
 主人は既に他界しており、息子夫婦も四年前に事故にて失い、今は息子夫婦の残した孫娘と朗らかな日々を過ごしております。やつがれと同年代で嗜む者が多い盆栽にもゲートボールにも興味が無く、「趣味は専らインターネットでのエロ画像の収集であります。
 早速ですが今回メールさせて頂いた本題に入ります。
 折り入ってお願いがあるのですが、孫娘と交尾して頂けないでしょうか。孫娘は、身内であるやつがれの贔屓目抜きでも別嬪だと思っているのですが、如何せん奥手で内気な性格が禍して、二庶0回の誕生日を迎えた今でも処女なんです。処女膜、在中です。若かりし時分のやつがれは、孫娘と同じ年齢の頃には何署もの殿方と交尾を夜な夜な繰り返し、「淫獣」の通り名を轟かせ、快楽に満ち溢れた人生を謳歌していたものです。
 孫にも交尾の悦びを覚えさせたい、少なくともやつがれの血を引きし者として、根は淫乱であろう事は想像に難くないのですが、切っ掛けに恵まれてないのが不幸で。孫の許可も既に得た上で、こうして交尾していただける殿方を探しているんですが、お願いできないでしょうか?謝礼金も用意出来ますので。
 それでは、御返事お待ちしております。長文失礼致しました。

BGM:太陽とシスコムーン「ガタメキラ」
YONEDA the Tiger Beauty拝

  無駄におもしろい。設定もすごいし、それにあわせた(といっても大げさすぎるが)文体も作っている。「エロとネットが大好きな、行動力のありすぎる婆さん」の姿がありありと浮かんでくる。

 メールなのにBGMまで設定して、YONEDA the Tiger Beauty(寅美なのでTiger Beauty)という署名まで凝っている。

 もはやこれは文学と言っていい。



 最後に、ぼくがいちばん開封したくなったメール。

Subject:どう見ても犬じゃないですよね?

祖父の部屋にいるこの生き物って何だか分かりますか?
祖父はワンちゃんを拾ってきたんだよと言ってるのですが、どう見ても犬じゃないですよね? これ、日本にいて大丈夫な生き物でしょうか?
写真をアップしておきましたので、この生き物が何なのか教えていただけないでしょうか?
犬はこんなに簡単に後ろ足のみで立ち上がったりしませんよね?

 気になる~!


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2022年10月25日火曜日

【読書感想文】浜田 寿美男『自白の心理学』 / 自白を証拠とするなかれ

自白の心理学

浜田 寿美男

内容(e-honより)
身に覚えのない犯罪を自白する。そんなことはありうるのだろうか?しかもいったんなされた自白は、司法の場で限りない重みを持つ。心理学の立場から冤罪事件に関わってきた著者が、甲山事件、仁保事件など、自白が大きな争点になった事件の取調べ過程を細かに分析し、「自分に不利なうそ」をつくに至る心のメカニズムを検証する。

 冤罪は起こる。何度も何度も起こっている。考えたくないけど。

 死刑判決が出るような大きな事件でも何度か起こっているし、小さい刑も含めればその何十倍も起こっている。冤罪だったと判明しているだけでも何件もあるのだから、判明していない(当事者しか真相を知らない)冤罪事件はもっともっとあるのだろう。

 冤罪を生む要因はいくつもある。そのひとつが「嘘の自白」だ。


 犯人が「私はやってない」と嘘をつくのはわかる。でも、犯人でもない人が「私がやりました」と自白することは理解できない。我が子が真犯人なのでかばうために……とかならまだ理解できないこともないが(共感はできない)、それ以外で嘘の自白をするとは考えられない。

「人間は己にとって不利になる嘘をつかない」という思いこみがあるからだ。だから、自白をしたらそれは無条件で正しいと思いこんでしまう。一度嘘の自白をしてしまうと、その後の取り調べや裁判でひっくり返すことはむずかしい。

