2021年7月5日月曜日

【読書感想文】完璧な妻はキツい / 奥田 英朗『我が家の問題』

我が家の問題

奥田 英朗

内容(e-honより)
夫は仕事ができないらしい。それを察知してしまっためぐみは、おいしい弁当を持たせて夫を励まそうと決意し―「ハズバンド」。新婚なのに、家に帰りたくなくなった。甲斐甲斐しく世話をしてくれる妻に感動していたはずが―「甘い生活?」。それぞれの家族に起こる、ささやかだけれど悩ましい「我が家の問題」。人間ドラマの名手が贈る、くすりと笑えて、ホロリと泣ける平成の家族小説。

「夫が仕事ができないことに気づいてしまう」「両親が離婚するかもしれない」「お盆に実家に帰るのが大変」など、他人から見たらどうでもいいが当人にとっては一大事である〝我が家の問題〟をユーモラスに描いた短篇集。


 離婚とかリストラとかいまさらめずらしい話でもないけれど、それが自分の家族に降りかかることを考えたら頭がいっぱいになるぐらいの深刻な話だよね。

 ぼくも中学生のときに両親の仲が険悪になり、毎晩遅くまで口論をしていた。そのときはぼくもつらかった。原因はわからない。というかひとつじゃなかったとおもう。なぜならありとあらゆることで両親は対立していたから。


 さらにある日、両親から「大事な話がある」とぼくと姉が居間に呼びだされたときは、「ああこれは離婚のお知らせだ。うちの家族はもうおしまいだ。どっちについていくかを決めなくちゃいけないんだ」と絶望的な気持ちになった。
 だが結局両親の話というのは「今まで毎晩喧嘩をしておまえたちにも心配をかけてすまなかった。話し合いは決着がついたから今後はもう仲良くやっていく」という〝仲直り宣言〟で、ぼくはその言葉をまったく信じていなかったのだがほんとにその日から両親は仲良くなり、我が家は一家離散の危機を免れた。それ以降、ぼくが知るかぎり大きな喧嘩は一度もしていない。

 ふつう、「仲良くします」と宣言したからって仲良くなれないものだが、うちの両親はそれをやってのけた。我が親ながら大したものだとおもう。きっとお互いいろんなことを我慢することにしたのだろう。

 それを機に、ぼくは「家族って継続していくことがあたりまえじゃないんだ」と知った。
 子どもの頃は「父親は仕事をして、母親は家事をして、姉とぼくは衣食住を保証されるもの」と疑いもしていなかったけれど、家族なんてたやすく壊れることもあるし、壊さないためには不断の努力が必要なのだと気づいた。




 結婚して子どもが生まれて、ぼくも「家庭を壊さないように不断の努力をする」立場になった。
 特に子どもが生まれてからは、〝自分の時間〟なんてものはほとんどなくなった。家のスケジュールはすべて子ども中心に動く。休みの日も子どもと遊んだり子どもを病院に連れていったり買物に行ったり寝かしつけたり掃除をしたりで、ひとりでどこかに出かけることなどほとんどない。まあぼくは子どもと遊ぶのが好きだし読書以外の趣味もないのでそこまで苦ではないのだが。
 しかし文句は言えない。妻はもっと自分の時間を犠牲にして仕事や家事や育児をしているのだから。

 子育てってほんとに「割に合わない」仕事だよなあ。莫大な時間と金がかかるわりに、望む通りの結果は得られない。〝生物としての本能〟だからやっているだけで、損得で考えれば完全に損だ。

