2021年4月15日木曜日

ツイートまとめ 2020年8月



避難所

イソジン

今できること

王手

BGM

正しく

売場

ネコバス

下ネタ

ロシア

リアクション

古本屋

カラス

健康

ボーっと生きていないからこそわからない

ツッコミ

セクハラ

変遷

信仰の自由

効果



2021年4月14日水曜日

【読書感想文】小説の醍醐味を感じられる短篇集 / 向田 邦子『思い出トランプ』

思い出トランプ

向田 邦子

内容(e-honより)
浮気の相手であった部下の結婚式に、妻と出席する男。おきゃんで、かわうそのような残忍さを持つ人妻。毒牙を心に抱くエリートサラリーマン。やむを得ない事故で、子どもの指を切ってしまった母親など―日常生活の中で、誰もがひとつやふたつは持っている弱さや、狡さ、後ろめたさを、人間の愛しさとして捉えた13編。直木賞受賞作「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」を収録。

 その世代の多くの女性がそうであるように、母は向田邦子作品が好きだった。
 テレビで向田邦子脚本のドラマをやるときは熱心に観ていたし、本棚には向田邦子さんのエッセイが並んでいた。
 『霊長類ヒト科動物図鑑』という興味深いタイトルに惹かれてぼくも手に取ってみたことがある(ぼくは母の本棚によって大人向けの本を読むようになった)。おもしろさがさっぱりわからなかった。まあそりゃそうだ。男子小学生向けじゃないもの。


 それからに二十数年ぶりに向田邦子さんの本を手に取ってみた。いい。実にいい。
 向田邦子さんってこんなに小説がうまかったんだ。
 個人的に「うまい小説」ってあんまり好きだじゃないんだよね。鼻につく感じがして。正確に言えば「うまいことを見せつけてくる小説」が嫌いなんだな。技巧的な文章とかこれ見よがしな比喩とかをふんだんに使って。

 でもこれは好き。にじみ出るようなうまさ。さらっと書いているようにおもえる。
 じっさいはそんなことないんだろうけどさ。でも「推敲なんてしてません」って感じが漂ってくる。それぐらい自然な文章。



 小説の題材も「そこを切り取るか!」と言いたくなるようなものばかり。

「よその家で火事が起きたときや葬式のときに妙にはりきる妻」
「妻が医者に対して甘えたような声を出す」
「魚屋の若い男がうちに来て犬の世話をするのが助かるがうっとうしい」
「小さい頃から守ってあげたくなるタイプだった妹が、夫と視線をからませていた」
「仕事に困っている写真屋に仕事を依頼したら、必要以上にへりくだってくるのが嫌になった」
「世渡りだけはうまい従兄弟に後ろ暗い秘密を知られてしまったのかもしれない。知られたところでどうということもないのだが、はっきりわからないので気がかりだ」

といった、大きなトピックではないけれど、当人にしたらのどに引っかかった小骨のようになんとなく気になる出来事を鮮やかにすくいとっている。
 ふつうの人ならもやもやしても五秒で忘れてしまうことを一篇の短篇にしてしまうのだから、うまいと言わずしてなんという。

 この人、俳句とか短歌とかもつくらせてもうまかったんじゃないかな。一瞬の感情の揺れを切り取るのがすごくうまい。



 個人的に好きだったのは、

 あまり器量のよくない女を愛人として囲っている男が、女が少しずつ垢ぬけてゆくたびに愛情が冷めてゆく『だらだら坂』と

 不慮の事故で息子の指を切り落としてしまったことがきっかけで離婚した母親があれこれと考え事をする『大根の月』。

 自分の人生とはまったく無縁の話なのに、なぜか「こういうことあるなあ」と共感してしまった。赤の他人の人生を追体験できる、小説の醍醐味を感じられる短篇だった。


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2021年4月13日火曜日

【読書感想文】情熱と合理性のハイブリッド / 正垣 泰彦『サイゼリヤ おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい料理だ』

サイゼリヤ
おいしいから売れるのではない
売れているのがおいしい料理だ

正垣 泰彦

内容
「自分の店はうまい」と思ってしまったら、もう進歩はない。物事はありのままに見て、データに置き換えよ。失敗は成功のためにある。商売は、やっている人間が楽しくなければ続かない――。国内外で1300店を超すレストランチェーンを築きあげたサイゼリヤ創業者による、外食経営の指南書。

