2021年8月16日月曜日

【映画感想】映画おしりたんてい スフーレ島のひみつ /深海のサバイバル!

映画おしりたんてい スフーレ島のひみつ
/深海のサバイバル!
(2021)

内容
「映画おしりたんてい スフーレ島のひみつ」…見た目はおしり、推理はエクセレントな名探偵・おしりたんてい。今度の舞台は、人々が風に乗り空を飛びながら移動して暮らすスフーレ島だ!
「深海のサバイバル!」…サバイバルの達人ジオとその仲間たちが、アンモナイト型の潜水艇に乗って深海をサバイバル。持ち前の勇気とアイデアでピンチに立ち向かう。

 小学二年生の娘といっしょに鑑賞。
 観客は全員子どもとその親。そりゃそうだね。




『映画おしりたんてい スフーレ島のひみつ』


 ふうむ、いい映画ですね。

 毎週テレビ放送しているものも(娘といっしょに)ときどき観ているのだけど、
「おなじみのやりとり」と「劇場版ならではの取り組み」がいい具合にミックスされていて、「これぞ劇場版!」っていう出来だった。

 テレビシリーズを映画化すると、力が入りすぎて「いやそこまでのものは求めてないんだけど……」となることがある。とはいえ時間も制作費もぜんぜんちがうのにいつも通りにつくるわけにはいかない。

 その点この『スフーレ島のひみつ』はふだんと同じく「めいろ」や「おしりをさがせ」もあるが、「かいとうUに協力者がいる」「かいとうUの変装が観客にははじめから呈示されている」などちょっとした仕掛けが施されていて、先が読みにくい展開になっている。クライマックスの「しつれいこかせていただきまさ」も定番のやりとりでありながら発射までにひと工夫凝らされている。

 またいつものおしりたんていであれば「なぞをとく」「犯人を捕まえる」「かいとうUからお宝を守る」が達成された時点でストーリーは終了するが、この劇場版ではなぞときだけでなく「島の外に出たいが代々続く灯台守の家系なのでそれが許されずに不満を抱える少女」というストーリーも並行して語られており、単なるなぞときで終わっていない。

 終始風の吹いている演出や、激しい動きなど、劇場版ならではの派手な演出も多く、観客の「金を払って劇場に来てるんだから特別なものを観たい」という欲求と「とはいえいつものおしりたんていらしさも捨てないでほしい」という願望の両方をうまく両立させていた。

 テレビアニメの劇場版としては完璧に近い内容じゃないでしょうか。




深海のサバイバル!


 子どものいない大人は知らないかもしれないが、『サバイバル』シリーズが小学生の間で大人気だ。
 元々は韓国の学習漫画だが、日本国内でのシリーズ累計発行部数は1000万部を超え、世界では3000万部を超えているという大ヒット児童書だ。

 子どもの頃、学研の『○○のひみつ』シリーズが好きだった大人は多いとおもうが、今は『サバイバル』シリーズが主役の座についている。『○○のひみつ』よりも『サバイバル』のほうが漫画がだんぜんおもしろいんだよね。
『サバイバル』シリーズは漫画九割+解説文一割で構成されているのだが、解説部分は大人でも勉強になる。内容も新しいので「なるほど、今は環境問題に対する考え方ってこうなってるのか」と学ぶことが多い。子どものときに教わった〝常識〟って、変わっててもなかなか気づかないからね。


 そんな人気シリーズから『深海のサバイバル!』が映画化。

 海底調査の潜水艦にもぐりこんだサバイバルの達人・ジオと野生少女・ピピ。めずらしいものだらけの深海に興奮を隠せないふたりだが、事故により潜水艦に電気と空気を供給するケーブルが切断。艦内には三人、だが深海耐久スーツは二着だけ。はたしてジオとピピは無事に潜水艦を海上へと引きあげることができるのか……。
 というワクワクドキドキの王道冒険活劇

