2020年8月23日日曜日

人体感染業協同組合


地元の人たちが山に入って自分たちが食べる分だけの山菜や木の実を採っている。
地主は知っているが特にとがめたりしない。もちろん法律に照らせばよくないことだが、多少は人の手が入ったほうが山も荒れないので事実上黙認している。

ところがある日、トラックで乗りつけて山にあるものを根こそぎ持っていく業者が現れる。毎日のようにやってきてごっそり資源を持っていく。このままだと山が丸裸にされてしまう。
仕方なく地主は「関係者以外立入禁止」の看板を立てる。細々と山菜を採るぐらいならかまわないのだが、業者に「あいつらだって採ってるじゃないか」と言われないため、地元の住民を含め一切の立ち入りを禁ずるようになる。
ロープを張りめぐらし、防犯カメラを設置し、見つけ次第警察に通報する。

これまで細々と山菜を採っていた人たちは寂しいおもいをする……。



ってことが細菌やウイルスの世界でも起こってるんじゃないだろうか。

いろんな細菌やウイルスが人間を媒介して生存、繁殖していた。
人間からしたら害がないこともないが、完全に除外するのもコストがかかるし、中にはいいことをしてくれる菌もある。
多少は人体に入ってくるのもしかたないとおもってそこそこうまく共存していた。

そこに新しいウイルスがやってくる。
こいつは人体を荒らしまくるし、殺してしまうことも少なくない。放っておくとどんどん増える。
仕方なく人間は手洗いうがいをし、マスクをかけてアルコール除菌をし、他人との接触を避けるようになる。凶悪なウイルスだけを防ぐことはできないのであらゆる菌やウイルスを除去することに努める。

困ったのはこれまでそこそこうまく人間と共存していた菌やウイルスたちだ。
おいおいおれたちはそこまで悪さをしてこなかったぜ、まあまあうまくやってたんだ、たまにはいいことだってしてやったし。

でも、だめなのだ。
一部の不届き者を排除するためには、全員を締めだすしかないのだ。


こうして人体から締めだされた菌やウイルスたちは怒っている。
あいつらのせいで。

そのとき、ひとりの菌が言いだす。
「これまで、みんながおもいおもいに人体を感染させてきた。どれだけ感染させるか、どんな症状を引き起こさせるかは各菌の判断に任せられていた。今後、そういうやりかたはダメなんじゃないか。業界団体をつくり、ガイドラインを作って、どこまでならやっていいかの基準を明確にしよう」

インフルエンザウイルスが反対する。
「おまえらみたいな弱小菌はそれでいいかもしれないけど、基準なんか決めたらおれたちは感染力を抑えないといけなくなるじゃないか」

「もちろん不公平を感じるかもしれない。だが好き勝手に感染していたら、いつか限りある資源をとりつくしてしまうことになる。そうなってしまっては元も子もない。ここはひとつ我慢してはくれないか。とはいえインフルエンザウイルスの言い分もあるだろうから、冬は解禁期間と定めて感染を拡大させてもいいことにしよう」

結局最後はインフルエンザウイルスも折れ、自主規制基準を定めてそれぞれが守ることで一致する。

人体感染業協同組合(人協)の誕生である。


数十年後、covid-19というウイルス界のトランプ大統領みたいなやつが現れて、人協からの脱退をちらつかせながら自主規制議定書への批准を拒否することになるのだが、それはまたべつのお話……。


2020年8月21日金曜日

【読書感想文】常にまちがったほうの選択肢を選ぶ主人公 / 筒井 哲也『ノイズ』

ノイズ【noise】

筒井 哲也

内容(e-honより)
のどかな田園風景が広がる猪狩町では、黒イチジクを地域の特産として、限界集落から一転、活況を呈し始めた。そんな中、イチジク農園を営む泉圭太のもとに鈴木睦雄と名乗る怪しい言動の男が現れる。彼は14年前に女子大生ストーカー殺人を犯した元受刑者だった。平穏な地域社会に投げ込まれた異物が生んだ小さな波紋(ノイズ)が、徐々に広がっていく――…!!

