2020年12月18日金曜日

【読書感想文】小説の存在意義 / いとう せいこう『想像ラジオ』

想像ラジオ

いとう せいこう

内容(e-honより)
深夜二時四十六分。海沿いの小さな町を見下ろす杉の木のてっぺんから、「想像」という電波を使って「あなたの想像力の中」だけで聴こえるという、ラジオ番組のオンエアを始めたDJアーク。その理由は―東日本大震災を背景に、生者と死者の新たな関係を描き出しベストセラーとなった著者代表作。

 ぼくの中でいとうせいこう氏は「みうらじゅんといっしょにザ・スライドショーをやってた人」というイメージだ(ザ・スライドショーのDVD-BOXも持っている)。あと『虎の門』というテレビ番組もときどき観ていたので、「何をやっているのかわからない文化人」というカテゴリの人だ。

 じっさい、日本のラップ界の開祖のようなラッパーだったり、編集者だったり、知れば知るほど「やっぱり何をやっているのかわからない人」だ。

 そんないとうせいこう氏の小説が芥川賞候補になったと聞いて興味を持っていたのだが、刊行から七年を経てようやく手に取ってみた。




 うまく説明できる自信がないけれど、いい小説だったなあ。
 ああ、こういうことを書くのは小説という媒体がうってつけだよなあ、むしろこういうことを書くために小説があるのかもしれない。そんな気になった。


(ネタバレ含みます)


 一言でいうと「鎮魂」。

 ある日、たくさんの人の耳にラジオ放送が聞こえてくる。DJアークによる生放送。受信機がなくても聞こえてくるし、決まった放送時間もないし流れる曲は聴く人によってちがう。

 で、どうやらDJアークは既に死んでいるのだとわかる。東日本大震災の津波に押し流されて命を落とし、高い樹の上に引っかかったままになっているらしい。

 そしてこの「想像ラジオ」を聴くことのできるリスナーもまた死んでいるらしい。しかし生きている人にも聴こえる場合がある……。

 とまあ、一応わかるのはこんなとこ。
 明確な説明はないので「どうやら」「らしい」というしかないのだが。

 要するにですね。わけがわからないわけですよ。
 なぜこんなことが起こっているのか。いやほんとに起こっていることなのか。聴こえる人と聴こえない人の違いはなんなのか。なんにもわからない。わからないものをわからないまま書いている。いや、作者の中では明確な答えはあるのかもしれないけど、作中で明示されることはない。

 これは、我々「死ななかった者」が「死んだ者」について考えるときと同じなんだよね。
 なんにもわからないわけ。どれだけの人が死んだのか。死んだ人はいつ死んだのか。死んだ人は何を考えたのか。流されていったあの人はほんとに死んだのか。死んでいった彼らは何を望んでいるのか。なぜ彼らは命を落として我々は生きているのか。なんにもわからない。

 東日本大震災によって、いろんな「わからない」がつきつけられた。死者の近くにいた人はもちろんだし、たとえば遠く離れた地で知人が誰も被災しなかったぼくのような人間ですら「わからない」をつきつけられた。

「ありがとう。言われてみれば確かに僕はどこかで加害者の意識を持ってる。なんでだろうね? しかもそれは被災地の人も、遠く離れた土地の人も同じだと思うんだよ。みんなどこかで多かれ少なかれ加害者みたいな罪の意識を持ってる。生き残っている側は。だから樹上の人の言葉を、少なくとも僕は受け止めきれないのかもしれない。うん、今日初めてネットサーフィンも無駄じゃないと思ったな」

 地震が起きたあの日、ぼくはたまたま仕事が休みだったので家でぼんやりテレビを観ていたら、人や家や車が次々に濁流に呑まれるものすごい映像が目に飛びこんできた。

 それからしばらく、なんとかしなきゃ、こうしていていいのか、という妙な焦燥感がずっとあった。
 日本中が自然と自粛ムードになったけど、やっぱりあの映像を目にしたら「被災者のためになんかしなきゃ」「笑ってていいのか」って気になっちゃうよね。

