2021年3月17日水曜日

【読書感想文】運動に巻きこまないでくれ / 大野 更紗 開沼 博『1984 フクシマに生まれて』

1984 フクシマに生まれて

大野 更紗 開沼 博

内容(e-honより)
難病体験を綴ったエッセイ『困ってるひと』が大好評を博した大野更紗。福島の原発を通して、中央と地方の関係に切り込んだ『「フクシマ」論』が高く評価された開沼博。同じ1984年に福島で生まれた注目の若手論客二人が、「3.11」「原発」「難病」「オウム」などを切り口に、六人の職者と語り合う!


 共に1984年生まれで福島県出身の社会学者二人による対談、およびゲストを招いての鼎談。


 おもしろい話題もあったけど、全体としてぼくは「とっつきづらさ」を感じた。
 このとっつきづらさはどこから来るのだろうと考えたんだけど、「社会学者の言葉」を使って語りあってるからなんだとおもう。特に開沼氏。
「周縁的な存在」とか「硬直化した既存の知の枠組み」とか。
 べつにわざわざ小難しい言葉を使おうとしているわけじゃなくて、社会学者同士のやりとりの中ではふつうに使ってる言語なんだろうけどさ。
 でもそれってギョーカイ用語とかギャル語と同じで、部外者に語りかけるための言葉じゃないんだよね。多くの人に手にとってもらう文庫に載せるのにふさわしい言葉じゃない。

 だからこの本全体に漂うのは「多くの人に語りかける」ではなく、「おれたちの話をおまえらにも聞かせてやる」というトーン。本人が意図してるかどうかは知らないけどさ。


 鼎談のパートは「社会学の外の人」としゃべってるからちゃんと共通語でしゃべってるんだけど、それ以外の文章はまったくなじみのない方言を聞かされているようで、読んでいる側としてはすごく居心地が悪かった。




 鼎談では、日本ALS協会理事である川口有美子氏を招いての『難病でも生きてていいんだ!』と、ドキュメンタリー映画監督である森達也氏の『この国の人たちは、もっと自分に絶望したほうがいい』がおもしろかった。

 川口有美子氏の話。

 ALSは自分で予後を選べる病気と言われています。生きるか死ぬか決めなければならない時、インフォームド・コンセント(患者が治療法などを医師からきちんと説明されたうえで同意すること)が必要になります。そこで、「呼吸器をつければ二十年生きられる。つけなかったら死ぬ。二十年自力では何もできないけれど生きるか、それが嫌だったら死ぬか、どちらを選びますか? ただ二十年生きるほうを選んだら、家族は二十四時間在宅介護をしなければならず、子どもは介護に縛られ結婚も就職もできません。その他にもこれだけ家族に迷惑をかけます」という話をされます。これでも医師の中立的な説明とされる。でも、こんなんじゃ、呼吸器をつけたいとはなかなか言えませんよ。どうやれば生きていけるかという説明ができる医師は少ない。残念なことに。

 ぼくは尊厳死賛成派だったけど、これを読んで考え方が変わった。
 たしかに「家族に迷惑をかけながら二十年生きますか?」と言われたら「それでも生きます」とは言いづらいだろう。でも、その選択が正しかったかどうかは、生きてみないとわからないんだよなあ。


 ある日突然目が見えなくなったら絶望するだろう。どうやって生きていけばいいんだろうと途方に暮れる。今までの生活をすべて手放す必要があるのだから。その段階で「尊厳死しますか?」とささやかれたら、うなずいてしまう人も多いだろう。

 でも、世の中には目の見えない人がいっぱいいるわけで、その人たちが日々絶望しながら生きているかというと、そんなことはない。目が見えなくたって仕事も娯楽も生きがいもたくさんある。

 絶望を感じるとしたら、それは「目が見えないことに対する絶望」ではなく「これまで手にしていたものを失う絶望」で、ない状態に慣れてしまえばなんとかやっていける。たぶん。
 四十年間ひとつの会社で正社員として働いていた人がある日派遣社員になったらすごく不安だろうけど、ずっと無職だった人が派遣社員になるのは好転だ。
 怖いのは「(ないという)状態」ではなく「(失う)という変化」なのだ。

