2020年6月25日木曜日

しゃぼん液の恐怖

公園にいた親子。
おねえちゃん(四歳ぐらい)がしゃぼん玉を飛ばしている。
その横には一歳ぐらいの男の子。

とつぜん、男の子が火が付いたように泣きだした。
しゃぼん液の容器を手にしている。
どうやらしゃぼん液をおもいきり飲んでしまったらしい。

しかしおとうさんは悠然としている。
「おー。しゃぼん液飲んじゃったのかー。それはあんまり栄養ないぞー」
なんてのんきなことを言っている。

まあしゃぼん液なんて決して身体にいいものではないだろうが、かといって大あわてするほどのものでもない。

ということはわかっている。
わかっているのだが。

ぼくの心臓はばくばくしている。



なぜならぼくは子どものころにしゃぼん玉あそびをするとき、母親から
「それ飲んだら死ぬよ!」
と脅されていたからだ。

うちの母親はことあるごとに「死ぬよ!」と息子を脅していた。

「道路に飛びだしたら死ぬよ!」とか「勝手に火を使ったら死ぬよ!」とか。

まあそれはあながち嘘でもない。
道路に飛びだしたり火遊びをしたりして命を落とす子どももいるのだから。
また「死」は子ども心にもこわいので、その脅しはちゃんと効果があった。

「道路に飛びだしたらタイミングが悪ければ車にひかれて、打ちどころが悪ければ命を落とすこともあるよ」
よりも
「死ぬよ」
のほうがずっと効果がある。

しかしそれに味を占めたのか、「はよ寝ないと死ぬよ!」とか「ほこりまみれの部屋で生活してたら死ぬよ!」とか「死ぬよ」を乱用するようになり、その使用頻度に反比例して脅し効果も薄れていった。

だが幼いころに言われた「しゃぼん玉の液飲んだら死ぬよ!」という言葉は、ぼくの心の奥底に恐怖心といっしょに深く刻まれたままだ。
五歳ぐらいのときだったとおもうが、うっかりしゃぼん液を少しだけ飲んでしまい、号泣しながら
「おかあさん! しゃぼん玉の液飲んじゃった!」
と母のもとにかけつけた記憶がある。
あのときは本気で命の危険を感じたのだ。

いまでもしゃぼん液はこわい。

もちろん理屈ではそんなはずないとわかっている。
しゃぼん液なんて界面活性剤さえあればつくれると。しょせんは石鹸や洗剤だと。
石鹸にしても洗剤にしても多少は口に入ることを想定してつくられているのだからよほど大量に飲用しなければどうってことないと。
だいたい本当に危険なものだったら子どものおもちゃにするわけがないと。

わかっているが、だからといって心の奥底に染みついた恐怖心が薄れるわけではない。

罰なんてあたらないとわかっていてもお地蔵さんを蹴ることができないのといっしょで、ぼくはいまでもしゃぼん液を口に入れるのがこわい。



息子がしゃぼん液を飲んだというのに悠然としているおとうさんの傍らで、ぼくはおろおろしている。

救急車呼んだほうがいいんじゃないでしょうか。
胃洗浄とかしてもらったほうがいいんじゃないでしょうか。
せめて救急安心センター事業(#7119)に電話して相談したほうがいいんじゃないでしょうか。

よそのおとうさんに、言いたくて仕方がない。

2020年6月24日水曜日

【読書感想文】叙述トリックものとして有名になりすぎたせいで / 筒井 康隆『ロートレック荘事件』

ロートレック荘事件

筒井 康隆

内容(e-honより)
夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが…。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人、美女が殺される。邸内の人間の犯行か?アリバイを持たぬ者は?動機は?推理小説史上初のトリックが読者を迷宮へと誘う。前人未到のメタ・ミステリー。

<ネタバレあり>


叙述トリックものの話になると必ずといっていいほど名前の挙がる『ロートレック荘事件』。

正直、その前評判と“叙述トリック”という前提知識のせいで、「期待外れ」というのが正直な感想だ。

叙述トリックミステリというやつをいくつも読んできた。
ナントカラブとかナントカの季節とかナントカ男とかナントカにいたるナントカとか。
その後で『ロートレック荘事件』を読むと、「なんでこれが評価高いんだ?」とふしぎにおもう。