 だから、子どもを産むかどうか迷っている人に「産んだほうがいいよ!」とは言えない。良くないこともいっぱいあるから。

 ただ、個人的な気持ちを言えば「自分の時間を捨てて脇役として生きるのもそれなりに楽しいぜ」とはおもう。




『我が家の問題』収録作品では『甘い生活?』がいちばんおもしろかった(というより他の作品はほとんど心を動かされなかった)。

 十二時過ぎに自宅マンションに帰り、風呂から出ると、パジャマにカーディガンを羽織った昌美がキッチンで何かを作っていた。
「先に寝てていいって言ったのに」
「大丈夫。たいした手間じゃないから」
 うしろからのぞくとうどんを茹でていた。別の鍋ではつゆを温めていて、かつお出汁のいいかおりが鼻をついた。小口切りした浅葱と刻んだ揚げが横に用意してある。こういう一手間を見ると、うれしさと同時にそこまでしなくてもいいのにと思うのは、一人暮らしが長かったせいか。
「ビールは飲む?」
「じゃあ、飲もうかな。ああ、いい。自分で出す」
 淳一は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、栓を開けた。「はい」横で昌美がすでにグラスを用意している。
「いいよ。直接飲むから」
「だめ。グラスで飲んだほうがおいしいから」
 確かにその通りなので従った。独身時代は、もちろんグラスなど使わなかった。

 この妻をどう感じるかは、人によってぜんぜんちがうだろうな。

 「よくできた妻じゃん」とおもう人もいるだろうが、「これはキツい」と感じる人のほうが多いんじゃなかろうか。特に男は。ぼくだったらこんなの耐えられない。

 一生懸命働き続けている人が家の中にいたら、こっちもだらだらできないじゃん。
 十二時過ぎに帰ったら、さっさと寝てくれている人のほうがいい。そしたら何も気兼ねせずにせいいっぱいだらだらできる。

 いっしょに暮らすのなら、四六時中きっちりしている人より適度に手を抜いてストレスフリーで生きてくれる人のほうがいいなあ。もちろん限度はあるけど。


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2021年7月2日金曜日

【読書感想文】バカ経団連を一蹴するための知識 / 小熊 英二『日本社会のしくみ』

日本社会のしくみ

雇用・教育・福祉の歴史社会学

小熊 英二

内容(e-honより)
日本を支配する社会の慣習。データと歴史が浮き彫りにする社会の姿!!「この国のかたち」はいかにして生まれたか。“日本の働き方”成立の歴史的経緯とその是非を問う。

 〝日本的な働き方〟というと、どんな働き方を思い浮かべるだろうか。

 終身雇用、年功序列賃金、遅くまで残業、飲み会・接待、会社都合で転勤、六十ぐらいで定年退職して老後は悠々自適な生活……。みたいなイメージを持つのではないだろうか。
 ぼくが子どもの頃思い浮かべていた「ふつうのサラリーマン」もそんな感じだった。というのも、ぼくの父親(大企業勤務)がまさにそんな働き方をしていたからだ。

 だが自分が社会に出てみると、そんな甘いもんじゃないとわかった(いや父親の働き方だって甘かったわけではないんだろうが)。

 まず終身雇用なんてどこの世界の話? という感じだ。
 まあこれはぼくがウェブ系の仕事をしているからでもある。業界自体が新しいこともあり、転職なんてあたりまえの世界だ。一社に五年勤めていたら「長いね」と言われるような世界だから「新卒で入社してから十年以上この会社です」なんて人には会ったこともない。

 当然ながら年功序列賃金もない。もちろん長く勤めていれば給与が上がることもあるが、それはスキルや経験が評価されてのことであり、転職を機に年収アップすることも多い。

 残業や飲み会は会社によるとしか言いようがないが、転勤とか定年退職もほとんど聞かない。全国各地に支社や子会社がある会社がほとんどない上、転職が容易なのだから半強制的な転勤を命じられることもない。

 というわけで個人的には日本的な働き方とは無縁な仕事をしているが、それでもまだまだ世間一般のイメージでは「(特に男は)ひとつの会社で骨をうずめる覚悟で働くもの」という意識が強い。ぼくも就活をするときはそういうもんだとおもっていたし(だから妥協できなくて失敗した)、両親なんかは息子の転職に眉をひそめた。




 しかし〝日本的な働き方〟は、ちっともふつうの働き方ではないことが『日本社会のしくみ』を読むとよくわかる。

 欧米の働き方はまったく違うし、日本でも〝日本的な働き方〟が一般的な働き方だったのは高度経済成長期~バブル崩壊ぐらいまでのごくわずかな期間だけだったことがわかる。
 またその頃だって、終身雇用や年功序列があたりまえだったのは大企業に勤める男性サラリーマンにかぎった話だった。

