2020年12月11日金曜日

【読書感想文】今ある差別は差別でない / 北村 英哉・唐沢 穣『偏見や差別はなぜ起こる?』

偏見や差別はなぜ起こる?

心理メカニズムの解明と現象の分析

北村 英哉  唐沢 穣

内容(e-honより)
必然か?解決可能か?偏見や差別の問題に、心理学はどのように迫り、解決への道筋を示すことができるのか。第一線の研究者が解説した決定版。


 まるで教科書のような本だった。
 もっとはっきり言うと、つまらない。国籍、障害、見た目、性別、性嗜好、年齢などいろんな分野の差別・偏見の問題を網羅的に取り扱ってはいるのだが、網羅的すぎて引っかかりがないというか……。
 教科書を読んでいるみたいだった。
 うん、そうだった。教科書ってつまらなかった。ひととおり過不足なく書いてるんだけど、その過不足のなさがつまらなかった。おもしろいのは〝過剰〟な部分だからね。




 この例のような微かな偏見や、その偏見を手がかりとした差別は現実にも実行されている。ただし、差別をしている者は、自分が差別しているという自覚をもたず、自分のことを平等主義的だと信じ込む傾向があり、彼らはさらに、差別される側に同情的であり、少数派集団の人たちに対しての好意や同情を積極的に示そうとすることもある。この無自覚の偏見がふとしたはずみで表に出ることもあるが、そこで本人が自分の偏見や差別に気づくとは限らない。ここでの偏見や差別は何らかの形で正当化され、差別した当人は自分のことを平等主義的だと思い続けることができる。たとえば、少数派集団の一人に嫌な感じを抱いたとしても、その感情が自分の偏見から生じた敵意や嫌悪であるとは考えず、そのときやりとりしていた相手の個人としての言動が自分に嫌な感じを抱かせるものだったと考えることができ、結果的に当人の偏見は放置され、微かな差別が続いていく。

 これは常々おもっている。
「自分は差別をしていない」「これは差別とおもわれたら困るんだけど」みたいなことを言う人間こそが差別丸出しの発言をする。
 差別であることを責められても「誤解を招いたのであれば申し訳ない」と謝罪にならない謝罪で切り抜ける。

 人は差別や偏見からは逃れられないのだとおもう。なぜならそれこそが知恵だから。
「集団Aのメンバーが悪いことをした。集団Aのまた別のメンバーも悪いことをした。集団Aは悪いやつらだ」
と判断することで、人間は生きぬいてきたのだから。
 偏見を持たない人間は生きられなかった。「先月あそこに行ったやつが死んだ。先月べつのやつが行って死んだ。でもまあおれは大丈夫だろう」と考える人間は命を落とす確率が高くて子孫を残せなかった。
 偏見を持つ人間の子孫が我々なのだから、偏見を持たないわけがない。
 ぼくもリベラリストを気取ってはいるが内心では××や△△をバカにしまくってるし。

 偏見を持たないのはバカだけだ(これこそ偏見かもしれないが)。
 必然的に差別もなくならない。
 そもそも差別だって合理的な理由をつけられる場合がほとんどだからね。「高齢者は身体的能力も知的吸収力も衰えるので採用しません」ってのは年齢差別だけどほとんどの人はそこに一定の合理性を感じるだろう。

 だから「差別をなくそう」ではなく、「差別感情がなるべく実害につながりにくい世の中にしよう」ぐらいの目標を立てたほうがいいよね。




 以前、『差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準』という文章を書いた。
 世の中には「許されない差別」と「許される区別」がある。

 たとえば「女性だから採用しません」は、力仕事とかでないかぎりは言ってはいけないことになっている。
「〇〇地域の人は採用しません」もダメだ。
 でも「三十代までしか採用しません」は原則ダメだがほとんどの会社がやっている。
「応募資格:大卒以上」は堂々と掲げられている。
 大卒以上がよくて男性のみがダメな理由を論理的に説明できる人はいないだろう。なぜならそこに論理的な違いはなく、「今まで慣例的におこなわれてきた線引きかどうか」だけで判断しているからだ。


