2020年8月3日月曜日

【読書感想文】軽妙な会話が読みたいなら / 伊坂 幸太郎『フィッシュストーリー』

フィッシュストーリー

伊坂 幸太郎

内容(e-honより)
最後のレコーディングに臨んだ、売れないロックバンド。「いい曲なんだよ。届けよ、誰かに」テープに記録された言葉は、未来に届いて世界を救う。時空をまたいでリンクした出来事が、胸のすくエンディングへと一閃に向かう瞠目の表題作ほか、伊坂ワールドの人気者・黒澤が大活躍の「サクリファイス」「ポテチ」など、変幻自在の筆致で繰り出される中篇四連打。爽快感溢れる作品集。
短篇集。
伊坂幸太郎らしい作品が並ぶ。

 動物園のエンジン


精神病、オオカミ、マンション建設というお題で三題噺をつくったらこんな話になるかな、というストーリー。
つまりとりとめのない話というか。
異質なものをむりやりくっつけてみたけどいまいちきれいにはつながらなかった感じ。
会話のおもしろさは楽しめる。


 サクリファイス


人里離れた山奥の村に古くから伝わる生贄の風習。
その風習を利用して村長が人を殺そうとしているのではないかと疑いを抱いた主人公・黒澤だが……。

と、サスペンス調の話運びに引きこまれたのだが、結末はどうも拍子抜けというか宙ぶらりんというか。
ミスリードの推理を真相が下回ってしまってるんだよな……。


 フィッシュストーリー

映画化されたものを以前観たことがある。
「なんだこれ。退屈な映画だな……。このバラバラのエピソードがどうつながるんだ……」
とおもいながら観ていたら、ラストで
「おお! そうつながるのか! 予想外の角度から来たな!」
と驚かされた。

既にストーリーは知っているので「バラバラのエピソード」部分で退屈せずに済んだのだが、ラストの切れ味は映画版のほうが上だったな。
もちろんぼくがネタを知っていたからというのもあるけど、映画の演出はスピーディーでわかりやすかったからな。
あれは映像の強みだよね。一気に全部種明かししても説明くさくならない。これを文章でやると野暮ったくなっちゃう。

ぼくが映画版を先に観たからかもしれないけど、映画版のほうがおもしろかったな。前半つまらなかったけど。
長編小説を映画化するとたいてい失敗するけど、短篇の映画化はうまくいくこともあるね。


 ポテチ

『サクリファイス』にも出てきた黒澤が再登場。伊坂幸太郎作品によく出てくるキャラだね。
この話では黒澤は主人公ではなくその後輩たちが主役。

ストーリーは特にどうってことのない話なんだけど、登場人物や軽妙な会話はこの短篇集の中でもっとも魅力的だった。
大笑いするようなものではないんだけど、ウィットに富んだ上品なユーモアが満ちあふれている。

伊坂幸太郎作品の魅力って会話にあるのかもしれない。
正直、ストーリー運びを軸に置いたものはあんまり好きじゃないんだよね。
ぼくは『ゴールデンスランバー』よりも『陽気なギャング』シリーズのほうが好きだ。



「おもしろい物語が読みたい!」という人にはものたりない短篇集だとおもうけど、時間つぶし的に楽しむにはおもしろいとおもうよ。

2020年7月30日木曜日

【読書感想文】そんなことまでわかるのにそんなこともわからないの? / マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』

数字の国のミステリー

マーカス・デュ・ソートイ(著)  冨永星(訳)

内容(e-honより)
素数ゼミが17年に一度しか孵化しない理由、世界一まるいサッカーボールを作る方法、雷とブロッコリーと株式市場に共通するもの、ベッカムのフリーキックが曲がる理由、パーティで仲の悪い二人が二人きりにならないようにする方法…。今なおトップクラスの現役数学者である著者が、数学の現場の豊富なエピソードを交えながら、この不思議で美しいワンダーランドをご案内します!
高校数学は得意だった(センター試験で数学ⅠAと数学ⅡBの両方100点だったのが自慢!)。
でも大学では文系の道に進んだ。

この話をすると数学が得意でなかった人には「そんなに数学が得意なのに文系に行くなんてもったいない!」と言われるが、数学の奥深さを知っている人間ならわかるだろう。
高校数学ができることとその後の数学をやっていくことはまったく別ものだ。

