2022年4月22日金曜日

【読書感想文】M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち ~虚偽と邪悪の心理学~』/意志の強い人間には要注意

平気でうそをつく人たち

虚偽と邪悪の心理学

M・スコット・ペック(著)  森 英明(訳)

内容(e-honより)
世の中には平気で人を欺いて陥れる“邪悪な人間”がいる。そして、彼らには罪悪感というものがない―精神科医でカウンセラーを務める著者が診察室で出会った、虚偽に満ちた邪悪な心をもつ人たちとの会話を再現し、その巧妙な自己正当化のための嘘の手口と強烈なナルシシズムを浮き彫りにしていく。人間の悪を初めて科学的に究明した本書は、人の心の闇に迫り、人間心理の固定概念をくつがえした大ベストセラー作品である。

 アメリカでの刊行が1983年、日本語訳の発表が1996年。精神科医による「邪悪な人たち」についての考察。

 ちなみに原書では宗教(キリスト教福音派)色が濃い内容だったが、邦訳時にそのへんは一部カットされたらしい。とはいえ、当然のように「神に背く行動」なんて言い回しも出てくる。多くのアメリカ人にとってキリスト教は切っても切り離せないものらしい。

 過去数百年にわたってキリスト教布教を口実に信者がさんざん邪悪なことをしてきたくせに信仰を絶対的な善としてとらえることができる(そして神に背く=邪悪とみなす)神経がぼくからすると理解できないんだけどなあ。キリスト教が悪とはいわんけど、時と場合によっちゃあ悪にもなりうるとは想像すらしないんだろうか?




 我々はついつい「世の中には悪いやつがいる」と考えてしまう。それは事実だが、正確な言い回しではないかもしれない。どちらかといえば「世の中には悪くないやつがいる」のほうが正確かもしれない。

 たとえば悪の問題は、善の問題と切り離して考えることがまず不可能なものである。この世に善がなければ、われわれは悪の問題を考えることすらしないはずである。私はこれまで、「この世になぜ悪があるのか」といった質問を患者や知人から受けたことは何度かある。ところが、「この世になぜ善があるのか」という質問を発した人はこれまでいない。これは奇妙なことである。あたかもわれわれは、この世は本来的に善の世界であって、なんらかの原因によって悪に汚染されているのだ、という前提に立って考えているかのようである。しかし、われわれの持っている科学的知識をもとにして考えるならは実際には悪を説明するほうが善を説明するよりも容易である。物が腐敗するということは、自然科学の法則に従って説明可能なことである。しかし、生命がより複雑なかたちに発展するということは、それほど容易に理解できることではない。

 何も持たない人が短期間で大金を稼ごうとおもったら「他人から(非合法または非合法すれすれな手段で)奪う」がほぼ唯一の解になる。
 だからひったくりや詐欺やネットワークビジネスはいつまでたってもなくならない。

 りんごの樹を育てて果樹がなるまで待つよりも他人のりんごを盗むほうがかんたん、自分のスキルを上げてプリマ・ドンナになるよりも主役の靴に画鋲を入れるほうが楽、何か月もバイト代を貯めるよりも盗んだバイクで走りだすほうがすぐにストレス発散できる。

「悪」はいちばん手っ取り早い手段なのだ。だからこそ人は「悪」に手を染めるし、「悪」は法によって取り締まられる。ごくごく自然なことだ。動物だって、エサが十分にないときは遠くにエサを獲りにいくよりも近くにいる愚鈍で弱いやつから奪うほうを選ぶだろう(そもそもそれを「悪」とおもうのは人間ぐらいだろうが)。

 だから、人間が「悪」に走るのはふしぎなことではない。どちらかといえば、「悪」を選ぶことで不利益がまったくない(または少ない)場合にも「悪」に走らない人間がいることのほうがふしぎだ。




