2021年8月4日水曜日

【読書感想文】長谷川 町子『サザエさんうちあけ話』

サザエさんうちあけ話

長谷川 町子

内容(e-honより)
高校生で田河水泡へ弟子入りし、西日本新聞社勤務時代、そして『サザエさん』誕生…を著者自らが漫画で綴る。

『サザエさん』を知らない人はまずいないだろうが、若い人で原作を読んだことのある人はそう多くないだろう。『サザエさん』が朝日新聞に連載されていたのは1974年まで。連載終了してから五十年もアニメが放映されているってすごいなあ。

 ぼくは実家に『サザエさん』が全巻あったので読んだことがあるが、はっきり言って漫画の『サザエさん』とテレビアニメの『サザエさん』は登場人物の名前が同じなだけの、まったくべつの作品だ。

 過激なギャグや痛切な政治批判などがちりばめられ、アニメで描かれるような「一家団欒」シーンなどはほとんど登場しない。もちろん日常のほほえましい笑いもあるが、基本的には「異常な一家がもたらすギャグ漫画」だ。なぜか今では「典型的な昭和の家族」みたいなまったく逆の扱いになっているが。
 時代が変われば記憶は改変される。もしかしたらあと何十年かしたら「『こち亀』は平成時代の典型的な交番を描いている」なんて修正された歴史がまかりとおっているかもしれない。



『サザエさんうちあけ話』は1979年に刊行されたコミックエッセイ(ぼくが読んだのは再販版だが)。
 長谷川町子氏およびその家族の生活をつづった自伝的漫画だ。どっちかというと自分の話よりも母親や姉妹の話のほうが多い。
 コミックエッセイは2000年代ぐらいに大流行したが、その先駆けのような作品だ。


 読んでつくづく感じるのは、漫画家・長谷川町子誕生の背景にはお母さんの存在が大きかったということ。

 長谷川町子さんを半ば強引に田河水泡(『のらくろ』の作者で当時の国民的漫画家)に弟子入りさせたり、町子さんのお姉さんを洋画の大家に弟子入れさせたり。

 犯人は、いや母は同じ手口で、油絵の好きな姉を洋画の大家、藤島武二先生に弟子入りさせ、かたわら芸大の「とうりゅう門」であった川端画塾に通わせました。
 そんならば、母は教育ママかといいますと、ちょっとばかり毛色が変わっていて、家の改造で大工さんと植木屋さんがはいった時のこと、お茶のみ話から、二人ともまだ、京都を見たことがないと知ると、「費用は、わたしが出す。連れていってあげよう」と、たちまち相談がまとまりました。
 国宝級の建物、名庭園を見ずして、なんでひとかどの腕になれようか、というのがその理由です。娘どもの、白い視線をしりめに、引率していきました。
「八つ橋」をおみやげに帰ってきた、二人が言うには、「京都は、何といってもご婦人が一番よかった」そうです。わが子、他人の区別なく、才能をひき出すことに、快感を覚えるタチなのですね

 こうと決めたら他人の人生をも強引に牽引してしまう豪傑だったらしい。
 夫を早くに亡くして三人の娘を育てないといけないわけだからパワフルな女性でないと生きていけなかったのだろう。シングルマザーに対する風当たりも今より強かっただろうし。とにかくたくましい。

 東京に行くために家や家財道具を売って金をつくったのに「これで『サザエさん』を出版なさい」とその金をポンと出したとか、敬虔なクリスチャンだったため貯金せずに喜捨していたとか、出てくるエピソードがとにかく豪快。
 将来のため、人のためであればお金をじゃんじゃん使う。あればあるだけ使う。江戸っ子気質だ。

 しかし自費出版で出したおかげで『サザエさん』が人気になったわけで、このお母さんの豪気がなければ今頃日曜の夕方に『サザエさん』はやっていなかったにちがいない。


 そしてその男気は三姉妹にも確実に受け継がれている。
 町子氏は生涯独身。姉は戦中に結婚するも夫は戦死。妹も夫を亡くし、母親、姉妹三人、姪たちという女ばかりの家族で暮らしていたという。
 三姉妹で子育てをしていたが「お宅は母親が三人ではなく父親が三人いるようだ」と言われた、というエピソードが語られる。こんな境遇でみんな自営業で働いていたら強くなるわなあ。『フルハウス』(男三人で女の子たちを育てるアメリカのコメディドラマ)みたいな家庭だったんだろうなあ。