ぼくは大学に進んでから理学部の数学専攻の人間を幾人か見てきたが、ヤバいやつだらけだった。
休み時間や食事中も楽しそうに数学の話をしているやつや、九次元世界をイメージしているやつや、頭の中だけで麻雀をするようなやつがいた(そいつの話では、訓練すると完全ランダムで牌が引けるようになるらしい)。

つくづく「ああ、“高校数学が得意”ぐらいの自信で数学の道を志さなくてよかった」とおもったものだ。
「世界をすべて数学でとらえる」ぐらいの人間じゃないと足を踏み入れてはいけない世界なのだ。



自分は「数学の世界のスタートラインに立ったぐらいでやめてしまった」人間だが、数学者の話を聞くのはおもしろい。

学生時代は矢野健太郎さんの数学エッセイや数理パズルの本をよく読んでいた。

数学史を読むと、人間って数学的才能はぜんぜん進歩してないんだなと感じる。

たとえばスポーツなんかだと、五十年前と今とではまったくレベルが違う。
数十年前は世界トップの体操選手が「C難度!すごい!」ってやってたのに、今はC難度の技なんて準備体操みたいなもんで、F難度G難度とやりあっている。

ところが数学はそんなことない。千年前の人が発見した理論が今見てもめちゃくちゃすごかったり、百年前の人が出した問題が今でも解けなかったりする。

もちろん数学は蓄積だから後年の人間のほうが圧倒的に有利なんだけど(あとコンピュータが使えるってのも大きい)、そういうのを抜きにして個人レベルの能力だけで見るならピタゴラスやフェルマーよりすごい現代の数学者なんてほとんどいないんじゃなかろうか。



数学の話を読んでいると、とんでもない次元にまで連れていかれるのが楽しい。
 数学者の多くは、たとえ宇宙のむこう側の生物学や化学や物理学が地球のそれとはまるで違っていたとしても、数学だけは地球と同じはずだと考えている。地球から二五光年のかなたにあること座α星、ベガのまわりを回る系外惑星で腰を下ろして素数に対する数学の本を読んでいる誰かにとっても、59や61は素数であるはずなのだ。なぜならケンブリッジの高名な数学者G・H・ハーディーがいうように、これらの数は「我々がそう考えるからでもなければ、我々の頭脳が今あるような形にできあがっているからでもなく、数学の現実ゆえに素数でしかあり得ない」のだから。
そういやSF小説『三体』にもそんなエピソードがあったような気がする(記憶違いかもしれないが)。
遠い星の生き物と交信をするときに、まずは数学を使うと。

数学的に意味のある信号を送れば、ある程度発達した文明なら必ず理解できるはずだというのだ。
ふうむ。たしかに環境・姿形・文明など何もかも異なる文明と唯一共有できる話題というのは数学かもしれない。

そんな日が来るのかどうかしらないけど、未知なる文明と数学を使ってコミュニケーションをとりあうのって、なんちゅうかロマンあふれる話だなあ。



バタフライ効果とかカオス理論とかフレーズとしては聞いたことはあっても、いまいちよくわかっていなかった。
 気象学者は今や、海に浮かぶ定点観測船の観測データや衛星から送られてくる画像や情報などの膨大なデータを手に入れることができる。しかもきわめて正確な方程式を使って、大気のなかで空気の塊がぶつかり合って雲ができたり風が起きたり雨が降ったりする様子を説明することができる。気象がなんらかの数式によって決まっているのであれば、その方程式に今日の気象データを入力して、コンピュータで来週の天気がどうなるかを調べるくらいのことは朝飯前だろうに……。
 ところが残念なことに、最新のスーパーコンピュータをもってしても、二週間後の天気を正確に予報することはできない。この先どころか、今日の天気すら正確にはわからないのである。もっとも優秀な測候所でも、その精度には限りがある。それに、空気に含まれる粒子一つ一つの正確な速度やありとあらゆる場所における正確な温度、地表のすべての地点における気圧を知ることなどとうてい不可能だ。ところがこれらの値がほんの少し変わるだけで、天気予報はがらりと変わる。このような状況を「バタフライ効果」という。一匹の蝶々が打っただけで大気にわずかな変化が起きて、その結果地球の裏側で竜巻やハリケーンが生まれて大混乱が起き、人命が奪われて何百万ポンドもの損害が生じる可能性があるというのだ。
科学はどんどん進歩してるのに、天気予報はちっともあたらない。
五十年後の日蝕がいつ起こるかは正確に予測できるんだから三日後の天気ぐらいかんたんでしょ、と素人はおもってしまうのだが、どうもそうではないらしい。