 ストーリー展開は山あり谷あり一難去ってまた一難という感じで、ハリウッド映画にも引けを取らないレベル。いやほんと、こんなストーリーのハリウッド映画ありそうだもん。
 子ども向けだから粗いところもあるけれど(潜水艦に子どもがふたり密航してることに誰も気づかない、序盤で密航に気づいたのに引き返さない、ひとりで乗船するはずだったのに深海スーツが都合よく二着積んである、深海スーツの充電器が潜水艦内にあるなど)、そういうところに目をつぶって深く考えなければ大人も楽しめる。

 ただ映像作品なので仕方ないのだけれど、肝心の科学知識がほとんど披露されなかったのは残念。それこそが『サバイバル』シリーズの原点のはずなのに。
 ダイオウイカやマッコウクジラは出てくるだけで生態に関する知見はないし、せいぜいメタンハイドレートぐらい。個人的にいちばん気になったのは深海から連れてきたカニが海面でもぴんぴんしてたこと。これは深海生物の生態を伝えるという根幹のテーマを壊してしまうぐらいのミス。ストーリーは強引でもいいけど、科学知識に関するところで嘘ついちゃだめでしょ。




 某子ども向け作品は鑑賞中に寝てしまったが、この映画はどちらも大人も楽しめた。大人料金1,800円の元はとれた。

 しかし気になったのは対象年齢。
『おしりたんてい』と『サバイバル』のセット上映なのだが、この二作は対象年齢がちがう。おしりたんていのメインターゲットは未就学児(娘は五歳ぐらいのときにどっぷりハマっていた)、サバイバルは小学校中学年ぐらい。けっこう離れている。

 うちの娘は小学二年生なのでぎりぎり両方楽しめるぐらいの年齢だが、周囲の五~六歳ぐらいの子は『サバイバル』のケーブルの切れた潜水艦が深海に沈んでいくシーンや、ダイオウイカに襲われるシーンでは「こわい……」と声をあげていた。そりゃそうだよなあ。

 この二作を抱き合わせで売るのはちょっと無理があるとおもう。
 観客からすると単独上映で半額にしてくれるのがありがたいけど、いろんな事情でそうもいかないんだろう。

 ネット配信してくれたらいいのにな。そしたら上映時間を気にしないで済むし。感染予防にもなるし。

『ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021』も2022年に上映延期されたけど、一年も遅らせるぐらいだったらネット配信してくれたらいいのにな。そっちのほうが売上も増えるだろうに。映画館には申し訳ないけど。


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2021年8月11日水曜日

【読書感想文】鴻上 尚史『ドン・キホーテのピアス』

ドン・キホーテのピアス

鴻上 尚史

内容(e-honより)
意表をつく展開、あざやかな切れ味!鴻上尚史の人気エッセイ、「ドン・キホーテのピアス」文庫化第1弾。なにげない日常が、面白く、刺激的に見えてくる。「分かりやすいものが好きなんですかい?」「大学生は、授業に出てはいけない」「人生を丸ごと理解したいのか?」「コメントとバナナとゲラと」「20世紀の終わりの泣き声について」など50篇収録。

 1994年10~2021年5月という長期にわたって雑誌『SPA!』に連載された鴻上尚史さんのエッセイ『ドン・キホーテのピアス』。
 その単行本化第一弾。

 今では「冷静かつ的確に人々の悩みに答える落ち着いた人生相談家」みたいなポジションの鴻上さんだけど、この頃はまだ三十代(今のぼくより年下だ!)。
 連載第一回のテーマは「女子高生のミニスカート」で、しっかり浮ついている。

 とはいえ〝世間〟と闘う姿勢なんかはこの頃からずっと変わっていないので、最近の文章と読みくらべてみると鴻上さんの変わったところ・変わらないところが見えてきておもしろい。




 この本に収められているのは1994年~1995年に発表されたエッセイ。
 そう、阪神大震災や地下鉄サリン事件、その後のオウム騒動があった激動の時期だ。

 この本では積極的には社会問題を扱ってはいないが、阪神大震災やオウム騒動のような大きな事件が起こると、いやおうなく話題もそっちに引きずり込まれている。
 あんな事件が起こったら、お気楽なエッセイであっても触れずにはいられないよなあ。

