2020年8月28日金曜日

見ず知らずの子に本を買ってあげたくなった話


本屋に行ったら、四歳ぐらいの子どもが絵本を手にして「これ買って」と言っていて、一緒にいたおとうさんが「あかんあかん、どうせ読まへんやろ」と言っていた。

まったく見ず知らずの親子だったけど、
「おっちゃんが買ってあげるよ」
と言いたくなった。

本の一冊ぐらい買ってあげればいいじゃない。
せっかく子どもが読む気になってるのに。
本を読む習慣をつけておいて悪いことはあんまりないぜ。
お金がないならぼくが出してあげるからさあ。
だから本を読みたがっている子どもの希望をへしおらないであげてくれよ。

と言いたかったのをぐっとこらえた。

直後、そのおとうさんが
「そんな絵本みたいなんじゃなくて、もっと字の多い本読めよ」
と言うのを聞いたときは、
「おまえがその芽をつぶしてるんやろが!」
とぶん殴りたくなった。じっさいぶん殴って気を失ったところを本棚の下のストッカーの中に押し込んだ。めでたしめでたし。


2020年8月27日木曜日

なりふりかまわぬ大統領


『国家はなぜ衰退するのか』という本にこんなエピソードが載っていた。
 二〇〇〇年一月、ジンバブエのハラレ。一部国有のジンバブエ銀行(通称ジンバンク)が運営する国営宝くじの抽選会で、司会者のファロット・チャワワは当選くじを引く役を任されていた。一九九九年一二月の時点で同行の口座に五〇〇〇ジンバブエ・ドル以上を預金していた顧客全員に、この宝くじに当たる可能性があった。くじを引いたチャワワはあぜんとした。銀行の公式声明によれば、「司会のファロット・チャワワは、わが目を疑った。一〇万ジンバブエ・ドルの当たりくじが手渡されると、そこにはR・G・ムガベ大統領閣下と記されていた」からだ。
 ロバート・ムガベ大統領は一九八〇年以来、あらゆる手段を駆使し、たいがい鉄拳によってジンバブエを統治してきた。その大統領が、国民一人あたりの年収の五倍に相当する一〇万ジンバブエ・ドルの賞金を当てたのだ。ジンバブエ銀行によれば、抽選の対象となる何千人もの顧客のなかからムガベ氏の名が引き当てられたという。なんと運のいい男だろう! 言うまでもないが、大統領は本当にそんな金を必要としていたわけではない。何しろ自分と閣僚たちの給与を最高で二〇〇パーセント引き上げるという大盤振る舞いをしたばかりだったからだ。
 宝くじは、ジンバブエの収奪的制度を物語るほんの一例にすぎない。腐敗とも呼べるこうした例は、ジンバブエの制度に巣くう病理の一症状にすぎない。ムガベが望めば宝くじさえ当てられるという事実は、彼がジンバブエ国内の諸事にどれだけ支配力を振るっているかを物語り、この国の収奪的制度のひどさを世界に示した。
大統領が権力をふりかざして宝くじに不正当選してしまう国……。

ジンバブエ国民には申し訳ないけど笑っちゃうな。
当事者からしたら悲劇でしかないけど……。

ムガベ大統領が何をおもって宝くじの当選者を自分にしたのかわからないけど、ばかすぎる。
私腹を肥やしたいならいくらでももっといい方法があるだろうに。ここまで国民の反感を買わずに済む方法が(じっさいそういう方法もやってるんだろうけど)。

他人に便宜を図るために宝くじを当選させてやった、ならまだわかるんだけど。
本邦にも友だちのために国有地を安く売却させる便宜を図った政治家がいるし。

でも、ばかすぎてかえって許せるような気もする。
恥も外聞も気にせずそこまでやられたらもう「んもう、しょうがねえなあ、あいつは」と笑うしかない。

新人文学賞の応募作品を募集しておいて芸能人の書いたどうしようもない小説を「これが大賞です!」というような姑息な真似よりはよっぽど潔いとおもうぜ(いつまで言い続けるんだ)。