 人間は多かれ少なかれ悪である。聖人の代名詞であるかのように語られるマホトマ・ガンディーだって若い頃は相当ヤンチャしてたらしいし。

 とはいえ限度はある。度を超えて邪悪な人というのも世の中には存在する。自分が10のものを得るためなら他人が100失ってもかまわないと考えるような人が。

 そういう人は心理療法でなんとかできればいいのだが、現実的にはむずかしいようだ。

 無念としか言いようのないことではあるが、心理療法の患者として最も治療の容易な人、心理療法の恩恵を最も受けやすい人というのは、現実には最も健全な人――つまり、最も誠実、正直で、思考パターンがほとんどゆがめられていない人である。これとは逆に、患者の症状が重ければ重いほど――つまり、その行動が不誠実、不正直であればあるほど、また、その思考がゆがんでいればいるほど―治療が成功する可能性は小さくなる。そのゆがみや不誠実さの程度が極端な場合には、治療は不可能にすらなる。(中略)心理療法の親密な関係においてこうした患者に働きかけようとした場合、膨大なうそや、ゆがめられた動機、ねじくれたコミュニケーションの迷路にわれわれ施療者のほうがひきずりこまれ、文字どおり圧倒されてしまうのである。こうした患者を病の泥沼から救いだそうというわれわれの試みが失敗するというだけでなく、われわれ自身がその泥沼にひきずりこまれかねない、という危険をきわめて正確に感じるのが普通である。この種の患者を救うにはわれわれはあまりにも非力である。われわれが迷いこむゆがんだ回廊の行き先を知るには、われわれはあまりにも無知である。彼らの憎悪に対抗して愛を維持するには、われわれはあまりにも小さな存在である。

 心理療法の成功には患者の協力が必要不可欠だが、悪意を持っている人の場合は協力しないばかりか、治療者を騙したり危害を加えたりする。
 それどころか、そもそも精神科医のもとに来てくれないという問題があるだろう。上司からのパワハラで心を痛めつけられた人は精神科に来てくれるだろうが、より治療の必要性があるのはパワハラで部下を精神的に追い詰める上司のほうだ。しかしこういう人は自分から精神科には来てくれないだろう。かといって無理やり連れてくるわけにもいかない。

 結局、他人に精神的に危害を与えるような人物のことは分析することはできても、考えを改めさせることはできない。「逃げる」が、そういった人物に対峙するためのほぼ唯一の答えのようだ。残念ながら。




「意志の強さ」について。

 悪性のナルシシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意志である。精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、あるいはほかのかたちの理想であれ、自分よりも高いものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものではなく、真実であるものを信じる。自分の愛する者が必要としているものが、自分自身の満足よりも重要だと考える。要するに、精神的に健全な人は、程度の差こそあれ、自分自身の良心の要求するものに従うものである。ところが、邪悪な人たちはそうはしない。自分の罪悪感と自分の意志とが衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。
 邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志を持った男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。

 なるほどなあ。意志が強い、って肯定的にとらえられることが多いけど、たしかにフィクションでも孫悟空とかルフィとかの強靭な意志の持ち主ってやべーやつ多いもんな。協調性ないし、人を傷つけることにまったく罪悪感おぼえてないし。

 ふつの人間は、迷ったり、後悔したり、諦めたりする。それは自己の信念と他者との間に軋轢が生じたときに、他者にあわせようとするからだ。
 ところが世の中には自己の信念を優先させる人間もいる。「意志が強い」とみなされる人間だ。自己の考えを優先させるということは、他者をねじまげることに躊躇がないということだ。他人を傷つけ、支配することになる。