 だから「だんだん身体が動かなくなって自力で呼吸することもできなくなります」って言われたらめちゃくちゃ怖い。すでにALSになっている人には失礼だけど、そんな状態になっても生きている意味ってなんなの? とぼくはおもってしまう。

 だけど、失ってしまえば意外と平気なのかもしれない。だいたい五体満足なら生きていることに明確な意味があるのかというと、そんなこともないしね。

 よくよく考えてみれば、ぼくらは生まれたときから「余命百年の不治の病」に冒されている。難病や余命わずかだから生きる価値がないのなら、そもそも全人類が生きる価値がないことになる。

 難病を抱えた生活をよくわからないからこわいんだろうね。身近に難病の人がいて、病気になってもそこそこ楽しくやっているということを見知っていたら、自分が病気になったときもだいぶ恐怖がやわらぐかもしれない。

 自分が尊厳死すべきかどうか、適切な判断を下せる人なんていないよね。きっと。
 自分は理性的な存在だとおもってるけど、理性なんてかんたんに揺らぐものだから。




 森達也氏の話。

 ただ、僕はドキュメンタリーの大切な役目の一つに、人とは少し違う視点を提供することがあると思っています。そういう意味では、3・11直後のみんなが被災者に寄りそうという流れの中で、あえて違うところから被災地の現状を見てみようという思いはあったかもしれません。ただし視点を提供しようというモチベーションよりも、自分が見たいとの思いのほうが強い。とことんエゴイスティックです。社会のためなど口が裂けても言えない。

 森達也氏の映画を観たことがないのだけれど、「オウム真理教信者がごくふつうの生活を送っているところ」「震災の被災地に行って被災した人に怒られるところ」など、ニュース映像ではまず見られないシーンを収めているんだそうだ。

 たしかに、オウム報道も震災報道も一色に染まったもんな。
「オウムは悪いことをする、我々とはまったくべつの常識を持ったやつら」
「今こそ日本がひとつに。助け合おう」
みたいなトーンに染まって、それ以外の意見はまったく許されない空気になった。

 そこで「いやオウムの信者だって大半はただ救いを求めただけの善良な市民ですよ」とか「チリやインドネシアで地震が起きたってみんなすぐ忘れるんだから、東北の地震だって忘れてもいいよね。俺には関係ないし」なんて口にしようものなら袋叩きにされる〝空気〟が支配していた。

 最近だと、新型コロナウイルスによる第一回の緊急事態宣言のときもそうだった。
「自粛しましょう。出歩くやつは私刑!」
みたいな空気に染まった。まったく科学的根拠のない意見が幅を利かせて、「ほんとにそれ効果あるの?」「スーパーとかまで閉める必要ある?」なんてことは大声で言えない雰囲気だった。ぼくもそれにまんまと乗っかっていたからえらそうなことはいえないんだけど。

 そういうときに、「オウム信者も我々と同じようにふつうに飯食って寝てるんだよ」「被災者だって辛抱強く耐え忍んでるだけじゃなくてイライラしたり愚痴を吐いたり利己的な行動をとったりするんだよ」と映像を通して伝える森達也氏のような人は貴重だ(くりかえし書くが映像は観たことない)。

 山本七平『「空気」の研究』には〝空気〟を打ち破るために「水を差す」ことの重要性が説かれていた。

 国中が一色に染まっているときってたいてい悪いことが進行中だからね。東日本大震災の復興ムードだってまんまと増税に利用されたし。




 冒頭に「とっつきづらさ」を感じたと書いたけど、最後まで読んでどっと疲れた。
 この疲れはあれだ、就活のときに味わったやつだ。
 キラキラしたビジョンに向かってまっすぐ走る行動的な人たちのお話ばっかり聞かされたときに感じる疲れだ。

