2020年3月10日火曜日

【読書感想文】成功者の没落を楽しめる本 / 荒木 博行『世界「倒産」図鑑』


世界「倒産」図鑑

波乱万丈25社でわかる失敗の理由

荒木 博行

内容(e-honより)
「倒産」は教訓と知恵の宝庫である。なぜ一時代を築いた企業は破綻に至ったのか。日米欧の25事例を徹底分析!

仕事で弁護士とつきあっている。その人は法人破産の案件を担当しているのだが、「もうどうしようもなくなってから駆けこんでくるんだよね」と語っていた。

金もなくなり、信用もなくなり、人も離れ、万策尽きてから弁護士に相談に来るのだという。
そうなると弁護士としてはどうすることもできない。破産しかないが、弁護士としてはそのサポートすらできない。なぜなら弁護士費用を一切払えないから(破産したら無一文になるから弁護士費用は前金でもらうしかない。だがその数十万円すら払えない)。

「あと半年早く相談してくれたら、負債を整理するなり、経営者個人の財産だけは守るなり、打てる手があったのに……」
というケースが多いそうだ。

傍から見ていると「もっとなんとかできる方法はいっぱいあったのに」とおもうけど、渦中にいる人間にとってはどうすることもできない。
それが倒産だ。



『世界「倒産」図鑑』は、そごうやNOVAといった比較的最近倒産した日本の企業から、ゼネラルモーターズ、コダックといった海外の老舗企業まで、25社の倒産に至った経緯とそこから導きだされる教訓をまとめた本。

25社の紹介ということで、それぞれの説明はあっさり。
倒産に至るまでには様々な要因があったのだろうが、ひとつかふたつぐらいの要点にまとめて説明している。

これがおもしろい。
正直に言おう。
下世話な楽しさだ。
うまくいって調子こいてた企業が、調子に乗りすぎたためにみるみるうちに転落してゆく。こんなおもしろいことはない。うひゃひゃひゃひゃ。この手の話、みんな大好きでしょ?

著者のまえがきには「決して興味本位でおもしろがるわけじゃなく、過去の失敗例から教訓を導きだして二の轍を踏まないように気を付けてもらうためにこの本を書いた」とあるが、そんなものは建前にすぎない。
成功者の没落が見たいんだよ、みんな。



たとえばそごう。1830年創業、戦後に次々新店舗を開業して勢力を急拡大したものの、その急成長戦略がバブル崩壊で裏目に出て2000年に民事再生法を申請した。
 そごうがここまで急激に拡大できた背景には、「地価」という要素がありました。そごうは出店予定地周辺をあらかじめ買い占め、出店で地価を上げることで資産を増やします。こうして担保力をつけて黒字化した独立法人が、新しい店舗(独立法人)の債務保証をしながら銀行から資金調達し、そしてまた新たな店舗を作っていく、というサイクルを作っていきました。
 例えば、千葉そごうが軌道に乗ると、今度は千葉そごうが出資して、柏そごうを設立。さらに柏そごうと千葉そごうが共同で札幌そごうなどに出資するという形です。地価が上がっていれば、担保によって銀行から新たな資金を調達することができ、そうして新しい店舗を広げていったのです。
 しかし、このサイクルはいくつかの重大な問題を孕んでいます。
 1つ目は、そごうの独立法人同士が支え合う複雑な形になっていたため、経営の内情がブラックボックスになること。これに水島社長のカリスマ性が合わさって、誰もグループ全体の経営状況を把握できない状況になりました。資金の貸し手である銀行も、そして当の水島社長ですら、正確な全体像を把握していなかったと言われています。各社ともに独立法人であったために、人的交流もなく、数字の基準もバラバラな状態が放置されていました。恐ろしい規模のどんぶり勘定が許されてしまっていたのです。
 そしてもう1つは言うまでもなく、地価が下がった時は全てが逆回転する、ということです。担保価値が低下して銀行が資金提供を止め、資金回収に回る時、この拡大サイクルは一気に「崩壊サイクル」へと転じます。
「地価」を担保にどんどん支店を作り、そのおかげで上がった「地価」を元にさらなる出店……というサイクルをくりかえしてきたため、地価が下がるとすべてがシナリオ通りにいかなくなる。