『偏見や差別はなぜ起こる?』では、差別が起こる理由として「システム正当化理論」が紹介されている。

 ジョン・ジョストらは、我々がこのような不公正な現状に折り合いをつけようとするプロセスを、システム正当化理論(systemjustificationtheory)で統合的に説明しようと試みている。この理論によると、人には現状の社会システムを、そこに存在しているという理由のみで正当化しようとする動機(システム正当化動機)がある。なぜなら、人は不確実で無秩序な状態を嫌うがゆえ、たとえ現状のシステムに問題があったとしても、それを織り込んだうえで予測可能な社会の方がはるかに心地よいと考えるからである。現状の社会秩序の肯定は、恵まれた、社会的に優位な集団の成員にとっては自尊心の高揚にもつながり精神状態を安定させる。恵まれない、社会的に劣った集団に属する成員にとっては、現状の肯定は自尊心を低下させ精神状態の悪化につながる。しかし同時に、現状を受け入れさえすれば、「なぜ私はこのような恵まれない集団に属しているのか」という、個人レベルでは解決が困難な問いからは解放される。個人や所属集団の成功に対する関心が薄い場合、恵まれない劣位集団において現状のシステムを受け入れる傾向はさらに強くなるという。

 この説明はすごくしっくりくる。

 そうなのだ。
 我々は絶対的な正/悪の基準を持っているような気になっているが、そんなものはない。
「今あるものは正しい。今認めらていないものは悪い」で判断しているだけだ。

 だから「男子校・女子校はOK。でも血液型A型しか入れないA型校は差別」とおもってしまうのだ。本質的な違いはないのに。

 自分の信ずるもの、頼るものの一つが権威や現状の社会のあり方そのもの(現状肯定)であった場合には、これを批判する者が敵に見えてしまう。自分が大切にするものの価値を貶める言説に出会うと屈辱感を感じる。ここにも現状肯定派と改革派との根深い対立の芽がある。本来、同じ社会で生きる者は、互いに知恵を出し合って、みんながより生きやすく、住みやすくしていく改善策があるのならば、改善とその方法を議論し、共有していくことが理想的であろう。しかし、現状を肯定するあまり、そうした「改善」についてもみずからの存立基盤を脅かす批判をなすものとして、過剰に警戒し、敵意を抱くといった反応が呼び覚まされることがあるのだ。
 議論を勝ち負けの勝負、競争と見てしまうと、たとえみずからが利益を享受するような改革であってもみずからが提案、主導したもの以外はすべて敵意をもって対するといった非合理的な対応が現実に現れることになる。議論や交渉という場をどのような枠組み、フレーミングで理解するかといった解決態度の違いによって不毛な対立を続けたり、それを避けたりすることができるのだ。

 この姿勢は政治や政策に対する議論でもよく見られるよね。
 今のシステムを最良のものとみなして、それにそぐわない案は(たとえ改善案であっても)すべて否定する姿勢。

 日本政府を批判すると「そんなに日本が嫌なら日本から出ていけ!」という人たち。
 日本が好きだからより良くしたいのに……という正論はそういう人には通じない。なぜなら彼らにとっては常に「今が最良」なのだから。


 偏見・差別に関する議論よりも、この「システム正当化理論」についてもっと深掘りしてほしかったな。
 システム正当化理論に関する本を探してるんだけどなかなか見つからないんだよな……。


【関連記事】

差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準

刺青お断り



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2020年12月10日木曜日

牛のいる生活

 父母はともに昭和三十年生まれだ。
 だが生まれ育った環境は大きく違う。

 母の父は建設省(今の国土交通省)の国家公務員だった。地方都市を転々としていたが、その暮らしは決して苦しいものではなかったようだ。
「休みの日になると父の取引先の人が来て、庭の手入れをしてくれた」
「犬が死んで悲しんでいたら、その話を聞いた父の取引先の人が犬を贈ってくれた」
など、今の時代だったら贈収賄で完全アウトな話を母から聞いたことがある。
 当時は役人に贈り物をするのはあたりまえだったようだ。