 ぼくも東日本大震災直後はブログを書く気になれなかった。多くの理不尽な死、というのを目の当たりにするとどうしても思考がそっちに引きずられるんだよな。


 地下鉄サリン事件後の報道について。

 それと、もうひとつ。事件の三日後、警察署からレポートした若い男性記者が、「地下鉄の普段の安全対策が充分だったのかと疑問の声が出ています」と言って中継を終えたシーンがありました。
 正気なのかと思います。
 新聞紙にくるまれた小さな容器を見つけられなかったといって、地下鉄当局を責めるというのは、とても正気の沙汰とは思えません。
 そんなことを責められるのなら、地下鉄に乗る時に、飛行機に乗る時のようなチェックが必要になります。
 マスコミは、レポートを完結させるために、こういう手法をよく使います。
 この手法を、僕は以前、『物語』と呼びました。
 どうまとめていいか分からない時、(それはつまり、どう理解していいか分からない時ですが)とりあえず、強引に、理解可能な世界に引きずり下ろす枠組みを『物語』と僕は呼んでいるのです。
 この『物語』の枠組みは、ベテランの記者になればなるほど巧妙に、すなわち、人が理解しやすい形になります。
「疑問の声が出ています」という定番の締め方は、その象徴です。「安全対策が充分だったのか疑問です」と言い切ると、その瞬間に、じゃあ、どんな安全対策が必要だったのだろうと視聴者は考え始めます。が、「充分だったのかと疑問の声が出ています」とまとめれば、そうか、そういう人もいるだろうなと、簡単に受け入れられるのです。
 が、今回のケースはいくらなんでも無茶です。若い記者は、稚拙な分だけ、この無茶な『物語』を露呈させたのです。

 人間はありとあらゆる事象に物語を求める。原因があって結果があるとおもいたがる。成功の裏には努力があり、失敗の裏には原因や犯人があるとおもいたがる。
 なぜなら、そう考えるのは楽だから。己を責めなくてすむから。

 少し前に保育園のバスに園児が放置されて亡くなるという事故があった。たいへん痛ましい事故だ。当事者でなくてもやりきれない。
 SNSでこのニュースに対する反応を見ていると、多くの人が条件反射的に保育園やバス運転手を攻撃していた。事件の詳細など知るはずもないのに。
 ぼくも知らない。誰かすごく悪いやつがいたせいで事故が起こったのかもしれない。だがそうではないかもしれない。うっかりミスや間の悪さが重なり、ごくごく平凡な市民が不幸な事故を引き起こしてしまったのかもしれない。
 だが多くの人はそんな「よくわからない現実」は望んでいない。「単純明快な物語」を欲している。「あいつが悪い。だから子どもが死んだのだ!」と言いたい。安全圏から攻撃したい。「ぼくやあなただってその立場に置かれていたら同じミスをしていたかもしれない」なんて思いたくない。
「自分とはまったくちがう悪いやつが引き起こした事故」なのだから当然「自分も気を付けよう」とは思わない。
 こうして不幸なニュースは他山の石にはならず、「自分には関係のない話」と考えた人間によって同じようなミスはくりかえされてゆく。


 天災や大規模テロなど「無辜な市民が大量に犠牲になる出来事」が起こると、この傾向は特に顕著になる。
 誰のせいでもない。亡くなった人が悪いわけではない。助かった人が善行を積んでいたわけではない。わかっちゃいる、わかっちゃいるがついつい因果関係を求めてしまう。

 ○○すれば助かったのではないか。犠牲者は××をしたのが悪かったのではないか。多くの命が失われたのは△△の怠慢のせいではないか。
 必要以上に「原因」「責任」が追及される。これはよくない。


 逆に、必要以上に「原因」「責任」を覆い隠そうという正反対の動きもある。
「こんなときだから助け合おう」「絆」なんて言葉が跋扈して、正当な批判すら封じ込められる。これはこれで危険だ。
 こういうときに、ふだんなら反対されるような法案が通過しちゃったり、正当な裏付けのない増税がまかりとおったりしてしまう。

