2020年8月16日日曜日
言わぬが花
妻は子どもを素直に褒めない。
というか求めているハードルが高い。
さすがに一歳児に対しては
「いっぱい食べたねーすごいねー」
「今日はあんまりごはんこぼさなかったねー。えらい!」
と、激甘基準で褒めているが、六歳の娘に対してはやたらと厳しい。
娘が「宿題終わった!」と報告したら「ピアノの練習もしてね」と言う。
「ほら、お片付けしたよ!」と報告したら「毎日これぐらいちゃんとできるといいんだけどね」と言う。
横で聞いていてぼくは「いやいや、そこはとりあえず褒めたらいいじゃない」とおもう。
で、娘が傷つかないように急いで「えっ! 宿題終わったんだって! すごいやん!!」と嘘くさいぐらいおおげさに褒める。
まあ妻には妻なりの「娘に対して求める基準」があるんだろう。
で、ぼくのそれと比べてものすごく高いのだ。
妻は“ちゃんと”している。
いわゆる優等生タイプ。長女タイプ。じっさい長女だ。
今もフルタイムで仕事をして、子どもの面倒を見て、家事育児もこなす。「疲れた」と言いながら趣味の洋裁もやっている。
「子どもにはちゃんとしたものを食べさせたいから」と言ってぼくに料理をさせない。自分がやる。たまにお惣菜を買ったときとかは「惣菜ばっかりでごめん」と謝る。惣菜を買うことを誰も責めたことないのだが、自分に責められるらしい。
一方のぼくは、自分で言うのもアレだが、まあ“ちゃんと”してない。
同じパジャマを何日も着るし、シーツも替えないし、食べ物はぽろぽろこぼすし、洗った食器に泡がついていても気にしないし(だから料理をさせてもらえないのだ)、眠いときは廊下で寝ることもあるし、机の上はぐっちゃぐちゃだ。
そうです、末っ子です。
あたりまえだけど大人になってから突然だらしなくなったわけではなく、子どものころは輪をかけてひどかった。
宿題はしないし洗濯物は脱ぎちらかすし人の話は聞かないし(これは今もだけど)歯みがきは年に数回しかしなかった。
自分がそんな子だったから、娘を見ると「“ちゃんと”してるなー」と驚く。
宿題毎日やってんじゃん、すごいなー。
二日に一回ぐらいは脱いだパジャマを片付けてんじゃん、すごいなー。
自分から歯みがきしようとしてんの? めちゃくちゃすごいじゃん。
へー先生に言われたことをちゃんと聞いてたんだ、うちの子は天才か!
子育てに正解はないが、いいことをできたときは素直に褒めたらいいじゃない、とおもう。
たとえお片付けを十回に一回しかできなくても、その一回のときに褒めてあげたら二回になり三回になっていくだろう、と。
なんたって褒めるだけならタダなんだから。
おだてといて上機嫌にやってもらったほうがいいじゃない。
……ということで「子どもがいいことをしたときでも素直に褒めない」は妻のよくないところだとおもう。
でも妻には言わない。
“ちゃんと”している人だからこそ、「きみのこういうところ良くないよ」と言われるのを嫌がるのだ。十倍になって返ってくる。
それに、ぼくが妻に対して「素直に褒めてあげたらいいのに」とおもっているのと同じように(あるいはその十倍ぐらい)、妻もぼくに対して「こうしたらいいのに」とおもうところがあるんだろう。
自分では気づかないだけで。
言わぬが花。
娘を褒めるのと同じぐらい、妻を責めないことも大事。
2020年8月12日水曜日
【読書感想文】ゴミ本・オブ・ザ・イヤー! / 水間 政憲『ひと目でわかる「戦前日本」の真実』
ひと目でわかる「戦前日本」の真実
1936-1945
水間 政憲
早くも決定! 今年の ゴミ本・オブ・ザ・イヤー!
ぼくは一年に百冊ぐらいの本を読むが、そのうち一冊ぐらいは「ああ、読むんじゃなかった……」と読みながら後悔する。
この本も序盤は「これはお金をドブに捨てたな……」とおもっていたのだが、あまりにクズ本すぎて途中から逆におもしろくなってきた。
「また出た! ゴミ主張!」
「すげえ! これが歴史修正主義者の考えか!」
と合いの手を入れながら読んだらそこそこ楽しめた。
(というかそうでもしないと読んでられない)
ってことでゴミとおもいながら読んだらそこそこ楽しめるんじゃないでしょうかね。
なんだかんだでゴミ屋敷って(遠目で見てる分には)おもしろいもんね。
「戦前の日本はまちがっていた」と言われるけど悪いことばかりでもなかったんだぜ、という趣旨の本かとおもって読みはじめた。
岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』みたいな本かな、あれは名著だったからなあ、あんな感じで戦前の市井の人の生活を写真で伝える本だろうな。
とおもいながら読んだのだが……。
ぜんぜんちがった……!