とはいえそれは今だからこその感想であり、発表当時(1990年)には『ロートレック荘事件』のトリックはたいへん斬新だったのだろう。
(さっき一部だけ挙げた叙述トリックミステリたちも『ロートレック荘事件』以後の作品だ)



ということで、ミステリ史を語る上では欠かせない作品なんだろうけど(そしてそれを書いたのがSF作家の筒井康隆氏というところがまたすごい)、残念ながら2020年のミステリファンを納得させられる作品ではない。

叙述トリックを読んだことのある読者なら、けっこう早い段階でタネがわかっちゃうんだよね。

一人称小説、同じ人物に対する呼び名が変わる(苗字で呼ばれたり下の名前で呼ばれたり「画伯」と呼ばれたりする)、誰の発言か明記されていない台詞が多い、そろっていない章タイトルなど、あからさまにあやしいことだらけ。

これで「この“おれ”とこの“おれ”は同一人物ではないな」と気づかないわけがない。

それだけでも2020年の読者にとっては野暮ったいのに、さらにクサいのがタネ明かしパート。

「ほらほら。じつはこれも伏線だったんやで」
「ここの記述は〇〇とおもったやろ? じつは××やねんで」
「ここは語り手が入れ替わっていたんでしたー。どやっ」
みたいな説明がくどくどと続く。
これがもう寒くて見ていられない。

昨今は「たった一行ですべてをひっくりかえす」みたいなスマートなミステリがたくさんあるからなあ。

まあこの泥臭さも筒井康隆氏らしいといえばらしいんだけど。
ミステリ作家ではない人のミステリ、って感じだな。



ってことで、ミステリとしてはイマイチ(あくまで今読むと、の話ね)。

でも小説としてはけっこう好きだった。
犯人が判明してからの、ラストの意外な事実とやるせないエンディングはしびれた。

身体障碍者ならではの卑屈さ、かわいさあまって憎さ百倍といった複雑な心境などは、表現のタブーに挑戦しつづけてきた筒井康隆氏ならでは。
障碍者を犯人に据える、しかも犯行動機にも障碍が深くかかわってくる……となると書くのに腰が引けてしまいそうなものだけど、ネガティブな部分をしっかり書ききっているのはさすが。

あと、いとこ同士の「他人でありながら一心同体に近い関係」という設定もうまいね。
この関係だからこそ、「相手のことを我が事のように書く」ミスリードが不自然でない。

とはいえ、「いとこが自分から離れるのがイヤだから」という理由でいとこと結婚しそうな女性を殺していくのはさすがに動機として無理があるやろ……。
無限に殺しつづけなあかんやん……。
いとこのほうも、いくら贖罪の気持ちがあっても自分の婚約者を殺した人物をかばおうという気になるだろうか……。


ということで、叙述トリックものとして有名になりすぎてしまったこともあって犯人当てミステリとして読むと賞味期限切れ感は否めないけど、心情の揺れや人間関係を描いた小説としては今読んでも十分楽しめる小説でした。

あ、随所に掲載されているロートレックの絵画がなにかのカギかとおもったら、ぜんぜんそんなことなかった。
小説にわざわざ絵を載せるんだからぜったい意味があるとおもうじゃないか……。
なんだったんだあれは……。

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【読書感想文】破壊! / 筒井 康隆『原始人』



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2020年6月23日火曜日

【読書感想文】作家になるしかなかった人 / 鈴木 光司・花村 萬月・姫野 カオルコ・馳 星周 『作家ってどうよ?』

作家ってどうよ?

鈴木 光司  花村 萬月  姫野 カオルコ  馳 星周

内容(e-honより)
鈴木光司、馳星周、花村萬月、姫野カオルコ。四人の人気小説家が語る“作家の打ち明け話”。「“カンヅメ”ってつらいの?」「休日は何をして過ごしてる?」「本が一冊出ると、どのくらいお金が入ってくるの?」「“直木賞待ち”って、どんな感じ?」「文学賞の賞金は何に使うの?」などなど、ここでしか読めない赤裸々トーク。一見華やかそうに見える「作家業」も、いろいろ大変なようで…。作家志望者必読のエッセイ集。
2004年刊行。
当時の人気作家たちによる「作家」についてのエッセイ。
2004年の鈴木光司さんなんて、『リング』シリーズの映画化などでウハウハの時期だったはず。
当代きっての売れっ子、という勢いの良さがエッセイからも伝わってくる。
まあ正直今はあんまり名前をお見かけしないけど……。ぼくが知らないだけかな……。