 サイゼリヤにはよく行く。ただの客としてだが。うちの家から歩いて行ける距離に二軒もサイゼリヤがある。なんて恵まれた立地だ。サイゼリヤがあるからここに住んでいると言っていい。それは嘘だ。

 サイゼリヤは信じられないぐらい安い。がんばってあれこれ注文してもひとり千円ぐらい。五百円でも満足いく。
 一度、友人たちと昼間からサイゼリヤで飯を食ってワインをデカンタで何杯か頼んでつまみにエスカルゴやらハムやら頼んで三時間ぐらい居座ったことがあるが、それでもひとり二千円ぐらいだったか。安すぎて心配になるぐらい安い。
 それでいてうまい。某ファミリーレストランだと「麺とか安いハンバーグは(値段の割に)うまいけど、ちょっと奮発してステーキを頼んだたら大失敗だった」なんてことになるのだが、サイゼリヤは全部うまい。安いメニューも、高いメニューも(といっても千円しないのだが)全部うまい。
 特に2020年秋限定の「ラムときのこのきこり風」はうまかったなあ。あれを目当てに再訪してしまったぐらい。あれが七百円で食えるなんて。

 ぼくは味音痴なのでたいていのものはおいしく食べられるのだが、ホテルのフレンチレストランでシェフをしている幼なじみも「サイゼリヤはうまい」と言っていた(じっさいよく行くらしい)ので、サイゼリヤのおいしさは本物なのだ。



 そんな「サイゼリヤ」創業者が外食店経営について語った本。

 外食産業とはまったく関係のないぼくにとっても、なるほどと感心することが多かった。

 だからサイゼリヤは、店長に売り上げ目標を課していない。店長の仕事は人件費、水道光熱費など経費をコントロールすることだ。店の売り上げは「立地」「商品」「店舗面積」で決まる。売り上げが悪くなるとすれば、商品開発をする本社の責任で、店長のせいではないからだ。
 それに「売り上げを何とかしろ」と店長に言えば、販促にお金を使うしかなくなってしまう。私は広告宣伝や販促をしたことはないが、仮にそれらを実行してお客様が増えても、急な客数増による慣れない仕事で現場が疲れるだけだ。やみくもに販促をしたり、安易なひらめきでアイデア商品を投入したりする店もあるが、短期的には売り上げが増えても、生産性を下げ、長期的には店の力を弱くしてしまうだろう。
 ほとんどの人は売り上げが増えれば、利益も増えると思っているが、それは違う。利益は「売り上げ」-「経費」。売り上げが増えなくても、無駄を無くして、経費を削れば利益は増える。経営者は日頃から、売り上げが減っても利益が増える店を目指すべきで、売り上げが減って利益が出ないから困るというのは、今まで無駄なことをたてくさんしていたというのに等しい。

 なるほどねえ。
 外食産業に関わったことがないが、DVDやCDも取り扱っている書店で働いていたのでぼくも「売上重視主義」には疑問を持っていた。
 ぼくが働いていた店の売上は、店員の努力と関係ないところで決まっていた。
 村上春樹の新刊が出れば文芸書の売上は上がるし、『ONE PIECE』と『NARUTO』と『HUNTER×HUNTER』の新刊がそろって出たときはコミックの売上がすごいことになった。
 DVDやCDも同じだった。EXILEやAKB48や嵐の新譜が出るかどうかで月の売上は大きく違った。
 あとは競合店の有無とか、客の懐事情とか、天気とか、近くでイベントがあるとか、要するに「店ではコントロールできない事情」によって売上はほとんど決まっていた。
 そりゃあ接客態度とか陳列方法とかも多少は影響あるだろうけど、「この店は接客がいいから欲しい本ないけど無理して買おう」「店員の挨拶の声が小さいから買おうと思ってた『ONE PIECE』の新刊買うのやめよう」となる人はまずいない。