「丹念に資料を集めて、そこから見えてくるものを浮かびあがらせる」本じゃなくて、
「著者のイデオロギーがまずあって、それに合致する資料だけを集めた」本だった。
前書きで「日本罪悪史観」という言葉が出てきた時点でイヤな予感がしたんだよな。
やべえやつしか使わない言葉だもんな……。
著者の言いたいことはこんな感じ。
日本は正しくて、中国や朝鮮やアメリカが悪くて、ほんとは戦争したくなかったのに引きずりこまれて、そんな中でも日本人は美しい心を持っていて、そんな日本が統治していたときは中国人も朝鮮人もいきいきとしていて、けど戦後は中国人も朝鮮人もこずるくなって、ついでに戦後の教育がまちがっていたせいで日本人も本来持っていた美しい心を失ってきている……。
はじめっから結論が決まってるんだよね。
フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、物事を正しく予測できないのはこういうタイプの人だそうだ(統計によって得られたものだ)。
この著者はまさにこのタイプ。
つまり、何からも学べないタイプ。
引用するのもアホらしいんだけど、たとえばこんなの。
こんなの挙げていったらキリがないからこれぐらいにしとくけど。
はあ……。
こういうこと言えば言うほど、あんたの大好きな日本人がバカだとおもわれるんだけどな……。
わかんねえのかな……。
きわめつきがこれ。
す、すげえ……。
これがトンデモ本ってやつか……!
うわさには聞いてたけど見たのははじめてだぜ……!
日本は原子爆弾を作れたけどあえて作らなかった。勝つことよりも武士道精神を優先させたから。
ですって!!
これ、まじめに言ってんの?
笑わせようとしてるんじゃなくて?
他にも、
「共産党政権下ではこんな純真な顔はできない」とか
「写真の猫が、ノンビリ時間が流れていた時代を象徴している」とか
「桜が咲いている写真もあり、のんびりとした時間が流れているのが写真から伝わってきます」などの頭の悪い 独創的なフレーズがいっぱい。
のんびりしてなくても桜は咲くし、猫なんかどんな時代でも同じ顔しとるわ!
PHP研究所ってこんな本出しちゃう出版社だったっけ……。
創設者の松下幸之助氏が草葉の陰で泣いてるぞ。
著者は、平和そうな写真、楽しそうな表情をしている写真ばかりを載せて
「ほら、戦前の日本はいい国だったんですよ」と言っている。
「つらく悲惨なことばかりではなかった」という主張はわかるけど(じっさいそうだったんだろうけど)、それが言いたいがために逆の方向に大きくふれすぎている。
今でもそうだけど、戦前・戦中の写真が日常をそのまま写したもののわけがない。
カメラもフィルムも今よりずっと高価だった時代。そんな時代に、貧しい生活風景なんか撮るわけがない。庶民の苦しい生活なんか撮らない。
いいものだけ、伝えたいものだけを撮る。
撮られた写真は嘘ではないかもしれないが、現実の1%を切り取って100倍に拡大したものだ。
現実をそのまま反映しているはずがない。
たとえばさ。Facebookに載ってる家族写真って、みんな楽しそうに写っている写真ばかりじゃない。
それを見て「まあいいとこしか写真に撮らないし、いい写真しかアップしないからねー。現実は楽しいことばっかりじゃないけど」とおもうだろうか。
それとも「2020年の日本人は例外なく家族仲良く暮らしているんだ! DVも虐待もないんだ! だってFacebookには幸せそうな写真しかないもん!」とおもうだろうか。
この本の著者は後者らしい。
あと随所に「現代日本の若者に対する苦言」が入るんだけどね。
「戦前の若者は骨があった。今は教育が誤っているから甘っちょろい考えの日本人ばかりだ。厳しい教育を受けさせねばならん」
みたいな感じで。
この手の人ってどうして「若者を叩きなおそう」しか言わないんだろう。
どうして自らを厳しい環境に置こうとしないんだろう。
若者は苦労しろ、おれたち老人は高みの見物だぜ。
これが「立派な日本人」の言うことかねえ。
ああ、ご立派だこと。
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2020年8月11日火曜日
ドラえもん日本旅行ゲーム
どこでもドラえもん 日本旅行ゲーム ミニ
新型コロナウイルス感染者が増えている今、GoToキャンペーンとやらが始まった。
もちろんぼくは旅行には行かない。
感染するのも感染を広めるのも嫌だし、なにより出不精だからだ。
そのかわりというわけでもないが、『どこでもドラえもん 日本旅行ゲーム ミニ』を買って七歳の娘と遊ぶ。
これぞ新しい生活様式の旅行だ。
サイコロのようなルーレットを回し、日本全国の都市の中からランダムに決められた目的地を目指す。
目的地は常に三つあるのでいちばん近いところを目指せばいい。
目的地に到達するとカードがもらえる。
カードの中には「ひみつ道具」が書いてあるものがあり、それを使うと、たとえば「4マス以内の好きなマスに移動する」といった効果がある。