 一九九三年は、まだバブル経済の余韻が続いていた時期である。その時代でも、三分の一程度の人しか、年金だけでは生活できなかったのだ。
 この三分の一という数字は、経産省若手プロジェクトが試算した「正社員になり定年まで勤めあげる」という人の比率と、ほぼ一致している。前述したように、二〇一九年の厚生労働省の発表では、「正社員になり定年まで勤めあげる」という人生をたどれば、夫婦二人で月額二二万一五〇四円の年金が受給できる。この金額ならば、貯金から毎月数万円ずつ補なうか、出費をかなり切りつめれば、年金だけでも生活できるだろう。ちなみに二〇一七年の総務省「家計調査」では、「高齢者夫婦無職世帯」の一ヵ月の支出は二六万三七一八円とされている。
 だがこうした人々は、少数派である。定年後のすごし方に悩むとか、生きがいとして働くといったことは、こうした人々に限った話である。
 これは今に始まったことではなく、昔からそうなのだ。『読売新聞』二〇一九年六月一四日付の報道によれば、厚労省の年金局長は一三日の参議院厚生労働委員会で、「私どもは、老後の生活は年金だけで暮らせる水準だと言ったことはない」と述べた。もともと「大企業型」以外の人は、高齢になっても働くことが前提の制度なのだともいえよう。

〝老後は悠々自適な生活〟ができたのは、ごくわずかな時期のごくひとにぎりの人たちだけ。
 隠居なんてほんの限られた金持ちだけに許されたことなのだ。
 十年ぐらい前に「歳をとっても引退できない時代になった」なんてことが声高に叫ばれていたが、歴史的にはそっちのほうがふつうなのだ。




 年齢(≒社歴)を重ねるにつれて出世していき、給与も増えていく。そんな島耕作的なサラリーマン人生は決してポピュラーなものではなく、むしろ例外だった。
 たしかに高度経済成長期は順調に出世コースを歩むサラリーマンも多かった。だがそれはいくつかの歴史的背景に支えられてのものだった。

 当時の四〇~五〇代の男性たちは、戦争と兵役を経験し、軍隊の制度になじんでいた。職能資格制度がこの時期に急速に普及したのは、総力戦の経験によって、各企業の中堅幹部層がこうしたシステムに親しんでいたことが一因だったかもしれない。
 だが彼らは、重要な点を見落としていた。彼らが軍隊にいた時期は、戦争で軍の組織が急膨張し、そのうえ将校や士官が大量に戦死していた。そのためポストの空きが多く、有能と認められた者は昇進が早かった。(中略)
 そして彼らがこの報告書を出した一九六九年も、日本のGNPが年率一〇%前後で急成長していた時期だった。その時期には、現場労働者レベルにまで「社員の平等」を拡張しても、賃金コストの増大に対応できた。
 だが一九七三年の石油ショックを境に、そうした時期は終わりを告げた。それでも、いったん拡張した「社員の平等」は、もはや撤回できなかった。そのあとの時代には、正社員の範囲だけに「社員の平等」を制限するという、「新たな二重構造」が顕在化していくことになる。

 一般企業が年功序列賃金を実現できていたのは、
「戦死により上の世代が少なかった」
「人口増や高度経済成長により経済規模自体が大きくなっていた」
という背景があればこそだったのだ。
(コストにとらわれなくていい公務員はそのかぎりではないから名前だけの役職者を置くことができる)

 人口は減り、若手よりも中高年のほうが多い現代日本で同じことを実現できるはずがない。元来が無茶な制度なのだから、無理にやろうとおもえばそのしわ寄せは非正規労働者に向かうことになる。