 だが、人間は往々にして嘘の自白をしてしまう。己にとって不利になる嘘をつく。

【自白の心理学』は、過去に起こった様々な「嘘の自白」の事例をもとに、なぜ嘘の自白をしてしまうかを探った本。




 嘘の自白をしてしまう理由として、ふつうまず考えるのが「拷問によって無理やり言わされた」だろう。

 たしかに戦後すぐぐらいまでは取り調べで拷問がふつうにおこなわれていたらしい。この本にも取調室での拷問の例が挙げられている。ただ、戦前の小林多喜二のように命にかかわるような拷問は戦後はほとんどなくなった(はずだ)。社会の眼が厳しくなったこともあって、殴る蹴るの拷問は今ではほとんどおこなわれていない、とおもいたい。まあ出入国在留管理庁の連中はどうかわからないが……。

 だが、拷問をされなくても、嘘の自白をしてしまうことは往々にしてあるらしい。

 もちろん拷問による自白も、被疑者の精神的な脆弱さ、あるいは一時的な変調による自白も、ケースとしてはありうる。しかし個々の冤罪事件を洗ってみると、こうした理由で説明できる例はむしろ少ない。現実には、拷問もなく、被疑者当人に知的な問題もなく、さらには一時的にせよ精神的な変調をきたした形跡もないのに自白して、のちにそれが虚偽だったと判明する事例のほうが、はるかに一般的なのである。
 うその否認は自然、うその自白は例外的という素朴な思いこみでみれば、よほど特別な事情がないかぎりは、自白を真実のものとして信用することになる。日々、事実認定の仕事に迫られている裁判官や検察官の意識も、大半はその域を出ない。うその自白を見破ることができず、冤罪をとめどなくくりかえす原因の一つがここにある。
 うその自白は自分の利益にならないどころか、逆に自分を悲惨な状況に追いこむ。そのことがわかっていて、それでも人はそのうそに陥ってしまう。容易には信じがたいことかもしれないが、それはおよそ例外とはいえない人間の現実なのである。このうその自白の謎を解き明かすことが、本書の課題である。

 考えてみれば、逮捕→取り調べだけでもふつうの人からしたら十分拷問に近い行為だ。

 国家権力によって拘束される、自由で行動することが許されない、取調官以外と連絡をとることができない、身に覚えのないことをおまえがやったんだと言われる、どれだけ弁明しても信じてもらえない、おまえのせいで多くの人に迷惑がかかるとなじられる。そしてこのストレスフルな拘留が何日も続く。

 どれひとつとっても、日常生活ではまず味わうことのない強いストレスとなる。それをたてつづけに食らうのである。真犯人ならある程度心の準備もできるだろうが、無実の人間からするといきなり別世界に放りこまれるようなものだ。まともな判断ができる人のほうが少数派だろう。


 特に軽犯罪だったら「何か月もがんばって、自分の言うことをまったく信用しようとしない取調官と向き合うよりも、嘘でもいいから自白をしてここから逃げだしたい」とおもってもまったくふしぎはない。

「逮捕された状態で何日も拘束されて取り調べを受ける。どれだけ無実を訴えても認めてもらえる保証はない」と
「無実の罪を認めて有罪となる。家に帰れるし、執行猶予もつくから刑務所に入ることもない」だったら、後者のほうが得と考えてもぜんぜんふしぎはない。

 だいたい証拠不十分で放免されたとしても、何も得るものはないわけだもんな。長く拘留されて、周囲の人には「逮捕されたやつ」とレッテルを貼られ、多くのものを失うことはあっても何も得られない。無実の人間からすると、逮捕されただけでどっちに転んでも大損だ。




 日本には推定無罪の原則というものがあり、逮捕されたとしても刑が確定するまでは無罪の人として扱われる。……というタテマエなのだが、じっさいはというとまったく守られていない。