 戦中戦後を女四人で(お母さんと三姉妹)生きてきたのだから、相当な苦労があったはず。
 この漫画に描かれるエピソードも疎開して食うために菜園をやっていたとか、スパイ容疑で逮捕されたとか、焼夷弾が自宅に落ちたとか、敗戦直後の夜中にアメリカ兵が自宅を訪れてきて生きた心地がしなかったとか(なにしろ鬼畜米英と言われていた時代だ)、強烈なエピソードだらけ。しかしそれをおもしろおかしく描いているが見事。ユーモアセンスのある人が語ればどんなことでも笑い話になるのだと改めておもう。
 長谷川町子さんのすごいのは、こういう経験をしているのに作品に〝思想〟が表れていないこと。『サザエさん』も『サザエさんうちあけ話』も、風刺や皮肉はあっても特定の思想はまったくといっていいほど見られない。おもうところはいろいろあっただろうに、新聞連載だから自分の色を出さなかったのだろう。

 社会や政治に深い洞察を持っている人もすごいけど、それを一切出さない表現者というのもすごい。


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2021年8月2日月曜日

ツイートまとめ 2021年3月



くりかえし

クダ首相

センシティブな画像

お世話してない

ルルとララ

悪口

お気に入りの角度

LGBTひとからげ

言楽

カジュアル

ポジション

ダブルシンク

トレンド1位

番組改編

国家公務員

オカンあるある



ルー語

完成

今だけやで

メートル

2021年7月30日金曜日

いじめる側にまわるいじめられっ子

 

 中学三年生の春、転校生がやってきた。
 転校生の名前はイソダくん(仮名)。
 イソダくんは太っていて、もちろん運動は苦手で、勉強はあまりできなくて、特におもしろいことを言うわけでもなく、早い話がぱっとしない子だった。
 転校生は関心を持たれるものだが、みんなは早々にイソダくんに対する興味を失った。とはいえイソダくんは何人かの友だちもできて、教室の隅でカードゲームなんかをしていた。

 イソダくんは優しい子ではなかった。スネ夫タイプというか。先頭を切って誰かをいじめることはないが、誰かが攻撃されていたら周囲に便乗して攻撃に参加するタイプ。安全な位置から安全な相手に対してだけ攻撃を加えるタイプ。
 べつにめずらしくもない。世の中の大多数がこういうタイプだ。


 さて。
 イソダくんが転校して一年が経った。ぼくらは卒業式を迎えた。
 卒業式の後、三年生の保護者と担任の教師で謝恩会なるものが開かれた。先生ありがとうございましたと言っておしゃべりをする場だ。

 謝恩会に出席したぼくの母は、帰ってきてから言った。
「転校生のイソダくんって子がいたんだって?」
「うん」
「あの子、前の学校でいじめられてたんだって。だから転校してきたんだけど、『こっちの学校の子はみんな優しくてぜんぜんいじめられなかったから良かったです』ってイソダくんのお母さんが涙ぐみながら言ってた。すごく感謝してた」

 それを聞いて、ぼくは納得感と意外な気持ちの両方を味わった。

 イソダくんがいじめられていたというのはわかる気がする。太っているし、頭も良くないし、性格も良くないし、実際うちの学校でも「イソダ嫌いやわ」というやつはいた。ぼくも好きじゃなかった。どっちかっていったら嫌いなぐらい。
 うちの学校ではイソダくんはいじめられていなかったが、それはべつにぼくらが高潔だったからではなく、担任の先生がこわもての体育教師だったとか、二年生の後半ぐらいからヤンキーが学校にあまり来なくなったのでクラスの雰囲気が良くなったとか、イソダくんよりむかつくやつがいたからとか、そういうちょっとしたことによる結果にすぎない。うちの学校の生徒が優しかったわけではない。めぐりあわせが悪ければイソダくんはいじめられていただろう。

 意外だったのは「いじめられてたやつがあんなふうにふるまうんだ」ということ。
 前の学校で何をされたのかは知らないが、家族で引っ越して転校するぐらいだから相当ひどい目に遭っていたのだろう。
 ぼくの想像するいじめられっ子は〝気が弱くて何をされても言いかえせないおとなしい子〟だったが、イソダくんは決してそういうタイプではなかった。みんなといっしょになって、弱い子にからかいの言葉をぶつけるような生徒だった。