 年功序列や終身雇用制度は、非正規社員が割を食うことで成り立っているのだ。




 海外(欧米だけだが)との比較もおもしろい。

 日本ならば、「大企業か中小企業か」「どの会社か」といった区分が重要になる。だから「A社に就職したい」という言い方が出てくる。A社の正社員になってしまえば平等だ、という「社員の平等」を前提にしているからだ。
 しかし欧米その他の企業では、「社員の平等」というものは存在しない。ここでは、「A社に就職したい」という言葉は意味をなさない。「A社」の現場労働者や下級職員になるのは、むずかしくないからだ。
 その代わり、欧米その他の企業では「職務の平等」とでもいうべき傾向がある。たとえば財務に強い上級職員であれば、A社であろうがB社であろうが、NGOであろうが国際機関であろうが、高給取りの財務担当者になるだろう。逆にいうと、現場労働者はA社であろうがB社であろうが、勤続年数が多かろうが少なかろうが、現場労働者のままなのが原則だ。
 図式的にいうと、日本企業では一つの社内で「タテの移動」はできるが、他の企業に移る「ヨコの移動」はむずかしい。しかし欧米その他の企業では、「ヨコの移動」の方がむしろ簡単で、「タテの移動」のほうがむずかしい。
 こうみてくると、「欧米企業は成果主義が徹底していて収入に大きな差がつく」というのは、経営者や上級職員の話であるのがわかる。また「欧米企業では専門職務に徹するが日本企業はゼネラリスト志向だ」というのは、下級職員にはあてはまるが、幹部候補生レベルの上級職員は必ずしもそうではない。「日本は年功制だが欧米は厳しく査定される」というのは、下級職員や現場労働者には当てはまらないことが多い。

 なるほど。
 たしかに日本の会社ではふつう「同じ会社の正社員であれば平等」である。
 会社であれば定期的に部署移動がある。そうでない会社でも、職種によって極端な賃金格差が生じることはない。同じ年齢・同じ性別・同じ学歴であれば同じような給与体系になる。 

 その一方で、会社が異なれば給与が異なってもしかたないと受け止められる。
 だから転職に二の足を踏む人も多い。会社を移ることで給与が大幅に下がる可能性があるからだ。

 だがアメリカなどでは職務の平等が重要視される。同じ会社の同じ年齢の社員であっても、経営部門か現場労働者かでまったく待遇が異なる。

 どちらが良いというものでもない。それぞれにメリットとデメリットがある。
 だが「社員の平等」があたりまえとおもわれている日本で同じ会社の社員に極端な差をつけるのはむずかしいだろうし、「社員の平等」を実現するためには「親会社と子会社の平等」や「正規社員と非正規社員の平等」などは切り捨てざるをえず、さんざん言われている〝同一労働同一賃金〟も実現するのはかなり困難だ。

 この本の中で著者も書いているが、日本には日本の、アメリカにはアメリカの、ドイツにはドイツの働き方がある。それは経営者の事情、労働者の事情、教育体制、税制、社会保障制度などが混然一体のなった結果として成立しているものだから、「アメリカの企業ではこんな働き方が主流だ。だから日本でも取り入れよう!」という取り組みは無意味だし、強引にやっても失敗する。ゾウの鼻とライオンの牙とウサギの俊敏性だけを取り入れることはできないのだ。


 この本自体には「こういう働き方をするべきだ!」といった主張はない。
 ただ歴史的な背景や各国との比較をもとに「日本の働き方はこうなっている」という説明をしているだけだ。

 でも、目先の利益しか考えていない経営者が「こういう働き方をするべきだ!」と言いだしたときに「バカ言ってんじゃねえよ」と一蹴するための知識を与えてくれる。


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2021年6月30日水曜日

四刑

 子どもの頃、「四刑(しけい)」という遊びをよくやっていた。物騒な名前の遊びだ。
 検索してみたのだけれど、見当たらない。Wikipediaにしけいという項目があったが、ぼくらがやっていた「四刑」とはけっこうルールが違う。


 ぼくらがやっていた四刑は、こんなルールだ。

  1. まずじゃんけんで順番を決める。
  2. 1人目が壁に向かってボールを蹴る。
  3. 壁に当たってはねかえってきたボールを、2人目がまた壁に向かって蹴る。蹴れるのは一度だけ。
  4. 蹴っても壁に当たらなければ「一刑」となる。また、順番でない人がボールに触れた場合も「一刑」となる。
  5. 「四刑」になれば負け。罰として、壁にくっつくようにして立つ(壁を向く場合と壁に背を向ける場合がある。壁を向く方が怖い)。他の人が執行人として、負けたものに向かってボールを蹴る。当たる痛さよりも「ボールが当たるかも」という恐怖のほうが大きい。