この本を読んでいるタイミングで、馳星周さんが2020年下半期の直木賞候補に選出されたというニュースを目にした。なんと七回目のノミネートだとか。

この本にも『夜光虫』で直木賞にノミネートされながら落選したエピソードが書かれているが、なかなかしんどいものらしい(本人が、というより周囲が落胆するのがつらいそうだ)。
部外者からすると、もう五回ノミネートされたら数え役満で受賞扱いでいいじゃないか、とおもうんだけど。

ちなみにぼくは四人とも、ほとんど作品を読んだことがない。
鈴木光司さんはなにかのアンソロジーで短篇を読んだことあったような気がするけど……。



「作家」に関するエッセイ集とあるけど、要は雑多な身辺エッセイ。
趣味とか好きな食べ物とか好きな音楽とかについて書いている。

以下は姫野カオルコさんの文章。
 やがて一人暮らしをしている時に、郵便局の通信販売で地方の名産品が買えるというのを発見しました。さっそくたらば蟹一キロを申し込み。確か七二○○円でした。それが箱に入ってやって来まして、食べる計画をした夜は、まずお昼を手短に済ませ、ジョギングをして程よくお腹を減らしました。いよいよ蟹を食べるにあたり、一部はポン酢で一部は焼いて、最後の一部は鍋、というふうに準備をいたしました。
 そして全ての準備が調ったら、電話を留守電にして誰にも邪魔されないように蟹に取りかかりました。シーンとした邪魔者のいない部屋で蟹を心行くまで口に含んで呑み込む時、蟹のあの白い淡白な、ちょっと素っ気ないような熱のない身が、ツルンと喉を落ち込んでいく……それを一人で何度も何度も繰り返しながら、やがてじわーって涙が出てくるんですよ、おいしくて。ああ、大人になってよかった。一人で蟹を全部食べられてよかった。
 皆さんの中には「おばさんになるの嫌だな、大人になるの嫌だな」と思っている若い人がいるかもしれませんが、いえいえ、大人になったら楽しいことばかり。大人になった時のほうが蟹がおいしく味わえます。蟹、大好きです。
ぜんぜんおもしろくないんだけど、その「どうってことなさ」が逆に新鮮だった。
今、なかなかこういう「発見も新しさもオチもない」文章って読めない気がする。
いや、もちろん読もうとおもえばいくらでも読めるんだけど。
このブログなんてまさにその典型なんだけど。

でもわざわざ読まないでしょ。
ネット上に山のように「話題の情報」や「役に立つ情報」や「短時間で読めるおもしろコンテンツ」がある中で、よく知らない人が書いた「わたしの好きな食べ物の話」なんて。
もっとおもしろいものがいっぱいあるんだもの。

でもほんの二十年前まではお金出してこういう文章を読んでいたんだよなあ、とずいぶん懐かしくなった。
「刺激の少ない文章」も、たまに読むには悪くない。



あと、「思想の古さ」が味わえるのもおもしろい。

「自分探しをしても自分なんて見つからない。自分探しをしている自分こそが本当の自分だ」
とか
「携帯電話でずっとつながってなきゃ不安になるような関係なんてむなしくない?」
とか。