天気を決定するデータは無限にあるのに観測できるデータは有限。おまけにちょっとずれただけでぜんぜんちがう結果が生まれるので、正確な予測はこの先もたぶん不可能なんだそうだ。
ふうん。地震予知とかも永遠に不可能なのかねえ。

「えっ、宇宙が始まった瞬間の0.1秒後の状態のことはわかっているのに三日後の天気もわからないの!?」
っておもっちゃうんだけどなあ。



いちばん信じられないエピソードがこれ。
 フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは、第二次大戦中にドイツ軍に捕まって、下士官兵用捕虜収容所Ⅷ-Aに収容された。そして同じ収容所にクラリネット奏者とチェロ奏者とバイオリン奏者が収容されていることを知ると、三人の演奏家と自分のためにピアノ四重奏曲を作りはじめた。こうしてできたのが、二〇世紀における音楽のすばらしい結実というべき「世の終わりのための四重奏曲」である。この曲はまず捕虜収容所Ⅷ-Aの関係者と収容者に披露されたが、このとき作曲家自身は収容所にあったおんぼろなアップライト・ピアノを弾いたという。
で、その音楽に“素数”が重要な役割を果たしていた……。

嘘つけー!!と言いたくなるぐらいできすぎたエピソード。
こんなすごい話ある?

2020年7月29日水曜日

【読書感想文】R-15は中学生にこそが見るもの / 筒井 哲也『有害都市』

有害都市

筒井 哲也

内容(e-honより)
2020年、東京の街ではオリンピックを目前に控え、“浄化作戦”と称した異常な排斥運動が行われ、猥褻なもの、いかがわしいものを排除するべきだという風潮に傾き始めていた。そんな状況下で、漫画家・日比野幹雄はホラー作品「DARK・WALKER」を発表しようとしていた。表現規制の壁に阻まれながらも連載を獲得するが、作品の行方は──!? “表現の自由”を巡る業界震撼の衝撃作!!

若いころには考えられなかったことだけど、漫画を読むのがしんどくなった。文字を読むほうがずっと楽だ。
昔は漫画なんて息をするのと同じくらい楽に読めたんだけどなあ。

読むこと自体がしんどいというより、「これから何年、十何年も読まなきゃいけないのかもしれない」とおもうから新たな漫画との出会いを遠ざけてしまうのかもしれない。

いっこうに完結しない『ガラスの仮面』と『HUNTER×HUNTER』と『ヒストリエ』のせいだぞ!!(『ONE PIECE』は途中離脱した)

そんなわけで何十巻もある漫画を読もうとおもわなくなった。
ってことで筒井哲也『有害都市』。
全二巻。
ああ、いいねえ。これぐらいの分量がいいよ、漫画は。

以前読んだ同氏の『予告犯』が単行本三冊でこれ以上ないってぐらい過不足なくまとまっていて、その構成力の高さに舌を巻いたこともあって。



舞台は、(発表同時の)近未来である2020年。
(今は亡き)東京オリンピックを前にして漫画の表現規制が強まっている。

一部の有識者によって青少年に悪影響を与えるとされた漫画は、対象年齢を15歳以上に推奨する「不健全図書」や、書店での陳列と18歳未満への販売が禁止される「有害図書」に指定されることになっている。

主人公が描いたホラー漫画がグロテスクな表現を多く含むという理由で有識者会議から目をつけられる。
主人公は葛藤した挙げ句にあえて表現規制を無視した漫画を発表することを決意するが……。


というストーリー。

著者は、過去に自分の作品が長崎県の青少年保護育成条例で有害図書指定を受けたことがあるそうだ。
その経験を活かして『有害都市』を描いたそうで、なんともたくましい。

そんなしっかりしたバックボーンがあるからか、引き込まれる導入にじっくり考えさせられる問題提起。上巻は完璧に近い話運びだった(エピソード0もおもしろかった)。
テーマもいい。漫画でやるからこそ説得力があるテーマだ。

だったのだが……。

なんか急にやる気なくなった? とおもうぐらい後半から失速してしまった。
上巻はまっこうから表現規制に立ち向かいそうな雰囲気だったのに、下巻は個別の話に終始しちゃってた印象。アメリカの話とかもなんだったの?
ほんとに途中で表現規制が入って放りだしてしまったのか? とおもうぐらいのしりすぼみ感だった。
(ちなみに規制が入ったかどうかは知らないが、雑誌発表時に炎上して単行本収録時に一部差し替えたらしいが)

ううむ。有識者委員会に懲罰を与えるほどの権限があるのも謎だしな……。なんで堂々と私刑してるんだ?

