2020年6月22日月曜日

【読書感想文】尿瓶に対する感覚の違い / 高島 幸次『上方落語史観』

上方落語史観

高島 幸次

内容(e-honより)
上方落語は笑わせてなんぼ。ならばその中身はウソばかり?いやいや、幕末から明治初期にかけて創作された古典落語は、当時の歴史風土や人々の生活習慣が色濃く反映されている。つまり、歴史を学ぶための手がかりが溢れた「教科書」なのだ。昔の人たちの笑い声が聞こえてくる、リアルな大阪の歴史を紐解きます。

大阪の近世史の研究者が、上方落語の時代背景について書いた本。

落語まわりの蘊蓄を披露、という感じだが、落語を楽しむ上での役に立つことはあまりない。
あまり知識がなくても楽しめるのが大衆芸能である落語だし、噺家は昔の噺が現代でも通用するようにいろいろ工夫してくれているし。
今ふつうに高座にかかっている噺で、歴史の知識がないと楽しめない噺というのは、つまり演者のチョイスか話し方に問題があるのだ。

なので落語を聴いて楽しむ人向けじゃなくて、研究対象として楽しみたい人向けかな。

あと著者がウケを狙いにいってるところはことごとく上滑りしている。“イタい落語ファン”という感じがして、読んでいてつらい。

堀井憲一郎さんの『落語の国からのぞいてみれば』のほうが、読み物としても雑学本としてもずっとおもしろかったな。



落語といえばカミシモ(顔を左右にふりわける)というイメージもあるが、必ずしも必須ではないという話。
 その意味では、落語はスクリーンもなく、ただ言葉だけで人物や風景を表現できる芸なのですから、これはすごいことです。「言葉だけで」というと反論があるかもしれません。落語家さんは、上下(カミシモ)をふって(顔を左右にふり分けて)登場人物を区別しているじゃないか、扇子を箸やキセルに見立て、科を作り女性を演じるじゃないか、という反論が予想されます。
 たしかにその通りで、落語家さんの所作が言葉を補って余りある効果を持っていることは否定しません。しかし、その所作がなければ成り立たないかというとそれは違います。だって、落語はCDやラジオでも楽しめるのですから。ラジオでは上下が見えないからわかりにくい、といった不満は聞いたことがありません(あるとしたら、聞き手の知覚力の欠如か、落語家さんの力不足のせいか、どちらかですね)。箸に見立てた扇子が見えなくても、うどんをすする擬音だけで、ダシの熱さを感じ、湯気までもが見えてくる、落語の芸とはそういうものです。
たしかに。
ぼくが小学生のころ、三代目桂米朝さんのカセットテープを買ってもらって寝る前に何度も聴いていた。
田舎だったので気軽に寄席に行くことができなかったのだ。
今は場所的にも経済的にも生の落語を聴きにいきやすくなったが、そうはいっても小さい子どもがいるとなかなか「ちょっと寄席に行ってくるわ」とも言いづらく、寄席に行くのは数年に一回だ。
もっぱらYouTubeで楽しんでいる。

でもそれで十分だ。
Eテレでやっている落語の番組を毎週録画して観ていたことがあるが、すぐにやめてしまった。集中して観るのは疲れるのだ。
寝物語としてYouTubeで聴くのがちょうどいい(ただ聴いている途中に眠ってしまい、最後のお囃子で起こされるのが困るが)。



「尿瓶(しびん)」について。
落語にはときどき尿瓶が出てくる。
当時も今も尿瓶の用途はいっしょ。おしっこを入れる容器だ。

でも尿瓶に対するイメージは今とはずいぶんちがったようだ。
しかし、十八世紀にもなると尿瓶はかなり普及しました。しかも、それは現代のような介護用というよりは、日常的な用途に供せられたのです。
 特に長屋の住人には、屋外の共同便所を避けて室内で用をたすための必需品だったようです。江戸時代の大坂は、借家率が高く住民の六割以上が長屋住まいでしたから、大坂は「尿瓶率」全国第一位だった可能性が高いのです。たしかに、極寒の夜に家を出て長屋の端っこのトイレに突っ立ってジョンジョロリンはつらい。温かい寝床で用を済ませられるならそれに越したことはない。
 落語〈宿屋仇〉では、清八が宿屋の部屋を出ようとすると、宿屋の伊八に止められます。清八が「いや、ちょっ、ちょっ、ちょっとお手水(便所)」と答えると、伊八は「ほな、ここへ尿瓶持って来まっさかいな」と答える場面があります。伊八は清八を部屋から出せない事情があるのですが、それはともかく、この会話は、尿瓶の使用が病人だけではなかったことを窺わせます。
今はどの家にもトイレがあるのがあたりまえだけど、長屋には便所がなかった。
たしかにトイレのたびに毎回外に出なきゃいけないのはつらい。冬の夜や朝方だったらなおさらだろう。
大用ならともかく、小用なら尿瓶に済ませてしまいたくなるだろう。どうせ昔の長屋なんてすきまだらけだし、いろんなにおいが漂っていただろうし。