 飲食店の場合は、味とか値段とか書店に比べればコントロールできる部分が多いけど、そうはいっても「同じ食材を使ってるのにずばぬけておいしい料理」なんか作れないし、できるならみんな真似するし、「同じ食材を使ってるのにうちは相場の半額で出します」というわけにもいかないだろうし、立地が良ければ家賃は上がるし、結局のところ似たり寄ったりのサービス・価格に収束していくだろう。

 チェーン店の店長が交代したとして、売上を10%伸ばすことはまず不可能だろう。立地やメニューや客層が変わらないのに、売上が急に伸びることは(よほどの幸運に恵まれないかぎり)不可能だ。
 だが経費を10%削ることはできるかもしれない。すいている時間帯はバイトを減らすとか、ひまなときに将来分の仕事をしておくとか、廃棄物を減らすとか。

「売上を上げるのではなく経費を減らすのが店長の仕事」というのはすごく理解できる。
 ただ、経費削減を実現しようとすると「店長自ら残業しまくる」がいちばん手っ取り早い解になってしまうんだよねえ。というかほとんどの店長にとっては唯一解。

 ぼくが働いていた書店もそうだった。社員はみんな月100時間ぐらい残業していたし、店長はもっと。忙しい時期は休みもろくにとっていなかった。

 この本を読むかぎりではサイゼリヤの社員の労働時間はわからないけど
「創業者である正垣泰彦氏が『若いころはほとんど休みなしで働いていた』自慢をする」
「外食産業にしては高給与であることを誇っているが勤務時間についてはまったく触れられていない」
ことから想像するに、決して十分な余暇時間が得られる職場ではないんだろうなあ。
 というか正垣氏が「余暇? なにそれ?」みたいな人だもんな。自分が365日24時間仕事のことを考えていても平気な人って、他人にも同じものを求めるからなあ。



 正垣泰彦氏の考え方は、情熱と合理性が同居していておもしろい。
 どちらかしか持っていない人は多いけど、この人は「いい世の中にする!」「お客様に満足してもらう!」みたいな抽象的なビジョンを持ちつつ「それを実現するにはどうしたらいいか。どうやったら客観的に計測可能な数値に落としこめるか」という視点も忘れていない。

 飲食店の従業員はよくお客様に「いかがでしたか?」と料理の味をたずねる。お客様が笑顔で「おいしかったよ」と答えてくださるなら、これ以上の励みはない。そして、本当に「おいしい」と思っていただけたなら、必ず、また来てくださるはずだ。
 だから、「おいしい」=「客数」と考えるようにしている。客数が増えているなら、その店の料理はおいしい。逆に客数が減っているなら、その店の料理はおいしくないのだから、何らかの対策を講じるべきだ。

「お客様を笑顔にする!」を掲げるお店は多いけど、ふつうはそこで終わってしまう。
 だがこうして「おいしい」を測るための指標を仮に「客数」と置くことで、時間・場所・観測者の主観を超えて比較が可能になる。数値比較が可能になれば、何をすれば「お客様の笑顔が増えたのか」「お客様の笑顔に影響を及ぼさなかったのか」「お客様の笑顔が減ったのか」がわかるし、後々まで知見として活かせる。

 私は競合店が増えることは良いことだと思っている。それはお客様の選択肢を増やすことであり、社会を豊かにする。ただし、競合店の出現で、曜日・時間帯別にどの程度、客数が減ったかを把握し、客数が減った曜日・時間帯の担当スタッフを減らすことで人件費を減らさなければならない。また、競合店の商品が魅力的なら、それに負けないような新商品の開発を本部に提案するのもエリアマネジャーの仕事だ。
 当社では、こうした経費のコントロールの精度が高くて、的確な報告・提案ができるエリアマネジャーが、本部スタッフなど次のステップに上がっていく。

 売上や経費を構成するものを「知恵や努力である程度コントロール可能なもの」「コントロールできないもの」に切り分ける。そして後者についてはすっぱり諦める。
 ぼくはWebマーケティングの仕事をしているが、こういう思考は常に求められる。広告を出すときに「いつ出すか」「どこに出すか」「どんな人に出すか」「どんなタイミングで出すか」はある程度コントロールできる。でも「広告を見た人がどうするか」や「競合がいつ広告を出すか」はコントロールできない。だったら後者は平均をとって定数として扱い(中期的に変えていく必要はあるけど)、基本的には変数である[コントロールできる部分]を調整する。
 マーケティングに失敗する人は、コントロールできない部分ばっかり見るんだよね。
「競合の××社に負けるな!」とか「冷やかし客に広告をクリックさせないようにしろ!」とか。