 コロナ禍の今もまさにそういう動きが見られる。
「こんなときだから特別に○○できる法案を通そう」と。

 そういうのは平常時に議論しておかなくちゃいけないのだ。少なくとも落ち着いてから。

 大事件があるとある程度浮足立ってしまうのはしかたない。けれど、浮足立ってしまうときに重大な決断をしてはいけない。
「こんなときに細かいことを気にしている場合か!」という声には要注意だ。大変な時こそ「何もしない」「何も変えない」ほうがいい。




〝大スター〟について。 

 仕事で、初めて、競輪に行ってきました。
 案内してくれた担当の方がぶっちゃけた人で、しきりに競馬をうらやましがっていました。
 どうやったら、競馬のように国民的ギャンブルになれるんですかねぇ、と思案顔をしてたずねられました。
 そうですねえと、車券握りしめて、「国民的スター、つまり大スターの条件はなんだと思いますか?」と逆に質問しました。
 担当の方は、はへ? という顔をして僕を見つめました。
 大スターの条件とは、じつは、からっぽであるということなのです。
 大スターは、さまざまな年齢、さまざまな生活を持つ人から、感情移入されることが必要条件となります。
 つまり、どんな思い入れも受け入れる必要があるのです。

 たしかになあ。大スターってからっぽなんだよなあ。
 古くは長嶋茂雄。王貞治のほうが成績はずっと上だったけど、国民的スターといえば長嶋さんのほうだ。それはからっぽだったから。(そういう意味では大スターの正統な後継者はイチローや大谷翔平ではなく新庄剛志だよな)
 あと漫画では孫悟空。強いやつと戦えればそれでいい。主義主張はまるでない。


「自分のことや思想信条を多く語らない」人物こそが大スターにふさわしい。見る人が勝手に想いを投影させられるから。

 だから大坂なおみが当初は「国籍や人種の垣根を超えて戦う、けれど日本人の心を忘れない強い女性」みたいなイメージを勝手に投影されてもてはやされていたのに、自分の言葉で主義主張を語るようになると途端に敵がいっぱい湧いて出たのなんかわかりやすい例だよね。
 特に若い女性に対しては「物言わぬ存在」であることを望む人がたくさんいる。


 馬は何も語らないが、競輪選手には人生があり思想信条がある。だから大スターになれないのだ。と、鴻上さんは主張する。
 たしかにそうかもしれない。競輪選手の人間くささはある界隈には受けるけど、万人には受け入れられない。

 一部の人が歴史上の人物に自分を重ね合わせるじゃない。特に坂本龍馬に多いんだけど。
 あれは、歴史上の人物は好きなように自分の願望を投影できるからなんだろうね。何も語らないから、勝手に「龍馬だったらこうするね」って言っても矛盾しない。坂本龍馬も馬とおんなじだ。


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龍馬ぎらい



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2021年8月10日火曜日

【読書感想文】「新潮45」編集部 (編)『凶悪 ~ある死刑囚の告発~』

凶悪

ある死刑囚の告発

「新潮45」編集部 (編)

内容(e-honより)
人を殺し、その死を巧みに金に換える“先生”と呼ばれる男がいる―雑誌記者が聞いた驚愕の証言。だが、告発者は元ヤクザで、しかも拘置所に収監中の殺人犯だった。信じていいのか?記者は逡巡しながらも、現場を徹底的に歩き、関係者を訪ね、そして確信する。告発は本物だ!やがて、元ヤクザと記者の追及は警察を動かし、真の“凶悪”を追い詰めてゆく。白熱の犯罪ドキュメント。

 映画『凶悪』はすごい映画だった。
 とにかくピエール瀧とリリー・フランキーの怪演が光った。このふたりが「老人を拷問して殺しながら心底楽しそうに大笑いするシーン」が頭に残って離れない。

『凶悪』は、実際にあった事件(上申書殺人事件)が明らかになるまでを『新潮45』の記者が追ったルポルタージュだ。
(しかしこの「上申書殺人事件」というネーミング、違和感がある。殺人事件の段階では上申書は何の関係もなく、「被告人の上申書によって明るみに出た」というだけだからなあ)