だから現代人の感覚だと
「ほな、ここへ尿瓶持って来まっさかいな」
と聞くと
「部屋を出させないために尿瓶だなんてそんな大げさな。病人じゃあるまいし」
とおもってギャグになるけど、江戸時代の感覚だと大げさでもなんでもないことなのだろう。
「腹が減ったから飯食ってくる」「だったらコンビニでなんか買ってきてやるよ」ぐらいの感覚なんだろう。きっと。

これはちょっと役に立つ知識だった。



落語を聴いていていちばん理解できないのはお金の感覚。
江戸時代の噺なら「一両」、明治時代の噺なら「十円」とか出てくるが、どれぐらいの価値があるのかがぴんとこないのだ。
「金」の単位は「両・分・朱」です。これが十進法ではなく四進法だから厄介なのです。一両=四分=十六朱となります。
「銀」の単位は「貫・匁・分」です。一貫=千匁、一匁=十分というように十進法と千進法が混じります。留意しておかねばならないのは、匁の一の位がゼロの場合は「匁」ではなく「目」になること。つまり、九匁、十目、十一匁、という具合です。文楽の床本に「二百匁などは誰ぞ落としそうなものじゃ」(『女殺油地獄』)と書いてあっても、太夫さんは「二百もんめ」ではなく、ちゃんと「二百め」と語りはります。さすがの口承芸能です。
「銭」の単位は「文」です。銭千文=一貫文、銀でも銭でも「貫」は千の意味なのです。穴空きの銭千枚を紐で貫いたことに由来するようです。
四進法の金と十進法の銀と千進法の銭があり、しかもそれぞれが交換されることもある……。
おまけに一文銭を九十六枚束にしたものは百文の価値があった……。

ややこしすぎる……。
よしっ、これを理解するのはあきらめた!

【関連記事】

堀井 憲一郎 『落語の国からのぞいてみれば』

【読書感想】小佐田 定雄『上方落語のネタ帳』



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2020年6月18日木曜日

【読書感想文】字幕は翻訳にあらず / 清水 俊二『映画字幕の作り方教えます』

映画字幕の作り方教えます

清水 俊二

内容(e-honより)
映画字幕作り57年、その数なんと2千本に及ぶ斯界の第一人者が語る草創期の苦心から、最近の「フルメタルジャケット」事件まで。字幕翻訳の秘訣は「正しく、こなれた日本語と、雑学への限りない好奇心」と説く著者が明かす名訳、誤訳、珍訳の数々。63年5月、急逝した著者が遺した映画ファン必読の書。

戦前から洋画の字幕(スーパー)を作ってきたという字幕のスペシャリストのエッセイ。
(この本の刊行は1988年。本の説明文に「63年5月、急逝」とあるのは昭和63年ね)

日本で一、二を争う有名な翻訳家といえば戸田奈津子氏だが、その戸田奈津子氏の師匠筋にあたる人らしい。

字幕作りのうんちく二割、老人のとりとめのない思い出話が八割という内容。
思い出話の部分は著者本人に興味のある人以外は退屈きわまりない内容だったので飛ばし読みしたけど、字幕作りにまつわるエピソードはわりとおもしろかった。

映画産業は衰退しているらしいが、インターネットで手軽に動画を観られるようになって、海外の動画を目にする機会は増えた。
その中には字幕のついているものも多い。

機械翻訳の精度はどんどん上がっているが、字幕は当分AIにはつくれなさそう。
今後、字幕を作れる人の価値は上がっていくかもしれない(というか翻訳者が流れこむのかな?)。



字幕作りはふつうの翻訳とはまったく別物なんだそうだ。
「スーパー字幕という奇妙なものについて」という短い文章を映画ペンクラブのパンフレットに書いたことがある。「諸君!」という雑誌に立花隆君が『地獄の黙示録』のスーパー字幕が誤訳であると書いたのに答えたものだ。
 ウィラード大尉がカーツ大佐討伐に向かうとき、大佐がどういう人物であるかという説明をうける。その説明のなかに“His method is unsound.”という文句が出てくる。スーパー字幕ではこれが、“行動が異常だ”となっている。立花君によるとこれは誤訳で、“方法が不健全だ”でなければならないという。
 たしかに“方法が不健全だ”のほうが訳文としては正確だが、あの場合は、“行動が異常だ”とするほうがはるかにわかりやすい。“方法”というのがどういうことか、すぐ頭に入ってこないし、“不健全”も話しことばとして適当でない。たとえ瞬間的にでも観客に意味を考えせるようでは、字幕として落第である。次々に現れて消える字幕が抵抗なく頭の中を通りすぎていかないと、鑑賞が妨げられる。ポイントはことばの選択で、これは経験によって身につけるほかはない。
たしかに「方法が不健全だ」のほうが正確だけど、これでは意味が分からんよね。