 地震にかぎらず毎日たくさんの人が理不尽に命を落としてるわけだけど、人間の想像力なんて限りがあるからふだんは見ないように蓋をしている。いちいちどこかの誰かのために胸を痛めていたら自分が生きていけない。
 でも、大地震のショッキングな映像なんかで蓋が開いてしまうと、ずっと心が痛い。
 長く生きていても、ぼくらは「理不尽な死」を克服することはできないんじゃないだろうか。ただ目をそらすことしかできないのかもしれない。




 この小説には「理不尽な死」を乗りこえるヒントは書かれていない。
 小説の中でちょっとだけ展開はあるけど、基本的に何も解決しない。というか何が問題で、どうなったら解決なのかも判然としない。

 ただ、あの震災で直接的ではないけど傷を受けて、その処理をどうしたらいいかわからないままとりあえず蓋をしている人が自分だけじゃないことだけはわかる。
 震災への向き合い方は、それがすべてなのかもしれない。


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2020年12月17日木曜日

【読書感想文】女が見た性産業 / 田房 永子『男しか行けない場所に女が行ってきました』

男しか行けない場所に女が行ってきました

田房 永子

内容(e-honより)
世の中(男社会)には驚愕(恐怖)スポットがいっぱい!エロ本の取材現場を「女目線」で覗いて気づいた「男社会」の真実。


 かつてエロ本のライター・漫画家をやっていた著者による「女から見た性風俗/男」の話。

 なんていうか、著者のもやもや感がひしひしと伝わってきた。著者自身もまだうまく整理できていないんじゃないだろうか。
 風俗産業は男に都合よくできている、それは女性を人間扱いしていない、でもそれはそれなりのニーズがある、そんな風俗産業を必要としている男がいる、必要としている女もいる、自分自身もエロ本で仕事をしていた、だから一方的に断罪はできないがでもやっぱり変じゃないか……。という苦悩がストレートにぶつけられている。

 だから著者は男にとって都合よく作られた風俗もエロ産業も否定はしない。ただ「男にとって都合のよい世界だ」という事実を指摘し、同時に「女にとって都合のよい性風俗がもっとあってもよいのではないか」という希望を書いている。


 そう考えてみると、自分が10代の頃、周りがセックスをしはじめた時、くわえ方とか握り方とか、みんな彼氏から教わっていた。女から男への施しは、まず男のほうからの「こうして欲しい」という要望からはじまるのが、習わし、ぐらいの感じだった。そして、セックスがはじめての10代の女から、男に対して「こうして欲しい」と言うなんていうのは「概念」すらなかった。まず、男のほうからフンガフンガとむしゃぶりついてきて、それに対応しながら自分の気持ちよさを探すという受動的な感じだった。そこに「演技」が存在するのは当然だ。男たちが「演技してるんじゃないか」という点にやたら心配しているのが謎だったが、それはセックスの前提として、「男の体については、男が知っている」「女の体についても、最初は男のほうが知っている」みたいな法則、いや「知っているということにしておきたい」という願望が、男側にあるからじゃないだろうか。男は特に10代後半、20代前半の頃は往々にして女に対して威張りたがるところがある。女よりも物知りで頭がよい風に振る舞いたがる。現実がそれと違う場合は、自己を改めるのではなく不機嫌になることで女側に圧力を感じさせ「すごい」と言うように誘導する。そういった特徴は男によく見られる。
 女は、男のように思春期の頃からオナニーしたり自分の性器に興味を持つことを肯定されてこなかった。そういった背景と、男の特徴と圧力により、「女の体については男のほうが知っている」かのように女も思ってしまう。セックスする前から、女の「演技」ははじまっているのである。

 ぼくもたいへんエロ本のお世話になっていたし、そこに書かれていることの八割ぐらいは真に受けていた。
「〇〇するのは女がヤりたがっているサイン!!」なんて記事を読んで本気にしていた。

 考えてみれば、性に関する知識を得る場ってものすごく限られてるんだよね。
「教科書に載っている表面的なお勉強知識」か
「エロ本に載っている眉唾話」か
「実践で得た知識」しかない。極端だ。
 先輩・友人から聞いた話だってそのいずれかだし、今はエロ本じゃなくてインターネットになったんだろうけど書かれている話の信憑性は大して変わらない。基本的に「男にとって都合のよい話」であふれている。

 BLや宝塚歌劇のようにフィクションとして楽しめばいいんだけど、問題は「男にとって都合のよい話を男は信じてしまう」ことなんだよな。
 いやほんと、「電車の中で痴漢されたがっている女の見分け方」なんて記事はほんとに犯罪を誘発してる可能性あるからね。「男の願望だから」で済まされる話じゃない。