 この本に出てくる人はみんな社会に対して問題意識を持っていて、活動的で、それ自体はたいへんけっこうなんだけど、
「さあみんないっしょに走ろうよ!」
という感じがたいへん煙ったい。

「どうやって私たちの運動に多くの人を巻きこむか」ってしゃべってるんだけど、世の中には巻きこまれたくない人がいるんだよ。「みんなを巻きこまなきゃ!」という考えこそが周囲を遠ざけている、なんてこういう人たちにとっては想像の埒外なんだろうね。きっと。


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2021年3月15日月曜日

兼業クリエイター

 機械/ロボット/コンピュータ/AIが進化すれば、単純な労働は機械に任せて、人間はクリエイティブな仕事に専念できる。

 という話を耳にしたことがある。何度も。


 技術の進歩によって人間がやらなくてはならない単純な労働は減った。
 大きな石を人間が運ぶ仕事とか、本に書いてあることを書き写す仕事とか、そういう単純な仕事は機械がやるようになった。
 前にも書いたが、数十年前には「ボウリング場で倒れたピンを並べる係」がいたんだそうだ。そういう、「説明を五分聞けばほとんど誰にでもできる仕事」はどんどんなくなっている。
 タバコ屋の店番だったらかんたんな計算さえできれば誰にでもできたが、コンビニ店員として一人で店をまわそうとおもったら一ヶ月以上のトレーニングが必要だ。


 多くのクリエイターを支えているのは、単純な仕事だ。

 売れない役者やミュージシャンがいろんなアルバイトをしているという話をよく聞く。急な仕事の入る可能性のある彼らにとって「時間の融通が利く仕事」は命綱だ。
 時間の融通の利く仕事というのは、たいていの場合誰にでもできる仕事だ。「これはあの人にしかできない」という仕事に就いている人は、急に休んだり辞めたりできないのだから。
 誰にでもできる仕事が減っているということは、時間に融通の利く仕事も減っているということだ。

 この先、「誰にでもできる仕事」がさらに減っていったら、役者や芸人やミュージシャンやアーティストになるためにフリーターとして生きていく若者も絶滅寸前になるんじゃなかろうか。そんなことできるのは一部の裕福な家庭の生まれだけ。

 若い人は気づきにくいが、じつはフリーターよりまっとうな会社の正社員や公務員のほうがよほど時間に融通が利く。一部の職種を除き。
 決まった日に休みがとれるのでスケジュール調整しやすいし、まともな会社なら有給もちゃんととれる。
 なにより、「金がある」ことはいろんな面で時間の節約になる。無理して徒歩や自転車で移動しなくてもいい、ちょっとした買い物をするのにあれこれ悩む必要がない、時間がないときは外食やテイクアウトで済ませられる。「節約のための時間」を大幅に削れる。

 かつては役者やミュージシャンを目指す若者はフリーターになるのが一般的な道だったが、今後はサラリーマンや公務員からクリエイターになるほうが多くなるんじゃないだろうか。

 結局、労働からは逃れられないというこった。


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誰にでもできる仕事


2021年3月12日金曜日

【読書感想文】川の水をすべて凍らせるには / ランドール・マンロー『ハウ・トゥー バカバカしくて役に立たない暮らしの科学』

ハウ・トゥー

バカバカしくて役に立たない暮らしの科学

ランドール・マンロー(著) 吉田 三知世(訳)

内容(e-honより)
発売後、即ニューヨークタイムズ・ベストセラーリスト1位!引っ越しの手間を減らすには?スマホの自撮りがうまくなるには?明日の天気を知りたい。友だちをつくるにはどうしたら…?約束の時間が守れなくて困っています。私たちの日々の困りごとには、正しい解決法と間違った解決法があります。しかしじつは画期的な、「第3の暮らしの知恵」というのがありました。バカバカしくて楽しげだけれど、役には立たない解決法が。本書では『ホワット・イフ?』の世界的ベストセラー作家、ランドール・マンローが、それを具体的な問題に即して、わかりやすいマンガを駆使して惜しげもなく披露してくれます。身近な科学やテクノロジーを楽しく理解できるという、思わぬ余禄ももれなくついてきますよ。