おまけに字幕が出るのは数秒だけ。
その数秒で読んで意味を理解しないといけないわけだから、正確さよりもわかりやすさのほうが大事だ。

表示される文字数、秒数、前後の文脈、文化の違いなどを考慮に入れて、「映画のストーリーがすっと頭に入ってくる日本語」をつくるのが字幕作りなのだ。
目的は言葉の意味をそのまま伝えることではない。


この本には、いくつか字幕作文の例が紹介されている。
たとえば『そして誰もいなくなった』の台詞。
I'm sorry sir, Mr. Owen will be here for dinner.
直訳すれば
「申し訳ございません。オーウェンさんは夕食のときにここに来ます」
といったところか。

だが映画字幕として観客が読める時間を考えると、文字数は11文字から13文字におさめないといけない。
おまけに「執事が客から館の主人について尋ねられての返答」という文脈を考えると、それにふさわしい言葉遣いをしなければならない。

著者は「オーウェン様はご夕食の時に。」と訳したそうだ。
なるほどー。

改めて考えると、映画字幕には主語や述語の省略が多いよね。

「戸田奈津子さんの字幕は誤訳が多い!」と聞いたことがあるけど、わざと元の意味とはぜんぜん異なる訳にしていることも多いんだろうね。
字数制限があるとか、一瞬で意味をとれないとか、制作された国の文化を知らないと伝わらないとか、その他諸々の理由で。

字幕作りという作業は、翻訳半分、創作半分ぐらいなのかもしれない。

今度から字幕映画を観るときには、「この字幕をつくるのにどんな苦労があったのだろう」と気になってしまいそうだ。



『フルメタル・ジャケット』のエピソードはおもしろかったな。

『フルメタル・ジャケット』の字幕は戸田奈津子さんが担当することになっていたのだが、スタンリー・キューブリック監督自らが日本語字幕をチェックして、急遽担当者変更になったのだそうだ。
 キューブリック監督がこの英訳を受けとってからのチェックがこれまた念がいっている。スーパー字幕をつくるために、こんな作業が行われたことは映画が始まって以来、いままで聞いたことがない。
 キューブリック監督はまず戸田奈津子君の第一稿を全部ローマ字に書き直させ、国会図書館の日本人館員に来てもらって、日本から送られてきた英訳とくらべて、一枚ずつ、英文のせりふがどう訳されているか、せりふがまったく変えられているが日本語のニュアンスはどうなのかなどを検討した。とにかく、一二〇〇枚検討するのだから、気の遠くなるような作業である。
 みなさんごぞんじのとおり、日本語スーパー字幕はもとの英語のせりふの二分の一から三分の一の長さであるのが普通であるから、原文のせりふの一節が抜けている場合もある。ときには原文とまったく違う表現の日本語で原文の意味を伝えている場合もある。このへんはスーパー字幕屋の腕の見せどころなのだ。キューブリック監督はこれがお気に召さなかった。原文にもっと忠実に、せりふの英文のとおりに翻訳して欲しい」と申し送ってきた。戸田君は「そんな字幕をつくったら、お客が読み切れないのが四、五百枚はある。こんどはお客から文句が出る」といっている。そのとおりである。

(中略)

 キューブリック監督がもっとも頭にきたのは“四文字語”が全部、そのままの日本語になっていないことだった。
 たとえば、こんなせりふである。
「ケツの穴でミルクを飲むまでシゴキ倒す!」
「汐吹き女王・メアリーを指で昇天させた……」
「セイウチのケツに頭つっこんでおっ死んじまえ!」
 とにかく、ワーナー・ブラザース日本支社はキューブリック監督から日本語字幕を原文にもっと忠実に、全部作り直せ、と指示されたのでは、何とかしなければ映画を公開できない。予定されていた昨年秋の公開予定を延期して、日本語スーパー字幕の第二稿を作成することになった。

すげえなこのこだわり……。
いくらこだわりのある監督でも、ふつうは他の国で上映されるときの字幕なんか気にしないだろ……。
キューブリック監督はまったくわからない日本語字幕まで再翻訳させてチェックしたのだそうだ。