 でも今ならわかる。
 イソダくんはいじめられないためにいじめる側にまわっていたのだと。いじめられていたからこそ、いじめる必要があったのだと。
 長期化するいじめ、深刻化するいじめって、「クラスで弱いほうのやつがやっぱり弱いほうのやつをいじめる」みたいなパターンが多い。

 動物が闘うのって、「餌や異性を狙っているとき」か「自分の立場が脅かされるとき」じゃない。後者は、命を狙われたり、群れから追いだされそうになった場合。

 人間の場合もあまり変わらない。中学生のいじめなんて「金品を狙う」か「こいつより上に立ちたい」かのどっちかしかないとおもう。極端に言えば。
 で、自分より圧倒的に強いやつや、あるいは逆に圧倒的に弱いやつに対しては「こいつより上に立ちたい」とおもうことはない。
 闘う必要があるのは、上から2番目~下から2番目のやつらだけだ。


 いじめられるつらさを知っているから優しくなれる、なんてことはない。
 逆だ。
 いじめられるつらさを知っているからこそ、いじめる側にまわるのだ。


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奥田 英朗『沈黙の町で』

2021年7月29日木曜日

【読書感想文】サレンダー橋本『全員くたばれ!大学生』

全員くたばれ!大学生

サレンダー橋本

内容(e-honより)
包茎大学哲学科に入学した亀田哲太は、5月になっても友達ができず、休み時間は机の木目を見ながらパリピの声を盗み聞きする日々…。おしゃれカルチャーグループに近づこうとしたり、麻雀ができると嘘をつき、スタバでバイトしているフリをしたり、胸が苦しくなるほどイキってしまう。そんな彼に友達はできるのか―!?大学生活で最も大切な一年生を描いた意欲作。

 理想のキャンパスライフと現実とのギャップに苦しむ自意識過剰な大学生が主人公。

 クラスメイトをランク付けしたり、彼女がいるふりをしたり、ギターも弾けないのにからっぽのギターケースを持ち歩いたり。
 楽しそうにしている大学生を小ばかにしているが、ほんとは混ざりたい。混ざりたいけど高すぎる自意識が邪魔をして言えない。

 ギャグ漫画なのだが、読んでいて胸が痛くなる。自分にも思い当たるフシがありすぎるから。




 ぼくの大学時代の思い出も、どちらかというと暗い。

 三回生ぐらいになってようやくサークルに居場所ができたり、念願の彼女ができたり、アルバイトにも慣れたりしたが、特にはじめの二年はいろいろきつかった。
 彼女はいなかったし、もちろん童貞だったし、腹を割って話せる友人はいなかったし、サークルも嫌なところが目についたし、実家を出て姉とふたりで暮らしていたのだが喧嘩は絶えなかったし、自動車教習所は苦手だったし、バイトもあわずに数ヶ月でやめてしまったし、貴重な学生生活なんだから何かしなきゃという重圧と何もしたくないという思いに挟まれて鬱々としていた。長期休みのたびにずっと実家に帰って高校の友人とばかり遊んでいた。

 一方周囲に目をやると、大学生というのは必要以上に楽しそうに見える。やれバイトだ、やれコンパだ、やれバンド結成だ、やれ徹夜飲みだ、やれ旅行だ、やれ学園祭だ、やれ彼氏彼女だ。とかく大騒ぎしている。
 ぼくの通っていた大学にはチャラついた学生は少なかったが、それでも田舎から出てきてファッションのファの字も知らないぼくから見るとみんなこじゃれて見えた。

 入学して一週間ぐらいすると、あっという間にイケてる人たちはグループは結成している。連絡先を交換して、もうゴールデンウィークの予定を立てたりしている。
 ぼくも少ないとはいえ友だちができたが、何度か話しているうちに「こいつはちょっとちがうな」とおもうようになった。ぜんぜん悪い人ではないのだが、価値観とか笑いのポイントとかがまったくちがうのだ。たぶん向こうも同じように感じたのだろう、すぐに疎遠になった。

 遠目で見ていて「あいつおもしろいな」という人もいるのだが、彼らは人気者なので既に友だちに囲まれている。そしてそういう人にかぎって「妙にいきがってていけすかないやつ」「つまんないくせに声だけでかいやつ」に囲まれてるのだ。あの輪には入りたくない。

 小学生のときは、楽しそうなグループがあれば素直に「おれも入れて」「あそぼ」と言うことができた。でも大学生だとそれができない。断られたら恥ずかしい、断られなくても嫌な顔をされるかもしれない、嫌な顔をされなくても後で悪口を言われるかもしれない。