2020年8月26日水曜日

鈍感なわたくし


十年ぐらい前に自分が書いたブログを読んでいたら
「繊細だなー」
とおもった。

昔のぼくは、些細なことに感情を動かされている。
ちっちゃなことに腹を立て、もの悲しさを感じ、おもしろさを見つけている。
それはつまり、ぼくが昔よりずっと鈍感になったということだ。

思春期のころ、世の中のおっさんおばさんを見て「なんて無神経なんだ」と嫌悪を感じていたが、その無神経なおっさんに自分がなっている。

昔より、心を動かされることが減った。
「まいっか」で済まされることが増えた。
自分としては生きやすくなったのでいいことなんだけど、他人から見たらあつかましいおっさんがひとり増えたのでよくないことなんだろう。

感受性が鈍くなったのは年齢のせいもあるし、子どもと暮らしているせいでもある。

幼児なんてバナナの皮を自分でむきたかったという理由で大声で泣き叫び、お風呂に入りたくなかったのにといって風呂から出た後までずっとめそめそしている。
時間も場所も状況も気にせず怒りくるう。かとおもうと信じられないぐらいあっさりと機嫌を取りもどしてけたけた笑う。

こんなめまぐるしく感情を変える生き物にあわせていちいち心を動かしていたら、たちまち発狂してしまう。

だからだろう。感情のシャッターをすばやく閉じられるようになった。

ああこれはめんどくさいことになりそうだとおもったらすみやかにシャッターを下ろす。
沖縄の人が台風に慣れているように、ぼくも近くを通りすぎる感情の暴風雨に慣れてしまった。
すばやくシャッターを下ろして、なるべく外のことは考えずにぼんやり過ごす。
妻も同じようにシャッターを下ろしているので、子どもが泣き叫んでいる隣で妻と窓の外を眺めながら
「今年は冷夏なんて言ってたけど最初だけだったね」「ふたを開けたらぜんぜん猛暑だよね。毎年だまされてる気がする」
なんてのんきな会話を交わしている。

ああ、こうして世の中のおっさんおばさんは図太く無神経になってゆくんだな。
人が不機嫌そうにしていてもいちいち気に病んだりせずに
「なんか怒ってはるわー。おーこわ」
「眠いんやろかねー。腹立つんやったら寝たらええのに」
とやり過ごせるようになるんだな。

そうやって感覚が鈍磨していること自体に関しても「まあ感覚が鈍ればつらいことも感じにくくなるからええわ」ぐらいにしかおもえない。
十代のぼくが聞いたら、己が鈍感になることにめちゃくちゃ怒るだろうな。

すまんすまん十代のぼくよ、でもまあしゃあないやん、そない怒るんやったらはよ寝たほうがええよ。

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【エッセイ】無神経な父



2020年8月25日火曜日

【読書感想文】宗教の家の子 / 今村 夏子『星の子』

星の子

今村 夏子

内容(e-honより)
林ちひろは、中学3年生。出生直後から病弱だったちひろを救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき、その信仰は少しずつ家族のかたちを歪めていく…。野間文芸新人賞を受賞し、本屋大賞にもノミネートされた著者の代表作。

物心ついたときから親が宗教にハマった家庭で育ったちひろ。

本人はその家庭しか知らないので当然のように受け入れているが、「入信する前」を知る姉や、そうでない家庭を知る叔父はなんとかちひろを「宗教から救いだす」ことを試みる。

だが両親は聞く耳を持たず、ちひろも家を出ることを考えもしない……。


ぼくの両親は無宗教だったが、学校のクラスメイトには「宗教の家の子」がいた。

そんな子らは“家庭の事情”でいろんな楽しみから距離を置いていた。

彼らは土日に遊べなかったり、クリスマス会に参加できなかったり、部活に入れなかったりした。

高学年ぐらいになるとだんだんわかってくる。どうやらシューキョーのせいらしい。親がシューキョーをやっていると、いやおうなく子どももそれにつきあわされるらしい。

ぼくらからすると、彼らは「かわいそう」だった。

ちょうどそのころオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。

それまで以上にシューキョーは「やばいもの」になった。


彼らはどんな気持ちだったんだろう。

大人になって、彼らが入信していた(というかさせられていた)宗教の教義を知った。
終末がやってきたときに信じている者は救われる、信じていないものは滅びる。この世には人々を堕落させようとする悪魔がたくさんいる。悪魔はあの手この手で信者を誘惑する。遊びに誘ったり漫画やゲームをちらつかせたりする。その悪魔の誘いに乗ってはいけない……。

