2022年9月5日月曜日

【読書感想文】パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』 / 民主主義のほうがおもしろい

つっこみ力

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
世の中をよくしていくために、「正しい」議論をしていこう!ってそれは大いにけっこうですけど、でもその議論、実は誰も聞いてなかったりなんかしてません?ちょっと、エンターテイメント性に欠けてない?そこで本書でおすすめするのは四角四面な議論や論理が性にあわない日本人におあつらえ向きの「つっこみ力」。謎の戯作者パオロ・マッツァリーノによる本邦初の「つっこみ力」講演(公演)会、おせんにキャラメルほおばりながら、どうぞ最後までお楽しみくださいませ。


 自称イタリア人のパオロ・マッツァリーノによる、講演(公演)会の形をとった統計漫談。

 パオロ・マッツァリーノ氏の本はこれまでに何度も読んだことがあるが、基本的な話は似たようなものだ。「Aは最近増えた。これはBだからだ」「伝統的にCをやってきた。だからCを絶やしてはならない」「Dが変わった結果Eが悪くなってしまった。Dを戻さなくては」といった世間一般にあふれる言説に対して、統計や各種データをもとに「いやそんなことないぜ」と反論していく形だ。

 氏の本に対するぼくの評価は「話はおもしろいけど内容はあまり残らない」だ。たしかにおもしろい。おもしろいんだけど、ほとんど何も残らない。「〇〇とおもわれていたけど調べた結果ウソでした」という結論になることが多いからね。

 世の中は組み立てる人とぶっ壊す人がいるからこそ成り立っているのだが、パオロ氏は圧倒的に後者だ。先人たちがつくったものをスクラップするのは見ていて楽しい。でも、後に残るのは更地だけ。だから読み終わって「あーおもしろかった」で終わってしまう。

 ま、それはそれでいいんだけど。ただ建設的な話が読みたい人にはおすすめしない。




 氏の本にはそういう傾向があるけど、中でもこの本は特に散漫だ。全体を通してのテーマはないに等しい。一応「世の中に対してつっこみを入れよう。批判じゃなくて楽しくつっこむぜ」ってテーマがあるけど、話があっちこっちに移るので「この人は何が言いたいんだろう?」という気になる。

 エッセイとして読む分にはいいんだけど、仮にも新書として刊行している以上は全体を貫く軸があったほうがいいのにな。




 散漫な話がくりひろげられるので、以下、散漫な感想。

 新聞の読者投稿欄に、定年退職した人が「無職」と書きたがらないことについて。

 さて、投書する際に無職と書くことに抵抗のある見栄っ張りがたくさんいることはわかりましたが、彼らが取る手段としてもっとも多いのは、なにかわかりますか。これがじつは、「元なになに」という肩書きなんです。平成七年だけで八一人あまりの投稿者が元なになにと名乗って掲載されています。そのなかでも一番多いのが、元教師・元校長で、二九人いらっしゃいました。教育問題と関係のないネタでも、元教員と名乗るのですから、教員のみなさんのプライドの高さといったら、尋常ではありません。
 この事実に気づいたのは私だけではなかったようで、平成一一年の四月に、「無職とはなぜか書けない元教師」というスパイスの効いた投稿川柳が掲載されてるんです。これを受けて、さっそく元教師のかたが、じつは自分も疑問に思っていた、と投書を寄せています。このことがきっかけになったのかは定かでありませんが、これ以降、元教師という肩書きが投書欄から姿を消します。その代わり、みなさん「元教員」を名乗るようになりました。なんじゃそりゃ。
 でも、「元」ってのは反則ですよねえ。これが許されるなら、失業中の人は、元会社員と名乗る権利があることになってしまいます。なかには、「前市議」という投書もありました。いつまで過去の栄光にしがみついてぶら下がってたら気がすむんですか。あんたはターザンか。

