2022年9月9日金曜日

【読書感想文】那須 正幹『ぼくらは海へ』 / 希望のない児童文学

ぼくらは海へ

那須 正幹

内容(e-honより)
船作りを思い立った5人の少年。それぞれ複雑な家庭の事情を抱えながらも、冒険への高揚が彼らを駆り立てる。やがて新たな仲間も加わるが―。発表当時、そのラストが多くの子どもの心を揺さぶった巨匠・那須正幹の衝撃作。


 海辺の小屋に集う小学六年生五人。彼らは廃材を利用して船を作りはじめる。幾度もの失敗を経て、そして途中から加わった二人の協力もあり、ついに全員が乗れる立派な船が完成する。

 ……というあらすじだけ見れば、さわやかな冒険小説かとおもうだろう。ところがどっこい。物語は、終始どんよりした雰囲気に包まれている。

 父親不在のため、母親から進学校に進むようプレッシャーをかけられている誠史。病弱な妹のせいで家庭内の雰囲気が暗い雅彰。家は裕福で成績優秀でありながら、家族愛に飢えている邦俊。家庭の事情で引っ越しをくりかえしている勇。そして家が貧しく、家庭内もあれている嗣郎。

『スタンド・バイ・ミー』『グーニーズ』にも似た、それぞれ問題を抱えた少年たちの冒険譚ともいえるが、『ぼくらは海へ』の少年たちはとうとう最後まで心を一つにすることはない。船作りに対する熱意もバラバラだし、邦俊はほとんど協力しない。誠史は嗣郎を見下しており、新たに加わった康彦や茂男は他のメンバーとぎくしゃくしている。

 そして、台風が接近してきたある晩。船の近くに行った嗣郎は暴風によって船が壊れるのを防ごうとした結果、波にさらわれて死んでしまう。


 ぼくは小学生のときにこの本を読んで衝撃を受けた。

『ズッコケ三人組』シリーズの那須正幹さんの作品ということで同様のポップな少年冒険譚を期待して読んだのだが、まったくちがう。

 それまで読んだ児童文学には、主要登場人物が死んでしまう話なんてなかった。だが嗣郎はあっけなく死んでしまう。嗣郎の死は、強いインパクトを与えた。他のシーンはまったくおぼえていなかったが「メンバーのひとりが死んでしまう話」ということだけはずっとおぼえていた。




 さて、おっさんになってから再読してみると、改めて嗣郎の死が残酷な描かれ方をしていることがわかる。

 まず嗣郎が台風の晩に外出をしたきっかけは、酒飲みの父親に怒鳴られたことである。母親は止めるが、強くは止めない。それよりも「父親を怒らせないこと」を重要視しているように見える。両親からないがしろに扱われた結果の死。子どもにとってこんな不幸があるだろうか。

 おまけに彼は死んでも仲間から悲しまれない。船作りをしていた少年たちは校長先生から叱られるのだが、他の少年たちは反省するどころか「運が悪かった」「かかわらなきゃよかった」「嗣郎が死ぬのはぼくが引っ越した後だったらよかったのに」などと、我が身のことばかり考えている。康彦だけは深く反省するものの、彼にしても優等生としての自分の評価に傷が入るのを心配しているふしがある。

 このへんの描写は実にリアルだ。そうなんだよな、子どもって基本的に反省しないんだよな。怒られても「運が悪かった」「あいつのほうが悪いのに」「バレないようにするべきだった」ぐらい。ま、大人もそうか。

 そもそも校長先生の叱り方こそが責任転嫁のためである。児童が死んだのは、他の子らが危ないことをしていたから、担任の教師が危険な場所に立ち入らないように厳しく指導していなかったから、という他責感が随所ににじみ出ている。