 以前紹介した『ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか』の続編のような本。
 タイトルは『ハウ・トゥー』で、「○○するには」という問いに対する答えが並ぶのだが、どの答えも現実的でない。
「スマホを充電するためにエスカレーターを利用した発電機を作る方法」みたいなのがひたすら並ぶ。


 たとえば、『川を渡るには』の章。
 川を渡るためにはどうしたらいいか。ぼくらがおもいつくのは、濡れるのを覚悟で歩いて渡る、泳ぐ、ボートに乗る、といったところだろう。

 ところがこの本では

  • 川を飛び越えるために必要な速度はどれだけか
  • 水面を滑るにはどんな道具とどんな乗り物を用意すればいいか
  • 川を凍らせるにはどれだけの電力が必要か
  • 川の水をすべて沸騰させるにはどれだけのエネルギーがいるか
  • 凧を使って川を渡ることは可能か

といった、まったくもって役に立たない答えが披露されている。

 カンザス川を凍らせるには87ギガワット(重量物運搬ロケットの打ち上げ時の出力と同じぐらい)が必要、ということを知っても何の役にも立たない。

 だがユーモアと知性たっぷりにつづられた文章は、役に立たなくても読んでいて楽しい。

『プールパーティーを開くには』の章。

 あなたのプールの底が海水面より高いところにあれば、海につなげても水は入ってこない。水はひたすら低いほうへ、海に向かって流れるだけだ。しかし、海をあなたのところまで持ち上げられるとしたら、どうだろう?
 あなたは運がいい。それは望むと望まざるとにかかわらず、実際に起こっている。温室効果ガスによって地球に熱が蓄積しているおかげで、海水位はもう数十年にわたって上昇しつづけている。海水位の上昇は、氷が溶け、水が熱膨張している相乗効果で引き起こされる。プールを水で満たしたいなら、海水位の上昇を加速させてみるといい。もちろん、気候変動が環境と人間に及ぼす測り知れない損害は一層ひどくなるだろうが、その一方で、あなたは楽しいプールパーティを開けるのだ。

 ただ「常識的に達成可能か」「意味があるか」「効率がいいか」「コストに見合う手段か」という意識から離れれば、課題に対する答えは意外とたくさんあるということに気づかされる。

 プールを水で満たすために地球温暖化を加速させる。すごい発想だなあ。




 へえそうなんだとうならされた記述。

 棒高跳びの物理は面白いもので、意外かもしれないが、ポールはあまり重要ではない。棒高跳びの要は、ポールのしなやかさではなく、選手が走る速さだ。ポールは単に、その速さの向きを効率的に上へと変える手段でしかない。理論的には、選手は何か他の方法を利用して、方向を前から上へと変えることもできる。ポールを地面に押しつける代わりに、スケートボードに飛び乗り、なめらかな曲線でできた斜面をのぼっても、棒高跳びとほぼ同じ高さに到達することができる。

 へえ。棒高跳びに必要なのは跳躍力じゃなくて速度なんだ。
 あれは跳んでるんじゃなくて「走ったままの速さで上に行く」競技なんだね。棒高跳びで高く跳ぶために必要なのは「速く走ること」と「重心が高いこと」なんだね(競技としてはうまくバーを越えるテクニックも必要だが、高く跳ぶためにはこのふたつが必要)。


 氷が滑りやすい理由は、じつのところ、ちょっと謎なのだ。長いあいだ、スケートの刃が加える圧力が氷の表面を溶かし、薄い水の層ができて、それが滑りやすいのだと考えられてきた。19世紀末の科学者や技術者たちは、アイススケートの刃が氷の融点を0℃から-3.5℃へと下げることを示した。「氷は圧力下では溶けやすくなる」という説は何十年にもわたり、アイススケートがなぜ可能かの標準的な説明として受け入れられていた。スケートは-3.5℃より低い温度でも可能だということを、どういうわけか誰も指摘しなかったのである。圧力下融解説ではそんなことは不可能なはずだが、アイススケートをする人は、常にそれを実際にやっているのだ。
 なぜ氷は滑りやすいかを実際どう説明するかは、驚くべきことに、今なお物理学で進行中の研究課題である。