だいたいそんな教義らしかった(ぼくの解釈では)。

その教義を知って、とてもいやな気持ちになった。

ぼくは悪魔だとおもわれていたのか……。

ぼくは彼らをかわいそうとおもっていたが、彼らもまたぼくらのことを「悪魔の誘いに乗って堕落したかわいそうな人間」とおもっていたのか……。

彼らがその教義を信じていたのかどうかわからない。
ぼくらのことを悪魔とおもっていたのか、かわいそうとおもっていたのか、うらやましいとおもっていたのか。

彼らがどんな気持ちを持っていたのか。

知りたいような、知りたくないような……。




『星の子』を読んで、ひさしぶりに「宗教の家の子」のことを思いだした。

彼らは自らの置かれた境遇のことをどうおもっていたんだろう。

はかなんでいたんだろうか。それとも自分たちこそが救われていて他の家の子を悪魔と見下していたんだろうか。

どっちでもなければいいな、とおもう。
『星の子』のちひろのように、あるがままに受け入れていたらいいな。
自分の家が他と違うことは認めつつも、とりたてて幸せでも不幸でもないとおもっていたらいいな。

ああいう子って将来どうなるんだろう。

ぼくはひとり知っている。
「宗教の家の子」だったNくんは、今は居酒屋の店長をやっている。ぼくも一度飲みに行った。その店の親子丼はぼくが今までに食べた中でいちばんうまかった。

あんなにうまい親子丼を作れるんだから、彼はきっと今は“ふつう”の人生を歩んでいるんだろうとおもう。


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【読書感想文】マジもんのヤバい人が書いた小説 / 今村 夏子『木になった亜沙』



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2020年8月24日月曜日

【読書感想文】めざすはミドルパワー / 竹田 いさみ『物語オーストラリアの歴史』

物語オーストラリアの歴史

多文化ミドルパワーの実験

竹田 いさみ

内容(e-honより)
APEC提案、カンボジア和平の国連提案、農業貿易の自由化など、オーストラリアは国際社会の構想を次々と実現してきた。中規模な国家ながらベンチャー精神にあふれた対外政策はどこから生まれてきたのか。さらにアジア系移民が暮らす多文化社会は、かつての白豪主義からの一八〇度の転換であり、社会革命といえる。英帝国、米国、アジア諸国との関係を軸に一五〇年の歴史空間を描き、新しい国家像の核心に迫る。

オーストラリア。

有名な国だ。小学生でも知っている。
だいたいの形も描ける。

でも、オーストラリアについて何を知っているだろう。
カンガルー、コアラ、グレート・バリア・リーフ、エアーズ・ロック、アボリジニ、山火事、捕鯨反対……。
自然遺産や生態系のことばかりで、文化的・歴史的なことをほとんど知らない。

そういや世界史の教科書にオーストラリアって出てきたっけ?
白豪主義とか聞いたことあるような……。


ほとんどの日本人が似たようなもんじゃないかな。

オーストラリアという国は知っている。
でも文化や歴史はほとんど知らない。オーストラリア出身の有名人もイアン・ソープぐらいしかわからない……。


知っているのにまるで知らない国、オーストラリア。

その謎(ぼくが知らないだけなんだけど)を解き明かすべく、『物語オーストラリアの歴史』を読んでみた。

2000年刊なので「今後の展望」などについては情報が古すぎるが、オーストラリアの歴史はよくわかった。

オーストラリア史は勉強するのが楽だね。(先住民の歴史を含めなければ)250年ぐらいしかないから。




オーストラリアは元々イギリス帝国の一植民地だった。
だが、アメリカに独立を許したことでイギリスは植民地政策の転換を余儀なくされる。
きつく締めあげて、独立されてはかなわない。ほどほどに自由を与えてイギリス帝国を支えるメンバーでいてくれたほうがいい。