 警察や報道機関は逮捕された時点で実名を公表するし(身内には甘いけど)、世間も「逮捕されたってことはあいつは悪いやつだ」と扱う。

 特にひどいのが取り調べにあたる警察。

 疑惑が確信へと走り出す。そして確信はその権力性とあいまって、証拠を引き寄せ、いわば自己成就する。この流れを遮る歯止めはなかったのだろうか。少なくとも警察や検察は捜査の専門機関であって、素人集団とはわけがちがう。世間の信頼はそこにあるはずである。しかし捜査の現実はしばしばこの期待を裏切る。
 被疑者は無実かもしれないという可能性を少しでも考えていれば、自白のうそをあばくことはできる。ところがわが国の刑事取調べにおいて推定無罪は名ばかりで、取調官は被疑者を犯人として断固たる態度で調べるというのが常態になっている。実際、警察官向けのあるテキストには、こう書かれている。
 頑強に否認する被疑者に対し、「もしかすると白ではないか」との疑念をもって取調べてはならない。(増井清彦『犯罪捜査一〇一問』立花書房、二〇〇〇年)

 ひっでえ……。

 推定無罪を守る気なし。これじゃあ、冤罪が生まれるのも当然だ。個々の警察官の問題ではなく、組織そのものの問題だ。


 日本は刑事事件の検挙率が高いそうだ。治安がいいということでもあるが、裏を返せば「証拠不十分でも検挙されてる」ことなのかもしれない。

 そして証拠不十分の場合に重大な決め手となるのが自白だ。「自白は証拠の王」なんて言葉もあるという。

 しかし、『自白の心理学』を読むと、自白のみを証拠として採用するのはすごく危険だとおもう。特に、本人が後から否定した自白に関しては証拠として採用すべきじゃないとおもうな。




 甲山事件という事件がある。1974年に障害者施設で2人の園児が死亡した事件だ。そこで勤務した保育士が逮捕されたのだが、不起訴となる。後に再逮捕され、殺人罪で起訴。

 証拠が不十分であること、事故である可能性が高いことにより一審で無罪判決。検察側は控訴するものの、高裁では控訴棄却。最終的に無罪が確定するまで、なんと25年かかった。

 無罪の人間が25年も争ったという事件だ。


 起訴の決め手となったのが、保育士の自白だ。保育士は警察官から犯人だと決めつけられ、長期に渡る過酷な取り調べの結果、自白をしている。

 だが。

 どうにか思い出そうと必死になって、ほとんど強迫的な意識にかられている姿が、供述調書の行間から浮かび上がってくる。そして逮捕から一週間がたった四月一四日の供述調書には、こんな奇妙な供述まで出てくる。
 この一五分間ぐらいの間の記憶はどうしても思い出せないのです。その時間ごろ、ちょうどS君が連れ出されたころになりますが、いろいろのことを考えると、私が無意識のあいだにS君を殺してしまったような気がいたします。
 子どもたちは清純で天真爛漫です。嘘をいうとは思いません。私がS君を連れ出したのを見ている子どもがあれば、それは本当のことだと思います。
「空白の一五分」を追及されて、記憶がすっかり混乱しているうえに、女児の目撃供述を突きつけられて、自分で自分のことが信じられなくなっていることがわかる。

「この一五分間ぐらいの間の記憶はどうしても思い出せないのです」「私が無意識のあいだにS君を殺してしまったような気がいたします」

 これを有効な自白証拠とみなすのは誰が見ても無理があるだろう。言わされている感がすごい。この言葉だけでも、どれほど無茶な取り調べがおこなわれたかが想像できる。

 否認してがんばっても無実だとわかってもらえる可能性はない、それどころかこのままだと取調べの場から逃れられないし、いつまで警察に留め置かれるかわからない、そうだとすれば否認しつづけるほうがよほど危険にも見える。ここで、否認することの利益が不利益に、自白することの不利益が利益に逆転する。
 あるいは被疑者は、自分を責めている当の取調官にむかって救いを求める気持ちにすらなる。このことも一般には知られていない事実である。どんなに弁解しても耳を貸してくれない取調官に苛立ちを覚えながら、それでもなお対決するのは容易でない。それどころか理不尽で、嫌悪感をすら覚えるその相手に、自分の処遇が握られているのである。その相手に迎合し、またときおり見せる温情に不本意にすがってしまうことがあったとして、それを責められるだろうか。敵とすべき相手に籠絡されるなんて、という人がいるかもしれない。しかしそんなふうにいえるのは第三者の後知恵でしかない。無実の被疑者にとって取調官は敵ではなく、良くも悪くも自分の処遇を左右する絶対的な支配者なのである。