 誠史たちのよこには、教頭先生をはじめ、六年生の先生がずらりとならんで、誠史たちをにらみつけていた。嗣郎の担任の中田先生のすがたは見えなかった。
「きみたちのやっていたあぶないあそびが、ひとりの友だちのとうとい命をうばったのですよ。それは、わかっているね。亡くなったのが、たまたま多田くんだったけれど、もしかしたら、ここにいるきみたちのなかのひとりが、死んでいたかもしれない。そうでしょう。」
 校長先生は、ゆっくりとしゃべる。「だいたいあの埋め立て地は、部外者立ち入り禁止じゃないんですか。うちの子どもたちにも、そのへんのところは指導してあったんでしょうねえ。」
 校長先生が、先生のほうに目をむける。教頭先生が、かしこまって口をひらいた。
「はあ、いちおう……。ただ、なにぶん校区外ですので、徹底した指導は……」
「校区の外といっても、うちの校区と隣接した危険地帯ですよ。現に、こうしてうちの子たちが、一年もまえから出入りしていたというじゃありませんか。」
「は、まことに申しわけありません。」

 大人も子どもも、誰も嗣郎の死を本気で悲しんでいない。それより責任をどう押しつけるかのほうが自分にとって大事だ。

 でもまあ、こんなもんだよな。他人の死って。


 少し前にいとこが自殺したんだよ。ぼくの一歳下だったので小さい頃はいっしょに遊んだけど、遠くに住んでいたので会うのは年に一回ぐらい。思春期になってからは会うこともなくなり、もう二十年近く会ってなかったんだけど。

 知らない人じゃないから「そっか……」とはおもったけど、「そっか……」以上の感想は出てこないんだよね。

 もう二十年会ってないからどんな顔してたかもおぼえてないし、生きてたとしても会うのは法事ぐらいだっただろう。だからひどい言い方をすれば、彼が生きていようが死んでいようがぼくの人生にはほとんど影響がない。

 だから「そっか……」。ニュースでどこかの誰かが不幸な死を遂げたのを見たときぐらいの気持ち。

 フィクションの中だと死って仰々しく描かれることが多いけど、じっさいは家族とか恋人とかでなければ「そっか……」ぐらいのもんなのかもしれない。




 嗣郎の死が強い印象を与える作品だが、改めて読んでみるととことんリアリスティックな作品だ。

 メンバーたちの家庭環境、うまくいかない船作り、学校や塾での居心地の悪さなどどこをとっても都合の良いところがない。登場人物たちを甘やかすことなく、かといって理不尽な目に遭わせることもなく、現実に起こりえる範囲の苦境を与えている。「誠史と邦俊が船で海に出るラスト」だけはファンタジーだけどね。

 人間関係もリアルに描かれている。

 船づくりは、埋め立て地の小屋での嗣郎を、いま一歩、連中のなかへくいこませる絶好のチャンスだった。
 いままで必死で四人の顔色をうかがい、おべっかをつかって、なんとか仲間にいれてもらっていたのが、船をつくるうちに、いつのまにか嗣郎を連中と対等にしてしまったのだ。
 こんなにあっさりと自分が、〈できる子〉と対等につきあえるなんて、嗣郎は思ってもいなかった。のこぎりのつかい方がうまいとか、かなづちのあつかい方をこころえているとか、たったそれだけのことで、育英塾にかよっているほどのエリートが、嗣郎のことをみとめてくれるとは思いもよらなかった。

 少年たちの冒険物語というと、なにかと美化されがちだ。自分の少年時代を思い返しても、キラキラした思い出がよみがえってくる。友人たちとひとつになって何かを成し遂げようと懸命になった記憶がよみがえってくる。

 でもそのときの気持ちをじっくり思い返してみると、そんなに単純なものではなかった。嫉妬したり、えらそうにしたり、すねたり、見下したり、意地悪をしたり。ぜんぜん対等じゃなかった。心はひとつじゃなかった。