ふるっ! と声を上げてしまう。
2020年の今、こんなことをドヤ顔で言う人なんて誰もいない。
とっくの昔にみんなが通りすぎた議論だ。

2005年はこんなのが「切れ味鋭い意見」だったのかなーとおもってなんだか逆に新鮮。

五十年前の体操選手の映像とか見ると「えっ、こんな低レベルでオリンピック出られたの!?」とびっくりするけど、その感覚に近い。

時代って変わってないようでちゃんと進んでるんだなあ。



花村萬月さんのエッセイだけは、他の三人とは一線を画していて素直に興味深かった。
 そうしたらその時に、愛用している“洩瓶(しびん)”が見つかってしまいまして(笑)。もうバレてるので恥さらしで言ってしまいますが、それはカッコ良く言えば、執筆のときにトイレに行くのがめんどくさいので、そのままジャーっとしちゃうっていう物なんですけれども、本音を言えば寝てる時もそれを使ってて、ベッドに上半身を起こして跪いてやってました。洩瓶といってもちゃんとした洩瓶じゃなくて、イトーヨーカドーで買ってきた漬物を漬けるような容器か何かなんです。いろいろ試行錯誤したんだけど洩瓶に一番いいのはやっぱり口が広いことで、見栄張るわけじゃないんですけど、起きてる時は割とどうにでもなるんですけど、寝てる時はちょっと固くなってたりして上を向いてたりするわけですよ。そうすると、初期の頃はペットボトルにジョーっとしてたんですが上を向いているとペットボトルのあの狭い口とは相性が非常に悪くて、つまりペットボトルの口を下に向けて本体を上に向けると逆流してくるということで、それは不可能だと。自分を無理やりひん曲げてしなきゃなりません。口が大きければ大きいほど融通が利くので、その漬物容器みたいな物にしてるんです。
 そんなのが見つかってしまって、まあ業界ではうまく誤解してくれて「あいつは執筆に集中するあまりトイレ行く時間も惜しんで仕事をしてる」と(笑)。でもそんなことはなくて日常でもベッドの脇にもそれがあるし、テレビ見てる時にも椅子の脇にそれがあるし。つまり、単純にトイレに立つのがだるいというだけなんです。
ううむ、クレイジー。
無頼派というかなんというか。
西村賢太さんと同じ人種のにおいがするなあ。
そういや花村萬月さんも西村賢太さんも中卒だ。

作家って、ずっと作家にあこがれていてなった人が多いとおもうけど、花村萬月さんとか西村賢太さんはそうじゃないんだよね。
他の道でまともに生きていけなかった、作家しかなれるものがなかった、作家になっていなかったらホームレスになるか犯罪者になるかしかなかった、っていう人たちなんだよね。

かっこいいなあ。
絶対にこうはなりたくないけど。
だからこそ、あこがれる。

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【読書感想文】己の中に潜むクズ人間 / 西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』



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2020年6月22日月曜日

【読書感想文】尿瓶に対する感覚の違い / 高島 幸次『上方落語史観』

上方落語史観

高島 幸次

内容(e-honより)
上方落語は笑わせてなんぼ。ならばその中身はウソばかり?いやいや、幕末から明治初期にかけて創作された古典落語は、当時の歴史風土や人々の生活習慣が色濃く反映されている。つまり、歴史を学ぶための手がかりが溢れた「教科書」なのだ。昔の人たちの笑い声が聞こえてくる、リアルな大阪の歴史を紐解きます。

大阪の近世史の研究者が、上方落語の時代背景について書いた本。

落語まわりの蘊蓄を披露、という感じだが、落語を楽しむ上での役に立つことはあまりない。
あまり知識がなくても楽しめるのが大衆芸能である落語だし、噺家は昔の噺が現代でも通用するようにいろいろ工夫してくれているし。
今ふつうに高座にかかっている噺で、歴史の知識がないと楽しめない噺というのは、つまり演者のチョイスか話し方に問題があるのだ。