内容説明文がおもしろそうだったので読んでみた。

田舎の集落にやってきたある男。主人公たちが言動に不審なものを感じてネット検索すると、元殺人犯であることがわかる。
近寄りたくないが、刑期を終えて出てきた以上は一般市民。強制的に排除することはできない。
元殺人犯の男は主人公の妻と娘にあからさまに性的な目を向けるようになり……。

第一話はこんな内容。ものすごく期待が高まった。

なるほど。この元殺人犯が“ノイズ”ね。
口ではえらそうに人権の重要性を語っていても、みんな自分の生活のほうが大事だもんね。
こういう事態に直面するとエゴイズムがむきだしになるよね。
己の信条とエゴイズムの間で葛藤しながら元殺人犯から家族を守ることができるのか、というサスペンスね。

……とおもいながら二話目以降を読んだのだが。


期待外れだった。

登場人物がみんなバカなんだよね。二つ選択肢がある状況で、常に悪いほうを選択する。

正当防衛で人を殺してしまったことを隠すために死体遺棄をするとか。

死体遺棄を隠すために殺人をするとか。

そんな感じで、常に「まちがったほう」を選択しつづける。どんどん罪を大きくする。

転落人生を描きたいのかとおもったけど、そういうわけでもなさそう。主人公たちはあんまり後悔しないんだよね。

バカなの? バカなのね。あっそう。


めちゃくちゃ展開が早いので読んでいて退屈はしないんだけど、そのスピード感が裏目に出ている。

「直情的な行動」
「都合のよい偶然が重なる」
「主人公たちのために都合よく動いてくれる村人たち」

のオンパレードで、読んでいてどんどん白けてしまった。

はじめの期待が大きかった分、拍子抜けしてしまった。
ラストまで読んでも「はじめっから正当防衛で届け出しておけばよかったのに」としかおもわなかった。




筒井哲也氏の漫画ってどれも綿密に構成されているのがわかるんだけど、今作はその濃密なプロットがアダになったって感じがする。

「言動の怪しい元受刑者が近所に来たとき、どうするか」

というワンテーマでじっくり三巻使って書いてくれたらおもしろかったとおもうんだけどなあ。

ああいう人間てのは本当にいるんだな 人のものを奪う 嘘をつく 邪魔なら殺す そういうことに全くためらいがない 昆虫のような人間だ 俺達が猪を刈るのと同じだ 誰かが仕留めなくちゃいけなかった それだけの話だ 

冒頭のこのセリフとかすごくわくわくしたのになあ。

でもじっくり書くのは漫画向きじゃないのかなあ。


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2020年8月20日木曜日

【読書感想文】誘拐犯たちによる謎解き / 道尾 秀介『カササギたちの四季』

カササギたちの四季

道尾 秀介

内容(e-honより)
リサイクルショップ・カササギは今日も賑やかだ。理屈屋の店長・華沙々木と、いつも売れない品物ばかり引き取ってくる日暮、店に入り浸る中学生の菜美。そんな三人の前で、四季を彩る4つの事件が起こる。「僕が事件を解決しよう」華沙々木が『マーフィーの法則』を片手に探偵役に乗り出すと、いつも話がこんがらがるのだ…。心がほっと温まる連作ミステリー。

連作ユーモア・ミステリ。

リサイクルショップを舞台にちょっとした事件が起こり、店長・華沙々木が探偵気取りで推理を披露するも、的外れ。
副店長の「ぼく」が暗躍してひそかに謎を解く……。

という筋書きの短編が四篇。

読んでいるほうからすると、華沙々木の推理も「ぼく」の推理もこじつけ度はどっこいどっこいなのだが、なぜか「ぼく」の推理だけがずばずばと的中する。

いろんな意味でご都合がよいのだが、まあ謎解きのシビアさに重きを置くタイプのミステリではないのでこれでいいんだろう。


謎解きは可もなく不可もなく、って感じだけど上手だったのは短篇四篇の構成。

主要登場人物三人がいろんな事情を抱えていたっぽい記述があるので
「あれ? これはシリーズものの第二作目か?」
とおもったのだが、後半でそのへんの過去の事情が明らかになる。