 正垣氏は、この「コントロールできる部分」「コントロールできない部分」の切り分けがうまい。
 ただ情熱があるだけでなく、その情熱の注ぎ方に無駄がない。
 大学では物理学科にいたらしく、なるほど物理学者の思考だ。




 改めてサイゼリヤとその創業者のすごさがわかる。
 わかるが「ぼくもここで働きたい!」とはならないな。とてもついていけない。
 厳しい環境で苦労したい人にはいいだろうけど。

 サイゼリヤの安さの秘密は、創業者の合理的思考と、(たぶん)社員たちの過酷な労働によって支えられていることがよくわかる本だった。


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書店員の努力は無駄



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2021年4月12日月曜日

お塾

 子どもが塾に行く年齢は、年々早くなっていっているようだ。

 うちの子の周囲でも「中学受験対策の有名塾に入った」とか「××の春期講習に行かせている」といった声が聞かれる。まだ小学二年生だが。

 まだまだ必要ないとおもっているけど、そうはいっても周囲が塾に行きだすと焦る。「うちの子だけ取り残されてしまうのでは……」という気になる。

 焦りを払拭するため、小学校時代の同級生のことをおもいだす。



 悪友N。
 彼はもっとも勉強とは遠いところにいた。とにかく勉強ができない。というよりやろうとしない。宿題はやってこない。授業態度も悪い。小学生にして「おれはパチンコで食っていく」と言っていた。中学卒業後は、近隣でもっとも偏差値の低い高校を中退してホストになったと風のうわさで聞いた。その後の消息は知らない。

 小学校時代、Nからこんな話を聞いた。
「おれは小学校受験をさせられてん。いやでいやでしょうがなかったけど、親がむりやり。おれが勉強嫌いになったのはそのせいや。おれが小学校受験に失敗したから、親はおれに対して勉強の期待をしなくなった」

 嘘やろとおもった。とても小学校受験をするタイプには見えなかったからだ。
 だが言われてみればNの姉は地元では名門とされる国立の附属中学校に通っていた。たぶんNの親は、姉と同様にNにも国立小学校に行ってくれる期待をかけ、そして期待を捨てたのだろう。

 このエピソードは、ぼくに「幼いころから勉強漬けにしようとすると反動でとんでもないアホになってしまう」という意識を植えつけた。



 べつの友人D。
 家が近かったこともあり小学校低学年の頃から毎日のように遊んでいた。公園で走りまわったり、サッカーをしたり。活発な子だった。
 彼は小学校一年生のときからそろばん教室に通い、二年生には塾に通いだし、三年生になると塾が週六ぐらいになってまったく遊べなくなった。通っていたプール教室やサッカークラブもやめ、学校以外のすべての時間を塾にささげるようになった。

 Dの二歳上の兄もやはり小さいころから塾に通い、日本有数の進学校に入った。後に京大に入ったと聞く。

 一方のDは兄ほど勉強が得意でなかったようで、「日本有数の進学校」よりは少しランクの落ちる中学校に入り、そこの学校とはあまりあわなかったようで不登校気味になり、大学は「関西ではわりといいとされる私大である××大学」に入った。

 これは母から聞いた話だが、公立中学校、家からいちばん近い公立高校に通っていたぼくが京大に合格したとき、そのうわさをどこからか聞きつけたDのおかあさんが我が家にやってきて(それまで十年以上連絡をとってなかったのに)、「おたくのお子さんは公立高校から京大入ったんですって? うちの子なんか昔から塾に行って私学に行かせてたのに××大学にしか行けなかったんですよ……。ほんとお金が無駄になったわ……」と愚痴を吐いていったそうだ。
(ちなみにぼくの姉は××大学に行ってたので「おたくの娘の頭が悪いと言われてるようで不愉快だったわ!」と母は憤慨していた。)


 Dが優秀でなかったわけではない。小学校時代同じクラスだったぼくにはわかる。塾に通っているからというだけでなく、当意即妙な受け答えができたり、おもわぬ発想をしたり、柔軟な思考力を持った子だった。