規制賛成派の人間描写は最後までうすっぺらかったし、ラストも投げっぱなしの印象。せっかくのいいテーマだったのにな。



表現規制についてだけど、個人的には規制はある程度必要だとおもう。

差別表現とかはね。被害者がいるものはある程度はしかたないのかな、と。

ただ、「差別するのが目的の差別表現」と「差別を糾弾するのが目的であえて差別表現を使う場合」とがある。
「黒人は“ニガー”と呼ばれてさまざまな局面で差別されてきた。この悲劇をくりかえしてはいけない」みたいな使い方はアリだとおもう。
なので一概に「この言葉は使用禁止」とするのはダメだ。
今のテレビとかはそうなっちゃってるよね。
何も考えずにただ放送禁止用語だから使うのやめとこう、みたいな思考放棄。


グロテスク表現に関してはまったく規制すべきじゃないとおもう。
というか、小中学生ぐらいの頃に残虐なものに惹かれるのってきわめて健全なことじゃない。
「残虐な行為は心の底から嫌悪します! 視界に入らないようにしてほしいです!」みたいな中学生がいたらそっちのほうがよっぽど異常で将来が心配になる。

15歳未満禁止だとか18歳未満禁止とかやってるけど、無意味だとおもうけどな。
30歳過ぎて「うおー、グロテスクな描写たまんねー」みたいに言ってたら心配になるけど。



作中で、漫画家のひとりがこんなセリフを発する。
僕が思うにこれからの漫画は
作家の個人的な主張や
創造性を発揮させるようなメディアではなくなっていくと予測している
例えるなら工業製品のように
それぞれの工程に専門のプロが力を寄せ合って
ひとつの製品を磨き上げていくという形が主流になると思う

これ、ぼくも感じていた。というかもうなってるんじゃないかな。
最近の漫画はあんまり読んでないけど。

『約束のネバーランド』を読んだときに、「これは個人の才能の表出じゃなくて会社が生産した工業製品だな」と感じた。
一コマも一セリフも無駄がない。どうやったら読者が驚くか、どうやったら感動するかをマーケティングによってすべて計算してつくっているという感じ。
もちろんそうやってできた作品はおもしろいんだけど。ハリウッド映画に大外れがないのといっしょで。
でもちょっと寂しいよね。

商業雑誌に載るのはチームで作った工業製品漫画、個人芸術作品としての漫画はWebやSNSで発表するもの、という棲み分けができていくのかなあ。


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『約束のネバーランド』に感じた個人芸術としての漫画の終焉



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2020年7月28日火曜日

【読書感想文】おおらかさを他人に求めること / よしもとばなな『ごはんのことばかり100話とちょっと』

ごはんのことばかり100話とちょっと

よしもとばなな

内容(e-honより)
日々の家庭料理がやっぱり美味しい。子どもが小さいころの食事、献立をめぐってのお姉さんとの話、亡き父の吉本隆明さんが作った独創的なお弁当、一家で通った伊豆の夫婦の心づくしの焼きそば…ぎょうざ、バナナケーキ、コロッケのレシピと文庫判書き下ろしエッセイ付き。
食事や料理に関するエッセイ集。

ものすごくゆるーいエッセイで、意外な事実もないしオチもないし笑いどころもない。
もともと発表するために書いていたものではないそうだ。

だからつまらないかというとそんなこともなく、書かれている内容にはあっている。
毎日のやさしい家庭のごはんのような味わいの文章。
おもしろさはないけど、毎日読んでも飽きない文章。

吉本ばなな(2005年からペンネームが「吉本ばなな」になったそうです)の食に対する姿勢は、力が抜けている。
外食も好き、作るのも好き、おいしいのは好きだけどテキトーなのもいい、かたくるしくなくていい、健康には気をつけるけどたまには手を抜いてもいい。そんな感じ。

