2021年6月10日木曜日

ツイートまとめ 2020年12月



初対面

関西弁

上方浸水大賞

泣いて馬謖を斬る

GoToキャンペーンのおかげ

言い逃れ

ウイルス側

指の名前

ピスタチオ

DV

2021年6月8日火曜日

オリジナルの公園あそび

 子どもたち(小学校低学年)と遊んでいるときに思いついた、オリジナルのあそび。


スパイおにごっこ

(5人~)

1. まず鬼を決める。
 くじ引き、または鬼が選ぶことで、スパイをひとり決める。
 みんなが目をつぶって後ろを向き、鬼がこっそりスパイの背中をタッチする。鬼とスパイにだけは、誰がスパイかわかる。他の子には誰がスパイかわからない。

2. 全員ばらばらに離れた状態になってからおにごっこスタート。
 鬼は他の子を追いかける。スパイは鬼から逃げるふりをしながら他の子に近づいてタッチする。
 タッチしているところを他の子に見られると鬼だとばれるので、なるべくこっそりと。

3. タッチをしても鬼は鬼のまま。タッチされた子はスパイになる。
 どんどんスパイが増える。

4. スパイはうそをついてもいい。

5. 最後のひとりが捕まったら終わり。


 子どもは嘘や芝居が上手でないので、たいていすぐにばれて中盤からはふつうのおにごっこ(増え鬼)になる。
 鬼とスパイが会話をしているところを見られたりして、すぐにばれる。




全員おにごっこ

(4人~)

1. 全員が鬼であり、鬼から逃げなければならない

2. 他の子の背中をタッチすれば1点。背中以外はタッチしても無効。
 腕などをつかむのは禁止。

3. 同じ子をタッチできるのは1回まで。
 また、協力してお互いにタッチしあうのは禁止。

4. 最初に3点稼いだ子の勝ち。


 タッチをされてもマイナスにはならないので、積極的に攻めたほうがいい。ずっと背後を守っていると点が稼げない。




じゃんけんおにごっこ

(基本的に3の倍数。6人がベスト)

1. グーチーム、チョキチーム、パーチームに分かれる。

2. グーチームはチョキチームをタッチする。チョキチームはパーチームをタッチする。パーチームはグーチームをタッチする。

3. 標的となるチーム全員をタッチしたチームの勝ち。


 ずっと逃げていると勝てないのでこれまた積極的に攻めたほうがいい。
 足が遅い子でもうまく立ちまわれば捕まらずに済む(グーチームの子はチョキチームの近くにいるかぎりパーチームは近寄りづらい)。

 四チームでもできる。AがBを狙う、BがCを狙う、CがDを狙う、DがAを狙う。こっちのほうがより戦略が重要になる。AとCはお互い標的ではないので、いっしょにいることで「B・Dに襲われにくい」というメリットがある。そうなるともちろんB・Dも手を組むことになる。




ボールあてサバイバル

(3人~)

1. あまり広すぎないスペースでおこなう。ボールがふたつ以上あるといい。

2. 他の子にボールを当てる。先に三回当てた子の勝ち。


 すごくシンプルだが非常に熱くなる。いちばん無防備なのはボールを投げようとしているときなので、積極的に攻めすぎても狙われやすくなる。
 同盟を結んだり、裏切りが発生したりといった展開もある。
 たいへんアグレッシブな遊びなので、男の子は大好きだが女の子は敬遠しがち。




ワニのいる川を渡る

(3人~)

1. ワニチームと人間チームに分かれる。ワニチームは1~3人。川の幅などによって調整する。

2. 10メートルほどの間隔をあけて2本の線を引く。その線の間が川、線の外側が陸地。

3. ワニチームは川の中しか移動できない。

4. 人間チームは片方の陸地からもう片方の陸地に移動する。途中でワニにタッチされたら、元の陸地に戻る。

5. ワニ以外チームは、制限時間(3分ぐらい)の間に2人(ここも人数によって調整)が川を渡れば勝ち。制限時間内に渡れなければワニチームの勝ち。


 個人戦ではなく「何人かは捕まってもいい」というのがポイント。
 誰かがおとりになっている間に他の子が川を渡れば勝てる。
 何度捕まっても再スタートできるので、小さい子もいっしょに遊べる。

 今回紹介した遊びの中では、これがいちばん誰もが楽しめる遊び。



2021年6月7日月曜日

【読書感想文】中学生の気持ちを思いだす / 津村 記久子『まともな家の子供はいない』

まともな家の子供はいない

津村 記久子

内容(e-honより)
気分屋で無気力な父親が、セキコは大嫌いだった。彼がいる家にはいたくない。塾の宿題は重く、母親はうざく、妹はテキトー。1週間以上ある長い盆休みをいったいどう過ごせばいいのか。怒れる中学3年生のひと夏を描く表題作のほか、セキコの同級生いつみの物語「サバイブ」を収録。14歳の目から見た不穏な日常から、大人と子供それぞれの事情と心情が浮かび上がる。