今の我々から見ると「そんな無茶な」と言いたくなるようなシナリオだけど、でも地価が上昇している局面ではそごうの戦略は正しかったんだよね。
バブル期までは大半の日本人が「土地の値段は上がりつづける」という認識を持っていたそうだし、たぶんそごうにはどうすることもできなかった。
仮に社長がタイムテレビで未来を見ることができて「地価の上昇が止まるだろうからここらでブレーキを踏もう」って言いだしたとしても、一度動きだしたサイクルはなかなか止められない。そごうの破綻は避けられないシナリオだったんじゃないだろうか。

もちろん「拡大サイクル」をやっていなければ破綻はなかっただろうけど、でもそうすると成功もなかっただろうしなあ。



フィルム写真で世界を席巻したもののデジタル化の波に乗り遅れて倒産したコダックについて。
 もちろん、コダックの思慮が足りなかったという側面もあるかも知れませんが、私たちは後日談をベースにこの事例を笑うことはできません。優秀な人材はたくさんいたでしょうし、彼らによるビジネスの分析も行われていたはず。デジタル化に真っ先に踏み込んだ通り、デジタル化の未来を予測し、最も脅威を感じていたのはコダックだったのかも知れません。
 しかし、それ以上に、コダックには「保守派」「守旧派」と呼ばれるステークスホルダーが多く存在していました。銀塩周りの写真品質にこだわる技術者や、現像に関わる販売店など、従来のコダックのビジネスモデルによって潤う人たちはたくさん存在したのです。このような技術的転換点において、経営者はジレンマに陥り、そして、ジレンマは「希望的観測」を生み出します。「こうなってくれた方が私たちにとって強みが活かせる」「この方が私たちに都合が良い」という願いが冷静な分析を打ち消していくのです。
いろんな倒産のケースを見ていると、たしかに倒産の近しい原因としては失敗や慢心や見通しの甘さや組織の機能不全があるのだけれど、それらがなかったらその企業たちは数十年先も業績好調だったかと言われれば首をかしげてしまう。

たとえばコダックは誰がトップに立っていたとしてもカメラのデジタル化で大打撃を受けたことはまちがいない。
富士フイルムのようにフィルムを捨てて化学工業メーカーとして生まれ変わった例もあるけど、そんなの例外中の例外で、まったく別の業種に乗りだして成功した例よりも失敗した例のほうが圧倒的に多い。

この本には
「うまくいっているときも慢心するな。今の技術や手法は必ず時代遅れになる」
「時代の先を読んで次の手を打ちつづけること」
「常に社内の風通しを良くして、でも決定はスピーディーに」
といった教訓が挙げられている。
それは正論ごもっともなんだけど、それらをすべて実践しつづけられる企業なんか世界中どこにもないでしょ。

AppleやAmazonやアルファベット(Google)だって、今はうまくいっているからその手法がもてはやされてるだけで、彼らのやっていることって強引かつ無茶なやり方だからいったん歯車が狂ったらだめになるのも速いはず。

企業たるもの、倒産するのがあたりまえなのだ。
「できるだけ長く健康に生きる方法」はあっても「不老不死になる方法」はないのと同じで、遅いか早いかの違いはあっても倒産は避けられないのが企業の運命だとおもうなあ。



いくつものケースを見ていて気付くのは、ブレイクスルーを果たすのはその業界のトップ企業ではないのだということ。

コダックがデジタルカメラを生みだせなかったように、トイザラスがオンラインでの販路を拡げられなかったように、トップ企業には業界の仕組みを変えることができない。なぜなら、業界の仕組みが変われば自社の優位性を捨てることになるから。