ちなみにこの文章にある“四文字語”というのは、英語の卑猥なスラングのこと。「FUCK」とかね。

きっと戸田奈津子さんの字幕は上品すぎたのだろう。

『フルメタル・ジャケット』は観たことないけど、友人から
「軍曹が新兵を罵倒しまくるシーンがすごい!」
と聞いたことがある。

【台詞・言葉】ハートマン先任軍曹による新兵罵倒シーン全セリフ

↑ こんなものがあったので、『フルメタル・ジャケット』未見の人はぜひ見てほしい。

なるほど……。
たしかにこれはすごい……。
ふつうの字幕だったらこの強烈なインパクトは失われるな……。

『フルメタル・ジャケット』観てみたくなった……。

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【読書感想文】骨の髄まで翻訳家 / 鴻巣 友季子『全身翻訳家』

外国語スキルの価値



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2020年6月17日水曜日

【読書感想文】書店時代のイヤな思い出 / 大崎 梢『配達あかずきん』

配達あかずきん

成風堂書店事件メモ

大崎 梢

内容(e-honより)
「いいよんさんわん」―近所に住む老人から託されたという謎の探求書リスト。コミック『あさきゆめみし』を購入後失踪した母を捜しに来た女性。配達したばかりの雑誌に挟まれていた盗撮写真…。駅ビルの六階にある書店・成風堂を舞台に、しっかり者の書店員・杏子と、勘の鋭いアルバイト・多絵が、さまざまな謎に取り組んでいく。本邦初の本格書店ミステリ、シリーズ第一弾。

いわゆる「日常の謎」系ミステリ。
書店で働く主人公と、切れ者のアルバイトが身の周りで起こった謎を解く。

文庫のレーベル、漫画の内容、雑誌の配達、おすすめ本、ディスプレイなど、書店に関係のある小道具が謎や謎解きに使われている。

少し前に『ビブリア古書堂の事件手帖』というライトミステリシリーズが人気になっていたが、それの新刊書店版みたいな感じかな。
『ビブリア』読んでないからテキトーだけど。



ミステリとしての出来は可もなく不可もなくという感じだけど、小説としての基礎がな……。

とにかく登場人物がみんなうるさい。

考えていることをぜんぶ口に出す。
ほぼ初対面の人間になんでもかんでも話す。
身内の死、教え子の恋愛といったデリケートな話題でもべらべらしゃべる。
書店の店員相手に。

うるせえよ。
ちょっとはひかえろよ。
たしなみとかデリカシーとかゼロかよ。

言いにくいことまで「それはまだ言えません」とかはっきり言っちゃう。
話をそらす、とか、口を濁す、とかそういうのがぜんぜんない。
あまりにおしゃべりをセーブできないので登場人物全員バカに見えてくる。

これは小説というより漫画のノベライズだな……。
漫画だったら説明文だらけにならないように登場人物にあれこれ説明させなきゃいけないけど、小説でそれをやるなよ……。

ライトノベルってこんな感じなのかな。
ふだん小説を読まない人にはこっちのほうが読みやすいのかもしれないけど、ぼくは読んでいて耳をふさぎたくなったな。



「書店のお仕事」情報がちょこちょこ入る。
かつて書店でバイトおよび社員として働いていたぼくとしては、いろんな苦い思い出とともによみがえってくる。
 毎朝毎朝、その日の入荷リストと配達分をつき合わせ、一軒ごとに調えていくのも気を遣う作業だが、それらを受け取り、駅周辺の各店舗に届けるのはバイトやパートの役目であり、これはこれで大変なのだ。
 原則として雨の日も風の日も、猛暑の日も酷寒の日も欠かすことはできない。今のところ成風堂では、配達業務は早番の人たちが曜日ごとに受け持っている。
 博美の電話がきっかけとなり、レジまわりでは配達先の話に花が咲いた。エレベーターのないビルの三階にある美容院や、タバコの煙がたちこめる喫茶店、次から次に注文する本を替える銀行、一軒だけぽつんと離れた床屋、集金の日はなかなか出てこないオーナー、居合わせた従業員が気安く本を頼むブティック。
あったなあ、配達。
ゴミクズみたいな仕事。
大っ嫌いだった。

客から配達を頼まれていてもぼくは断っていたんだけど、前任者が引き受けた配達リストがあって、しかたなく喫茶店とか美容室とかに配達してた。

ほんとくだらない仕事なんだよね。
店ごとに何種類かの雑誌を届けるんだけど、雑誌の発売日はばらばらなので月に何度も配達しなければならない。
数百円の雑誌なんて書店の利益は百円か二百円ぐらいだ。
それを数十分かけて配達するのだ。
配達料なんてとらない。雑誌の定価をもらうだけ。

発売日に配達分を取り分ける手間、配達中の人件費、ガソリン代、事故リスクなどを考えたら、よほど大口の客以外はどう考えても赤字だ。

まともな会社なら、数百円の利益のために数十分かけてたら
「おまえアホか。生産性というものを考えろ!」
と怒られるだろう。

ところが書店員は生産性の低いことばかりやっている(売上にまったく貢献しないポップを書くとか)から、コスト意識が麻痺してきて、嬉々として配達に行ってしまうのだ。
はあ、ほんとくだらない。