「知能の高いサイコパスは経営者や組織のリーダーなど支配的立場に就きやすい」と訊いたが、つまりはそういうことなんだよな。

 もちろん「意志が強いなら邪悪である」ではないけど、「邪悪であるなら意志が強い」はわりと真だとおもう。


 この本には、やはり異常な(他人をふりまわすことに抵抗を感じない)女性が紹介されている。彼女は、新しい職場に不安を感じないという。

「私だったら、新しい仕事につく前の日は不安になるね。とくに、これまでに何度もクビになった経験があればね。こんどの仕事でうまくやれるかどうか、心配になるはずだ。というより、自分がよく知らない新しい状況に置かれようとしているときには、いつでも多少は不安になるもんだ」
「でも、私には仕事のやり方がわかってるんです」彼女はこう反論した。
 私はあぜんとして彼女の顔を見た。「まだ始まってもいない仕事のやり方がわかるはずないじゃないか」
「こんどの仕事は、精神遅滞の人たちの入る州立養護学校の助手の仕事です。そこにいる人たちは、みんな子供みたいな人たちだって、その学校の人は言ってました。私には子供の世話のしかたはわかってます。妹がいますし、日曜学校の先生もしたことがありますから」
 この問題をもっと深く探っていくうちに、シャーリーンは新しい状況に置かれてもけっして不安を感じることがない、ということがしだいにわかってきた。というのは、彼女には、つねに前もってやり方がわかっているからである。そして、そのやり方というのは、彼女が自分でつくった規則に従ったものだからである。それが自分流のやり方で、雇い主のやり方とは違っている、などということは彼女は意に介しない。また、それによって当然のことながら混乱が生じる、などということも意に介していない。あらかじめ自分が決めているやり方で仕事を進め、雇い主が望んでいるやり方はまったく無視する。同じ職場で働いている人たちがどうして自分に腹を立てるようになるのか、また、じきに、あからさまに怒りを表すことはないにしても、自分にたいしてうんざりしたような態度をとるようになるのか、彼女はまったく理解していない。「みんな意地悪な人たちだわ」彼女はこう説明する。彼女は、私もまた意地悪な人間だと何度も文句を言っている。シャーリーンは、親切、優しさというものに大きな重きをおいている。

 ぼくは「自信に満ちあふれた人」が苦手なのだが、その理由がこれでわかった。そうか。自信がみなぎっている人というのは、相手にあわせる気がない人なのだ。衝突してもおかまいなしに我を通す人。相手にあわせる気がないから、環境が変わっても不安に感じることもない。

 ほら、いるじゃない、クラス替え直後にめちゃくちゃ親しげに話しかけてくるやつ。最初は「気さくでいいやつ」とおもってたけど、日を追うごとにうっとうしさが鼻につくようになるやつ。ああいうのもこのタイプなんだろうね。




 自信たっぷりで、意志が強くて、初対面の人にも気さくに話しかけるタイプ。こういうのが、他人を平気で傷つけるやつであることが多い(もちろんそうじゃないのもいるけど)。

 卑屈で、意志薄弱で、おどおどして生きていくやつのほうが信用できるぜ! ……とはならんけどね、やっぱり。


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2022年4月21日木曜日

【読書感想文】東野 圭吾『マスカレード・ホテル』/ 鮮やかすぎる伏線回収

マスカレード・ホテル

東野 圭吾

内容(e-honより)
都内で起きた不可解な連続殺人事件。容疑者もターゲットも不明。残された暗号から判明したのは、次の犯行場所が一流ホテル・コルテシア東京ということのみ。若き刑事・新田浩介は、ホテルマンに化けて潜入捜査に就くことを命じられる。彼を教育するのは、女性フロントクラークの山岸尚美。次から次へと怪しげな客たちが訪れる中、二人は真相に辿り着けるのか!?いま幕が開く傑作新シリーズ。


 ここ十年か二十年ぐらいかなあ、急激に増えたじゃない。「お仕事がんばる女性小説」が。

 慣れない仕事に戸惑い苦労しながらも、優しい先輩やお客様からの感謝の言葉に助けられ、少しずつ成長する若い女性を描いた朝ドラのような小説。その職業に関する蘊蓄と、そよ風のようなユーモアらしきものがちりばめられた小説。たいがいクソつまらない小説。あっ、ごめんなさい、クソつまらない「お仕事がんばる女性小説」を濫造してる出版社のみなさん。