ネット通販よりもっと便利な販売方法ができて(それがどんなものか想像もつかないけど)「ネット通販なんてもう古いぜ!」となったとき、たぶんAmazonや楽天はそこに力を入れることができない。
今、書店が「地方から書店文化が消えていいんですか?」と消費者にとって何の利益ももたらさないわけのわからぬ理屈を並べながら消えていこうとしているように、Amazonや楽天もネット通販にしがみついて消えてゆくだろう。

車の自動運転技術を実用化するのは自動車メーカーではないはずだ(じっさいGoogleらが開発しているしね)。
オンライン時代の報道を牽引するのは新聞社やテレビ局ではない。

業界の人間には既存の仕組みを壊せないのだ。大手であればあるほど。

新聞社だって「紙の新聞をやめてオンラインに専念してはどうか」とはおもいついてたはずなんだよね。かなり早い段階で。
でも、それをするには、全国各地の販売店をつぶして、印刷所をつぶして、既存の広告枠を全部なくして、記者の数も減らさなければいけない。しがらみでがんじがらめになっている新聞社にはできない。

新聞社や書店だけでなく、銀行も自動車メーカーも電機メーカーもそうやってつぶれてゆく。
自らが生まれ変わることはできずに外からやってきた黒船に押しつぶされる。かつて自分たちがそうやって旧いビジネスを叩きつぶしてきたように。
 しかし、歴史というものは皮肉なものです。1893年に創業したシアーズは、通信販売という流通革命を起こし、アメリカ全土に品物を行き渡らせてアメリカ人の生活をより豊かなものにしてきました。それから100年経った1993年、シアーズは祖業の通信販売から撤退するのですが、その翌年の1994年、まるでシアーズの遺志を継いだかのように、アマゾンが新たな通信販売モデルを立ち上げます。そして、シアーズはやがてそのアマゾンに引導を渡されるのです。

そして。
企業だけでなく、国家も同じだとおもう。
有史以来、いろんな国が生まれては消えていった。同一の政治体制が五百年続いたことなんてほとんどない。百年続けば国家としては十分長命なほうだ。
あらゆる組織は、外圧以外では大きく変われない。そして大きな外圧を受けたらたいていはぶっ壊れる。

日本という国も、そのうち滅びる。
現在すでに「過去の成功にしがみついて時代の変化についていけない」という危険な局面に陥っているように見える。

明治維新で近代国家となった大日本帝国が太平洋戦争でこてんぱんにやられて国家システムが瓦解するまでが七十余年。
そして終戦から現在までが七十五年。
もしかすると「日本の倒産」もそろそろかもな……。


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2020年3月8日日曜日

ラグビー発祥の地

 昨日公園で保育園児たちとドッチボールしてたら、ふたりの子がボールの取り合いをして、そしたら規模が大きくなって数人でのボールの取り合いになって、もうそっちのほうがおもしろいからボール奪って逃げるっていう遊びをやってたら近くにいた小学生たち(二年~五年生)もなんだなんだおもしろそうなことやってるなって感じで入ってきて、そしたら当然小学生ばっかりにボールが渡って保育園児が手出しできない状態になったからぼくも「よっしゃ! 保育園児 対 小学生や! おっちゃんは保育園児の味方や!」って宣言して参戦して(気分は第二次世界大戦に参戦したアメリカ)、小学生からボールを奪って保育園児にパス出して、保育園児が奪われたら小学生がパス回しするのを必死に追いかけてスチールしてまた保育園児に手渡して、っていう遊びを三十分以上やっていた。

 久々に全力疾走したね。
 走って、ジャンプして、ボール奪いにくる小学生をブロックして、フェイントかけて、保育園児に指示出して、また走って……ってやってたから汗びっしょり。山王戦の湘北の選手たちぐらいの運動量だったからね。