 この漫画の中で主人公は「モテようとしてるのにモテないやつ」になるぐらいだったら「モテようとしてなくてモテないやつ」になるほうがマシ、という理論を展開するのだが、その感覚はよくわかる。ぼくもまったく同じことを考えていた。
 いちばんかっこいいのは「モテようとせずにモテるやつ」だ。これが理想だが、自分がそのポジションに就けないことぐらいはさすがに二十年生きていればわかる。

 だから競争から降りたフリをして「おれモテようとかおもってないから」とあえて同じ服ばかり着たりしてしまう。
 テスト前に「おれぜんぜん勉強してねーわ」と言うやつといっしょで、その姿勢こそがいちばんダサいし、何もしないよりちょっとでもおしゃれになる努力をするほうがまだマシなのだが、肥大した自意識が邪魔をして「モテるための努力」をすることができない。
 そして茶髪にしたやつを見て「似合ってねえのに恥ずかしいやつ」と小ばかにする。
『全員くたばれ!大学生』の哲太はまさにぼくの姿だ。


「友だちを作りたいけど輪に入れない」も「彼女がほしいけどモテるための努力をするのが恥ずかしい」も根っこは同じで、「自分は変わりたくない。周囲に変わってほしい。ありのままの(=何もしない)自分を受け入れてほしい」ってことなんだよね。

 もし今大学生の自分に会ったら「そんな虫のいい話あるわけねーだろ。おまえが歩み寄るんだよ!」ってほっぺたをつねってやる(やっぱり自分はかわいいからぶん殴ることはできない)んだけどな。
「大丈夫だよ、おまえのことを気にしてるのなんておまえだけなんだから。だからどんどん恥をかけ!」って言ってやりたい。


 この漫画、大学卒業して十数年たった今だから「あー昔のぼくと同じで自意識過剰なイタいやつだなー」とおもえるけど、二十代の頃だったら胸が痛すぎて読んでいられなかったかもしれない。


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2021年7月28日水曜日

【読書感想文】宮台 真司『社会という荒野を生きる。』

社会という荒野を生きる。

宮台 真司

内容(e-honより)
ニュースの読み方が変わる!現代社会の「問題の本質」と「生きる処方箋」。

 社会学者である宮台真司さんがラジオでニュースの裏側を解説し、その文字起こしをニュースサイトに転載。で、その文章を書籍化したもの。
 とりあげられているニュースは2015年のもの。安保法制反対デモと強行採決があった頃だね。

 この人の文章ははじめて読んだけど、かなり刺激的だ。良くも悪くも。
「クソ保守」という言葉で「日本国憲法は押しつけ憲法だ」と主張する連中を批判し、その一方で「民主主義はアメリカによってもたらされた」とする連中を「クソ左翼」とたたっ斬る。

 書いてあることはまっとうな内容も多いのだが、なんせ言葉が過激。学者にはけっこういるよね。作らなくてもいい敵を作るタイプ。
 こうやって文章を読んでいるだけなら楽しいんだけどね。お近づきになりたい人ではないな。




 日本の民主制のデタラメぶりを象徴するのが「党議拘束」。そんな英語があったかなと調べてみたら、複数の辞典にcompulsory adherence to a party decisionとありました。無理やり党の決定に従わせることという文章です。単語としては存在していないのです。
 ひどいでしょ? 何がひどいって分かりますか? 候補者個人が選挙公約をしても、党議拘束に従うしかなければ、意味がなくなるでしょ。また、党が予めこうすると決めているなら、国会審議も意味がなくなる。初めからシナリオ通り振る舞うしかないのだから。
 党議拘束があると、どんなに審議時間をかけても――安保法制の審議に100時間以上使ったとホザく輩がいますが――議員の内部で生じた気づきや価値変容に従って立場を変えられません。何のための審議ですか? 審議しても結果が変わらないなら審議って何よ。

 これなあ。ぼくもずっとおもってた。
 国会議員は党の決定に従いすぎだ。従うというか顔色を窺うというか。

 地方議員には骨のある人もいるのだが、国会議員はほんと腰抜けばかりだ。与野党問わず。
「党はこう言っているが、私はまったくそうはおもわない」ということが言えない。
 自民党員が自民党を批判したっていいじゃない。むしろそっちのほうがまともだ。党員だからって党の方針と一から十まで一致しているほうが異常だ。
 やっぱり小選挙区制と小泉純一郎の〝刺客候補〟のせいかね。党に物申せるまともな国会議員がいなくなったのは。