「氷の上は滑る」ということは小学生でも知っているのに、いまだに物理学では「なぜ氷の上は滑るのか」を完全には説明できないのだそうだ。

 宇宙の果てとか深海とかを除けば科学はこの世のほとんどを解き明かしているようにおもってしまうけど、身近なことでも案外わかってなかったりするんだね。




 おもしろかったんだけど、全部で28章もあるので後半は飽きてしまった。ばかばかしいのはおもしろいけど、ずっとばかばかしいとうんざりしてくるね。
 この半分ぐらいの分量でもよかったかも。

 あと訳文はもうちょっとなんとかならんかったのかね。

 そして、あなたがここに載っているすべてのことを行なう正しい方法をすでに知っていたとしても、知らない人の目を通して改めてそれを見てみることは、きっと役に立つ。

 序文の一部だけど、ほんとひどい。中学校の英文和訳だったらこれで正解だけど、全単語を訳してるので読みづらいったらありゃしない。

 まあ本文はここまでひどくなかったけど。


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【読書感想文】ランドール・マンロー『ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか』



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2021年3月11日木曜日

質問できない子

 小学一年生の子どもたち数人とボードゲームスペースで遊んだ。

 いくつかのピースを組み合わせて所定の形を作るパズルゲームや、モノポリーのようなボードゲーム、UNOのようなカードゲーム。

 どの子もそれぞれ得意・不得意がある。図形パズルに強い子、数字や確率を使ったゲームに強い子。

 中にひとり、全部が苦手な子がいた。Aちゃんとする。

 Aちゃんはゲームが全般的に苦手だった。運頼みのゲーム以外は負けてばかり。いや、それ以前の問題だ。ルールが理解できていない。「まだそのカードは使えないよ」「ここにこれを置いたら損しかしないよ」ということばかりする。




 新しいゲームをやるときの流れは、だいたいこんな感じ。


 ボードゲームスペースの店員が軽くルールの説明をする
  ↓
 疑問に感じたことを大人や子どもが質問して、店員が答える
  ↓
「じゃあまずは練習でやってみようか」ということになり、ゲームスタート。ここで新たに疑問が生じたら都度質問をする。


 こうしてみんなルールをつかんでいくのだが、Aちゃんはまったく質問をしない。

 他の子はがんがん質問する。一年生は積極的だ。
 まあたいていは「それさっき説明したじゃん」「○○できるのは××のときだけ、って言われたんだから△△のときはダメに決まってるじゃん」と言いたくなるような、愚にもつかない質問なんだけど。

 しかしAちゃんは質問しない。「わからないところある?」と訊いても言わない。笑顔で「大丈夫!」と云う。

 だがゲームを進めると、とんちんかんなプレーを連発する。明らかにルールを理解していない。

「もう一回説明しよっか」と云うと、「さっき聞いたからいい!」とめんどくさそうにする。さもわかっているかのように。

 Aちゃんは全部のゲームが苦手で、唯一得意なのは「わかっているふりをすること」だった。




 ……ううむ。

 子どもにもいろいろいて、理解力はさまざまだ。
 やっぱり小学校受験の塾に通ってた子は呑み込みが早い。トレーニングを積んで「新しいルールを理解しなくてはいけない状況」をたくさん経験したのだろう。
 それ以外の子も、最初は理解できなくても、どんどん質問をして、やってるうちにゲームの全体像をつかむようになる。
 Aちゃんだけがずっと理解できないままだ。