 中学生女子の日常を描いた小説。
 家にいづらくて図書館に行ったり、あまり親しくない同級生に塾の宿題を写させてもらったり、男子の尾行をする友人につきあったり、特に何が起きるわけでもないが、おもしろかった。
 中学三年生の夏ってこんな感じだったなあ。けだるいしむかつくことだらけだし特に大人には腹が立ってばかり。何かしないといけないような気もするし、でも何にもなれないし。

 スガシカオの『奇跡』という歌がよく似合う小説だ。何か起こりそうな予感だけがあって何も起こらない。




 タイトルの通り、『まともな家の子供はいない』に出てくる大人はみんな問題を抱えている。不倫、買い物中毒、失業、別居、子どもへの無関心……。
 でも問題といえば問題だけど、大人からすると「まあそんなこともあるよね」という程度の問題だ。わりとよく聞く話だもん。
 他人事であれば些細な問題。でも子どもからすると、親の失業や不倫は大問題だ。自分の人生が大きく揺らいでしまう。だけどどうすることもできない。

 中学生って、いちばん親に対する目が厳しくなる時期だよね。
 小学生とちがって親のダメなところとかいろいろ見えてくるしさ。といって「家を出る」とか「自分でバイトする」とかの選択肢はないしさ。何をするにも、最後は親にお伺いを立てなければならない。
 高校生ぐらいだったら「卒業して実家を出るまでの辛抱」と耐えられるかもしれないけど、中学生からしたら親元を離れられるまでは途方もなく長い。

 それに高校生ぐらいだと「教師も親も自分らとたいして変わらない人間なんだからおかしなところもだめなところもあるさ」とおもえるようになってくるんだけどね。
 中学生にとっては、親や教師は立派な人間でいてほしいという願望と、親も教師はだめなやつだという現実の両方が存在する。だから大人が許せない。




 あとさ、自分が中学生のときはそんなこと想像もしなかったけど、今自分が親になっておもうのは
「親も十数年やってたら疲れてくる」
ってこと。

 ぼくはまだ親になって八年ぐらいだけどさ。でも新人親の頃に比べるといろいろとだらけてきている。
 たとえば親になったときは「子どもの前で極力スマホは使わないようにしよう」っておもってたんだよね。子どもをほったらかしでスマホに興じてる親を蔑んでた。
 で、実際必要なとき以外は子どもの前ではさわらなかった。ゲームをしたり娯楽の動画を観たりなんてもってのほか。
 でも今は子どもの前でスマホを見ちゃう。ゲームをすることもある。ああ、だめな親だ。

 そんな感じで「こういう親になろう」という決意は、時とともにどんどんくずれてゆく。子どもの前で不機嫌になってしまったり、よく確かめもせずに叱ったり、ごろごろだらだらしてしまう。

 ちゃんとした親をやりつづけるのもしんどいんだよな。
 だから子どもが中学生になったときにはもっとダメな親になってるとおもう。自分が嫌悪してた大人になるとおもう。

 それに、まだうちの娘は七歳だから「おとうさんあそぼー!」と言ってくれるし、「買い物に行くけどいっしょに行く?」と訊いたら二回に一回ぐらいはついてきてくれる。
 なついてくれるからこっちもいい父親であろうとするけど、反抗期を迎えて口も聞いてくれなくなったら、こっちも人間だから「立派な父親でいる」モチベーションも低下するだろう。

 おもいかえせば中学生のとき、親が離婚した同級生が何人もいた。うちの親は離婚しなかったが、当時はしょっちゅう喧嘩していた(今は仲がいい)。

 子どもが親に依存しているように、親もけっこう子どもに依存しているんだよね。だから子どもが離れていったら親もよりどころを失う。
 だから子どもが中学生ぐらいになると親も離婚したり不倫したりするんじゃないかな。中学生のときはそんなこと想像だにしなかったけど。
 ぼくも気をつけねば。




 この小説を読んでておもいだしたんだけど、中学生のとき、毎月親からおこづかいをもらうのが嫌だったなあ。
 もちろんこづかいはほしいんだけど。でも、毎月1日はこづかいの日って決まってるんだけど、父親は1日にくれないんだよね。忘れてるのかそれともわざと忘れてるふりをしてるのか。だからこっちから「おこづかいちょうだい」と言わないといけない。
 それがすごく恥ずかしかった。
「保護者と被保護者」という立場を否が応でもつきつけられるわけじゃない。おこづかいをあげる側ともらう側なんだから。「おい、こづかい」なんて言うわけにはいかない。
 だから日頃どれだけ「父親なんてうっとうしいぜ」「おれはひとりでも生きていけるぜ」「親となんか口も聞かねえぜ」ってスタンスを気取ってても(不良ではなかったけど)、毎月1日だけは「おこづかいちょうだい」とおねだりする息子にならないといけない。それが嫌だった。
「こうありたい」自分と「この程度の」自分のギャップをまざまざと見せつけられる日だったんだよね。毎月1日は。