 はっはっは。「元〇〇」を名乗るのって恥ずかしいねえ。教師としての体験談を語るんならわかるけど、それ以外の話でもずっと「元教師」を引きずって生きてるんだ。みっともないねえ。

 母が自治会の役員をしたとき、
「自治会の役員ってヒマなじいさんがいっぱいいるんだけど、あの人たちは事あるごとに『私は〇〇社の役員をしていた』とか『私は□□大学を出たのだが』とか言うのよ。そんな肩書が自治会で通用するとおもってるのよ。アホだわ」
と言っていた。

 ぼくの見た限り、昔の栄光を引きずるのは圧倒的に男が多い。ちゃんと調べたわけじゃないがまちがいない。女で「私は〇〇大学出身です」「私は〇〇で取締役やってました」とか言ってるのを聞いたことないもんね。そんな肩書をつけてる女なんて「元タカラジェンヌ」と「元インドネシア大統領夫人」ぐらいだ。




 自殺対策と失業率対策のどちらを優先させるか、という話。

 まあ、こういったコワい考えは、かなりうがった見方ですけど、仮に、景気回復によって失業率が低下し、自殺率も下がるという正統派の法則が成り立つにしましても、だから失業率の改善が大事って主張には、どうしても、違和感が残るんです。
 いままさに自殺しようとしている人や、溺れかけてる人にむかって、「おおい、待ってろよー、いま景気を良くしてやるからなー」って、それで人助けをしてるつもりなんです かね。
 景気なんていう、数字の羅列でできた経済の枠組みを維持するのが先決で、切れば血が出る生身の人間は、ついでに救ってやれれば御の字だ、みたいなね、いかにも頭でっかちな優等生が考えそうな、いけすかない考えかたに、私は虫酸が走るんです。
 受験秀才が学者になって社会学とか経済学をやると、川の流れこそが大切で、一滴一滴の水滴はどうでもいいみたいな、マクロ社会理論や社会システム論信仰に走りがちなところがあるんです。私は、どうしてもそこについていけません。ときとして社会科学に人間性が感じられないことがあるのは、人間を信じていない学者が多いからです。

 ふうむ。

 ぼくはどっちかというと「個別の対策よりもマクロな対策を」とおもってしまう側の人間なんだよね。受験秀才だったから。

 でも言われてみれば、マクロな施策が大事だからといってミクロな対策をおろそかにしていい理由にはならない。

 最近もコロナ禍で「感染症対策と景気対策のどちらを優先させるか」という議論をよく耳にした。ほんとはこの問いの立て方自体が誤っているのかもしれないけど。
 そこで「景気対策重視派」は、「景気が悪化すれば失業者が増える。そうすれば感染症で死ぬよりももっと多くの自殺者が出る」という説を唱える。

 一見もっともらしい。でもほんとうだろうか。

 ほんとに景気が悪くなれば自殺者が増えるんだろうか。「景気が悪くなったから死ぬわ」なんて人はひとりもいないだろう。

 景気が悪くなって失業してそれを苦にして自殺するのなら、それは「失業したぐらいで生きていけなくなる社会」こそが問題なんじゃないだろうか。

 不景気に自殺した人は、好景気なら自殺してなかったのだろうか。

 また、感染症対策を強化するのと、対策を緩めて感染拡大させるのとではどっちが景気が悪くなるんだろうか。

 仮に感染症対策を強化すると自殺者が増えるとして、「生きたかった人が感染症で死ぬ社会」と「死にたい人が自殺する社会」ではどっちが経済成長するのだろう。


 答えはぜんぶ「わからない」だ。

 わからない。景気が良くなれば自殺者は減るのか。どうすれば景気が良くなるのか。誰も正解は知らない。

 だったら「効果のわからないマクロな施策」よりも「とりあえず目の前のひとりを救えるミクロな施策」のほうが大事かもしれない。

 少なくとも、生活保護などのセーフティーネットへの予算を削って、「経済成長」なんていうよくわからないもののために金を使うのはまちがっているかもしれない。




 おもしろさは、人それぞれです。ですから、社会をおもしろくするためには、多くの国民の意見に耳を傾けなければなりません。政治家は大変な労力を求められます。でも、それこそが民主主義の精神なわけで、民主主義国家とは、正しい国のことでなく、おもしろい国のことなんです。