また一篇目のキャラクターが四篇目で活きてきたりと、単なる短篇四つの詰め合わせではない。

小説巧者、って感じだね。




ところで二十歳過ぎた男たちが、保護者の了解を得ずに女子中学生をあちこちに連れまわしているのが気になる。

本人の同意があったってこれは誘拐事件でしょ……。


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2020年8月19日水曜日

【映画鑑賞】軍隊とは洗脳機関 / 『フルメタル・ジャケット』

 フルメタル・ジャケット
(1998)

内容(Amazon Prime Videoより)

ジョーカー、アニマル・マザー、レナード、エイトボール、カウボーイ他、新兵たちは地獄の新兵訓練所ブートキャンプに投げ込まれ、残忍な教官ハートマンによってウジ虫以下の扱いを受けていくのだった。

  ↑ もう、この内容説明文がほぼすべて。

「地獄の新兵訓練所ブートキャンプに投げ込まれ、残忍な教官ハートマンによってウジ虫以下の扱いを受けていくのだった」

清水 俊二『映画字幕の作り方教えます』という本に、『フルメタル・ジャケット』日本公開時の“事件”が書かれていた。

日本公開版の字幕は戸田奈津子さんが担当することになっていたのだが、スタンリー・キューブリック監督自らが日本語字幕をチェックして(日本語わからないのに)、セリフの本来の持ち味が失われているとして急遽担当者変更になったのだそうだ。

それほどまでにこだわりぬかれたセリフ、いったいどれほどのものだろうとおもって観てみたのだが……。

なるほど。こりゃすごい。

たしかにこの口汚い罵倒の数々、これをマイルドな言葉に訳しちゃったらこの映画は台無しだよなあ。

新兵の人間性を徹底的に破壊するハートマン軍曹役のロナルド・リー・アーメイ氏は、もともと演技顧問として招聘された人らしい。

ところが彼の罵倒の迫力がすごすぎたので急遽キューブリックから出演を依頼されたのだとか。

そりゃあなあ。こんなすごいキャラクター、ふつうは放っておかんわなあ。




この映画のハイライトは、前半の海兵隊訓練キャンプ部分といっていい。

訓練のひどいしごきに比べたら、後半で描かれるベトナムでの本物の戦争が生やさしく見えてしまう。

リアルなのは、新兵間でのいじめの描写。
ほほえみデブ(レナード)の出来があまりに悪いので(おまけにドーナッツを隠しもっていたりする)、ハートマン軍曹は、ほほえみデブがやらかしたときは本人には一切罰を与えず、他の訓練生全員に罰を与える。
ほほえみデブは訓練生全員の恨みを買い、夜中にリンチを受ける。

いじめの構造ってどこも同じなんだなあ。
自分に直接ストレスを与えている存在(この場合はハートマン軍曹)には矛先が向かわず、攻撃しやすいところ(ほほえみデブ)に向かう。

この陰湿さこそがきわめて人間的。


デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』にこんなことが書いてあった。

 こうして第二次大戦以後、現代戦に新たな時代が静かに幕を開けた。心理戦の時代──敵ではなく、自国の軍隊に対する心理戦である。プロパガンダを初めとして、いささか原始的な心理操作の道具は昔から戦争にはつきものだった。しかし、今世紀後半の心理学は、科学技術の進歩に劣らぬ絶大な影響を戦場にもたらした。
 SL・A・マーシャルは朝鮮戦争にも派遣され、第二次大戦のときと同種の調査を行った。その結果、(先の調査結果をふまえて導入された、新しい訓練法のおかげで)歩兵の五五パーセントが発砲していたことがわかった。しかも、周辺部防衛の危機に際してはほぼ全員が発砲していたのである。訓練技術はその後さらに磨きをかけられ、ベトナム戦争での発砲率は九〇から九五パーセントにも昇ったと言われている。この驚くべき殺傷率の上昇をもたらしたのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機制の三方法の組み合わせだった。

人間は基本的に、他の人間を殺したがらない。
武器を持っていて、敵が眼の前にいて、殺さなければ自分が殺されるかもしれない。そんな状況にあっても、個人的に何の恨みもない人間を殺すことはなかなかできないのだそうだ。