「お仕事がんばる女性小説は鬼門」という認識があったので『マスカレード・ホテル』を読みはじめてすぐに「おっと、ホテルで働く女性が主人公か……」と身構えたのだが、すぐに杞憂だとわかった。さすがは東野圭吾氏。お仕事がんばる女性を主人公にしながら、ちゃあんとおもしろい。


「連続殺人事件が発生。犯人の殺害予告から、次の事件は一流ホテル・コルテシア東京で発生する可能性が高いことがわかった。だが容疑者はもちろん日時も被害者も不明。そこで刑事がホテルマンの恰好をして潜入することになる」
という少々無理のある設定。だが強引なのは最初だけで、以降は細かい設定を貼りつつ丁寧に話を進めていく。

 ホテルマン蘊蓄なんかも入れてくるのだが、それが単なる蘊蓄披露にとどまらない。ちゃんとストーリーに活かされている。
 おまけに細かいエピソードのどれひとつとっても無駄がない。ちょっとしたエピソードなのだが、
「この一件のおかげで登場人物の性格がわかる」
「この一件のおかげで主人公の心境が変化する」
「この一件のおかげで殺人事件を推理するヒントが見つかる」
といったぐあいに、すべてがゴールに向かって有機的につながっている。

「ホテルマンのお仕事」はあくまでストーリーを進めるための背景であって、「連続殺人事件の犯人逮捕」という大筋がしっかりしているから読みやすい。「お仕事がんばる女性小説」の多くは逆で、仕事情報を書くためにストーリーがあるんだよね。だからつまらない。




 この小説はシリーズ化されたり映画化されたりしているそうだが、読んでいて映像化に向いているなあとつくづくおもう。

 なんといっても「刑事がホテルマンになる」という設定が秀逸。現実にはありえないが、その非現実さを補って余りあるほどのギャップのおもしろさがある。

「すべてにおいてです。私はこの世界に入った時、感謝の気持ちを忘れるなと教えられました。お客様への感謝の気持ちがあれば、的確な応対、会話、礼儀、笑みなどは、特に訓練されなくても身体から滲み出てくるからです」
「その通りだね」
「ところがあの方は……いえ、おそらく警察官という人種は、他人を疑いの目でしか見ないのだと思います。この人物は何か悪いことをするのではないか、何か企んでいるのではないかという具合に、常に目を光らせているのです。考えてみれば当然です。それが職業なのですから。でも、そんなふうにしか人を見ることができない人間に、お客様への感謝の気持ちを忘れるなといっても無理です」

 刑事と接客というのは正反対の仕事だ。

 犯罪者を相手にして、目の前の相手を喜ばせる必要なんかまったくなく、ときには暴力も行使する必要のある刑事。優秀な刑事ほど接客には向いていないだろう。

 そして、接客業の中でも最高のサービスが求められるホテル。特に一流のホテルではマニュアルよりも「お客様を不快にさせない」ことが優先され、ルールを超えたホスピタリティあふれる対応が要求される。

 このまったく異質なものを組み合わせて、東野圭吾氏がミステリを書くんだからおもしろくないはずがない。


 尚美は頷き、吐息をついた。ブライダル課では、この手のことは頻繁にあるらしい。
 本来、結婚式は幸せを象徴する儀式だが、式を挙げる本人たちが幸せなだけで、誰もが心の底から祝福しているとはかぎらない。一生の伴侶として特定の異性を選んだ以上、当然ほかの人間は選ばれなかったわけだ。その中に、なぜ自分ではないのか、という不満を持つ者がいてもおかしくはない。不満程度ならいいが、それが憎しみに変わったりすれば話は厄介だ。何とかして式を台無しにしてやろうと画策し始めたりする。だからブライダル課では、相手の身元が確認できないかぎりは、式や披露宴に関する問い合わせには一切答えないきまりになっている。