 いい言葉だなあ。

 たしかにね。正しさなんてどこにもない。ぼくは民主主義国家で生まれて民主主義国家で育ったから他は知らないけど、どう考えても全体主義国家や権威主義国家よりも民主主義国家のほうがおもしろそうだもんな。まちがいない。

 統治する側としては全体主義のほうが都合がいいから、気を抜くとそっちに傾いてしまいがちだけど(今も「ああこいつほんとは全体主義国家にしたいんだろうな」って政治家いっぱいいるもんね)、どう考えたって民主主義国家のほうが楽しい。

 学校なんかわかりやすい例だよね。バカな教師ほど、全体主義的にしたがる。そっちのほうが楽だから。でもトップクラスの進学校ほど民主的だ。灘高校や麻布高校は私服で髪色も自由。どっちの学校のほうがおもしろいかは考えるまでもない。そしておもしろい学校にはおもしろくて優秀な学生が集まってますます差がつく。


「正しいかどうか」「良いかどうか」ではなく「おもしろいかどうか」を基準に考えることは大事かもね。そうすりゃ自然に民主的になる。


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2022年8月31日水曜日

【読書感想文】東野 圭吾『嘘をもうひとつだけ』 / 小説名手の本領発揮

嘘をもうひとつだけ

東野 圭吾

内容(e-honより)
バレエ団の事務員が自宅マンションのバルコニーから転落、死亡した。事件は自殺で処理の方向に向かっている。だが、同じマンションに住む元プリマ・バレリーナのもとに一人の刑事がやってきた。彼女には殺人動機はなく、疑わしい点はなにもないはずだ。ところが…。人間の悲哀を描く新しい形のミステリー。


 東野圭吾作品ではおなじみ、加賀恭一郎シリーズ。このシリーズは『悪意』『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』『新参者』『赤い指』と今まで五作読んだが、どれもミステリとしてのクオリティが高く、特に『悪意』はぼくが今まで読んだミステリの中でもトップ5に入るほど好きな作品だ。

 ということで「加賀シリーズにハズレなし」とおもっているのだが、この『嘘をもうひとつだけ』もその例に漏れず、質の高い作品が並んだ短篇集だった。


 しかし毎度おもうんだけど、加賀恭一郎はシリーズ通しての主人公とはおもえないほど地味なんだよねえ。もちろん抜群に頭が切れるんだけど、すべてにおいてソツがなさすぎるというか。欠点がなくて人間的魅力に欠ける。

 でも刑事に人間的魅力がないことが欠点になっていないのが東野圭吾氏のすごさだ。このシリーズにおける刑事は、あくまで脇役。主役は犯人たちなのだ。加賀刑事が控えめな存在だからこそ、犯人たちの苦悩や後悔や諦観がしみじみと伝わってくる。そして冴えたトリックも際立つ。

 トリックや謎解きに自信があるからこそ加賀刑事という地味なキャラクターを探偵役に持ってこられるのかもしれない。半端なミステリほど、探偵役が変わった職業についてたり特異なキャラクターだったりするもんね。どの作品とは言いませんが……。




『嘘をもうひとつだけ』に収録されている五篇は、いずれもいたってシンプルな構成だ。容疑者は一人か二人しか出てこないので、真犯人を推理するのは容易だ。容疑者一人(ないし二人)、被害者一人(ないし二人)、探偵役の刑事一人という必要最小限のメンバー構成だ。

 最小の要素で質の高いミステリ作品に仕立てているのだから、作者の力量がよくわかる。東野圭吾さんってもう押しも押されぬ大作家だから今さらこんなこと言うのも恥ずかしいけど、やっぱりすごい作家だよなあ。