 でも昔に比べれば「女から見た性」についても語られる機会が増えた。インターネットという匿名/半匿名で語ることのできるメディアができたおかげで。
 本当に少しずつではあるけど、「性の世界の主導権を握るのは男」という状況は変わってきているのかもしれない。




〝健康な〟男たちはいつでも、自分を軸にものごとを考える。ヤリマンの話をすれば「俺もやりたい」と口に出したり、「ヤリマン=当然俺ともセックスする女」と思って行動するし、男の同性愛者の話をすれば「俺、狙われる。怖い」と露骨に怯えたりする。そこに、「他者の気持ち」「他者側の選ぶ権利」が存在することをすっ飛ばして、まず「俺」を登場させる。そのとてつもない屈託のなさに、いつも閉口させられる。理由は、「だってヤリマンじゃん」「だってゲイじゃん」のみ。
 自分が「男」という属性に所属している限り、揺るがない権利のようなものがあると彼らは感じているように、私には思える。それは彼らが小さい頃から全面的に「彼らの欲望」を肯定されてきた証しとも言えるのではないだろうか。

 なんのかんの言っても、この社会はヘテロの男を中心にできている。

〝自分が「男」という属性に所属している限り、揺るがない権利のようなものがあると彼らは感じているように、私には思える。〟
 この文章はぼくに突き刺さった。ぼく自身、まさにそうおもっていたからだ。いや、そうおもっていることにすら気づいていなかった。ほんとに無意識に享受していたから。

 べつに「男が女に欲情するのは当然のこと」と考えることはいいんだよ。生物として当然のことだし。
 でも、だったら「女が欲情するのも当然の権利」「ゲイが男に欲情するのも当然の権利」と考えなくてはならないし、自分が望まない性的願望の対象になることも受け入れなくてはならない。だけどほとんどのヘテロ男性は「それは気持ち悪い」と考える。
「若い男が性的にやんちゃするのはむしろ健全」とおもう一方で、「ぶさいくな女が色気出すんじゃねえよ」「あいつゲイなの。俺もエロい目で見られてんじゃねえのか、気持ち悪い」と考える。考えるだけでなく、ときには平然と口にする。その権利が自分たちだけにあるとおもっている。




  AVモデル(セミプロみたいな感じ)をしている女性と話したときの感想。

 かなちゃんは私ともすごく友好的に話してくれて、私も心から「いい子だな」と思ったし、もっと話してみたくなった。しかし私自身とはものすごく離れた存在だと思った。
 私はそういう人たちや現象に人一倍興味を持っているくせに、同時に警戒している人間だから、遠い。警戒は、軽蔑とも言い換えられる。尊敬も軽蔑も、「自分にはできないと認める」という意味では、同じことだと思った。
 私はかなちゃんみたいな自分の力ひとつで稼いで一人暮らししている女の子をものすごく尊敬もしてるけど、同時に軽蔑もしてるんだ、と分かった。今まで、風俗嬢やAV嬢に対して自分が持っている、蔑みと劣等感、矛盾した過剰な感情、これは尊敬と軽蔑、どっちなのだろうかという思いがあった。それが、両方であるということが分かって、「敬蔑しているんだ」と自分で認めることができて、すごくスッキリとした。

 そうなんだよ。ほとんどの人のAV女優に対する接し方って「穢れた商売をしている劣った存在」とみなすか、あるいは逆に「AV女優マジ天使、超リスペクト」みたいな感じで、いずれにせよ同等の人間と見ていない。
 ぼくらと同じように飯食って寝てクソして笑って怒って泣いて……という同じ感情を持った人間として見ていない気がする。もちろんぼくも。

 だってつらいもん。AVに出ている人たちが、自分や、友だちや、家族と同じような人間だと認めてしまうと、社会の矛盾に押しつぶされてしまいそうになるもの。どっか自分とはぜんぜん違う世界に生きている人たちだとおもいたい。

 早く精巧なフィギュアやVRが性産業の主役になって生身の人間にとってかわるといいなあ。でも性産業って女性の最後のセーフティーネットみたいになっているので、それがなくなってしまうのははたしていいことなんだろうか……。