 こんなに希望のない児童文学を書けるのはすごいとおもう。皮肉でもなんでもなくほんとに。希望がないからこそ届くことってあるもんなあ。


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2022年9月8日木曜日

ジグソーパズル

 九歳の娘がジグソーパズルを好きなのでいっしょにやる。

 ぼくも嫌いじゃない。というかやりだすととまらない。好き、というのとはちょっとちがう。


 なんなんだろう、ジグソーパズルというやつは。

「あんなの何がおもしろいの。ばらばらになった部品をまた組み合わせるだけで生産性ゼロじゃない。時間さえかければ誰にだってできるし、何がおもしろいのかわからない」

という人もいるだろう。その気持ち、わかる。ぼくも何がおもしろいのかまったくわからない。でもおもしろい。やりだすと止まらなくなる。


 ジグソーパズルはやめどきがわからない。風呂が沸くまでの間、ジグソーパズルをする。風呂が沸いたというアナウンスが流れる。けれど止められない。娘に「そろそろお風呂行こっか」と言う。娘が「うん」と言う。しかしふたりとも手が止まらない。あと一個だけはめたら中断しようとおもう。けれど一個はめるとその隣が気になる。ひとつ見つけると次から次に気になるパーツが見つかる。妻が呼びに来る。「早くお風呂入ってよ」と。しかし妻もジグソーパズルのパーツを手に取って「これ、ここじゃないの」とやりだす。こうして風呂が沸いてから三十分たっても家族みんなまだジグソーパズルの前から離れられない。

 わざわざやろうという気にはならない。ジグソーパズルをやっていないときに「あー、無性にジグソーパズルやりたくなってきたー!」とはおもわない。しかしやりだすと止められない。それがジグソーパズルの魔力だ。


 まったく、ジグソーパズルなんて二十一世紀の人間様のやることではない。こんなものはプログラムを組んでコンピュータにやらせる時代だ。我々ホモサピエンスはもっと創造性の高い仕事をしなくてはならない。

 なのに人間はジグソーパズルの前から離れることができない。形や模様が合うものを探してきて並べる。それだけのことに何時間も費やしてしまう。なんて人間は愚かなんだろう。いや、ジグソーパズルが強すぎるのか。




 ジグソーパズルはむずかしくておもしろいのがいい。

 うちには十種類以上のジグソーパズルがある。何度もくりかえし遊ぶものもあれば、一、二回やっただけでそれっきりやっていないものもある。

 その差は「作業の時間が少ないかどうか」だ。


 ジグソーパズルには、たいてい〝作業〟の時間が発生する。

 基本的にジグソーパズルは、
「カドや端のパーツを見つけて組みあわせる」
「特徴的なパーツ(人物など)を見つけて組みあわせる」
「特定の色のパーツを見つけて組みあわせる」
「特徴のある形のパーツを見つけて組みあわせる」
「何の特徴もないパーツを見つけて組みあわせる」
みたいな感じで進行する(もちろんこんなにきれいに分かれていなくてそれぞれがからみあっている状態だが)。

 問題は「何の特徴もないパーツを見つけて組みあわせる」の部分だ。これは〝作業〟である。とにかくひたすら試行錯誤をくりかえすだけ。

 ここがほんとにつまらない。ここの部分だけ時給を払って人にやらせたい。 


 いいパズルは、この〝作業〟の部分が少ない。

 盤面全体にバランスよく人や物が配置されていて「何も描かれていないパーツ」が少ない。空や海のように一見平坦な部分であっても、影が描かれているとか、高度や深度によってグラデーションになっているとか、なんらかの変化がある。

 また、絵柄の少ない部分の形がオーソドックスな「凹凸凹凸」だけではなく「凸凸凸凸」「凹凸凸凸」になっていたりして、手がかりが設けられている。

 こういうパズルはずっとおもしろい。「何も考えずにひたすら試行錯誤」の部分がほとんどないからだ。


 こないだやった『名探偵コナン』のジグソーパズルはよかった。

 1,000ピースとちょっとしたボリュームがあったが、人物が多く描かれていて、それぞれの肌の色、瞳の色、髪の色、眼の形などが似ているようで微妙に異なる。もちろん服の色も異なる。背景部分にもステンドグラス風の模様があしらっていて、細部までノーヒントのパーツがない。

 ジグソーパズルの良し悪しを買う前に見極めるのはむずかしい。たいていは絵柄の好みとかピースの数で選んでしまうが、こういった細部への配慮こそがおもしろさを決めるからだ。

 ジグソーパズルは単純に見えて意外と奥が深いのだ。ただ、何がおもしろいのかはまったくわからないが。


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2022年9月7日水曜日

名づけることで見えてくる

 名づけることで見えてくるものがある。


 たとえば『トマソン』。赤瀬川源平氏が、街中にある役に立たない建造物などを「トマソン」と名付けた(名前の由来は鳴り物入りで来日したけどまったく活躍しなかった外国人野球選手)。