「ボールを奪って敵に奪われないように味方にパスをする」というだけのシンプルなルールだったけど、けっこういい勝負になった。
 保育園児チームがボールを持っている時間と、小学生チームがボールを持っている時間、それほど変わらなかったんじゃないだろうか。
 ふつうに考えれば小学生チームが圧勝しそうなものだけど、大人のぼくが保育園児チームに入ったことでバランスが良くなった。高さもスピードもまだ小学生には勝てる。体力はかなわないが、ぼくもかつては長距離走をやっていた人間なので同世代のおっさんの中では体力はあるほうだ。
 それに小学生は「保育園児に怪我をさせないようにしないといけない」という制約があるが、保育園児チームには一切遠慮がない。全力で小学生にぶつかってゆく。さすがの小学生も、六歳児が全力でぶつかってきたらけっこうひるむ。
 慣れない人がトカゲを捕まえようとするようなものだ。人間とトカゲのパワーは比べものにならないが、トカゲは文字通り死にものぐるいの全力で逃げるのに対し、人間側は「怪我をしないように」「強くつかみすぎてトカゲが死んじゃったらイヤだ」といった気持ちが邪魔をして全力を出せない。結果、トカゲに逃げられる。
 同様に小学生はボールを抱えて走る保育園児に追いつくことはできても、そこから手が出せない。うかつに手を出すと怪我をさせてしまうからだ。敵陣営のパスミスを待つしかない。結果的にちょうどいいハンデが生まれる。

 で、やりながらおもったことは「これはゴールのないラグビーだな」。
 ボールを抱えて走る。敵に取られる前に味方にパスを出す。このへんはラグビーといっしょ。
 ただしゴールラインはない。だからトライもない。キックでのゴールもない。相手にボールを取られるまでは走りつづける。取られたら取りかえすために走りつづける。終わりもなければ休めるタイミングもない。ひい。

 そんでおもったのは、やっぱりラグビーのルールってよくできてんなってこと。
「ゴールがあったほうがいい」ってのもそうだし、それ以外の部分でも。

 ボールを投げてパスをするのだが、小学生の子が保育園児のパスをスチールすることはあっても、その逆はない。
 うまい人同士がパス回しをしていたら、よほど人数が勝っていないかぎり技術的に劣るチームがボールを奪うことは難しい。小学生チームからボールを奪うのはもっぱらぼくの役目だった。
 ここでラグビーのルールである「前方に投げてはいけない」を導入すれば、技術的に劣るチームにもボールを手にするチャンスがぐっと増えるだろう。後方に投げたり前方にキックしたりすれば、自然とパスミスも増える。

 あとボールを抱えている人間が倒れこんだら、収集がつかなくなる。みんながボールを奪おうと群がってくるのでボールは動かなくなる。危険でもある。
 ラグビーのルールである「倒れたらボールを手離さなくてはいけない」を導入すれば、危険も解消される。

 ラグビー誕生のエピソードとして
「イングランドのラグビー校の生徒が、フットボールの試合中にボールを抱えて走りだした」
というのはあまりにも有名な話だ。
 ぼくらが昨日やったのとほぼ同じような状況だった。
 そこからもみくちゃになってボールを奪いあう競技になり、「前方にパスしちゃいかんってことにしないと相手チームにボールが渡らないよね」「倒れたのにボールを抱えてたら危ないし見てるほうもつまらないよね」みたいなことに気づいて徐々にルールが整備されていったのだろう。

 ラグビーの歴史が垣間見えた気がした。


2020年3月6日金曜日

【読書感想文】カツオとインターネットは旬が大事 / 綿矢 りさ『インストール』

インストール

綿矢 りさ

内容(e-honより)
学校生活&受験勉強からドロップアウトすることを決めた高校生、朝子。ゴミ捨て場で出会った小学生、かずよしに誘われておんぼろコンピューターでボロもうけを企てるが!?押入れの秘密のコンピューター部屋から覗いた大人の世界を通して、二人の成長を描く第三八回文藝賞受賞作。