 特に感心した短篇が『冷たい灼熱』。

 工作機械メーカーに勤める田沼洋次の妻が殺され、幼い息子が行方不明になった。加賀刑事は田沼洋次を心配するふりをしながらも、彼が犯人ではないかとにらみ捜査をおこなう。だが明らかになったのは意外な事実だった……。

 犯人は容易に想像がつく。加賀刑事が犯人を追い詰めてゆく過程もさほど意外なものではない。やっぱりね。この人が犯人だよね。決め手はまあそんなもんだよね。とおもっていたら……。

 最後にもうひとひねり。おお、そうきたか。一筋縄ではいかないなー。突飛ではあるけれど「もしかしたらこういうこともあるかもしれない」ともおもえるギリギリのリアリティ。鮮やか。そしてすべてをつまびらかにしないラストもオシャレ。


 東野作品は長篇もいいけど短篇もいいね。この短さでエッジの利いたミステリを書ける作家はそうはいまい。短篇にこそ作家の力量が現れるよね。


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2022年8月30日火曜日

【読書感想文】手書き地図推進委員会『地元を再発見する! 手書き地図のつくり方』 / 地図は表現手法 

地元を再発見する! 手書き地図のつくり方

手書き地図推進委員会

内容(e-honより)
まちおこしや地域学習の現場で、誰でも気軽に参加できると密かに人気を集める手書き地図ワークショップ。絵が描けなくても大丈夫!懐かしい思い出、等身大の日常、ウワサ話に空想妄想何でもアリな楽しみ方、きらりと光るまちのキャラクターを見つけるノウハウを豊富な事例で解説。自治体・まちづくり・地域教育関係者必読!

 小三の娘が地図を好きなので、地図のおもしろさに触れられるような本はないかなーと探してこの本を買ったのだが……。

 うーん、ぼくの求めている本ではなかったな。ぼくが欲していたのは、もっと技術的な内容だった。縮尺とか地図記号とか距離測定の方法とか。

 でもこの本にそういう情報はまるで書かれていなかった。よく調べずに買っちゃったぼくが悪いんだけど。




 この本で紹介されているのは、まちおこしや社員研修や地域の結束強化を目的として、手書き地図作りを通して親睦を深める方法だ。ぼくのいちばん嫌いなやつだ。

 嫌なんだよねえ。こういう、強制的に誰かとの共同作業をさせられるやつ。就活のときのグループワークとか会社の親睦会とか大っ嫌いだったなあ。学校の文化祭とかもちゃんと取り組んだことない。教室のすみっこで、気の合う友人と勝手に別の展示物を作ったりしてた。

 だから「地域住民の結束を深めるためにいっしょに手書き地図作りをしましょう」なんてイベントがあってもぼくはぜったいに参加しない。一日拘束されて三万円もらえるんならやってやってもいいかな、それぐらいのレベルだ。

 なのでこの本で書かれている「当初は遠慮がちだったメンバーが、グループワークを通して打ち解けた事例」なんかを読んでいるとしらじらしい気持ちになる。いや、いいんだけど。こういうの好きな人が勝手にやれば。個人的に嫌いなだけで、好きな人を否定するつもりはないけど。


 そんな人間なので、この本を書いた人たち(「ワークショップを通して地域住民の絆が深まれば素敵ですよね☆」と素直におもえる人たちとはできればお近づきになりたくないなあという気持ちで読んだのだった。くりかえしになるけど、いいんですよ。ぼくと関係ないところでやってる分には。