 ただ、ぼくと同じで悪ガキだった。教師のことはなめてかかってる。教師から言われたことでも、自分が納得しなければ従わない。
 そういうタイプは、進学塾や「そこそこの進学校」には合わなかったんだろうなと今ならわかる(ちなみにトップクラスの進学校はたいていものすごく自由らしいので合っていたかもしれない)。

 もしDが公立中学校・公立高校に進んでいたらどうなっていただろう。



 このふたつの例をもって「塾や小学校受験・中学校受験なんて意味がない」と言い切る気はない。

 NもDも「塾通い・受験が(親の期待ほど)うまくいかなかったケース」だが、もしも塾に行っていなかったらどうだったかなんて誰にもわからない。

 ただ、年齢が低いほど「塾で先取りしていることでつけられる周囲との差」は大きくて、中学高校と進んでいくにつれその差はほとんどなくなる。

「塾に通っているからクラスの中でダントツによくできる子」が「塾に通っていてもそこそこのレベルの子」になるケースは多く見てきた。周囲も塾に通ったり家庭学習の時間を増やすからだ。

 勉強なんて周りと比べるようなものではないけれど、そうはいっても周囲は気になる。
「かつては周りを引き離していたのに追いつかれる」よりも
「かつてはぜんぜんできる子ではなかったけど歳を重ねるごとに相対的順位が上がっていく」ほうが、当人の意欲は湧きやすいだろう。まちがいなく。


 我慢だ、我慢。マラソンでいうとまだスタートしてトラックを出ていないぐらい。ここで大きなリードを得ても意味がない。

 今は「勉強を嫌いにならないこと」が最優先だ。

 だから小二の娘はまだ塾に行かせなくていいよねと自分に言い聞かせてるんだけど、そうはいっても周囲が塾に行かせているのを見ていると不安になる。
 ちくしょう受験産業め。親の不安にうまいことつけこみやがる……。


2021年4月9日金曜日

【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』

事実はなぜ人の意見を変えられないのか

説得力と影響力の科学

ターリ・シャーロット(著)  上原直子(訳)

内容(e-honより)
人はいかにして他人に影響を与え、他人から影響を受けているのか。名門大学の認知神経科学者が教える、とっておきの“人の動かし方”。タイムズ、フォーブスほか、多数のメディアで年間ベストブックにノミネート。イギリス心理学会賞受賞。

 デモを見るたびにおもう。
 あれを見て「これまで反対意見だったけどデモを聞いて考え方が変わった!」という人がこれまでひとりでもいたのだろうか。
 いや、ちょっとぐらいはいるか。一万人にひとりぐらいは。
 でも「うっせえんだよ」と反感を持つ人はその百倍以上いるとおもう。

 ネット上で議論をしている人がよくいる。一応議論なのかもしれないけど、傍から見ていると喧嘩にしか見えない。なぜなら、いっこうに議論が深まらないから。
 ネット上の議論で、どちらかが「私の誤解でした。あなたのご指摘の通り。勉強になりました」となっているのをほぼ見たことがない。議論の結果、双方の溝は埋まるどころか深まるばかりだ。

 世の中には「他人の意見を変えようとする人」がたくさんいる。それもストレートに。その試みはことごとく失敗している。誰しも「他人の意見を変えようとする人」の意見など聴きたくないのだ。


『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』の著者ターリ・シャーロットは、2015年のアメリカ共和党候補者討論会で、ワクチン接種についての医師のベン・カーソンの主張よりも、医学にはド素人のトランプの主張に強く心を動かされたことを例に挙げ、人を動かすのは事実や正確さでないと述べる。