 一方の父の育ちはまったく違う。
 福井県の小さな村で育った(今は町になっているが)。農家。
「囲炉裏を囲んでごはんを食べていた」
「冬は家の中に牛を入れていた」
 といった、日本昔話みたいなエピソードを持っている。農家なので、乳牛でも肉牛でもなく役牛だ。トラクター代わりの牛。
 豪雪地帯なので冬は雪をかきわけて小学校に通い、歩いて通える距離に中学校がなかったので中学生で既に下宿をしていたそうだ。

 母が手塚治虫の漫画やアニメに夢中になっていた頃、父は中学生にして下宿をする日々。とても同じ時代を生きた人とはおもえない。

「うちは親父が農閑期に運送業をやっていたので村の中で一軒だけ電話を引いていた。それが自慢だった。村中みんなうちに電話を借りに来た」と語る父と、
「電話なんかどの家にもあった。その頃うちは子どもたちがチャンネル権争いをしていた」と語る母。

 まったく生い立ちがちがう。
 たぶん結婚当初はいろいろたいへんだっただろうな。価値観がちがいすぎて。


 父は大阪の大学に出てきて、大阪で就職した。大阪で働き、横浜や東京やカイロに単身赴任をしていた。
 今は郊外の家でPCを使いリモートワークをしている。家に牛はいない。

 幼少期と老年期でここまでちがう暮らしをしている人は、人類の歴史をふりかえってもそう多くはいないだろうな。


2020年12月9日水曜日

【読書感想文】ぼくやあなたたちによる犯罪 / 加賀 乙彦『犯罪』

犯罪

加賀 乙彦

内容(河出書房新社ホームページより)
ある日突然、何処かでそっと殺意が芽生える! さりげない日常に隠された現代人の魂の惨劇が、様々な人間模様の底から露わにされて行く――。名作「宣告」に続く犯罪小説集。

 医学者であり犯罪学者でもある作家による犯罪小説集。
 フィクションではあるが実在の事件をモデルにしているらしい。

 残忍な連続殺人犯などは登場せず、ごくごくふつうに暮らしていた善良な市民がある日突然殺人、放火、窃盗といった犯罪に手を染める姿を丁寧に描写している。

 ぼくは犯罪に手を染めたことが(まだ)ないし、身内にも犯罪者は(たぶん)いないので想像するしかないのだけど、人が犯罪に走るときってこんな感じなんだろうなーというリアリティを感じる。

 こないだ河合 幹雄『日本の殺人』という本を読んだ。
 それによると、殺人犯の大半は人殺しが好きな凶悪犯などではなく、ごくふつうに生きていた人たちが何かのはずみで手をかけてしまったケースだ。殺すのも家族や顔見知りが大半で、「見ず知らずの人を殺す」というのはニュースで大々的に報道されるから印象に残りやすいがじっさいは例外中の例外なのだという。

 この『犯罪』で描かれる事件も、おおむね現実に即している。犯罪とは無縁の生活をしていた人が何かの拍子にかっとなって殺してしまう。
 『大狐』という短篇では狐に憑かれたような状態になって人を殺してしまう男が出てくるが、まさに「狐に憑かれた」「魔が差した」としか言いようのない殺人事件はあるんじゃないだろうか。自分でもなぜ殺したのかわからない、というような。
 ぼくは人を殺したことはないけど、「あのときなんであんなに怒ったんだろう」「つい乱暴な物言いをしてしまったけど今おもうとぜんぜん大したことじゃなかった」とおもうことがある。たぶん、たまたま寝不足だったとか腹が減ってたとか、原因は些細なことなんだろうけど。

 たいていの場合はそれでも「家族に怒鳴ってしまった」ぐらいで済むのだろうが、めぐりあわせが悪ければ人を傷つけたり、あるいは殺してしまうこともあるかもしれない。
「あのときはちょっと言いすぎたな」と「かっとなって殺してしまった」は別次元の話ではなく、地続きのものなのだ。