「手書き地図制作を通して交流を深める」にはまったく食指が伸びなかったけど、手書き地図作り自体はおもしろそうだとおもった。

 縮尺の正しさはあまり気にせず、見て欲しい部分だけを極端に大きくする。すべての情報を公平で網羅的に載せる必要がないのも、手書き地図のいいところ。なにしろ、編集長は作者その人なのだから、自由でいいのです。これまで取材してきた日本各地の手書き地図の作者も、皆一様に同じことを口にしているのが興味深い。曰く、「だって、自分が載せたいものだけにしたいんだもん!」
 1枚の地図にあらゆる情報を公平に載せるのではなく、偏愛的に載せたいことだけを堂々と書き込む。すると、その地図で伝えたいこと(テーマ)がハッキリしてくるわけです。ほかに伝えたいことがあるのなら、別の地図をまたつくればいいじゃん、という割り切りが大事なんですね。

 国土地理院やゼンリンの地図は正確であることが求められるけど、手書き地図はそうではない。正しさ、間違いがないことよりも、制作者の意図のほうが大事なのだ。

 つまり、手書き地図というのは「情報」ではなく「表現技法」なのだ。小説、詩、俳句、短歌、絵画、歌、ダンス、陶芸、ツイートなど人によって表現手段はさまざまだけど、地図もそのひとつなのだ。

 もちろん地図の「読み手」とは、地図を手に取ってくれる人のことですね。来街する観光客やそこに住んでいる大人や子ども、または通勤する会社で働く人など、つくった地図を見てもらいたいすべての人のことを考えてつくります。ではなぜ、手書き地図で読み手を意識しなくてはいけないのでしょう。一般的な地図の場合は「目的地に到達するための手段や今いる場所を知るためのもの」なので、読み手は「地図で目的地などを探している人」と位置づけることができます。しかし手書き地図の場合、読み手が期待するのは正確な位置情報ではありません。「書き手(=あなた)」の視点を借りて、地域の暮らしぶりや魅力を知りたいという「読み物」に近い期待が存在します。そんな読み手の期待に応えようとつくられた地図には、無機質な位置情報だけでなく、書き手の伝えたいまちの個性がはっきりと浮き上がってきます。


 今和泉隆行さんという人がいる。「地理人」という名前でも活動していて、この人は何十年も〝架空地図〟を作り続けている。

 非常に「ありそうな」町の地図を描いているのだが、ただありそうなだけではなく、きっとそこには今和泉さんの都市に対する願望だったり、かつて住んだ街への郷愁だったりが投影されていることだろう。

 これなんかまさに、地図を表現手法として使っている例だ。




 たぶん多くの人が、子どもの頃に地図を描いたことだろう。住んでいる町や、学校内の地図や、宝の地図など。

 でもいつしか地図を描かなくなった。最近はGoogleマップでかんたんに指定した場所の地図を切り取ることができるので余計に。

 でも地図作りはおもしろい。まるで冒険をしているようにわくわくする。

 今度、娘やその友だちといっしょに地図作りをやってみようかな。


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【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』

おまえは都道府県のサイズ感をつかめていない



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2022年8月29日月曜日

いちぶんがく その15

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



年間一〇億ドルも消費するのは難しい。

(エマニュエル・サエズ(著) ガブリエル・ズックマン(著) 山田 美明(訳)『つくられた格差~不公平税制が生んだ所得の不平等~』より)





『俺』は俺の声を聞いた。

(東野 圭吾『パラレルワールド・ラブストーリー』より)




景気が悪くなると、この国粋主義の思想が、幅をきかせるようになります。

(ピーター・フランクル『ピーター流生き方のすすめ』より)




「ちょっとした不注意があり、今はお庭で固まってらっしゃいます」

(乙一『平面いぬ。』より)




「楽をしたいんですよ、おれは」

(小野寺 史宜『ひと』より)




「これまで、若い女ってことでいっぱい楽しいことがあったけど、それももう終わりなのかなあって」

(奥田 英朗『ガール』より)




「おれは、指の数少ないさかい、なおさらや」

(廣末 登『ヤクザになる理由』より)




じゃあどうすればいいかと言われても、わからない。

(村上 龍『「わたしは甘えているのでしょうか?」(27歳・OL)』より)