「かつて話題になった本を今さら読んでみる」シリーズ。
綿矢りさ氏が十七歳の若さで『インストール』で文藝賞を受賞したのが2001年。
『蹴りたい背中』で芥川賞を受賞し、著者のルックスも相まって文壇以外でもたいへん話題になったのが2004年。
へそまがりのぼくは「ふん。話題作なんか読むもんか」ということで文庫になってからも手を伸ばさなかったのだが、二十年近くたったしもういいだろうと(何が?)いうことで今さら読んでみた。

うーん、おもしろくない。
いやこれはぼくのせいだ。話題になったときにすぐ読まなかったぼくのせいだ。

「当時は有効に機能していたであろう小道具」が2020年の現在ではすっかり錆びついてしまっている。
「女子高生が小学生の男の子といっしょにインターネットを使って人妻のふりをして風俗チャットで小遣い稼ぎをする」
というストーリー、2001年には新しくて電脳的で不安を抱かせてくれるものだったんだとおもう。
女子高生も小学生もスマホを持っているのがあたりまえの2020年には、そんなストーリーは日常でしかない。何の新しさもない。
もちろん文学は設定の斬新さだけで成り立つものではない。が、『インストール』に関してはその設定に依存する部分がきわめて大きい。
というわけで今読んでもぜんぜんおもしろくない。当時はこんなものをめずらしがっていたんだなあとおもうだけ。かといって懐かしむにはさほど古くないし。

『潮騒』や『太陽の季節』や『限りなく透明に近いブルー 』も、発表当時はその新しい性風俗の描写が話題になったらしい。でも数十年たった今では「そこまで大騒ぎするほどのことか?」という感じだ(陰茎で障子をつきやぶる、とかは今でも異常行動だけど)。
まあ『潮騒』も『太陽の季節』も『限りなく透明に近いブルー 』も読んでないんですけど。

ってことで、文学には鮮度が短いものがある。鮮度が短いものは旬のうちに読んじゃいましょうね、という結論。


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2020年3月5日木曜日

【読書感想文】電気の伝記 / デイヴィッド・ボダニス『電気革命』

電気革命

モールス、ファラデー、チューリング

デイヴィッド・ボダニス(著)  吉田三知世(訳)

内容(e-honより)
同じ電信技術を追求しながら特許のために人生の明暗が分かれたモールスとヘンリー。聴覚障害者の恋人への愛から電話を発明したベル。宇宙は神の存在で満たされていると信じつつ力場を発見したファラデー。愛した上級生の死の喪失感をバネにコンピュータを発明したチューリング。電気と電子の研究の裏側には劇的すぎる数多の人間ドラマがあった!
だじゃれを言いたいわけではないが、電気にまつわる人々の伝記。
電気の性質に気づき、活用し、改良を加えた人たちに関する逸話が並んでいる。

褒めそやすばかりではなく、悪いところも書いているのがいい。
今もその名が知られているモールスやエジソンの金に汚い部分とか(金に汚かったからこそ成功したのかもしれない)。
 これらの発明のほとんどすべてにおいて、エジソンと彼の研究開発チームは重要な役割を果たしていたので、エジソンはご満悦だったに違いない。エジソンは、年老いてからは愚痴っぽくなったものの、機械が大好きで、社会に起こった一連の変化を総じて歓迎していた。だがじつは、彼にはまだ不満があった。当時の技術者でそのように考えていた者は極めて少数だったが、エジソンは、電気の効果の背後にある原理を科学的に解明したいと考えつづけていたのである。
 エジソンは、当時の最高の電気技師だと目されていたが、彼には導線の内部で何が起こっているかさえわからなかった。新聞記者たちに、彼の偉大な発明品が機能するほんとうのからくりを説明してくれないかと求められると、たいてい彼はただ笑ってごまかすのだった。そして、そういうことは、ご立派な大学教授の皆さんが解明すべきことであって、それがほんとうに解明されるころには、自分はとうに死んでしまっているだろうと話した。
へえ。
エジソンって電気のことを(当時としては)熟知しているのかとおもっていたが、じつは仕組み自体はよくわかっていなかったんだね。
エジソンは技師であって研究者ではなかった。だから「こうすればああなる」という事象は知っていても、「なぜそうなるのか」はよくわかっていなかった。
まあ発明するのにはそれで十分なんだろう。