 警察の世話になったことのない善良な市民であるほど、こんな取り調べに太刀打ちすることはできないだろう。

 万一冤罪で逮捕されたら、完全黙秘、優秀な弁護士に依頼するぐらいしかできることはなさそうだ。




 この本には袴田事件についても書かれている。袴田事件は、なんと50年以上も争われている事件だ(現在も未決着)。

 もちろんぼくには、死刑判決を受けた袴田さんが真犯人なのかどうかは知るすべもない。

 ただ、この本を読む限り、少なくとも拷問の末に袴田さんが口にした自白はまったく信用に足るものではないことだけはわかる。矛盾だらけなのだ。


 問題は、取り調べ官がむりやり自白させることもそうだけど、裁判所がその自白を証拠として採用しちゃうことだよな。

 裁判で語った内容より密室の取調室で言わされたことが優先されるなら、なんのための裁判なんだってことにならないか?




「10人の真犯人を逃すとも1人の無辜を罰するなかれ」という言葉がある。

 まったくもって同感だ。「1人の無辜」は自分かもしれないのだ。「10人の殺人犯が捕まらない世界」よりも「10人の殺人犯が捕まるけど自分が冤罪で逮捕されるかもしれない世界」のほうが悪いに決まっている。

 にもかかわらず、冤罪は生みだされつづけている。


 これはもう警察官の努力の問題じゃない。ミスは必ず起こる、という前提に立った制度設計をしていないことが原因だ。

 取り調べを録画・録音するだけでだいぶ冤罪は防げるはずなのに。


 最近知ったんだけど、過去に紅林麻雄という警察官がいた。この人はとんでもないやつで、「拷問王」と呼ばれるほど苛烈な取り調べで知られ、数々の冤罪事件を生んだそうだ。

 で、この男がどんな刑罰を受けたのかというと、何にも受けていない。左遷されただけ。違法な拷問をくりかえし、何人もの善良な市民の人生を狂わせた。それなのに逮捕すらされていない。

 はっきりいって、殺人犯よりこの男のほうが数倍凶悪だ。

 こういう輩を放置して、取り調べの録画・録音もいっこうに導入しようとしないのだから、警察は冤罪を防ぎたくないのだとおもわれてもしかたないよなあ。冤罪をゼロにしちゃったら検挙率が下がって成績が下がるもんなあ。


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2022年10月24日月曜日

一億ジャーナリスト

 マシュー・O・ジャクソン『ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学』にこんな一節があった。

だが、新聞社の収入のほうはデジタル版も含め減少しつづけている。広告収入は、紙媒体、デジタル媒体ともに急激に減少していて、デジタル版の購読料による収入も発行側の想定よりもかなり伸びが悪かった。全体では、三分の一以上の人々がオンラインでニュースを読んでいるにもかかわらず、デジタル配信ニュースの収入は業界全体の八パーセント未満にとどまっている。
 デジタル化やモバイル化が世界的に加速していくなか、自社取材のニュースを支える資金はどこから捻出すればいいのだろうか。(中略)テクノロジーによってもたらされる情報の種類、量、伝達の速さはすさまじいが、生みだすのがむずかしく再加工するのは簡単な「情報」というものから収入を得る道はどんどん狭くなっている。業界全体が、短く、人目を惹きやすく、簡単につくれるニュースへと傾き、民主主義の根幹をなす、手間とコストのかかる骨太の報道を敬遠する機運が強まっている。
 FCCの報告にもあるように、報道の衰退ははっきりと表れている。大手ケーブルテレビ局のHBOで人気テレビドラマ「ザ・ワイヤー」を制作したデイビッド・サイモンは、以前、ボルティモア・サン紙で十数年間、記者として働いていた。二〇〇九年の上院公聴会で彼がこう証言した理由はたやすく想像できる。「腐敗した政治家になるにはうってつけの時代になるだろう」