小さい子どもを育てている人ならではの境地、という気がする。

若いころは「おいしいものをつくらなきゃ!」「おいしいものを食べたい!」という気持ちになりがちだけど、子どもにごはんを食べさせないといけない人はそんなこと言ってられないもんね。
どんなにがんばってつくっても子どもは平気で残すし皿ごとひっくりかえすこともある。
だけどとにかく毎食毎食作って食べさせなきゃいけない。
「子どもが食べてくれる」が最優先。その次が栄養。味とか盛り付けとかは二の次三の次。
そういう心境がエッセイのふしぶしから感じられる。

ぼくの家にも六歳と一歳の娘がいるので、この心境はすごく共感できる。
(といってもうちで料理をするのはもっぱら妻なんだけど)



何年か前に、吉本ばななさんのエッセイが何度かネットで炎上していた。

ほじくりかえすようで恐縮だけど、
「タトゥーを入れていることを理由に公衆浴場への入場を断られたので叱ってやった」
「居酒屋にワインを持ち込んで飲んでいたら持ち込みはやめてくれと言われた。ちょっとぐらいいいじゃないかと言ったのに融通を利かせてくれなかった。店側は商売というものをわかっていない」
みたいなことを書いて、「それはおまえが悪い」と非難されていた。

タトゥーについてはさておき(そもそもタトゥーを入れる人の気持ちがぼくには理解できないので)、ワインの持ち込みについてはどっちの気持ちもわかる。

自分が客の立場だったら「ちょっとぐらいは目をつぶってくれてもいいじゃない。その分他でお金使うし」とおもうだろうし、店員の立場だったら「常連だからって許してたら他の客が真似をしたときに注意できなくなる」とおもう。

(まあ吉本ばななさんが炎上していたのは、持ち込み云々よりも「私のような有名人には融通利かせてくれたっていいじゃない」的なことを書いたことが大きいんだけど)

この『ごはんのことばかり100話とちょっと』を読んでいても、吉本ばななさんが「おおらか」を求めているのが伝わってくる。
細かいこというなよ、マニュアルに一から十まで縛られたくない、臨機応変に対応してほしい、常連客はちょっとだけ特別扱いしてほしい、という考えだ。

そういう考え方も理解はできる。
こっちが主流の国もあるとおもう。
五十年前の日本でもそういう考えが多数派だったんじゃないかな。
「奥さん、いいキャベツ入ってるよ。奥さんいつもきれいだからオマケしとくよ!」
みたいな世界だ。
吉本ばななさんにとってはこのほうが居心地がいいんだろう。

でもぼくなんかは「常連になってもそっけない態度をとってくる店」のほうが居心地がいい。
「あれ、最近来てなかったね。どうしたの?」なんて言われたら、もうその店には二度と行きたくない。
ビジネスライクな付き合いをしてほしい。
八百屋さんと仲良くなったら安く買える社会より、どれだけ不愛想でも同じお金を出せば同じサービスを享受できる社会のほうが居心地がいい。
たぶんこっちのほうが今は主流派だ。

常連客だけを相手にしているスナックとかを除けば、「常連さんを優遇して一見さんには厳しく」で商売をやっていくのはむずかしい。
二十一世紀の日本では、あまり受け入れられない価値観だろう。

たぶん吉本ばななさんの炎上エッセイも、もっとおおらかな国だったら共感を持って受け入れられたんだろうね。


とはいえ。
「おおらかでありたい」とおもうのはいいんだけど、吉本ばななさんの考えはどっちかっていったら「みんなもおおらかであってほしい」なんだよな。

「わたしは一見も常連も同じ対応のチェーンの居酒屋よりも、常連だけ特別扱いしてくれるスナックのほうが好き」
っていうのは自由だけど、
「あのスナックは常連を特別扱いしてくれるんだからこの居酒屋も常連を優遇してよ!」
ってのはさすがに通用しないだろう。

おおらかでない人に対して「おおらかになれ!」というのはおおらかじゃない。



料理における「引き算」について。
 他にもともちゃんは「カルディで売っている『昆布屋の塩』とタマゴだけで作るチャーハン」というのも伝授してくれたが、これもおいしかった。
 塩のつぶつぶが舌に触るときにふっと後をひく味になるのがポイントで、ともちゃんの言うには、欲張ってネギなど入れるといきなりだめになる。あくまで入れるのはそのふたつだけでないとだめだそうだ。
 さすが料理のプロだけあって、ちゃんと実験しているし、なによりも引き算ができるのがすばらしい。料理のプロに会うといつも思うが、みな、とにかく減らし方が上手なのだ。ごてごてと増やしていくのはどの世界でも素人の考えなんだなあ。
ああ、わかるなあ……。
ぼくは、典型的な「足し算で失敗するタイプ」だ。