 一流ホテルというのは単に泊まるだけの施設ではない。食事をしたり、人と会ったり、ベッドを共にしたり、秘密の話をしたり、結婚式をしたりする場でもある。そこには多くのドラマがある。
 と同時に、人はホテルでは気取ってしまう。かっこいい自分、上品な自分、一流ホテルに場慣れしているを演じてしまう。
 こんなにもホンネとタテマエが乖離する場所もそうそうないだろう。それを暴くだけでも、読んでいて楽しい。つくづく、いい設定だとおもう。




 東野圭吾さんはミステリ作家として語られることが多い。が、近年は「超一流ミステリ作家」にとどまらず「超一流作家」といってもいい。とにかく小説がうまい(直木賞の選考委員を任されるのも当然だ)。

 なにより感心したのが、伏線の張り方だ。

 ネタバレになるので書かないけど、犯人の初登場シーンがものすごくさりげない。たぶん初めて読んだときにこの人を犯人とおもう人はいない。それでいて、ちゃんと読者の印象に残る。だから犯人があの人だとわかったときは、漫画みたいに「まさかあの人が!?」と言いたくなる。

 いやあ。うまいよなあ。


「伏線のすごい小説」はめずらしくないけど、たいていわざとらしいんだよね。ああこの中途半端なエピソード、ぜったいに後で何かにつながるんだろうなあ、っての。

 そういうのって野暮ったいし、宙ぶらりんのまま頭に入れとく必要があるから、読んでいて疲れる。
 といってさりげなさすぎると忘れて「こいつ誰だっけ?」になっちゃう。

 『マスカレード・ホテル』の「一度きれいに処理したものをもういっぺんひっぱりだしてくる」やりかたはものすごく鮮やか。近年読んだ「伏線回収」の中でいちばん感心した。


 ぼくの大っ嫌いな「犯人が訊かれてもいないのに、最後の殺人を完了させる直前にべらべら動機やトリックを語る」パターンだったのでそこはマイナスだが(東野圭吾作品にはこれが多い)、それを差し引いても余りあるほどよくできた伏線回収だった。


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2022年4月20日水曜日

【読書感想文】深谷 忠記『審判』

審判

深谷 忠記

内容(e-honより)
女児誘拐殺人の罪に問われ、懲役十五年の刑を受けた柏木喬は刑を終え出所後、“私は殺していない!”というホームページを立ち上げ、冤罪を主張。殺された古畑麗の母親、古畑聖子に向けて意味深長な呼びかけを掲載する。さらに自白に追い込んだ元刑事・村上の周辺に頻繁に姿を現す柏木。その意図はいったい…。予想外の展開、衝撃の真相!柏木は本当に無実なのか?

 元刑事であり、定年退職後は家庭菜園や地域の防犯活動にのんびり取り組んでいた。彼のもとに、かつて女児誘拐殺人の容疑で逮捕して有罪に追い込んだ柏木が刑期を終えて現れる。彼は村上につきまとい、自身を有罪に決定づけた証拠は村上による捏造だったと語る。はたしてほんとに冤罪だったのか。そして真相は……。

 冤罪をテーマにしたミステリは少なくない。手軽に「はたして真犯人は?」という謎を生みだせる上に情感に訴えるテーマでもあるので小説の題材にはぴったりだ。ただ、冤罪を題材にしたミステリを何冊も読んだが、いずれもノンフィクションである清水潔 『殺人犯はそこにいる』にはおもしろさでかなわなかった。事実は小説よりも奇なりとはよくいったものだ。




『審判』は、冤罪を扱ったミステリとしては成功している部類だとおもう。中盤までは「またこのパターンか」「同じような話を何度くりかえすんだよ」「なかなか話が進まないな」とじれったかったが、後半はどんどんおもしろくなってきた。

「冤罪だったのかどうか」が主題となるのは中盤までで、後半からはまた別の謎がストーリーを引っ張る。真相も、ほどよくこちらの予想を裏切ってくれる。

 この〝ほどよく裏切ってくれる〟が良いミステリには欠かせない。裏切りのないミステリはつまらないが、〝裏切るだけ〟のミステリもつまらない。そしてこういう作品はわりと多い。特に昨今増えた気がする。