 この物語自体がおもしろいというより、「自分が中学生だったときの気持ち」を思いだしたり「自分が中学生の親になったときの気持ち」を想像したりさせてくれる小説だった。

 こういう小説もいいよね。いろんな感情を引き起こすトリガーとなる小説。


【関連記事】

【読書感想文】名盤アルバムのような短篇集 / 津村 記久子『浮遊霊ブラジル』

中高生の居場所をつくるな



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2021年6月4日金曜日

【読書感想文】クズ男に甘い / 東野 圭吾『恋のゴンドラ』

恋のゴンドラ

東野 圭吾

内容(e-honより)
都内で働く広太は、合コンで知り合った桃美とスノボ旅行へ。ところがゴンドラに同乗してきた女性グループの一人は、なんと同棲中の婚約者だった。ゴーグルとマスクで顔を隠し、果たして山頂までバレずに済むのか。やがて真冬のゲレンデを舞台に、幾人もの男女を巻き込み、衝撃の愛憎劇へと発展していく。文庫特別編「ニアミス」を収録。

 東野圭吾作品で「衝撃の愛憎劇」なんて書いてあるから、てっきり殺人事件に発展するのかとおもったらそんなことはなかった。

 基本的にはラブコメだ。でも人によってはサスペンスとおもうかもしれない。
 あらすじに書いてある通り、浮気がばれそうになる男の話だ。
 シチュエーションコメディとしてはおもしろいけど、この「浮気がばれるかばれないか」で一冊引っ張るのは無理があるのではないかとおもっていたら、この話はあっさり終わってしまう。短篇集だったのだ。

 とはいえ連作短篇集で、ここの短篇はそれぞれリンクしている。ある短篇の脇役が次の話の主人公になる……という感じ。
 このへんの構成はすごくうまい。
 まあリアリティはないんだけど。偶然が続きすぎて、どんだけ世間狭いねんって感じで。

 とはいえ、求められるリアリティなんてテーマによってずいぶん変わってくるとおもうんだよね。
『恋のゴンドラ』みたいなポップなラブコメの場合、そこまでリアリティを追求しなくていいとおもう。
 本格ミステリでこれだったら怒るけどね。




 しかし『夜明けの街で』を読んだときもおもったけど、東野圭吾さんはダメな男に甘いよね。ダメな男というか、クズな男というか。浮気をしちゃう男に対する処遇が甘い。

 浮気をした男はそれなりにしっぺ返しを食らうけど、それがすごく軽い。
 こっぴどく怒られて終わり、ぐらいなのだ。それでクズ男を許してしまう。
 女性作家だったらもっとひどい目に遭わすとおもうんじゃないかな。尻の毛までむしりとるぐらいにさ。

 登場人物への処遇の方法に、作者の恋愛観が表れるような気がするな。


【関連記事】

【読書感想文】不倫×ミステリ / 東野 圭吾『夜明けの街で』

【読書感想文】登山のどろどろした楽しみ / 湊 かなえ『山女日記』



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2021年6月3日木曜日

【読書感想文】最後にいきなりカツ丼出されるような / 桐野 夏生『夜の谷を行く』

夜の谷を行く

桐野 夏生

内容(e-honより)
山岳ベースで行われた連合赤軍の「総括」と称する凄惨なリンチにより、十二人の仲間が次々に死んだ。アジトから逃げ出し、警察に逮捕されたメンバーの西田啓子は五年間の服役を終え、人目を忍んで慎ましく暮らしていた。しかし、ある日突然、元同志の熊谷から連絡が入り、決別したはずの過去に直面させられる。連合赤軍事件をめぐるもう一つの真実に「光」をあてた渾身の長編小説!