最終的に所持しているカードの多いプレイヤーが勝ち。
『桃太郎電鉄』から、お金と物件と貧乏神をなくしたようなゲームだ。
(ちなみに「ミニ」じゃないほうはお金の要素もあるらしい)
ゲームバランスはなかなかいい。
目的地が三つあるので、どのプレイヤーもそこそこ目的地に到達できる。
「2か4か5が出たら目的地に到達できる」みたいな状況になるので、
また、カードの少ないプレイヤーが多いプレイヤーからカードを強奪できる「ふっとばし」というルールもあるので、前半で負けていても十分逆転は可能。
何度かやったが、最終的には必ず僅差になる。
不満なのは、せっかくの「日本旅行ゲーム」なのに地名が身に付かないこと。
桃鉄の場合は目的地が「高知」とかになるので、遊んでいるうちに自然に都市の場所を覚えられる(おまけに物件を買う際に名産品も覚えられる)。
ところが『どこでもドラえもん 日本旅行ゲーム』は、目的地には大きく「中華まんドラ」と書かれていて、地名は目的地カードのすみっこに小さく「横浜」と書いてあるだけ。
だから子どもは「中華まんドラ」を探す(中華まんのコスプレしたご当地キティみたいなドラえもん)。
何度かやっているうちに「中華まんドラはここ!」と覚えるようになるが、「横浜」の場所はいっこうに覚えられない。
ご当地ドラえもんキャラ名と地名を逆にしてくれよ。
そしたら遊びながら地名を覚えられるのに。
しかもご当地ドラのチョイスが微妙なんだよね。
神戸は「セーラードラ」とか。なんじゃそりゃ。
かぼすドラ? 徳島だっけ? とおもったら大分だったとか(徳島はすだちだった、すまん)。
りんごドラ? ああ青森やね。あれっ、ないぞ。えっ、青森じゃなくて長野!? とか。(これはぼくは悪くない。りんごといえばふつう第一にくるのは青森だろ!)
あと神奈川や新潟や茨城のカードは二枚あるのに鳥取や島根や富山や福井や群馬は一枚もないとか。
バランスどうなってんだ。
2020年8月7日金曜日
【読書感想文】歳とってからのバカは痛々しい / 安野 モヨコ『後ハッピーマニア』
後ハッピーマニア 1
安野 モヨコ
『ハッピーマニア』の続編。
2020年8月6日木曜日
【読書感想文】障害は個人ではなく社会の問題 / 伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
目の見えない人は世界をどう見ているのか
伊藤 亜紗
目が見えない人はどうやって世界を認識しているのか。
学術的にではなく、福祉の視点からでもなく、「おもしろがる」という視点で解説した本。
目が見えない人のほうが物事を正確にとらえている場合もある、という話。
障害者について語るとき、ついつい同情的になってしまう。
「かわいそうな人に手を差しのべる」「少しでも失礼があってはいけない」という意識がはたらいてしまう。身近に障害者がいない人ほどそうなる。
でも、著者はもっと中立的に考えている。
日本人とブルガリア人が接して「へえー。そっちの国ではそんな風習があるんだ。おもしろいねー」と語りあうように、「目が見えない人の世界」をおもしろがっている。
それはこんな文章にも表れている。
すごいよね、この文章。
ふだんは意識せずに使う比喩表現だが、 これを読んでおもわずぎょっとした。
「視覚障害者の話をするときにこの表現は不適切では」 と一瞬躊躇してしまった。
たぶん著者は意識的にこういう表現を使っているんだろう。
「えっ、それって不適切では」 とおもわせるために。
「片手落ち」という表現は差別的だ! と言っている人がいるそうだ。
両腕がない人への差別だ、というのだ。
「片手落ち」は「片」+「手落ち」なのでその指摘は見当はずれなのだが、仮に本当に身体障害者に由来する言葉だったとしても、それを使うのが差別だとはぼくには思えない。
言葉狩りをすることで障害者が生きやすくなるとは思えないからだ(「言葉狩り」も口のきけない人への差別とされるかもしれない)。
「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」といった言葉を取り締まることで視覚障害者が生きやすくなるのなら、喜んで協力する。
……ってことが言いたくて著者はあえてこういった表現を使ったんじゃないかな。
「配慮」は相手のためではなく自己満足のための行為なのかもしれない。
「目が見えないことって必ずしもマイナスとはいえないんじゃないか」とおもうようになった。
でも、もしもメガネやコンタクトレンズがなければ視覚障害者だ。
「階段を昇れない」という人がいたとする。数十年前であれば、ひとりでは出歩けない要介護者だった。
高齢化が進んで寿命が伸びれば身体障害を抱える人は今後どんどん増えるだろう。
一方でスマートスピーカーや読み上げソフトなど、テクノロジーによって障害をリカバリーできる範囲は増えつつある。
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