オーストラリアは18世紀後半に独立してからも、イギリス帝国の一員だった。
君主制であり、オーストラリアの君主はイギリスの国王や女王が兼務していた。

そう昔の話ではない。
なんと1975年には、オーストラリアの首相がイギリス連邦総督によって解任されるという事件が起こっている。
連邦総督が首相を罷免することができると憲法に規定されているのだ。

それでいいのかオーストラリア人! と言いたくなる。
独立国なのに、よく黙っていられるな。

まあホワイトハウスの言いなりになっている日本も他の国から見たら同じようなものかもしれないが……。




とはいえ、今のオーストラリアはイギリスとは距離を置いている。

そのきっかけに日本が一役買っていたとは知らなかった。
といっても決して名誉なことではないのだが……。

 カーティン政権は、第二次世界大戦をアメリカと運命を共にする戦争と位置づけ、対米同盟を外交・防衛政策の根幹に据えていった。もはやオーストラリアの安全保障に、イギリスの姿はない。オーストラリアは、マッカーサーとの協議を基に戦時体制を築いていったのであり、冷戦時代を貫く対米同盟関係の原点を、ここに求めることができる。このときからオーストラリアは、まったく異なる景色を背景に自画像を描くようになる。かつて背景画の中心であったイギリスがアメリカに代わった瞬間から、オーストラリアの新しい歴史が動いた。

第二次世界大戦で日本がオーストラリアに空爆をしかけた。
オーストラリアは日本から本土を防衛するため、英帝国の傘下から離れ、アメリカに庇護を求めた……。

恥ずかしながらぼくは、日本がオーストラリアを空爆したことすら知らなったよ……。

太平洋戦争ってオーストラリアまで行ってたのか……。
たしかに改めて地図を見ると、東南アジアのすぐ先だもんな、オーストラリアって。

一般にアジアじゃなくてオセアニア地域としてくくられるからずいぶん離れているように感じるけど、ほとんどアジアなんだよなあ。日本とほぼ時差もないし。


オーストラリアにとって日本は、

・第一次世界大戦は仮想敵国であるドイツやソ連の太平洋進出を抑えてくれる味方

・日本が大陸や太平洋に進出したことにより、仮想敵国になる

・太平洋戦争では現実の敵に

・戦後は貿易相手国。1966年にはイギリスを抜いて、対日貿易がオーストラリアの輸出市場一位となる

・最近は対中国が一位だが、依然としてよき貿易パートナー

というふうに、接し方がめまぐるしく変わっている。
知れば知るほど、日本にとってオーストラリアは大きな存在なのだ。

なのにぜんぜん知らなかったなあ。
「コアラとカンガルーの国」としかおもっていなくて申し訳ない。




オーストラリアの歴史を語る上で欠かせないキーワードが「白豪主義」と「ミドルパワー戦略」だ。

白豪主義とは、有色人種の排除政策のこと。

移民国家として誕生したオーストラリアには、ヨーロッパだけでなく、様々な国からの移民が多く流入してきた(日本人も多かった)。
移民が増え、自分たちの地位が脅かされることに危機感を抱いた先住者たちが有色人種の入植を制限したのが白豪主義だ(ほんとの先住者はアボリジニなんだけど)。

 一九世紀末にオーストラリアの植民地社会は例外なく、白豪政策を将来における国家政策の根幹に据える決定を下した。連邦国家の誕生とともに、一九〇一年に開会した第一回連邦議会で、初めて制定した法律が移住制限法であったのは、きわめて自然の成り行きであった。外国人労働者の無差別な流入に対する制限を、全国的に統一して実施するという強い政治的意志が、連邦国家の建設に向けた重要な要因であったからである。
 やや誇張して表現するならば、白豪政策に裏打ちされた白人社会を建設するために、連邦国家が誕生したのである。それほど当時のオーストラリアにあって、アジア系外国人労働者問題は深刻に受け止められていた。移住制限法によって国家政策としての白豪政策が可能となり、国民が共有できるイデオロギーとして、白豪主義が生まれることになった。移住制限法は、将来におけるオーストラリアの国家像を前提に、連邦議会で白熱した討論を経て制定された法律であり、オーストラリア人の心の拠り所となった。