ぼくだってWeb広告の仕事してるけどパソコンがどういう仕組みで動くかまったくわかってないし。だからよく「パソコンが動かないんです」とか相談されるけど、ちっとも答えられないんだよね。「再起動してみたらどうですか」ぐらいしか言えない。

とはいえ、エジソンの発明した電球や、エジソンが改良した電話はほとんど同じ原理でごくごく最近まで使われていた(今も一部では使われている)そうで、百年間も使用に耐えるものをつくるなんて、エンジニアとしてはほんとに天才だったんだなあとつくづくおもう。原理をわかっていないのに、いやわかっていないからこそすごい。

エレクトロニクスってものすごく進歩しているようで、案外ほとんど進んでいない分野もあるんだなあ。



電気はレーダーを生みだし、戦争の性質を大きく変えた。

敵機の来襲や攻撃目標の選定など、肉眼ではとらえきれないものをレーダーでとらえられるようになった。
おかげでイギリスはナチスドイツを撃退することができた。イギリスがレーダーを使えずドイツがイギリス侵攻に成功していたら世界の勢力図も大きく変わっていただろう。

この顛末にはけっこうページが割かれていて、すごくおもしろい。
でもここだけテイストがちがうんだよなあ。サイエンスノンフィクションではなく軍記物小説のようになっている。
 イギリス政府が、レーダーによる防衛システムを隠蔽するために、作り話を積極的に広めたのも功を奏した。新聞各紙に、特に夜間に正確に敵を迎撃することができるのは、ニンジンの視力改善効果によるものだという情報がわざと流され、それが掲載された(ニンジンが目にいいという話は、ここから始まったようだ)。英国空軍のメンバーたちの機転もあった。たとえば、フィリップ・ウェアリング軍曹が、敵機をフランスまで追っていた際に撃墜され、捕らえられてまもなく尋問を受けたときの機転の利いた受け答えについて、彼自身の説明を引用しよう。
「あるドイツ兵が尋ねました。『どうしておまえたちは、われわれが行くところにいつも先回りしているんだ?』と。わたしは、『われわれには強力な双眼鏡があって、それでいつも見張っているからさ』と答えました。それについてはそれ以上訊かれませんでした」
レーダーを発明したことを隠すために自国民に対しても積極的にデマを流したイギリス政府。
おかげでドイツ軍はレーダーの存在に気付くのが遅れ、戦況に大きく影響を与えた。
ドイツの諜報活動というレーダーに対してデマというレーダー遮蔽装置を使ったわけだ。

しかし結果的に成功したからよかったものの、政府が国民を騙すことを美談としてしまってよいのだろうかとちょっと気になる。「ニンジンが目にいい」程度の罪の小さい嘘だったらまだいいんだけどさ。
でも「国民を安心させるために日本は連戦連勝と虚偽の発表をした」大本営発表と本質的には変わらないわけで、楽しい話ではあるけれどいいことじゃないよね。