 作者としては「誰もやったことのないトリックで読者を騙したい」と考えるものだろうが、そういうのはたいていつまらない。「たしかに誰もやったことないけど、それはつまらないからやらなかっただけだろ……」とか「100回やって1回しか成功しないようなリスキーなトリックに人生をかけるかね……。そしてたまたまうまくいくかね……」とか「もはや復讐よりも犯罪をすること自体が目的になってるじゃないか」とか、読者を騙すことしか考えてなくて肝心の〝小説のおもしろさ〟をないがしろにしている作品ばかりだ。

「あなたは必ず騙される」「もう一度読み返したくなる」「ラスト〇行であっと驚く」的なキャッチコピーがついているミステリは要注意だ(それが書店員の手書き風POPだと危険度倍増だ)。
「おもしろくするために読者を騙す」ではなく「読者を騙すためにおもしろさを犠牲にしている」作品が多い。どの作品とは言わないけどさ。


 はっきりいって、そんなに毎回毎回あっと驚く仕掛けはいらないんだよ。特に目新しいトリックはなくてもおもしろいミステリはいっぱいあるんだから。ミステリ小説はパズルじゃなくて小説なんだから。

 その点、『審判』はほどほどに裏切りがあって、ほどほどに意外な真実がある。登場人物の行動の動機も「異常ではあるけど、人間追い詰められたらこれぐらいの異常行動はとるかもしれない」と思わせるぐらいのギリギリのラインを突いている。

 特にいいのは、ほとんどの登場人物が保身のために行動していることだ。「他人を守るため」「死んだアイツの代わりに復讐してやるんだ」みたいな動機は好きじゃない。そりゃあ他人のために行動することはあるけど、他人のための行動はそんなに長続きしないよ。
 いちばん長続きするモチベーションは「自分のため」それも「保身」だ。何かを得るためにがんばるのはしんどいが、得たものを失わないためになら人間はどこまでもがんばれる。
 保身のために動く登場人物は信用できる。


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冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】



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2022年4月19日火曜日

ツイートまとめ 2021年12月



話せばわかる

今年の漢字

おおお

旅行の日の朝

マイナー

汚染

フードコート

非寿司

難読地名



2022年4月18日月曜日

いちぶんがく その12

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




「悪事をなすときに慈悲のまねをするな」

(白石 一郎『海狼伝』より)





「それはお前さんの思ったとおり、わたしが頭のおかしな年寄りだからさ」

(キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』より)





同情しているつもりなのだろうけど、なんでしょう、この差別的な視線は。

(斎藤 美奈子『モダンガール論』より)





「楽しみだの、弱い奴らをいたぶるってのは、おもしろいもんだ」

(白石 一郎『孤島物語』より)




全員、観客に向けて話していたときとは違って、その声には皮を剥いた果物のような柔らかさがある。

(朝井 リョウ『どうしても生きてる』より)




例えば、東京の野球は「狡くて器用な江戸っ子野球」と呼ばれた。

(早坂 隆『幻の甲子園 ~昭和十七年の夏 戦時下の球児たち~』より)





さらに困ったことに、人間の脳には、自分が感情的に魅かれるものを「正しい」と合理化する機能が備わっています。

(橘 玲『不愉快なことには理由がある』より)




このとき仕入れた本は「あるエロじじいの蔵書」と名付けられ、売れ行きはかんばしくなかったものの、濃厚な雰囲気作りに貢献してくれた。

(北尾 トロ『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』より)





そのため、聖子の中の“鬼”は依然として活発に活動しているのだった。

(深谷忠記『審判』より)




日本人のようにきりきり突きつめて、錐のようになって心配ごとをほじくるような真似はせぬ。

(白石 一郎『海王伝』より)




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