 どこにもつながっていない階段とか、何も防いでいない塀とか、開けられない位置にあるドアなどが『トマソン』だ。

 この命名により、多くの人が「これはトマソンだ」「あれはトマソンじゃないか」と次々にトマソンを発見した。トマソンの命名は今から五十年前だが、今でもTwitterなどで「トマソン」で検索すると、多くの人が「トマソン発見!」とつぶやいている。

 もちろん、命名以前にもトマソンは存在していた。人々は「なんでこんなところに階段があるんだろう」とか「あんなところにドアをつけても無駄じゃないか」とおもっていたはずだ。

 だが、赤瀬川源平氏が『トマソン』という名前を与えたことで、トマソンはより鮮明に人々の前に立ち上がってきた。『トマソン』という言葉を知っている人は、そうでない人に比べて「街の中にある何の役にも立たない建造物」の存在に気づきやすいはずだ。



『レトロニム』という言葉がある。名付けたのはアメリカのジャーナリストだそうだ。

  • 携帯電話が主流になったので、それまで電話と呼んでいたものを「固定電話」と呼ぶようになった
  • 新幹線ができたので、それまでは鉄道と呼んでいたものを「在来線」と呼ぶようになった
みたいな言葉だ。「白黒テレビ」「アナログ時計」「地上波放送」などもレトロニムだ。

 これも、言葉を知らないと気づきにくい。

 ぼくは『レトロニム』という言葉を知っていたせいで、コロナ禍に生まれた〝オフライン飲み会〟や〝ノーマスク会食〟という言葉を聞いて「レトロニムだ!」と気づけた。気づいたからなんだって話だが。


「今までみんなの目に入っていたけど特に意識されなかったもの」に名前をつけるのがうまいのが、みうらじゅん氏だ。

 有名なところだと『マイブーム』『ゆるキャラ』『クソゲー』など。言われてみれば、そういうのってあるよねとおもわせるようなものを見事にカテゴライズして名前を与えている。『ゆるキャラ』なんて、名前を与えられたことで認知されたどころか増殖した。

『クソゲー』もいい。「つまらないゲーム」だと誰も見向きもしないが、『クソゲー』という名前を与えておもしろがったことで逆に愛着が沸くようになった。

『いやげ物』『ムカエマ』なども、誰もが一度は見聞きしたものだがほとんど気にも留めなかっただろう。だがネーミングを与えることで改めてその存在に気づかされる。



 よく言われることだが、日本語には「梅雨」「小雨」「にわか雨」「霧雨」「雷雨」「五月雨」「氷雨」「長雨」「豪雨」「時雨」「春雨」「秋雨」など雨に関する言葉が多いという。だから日本語が豊かだとかいうことはぜんぜんなくて、単に季節の変化がはっきりしていて湿度の高い国だからそうなっただけで、緯度の高い国なら雪に関する言葉が多いだろうし、小島で暮らす民族なら海の状態を指す言葉をたくさん持っているはずだ。

 語彙が増えると、世界の見え方が変わる。いわゆる〝解像度〟が高くなるという現象だ。


 ぼくのおばあちゃんは、名前をつけるのが好きな人だった。無灯火の自転車で走る見知らぬ人を勝手に「ムトウさん」と呼び(ムトウカ走行なので)、ケチな知人のことは「高月さん」(「高くつく」が口癖なので)、うるさい人は「大越(オオゴエ)さん」、強情な人は「片井(カタイ)さん」と呼んでいた。

 きっとおばあちゃんには、街ゆく人々のことがずっと身近に鮮明に見えていたことだろう。


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レトロニム

2022年9月5日月曜日

【読書感想文】パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』 / 民主主義のほうがおもしろい

つっこみ力

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
世の中をよくしていくために、「正しい」議論をしていこう!ってそれは大いにけっこうですけど、でもその議論、実は誰も聞いてなかったりなんかしてません?ちょっと、エンターテイメント性に欠けてない?そこで本書でおすすめするのは四角四面な議論や論理が性にあわない日本人におあつらえ向きの「つっこみ力」。謎の戯作者パオロ・マッツァリーノによる本邦初の「つっこみ力」講演(公演)会、おせんにキャラメルほおばりながら、どうぞ最後までお楽しみくださいませ。