これだけだとちょっと寂しいかも。
冷蔵庫になんかないかな。
これたしてみよう。おいしいものにおいしいものを入れたらもっとおいしくなるはず。
で、あれもこれもと入れて毎回似たようなごった煮料理になってしまう。

デザインなんかでも「足す」より「抑える」「削る」ほうがむずかしいっていうもんなあ。
「ごてごてと増やしていくのはどの世界でも素人の考え」、これは肝に銘じておこう。



 昔読んだのだが、食生態学者であり探検家でもあった西丸震哉さんはきゅうりが大嫌いで、ほんとうに飢えてせっぱつまればきっと食べるだろうと思っていたら、戦時中死にかけていてもやっぱりきゅうりは食べられなかったそうだ。この話と、その話たちは、対極にある話だなあと思う。でも得られる教訓は似ている。
 そうだ、どんなに経済が苦しくても、命に関わるたいへんなことが起きたときでも、人は心が自由になる瞬間を求めているんだ。そしてどんなにたいへんなときでも、ほんとうに嫌いなものをむりに好きになることはないんだ、心は自由なんだ。
このエピソードから「どんなに経済が苦しくても、命に関わるたいへんなことが起きたときでも、人は心が自由になる瞬間を求めているんだ」という教訓を引きだすのはちょっと無理がある気がするが、なんだかおもしろエピソードだな。

どんなに飢えても嫌いなものは食べたくない、ってのは合理的でないような気もするけど、種の保存という点で見ればもしかしたら理にかなっているのかもしれない。
飢饉のときにみんなが新種のキノコを食べて飢えをしのいだら、もしそのキノコが毒を持っていたときに全滅しちゃうもんね。
そこで「いやおれは腹が減ってもキノコは食べない」って人がいれば、毒にあたらなくて済む上に、ライバルが減って(毒キノコで死んでいるので)食糧にありつける可能性も増える。

って考えると、どれだけ困窮してもきゅうりを食べない人の話は、「人間らしいエピソード」ではなく「遺伝子の乗り物らしいエピソード」ってことになるよね。


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2020年7月27日月曜日

【読書感想文】最上級の敬称 / 俵 万智『言葉の虫めがね』

言葉の虫めがね

俵 万智

内容(e-honより)
たとえば万葉集をひもとけば、千年以上前の言葉が、そこにはある。私が口ずさめ、千年の時空を越えて、鮮度を落とすことなく言葉は蘇る。言葉は、永遠なのだ。けれどたとえば、今日私が恋人に言った「好き」という言葉は、今日の二人のあいだで成立している、たった一度きりのもの。言葉は一瞬のものでもあるのだ―。読むこと、詠むこと、口ずさむこと。言葉を観察し、発見するエッセイ集。

読んでいる途中で気が付いたけど、この本は過去にも読んだことがある。
高校生のときに俵万智氏の著作を読みあさっていたので、たぶんそのときに読んだのだろう。

しかし約二十年ぶりに読みかえしてみると、そのときとは違ったおもしろさがある。

後半は短歌評、前半は「最近の言葉の移り変わり」について書いているが、なにしろ二十年前の「最近」なので今読むと逆に新鮮だ。

列挙ではなく断定を避けるための「とか」や、副詞として使う「超」などが「最近の風潮」として取り上げられているが、そのあたりはすっかり定着した。
2020年の今、「超」を若者言葉とおもっている人はいないだろう(逆におじさんおばさんくさい言葉かもしれない)。

ずっと同じ言葉を使っているようで、二十年前に読んだり書いたりしていた言葉とはずいぶん変わっているんだろうな。



パソコン通信(これも時代を感じるが)について書かれた文章。
 いっぽうで、お互いの意見やメッセージを書き込む掲示板のようなスタイルの場では、やわらかめの書き言葉が多い。そこに文章を書いている人は、文筆を仕事にしているわけではなく(なかには文筆業の人もいるが)ごく一般の人たちだ。そういった人たちが、これほどまでに頻繁に、しかもなかば公に向かって、ものを書くということをした時代が、かってあっただろうか? パソコンという道具を手に入れることによって、「ものを書く」という時間が、人々のあいだで急速に増えているように思う。そういう意味では、書き言葉としての日本語が、一部の人のものから多くの人のものへと開放されたとも言えるだろう。
たしかにパソコン通信、インターネットの誕生って、活版印刷の誕生と同じくらい言文界にとってはエポックメイキングな出来事だよね。