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【読書感想文】もはやエロが目的ではない / JOJO『世界の女が僕を待っている』



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2020年12月16日水曜日

いちぶんがく その2

ルール

■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




突発的なテロを除けば基本的に治安は良い。


(JOJO『世界の女が僕を待っている』より)




「ハローワークでわかったんだけど、おれの単純な属性で判断されると、そんなものなんだよ」


(村上 龍『55歳からのハローライフ』より)




隷属する喜びというのは確かにあるのだ。


(櫛木 理宇『寄居虫女』より)




いきなりターミネーターばりの図体のでかいのが入ってきて、赤ん坊に「はい、あーん」と食べさせようとすれば。


(松原 始『カラスの教科書』より)




「絵の中にいる人間は、絵なんて描かないもんよ」


(山田 詠美『放課後の音符』より)




「萌え」というのは「萌える対象」があって始まるものではなく、「萌えたい」というこちら側の内側の都合で始まっていくものなのだ。


(堀井 憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』より)




現状の制度の何がいけないのかがよくわからないまま、変えることだけが先に決まっているように見えることさえあるのだ。


(中村 高康『暴走する能力主義 ── 教育と現代社会の病理』より)




よくしゃべるが聞く素養がなくおもしろくもない鬼から恋愛相談をされるとか、さすが地獄である。


(津村 記久子『浮遊霊ブラジル』より)




だが民主制のもとで選挙が果たす重要性を考えれば、多数決を安易に採用するのは、思考停止というより、もはや文化的奇習の一種である。


(坂井 豊貴『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』より)




今日も元気だ、小便が旨い。


(石川 拓治『37日間漂流船長 あきらめたから、生きられた』より)





2020年12月15日火曜日

ルーツをたどる旅に出てしまう病

 どうも男は歳をとると、ルーツをたどる旅をしたくなるらしい。

『ファミリーヒストリー』というNHKの番組があるが、あの番組のゲストも男性が多い。
 男のほうが自身のルーツを気にするようだ。
 もしかしたら、男は苗字が変わらないことが多いのでルーツを意識しやすいのかも。完全夫婦別姓になったら女もルーツも気にするようになるのかも。


 図書館や大きい書店にはたいてい「郷土史」のコーナーがある。
 そこそこのスペースをとっているからわりと売れるのだろう。
 まことに勝手な憶測だが、おじいちゃんしか読んでいないイメージだ。


 ショートショートの神様と言われる星新一氏も、父親の生涯を書いた『人民は弱し官吏は強し』『明治・父・アメリカ』や、祖父の伝記である『祖父・小金井良精の記』といった著作を残している。

 漫画の神様・手塚治虫氏も『陽だまりの樹』で自身の曽祖父である手塚良仙について書いている(手塚治虫の曽祖父が江戸時代の人だと考えると、江戸時代ってけっこう近いなという気がする)。

 その分野の頂点を極めると先祖について調べたくなるものなのかもしれない。




 ぼくの祖父も晩年、若くして亡くなった父親(つまりぼくの曽祖父)のことを調べていた。

 曽祖父は裁判官をしていて法律の本を出したりもしていたので、古本屋をめぐって父親の著書を探していた。
 ぼくも祖父から「もし古本屋で〇〇(曾祖父の名前)の書いた本があったら教えて」と言われていた。

 残念ながらほどなくして祖父はガンで亡くなってしまった。おそらく曽祖父の著書には出会うことはなかった。


 こないだ国会図書館のWebサイトで著作権の切れた本が閲覧できると知ったので、曽祖父の名前で検索してみた。
 あった。めずらしい名前なのでまちがいない。
 鉄道法に関する著書を出していた。戦前の鉄道法に関する本。こんなもの誰も読まない。古本屋ですら店頭に並ぶことはないだろう。

 たぶんぼくが読まなかったらもう誰も読まないだろうな……。永遠に忘れ去られてしまうんだろうな……。
 会ったこともない人だけど、ぼくの曽祖父。この人がいなかったらぼくは生まれていなかった。