 自称イタリア人のパオロ・マッツァリーノによる、講演(公演)会の形をとった統計漫談。

 パオロ・マッツァリーノ氏の本はこれまでに何度も読んだことがあるが、基本的な話は似たようなものだ。「Aは最近増えた。これはBだからだ」「伝統的にCをやってきた。だからCを絶やしてはならない」「Dが変わった結果Eが悪くなってしまった。Dを戻さなくては」といった世間一般にあふれる言説に対して、統計や各種データをもとに「いやそんなことないぜ」と反論していく形だ。

 氏の本に対するぼくの評価は「話はおもしろいけど内容はあまり残らない」だ。たしかにおもしろい。おもしろいんだけど、ほとんど何も残らない。「〇〇とおもわれていたけど調べた結果ウソでした」という結論になることが多いからね。

 世の中は組み立てる人とぶっ壊す人がいるからこそ成り立っているのだが、パオロ氏は圧倒的に後者だ。先人たちがつくったものをスクラップするのは見ていて楽しい。でも、後に残るのは更地だけ。だから読み終わって「あーおもしろかった」で終わってしまう。

 ま、それはそれでいいんだけど。ただ建設的な話が読みたい人にはおすすめしない。




 氏の本にはそういう傾向があるけど、中でもこの本は特に散漫だ。全体を通してのテーマはないに等しい。一応「世の中に対してつっこみを入れよう。批判じゃなくて楽しくつっこむぜ」ってテーマがあるけど、話があっちこっちに移るので「この人は何が言いたいんだろう?」という気になる。

 エッセイとして読む分にはいいんだけど、仮にも新書として刊行している以上は全体を貫く軸があったほうがいいのにな。




 散漫な話がくりひろげられるので、以下、散漫な感想。

 新聞の読者投稿欄に、定年退職した人が「無職」と書きたがらないことについて。

 さて、投書する際に無職と書くことに抵抗のある見栄っ張りがたくさんいることはわかりましたが、彼らが取る手段としてもっとも多いのは、なにかわかりますか。これがじつは、「元なになに」という肩書きなんです。平成七年だけで八一人あまりの投稿者が元なになにと名乗って掲載されています。そのなかでも一番多いのが、元教師・元校長で、二九人いらっしゃいました。教育問題と関係のないネタでも、元教員と名乗るのですから、教員のみなさんのプライドの高さといったら、尋常ではありません。
 この事実に気づいたのは私だけではなかったようで、平成一一年の四月に、「無職とはなぜか書けない元教師」というスパイスの効いた投稿川柳が掲載されてるんです。これを受けて、さっそく元教師のかたが、じつは自分も疑問に思っていた、と投書を寄せています。このことがきっかけになったのかは定かでありませんが、これ以降、元教師という肩書きが投書欄から姿を消します。その代わり、みなさん「元教員」を名乗るようになりました。なんじゃそりゃ。
 でも、「元」ってのは反則ですよねえ。これが許されるなら、失業中の人は、元会社員と名乗る権利があることになってしまいます。なかには、「前市議」という投書もありました。いつまで過去の栄光にしがみついてぶら下がってたら気がすむんですか。あんたはターザンか。

 はっはっは。「元〇〇」を名乗るのって恥ずかしいねえ。教師としての体験談を語るんならわかるけど、それ以外の話でもずっと「元教師」を引きずって生きてるんだ。みっともないねえ。

 母が自治会の役員をしたとき、
「自治会の役員ってヒマなじいさんがいっぱいいるんだけど、あの人たちは事あるごとに『私は〇〇社の役員をしていた』とか『私は□□大学を出たのだが』とか言うのよ。そんな肩書が自治会で通用するとおもってるのよ。アホだわ」
と言っていた。