コンピュータの父とも呼ばれるアラン・チューリングの章より。
チューリング自身がコンピュータを完成させることはなかったが、彼の構想がコンピュータの開発につながった。
 チューリングの主張とは異なり、この機械は万能などではない」と批判する者が、この機械が実行できないような仕事の例を列挙したときには、チューリングはその批判者に、不可能と思われる仕事をいくつかの段階に分割して表現して、それぞれの段階を、チューリングと同じ明確で論理的な言葉で表現してもらえばよかった。そのうえで、チューリングがその分割された命令を機械に与えると、機械は着々と、指示通りに仕事を果たすだろう――そして、批判者が間違っていたことが明らかになる、というわけだ。今の世に生きるわたしたちは、一連の指示を実行する機械というものにあまりに慣れきっており、コンピュータにせよ携帯電話にせよ、打ち込んだ命令に従うものと思い込んでいるので、そのようなアイデア自体が受け入れられなかった時代があったということを忘れてしまいがちである。だが、チューリングが学生だったころは、生物ではなく、自らの意志で動くのではない機械に、そのような知的な仕事が成し遂げられると想像できる人間は、ほとんど存在しなかったのだ。
これ、今の我々にはわかりにくいんだよね。
パソコンやスマホに囲まれている我々は、「命じられたことを実行する機械」の存在に疑問を持つことはない。
「計算をしろと言われて計算をする機械がある」と聞かされても「そりゃそうでしょ」としかおもえない。
でもほんの数十年前までは、その考え方自体がとうてい受け入れられるものではなかったのだ。
「スイッチを入れたら灯りがつく機械」と「計算でもお絵描きでも映画上映でもできる機械」の間には遠い隔たりがあったのだ。

言われてみれば、ほんの二十五年ぐらい前でもそんな感じだったかもしれない。
当時小学生だったぼくのまわりにも機械はいくつもあったが、基本的に一機一用途だった。
文書を作るならワープロ、計算をするなら電卓、スケジュールを管理するなら電子手帳(懐かしい!)、日本語を調べるなら電子国語辞典、英語を調べるなら電子英語辞典、テレビ、ラジオ、カメラ、ゲーム機、ぜんぶ別々の機械だった。
それらすべてがひとつの機械に収まって、誰のポケットにも入っている時代がくるなんて想像もつかなかった(しかもそれが二十年たらずで実現するなんて!)。

チューリングの頭の中にはハードウェアとソフトウェアを別のものにする発想もあったようで、とんでもない天才だったんだなあ。今の時代にはそのすごさが伝わりにくいけど。



電気が変えたのは人々の生活だけではないという話。
 これによって、遠い遠い昔から変わることがないと思われていたいろいろな関係が変化しはじめた。召使たちが、ひざまずいて、冷たい水で衣類を洗濯したり、暖炉の煤を擦り取ったり、汚れた水の入ったバケツを持って階段を昇り降りしているのを目にすれば、彼らは、気の利いた会話をしたり読書をしたりする自由な時間のある人間とはまったく違う種類の人間だと思える。したがって、召使には投票を行なう「資格」などないと考えるのはごく自然なことだろう(日々の労働で疲れ切った召使たちのほうも、投票権を要求するなど身に余ると感じることだろう)。だがしかし、電気3ポンプと電気モーターで動く洗濯機が登場し、続いて電気冷蔵庫に電動ミシン、そして次々といろいろな電化製品が生まれるようになると、単純な家事労働はどんどん減っていき、それと共に召使も姿を消し、自分を他人より下だと感じる気持ちも薄らいでいった。労働者階級の成人男子に投票権を与えてもいいのではないかという機運が高まり、やがて、以前はまったく無謀な考えでしかなかった、女子の投票権というものが検討されるようになったのである。
これは著者の個人的見解だけど、機械化が人権の拡大に寄与した影響は少なからずあるだろうね。
職業に貴賤はないというけれど、やっぱり尊大にさせられる仕事や卑屈な気持ちにさせる仕事はぜったいにある。
たとえば靴磨き。今ではめったに見なくなったけど、ぼくが子どもの頃はまだ街中に座って靴磨きをやっているおじさんがいた。
あれぜったいに卑屈になるとおもうよ。他人の足元にひざまずいて手を真っ黒にして靴を磨くんだもん。「おれは人から必要とされる立派な仕事をやっている!」という気持ちにはなれないとおもう。やったことないから想像だけど。古今東西どんな社会にも「磨いてほしいのかい? こっちも忙しい身だからね。まあ条件次第だね」みたいな態度の靴磨きはいないにちがいない。
逆に政治家なんてのは「選ばれた」という意識があるし、困っている人が陳情にきたりするからどうしても自分が偉くなったと勘違いしてしまう。他人を生かすも殺すもオレ次第だぜ、みたいな気持ちになっちゃうんだろうなあ。