いや、わかるよ。
「そうやって地域に密着したお客様との信頼を築くことが長期的な利益に……」
みたいな御託は。
まあなんぼかはあるんでしょう。ボランティア配達によって得られるものも。
けど失うものはもっと多いとおもうな。

あー。
書いてたらいろいろ嫌なこと思いだしたなー。

ぼくが配達に行ってた個人でやってる美容室は、定休日以外にもおばちゃんの気分次第で休むから配達に行ったら閉まってることがあったなー。
配達に行ってた喫茶店の店員は、代金請求するたびにめちゃくちゃ嫌そうな顔をしてたなー。
タダで持ってきてやってんのになんで迷惑がられなあかんねん!

ほんと、配達って書店のダメさを象徴するような業務だったなー。



あと配達とは関係ないけど、あれも嫌いだったなー。
分冊百科。
ディアゴスティーニとか「週刊○○をつくる。創刊号は380円!」みたいなやつ。

あれ、はじめの何号かはふつうに書店に並ぶけど、途中からは定期購読分しか入荷しなくなるんだよね。
だから定期購読を頼まれるんだけど、あれの定期購読する人って八割方、途中で飽きて取りに来なくなる。
で、書店のレジ内にどんどん溜まってくる。
またあれがかさばるから苦労して置き場をつくらなくちゃいけないんだ。

定期的に電話して「もう10週分溜まってるんです取りに来てください」とか言わなくちゃいけない。
そしたら客は「わかりました。今週中には行きます」とか言うんだけど、まあ来ないよね。
あれ創刊号以外はけっこう高いから10週溜まったら1万円超えるんだよね。金銭的負担も大きいからますます客は足が遠のく。
書店にはどんどんバックナンバーが溜まってゆく。
レジの中だけで収まりきらなくなって、ストッカー(書架の下の引き出し)とか休憩室とかのスペースがどんどん浸食されてゆく。

定期購読がいやになったんなら、やめるって一本連絡してくれればいいのに。
でもそれをしないんだよね、分冊百科を定期購読する客は。
そもそも、計画性のある人はあんなものに手を出さないからね(偏見)。
「創刊号は380円!」に釣られてお得とおもっちゃうような人だからね。朝三暮四の猿レベルなんだよ(偏見)。

前の職場にいっつも金がないって言ってる人がいて、クレジットカードの返済に追われてる人だったんだけど、「何に金つかってるんですか?」って訊いたら「えっとまずディアゴスティーニの……」って返答で「ああやっぱり」って納得した。

分冊百科にはまる人はクレジットカードでリボ払いとかしちゃう人だ。



ディスプレイコンテストの話。
 ディスプレイコンテストは各出版社がよく使う手で、春の新入学フェアや夏のコミック祭り、秋のファッション特集、といった定番はもとより、新刊雑誌を盛り上げるために、発売前から豪華景品で参加を呼びかける大騒ぎもある。
「いいなあ、エルメスのバッグに、お食事券ですか」
「でもほら、ここまでやらないと取れないのよ。むりむり」
 今回、ブランドバッグで釣るコンテストは、アニメにもなった人気漫画の販促フェアだ。
 昨年、似たような企画が催され、そのときの様子が参考までにと掲載されていた。
 カラー写真で紹介された入賞作は、天井から飛行船の模型がぶら下がり、入道雲がむくむく立ちのぼり、登場人物たちの切り抜きが飾り立てられ、左右では迫力満点のドラゴンが火を噴いていた。
「これってみんな手作りなんでしょうか」
「そのはずだよ。模造紙や段ボールをうまく使って、凝りまくったものを作っているんだよ。すごいね」
あー、あったなー。
無駄の極み、ディスプレイコンテスト。

「この商品を売りたいのでめいっぱい飾りつけしてください!」
って出版社が書店に言ってくる。
それって本来なら出版社の仕事なんだけど、「上手に飾りつけした書店には一万円あげますよ」みたいなエサで釣って書店にやらせる。

で、いくつかの書店はアホみたいに気合入れてディスプレイつくんの。
入賞せずに賞品もらえなかったらもちろんムダだし、入賞したってぜったい賞品よりもディスプレイにかかった材料や人件費のほうが高いからムダ。
だいたいディスプレイがんばったところで売上なんてほぼ変わらないし。買う人は買うし。
むしろディスプレイするために他の商品の売場を削るからトータルの売上は落ちそうだし。

書店のムダの象徴みたいなイベントだよね。
文化祭気分で仕事してんの。
そりゃ衰退するわ。

こんな非効率なことばっかりして経営が苦しくなったら
「書店がなくなったら地域の文化の担い手が……」
とか言ってんだぜ。
非生産的文化の担い手じゃねえか。そんなもんつぶれろつぶれろ!