 こんなこと言うのは申し訳ないが、この子は勉強できないだろうな。この先もずっと。

 持って生まれた頭が悪いわけではない。既にルールを知ってるゲームであれば他の子と同じようにできるので。

 ただAちゃんは「わからないことは恥」だと考えてるのだ。たぶん。

「質問ある?」と訊かれても無言で愛想笑い。「もう一回説明しよっか」と云われると「もういい!」と怒る。

 これは……ほんとにどうしようもないのでは……。
 わからない子は教えることができるけど、「わかっているふり」をする子に対してはどうすることもできない。本人がもういいと言っているのにむりやり教えるほど他人はひまじゃない。

 きっとAちゃんはこの先もずっと「わかっているふり」をしてやりすごしていくのだろう。とりかえしのつかない状況になるまで。

 ちなみにAちゃんには二歳違いのきょうだいがいて、そっちは他の子と同じように質問をしてくるので家庭環境(だけ)が原因ではないとおもう。

 まちがうことをおそれる性格。半端にプライドが高いというか。小学一年生なんて知らないことだらけ、わからないことだらけであたりまえなのに、「わからない」の一言がいえない。
 こういう性格の子が成功することはまあないだろう。ものすごく損な性格だ。
 よそのおっちゃんながらなんとかしてやりたいとおもうが、どうすることもできん。だって差しだされた手を拒む子なんだから。
「しなくていい苦労をするだろうなあ」とため息をつくばかりだ。


2021年3月10日水曜日

【読書感想文】戦前に戻すのが保守じゃない / 中島 岳志『「リベラル保守」宣言』

「リベラル保守」宣言

中島 岳志

内容(e-honより)
リベラルと保守は対抗関係とみなされてきた。だが私は真の保守思想家こそ自由を擁護すべきだと考えている―。メディアでも積極的に発言してきた研究者が、自らの軸である保守思想をもとに、様々な社会問題に切り込んでゆく。脱原発主張の根源、政治家橋下徹氏への疑義、貧困問題への取り組み方、東日本大震災の教訓。わが国が選択すべき道とは何か。共生の新たな礎がここにある。

 中島岳志氏の『保守と立憲』も、『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』に寄せられた中島氏の文章もすばらしかった。

 だからこの本を手に取ったのだが、書かれていることは上記二冊と似たような内容で、ただし書かれているテーマにはまとまりがなく、時代性の強い文章もあったりして今読むと伝わりにくい箇所もある(特に橋下徹氏への批評はあの時代の空気の中で読まないとわかりづらい)。

 ということで、『保守と立憲』や『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』を読んでいる人はこっちはべつに読まなくていいかな。




 以前から政治的立場を表す「保守」という言葉に違和感があった。
「保守」と言いながら、憲法だったり政治制度だったり経済体制だったりをドラスティックに改革しようとしている。それのどこが保守なんだ? 戦前のやりかたに戻すのが保守なのか? 今ある制度や暮らしは保守しようとしないのか?

 中島岳志氏の著作を読んで、その疑問が氷解した気がした。
 そうか、保守を自称している連中(の大半)は保守ではないのだ。むしろリベラルこそが保守の立場に近いし、保守の精神を持つべきなのだ。

「選挙で勝ったんだから、どんなにラディカルな改革をおこなうのも自由だ」なんて考えは、保守の精神からもっとも遠いものなのだ、と。

 自由は、節度という「足枷」に制約されています。だからこそ、節度の拘束力が強くなればなるほど、自由の度合いは拡大してゆくのです。
 バークは、革新主義者たちの主張する反歴史的・抽象的自由に、寛大さが欠落していることを見抜きました。革命家が志向する「規制から解放された自由」は、人間の粗暴で冷酷な性格とたやすく結びつき、他者に対する不寛容な暴力となって現れることを見通していたのです。革命家たちは、様々な制約の破壊によってこそ、自由を獲得することができると考えました。彼らは歴史的に構築された制度を抜本的に覆し、長年にわたって共有されてきた固定観念を解体していきます。制約なき自由は、必ず他者の自由と衝突します。価値やモラルの基準を失った自由は暴走し、自己の自由を阻害する他者への剥き出しの暴力となって現れます。制約を失った自由こそが、人々から真の自由を奪い、世の中の秩序を破壊するのです。