 改めていうまでもなく、報道機関は衰退している。

 報道とはまったくべつの世界にいるぼくですら心配になるぐらいだから、相当やばいんだろう。


 ある業界が衰退していくのは世の常といってしまえばそれまでだ。新しいテクノロジーが台頭すれば古いものは廃れる。昔は石炭産業は一大産業で多くの人が従事していたが、主要エネルギーが石油にとってかわられたことで衰退した。多くの炭鉱労働者が職を失った。当事者にとっては死活問題だったろうが、今になって「石炭産業を保護すべきだった」という人はいないだろう。

 そろばんは電卓にとって代わられ、ワープロはパソコンにとって代わられ、パソコンはスマホにとって代わられようとしている。そのスマホだっていつかは廃れる。盛者必衰。

 だから報道という産業が廃れるのもよくある話のひとつなのだが、他の産業とはちょっとちがうところもある。それは「報道それ自体の価値は下がっていない」ことだ。

 数十年前に比べて現代はずっと多くのニュースが見られるようになった時代だ。昔よりも多く、早く、細かいニュースが手に入るようになった。世の中にはニュースがあふれている。情報量でいえば数倍、いやひょっとしたら数十倍になっているかもしれない。

 にもかかわらず、新聞社、通信社、雑誌社などの報道機関の経営は厳しくなっているという。


 これは「本が読まれなくなっているから書店がつぶれている」のとはわけがちがう。需要は増えている。供給も増えている。にもかかわらず業界全体は(金の点でいえば)縮小している。ふしぎな現象だ。

 ふしぎといっても原因はわかっている。


 なぜ報道機関は儲からなくなったのか。

 ↓

 人々が報道に金を払わなくなったから。ではなぜ報道に金を払わなくなった。

 ↓

 これまでは金を出さないと買えなかったようなニュースが無料で手に入るようになったから。ではなぜ無料で手に入るのか。

 ↓

 無料でニュースを配ることで広告料が入るから。ではどこから広告料が入るのか。

 ↓

 GoogleやYahoo!から。ではなぜGoogleやYahoo!はニュースサイトに金を出すのか。

 ↓

 もっと多くの広告料を、各企業から得ているから。



 ということで、金を払う仕組みが変わったわけだ。

 ただ、仕組みが変わっただけで、ニュースに対して支払われる金額の総量は減っていない。それどころか昔よりずっと増えている。

 あなたが以前に新聞に対して払っていた額が月に3,000円だとする。あなたは今は新聞の購読をやめて無料のネットニュースで情報収集をしている。あなたがネットニュースを読む間に1ヶ月に目にする広告に対して支払われている額は、3,000円どころではない。(金額換算して)ずっとずっと多くの広告を払っている。


 だから無料ニュースを見るときは直接的にお金を払ってはいないが、間接的には対価を払っている。ネット広告を見た商品やサービスに対してお金を使うことで。

「ネットで広告を見ても実際には買わないよ」という人は何もわかっちゃいない。ネット広告を目にして行動を変えたことのない人はほぼいない。何の効果もないものに対して企業が莫大な金を払うとおもう?

 有料の新聞や雑誌と無料ネットニュースの違いは、NHKを見るか民放を見るかの違いといっしょだ。

 



 人々は昔よりもニュースを見るようになった。そして、ニュースに対して支払われる金額の総量もずっと大きくなった。

 それなのになぜ報道メディアは儲からなくなったのか。かんたんな話だ。市場の総量が増えているのに各プレイヤーの取り分が減っているとしたら、答えはひとつしかない。

 プレイヤーが増えたからだ。

 はじめに引用した文章にも書いてあった。
「生みだすのがむずかしく再加工するのは簡単な「情報」というものから収入を得る道はどんどん狭くなっている」と。


 そう、ニュースはコピーするのがかんたんなのだ。

 ニュースは誰のものでもない。独占インタビューとかならまだしも、事故が起こったとか、政府が発表したとか、国会でこんな議論が交わされたとかの情報は、誰のものでもない。一文一句丸写しにするのはまずいだろうが、「円、24年ぶり安値を更新」のニュースを見て「円が24年ぶりに最安値を更新した」というニュースを作るのはオッケーだ。