 だいたいこんなルールだった。
 スポーツのスカッシュにちょっと似ている(もちろん小学生のときはスカッシュなんて知らなかった)。
 壁とボールさえあれば何人でもできるので、休み時間のたびにやっていた。


 確実に壁に当てるためには、ボールが壁に近いうちに蹴ったほうがいい。しかし壁にはねかえった直後はボールの勢いがあるので蹴りづらい。といってボールの勢いがなくなるのを待っていたら壁から遠ざかって当てづらくなる。なかなかむずかしい。

 駆け引きも生まれる。たとえば3番の人が3刑になっているとする。すると1番の人はわざと弱く蹴って、ぎりぎり壁に当たるようにする。すると2番の人は壁のすぐ近くからおもいっきり蹴ることができる。3番は不利になる。3番を殺すために1番と2番が協力するわけだ。

「順番でない人がボールに触れた場合も一刑となる」というルールも、ゲームをよりおもしろくしてくれる。
「壁を狙わずに他の人を狙って蹴る」という戦略も生まれる。他人に当てることができれば、一刑となるのは当てられた人だ。
 自分の順番はまだまだだからと油断していると、不意にボールを当てられてしまうこともある。常に緊張感を持っていなくてはならない。


 壁とボールさえあればできる上に、さまざまな戦略が立てられて奥が深い。

 もっと流行ってもいいのになあ。大人になった今やってもおもしろいかもしれない。


2021年6月28日月曜日

古いマンガばかり買い与えている

  七歳の娘に、古いマンガばかり買い与えている。

 ドラえもん、ちびまる子ちゃん、21エモン、パーマン……。ぼくが子どものころに読んでいたマンガばかりだ。
 おっさんになると古いマンガが読みたくなる。新しいマンガもおもしろいけど、手を出すのに気力がいる。『鬼滅の刃』とか「あれだけ流行ってるんだからまちがいなくおもしろいんだろうなあ」とおもうけど、新たに読みはじめるのがなんとなく億劫だ。
「流行ってるから手を出す」って恥ずかしいし。

 そんなわけで、娘といっしょに21エモンやパーマンを読んでいる。パーマンってもう五十年以上前のマンガなんだなあ。でも娘は楽しんで読んでいる。令和の子どもでも楽しめるのだ。
 こないだAmazon Primeで『パーマン』の昔のアニメを娘に見せてやったら大喜びで観ていた。ギャグシーンでは笑いころげていた。

 ぼくが昔読んでいたマンガやほしかったけど持っていなかったマンガを、娘のためと言いながら買い集めている。




 そういやぼくも小学生の頃、母親から昔のマンガを買い与えられた。
 べつにお願いしたおぼえもないのに、手塚治虫の『ブッダ』『三つ目がとおる』『火の鳥』『ブラック・ジャック』『鉄腕アトム』といったメジャーどころから『プライム・ローズ』『紙の砦』『日本発狂』『ルードヴィッヒ・B』などのマイナー作品までどっさり買ってくれた。『シュマリ』『奇子』『きりひと讃歌』など、性描写も多くてどう考えても子ども向けじゃないマンガもうちにあった(『火の鳥』や『シュマリ』は母が昔買ったものだった)。

 家に遊びに来る友人からは「おまえんちめずらしいマンガあるな」と言われた。
 手塚治虫が亡くなった数年後だった。ふつうの小学生の部屋には手塚治虫作品はなかった。

 あと中学生のときに『サザエさん』全集が刊行されて、それも母からプレゼントされた。
 正直『サザエさん』はマンガ自体がおもしろかったわけでもなかったが(新聞四コマなので時事ネタが多く後で読むとわかりづらい)、昔の世相が知れるおもしろさはあった。


 どうせなら当時人気のあった『ドラゴンボール』などを買ってもらえるほうが当時のぼくはうれしかったが、それでもマンガをたくさん読めるのはうれしく、手塚治虫作品を何度もくりかえし読んだ。




 当時は気づかなかったが、最近になってあの頃の母の気持ちがわかった。
 我が子に、自分が読んだものを読んでほしいという気持ち。
 特にぼくの姉は本を読まない人だったから(マンガもあまり読まなかった)、ぼくはいろいろな本を買い与えられた。
 マンガだけではない。東海林さだおや群ようこのエッセイ、北杜夫のユーモア小説、椎名誠の私小説。母がぼくに買ってくれたものもあるし、母の本棚からぼくが勝手に手に取ったものもある。ジェフリー・アーチャーの短篇集とか。