だから軍隊で教えることは、戦闘技術よりも「どうやって殺人への抵抗を抑えるか」のほうが大事だ。

軍隊の歴史は洗脳の歴史でもある。

『フルメタル・ジャケット』を観ると、改めて軍隊とは洗脳機関なのだということがよくわかる。
いかに兵士の人間性を破壊するか。
訓練の目的はほとんどそれに尽きる。

ハートマン軍曹の訓練生の中でいちばんの成功者は、ほほえみデブだろう。
靴ひもも結べないような役立たずだった彼が、しごきと罵倒といじめの結果、誰よりも優秀な成績を挙げる優秀な狙撃兵になる。人間性は完全に失われ、銃と会話をするような「殺人マシーン」になる。

殺人マシーンになった結果、ハートマン軍曹を射殺し、自らに向けて銃の引き金を引くのはなんとも皮肉なものだ。

あれは軍隊教育の失敗ではなく、「成功しすぎた」結果なのだ。


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【読書感想文】字幕は翻訳にあらず / 清水 俊二『映画字幕の作り方教えます』

【読書感想文】人間も捨てたもんじゃない / デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

2020年8月18日火曜日

【読書感想文】まちがえない人は学べない / マシュー・サイド『失敗の科学』

失敗の科学

失敗から学習する組織、学習できない組織

マシュー・サイド

内容(e-honより)
誰もがみな本能的に失敗を遠ざける。だからこそ、失敗から積極的に学ぶごくわずかな人と組織だけが「究極のパフォーマンス」を発揮できるのだ。オックスフォード大を首席で卒業した異才のジャーナリストが、医療業界、航空業界、グローバル企業、プロスポーツチームなど、あらゆる業界を横断し、失敗の構造を解き明かす!

おもしろくてためになる。
いい本だ。
どんなビジネスにも役立つ考え方。全人類におすすめしたい。


医療業界では毎年多数の医療事故が起こっている。命にかかわるものも多い。
多くがヒューマンエラーによるもので、毎年ほとんど数は変わらない。

一方、航空業界ではめったに事故が起こらない。
しかも年々飛行機事故は減っている。
飛行機に乗るのは怖いという人は多いが(ぼくもそのひとりだ)、飛行機はもっとも安全な乗り物のひとつだ。

なぜ医療業界では重大なミスが減らず、航空業界は減りつづけるのか。
それは、航空業界には失敗に学ぶ仕組みがあるからだ。

航空業界では墜落などの重大なミスが起こった場合、徹底的に原因が検証される。
コックピットにはブラックボックスと呼ばれる記録装置があり、機器のデータや操縦士たちの会話がすべて記録されている。この装置は衝撃からも熱からも水からも守られ、飛行機が墜落してもまず壊れることはない。
また墜落のような重大な事故だけでなく、軽微な事故、あるいは「あやうく事故が起こりそうになった」といったケースもすべて記録される。
こうした失敗につながるデータはその航空会社だけでなく、ライバル会社も含めた全世界の航空会社に共有される。

そしてこれがいちばん大事なことだが、航空業界では事故やミスが起きたからといって、当事者を責めない。
ミスの報告はどんどん推奨される。

ミスを減らす方法は、
・ミスは必ず起こるという前提で制度設計をする
・ミスをした者を責めない
・ミスを報告しやすい環境をつくる
・ミスから学ぶ
つまり徹底的にミスと向き合うこと。これがミスを減らす方法なのだ。



ぼくが前いた会社は逆をやっていた。

「ミスをした人間はみんなの前でこっぴどく怒鳴られる」という文化だった。
ミスでなくても業績が悪くなれば、やはり責められた。

当然ながらこれはミスを減らすことにつながらない。
逆に、ミスを隠そうとするモチベーションがはたらく。

   ミスを発見する
 → 罵倒されるのがイヤだから隠そうとする
 → より大きな問題になる
 → 手に負えないぐらいの大事になってからやっと報告される
 → 当然ながらめちゃくちゃ罵倒される
 → それを見ていた他の社員もミスを隠すようになる