なので落語を聴いて楽しむ人向けじゃなくて、研究対象として楽しみたい人向けかな。

あと著者がウケを狙いにいってるところはことごとく上滑りしている。“イタい落語ファン”という感じがして、読んでいてつらい。

堀井憲一郎さんの『落語の国からのぞいてみれば』のほうが、読み物としても雑学本としてもずっとおもしろかったな。



落語といえばカミシモ(顔を左右にふりわける)というイメージもあるが、必ずしも必須ではないという話。
 その意味では、落語はスクリーンもなく、ただ言葉だけで人物や風景を表現できる芸なのですから、これはすごいことです。「言葉だけで」というと反論があるかもしれません。落語家さんは、上下(カミシモ)をふって(顔を左右にふり分けて)登場人物を区別しているじゃないか、扇子を箸やキセルに見立て、科を作り女性を演じるじゃないか、という反論が予想されます。
 たしかにその通りで、落語家さんの所作が言葉を補って余りある効果を持っていることは否定しません。しかし、その所作がなければ成り立たないかというとそれは違います。だって、落語はCDやラジオでも楽しめるのですから。ラジオでは上下が見えないからわかりにくい、といった不満は聞いたことがありません(あるとしたら、聞き手の知覚力の欠如か、落語家さんの力不足のせいか、どちらかですね)。箸に見立てた扇子が見えなくても、うどんをすする擬音だけで、ダシの熱さを感じ、湯気までもが見えてくる、落語の芸とはそういうものです。
たしかに。
ぼくが小学生のころ、三代目桂米朝さんのカセットテープを買ってもらって寝る前に何度も聴いていた。
田舎だったので気軽に寄席に行くことができなかったのだ。
今は場所的にも経済的にも生の落語を聴きにいきやすくなったが、そうはいっても小さい子どもがいるとなかなか「ちょっと寄席に行ってくるわ」とも言いづらく、寄席に行くのは数年に一回だ。
もっぱらYouTubeで楽しんでいる。

でもそれで十分だ。
Eテレでやっている落語の番組を毎週録画して観ていたことがあるが、すぐにやめてしまった。集中して観るのは疲れるのだ。
寝物語としてYouTubeで聴くのがちょうどいい(ただ聴いている途中に眠ってしまい、最後のお囃子で起こされるのが困るが)。



「尿瓶(しびん)」について。
落語にはときどき尿瓶が出てくる。
当時も今も尿瓶の用途はいっしょ。おしっこを入れる容器だ。

でも尿瓶に対するイメージは今とはずいぶんちがったようだ。
しかし、十八世紀にもなると尿瓶はかなり普及しました。しかも、それは現代のような介護用というよりは、日常的な用途に供せられたのです。
 特に長屋の住人には、屋外の共同便所を避けて室内で用をたすための必需品だったようです。江戸時代の大坂は、借家率が高く住民の六割以上が長屋住まいでしたから、大坂は「尿瓶率」全国第一位だった可能性が高いのです。たしかに、極寒の夜に家を出て長屋の端っこのトイレに突っ立ってジョンジョロリンはつらい。温かい寝床で用を済ませられるならそれに越したことはない。
 落語〈宿屋仇〉では、清八が宿屋の部屋を出ようとすると、宿屋の伊八に止められます。清八が「いや、ちょっ、ちょっ、ちょっとお手水(便所)」と答えると、伊八は「ほな、ここへ尿瓶持って来まっさかいな」と答える場面があります。伊八は清八を部屋から出せない事情があるのですが、それはともかく、この会話は、尿瓶の使用が病人だけではなかったことを窺わせます。
今はどの家にもトイレがあるのがあたりまえだけど、長屋には便所がなかった。
たしかにトイレのたびに毎回外に出なきゃいけないのはつらい。冬の夜や朝方だったらなおさらだろう。
大用ならともかく、小用なら尿瓶に済ませてしまいたくなるだろう。どうせ昔の長屋なんてすきまだらけだし、いろんなにおいが漂っていただろうし。

だから現代人の感覚だと
「ほな、ここへ尿瓶持って来まっさかいな」
と聞くと
「部屋を出させないために尿瓶だなんてそんな大げさな。病人じゃあるまいし」
とおもってギャグになるけど、江戸時代の感覚だと大げさでもなんでもないことなのだろう。
「腹が減ったから飯食ってくる」「だったらコンビニでなんか買ってきてやるよ」ぐらいの感覚なんだろう。きっと。

これはちょっと役に立つ知識だった。



落語を聴いていていちばん理解できないのはお金の感覚。
江戸時代の噺なら「一両」、明治時代の噺なら「十円」とか出てくるが、どれぐらいの価値があるのかがぴんとこないのだ。
「金」の単位は「両・分・朱」です。これが十進法ではなく四進法だから厄介なのです。一両=四分=十六朱となります。
「銀」の単位は「貫・匁・分」です。一貫=千匁、一匁=十分というように十進法と千進法が混じります。留意しておかねばならないのは、匁の一の位がゼロの場合は「匁」ではなく「目」になること。つまり、九匁、十目、十一匁、という具合です。文楽の床本に「二百匁などは誰ぞ落としそうなものじゃ」(『女殺油地獄』)と書いてあっても、太夫さんは「二百もんめ」ではなく、ちゃんと「二百め」と語りはります。さすがの口承芸能です。
「銭」の単位は「文」です。銭千文=一貫文、銀でも銭でも「貫」は千の意味なのです。穴空きの銭千枚を紐で貫いたことに由来するようです。
四進法の金と十進法の銀と千進法の銭があり、しかもそれぞれが交換されることもある……。
おまけに一文銭を九十六枚束にしたものは百文の価値があった……。

ややこしすぎる……。
よしっ、これを理解するのはあきらめた!