 殺人などの罪で死刑を求刑され上告中だった後藤という元暴力団組長。後藤が記者に対して、「自分は他にも複数の殺人事件をおこなった。いずれの事件も〝先生〟が共犯である」と述べたことからそれまで闇に葬られていた殺人事件が明るみに出た……というのが「上申書殺人事件」だ。




 さて。
 映画と原作の両方を見ることになったのはぼくのうっかりがきっかけだ(数年前に原作を買って読まずに放置していた。それを忘れて映画を鑑賞し、後で本を読もうとして「これこないだ映画で観たやつだ」とようやく気付いた)。だが、結果的には両方見てよかった。
 映画では迫力や狂気性はよく伝わってきたが、ストーリーはいまいちよくわからなかったからだ。

 いくつもの事件が時系列もばらばらに語られるので、観ていて「これはいつの何だ?」となってしまうのだ。

 本を読むと、それぞれの事件がどういう順序で起こったのかがわかる。わかるが、その上で改めておもう。なんてややこしいんだ。

 それにしても、この時期、後藤の心理状況は異常なものだったにちがいない。
 余罪事件がすべて事実とすれば、彼は平成十一年十一月頃、大塚某の死体遺棄を手伝い、さらに同月中に倉浪篤二さんを生き埋めにして、翌年には〝カーテン屋〟をアルコール漬けにして殺害。そのかたわら、〝先生〟の知らないところで、暴力団関係者を殺し、さらには四人を監禁したうえ、ひとりを死に至らしめたのである。

 ごくごく短期間のうちに次々に殺人、死体遺棄、監禁、暴行などの凶悪犯罪をくりかえしている。しかもそのほとんどは金銭目的。恨みもない相手を次々に殺しているのだ。
 当然、事件の全貌を理解するのはむずかしい。それぞれの事件の間には「後藤と〝先生〟が関与した」という以外にほとんどつながりはないのだから。


 そしておそろしいのは、これらの事件のように
「悪いやつが」「はじめから隠蔽する目的で」「身寄りのないターゲット、または既に家族をまるめこんでいるターゲットを狙う」
という条件がそろった場合、殺人事件であってもなかなか明るみに出ることがないということだ。
 実際、上申書にあった三つの殺人事件は当初すべて警察にスルーされていて、事件として捜査されていない。
 読むかぎりでは、彼らが施した隠蔽工作などずさんなものだ。ミステリ小説のように複雑なトリックなどしかけていない。殺す直前に殴ったりスタンガンを押しあてたりしているから調べたらぜったいにわかっただろうし、被害者が暴行をふるわれるのを見た目撃者もいる。

 ちょっと調べればわかる殺人でも、事件の解明を望む遺族がいなければあっさり事故として処理されてしまうのだ。

 日本の殺人検挙率は80%以上なんて話を聞くが、そもそも殺人事件として認識されていない事件がその背後に多数存在するのだろう。
 うまくやれば意外と完全犯罪も達成できるのかも。やる予定ないけど。


 そして〝先生〟は、そういうターゲットを見つけるのに長けていたらしい。

 ――〝先生〟は、整理屋の嗅覚を活かし、金の匂いのする人生の破綻者を見つけ出す。
 狙いは、処分が可能な状態であれば不動産であり、それが残されていなければ、保険金だ。周辺を精査し、親族とも話をして安心させる。そして、破綻者を金に換える環境を整える。
 しかし、〝先生〟自身には、実際に人を殺すだけの腕力も度胸もない。安全な場所に安閑として居られるよう、自分のために汚れ仕事に手を染めてくれる、〝道具〟が必要だ。卑劣で狡猾な首謀者が、常にそうであるように。
 そこに後藤が登場した。人を殺すことなど何とも思っていない、格好のアウトローだ。しかも、殺人の経験者である。
 このふたりの邂逅は、犯罪を醸成するうえで、画期的な核融合を遂げた。これだけ強烈で危険な化学反応はあるまい。被害者にすれば、数少ない確率で生じてしまった禍である。
 実行力と非情さをあわせもつ後藤という男を得た〝先生〟。異種の凶悪性を持つふたりはベスト・パートナーとなり、暴走機関車の両輪のように激しく回転し、次々と大胆で凶悪な事件を遂行した。後藤は殺人マシーンと化して、〝先生〟に忠誠を尽くし、〝先生〟のために働いた。