……いかんいかん。つい書店のことになると非難がましくなってしまう。
「人は、自分が通ってきた道に厳しい」って言うからね。

書店に対して淡いあこがれを持っている人は楽しめるかもしれないね。
ぼくは書店時代のイヤな思い出をいろいろ思いだして不快な気持ちになった小説だった。

がんばれ書店員!(とってつけ)


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書店が衰退しない可能性もあった



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2020年6月16日火曜日

映画の割引券を配ってるおっちゃん

まだいるのかな。
小学校の前で映画の割引券を配ってるおっちゃん。

ぼくが子どものころは夏休み前になると現れた。
朝早くから校門の前に立って、投稿してくる子どもたちにドラゴンボールとかの映画の割引チケットを配っていた。
割引ったって50円引きだか100円引きだかでたいして安くなってないんだけど。
でも小学生はばかだから、カラーで印刷された紙に
100円引き」
って書いてあるものを見て、
「この紙は100円の価値があるぜー!」
なんつって昂奮して集めてた。
おっちゃんはひとり一枚しかくれないから、校門を出たり入ったりして何枚ももらってるやつがいた。
そういうやつにかぎって映画観にいかないから無価値なんだけど。
でも男子小学生ってタダでもらえるもんなら病気でももらうって人種だから、「(映画を観にいく人にとっては)100円分の価値があるカラープリントの紙」をもらえることはめちゃくちゃうれしかった。

今でもあの類のおっちゃんいるのかな。
もういないかもしれないな。21世紀だもんな。
昔はどろくさい宣伝活動してたんだなー。

とおもったけど、よく考えたらあれはじつに効率的なマーケティング手段だ。



ぼくはWebマーケティングの仕事をしているけど、いちばん頭を悩ませるのは
「いかに狙ったターゲットだけに広告を配信するか」
だ。

たとえば弁護士が遺産相続の広告を出すとして。
・最近、親などの親戚が亡くなった(または亡くなりそう)
・遺産が多い
・親戚間でトラブルになっている(またはなりそう)
という条件をすべて満たしていないと、弁護士にとっては顧客になりえない。
トラブルにならないと弁護士に相談する理由がないし(司法書士とか税理士とかに頼んだほうが安い)、遺産が少なければ弁護士に相談したほうがかえって高くつく。

でも、条件をすべて満たしている人だけに広告を出すのはむずかしい。
「1億円 相続 トラブル」
みたいなキーワードで検索してくれたらいいけど、たいていの人はそんなに丁寧に検索しない。
「相続」「相続トラブル」「相続 相談」とかで検索する。
で、そのうち大半は弁護士にの顧客にならない。
相続額が少なかったり、親戚間でもめていなかったり、まだ親がピンピンしていたりする(芸能人が死んでその相続人が誰なのか知りたいだけ、なんて下世話なやつも多い)。

Web広告は基本的に配信した量に比例して料金が発生するから、関係ない人に配信すればするほど無駄なコストも増えることになる。
だからといって「1億円 相続 トラブル」で検索されたときだけ広告を表示する設定にしても、ほとんどクリックされない(おまけにそういうキーワードは競争も激しい)。

だから
「狙ったターゲットだけに広告配信をする」
ことができるかどうかが、マーケティングの成否のカギを握っている。
これはWebマーケティングにかぎった話ではない。
基本的にどの媒体でも、ターゲットじゃない人の目に増える回数が増えるほど広告の費用対効果は悪くなる



「小学校の前で男子だけにドラゴンボールの映画の割引券を配る」
は、すごく精度の高いマーケティング手段だ。

的確にターゲットだけにアプローチできる。

たとえば「新聞折りこみで割引チラシを入れる」と比べてみると明らかだ。
折りこみなら、子どものいない家庭にも配られる。
子どもがいたとしても、子どもが目にする前に捨てられる可能性も高い。
すべて無駄になる。
テレビCMならもっと無駄が多い(近くに映画館のない地域にも配信されるしね)。

インターネットの時代になっても、小学生だけにアプローチする広告手法として
「校門の前でビラ配り」ほど効率のいい方法は他にないだろう。

2020年6月15日月曜日

【読書感想文】人生の復習と予習をいっぺんに / ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』

アルジャーノンに花束を

ダニエル・キイス (著)  小尾 芙佐 (訳)

内容(e-honより)
32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリイ・ゴードン。そんな彼に夢のような話が舞いこんだ。大学の先生が頭をよくしてくれるというのだ。これにとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に検査を受ける。やがて手術によりチャーリイの知能は向上していく…天才に変貌した青年が愛や憎しみ、喜びや孤独を通して知る人の心の真実とは?全世界が涙した不朽の名作。著者追悼の訳者あとがきを付した新版。