 フランス革命によって寛大で誰もが生きやすい世の中が実現したかというとまったくの逆で、その後にやってきたのはナポレオンによる独裁専制時代だった。

 革命、改革、刷新、維新、ぶっ壊す、取り戻す……。
 耳あたりのいい言葉を並べて「私に任せてくれれば一気に事態をよくすることができます」と言う連中が弱者の声に耳を傾けたことが歴史上一度でもあっただろうか。

「自由」はウケのいい言葉だが、誰かの自由は必ず別の誰かの自由と衝突する。
「夜中にバイクで爆音を鳴らしながら走る自由」は「静かな環境で安眠する自由」と衝突する。

 規制緩和や自由化を訴える人がいる。自由化によって利益を得る人もいるけど、同時に別の誰かが不利益を被る。そしてそれはたいてい弱者だ。強者はうまく立ちまわって、誰かの首を差しだすことで逃げるからね。
「改革」「維新」といった言葉の目指す意味は結局、「弱者が持っている財産をおれたちによこせ!」なんだよね。




 中島さんが目指す「リベラル保守」はドラスティックな改変を好まない。かといって百年一日の停滞も良しとしない。時代の変化によって制度も変わる必要があるからだ。

 なぜ劇的な改革がだめなのかというと、不完全な存在である人間は必ずまちがえるからだ。

 保守は、このような左翼思想の根本の部分を疑っています。つまり「人間の理性によって理想社会を作ることなど不可能である」と保守思想家は考えるのです。
 保守の立場に立つものは人間の完成可能性というものを根源的に疑います。
 人間は、どうしても人を妬んだり僻んだりしてしまう生き物です。時に軽率な行動をとり、エゴイズムを捨てることができず、横暴な要素を持っています。
 保守は、このような人間の不完全性や能力の限界から目をそらすことなく、これを直視します。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦念を共有します。
 保守は特定の人間によって構想された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。前者は人間の「知的不完全性」の認識に依拠し、後者は人間の「道徳的不完全性」に依拠していると言えるでしょう。

 フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、多くの人の未来予測を検証した結果、「自分が間違っているかもしれない」という前提に立って絶えず再検証をくりかえす人ほど予測の的中率が高いのだそうだ。
 逆に「おれは正しい! まちがってるはずがない!」という思想の人間はまちがえる。現実をありのままに見ることができず、己の思想信条に合致した意見だけしか見えなくなる。

 つまり、政策立案者に適しているのは
「わたしは〇〇がいいとおもうが誤っているかもしれない。くりかえし検証・反省をして〇〇が本当に正しいのか考え、必要に応じて軌道修正していくことが必要だ」
という人だ。
 こういう人が「改革」「維新」なんて叫ぶはずがない。まちがえたらとりかえしがつかなくなるからだ。
「民意が○○だから」という理由で改革もしない。なぜなら民衆も当然まちがえるから。ヒトラーを選んだのも民意なのだ。

 民衆も政策立案者は必ずまちがえるという立場に立てば、完全に信用できるものは何もない。何もないが、昔から脈々と受け継がれているものは「そこそこうまくいく可能性が高い」と言える。特に教育や医療や政治などの制度は、一度壊されると取り返しがつかなくなることがあるので、慎重に扱う必要がある。とりあえずゆとり教育やってみたけどだめでした、というわけにはいかないのだ(そうなってしまったけど)。
 古いものにパッチワークをあてて使いこなしてゆく。これが理想的な保守のありかただ。

 

「保守」の名を騙っていろんなものをぶっこわしてきた連中のせいで、「保守」はすっかり悪い響きの言葉になってしまった。
 もはや「極右」とか「排他的」とほとんど同義だ。

「リベラル保守」もいいんだけど、伝わりやすさを考えるならまったく別の言葉を持ってきたほうがいいかもしれないな。


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【読書感想文】リベラル保守におれはなる! / 中島 岳志『保守と立憲』



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