 人づきあいがないと警察も本腰を入れて捜査してくれない。

 家族や友人がいないと孤独死のリスクだけでなく殺人被害者になるリスクも増えるのか……。




 映画版でも描かれていたことだが、おそろしいのは後藤や〝先生〟のような極悪非道な人間が、人間らしい一面も持ち合わせていること。

「そういえば、A先生は、私の子供が小学校に入学したとき、ランドセルや机まで買ってくれました。良ちゃんではなく、愛人である私のためでもなく、私の子供のために、そこまでしてくれたんですよ。普通、よほどじゃなければ、そこまでしないでしょう。それだけ、良ちゃんのことを大事に扱っていたということですよね。ランドセルは六年間使うんだから、革のいいのを買うように、と十五万か二十万円くらいくれたんです」
 〝先生〟は後藤のみならず、愛人、また愛人の娘のためにも金を惜しまず、気配りを見せていたのである。

 金のために会ったこともない人間を残忍な方法で殺せる一方、舎弟や家族に対しては情の厚い一面を見せたりもする。これが余計におそろしい。
 わかりやすいように、四六時中凶悪なモンスターとして生きていてほしい。

 文庫版『凶悪』には、後藤と〝先生〟の写真も載っている。
 暴力団組長だった後藤は、パンチパーマ、口ひげ、びっしりとはいった刺青、凶悪な人相とヤクザ丸出しの風貌である。
 だが〝先生〟のほうはというと、ごくふつうのおじさんだ。街ですれちがっても何もおもわない、どこにでもいそうな出で立ちをしている。隣近所にこの人が住んでいてもなんともおもわないだろう。

 だが、どこにでもいるようなごくふつうのおじさんが、次々に人を殺し、保険金や土地を手に入れ、警察に捕まることもなく、妻や娘といっしょにのうのうと生きていたのだ。
 この「ごくふつうに生きているごくふつうのおじさんが殺人鬼」という事実こそがなによりおそろしい。


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2021年8月6日金曜日

【読書感想文】湊 かなえ『夜行観覧車』

夜行観覧車

湊 かなえ

内容(e-honより)
高級住宅地に住むエリート一家で起きたセンセーショナルな事件。遺されたこどもたちは、どのように生きていくのか。その家族と向かいに住む家族の視点から、事件の動機と真相が明らかになる。『告白』の著者が描く、衝撃の「家族」小説。


 高級住宅地に建つ二軒の家。
 一軒は以前から住んでいる豪邸。医師の父親、家庭的な母親、名門私立学校に通う姉と弟。
 もう最近越してきた家族で、高級住宅地に不釣り合いなほど小さな家。無責任な父親、見栄っ張りな母親、勉強ができず始終母親に怒りくるっている娘。
 ある日、妻が夫を殺すという事件が起きる。事件が起こったのは、何の問題もないように見える豪邸一家のほうだった――。




 設定としてはおもしろそうだったけど、残念ながらぼくにはあまり刺さらなかった。
 理由のひとつは登場人物が単純だったこと、もうひとつは説明されすぎていたこと。


 人物が単純というのは、一言で語れるような人物ばかり出てくるからだ。「嫌味」とか「おせっかい」とか「高慢ちき」とか「見栄っ張り」とか「事なかれ主義」とか。類型的なキャラクター。物語を進めるため、主人公の感情を揺さぶるためだけに作られたキャラクターという感じ。
「わかりやすい嫌なやつ」なのだ。

 世の中には嫌なやつはいっぱいいるけど、嫌なやつには嫌なやつの論理がある。「嫌なやつになろう」とおもって嫌なやつになってる人はいない。大義名分とか被害者意識があるし、世間に向けてとりつくろう意識もある。
 だから現実の嫌なやつって、たいていは「一見人当たりがいいけど深く付き合うと嫌な面が見えてくるやつ」とか「八割の人にはいい顔をしているのに二割に対してはすっごく嫌なやつ」とか「嫌なやつなんだけど深く付き合うと情け深いところもあるやつ」とかなんだよね。純度百パーセントの嫌なやつもいるけど、そういう人ははなから誰にも相手にされないからかえって厄介じゃない。