 そして多くの論文や実験を挙げて「どのようなときに人は動かされ、どのようなときに動かないのか」を説明する。



 情報をたくさん知っている人ほど正しい判断ができるとおもってしまう。

 でもそれはまちがいみたいだ。

 チャールズ・ロード、リー・ロス、マーク・レッパーら三人の科学者は、アメリカの大学から「死刑を強く支持する学生」と「死刑に強く反対する学生」計四八人を選んで、全員に二つの研究結果を提示した。一つは極刑の有効性に関する証拠、もう一つは効果のなさに関する証拠を示した研究結果である。実はその資料は偽物で、ロードらがでっちあげたものだったが、そのことは伏せられていた。さて、学生たちはそれらの研究結果に納得しただろうか?
 自らの考えを変え得る素晴らしい証拠を備えたデータだと信じただろうか? 答えはイエスである──ただし、その研究結果がもとの自分の考えを強化する場合に限って。死刑を強く支持していた学生は、有効性が立証された資料をよくできた実証研究と評価する反面、もう一方を不用意で説得力のない研究だと主張した。そして、もともと死刑に反対していた学生はまったく逆の評価をした。最終的に、死刑支持者は極刑へのさらなる熱意を抱いて研究室をあとにし、死刑反対論者はそれまでより熱い思いで死刑に反対するようになった。この実験によって、物事の両面を見られるようになったどころか、意見の両極化が進んでしまったのだ。

 いろんな立場の意見を読んでも、人が信じるのはもともとの自分の考えに合致しているものだけ。耳に痛い意見は切り捨てる。

「エコーチェンバー効果」という言葉を最近よく耳にする。
 SNSで考え方の近い人だけフォローしてた極端な思想に染まってしまうよ、というやつだ。そのとおりだが、だったらいろんな人をフォローをしていたら極端な思想に染まらないかというと、そんなことはない。結局自分が持っている説を裏付ける言説をしてくれる人だけをピックアップして信じるのだから。

 情報を知れば知るほど、元々の意見に固執してしまう。なぜなら持論を裏づけるデータが得られるから。
 だったらどうしたらいいんだろうね。賛成派の意見だけ聞いてもだめ。反対派の意見を聞いてもだめ。かといってよく知ろうとしないのもだめ。どないせいっちゅうねん。

 極端に偏らないためには、せいぜい「自分の考えは歪んでいる」と認識することぐらいかな。「自分は中立公正にものを見ている」と感じたらもうあぶない。


 大統領や首相や府知事といった人のもとには、たくさんの情報が入ってくるはずだ。一般の人とは比べ物にならないぐらいの。
 だけど、彼らがいつも正しい判断を下しているようには見えない。むしろ誤ってばかり。
「なんでいくつも選択肢がある中で、よりにもよってその手を選ぶかね」と言いたくなるようなヘボ将棋を指すことも多い。

 それは、情報が集まりすぎるからなんだろうね(おまけに側近が機嫌をとるような情報ばかりを選ぶから)。情報が多いからこそ、正しい判断を下せない。



 さらに気を付けなくてはならないのは「多くの情報から偏った意見を選びだしてしまうのはバカのやることだ」とおもってしまう。

 なんと、現実は逆なのだ。

 こうした研究結果から、「自分本位な推論は知的でない人の特性だ」という思い込みは誤っていることがわかる。それどころか、認知能力が優れている人ほど、情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなり、ひいては自分の意見に合わせて巧みにデータを歪めてしまう。だとしたら皮肉な話だが、人間はより正確な結論を導き出すためではなく、都合の悪いデータに誤りを見つけるために知性を使っているのではないだろうか。だからこそ、誰かと議論するときに、相手に不利で自分に有利な事実や数字を突きつけたくなる衝動は、最適なアプローチではないのかもしれない。あなたの目の前にいるのがとても教養豊かな人だとしても、反証を挙げてその考えを変えるのは容易ではないことがわかるだろう。

 驚いた。頭のいい人ほど自己正当化がうまいのだ。
 なるほどね。
 政治家とか官僚とか、頭がいいはずなのに「どうしてこんな賢い人があんなバカな意見に固執してるんだろう」と疑問におもうことがあった。なるほど、こういうわけか。

「頭がいいのに」ではなく「頭がいいから」意固地になってしまうのだ。
 ぼくも気をつけなくちゃなあ。頭いい(と自分ではおもっている)からなあ。


 この本に紹介されている実験。

 いくつかの絵が出てくる。「あらかじめ指定された絵が写ったときにボタンを押せば一ドルもらえる」というゲームと「指定された絵が写ったときにボタンを押さなければ一ドルとられる」というゲームをする。