 報道業界のことはよく知らないけど、昔から他社の真似はおこなわれていたようだ。どこかの新聞社が特ダネをとり、その記事を見た他紙があわてて後追い記事を書く。だがそれは記者にとっては恥ずべきことだったようだ。なにしろ、他紙の真似をして記事を書いても新聞が配られるのは一日遅れ(夕刊で書いても半日遅れ)。情報の鮮度としてはかなり古くなっている。

 ところがネットニュースの世界では、他メディアのニュースを見て急いで記事を書けば数分の違いでしかない。各ニュースサイトを並べて読んでいる人はいないから、その差はほぼないに等しい。

「現場に足を運んで取材して書いた記事」と「他のニュースサイトを見てちょっと切り貼りして書いた記事」のどっちが労力がかかるかは言うまでもない。それでほとんど差がない(場合によっては後者のほうがページビューが多くなったりもする)のだから、まともに取材するのがばからしくなるだろう。

 いくらジャーナリズムだ記者魂だといったところで、ニュースが金にならなければどうしようもない。貴族でもなければ金にならないもののために時間と労力を割くことはできない。そして貴族は体制にとって都合の悪いニュースを暴きたくないだろう。




 この先ジャーナリズムは金にならないんだよ。残念だったね。

 ……で終われば話はかんたんなのだが、困ったことに報道が衰退して困るのはぼくたち一般市民なのだ。国がぼくらのお金を良くないことに使ったり、悪いやつが悪いことを続けたり、市民を苦しめる法律ができたりして、困るのはぼくたちだ。

 だから報道機関にはがんばってほしい。報道をしてほしい。

 でも、タダでニュースが読める時代に新聞に金を払いたくない。理想はぼく以外のみんなが新聞社や通信社にお金を払ってくれることなんだけど、みんなが同じように考えているからそうはいかない。


 どうしたらいいんだろうね。


 ひとつ考えたのは、ぼくらがみんな記者になるということ。

 たぶん職業記者はほとんどが食っていけなくなる。記者を専業でやっていくのはむずかしい。

 その代わり、会社員や、フリーターや、学生や、無職の人や、公務員や官僚や政治家らが本業の合間に記者をする。たまたま事件や事故を目にしたり、不正の事実を知ったり、興味のあることについて調べたりしたことを、通信社に報告する。通信社はそのニュースを買いとって記事にする。幸い、ほとんどの人がカメラ付きの通信機器を絶えず携帯している時代だ。ちょっとした小遣い稼ぎになるのなら、ニュースを送ってくれる人は全国津々浦々に山ほどいるだろう。

 限られた数の記者が取材をするよりも、よっぽど広くて深い範囲のニュースが集まるとおもう。現に今だって一部はそうなっている。Twitterでバズったツイートをした人のところには、ウェブやテレビのメディアの記者から「これを記事にしていいですか」と連絡が入る。ちがうのは、無料提供ではなく有料買い取りになるということだ。


 もちろん問題はある。金目当ての偽ニュースが売られたり、あるいは誰かをおとしめるためのフェイクニュースが出回ったりすることだ。

 でもそれは大した問題じゃないとぼくはおもう。だって現在でもすでに偽ニュースが大量に出回っているんだもの。そもそも完全に正しくて中立なニュースなんかどこにもないわけだし。政府広報だって嘘や誰かの意図を含んでいたりするわけだし。

 だから真実も嘘も混ざっているけど、それでもこれがニュースですって言って一般市民から買い取ったニュースを流したらいいんじゃないかな。今までやってたこととそんなに変わらないとおもうけど。