 この小説に出てくるのは、そういうグラデーションがなくて嫌なやつは徹頭徹尾嫌なやつ。主人公に嫌がらせをするためだけに生きている、「嫌なやつ」という名札を貼られた人物なのだ。
「嫌なやつかとおもったら意外と優しい面もあった」という人物も出てくるが、それも急に百八十度変わる。

 そして、殺人事件の理由がまるで三面記事のようにシンプルな解釈に帰結されるのも好みじゃない。

 ふだん口論なんてしたこともないような夫婦間で殺人が起こった。その背景にはすごく複雑な感情の動きがあるはずだ。当事者以外にはぜったいわからない、いや当事者ですら理解できないような感情があったはず。
 三面記事やワイドショーでは犯行動機が一行で語られるけど、じっさいにはどれだけ言葉を尽くしても語れないほどの葛藤があったはず。
 なのに語ってしまう。短い言葉で。実はこうだったのです、と。
 裁判所や新聞記事はこれでいいけど、それは小説の仕事じゃない。推理小説ならそれでもいいけどさ。


 吉田修一の『怒り』『悪人』といった小説は、殺人事件が軸になっているが、最後まで読んでも当事者たちの心の動きはわからない。事実はわかっても、内面は想像するしかない。

『夜行観覧車』は内面までわかってしまう。たったひとつの解釈が明示されてしまう。

 そっちのほうが好きという人もいるだろうが、ぼく個人としては殺人当事者の内面を描くのであれば「謎が謎のまま残される」ほうが好きだな。
 理解できないことを理解できないままにするってのは、じつはいちばんむずかしいことだとおもうぜ。


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2021年8月5日木曜日

よくて現状維持

 健康診断の結果が悪かった。

 どこか一箇所が悪くなったというより、ありとあらゆる数値がちょっとずつ悪くなっていた。

 体重も増えた。元々がやせ型なので今も標準体重を下回ってはいるが、問題は体重そのものよりも増加ペース。二年で七キロぐらい増えているので非常に良くない。

 原因として考えられるのは、やっぱり新型コロナウイルスの影響。
 リモートワークだとほとんど外出しない日もある。せいぜい子どもを保育園に送るぐらいで、歩数計を見たら1000歩/日ぐらいの日もあった。通勤するだけでもけっこう運動になっていたのだと気づく。
 またリモートでの打ち合わせが増え、客先に行く機会も減った。
 さらに休みの日も遠出をしなくなった。外出自粛もあるし、コロナが怖いのでちょっと体調が良くない日は「家でおとなしく寝てよう」となる。
 ありとあらゆる面で運動量が減った。

 でもコロナはきっかけにすぎない。本当の原因は〝油断〟だとおもう。
 油断していた。ぼくはタバコを吸わないし酒もほとんど飲まない。月にビール一本ぐらい。同年代の男と比べて脂っこいものも好きではない。野菜やフルーツも摂っている。毎日たっぷり八時間ぐらい寝ている。

 だから大丈夫だとおもっていた。そこそこ健康的な生活を送っているから健康でいられるとおもっていた。甘いものは好きだけど、酒もタバコもやらないから大丈夫だとおもっていた。
 だが年齢は見逃してくれない。

 若いころの不健康には原因があった。
 暴飲暴食をするとか、睡眠時間が足りないとか、喫煙量が多いとか、ちょっと体調が悪いときに無理したとか。
 ところが中年は、これといった原因がなくても不健康になる。運動して食事制限をしてやっと現状維持になる。ぼくもそういう年齢になったのだ。衰えるのがデフォルトなのだ。

 気づけば、一流の野球選手でも引退するぐらいの年齢だ。日常的に厳しいトレーニングをしているアスリートですら若い人についていけなくなる年齢なのだから、何もしていないぼくが不健康になるのは当然だ。

 よくて現状維持、何もしなければ衰退。
 人生の下り坂にさしかかったことを自覚しないとなあ。