知的障害者のチャーリイが、実験手術を受けた結果、知能が飛躍的に向上する。
平均的な知能になり、さらには常人をはるかに上回る知能を手に入れたチャーリイ。
だが彼の知能が向上するにつれて周囲の人々はよそよそしくなり、チャーリイ自身も失望や怒りを味わうことが増える……。

何度も映像化されている作品だからあらすじは知っていたのだが(鑑賞はしていない)、それでもやはり胸を打つ名作だった。

特にラストの一文の美しさは印象に残った。
物語すべてがこの一文のためにあったかのよう。この一文にチャーリイの優しさや苦しみがすべて現れている。
まちがいなく文学史上トップクラスの「ラスト一行」だ。

最後の最後でこんなに感動したのは漫画『モンモンモン』の単行本版ラスト一コマ以来だ……(下品なギャグ漫画なのにラストはめちゃくちゃ泣けるんだよ)。



自分の知能が人並みになったことを喜ぶチャーリイだが、やがて周囲の人たちと衝突するようになる。
知能レベルが低かったときには気づかなかった周囲の不正や悪意に気づくようになるのだ。
周囲もまた、これまでは「取るに足らない相手」と見下していたチャーリイが一人前にものを言うことに反発するようになる。

チャーリイと、パン屋の同僚との会話。
「いや」と私は食いさがった。「今――今でなくちゃだめだ。あんたたちは二人ともぼくを避けている。なぜだ?」
 フランク、早口の、女好きの、調停役のフランクがちらっとぼくを眺め、それからトレイをテーブルに置いた。「なぜだって? 言ってやろうか。なぜかっつうとな、おめえが、とつぜん、おえらいさんの、物知りの、利口ものになっちまったからよ! いまじゃおめえは、ご立派な天才の、インテリだもんな。いつだって本を抱えてよ――いつだってなんだって答えられないことはないもんな。いいかい、まあ開けよ。おめえは自分がここにいるおれたちよりえらいと思ってるんだろう? なら、どっかほかへ行きな」

ぼくには一歳と六歳の娘がいる。
どちらも楽しく過ごしている(と信じている)が、どっちがより楽しい日々を送っているかというと、一歳のほうだろう。

遊びたいときに遊んで、腹が減ったら泣けば食べ物を与えられ、眠くなったら寝て、嫌なことがあれば大声で泣き、楽しいときは満面の笑みを浮かべる。
楽しそうだ。

一方、六歳のほうは、嫉妬心とか虚栄心とか羞恥心とか自尊心とか複雑な感情にふりまわされて、怒ったり傷ついたりしている。
大人に比べたらよっぽど感情表現が素直だが、それでも「いろいろわかる」からこその苦しみからは逃れられない。

それが正常な発達だとはわかっていても、子どもの成長を見ていると
「成長って当人にとっては苦しいものだな」
と感じずにはいられない。



チャーリイの知能は常人を超え、誰も手の届かないレベルまで向上する。
「口をはさまないで!」声にこめられた真剣な怒りが私をひるませた。「本気で言ってるのよ。以前のあなたには何かがあった。よくわからないけど……温かさ、率直さ、思いやり、そのためにみんながあなたを好きになって、あなたをそばにおいておきたいという気になる、そんな何か。それが今は、あなたの知性と教養のおかげで、すっかり変わって――」
 私は黙って聞いてはいられなかった。「きみは何を期待しているんだ? しっぽを振って、自分を蹴とばず足をなめる従順な犬でいろというのか? たしかに手術はぼくを変えた、自分自身についての考え方を変えた。ぼくはもう、これまでずっと世間の人たちがお恵みくださってきたクソをがまんすることもなくなったんだ」
「世間の人たちは、あなたにひどいことはしなかったわ」
「きみに何がわかる? いいか、その中でいちばんましな連中だって、独善的で恩着せがましくて自分が優越感にひたって、自分の無能さに安住するためにぼくを利用したんだ。白痴にくらべれば、だれだって自分が聡明だと感じられるからね」

以前、高学歴大学のほうが学生の自殺率が高いと聞いたことがある。
その話が事実かどうかは知らないが、さもありなんという気がする。

ぼくの大学のサークルの三年先輩に、Kという人がいた。
ぼくはKさんに会ったことがない。なぜならKさんは、ぼくが入学する直前に自殺したからだ。
会ったことはないが、他の先輩を通してKさんの話は何度か耳にした。
「ばつぐんに頭の切れる人だった。ユーモアのセンスもあった」
「あんな頭のいい人はほかに知らない」