また「タバコは健康に悪い」と言う人がいるが、どう考えてもやり投げの方が体に悪い。

(上原 善広『一投に賭ける ~溝口和洋、最後の無頼派アスリート~』より)




ギャンブルをやめるためのギャンブル。

吉田 修一『犯罪小説集』より)




 その他のいちぶんがく


2022年8月26日金曜日

【読書感想文】クロード・スティール『ステレオタイプの科学』 / 東北代表がなかなか優勝できなかった理由かもしれない

ステレオタイプの科学

「社会の刷り込み」は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか

クロード・スティール (著)  藤原 朝子(訳)

内容(英治出版HPより)
女性は数学が苦手、男性はケア職に向いていない、白人は差別に鈍感、年寄は記憶力が悪い……
「できない」と言われると、人は本当にできなくなってしまう。
本人も無自覚のうちに社会の刷り込みを内面化し、パフォーマンスが下がってしまう現象「ステレオタイプ脅威」。
社会心理学者が、そのメカニズムと対処法を解明する。


 アメリカの大学で奇妙な現象が起きていた。入学後に黒人や女子学生の数学の成績が悪くなるのだ。「黒人や女子は数学が苦手」という単純な話ではない。入学前は同じくらいの学力だった白人男子学生と比べても、なぜか黒人や女子だけが入学後に成績が悪くなるのだ……。


 著者は、実験を重ねて「ステレオタイプ脅威」が原因であることを突き止める。

 ステレオタイプ脅威とは、

「黒人は知的能力が低い」「女は理数系科目が苦手」「白人は黒人よりも運動能力が低い」など、世間一般に広まるステレオタイプがある(この際そのステレオタイプの真偽は問わない)。ステレオタイプによって一般的に不利とされる属性の人が難しい課題に挑戦したとき、そのステレオタイプによって委縮してしまい実力が十分に発揮できなくなる……。

という仮説だ。いったん「苦手」とおもわれてしまうと、本当に苦手になってしまうのだ。ステレオタイプによってステレオタイプが真実になってしまう。いってみればステレオタイプの自己実現化だ。




 はたして〝ステレオタイプ脅威〟は真実なのか。筆者は、条件を変えて様々なテストを試みる。その結果、ステレオタイプを強く意識させられた学生のほうが、そのステレオタイプ通りの結果を生んでしまった。

 結果は素晴らしかった。明確な答えが得られた。テスト前に、「このテストの結果には性差がある」と言われた(したがってステレオタイプを追認する脅威にさらされた)女子学生の点数は、同等の基礎学力の男子学生よりも低かった。これに対して、「このテストの結果に性差はない」と説明を受けた(したがって女性であることとの関連性の一切を追認する脅威から解放された)女子学生の点数は、基礎学力が同レベルの男子学生の点数と同等だった。女性の成績不振は消えてなくなったのだ。

「女子は数学が苦手だ」と何度も言われていると、ほんとに苦手になってしまうのだ。


 これに近い現象を、ぼくは高校野球において見てきた。

 今年(2022年)高校野球選手権大会で宮城県代表の仙台育英高校が優勝した。春夏あわせて200回近い大会をおこなってきた全国大会で、なんと史上初めての東北勢の優勝である。それまでずっと東北代表は優勝できなかった。

 はたして東北の高校はそんなに弱かったのだろうか。そんなことはないとぼくはおもう。

 たしかに昔は弱かった。雪によって冬季に屋外練習ができないこと、そもそも野球文化が近畿や中国・四国ほど根付いていなかったこともある。1915年の第1回大会で秋田中が準優勝してから、次に東北勢が決勝に進出するのは1969年。なんと54年も間隔があいている。その後も苦戦が続く。