 ぼくの見た限り、昔の栄光を引きずるのは圧倒的に男が多い。ちゃんと調べたわけじゃないがまちがいない。女で「私は〇〇大学出身です」「私は〇〇で取締役やってました」とか言ってるのを聞いたことないもんね。そんな肩書をつけてる女なんて「元タカラジェンヌ」と「元インドネシア大統領夫人」ぐらいだ。




 自殺対策と失業率対策のどちらを優先させるか、という話。

 まあ、こういったコワい考えは、かなりうがった見方ですけど、仮に、景気回復によって失業率が低下し、自殺率も下がるという正統派の法則が成り立つにしましても、だから失業率の改善が大事って主張には、どうしても、違和感が残るんです。
 いままさに自殺しようとしている人や、溺れかけてる人にむかって、「おおい、待ってろよー、いま景気を良くしてやるからなー」って、それで人助けをしてるつもりなんです かね。
 景気なんていう、数字の羅列でできた経済の枠組みを維持するのが先決で、切れば血が出る生身の人間は、ついでに救ってやれれば御の字だ、みたいなね、いかにも頭でっかちな優等生が考えそうな、いけすかない考えかたに、私は虫酸が走るんです。
 受験秀才が学者になって社会学とか経済学をやると、川の流れこそが大切で、一滴一滴の水滴はどうでもいいみたいな、マクロ社会理論や社会システム論信仰に走りがちなところがあるんです。私は、どうしてもそこについていけません。ときとして社会科学に人間性が感じられないことがあるのは、人間を信じていない学者が多いからです。

 ふうむ。

 ぼくはどっちかというと「個別の対策よりもマクロな対策を」とおもってしまう側の人間なんだよね。受験秀才だったから。

 でも言われてみれば、マクロな施策が大事だからといってミクロな対策をおろそかにしていい理由にはならない。

 最近もコロナ禍で「感染症対策と景気対策のどちらを優先させるか」という議論をよく耳にした。ほんとはこの問いの立て方自体が誤っているのかもしれないけど。
 そこで「景気対策重視派」は、「景気が悪化すれば失業者が増える。そうすれば感染症で死ぬよりももっと多くの自殺者が出る」という説を唱える。

 一見もっともらしい。でもほんとうだろうか。

 ほんとに景気が悪くなれば自殺者が増えるんだろうか。「景気が悪くなったから死ぬわ」なんて人はひとりもいないだろう。

 景気が悪くなって失業してそれを苦にして自殺するのなら、それは「失業したぐらいで生きていけなくなる社会」こそが問題なんじゃないだろうか。

 不景気に自殺した人は、好景気なら自殺してなかったのだろうか。

 また、感染症対策を強化するのと、対策を緩めて感染拡大させるのとではどっちが景気が悪くなるんだろうか。

 仮に感染症対策を強化すると自殺者が増えるとして、「生きたかった人が感染症で死ぬ社会」と「死にたい人が自殺する社会」ではどっちが経済成長するのだろう。


 答えはぜんぶ「わからない」だ。

 わからない。景気が良くなれば自殺者は減るのか。どうすれば景気が良くなるのか。誰も正解は知らない。

 だったら「効果のわからないマクロな施策」よりも「とりあえず目の前のひとりを救えるミクロな施策」のほうが大事かもしれない。

 少なくとも、生活保護などのセーフティーネットへの予算を削って、「経済成長」なんていうよくわからないもののために金を使うのはまちがっているかもしれない。




 おもしろさは、人それぞれです。ですから、社会をおもしろくするためには、多くの国民の意見に耳を傾けなければなりません。政治家は大変な労力を求められます。でも、それこそが民主主義の精神なわけで、民主主義国家とは、正しい国のことでなく、おもしろい国のことなんです。

 いい言葉だなあ。

 たしかにね。正しさなんてどこにもない。ぼくは民主主義国家で生まれて民主主義国家で育ったから他は知らないけど、どう考えても全体主義国家や権威主義国家よりも民主主義国家のほうがおもしろそうだもんな。まちがいない。

 統治する側としては全体主義のほうが都合がいいから、気を抜くとそっちに傾いてしまいがちだけど(今も「ああこいつほんとは全体主義国家にしたいんだろうな」って政治家いっぱいいるもんね)、どう考えたって民主主義国家のほうが楽しい。