日本各地から学生の集まってくる国立大学だったので、学生たちはみんな多かれ少なかれ自分の頭脳に自信を持っている。
そんな人たちが口をそろえて「頭のいい人だった」と言うのだ。
亡くなった人だから美化されていた部分もあるのだろうが、それを差し引いても相当の切れ者だったのだろう。

Kさんがなぜ自死を遂げたのかぼくは知らない。他の先輩たちも詳しくは知らないようだった。
きっと、頭のいい人にしかわからない悩みや孤独があったのだろう。

ウィリアム・ジェームズという人の言葉に
「Wisdom is learning what to overlook.(知恵とは、何に目をつぶるかを学ぶこと)」
なるものがある。
なんでも知っている、なんでも理解できることは必ずしも幸福にはつながらないのかもしれない。



チャーリイの戸惑いは、自分自身の知能が短期間で急成長したこと、そして急激にまた衰えたことに由来している。

これはチャーリイだけが味わっている苦悩ではない。
スパンはもっと長いが、ほとんどの人間が味わっていることではないだろうか。


幼いころ、親は絶対的な存在だった。
決してまちがわない。なんでも知っている。進むべき道を知っている。親の言うことは正しい。

やがて、その考えが正しくないことに気づく。
親も知らないことだらけで、しょっちゅうまちがえて、感情のおもうままに行動し、怠惰で、嫉妬深くて、愚かな、どこにでもいるひとりの人間だと。

思春期の頃に親の不完全さに気づき、その矛盾に憤りを感じる。
「えらそうなこと言ってるくせに自分はぜんぜんできていないじゃないか!」
と。

そこで親と決裂する人もいるだろうが、たいていの人はときどき親と衝突しながらも徐々に受け入れてゆく。

親だけでなく、友だちの親も、親戚のおじさんおばさんも、教師も、テレビでえらそうな顔をしてしゃべっている人たちも、有名スポーツ選手も、作家も、いいところもあれば悪いところもある人間なんだということが少しずつわかってくる。
人間だからいいところもあれば悪いところもあるよね、完璧な人間なんていないよね、と。

社会に対しての接し方も同様。
どんなに正しくまじめに生きていても理不尽な不幸に見舞われることがある。その一方で悪いやつがのさばっていて甘い汁を吸っている。
世の中の不条理さに憤りを感じながらも、たいていの人はほどほどのところで折り合いをつけてゆく。


若いころはぐんぐん成長していくから、成長を止めた大人を見ると怠惰に見えて仕方がない。
ぼくも高校生ぐらいのとき、学業に関しては明らかにぼくより劣っているのにえらそうにふるまう父親を軽蔑していた。

やがて自らも老いると、(少なくとも学習に関しては)成長するのが難しくなり、停滞、そしてゆるやかな下降へと遷移する。
そして認知症を発症すると急激に記憶が失われてゆく。

ぼくのおばあちゃんも認知症になった。
症状が進行した今ではおだやかな痴呆老人になったが、初期の「ときどき正気に戻ることがある」ぐらいのときは不安やいらだちを隠そうともせず、ずいぶん攻撃的になっていたらしい(らしい、というのはその期間はぼくとはあまり会おうとしなかったし母も会わせようとしなかったからだ)。


  己の見分や思索が深まる
⇒ 周囲の矛盾や不正に気付く
⇒ 矛盾や不合理を徐々に受け入れる
⇒ 自身の衰えに気づく
⇒ 自身の衰えを受け入れる

この、ふつうの人間なら八十年ぐらいかけてゆっくり経験してゆくステップを、『アルジャーノンに花束を』のチャーリイはわずか数ヶ月で味わうことになる。

そのショックたるや、どれほど大きなものだろう。
小説の中では、チャーリイの独白という形で丁寧に苦悩を表現している。

ぼくは知的障害者の気持ちも天才の気持ちも認知症患者の気持ちも知らないけど、この状況に置かれたらこう考えるだろうな、といった苦悩がつづられている。
なんたる説得力。

ぼくが小説に対してもっとも重きを置くのは「いかにもっともらしいホラを吹くか」なのだが、『アルジャーノンに花束を』はその点でも超一流のSF小説だ。

説得力十分だからいやおうなく小説の世界に引きずりこまれる。
チャーリイの体験をなぞることができる。
そう、人生八十年をチャーリイと同じく超スピードで駆け抜けることができるのだ。

人生の復習と予習をいっぺんにやったような読後感だった。



改めて書くけど、大傑作。

テーマ、アイデア、構成、人物描写、どれをとっても一級品。

特におそれいったのは文体。
知的障害者の文章から天才の文章まで、変幻自在という感じ。
このエッセンスを受け継いだまま絶妙な日本語にしてみせた翻訳も見事。

魂を揺さぶってくれる小説だった。

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