 しかし2001年春に仙台育英が決勝に進出してからは、2003年夏、2009年春、2011年夏、2012年春、2012年夏、2015年夏、2018年夏と21世紀に入ってからは8回も決勝進出している。ぜんぜん弱くない。にもかかわらずあと一歩のところで東北勢は涙を呑んできた。なんと決勝での成績は0勝12敗。13回目の決勝戦にしてようやく勝利を挙げたのだ。

 甲子園の決勝戦までいくと、両チームともほとんど力の差はない。当然ながら実力があるからこそ勝ち上がってきたのだし、厳しいスケジュールの試合を勝ち抜いてきているので両チームとも万全の状態ではない。「どっちが勝ってもおかしくない」という状況がほとんどだ。にもかかわらず0勝12敗。これはもう偶然では片づけられない。何か別の力がはたらいているとしかおもえない。

 この本を読んで、東北代表が甲子園決勝で勝てなかった理由のひとつが〝ステレオタイプ脅威〟だったんじゃないかとぼくはおもった(それだけが原因ではないにせよ)。

 ずっと「東北代表は弱い」「東北勢は決勝で勝てない」とおもわれてきた。そのステレオタイプこそが、当の東北代表を(選手たちも気づかぬうちに)委縮させ、負けさせてきたのではないだろうか(あくまで個人の見解です)。




 ステレオタイプ脅威は、パフォーマンスの低下を招くだけでなく、回避行動となって現れることがある。たとえば飛行機の座席に黒人が座っていて、その隣が空いている。

 だが多くの白人はそこに座らない。それは差別意識からというより、むしろ恐れからの行動だと著者は言う。

「黒人が白人に差別される」ニュースを多く見聞きしているうちに、「白人は差別に無自覚で人種差別的な行動をとってしまう」というステレオタイプを持ってしまう。そのステレオタイプ通り、自分も差別的な行動をとってしまうのではないかと警戒し、黒人と近づくことを回避してしまうというのだ。


 似た経験がある。

 たとえば電車で若い女性の隣の席が空いているとき。ぼくのようなおっさんは座るのを躊躇してしまう。痴漢とおもわれるのではないだろうか、下心から近づいたとおもわれるのではないだろうか、そういう意識がはたらいて、わざわざおじさんの隣の席を選んでしまう(ほんとは女性の隣に座りたいけど)。

 これもステレオタイプ脅威、なのかな? それとも単に「嫌われたくない」という意識で、ステレオタイプ脅威ではないのだろうか?




 ステレオタイプ脅威は、良い方にも作用する。

 たとえば、アメリカにおいて女性は数学が苦手とされている一方で、アジア人は数学が得意とされている。

 そこで、アジア系女子大学生たちを集めてテストを受けてもらった。事前のアンケートによって女性であることを意識させられた被験者は数学テストの成績が下がり、逆にアジア系であることを意識させられた被験者の成績は向上した。

 つまり、うまく使いこなせば高いパフォーマンスを発揮できるようになるのだ。

 ステレオタイプ脅威は一般的な現象だ。いつでも、誰にでも起きうる。自分のアイデンティティに関するネガティブなステレオタイプは、自分の周囲の空気に漂っている。そのような状況では、自分がそれに基づき評価されたり、扱われたりする可能性がある。特に自分が大いに努力した分野では、脅威は大きくなる。だから、そのステレオタイプを否定するか、自分には当てはまらないことを証明しようとする。あるいはそのような脅威に対峙しなければならない場面そのものを回避する。(中略)自分の経験を振り返って、プレッシャーの存在を認識するのは難しいが、本書で述べてきたように、アイデンティティを現実のものにしているのは、まさにこうしたプレッシャーなのだ。


 ステレオタイプ脅威の説明からその裏付け、対策方法まで書かれているんだけど、とにかく長ったらしい。10ページぐらいにぎゅっと濃縮しても内容はほとんど変わらない気がする。

「社会心理学者ってこんな実験手法をとるんだー」ってわかることはちょっとおもしろかったけど、この内容でここまでの分量はいらなかったな。論文じゃないんだから。


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