という悪循環だった。

だからぼくは今の会社に転職して自分でチームをつくることになったとき、ミスを報告しやすくした。
ミスをした社員を責めない。ミスを隠そうとしたときだけ注意する。

その結果、多少ミスは減った。
大事になる前に食い止められることは増えた。
とはいえまだまだ減らない。

『失敗の科学』には、医療現場を改善した事例として「ミスを報告した人を褒める」という対策が載っている(もちろん明らかにその人物が悪さをした場合はべつだが)。

なるほど。
「ミスを叱らない」だけでは不十分なのだ。

たとえ叱られなくても、「ミスをしたやつだ」とおもわれるだけでもイヤなものだ。
だからミスを報告することに対して、褒めるというフィードバックを返してやらなくてはならない。



ミスが減らない最大の原因が、「チームのリーダーであるぼく自身がミスを隠してしまう」だ。

ぼくはチームの中でいちばん上の役職で、経験ももっとも長い。
他のメンバーを管理するポジションにいる。

こういうポジションにいると、ミスを認めて他のメンバーに報告することにより大きな抵抗を感じてしまう。
多くの場合、人は自分の信念と相反する事実を突き付けられると、自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。次から次へと都合のいい言い訳をして、自分を正当化してしまうのだ。ときには事実を完全に無視してしまうことすらある。
 なぜ、こんなことが起こるのか? カギとなるのは「認知的不協和」だ。これはフェスティンガーが提唱した概念で、自分の信念と事実とが矛盾している状態、あるいはその矛盾によって生じる不快感やストレス状態を指す。人はたいてい、自分は頭が良くて筋の通った人間だと思っている。自分の判断は正しくて、簡単にだまされたりしないと信じている。だからこそ、その信念に反する事実が出てきたときに、自尊心が脅され、おかしなことになってしまう。問題が深刻な場合はとくにそうだ。矛盾が大きすぎて心の中で取拾がつかず、苦痛を感じる。
 そんな状態に陥ったときの解決策はふたつだ。1つ目は、自分の信念が間違っていたと認める方法。しかしこれが難しい。理由は簡単、怖いのだ。自分は思っていたほど有能ではなかったと認めることが。
 そこで出てくるのが2つ目の解決策、否定だ。事実をあるがままに受け入れず、自分に都合のいい解釈を付ける。あるいは事実を完全に無視したり、忘れたりしてしまう。そうすれば、信念を貫き通せる。ほら私は正しかった! だまされてなんかいない!

権威や誇りが失われてしまうのをおそれるあまり、
「これはミスじゃない」と自分に言い聞かせてしまう。

なるべくしてなったんだ。
誰がやっても同じことになっていた。
たしかにぼくの行動によって悪くなったけど、その行動をとらなくても同じかそれ以上に悪くなっていたはずだ。
無視できるぐらい小さな話だ。

そんな言い訳をして(無意識のうちに自己暗示をかけるので気をつけていないと自分でも言い訳をしていることに気づかない)、失敗から目を背ける。

この性質を自分が持っていることを深く理解しなければ。
意識的に「おまえはミスをする人間だ!」と自分に言い聞かせたほうがいいかもしれない。



「ミスを報告することで罰を受ける」はもちろんイヤだが、罰がなくてもミスを認めるのは嫌なものだ。
 わかりやすい例として、行動ファイナンスの分野でくわしく研究されている投資家の「気質効果」を考えてみよう。たとえば、あなたが値上がり株と値下がり株の両方を持っていたとして、どちらを売って、どちらを手元に置いておくだろう?
 普通に考えれば、値上がり株をキープして、値下がり株を売るはずだ。利益を最大限に出すにはそうすべきなのだから。安く買い、高く売って儲けるのが株の基本だ。
 しかし実のところ我々は、将来の値動きにかかわらず、値下がりしたほうの株を持ち続けてしまうことが多々ある。損失が「目に見える状態」になるのが嫌だからだ。下落した株を売却した瞬間、それまで「損失の可能性」にすぎなかったものが、リアルな「損失」として確定する。損失は、その株を買った自分の判断が間違っていたという動かしがたい証拠となる。その恐怖から、下落した株を長々と持ち続ける。「いつかきっと利益が出る」と自分に言い聞かせながら。これが「気質効果」だ。
 ところが、これが値上がり株となると話が逆になる。早く売りすぎてしまうのだ。人は無意識のうちに、早く利益を受け取りたいと願う。値上がり株を売った瞬間、自分の判断は正しかったという正真正銘の証拠が手に入るからだ。今後さらに値上がりしてもっと利益が出せるかもしれないのに、目の前の誘惑から逃れられない。これも一種のバイアスだ。
「上昇しつつある株は持っておく」
「下降しつつある株は売る」
こんな単純なことだけ守っておけば、よほどの暴落がないかぎりはまずまちがいなくプラスになるだろう。