 ほとんどの殺人は、平気で人を殺せる別人種による犯行ではなく、ぼくやあなたのような人たちの失敗なんだおもう。


『犯罪』は犯罪学者が書いたものだけあって、そのへんの書き方がすごく丁寧だ。

 また分析も教訓もなく、ただ事実をもとに想像で補いながら淡々と事実と当事者の心境の変化を書いているのも誠実な態度だ。
 素人にかぎって「犯罪者の心理」を決めつけるけど、そんなことわかるわけがないんだよね。真実など誰にも(加害者当人にも)わからないんだから。


【関連記事】

【読書感想文】殺人犯予備軍として生きていく / 河合 幹雄『日本の殺人』

【読書感想文】犯罪をさせる場所 / 小宮 信夫 『子どもは「この場所」で襲われる』



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2020年12月8日火曜日

ツイートまとめ 2020年4月


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2020年12月7日月曜日

【読書感想文】どこをとっても思いこみ / 押井 守『凡人として生きるということ』

凡人として生きるということ

押井 守

内容(e-honより)
世の中は95%の凡人と5%の支配層で構成されている。が、5%のために世の中はあるわけではない。平凡な人々の日々の営みが社会であり経済なのだ。しかし、その社会には支配層が流す「若さこそ価値がある」「友情は無欲なものだ」といったさまざまな“嘘”が“常識”としてまかり通っている。嘘を見抜けるかどうかで僕たちは自由な凡人にも不自由な凡人にもなる。自由な凡人人生が最も幸福で刺激的だと知る、押井哲学の真髄。

 つれづれなるままにつづったエッセイ。

 まったくのどに引っかかることのないゼリーのような文章。ゼリーももちろん需要はあるのだけど(主にファンからの)、仮にも新書として出すのであればもうちょっと骨のある文章を書いてほしい。腹へってんのに流動食出されたら怒るぜ。

 奥付を見てみたら、2008年刊行。ああ、なるほど。
 この時期に出版された新書ってゴミクズが多いんだよなあ。新書がよく売れて(というか他の書籍や雑誌が売れなくなって)、なんでもかんでも新書にしていた時代だから。


 ぼくは押井守という人を名前しか知らない。アニメも映画もほとんど観ないので。そんな人間にとってはまったく読む価値のない駄文だった。

 個人ブログをそのまま本にした文章。

 親が自分の子供を虐待して殺してしまったというニュースを、最近よく耳にするようになった。児童虐待の報告件数もこのところ急増しているようだ。
 もっとも実際はどうなのか、と言うとどうもはっきりしない点もある。幼い子供の命を、親の手による虐待から救えなかったという反省もあって、近ごろは家庭内での児童虐待もすぐに通報されたり、児童相談所が家庭内に立ち入って調べたりするようになったので、児童虐待が表に出る件数が単純に増えているのかもしれないからだ。
 しかし僕はある根拠から、確かに虐待は増加しているのではないかと思っている。つまり、親による子供の虐待は文明が必然的にもたらした結果だと考えるからだ。
 近ごろの若者はセックスに興味を持たないとか、嫌がるといった話もよく耳にする。それもこれも、僕は人類の文明化がもたらしたものであり、おそらく先進国ではどこでも同時に起きている現象ではないかと考えている。

 終始こんな感じ。
 社会問題を斬るのに、掲げる武器はただひとつ。「己の思いこみ」のみ。
 一切の根拠はない。まず「児童虐待が増えている」「近ごろの若者はセックスに興味を持たない」という前提が正しいかどうかを調べようとすらしない。
 ちょっと調べればいくらでも先行調査が出てくるのに「都合のいいデータを引っ張ってくる」ことすらしない。
 思いこみを出発点にして、思いこみを元に考察を重ね、思いこみで結論を下す。
 重ねていうが、仮にもこれが新書として出されてるんだよ。エッセイとしてもレベルが低いとおもうが(だって論が乱暴なだけでおもしろくないんだもの)。


 思いこみ、偏見、くりかえし、よく聞く話のオンパレード。全国の居酒屋で一万人のじいさんが「俺がおもうには」としゃべってる「なんら新しい切り口のないつまんない持論」みたいなのがひたすら続く。

 すっかりうんざりしてしまって、後半は
「もう、おじいちゃんったらしょうがないわねえ。いつまでも昭和を引きずってちゃだめよ」
と、介護するような気持ちで読んでいました。


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