 学校なんかわかりやすい例だよね。バカな教師ほど、全体主義的にしたがる。そっちのほうが楽だから。でもトップクラスの進学校ほど民主的だ。灘高校や麻布高校は私服で髪色も自由。どっちの学校のほうがおもしろいかは考えるまでもない。そしておもしろい学校にはおもしろくて優秀な学生が集まってますます差がつく。


「正しいかどうか」「良いかどうか」ではなく「おもしろいかどうか」を基準に考えることは大事かもね。そうすりゃ自然に民主的になる。


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2022年8月31日水曜日

【読書感想文】東野 圭吾『嘘をもうひとつだけ』 / 小説名手の本領発揮

嘘をもうひとつだけ

東野 圭吾

内容(e-honより)
バレエ団の事務員が自宅マンションのバルコニーから転落、死亡した。事件は自殺で処理の方向に向かっている。だが、同じマンションに住む元プリマ・バレリーナのもとに一人の刑事がやってきた。彼女には殺人動機はなく、疑わしい点はなにもないはずだ。ところが…。人間の悲哀を描く新しい形のミステリー。


 東野圭吾作品ではおなじみ、加賀恭一郎シリーズ。このシリーズは『悪意』『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』『新参者』『赤い指』と今まで五作読んだが、どれもミステリとしてのクオリティが高く、特に『悪意』はぼくが今まで読んだミステリの中でもトップ5に入るほど好きな作品だ。

 ということで「加賀シリーズにハズレなし」とおもっているのだが、この『嘘をもうひとつだけ』もその例に漏れず、質の高い作品が並んだ短篇集だった。


 しかし毎度おもうんだけど、加賀恭一郎はシリーズ通しての主人公とはおもえないほど地味なんだよねえ。もちろん抜群に頭が切れるんだけど、すべてにおいてソツがなさすぎるというか。欠点がなくて人間的魅力に欠ける。

 でも刑事に人間的魅力がないことが欠点になっていないのが東野圭吾氏のすごさだ。このシリーズにおける刑事は、あくまで脇役。主役は犯人たちなのだ。加賀刑事が控えめな存在だからこそ、犯人たちの苦悩や後悔や諦観がしみじみと伝わってくる。そして冴えたトリックも際立つ。

 トリックや謎解きに自信があるからこそ加賀刑事という地味なキャラクターを探偵役に持ってこられるのかもしれない。半端なミステリほど、探偵役が変わった職業についてたり特異なキャラクターだったりするもんね。どの作品とは言いませんが……。




『嘘をもうひとつだけ』に収録されている五篇は、いずれもいたってシンプルな構成だ。容疑者は一人か二人しか出てこないので、真犯人を推理するのは容易だ。容疑者一人(ないし二人)、被害者一人(ないし二人)、探偵役の刑事一人という必要最小限のメンバー構成だ。

 最小の要素で質の高いミステリ作品に仕立てているのだから、作者の力量がよくわかる。東野圭吾さんってもう押しも押されぬ大作家だから今さらこんなこと言うのも恥ずかしいけど、やっぱりすごい作家だよなあ。


 特に感心した短篇が『冷たい灼熱』。

 工作機械メーカーに勤める田沼洋次の妻が殺され、幼い息子が行方不明になった。加賀刑事は田沼洋次を心配するふりをしながらも、彼が犯人ではないかとにらみ捜査をおこなう。だが明らかになったのは意外な事実だった……。

 犯人は容易に想像がつく。加賀刑事が犯人を追い詰めてゆく過程もさほど意外なものではない。やっぱりね。この人が犯人だよね。決め手はまあそんなもんだよね。とおもっていたら……。

 最後にもうひとひねり。おお、そうきたか。一筋縄ではいかないなー。突飛ではあるけれど「もしかしたらこういうこともあるかもしれない」ともおもえるギリギリのリアリティ。鮮やか。そしてすべてをつまびらかにしないラストもオシャレ。


 東野作品は長篇もいいけど短篇もいいね。この短さでエッジの利いたミステリを書ける作家はそうはいまい。短篇にこそ作家の力量が現れるよね。


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