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堀井 憲一郎 『落語の国からのぞいてみれば』

【読書感想】小佐田 定雄『上方落語のネタ帳』



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2020年6月18日木曜日

【読書感想文】字幕は翻訳にあらず / 清水 俊二『映画字幕の作り方教えます』

映画字幕の作り方教えます

清水 俊二

内容(e-honより)
映画字幕作り57年、その数なんと2千本に及ぶ斯界の第一人者が語る草創期の苦心から、最近の「フルメタルジャケット」事件まで。字幕翻訳の秘訣は「正しく、こなれた日本語と、雑学への限りない好奇心」と説く著者が明かす名訳、誤訳、珍訳の数々。63年5月、急逝した著者が遺した映画ファン必読の書。

戦前から洋画の字幕(スーパー)を作ってきたという字幕のスペシャリストのエッセイ。
(この本の刊行は1988年。本の説明文に「63年5月、急逝」とあるのは昭和63年ね)

日本で一、二を争う有名な翻訳家といえば戸田奈津子氏だが、その戸田奈津子氏の師匠筋にあたる人らしい。

字幕作りのうんちく二割、老人のとりとめのない思い出話が八割という内容。
思い出話の部分は著者本人に興味のある人以外は退屈きわまりない内容だったので飛ばし読みしたけど、字幕作りにまつわるエピソードはわりとおもしろかった。

映画産業は衰退しているらしいが、インターネットで手軽に動画を観られるようになって、海外の動画を目にする機会は増えた。
その中には字幕のついているものも多い。

機械翻訳の精度はどんどん上がっているが、字幕は当分AIにはつくれなさそう。
今後、字幕を作れる人の価値は上がっていくかもしれない(というか翻訳者が流れこむのかな?)。



字幕作りはふつうの翻訳とはまったく別物なんだそうだ。
「スーパー字幕という奇妙なものについて」という短い文章を映画ペンクラブのパンフレットに書いたことがある。「諸君!」という雑誌に立花隆君が『地獄の黙示録』のスーパー字幕が誤訳であると書いたのに答えたものだ。
 ウィラード大尉がカーツ大佐討伐に向かうとき、大佐がどういう人物であるかという説明をうける。その説明のなかに“His method is unsound.”という文句が出てくる。スーパー字幕ではこれが、“行動が異常だ”となっている。立花君によるとこれは誤訳で、“方法が不健全だ”でなければならないという。
 たしかに“方法が不健全だ”のほうが訳文としては正確だが、あの場合は、“行動が異常だ”とするほうがはるかにわかりやすい。“方法”というのがどういうことか、すぐ頭に入ってこないし、“不健全”も話しことばとして適当でない。たとえ瞬間的にでも観客に意味を考えせるようでは、字幕として落第である。次々に現れて消える字幕が抵抗なく頭の中を通りすぎていかないと、鑑賞が妨げられる。ポイントはことばの選択で、これは経験によって身につけるほかはない。
たしかに「方法が不健全だ」のほうが正確だけど、これでは意味が分からんよね。

おまけに字幕が出るのは数秒だけ。
その数秒で読んで意味を理解しないといけないわけだから、正確さよりもわかりやすさのほうが大事だ。

表示される文字数、秒数、前後の文脈、文化の違いなどを考慮に入れて、「映画のストーリーがすっと頭に入ってくる日本語」をつくるのが字幕作りなのだ。
目的は言葉の意味をそのまま伝えることではない。


この本には、いくつか字幕作文の例が紹介されている。
たとえば『そして誰もいなくなった』の台詞。
I'm sorry sir, Mr. Owen will be here for dinner.
直訳すれば
「申し訳ございません。オーウェンさんは夕食のときにここに来ます」
といったところか。