だがそれができないのが人間なのだ。
「判断を誤った」ことを認めたくないために、下がっている株を持ちつづけ、上がっている株を売ってしまうのだ。

プロの投資家ですらそうなのだから、「まちがえたくない」という気持ちの強さがどれほどのものかがよくわかる。



世の中には「まちがえない人」がたくさんいる。
人気のある政治家やテレビのコメンテーターはたいていそうだ。
 クローズド・ループ現象のほとんどは、失敗を認めなかったり、言い逃れをしたりすることが原因で起こる。疑似科学の世界では、問題はもっと構造的だ。つまり、故意にしろ偶然にしろ、失敗することが不可能な仕組みになっている。だからこそ理論は完璧に見え、信奉者は虜になる。しかし、あらゆるものが当てはまるということは、何からも学べないことに等しい。
たとえば「公務員が多いことがすべての元凶だ。公務員を減らせ!」と声高に叫び、その結果社会が悪くなっても「公務員の努力不足が原因だ! 数を減らしたことは正しかった」とか「減らし方が足りなかったせいだ! もっと減らせ!」とか「公務員を減らしていたからこの程度で済んだのだ! 減らしていなかったらこんなもんじゃ済まなかったのだ!」とか言う 維新 人たちのことだ。

一度でも彼らが「我々が実行したあの政策は失敗だった」と言っているのを聞いたことがあるだろうか。
ない。彼らは失敗しないのだ。
それはつまり、何も学ばないということだ。

少し前に流行った『ドクターX』というドラマで、主人公の決めゼリフが「私、失敗しないので」だったそうだ(ドラマ観てないけど……)。
こういう人は成長しない。
ミスから学ばないから。ミスをしても「これはミスじゃない」と揉み消してしまうから。

「謝ったら死ぬ病」というネットスラングがある。
どれだけ判断ミスや失言をしても
「ご指摘にはあたらない」
「意図が誤って伝わってしまったのなら申し訳ない」
「誤解を招いたのであれば訂正する」
と言い逃れようとする人を指す言葉だ。
もちろん、こういう人も成長しない。

だが。
たいへん残念なことに、政治家やコメンテーターとして人気があるのは、この手の「失敗できない」人たちなのだ。

「私の判断は誤っていました。これから先も誤るとおもいます。それでも、そのときの最善を選択できるよう様々な人の声に耳を傾けていきます」
なんて謙虚な人は人気がない。

「失敗しない人」じゃなくて「失敗を認められる人」がトップに立ってほしいのだが。



こないだ娘といっしょに観ていたテレビアニメ『ドラえもん』に「メモリーローン」という道具が出てきた(アニメオリジナルの道具)。

自分の思い出を預けると、その価値に見合ったお金を貸してくれるという道具だ。
言ってみれば思い出を扱う質屋。

自分にとっての重要度で思い出の売却金額が決まる。価値のある思い出ほど高値で売れるのだ。
のび太の場合だと、野球の試合でホームランを打った思い出や、先生に褒められた思い出が高値で売れる。
ところが、出木杉の思い出を査定したところ、「テストで100点をとった思い出」は価値がほとんどなく、逆に「めずらしくテストで70点をとってしまった思い出」に高値がついていた。
出木杉くんにとっては、失敗した記憶こそ、そこから学ぶことが多く、価値のある思い出なのだ(もちろん出木杉くんはメモリーローンを利用しない)。

えっ、えらいっ……!
そう。出木杉くんのすごいところってこういうところなのだ。
ただ勉強ができるだけじゃなく、決しておごらず、つねに学ぶ姿勢を忘れないところなのだ。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』にも、未来の変化を正しく予測できる確率が高いのは「自分の失敗に重きをおき、そこから学ぶタイプ」とあった。
出木杉くんは今賢いだけじゃない。
今後もぐんぐんのびるタイプだ。