「名もない人」の「特に価値があるわけでもない文章」が「校正校閲を受けずに」広く読まれる時代ってこれまでなかったわけだからね。

ぼくは、インターネットが広まったここ二十年を、「ばかが明るみに出た時代」だとおもっている。
いやこれぜんぜん悪い意味じゃなくて。
むしろすばらしいことだとおもう。

いつの時代でもどんな場所でもばかっていたわけじゃない。っていうか大半はばか。もちろんぼくやあなたもね。
歴史の教科書を見るとローマ帝国には賢人とか思想家だらけだったような気がするけど、じっさいにはその何百倍、何千倍ものばかがいたはず。

でもばかの思考はまず記録されなかった。
「おもしろいばか」とか「強烈すぎるばか」とかは何かしらの形で取りあげられることもあったかもしれないけど「笑えないタイプのばか」とか「平均をやや下回るばか」とか「一見まともなこと言っている風のばか」とか「他人の意見をそれっぽく使いまわすだけのばか」とかは履いて捨てるほどいるうえにおもしろくもないから、そいつらの発言は残らなかった。

会って話せば「ばかがばかなこと言ってら」とわかるけど、誰もそれを記録しないからそれっきり。

だけどインターネットの普及によって誰でも情報発信できるようになった。
まだパソコンを使うにはある程度の情報リテラシーが必要だったけど、スマホの登場によってそれすらも必要なくなった。
誰でも、世界に向けて情報発信できるようになった。
世界に向けて情報発信するような価値のない言葉を。


ぼくが子どものころ、大人はみんなちゃんとしているとおもっていた。
みんな思慮深くて感情をコントロールできて自制心があって少なくとも義務教育レベルのことは確実に理解しているものだと。

でも、今の子どもって昔ほどそんな幻想を抱いていないんじゃないだろうか。
インターネットに接続すれば、あほな大人、身勝手きわまりない大人、子どもより子どもっぽい大人の姿をかんたんに見ることができるのだから。

いいことなんだろうか。悪いことなんだろうか。



自作短歌の舞台裏。
 そういえば教師になりたてのころ、こんな短歌を作ったことがあった。

  万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 自分のような未熟者を、「先生」として見てくれる生徒たちへの、責任感や緊張感を詠んだ歌だ。が、現実はというと、

  先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 である。下校のときなど、自転車の二人乗りをした生徒らが(二人乗りは禁止されている)校門のところで私を追い越しながら、「万智ちゃーん、バイバーイ」なんて言って手をふって遠ざかっていく。別に私をバカにしているわけではなく、それが彼らの親愛の情の表現なのだ。
『サラダ記念日』だったか『チョコレート革命』だったかに収められていた歌だと記憶しているが、なるほど個人的には「先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて」のほうがしっくりくる。

ぼくが通っていた高校では、気に入らない教師は呼び捨て(または不名誉なあだ名)だったが、人望のある教師は「〇〇さん」と呼ばれていた。
「〇〇さん」は生徒たちからの最上級の敬称だった。
形式的には「〇〇先生」のほうがより敬意のある言い方ってことになるんだろうが、じっさいはそうではない。

「〇〇先生」はよそよそしさのある呼び方だ。ほとんど話したことのない教師に対する呼び方。
一方「〇〇さん」は人間として信頼できる教師に対する呼び方だった。あの人は機嫌ひとつで態度を変えたりしない、生徒によって接し方を変えたりしない、言動が一貫している、もしも誤ったときは素直に間違いを認められる人だ。そんな評価が下された教師が「〇〇さん」と呼ばれていた。

教え方がうまいとか、怒るとこわいとか、そんなことは関係がない。
授業が退屈でも、怒るとヤクザのような言葉遣いをしても、生徒に対して誠実な対応をする教師は「〇〇さん」だった。

だから俵万智先生に「万智ちゃーん、バイバーイ」と声をかけた生徒の気持ちがよくわかる。
きっと最上級の敬称だったんだろうな。


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【読書感想文】話しかけてくるなり / 俵 万智『生まれてバンザイ』

【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』



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