だが映画字幕として観客が読める時間を考えると、文字数は11文字から13文字におさめないといけない。
おまけに「執事が客から館の主人について尋ねられての返答」という文脈を考えると、それにふさわしい言葉遣いをしなければならない。

著者は「オーウェン様はご夕食の時に。」と訳したそうだ。
なるほどー。

改めて考えると、映画字幕には主語や述語の省略が多いよね。

「戸田奈津子さんの字幕は誤訳が多い!」と聞いたことがあるけど、わざと元の意味とはぜんぜん異なる訳にしていることも多いんだろうね。
字数制限があるとか、一瞬で意味をとれないとか、制作された国の文化を知らないと伝わらないとか、その他諸々の理由で。

字幕作りという作業は、翻訳半分、創作半分ぐらいなのかもしれない。

今度から字幕映画を観るときには、「この字幕をつくるのにどんな苦労があったのだろう」と気になってしまいそうだ。



『フルメタル・ジャケット』のエピソードはおもしろかったな。

『フルメタル・ジャケット』の字幕は戸田奈津子さんが担当することになっていたのだが、スタンリー・キューブリック監督自らが日本語字幕をチェックして、急遽担当者変更になったのだそうだ。
 キューブリック監督がこの英訳を受けとってからのチェックがこれまた念がいっている。スーパー字幕をつくるために、こんな作業が行われたことは映画が始まって以来、いままで聞いたことがない。
 キューブリック監督はまず戸田奈津子君の第一稿を全部ローマ字に書き直させ、国会図書館の日本人館員に来てもらって、日本から送られてきた英訳とくらべて、一枚ずつ、英文のせりふがどう訳されているか、せりふがまったく変えられているが日本語のニュアンスはどうなのかなどを検討した。とにかく、一二〇〇枚検討するのだから、気の遠くなるような作業である。
 みなさんごぞんじのとおり、日本語スーパー字幕はもとの英語のせりふの二分の一から三分の一の長さであるのが普通であるから、原文のせりふの一節が抜けている場合もある。ときには原文とまったく違う表現の日本語で原文の意味を伝えている場合もある。このへんはスーパー字幕屋の腕の見せどころなのだ。キューブリック監督はこれがお気に召さなかった。原文にもっと忠実に、せりふの英文のとおりに翻訳して欲しい」と申し送ってきた。戸田君は「そんな字幕をつくったら、お客が読み切れないのが四、五百枚はある。こんどはお客から文句が出る」といっている。そのとおりである。

(中略)

 キューブリック監督がもっとも頭にきたのは“四文字語”が全部、そのままの日本語になっていないことだった。
 たとえば、こんなせりふである。
「ケツの穴でミルクを飲むまでシゴキ倒す!」
「汐吹き女王・メアリーを指で昇天させた……」
「セイウチのケツに頭つっこんでおっ死んじまえ!」
 とにかく、ワーナー・ブラザース日本支社はキューブリック監督から日本語字幕を原文にもっと忠実に、全部作り直せ、と指示されたのでは、何とかしなければ映画を公開できない。予定されていた昨年秋の公開予定を延期して、日本語スーパー字幕の第二稿を作成することになった。

すげえなこのこだわり……。
いくらこだわりのある監督でも、ふつうは他の国で上映されるときの字幕なんか気にしないだろ……。
キューブリック監督はまったくわからない日本語字幕まで再翻訳させてチェックしたのだそうだ。

ちなみにこの文章にある“四文字語”というのは、英語の卑猥なスラングのこと。「FUCK」とかね。

きっと戸田奈津子さんの字幕は上品すぎたのだろう。

『フルメタル・ジャケット』は観たことないけど、友人から
「軍曹が新兵を罵倒しまくるシーンがすごい!」
と聞いたことがある。

【台詞・言葉】ハートマン先任軍曹による新兵罵倒シーン全セリフ

↑ こんなものがあったので、『フルメタル・ジャケット』未見の人はぜひ見てほしい。

なるほど……。
たしかにこれはすごい……。
ふつうの字幕だったらこの強烈なインパクトは失われるな……。

『フルメタル・ジャケット』観てみたくなった……。

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【読書感想文】骨の髄まで翻訳家 / 鴻巣 友季子『全身翻訳家』

外国語スキルの価値



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