 母の少女時代のことはよく知らないけど、きっとサブカル少女だったのだろう(もちろん母が少女だった頃にそんな言葉はないが)。
 だから母のふとした気まぐれで、ぼくは手塚治虫マンガを買い与えられたり、平日の昼間に落語会に連れていかれたりした(学校をサボって)。

 こういう姿勢はちゃんと受け継いでいかないとな。
 だからこれからもぼくは娘に昔のマンガを買い与えようとおもう。妻からの「部屋が散らかるから、マンガ買うんだったら片付けして」という言葉を聞き流しながら。


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2021年6月25日金曜日

【読書感想文】ちょっと嘘っぽくてちょっとだけ嫌な展開 / 新津 きよみ『星の見える家』

星の見える家

新津 きよみ

内容(e-honより)
安曇野で一人暮らしをする佳代子。病気がちの弟のため、家族で引っ越し、ペンションを始めたのだが、体調が回復した弟が東京の高校に進学したことを機に、家族はゆるやかに崩壊していく。一人になった佳代子は、ペンションをやめベーカリーを始めるのだが、そこにはある秘密が…(表題作)。再び生きることを目指す女性の恐怖と感動を描く、オリジナル短編集。


 短篇集。内容も登場人物はバラバラだが、主人公はみんな四十代ぐらいの女性。

『危険なペア』には三人の女性が出てくるが、全員「均等法一期生」。そんな言葉があるなんてぼくもこの本で知ったのだが、男女雇用機会均等法が施行された1986年4月に社会人となった世代を指す言葉らしい。
 この本の刊行が2009年なので、主人公たちは45歳ぐらい。今だと60手前か。団塊の世代と団塊ジュニアの間ぐらいだね。


 均等法一期生である主人公たちは、みなあまりいい境遇に置かれていない。
 離婚してシングルマザーになっていたり、失業していたり、機会に恵まれずいまだ独身だったり。

 今もそうだけど、均等法一期生の女性ってとりわけたいへんだっただろうなあ。タテマエとしては男女平等になってるけど、実態はぜんぜんそうなってない。上の人たちはみんな古い考えのまま。

 いつだって楽な時代なんてなかったとはおもうけど、何がつらいって「理想と現実の違いが大きい」ことがいちばんつらい。
 ぼくは80年代生まれなんだけど、この世代はそもそも世の中に対してあまり期待していない人が多い。生まれたときからずっと不況で、羽振りが良かった時代をほとんど見ていない。子どものころからリストラだ経営破綻だというニュースを観てきた。
 だからそもそも「がんばれば必ずいい暮らしができるようになる」とか「ふつうに就職してふつうに結婚してふつうにサラリーマンと専業主婦になって……」とかの価値観を持っていない。

 でも、均等法一期生世代とか団塊ジュニア世代はきっとそうじゃない。子どものころにはまだ「ふつうにがんばればいい暮らしができる」幻想が生きていたんじゃないかな。
 上の世代を見ているとおもうもん。「幸せは努力すれば勝ち取れるものとおもってるんだろうなー」って。

 そういう「理想とはほど遠い生活を送っている中年女性」をうまく描いている。まあ理想通りの人生を送っている人なんてどこにいるんだって話だけど。




 サスペンスやミステリっぽい短篇が並ぶが、どれもいまひとつ。
 どうも切れ味が鈍いんだよね。
 軒並み期待を下回ってくる。
 あっと驚く展開はない。かといってほんとにありそうかというと、そこまでのリアリティはない。
 ちょっと嘘っぽくてちょっとだけ嫌な展開が続く。


 一篇選ぶとしたら『再来』。

「主人公の娘が、前世の記憶を持っているらしい」と
「主人公の友人がかつて誘拐軟禁事件の被害者だった」というまったく別の話が同時進行で語られる。

 これがどうつながるのか……という謎の張り方はおもしろかった。

 だが結末は、うーん……悪くはないけど……。
 ほとんどつながらないのか……。


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