 やることはまったく同じだ。報酬も同じ。うまくいけば、うまくいかなかったときより一ドル得する。

 だが、結果には差が生じた。「ボタンを押さないと一ドルとられる」ルールのときのほうが失敗しやすく、ボタンを押すのも遅かったそうだ。

 人間は、ムチよりもアメに釣られやすいのだ。

「勉強しないとテストで悪い点とることになるよ」よりも
「勉強したらテストでいい点とれるよ」というほうが効果的なのだ。ほんのちょっとしたことだけど。

 ムチを振るうよりもアメをちらつかせるほうが人は動く。



 またべつの実験。

 映画を観た後、映画の内容に関するいくつかの質問が出される。「映画に出ていた女性は何色の服を着ていたか」など。
 数日後、また同じクイズに挑戦する。ただし今度は、答える前に他の人の回答が表示される。そのうちいくつかは嘘で、わざとまちがった答えである。
  すると、前は正解できていた問題をまちがってしまう。前回は「赤」と答えたのに、他の人たちの「白」という答えを見ると、自分も「白」と答えてしまう。

 ここまではすんなり納得できるだろう。自分はAとおもっていても、みんながBと答えたらBのような気がしてしまうものだ。

 昔観た『高校生クイズ』のことを思いだす。一問目は○×クイズ。多くの参加者をふるいにかけるため、かなりの難問だった。たぶんほとんどの高校生は答えがわからなかったとおもう。
 だが、回答には差がついた。○×いずれかの場所に移動するのだが、九割の高校生は○に移動したのだ。しかし答えは×。一問目にして参加者の九割が脱落する事態となった。○×クイズなので勘で答えても半数は正解するはずなのに。
 まちがえた高校生たちのほとんどは、「みんなが○に移動しているから」という理由で○を選んだのだろう。誰かが○を選び、他の人もつられる。すると自信のない人たちもみな多数派である○を選び、結果的にみんなでまちがえたのだ。

 話はここで終わらない。
 それだけではない。私たちはテスト終了後、実はアダム、ロージー、スー、ダニエルの答えが一部偽物だったことを参加者に明かした。そのうえで、自分自身の記憶に忠実に従ってもう一度テストを受けてもらった。
 本当に興味深いのはここからだ。操作があまりにも強力に働いたため、参加者の記憶の約半分は永久に変わってしまった──もはや映画の記憶は不正確で、間違った回答に固執している。彼らに、自分はまだ事前に見た偽の答えに影響されていると思うかと質問すると、ほぼ声を揃えて「いいえ!」という答えが返ってきた。いったいどういうことだろう?

 種明かしをされた後でも、他人の答えにつられたままなのだ。しかもつられたことに自分でも気が付かない。

 赤信号みんなで渡ればこわくない。おまけに一度みんなで渡った後は、ずっとこわくなくなるのだ。



 その他、「人はついつい一票の価値は平等だとおもってしまうのでたった一人の専門家の意見よりも十人のド素人の意見を重要視してしまう」とか「コントロール感を得られるときのほうが積極的にイヤなことでも引き受けやすい。『自分なら税金をどう使うか』と考えただけで脱税しにくくなる」とか、人の意思決定に関する興味深い話がたくさん。

 これを読むと「人を動かすにはどうしたらいいか」に対するヒントが得られるはず。

 いい本だった。
 参考文献も豊富だし、慎重な物言いも個人的には評価する。
「今わかっていること」を挙げるが、「だから○○は××だ!」と乱暴な持論に結びつけたりもしない。
 事実に対して謙虚な姿勢を忘れない。

 だけど。いや、だからこそ。

 事実よりも「一部の人だけが知っている単純でわかりやすい真実」に飛びついてしまう人の行動を、この本は変えることはできないだろうな。なぜなら人を動かすのは事実ではないから。
 そもそも、わかりやすい真実に飛びつく人はこの本を手に取らないだろうな。


「人は自分の都合のよい解釈をしてしまうから事実をそのまま受け止めることが難しい。人間は必ず間違える。だが人間の思考の傾向を知ることで誤った判断を少しは減らすことができる」
というメッセージは、「自分は間違えない」「世の中には間違えない人がいる」と信じている人には届かない。かなしいけど。


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