 なんらかの形でこの人のことを残したほうがよいのでは。おじいちゃんの遺志をぼくが引き継ぐ使命があるのでは……という気になってきた。


 はっ。いかんいかん。

 これは中高年男性が罹患しやすい「自分のルーツをたどる旅に出てしまう病」の初期症状だ。

 あやうく図書館の郷土史コーナーに通い詰めて先祖の伝記を執筆して自費出版してしまうところだった。
 そうなったらもう手遅れだ。あぶないところだった。


2020年12月14日月曜日

【読書感想文】車と引き換えに売られる食の安全 / 山田 正彦『売り渡される食の安全』

売り渡される食の安全

山田 正彦

内容(e-honより)
私たちの暮らしや健康の礎である食の安心安全が脅かされている。日本の農業政策を見続けてきた著者が、種子法廃止の裏側にある政府、巨大企業の思惑を暴く。さらに、政権のやり方に黙っていられない、と立ち上がった地方のうねりも紹介する。

 堤未果さんの『日本が売られる』『(株)貧困大国アメリカ』、高野誠鮮、木村秋則両氏による『日本農業再生論』などで書かれていたことが、いよいよ現実になろうとしている。
 日本の農業が海外の大手企業に売られようとしている。日本政府の手によって。

 モンサント社というアメリカの会社があった(今は買収されてバイエルになった)。
 グリホサートという農薬を作り、その農薬に耐性を持つ遺伝子組み換え作物などを販売している会社だ。
 グリホサートは人体に害をもたらすことがわかり、今は世界各国で使用が厳しく規制されている。また遺伝子組み換え食品も安全性が証明されていないため、遺伝子組み換え食品であることの表示がスーパーやレストランで義務化されている。

 が、世界的な流れに逆行するように、グリホサートの仕様基準をゆるめ、遺伝子組み換え食品を販売しやすくしている国がある。日本だ。

 これまで見てきたように、世界では有機栽培への流れが加速している。アメリカやEU、韓国はもちろん、ロシア、中国もあらたなビジネスチャンスとして国を挙げて後押ししている。世界のそういった流れのまったく逆を行くのが、驚くことに日本だ。
(中略)
 2017年1月、厚生労働省は、突然グリホサートの残留基準を緩和した。
 小麦はそれまで5ppmだったのが、一気に6倍に引きあげられて30ppmに、ソバは0.2ppmから150倍の30ppmへ、ひまわりは0.1ppmから400倍の40ppmへそれぞれ緩和された。
 厚生労働省は、グリホサートに発がん性などが認められず、一生涯にわたって毎日摂取し続けても健康への悪影響がないと推定される一日あたりの摂取量として設定したという。もちろん、額面通りに受け取ることはできない。
 第五章で記したように、EUをはじめとして、世界はグリホサートの使用を禁止する方向へ動いている。アメリカの裁判でもモンサントが発がん性を認識しながらも隠蔽を行っていたことが明らかになり、巨額の賠償金を命じられている。世界の動きを知らないのか。

『売り渡される食の安全』には、日本の農業が世界の流れに逆行する姿がくりかえし書かれている。

「国家が主導して遺伝子組み換え作物を使わせようとする」
「既存の種を保護するための法律を撤廃し、種子保護のための予算を削減する」
「グリホサートの残留基準を緩和する」
「遺伝子組み換えでないことを表示するための基準を達成不可能なレベルに厳しくして、実質的にすべての食品が表示できなくする」
といった、政府・農水省の動きが紹介されている。

 そんなばかな、とおもうだろう。
 なぜ日本政府が率先して食の安全を海外に売り渡そうとするのか、と。
 そんなことをするはずがないじゃないか、と。

 だが、著者(元農林水産大臣)は、政府が食の安全を売り飛ばしている背景をこう分析している。
 たとえばアメリカが日本車に高い関税を課すのを避けるために、代わりに農業を差しだしている、と。日本の農業市場を明け渡すことで、工業製品への関税をお目こぼししてもらおうとしているのだと。

 これは著者の推測だが、だいたいあっているだろうとぼくもおもう。
 たとえば今年(2020年)、日本政策投資銀行が日産自動車へ融資した1800億円のうち、1300億円に政府保証を付けていた。もしも日産自動車が返済不能になっても1300億円は国が補填する、ということだ。税金を使って一企業を保護しているわけだ。
 コロナで困っている企業、団体、個人は山ほどいるのに、国が真っ先に保護しているのは自動車メーカーだった。
 また、医療機関がひっ迫している中でGoToキャンペーンをやっていることを見れば、ある業種を守るために他の業種を切り捨てることぐらいは今の政府なら平気でやるだろうなとおもう。