逆に、漫画に出てくる安易な天才タイプ(「ば、ばかな……! このオレの計算がまちがっているはずはない!」みたいなこと言うタイプ)はぜんぜん大したことないんだよね。



人間、誰しも己の失敗を認めたくない。
 心理学者のチャールズ・ロードも似たような実験をした。被験者は、死刑賛成派と反対派の人々だ。しかも、どちらのグループも筋金入り。賛成派は、死刑の犯罪抑止効果を友人に説いてまわり、テレビで反対派が恩赦の必要性を訴えていようものなら、画面に向かって怒鳴り散らすような人たちだ。逆に反対派は、「国が認める殺人」によって残忍な社会になってしまうことを心底恐れている人たちだった。
 ロードは各グループに、ふたつの研究報告書を読ませた。ふたつとも綿密な分析に基づいた、深い説得力のある見事なレポートだ。ただし、ひとつは死刑制度を支持するデータを集めたもので、もうひとつは死刑反対の意見を裏付けるものばかりだった。
 どちらも、普通なら「それぞれに理があるのだろう」と思えるほどのしっかりとしたデータだ。最後まで読めば、いくら両派が筋金入りでも、ほんの少しぐらいは歩み寄れるのではないかと思わずにはいられない。しかし、実際にはまったく逆のことが起こった。両派の溝はさらに深まったのである。賛成派はそれまで以上に強硬な賛成派となり、反対派も一層信念を強めた。

両論を目にすれば中立に寄っていくかとおもいきや、意外にも、元々極端な意見の持ち主は議論をすればするほど元々の信条をより強固にしていくのだ。

Twitter上での議論を見ていても(得るものがないのでなるべく見ないようにしているのだが)、最終的に「おれがまちがってた」となっているのを見たことがない。
極端な人たち同士の議論によって溝が深まりこそすれ、埋まることはほとんどないのだろう。

というか、相手の意見に耳を貸す人はそもそも極端な意見にならないのだろう。
物事が善悪の二元論でかんたんに片付けられないと知っているから。

 講釈の誤りは、進化のブロセスを妨げる。
 もし我々が勝手な理屈で「世の中は単純だ」と思い込んでいれば、試行錯誤の必要は感じない。その結果、ボトムアップ式を怠りトップダウン式で物事を判断してしまう。自分の直感やすでに持っている知識だけを信じ、問題を直視せず、都合のいい後講釈で自己満足に陥り、その事実に気づかない。本当なら自分のアイデアや仮説をテストし、欠点を見つめ、学んでいかなければならないのに、その機会を失ってしまうのだ。

わかりやすい正解があると信じる人ほど、正解から遠ざかる。



失敗と向き合うのはむずかしい。

税金で布マスクを配ったことも正当化したくなる。オリンピック誘致も失敗だったと認めたくない。

この本では、「失敗から学ぶ」と「失敗の可能性を減らす」ための方法が紹介されている。
「事前検死」という手法だ。
 近年注目を浴びている「失敗ありき」のツールがもうひとつある。著名な心理学者ゲイリー・クラインが提唱した「事前検死(pre-mortem)」だ。これは「検死(post-mortem)」をもじった造語で、プロジェクトが終わったあとではなく、実施前に行う検証を指す。あらかじめプロジェクトが失敗した状態を想定し、「なぜうまくいかなかったのか?」をチームで事前検証していくのだ。失敗していないうちからすでに失敗を想定し学ぼうとする、まさに究極の「フェイルファスト」手法と言える。チームのメンバーは、プロジェクトに対して否定的だと受け止められることを恐れず、懸念事項をオープンに話し合うことができる。

これ、いいねえ。
失敗した後に検証しようとするとどうしても誰かを責めたてるような話になっちゃうもんね。
懸念点、問題点が可視化されていいことだらけの手法におもえる。

でも、根性論が好きなトップだと
「やる前から失敗したときのことを考えてどうする! ぜったいに成功させるという強い気持ちが成功につながるんだ!」
みたいな鶴の一声で一蹴されちゃうんだろうな……。

プロジェクト失敗まっしぐらだ……。