 アメリカ政界のニュースを見ると、共和党議員がトランプ政権を公然と批判したり、わりと〝造反〟を目にする(ぼくから言わせるとあの程度で造反というのがおかしいんだけど)。
 でも日本の国会議員は〝議員〟であるより〝党員〟であることのほうを優先させているように見える。やっぱり小選挙区制ってゴミ制度だよなあ。さっさとなくなってほしいわ。




 レファレンダム(政治に関する重要事項の可否を、議会の決定にゆだねるのではなく、直接国民の投票によって決める制度。住民投票など)について。

第一に、景気対策・雇用対策・社会保障政策など他の人気がある政策パッケージと一緒にしてしまえば、本当は再稼働や安保法制に反対でも、背に腹は替えられない国民は再稼働や安保法制を進める党を支持する。議会制民主主義でありがちです。
 かくて国民の意思が反映されなくなった個別イシューが、日本国民の命運を左右する重大問題であることがありえます。原発再稼働や安保法制の問題はそうした問題の典型です。だからこそ個別イシューで国民投票を行なうのです。ワンイシュー選挙よりもずっと安い。

 レファレンダムは議会制の否定なんて批判もあるみたいだが、宮台氏はこの本の中でそういった批判を明確に否定している。

 たしかにね。ある政党/候補者を全面的に支持できるという有権者はそう多くないだろう。
「消費税増税には反対だけど経済政策は今のままでいいから自民党支持」とか「安保法制には反対だけど野党には入れたくない」とかの人が大半だとおもう。
 ぼくも選挙のたびに今回はどこに入れようかと悩む。「消費税についてはA党の考えに近いけど外交の姿勢はB党なんだよなあ」ってなぐあいに(ここだけはぜったいに入れない、という党もあるが)。
 パッケージングしていることが問題なんだよな。個々の政策ごとに有権者に問うてくれたらいいのに。

 選挙はもっと頻繁にやったらいいとおもう。
 選挙や住民投票があるたびに「選挙で○億円が使われることになる。もったいない!」なんて言う人がいるけど、いいじゃん、使っちゃえば。
 だって選挙をおこなうために使われた金って外国にあげたとかじゃないんだよ。日本の会社や人に払ってるんだよ。国が貯めこんでる金が企業や国民に還元されてるわけじゃん。つまり経済を回してるわけだ。

 すばらしいことだ。選挙は公共政策。どんどんやればいい。




 政府が2015年6月に開催した「すべての女性が輝く社会づくり」会議の話題。

 日本の男の家事参加は、せいぜいお風呂掃除とかゴミ出し。そんなことは、家事参加とは言えないよ。会社に行く途中にゴミを出せばいいだけだろ。そういうことじゃなく、洗濯をし、料理を作り、子育てに平等に関わる。これが非常に重要です。もちろん僕はやってます。
 でも、そのためには日本の労働法制や労働慣行が変わらなければダメ。男性の育児休暇の取得率が今の20倍以上になり、それがなおかつ不利益にならない制度が必要です。何らかの不利益を被った場合に、その会社にペナルティが課せられる制度がなきゃ、ダメなんですよね。
 その意味で、女性の問題というのは男性の問題でもあるんです、当然だけど。女性の妊娠・育児に関わる負担軽減の旗を振るなら、男性の仕事に関わる負担軽減の旗も、同時に振らなきゃいけないの。昔の性別分業から見て、女が男に近づくだけでなく、男も女に近づくこと。
 内閣官房は「男が女に近づけ」ってことが全く分かってない。どれだけ低レベルの役人だらけなんだ。それで結局「仕事をしてもいいよ、だけど家事もね」という風に女性が二重負担になっちゃうから、女性が働けないんじゃないか。あるいは子育てできなくなっちゃう。どっちかを選ぶしかなくなるんだよ。

 そうだよなあ。女性が働きやすい社会って男性も働きやすい社会なんだよな。
 早く帰れて、休みの日はきっちり休めて、急な休みもとれて、望まない転勤や出張もない。もちろん十分な給与が出る。女性だけでなく男性も。そうなってはじめて家事育児を分担できて、女性も働きやすくなる。

 でも少子化対策の話になると、子どもと女性の話ばかりになる。「女性が働きやすくなるにはどうしたらいいか」っていう発想からしてもうずれてるんだよな。


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