 海外では厳しく規制されている農薬・遺伝子組み換え食品が日本では積極的に売られている。
 とすれば、農薬・遺伝子組み換え作物を作っている企業からすると日本は絶好の狩り場だ。どんどん参入する。
「日本の食べ物は安全」とおもっているのは日本だけで、世界的にはまったく信頼されていないということが『日本農業再生論』にも書かれていた。




 農業や水は生命に直結するものなので、経済的な損得だけで判断してはいけない。「半年間農産物の供給がストップしますがつらいのはみんな同じです。がんばって乗りこえていきましょう!」というわけにはいかないからだ。
 割高になっても安定的に供給するシステムを守っていかなくてはならない。

 だが、ここ十年ほどの日本政府は規制緩和の名のもとにどんどん農業や水や医療といった市場を海外に向けて開放している。
 参入が増えれば価格は下がり、一時的に消費者は恩恵を被るだろう。だが万が一の事態に(たとえば世界的大凶作になったときに)資本家たちは「日本市場は利益にならんから手を引くわ」となる可能性がある。
 そうならないように種子法を含む様々な法律で(一見不利益に見えても)インフラを守ってきたのだが、その仕組みがどんどん破壊されている。

 どう考えても話が逆だ。
 自動車は自由競争に任せればいい。日本の自動車が売れないなら代わりの産業を築かなくてはならない。じっさい、国を挙げて自動車産業を保護しているうちに、非ガソリン車の分野で日本メーカーはどんどん遅れをとろうとしている。そりゃそうだろう。売れなくなっても国が守ってくれるんだもの。

 人類の歴史を振り返れば、たとえば19世紀なかごろのアイルランドではジャガイモ飢饉によってもたらされた飢えや伝染病によって、100万人を超える犠牲者が出たとされている。主食としていたジャガイモが、北アメリカ大陸からもちこまれたと見られる葉枯病でほぼ全滅となったことが原因だった。当時のアイルランドでは、1種類のジャガイモだけが栽培されていたようだ。瞬く間に蔓延していった葉枯病に対抗しうる手段は残念ながらなかった。
 第二次世界大戦後、ロックフェラーなどの財団が「緑の革命」として、イリ米と称して化学肥料を多用させて多収穫を目指す品種がアジア一円に広がった。ところがウイルスに感染して、アジアのお米は全滅に近い被害をこうむった。幸い、インドにあった一品種がウイルスに耐性を持っていて、救われた。日本でも、第一章で記したが、93年の冷害で甚大な影響が出た。このような例は枚挙にいとまがない。
 多様な品種が存在するからこそ、予期せぬ気候変動や突然のウイルスの感染、病害虫の大量発生などから、生きていくうえで欠かせない米を救うことができる。日本は地域ごとに土壌や気候の多様性に富んでいる。特定のエリアでしか栽培されていない品種は、地域振興を進めていくうえでの看板をも担ってきた。くり返しになるが種子法によって、米作りが公的な制度や予算で支えられる状況が維持されてきたからにほかならない。
 種子法の廃止や農業競争力強化支援法によって、民間企業の進出がさらに促されればどうなるか。
 株式会社では利益を生み出すことが何よりも優先される。コストや労力をかけて数多くの品種を維持するよりは、同一品種を広域的かつ効果的に生産していくだろう。政府が掲げる品種数の集約が進めば、リスクが高まることは自明の理なのである。

 今回のコロナ騒動を見れば、自然を予測・制御することは不可能だとわかる。

 均質な遺伝子を持った作物を育てていれば、病気の蔓延や害虫の大量発生などがあった場合に全滅してしまう可能性がある。
 たとえば日本にあるソメイヨシノはすべて元は一本の樹なので、遺伝子がまったく一緒だ。ソメイヨシノに強い病気が流行ったらあっという間に全滅してしまうだろう。ソメイヨシノなら「花見ができなくて残念だ」で済むが、米や小麦なら命にかかわる。

 農業に関しては非効率でも多様性を残し、国が保護しなきゃいけないよね。
 今回のコロナで、「ムダがないと何かあったときに対応できない」ということがみんな骨身にしみてわかっただろうし。


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