有色人種を締めだすためにオーストラリアがとった方法はなかなかえげつない。

移住希望者に対してヨーロッパ語の書き取りテストを課す。
これだけでも非ヨーロッパ人にとっては不利なのに、フランス語が得意なアジア人にはドイツ語で試験をおこない、ドイツ語が得意ならイタリア語やスペイン語の試験を課す、などして必ず不合格にしたというのだ。

あからさまにやると国際的に非難されるのでこういうやりかたをとったそうなのだが、汚いなあ。
女子学生だけ減点していた東京医科大学みたいなやりかただ。


だが第二次世界大戦後には移民の労働力が欠かせなくなったことで、白豪主義は撤回されていくことになる。
今では積極的にアジアからの移民を受け入れる国となり、「多文化主義」を政策として掲げるほどだ。

この転身は見事。

しかも無制限に移民を受け入れるのではなく、自国にとってメリットのある人だけを受け入れるしたたかさも。

 従来の移民政策は、白人の移民希望者をほぼ無条件に受け入れ、非白人を締め出すという人種差別政策の典型であった。第二次世界大戦直後に、労働党のアーサー・コールウェル移民相が打ち出した大量移民計画も、すべて白人移民を対象としたものであり、東欧・南欧諸国から、英語を母国語としない多数の移民が流入することになった。こうした移民政策を制度的に改革したのが、ウィットラム首相である。
 同首相は人種を基準とした移民審査を廃止し、個人のさまざまな能力をポイント(点数)で表示し、合計点の高い移民を受け入れる新方式の導入を決断した。この方式はカナダで考案されたもので、移民希望者の年齢、教育水準、技能、職歴などにボイントを設定し、ポイント合計が高い移民を優先的に受け入れるというものである。(中略)社会的ニーズとともにテスト項目と配点は若干変化するが、基本的にはこのような項目で審査され、ある一定水準以上の合計点を獲得した者が、移民として受け入れられることになる。新しい移民制度の導入によって、ウィットラム首相は白豪政策を終焉に導いた政治家として、歴史に名を残すことになった。

このへんのしたたかさは日本も見習わないといけないよなあ。

日本がやっているような「単純労働に従事する移民を受け入れる」ってのは短期的にはいいんだろうけど、長期的に見たら生産性を落として対立を深めるだけなんじゃないかとおもう。

もう遅いかもしれないけど。


オーストラリアの戦略でもうひとつ特筆すべきは「ミドルパワー戦略」。

  ミドルパワーの発想は、人口規模や軍事力で見る限り大きな国ではないが、経済的にはきわめて豊かで教育レベルも高く、紛れもない先進国であるとの事実から、国際社会においてどのような役割を演じることができるのか、という問題意識から出発している。つまり知力と経済力はあるにせよ、総合的な国力が十分ではないとの限界を前に、紡ぎ出された国家構想であった。大国や小国が手掛けられない、もしくは手掛けたくない国際問題、さらにこうした国々が対応できない外交問題に、積極的に参加するとの外交政策に結びついていく。

オーストラリアは広大な国土を有しているが、大部分が砂漠なので人間が住める場所は限られている。現在の豊かさを維持したまま人口を増やすことができない。

さらに国土が広いということは国境線が長いということで、防衛・軍備に金がかかる。

地理的な要因で、オーストラリアはどうがんばってもアメリカや中国のような超大国にはなれない。

だがすべての国が超大国をめざす必要はない。
大会社よりも中規模の会社のほうが勝っているところもたくさんあるように、ミドルパワーならではのふるまい方がある。

なるほどなあ。
日本が今後世界の勢力を動かすような大国になることはもうないが、オーストラリアの立ち位置なら今からでも十分めざせる。

日本が今からめざすべきはオーストラリアなんじゃないだろうか。
アメリカや中国ばっかり見てないでさ。