2022年10月21日金曜日

ATMウンコペーパー事件

 ATMをだますための紙切れ、というのを考えたわけですよ。

 ATMがどうやって紙幣を判別しているのか詳しくは知らないが、サイズ、磁気、紋章、すかしなどをチェックしているのだろう。それらはすべてクリアしている紙切れがあるとする。ただし見た目はまったくちがう。たとえば、でかでかとウンコの絵が描かれている。

 要するに「人間にはとうてい紙幣に見えないけど、ATMは一万円札と誤認してしまう紙切れ」だ。

 このウンコペーパーを製造して、ATMのチェックをかいくぐって入金することができたとして、直後に出金して本物の紙幣をせしめた場合、これは罪になるのだろうか?


 刑法第148条には「通貨偽造及び行使等」としてこう書かれている。

(1)行使の目的で、通用する貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
(2)偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入した者も、前項と同様とする。

 はたして、でかでかとウンコが描かれた一万円札と同じサイズの紙切れは、「偽造した紙幣」となるのだろうか?


 ま、なるだろう。まちがいなく。ウンコペーパーをATMにつっこんで、まんまと機械を騙してお金を手にしたのに、官憲が「あーこれはウンコペーパーですね。だったらセーフですね。銀行さんには災難だったとおもって諦めてもらうしかないですね」と許すとはおもえない。

 というわけでまちがいなく捕まるだろうが、そうなると国家が「このウンコペーパーは一万円札を模したものである」と認めたことになる。通貨偽造の罪で問うためにはある程度似ていることが必要になるからね。ぜんぜん似ていないお金では罪に問えない(そうじゃないとお金のおもちゃを作っているメーカーがみんな処罰されてしまう)。

 それはもう「このウンコは福沢諭吉先生のお顔によく似ていらっしゃる」と国が認めたことになるんじゃないの!?

 そうなると慶応義塾大学の関係者もだまってはいない。「福沢諭吉先生がこんなウンコに似ているとは失礼千万。福沢先生はもっと凛々しいウンコ、いやお方にあられるぞ!」と怒鳴りこんでくるにちがいない。


 国としても弱ってしまう。なにしろ慶応義塾大学OBは政財界のあちこちで大きな顔をしている。それがみんなウンコの子弟だったということになれば日本社会は大混乱だ。いくら天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずとはいえ、ウンコまで人と同等に扱うわけにはいかない。


 こうなると刑法第148条の通貨偽造罪の適用はあきらめざるをえない。だがウンコペーパーをATMにつっこんで金をだましとったやつを見逃すわけにはいかない。ウンコは入れるものじゃなくて出すものだ。

 なんかないか、なんかないか、と警察総出で見つけてきたのが昭和22年施行の「すき入紙製造取締法」である。この法律にはこうある。

黒くすき入れた紙又は政府紙幣、日本銀行券、公債証書、収入印紙その他政府の発行する証券にすき入れてある文字若しくは画紋と同一若しくは類似の形態の文字若しくは画紋を白くすき入れた紙は、政府、独立行政法人国立印刷局又は政府の許可を受けた者以外の者は、これを製造してはならない。


 要するに、紙幣とよく似たすかしを入れた紙を製造しただけで罪に問えるのだ。これなら、紙切れの表面が紙幣と似ているかどうかは問題にしなくていい。

 ああよかった。これで慶応一門を敵にまわすことなくウンコペーパー犯をしょっぴけるぞ。

 と胸をなでおろしたのもつかのま、「すき入紙製造取締法」の第3項にはこうあるではないか。

第一項の規定に違反した者は、これを六箇月以下の懲役又は五千円以下の罰金に処する。

 刑法第148条刑法の「無期又は三年以上の懲役」と比べて、ずいぶん量刑が軽い。うーんしかし、この際量刑のことについては目をつぶるしかあるまい。慶応派閥をウンコ派にするわけにはいかないんだし。なるべく大事にしたくないから五千円の罰金で許してやろう。


 というわけで、ウンコペーパーをATMにつっこんで一万円をだましとった男は、五千円の罰金を払って解放されたのでした。とっぴんぱらりのぷう。