 はじめにことわっておくと、山岳ベース事件(凄惨な事件なので苦手な人は閲覧注意)を知らない人には何が何だかわからない小説だとおもう。

 山岳ベース事件の生き残りの四十年後を書いた小説だが、事件に関する説明はこの本には書かれていない。事件の内容を知っていることを前提に書かれているので、この本を読む前にWikipediaでもいいから事件の概要を知っておくことをお勧めする。




 山岳ベース事件にはなぜか惹きつけられる。
 事件はぼくが生まれるより前の事件だが、知れば知るほど「特殊な状況に置かれた人間がいかに異常なふるまいをするか」ということをまざまざと見せつけてくれる。
 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のDVDも買った。フィクションだとわかっていても身の毛がよだつほどの生々しさを感じた。
 人間ってこんなにかんたんに狂えるのか。思考能力はこんなにたやすく奪われてしまうのか。

 ちなみに、「山岳ベース」よりもその後の「あさま山荘事件」のほうが有名だが、あれは追いつめられた人間が人質をとって立てこもっただけなので異常性は感じない。
 「山岳ベース」事件は怖い。
 人間が潜在的に持っている残酷性をはっきりとつきつけられるので怖い。人間って集団になるとこんな残酷なことをやれるのか。三十人近くいて誰も止めないのか……。

 もし自分が山岳ベース事件の場にいたらどうしていただろう……という考えを拭い去ることができない。戦ったり逃げたりできただろうか。殺されていただろうか。それとも、殺す側にまわっていただろうか。

 自分がどうしていたかはわからない。
 ただ「おれは絶対その場にいてもリンチには加担しなかった」というやつだけは信用できないとおもう。真っ先にリンチに加担するのはそういうやつだ。きっと。


 少し前に清水潔『「南京事件」を調査せよ』という本を読んだ。
 南京大虐殺と山岳ベース事件は似ているとおもう。命令されれば(場合によってははっきりと命令されなくても)、人間はどこまでも残虐になれる。特別に凶暴な人でなくても、ごくふつうの人がかんたんに他人を殺してしまう。




『夜の谷を行く』は、山岳ベース事件の生き残りである西田啓子(架空の人物だがおそらくモデルはいる)を主人公にした小説だ。
 舞台は二〇一一年。東日本大震災の前後。
 西田啓子は指導部ではなかったもののリンチに加担したため服役し、学習塾講師を経て、今ではひとりで暮らしている。ジムに通うのと焼酎を飲むのが好きな、老婆の静かな暮らしだ。
 しかし彼女の生活に四十年前の事件はずっとついてまわる。親戚の縁を切られ、唯一付き合いのある妹とは四十年たった今も事件をめぐって諍いが絶えない。姪の結婚にも啓子の過去が影響を及ぼす。

 彼女は「あの事件はすべてまちがいだった」とおもっているわけではない。もちろんすべてを肯定しているわけではないし、誤ちを犯したことは認めている。とはいえ、すべてが誤りだったとおもっているわけでもない。しかたなかったことや、正しいこともあったとおもっている。

 このへんの心の動きがすごくリアルだ。
 人間って、そんなにかんたんに過去の自分を全否定できるものじゃない。
 戦争に行って戦った人が、終戦後に「あの戦争はすべてまちがいでした」と言われても全面的に受け入れられたわけじゃなかっただろう。まちがいもあったけど、彼らが国や家族を守るために戦いに挑んだことまでもが誤りだったと受け入れられた人は少なかったんじゃないだろうか。

 山岳ベース事件は、外にいた人からしたら
「なんでそんなことしたんだ」
「自分だったらぜったいにそんなばかなことはしない」
と言いたくなることばかりだ。

 でも当事者である西田啓子にはそうおもえない。過去に対して線を引いてきれいさっぱり忘れることができない。
「間違いだったとされていることをしてしまった」とはおもっているが、「間違ったことをしてしまった」とはおもっていない。

「心からの反省」だとか「過去を悔やんでの改心」なんてしたことがあるだろうか。
 ぼくはほとんどない。
「もっとうまく立ちまわればよかった」ぐらいのことは考えるが、「あのとき自分はなんであんなばかなことをしてしまったんだろう」とまではおもわない。それをしてしまうと今の自分の存在が揺らいでしまうから。

 裁判所や刑務所で改悛の意志とかいうけど、あんなの噓っぱちだよね。まあ一パーセントぐらいは本気で改悛する人もいるのかもしれないが、ほとんどは「へたこいた」ぐらいにしかおもっていないとおもう。




 この小説、わりと平坦に話が進んでいくんだけど最後に大きなどんでん返しがある。
 たしかにびっくりしたんだけど、そういう小説だとおもってなかったのでかえって肩透かしを食らったような気になる。
「ははあ、元連合赤軍メンバーの心情を静かにつづる小説なんだな」とおもっていたら最後の最後で急にミステリになるというか。
 コース料理でスープと前菜と魚と肉を味わって「そろそろデザートかな」とおもってたら、突然カツ丼が運ばれてくるような。
  えっ、あっ、いや、たしかにカツ丼好きですしすごくおいしそうなカツ丼ですけど、今はそんなの求めてないんですけど。


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【読書感想文】旧知の事実を再検証しなくちゃいけない徒労感 / 清水 潔 『「南京事件」を調査せよ』



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