人権意識っていついかなる社会にでも適用できるものじゃないのだと改めて気付かされる。
未開文明で「男女平等、基本的人権、思想の自由」なんて唱えたって、科学技術がなければ「家の中で炊事洗濯をする人」「教育を受けずに働かないといけない子ども」「過酷で危険な労働に従事する人」がいないと生きていけない。そういう環境で等しく人権を、なんて意識を持ったとしても実現不可能であれば意味がない。

思想や権利って普遍の真実であるみたいについついおもってしまうけど、じつはテクノロジーに支えられてぎりぎり立っている、きわめて危ういもんなんだなあ。

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2020年3月3日火曜日

えらいやつほどえらそう


池谷 裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』に、こんな話が載っていた。

横断歩道で手を上げている歩行者が渡り終わるのを待たずに通過してしまう割合は、普通車よりも高級車のほうが高かった。交差点で割り込む率も普通車より高級車のほうが高い。
一般的に社会的地位の高い人ほどモラルに欠ける行動をとる傾向がある。

ほう。
たしかに言われてみればそんな気もする。社会的地位が高くなり、高い車を持つと偉くなった気になり、横柄にふるまってもよいとおもうのだろう。

年寄りのほうが若者よりマナーが悪いという話をよく聞く。ぼくの体感的にもそうおもうし、なによりぼく自身が昔よりがさつになった気がする。特にこどもを連れているときなんかは「こっちは子ども連れてんだぞ。スーツ着てんだぞ。まっとうな家庭人組織人として社会的信用度が高いんだぞ」という気持ちがまったくないといえば嘘になる。

おおっぴらには言わないけれど、ぼくは自分が人より賢いとおもっているし人より思慮深くて道徳的だとおもっている。
そんな自分の判断がまちがっているわけではないはずだという気持ちがないだろうか。うん、あるな。

こないだベビーカーを押して駅のエレベーターに乗ろうとしたら、あと二人分ぐらいしかスペースがなかった。前にいたおばちゃん(元気そう、大きい荷物も持ってない)がエレベーターに乗りこもうとしたので「おいこらおまえはエスカレーター使えや。ベビーカー優先やろがい」という気持ちが芽生えて、操縦を誤ったふりしてベビーカーでおばちゃんの足を軽く轢いてしまった。「あっ、すみません」と言ったものの内心は「ざまあみさらせ」という気持ちだった。
よくない。ぼくが悪い。おばちゃんも悪いがぼくも悪い。いや、そういう気持ちがよくない。おばちゃんは悪くない。ぼくだけが悪い。


「車のハンドルを握ると性格が変わる」とよくいうが、ぼくの場合、ベビーカーを持つと性格が荒っぽくなってしまう。おらおら、こっちは子連れ様だぞと気持ちが荒ぶる。
ぼくの中では「高級車に乗っている」というのはまったくステータスにならないが(だって車嫌いだもん)、「子どもを連れている」は高いステータスの象徴なのだ。

こないだベビーカーを押して百貨店に行き、エレベーターを待っていた。隣では車椅子に乗った高齢男性も待っている。
やがて「車椅子・ベビーカー優先エレベーター」が到着した。中は若い女性で満員。ベビーカーも車椅子も乗れる余地がない。だが乗っている女性たちは誰ひとり降りる気配がない。
ぼくは言った。「車椅子の人いるんで降りてもらえますか」と。
言われてようやく彼女たちはぞろぞろと降りた。ベビーカーを押したぼくは「ったく。言われる前に降りろよ。車椅子・ベビーカー優先エレベーターなんだから」とおもっていた。

だが少ししてから反省した。言い方がよくなかった。
「降りてください」と言ったこと自体は正しかったとおもっている。「車椅子・ベビーカー優先エレベーター」だったのだから。

だが「車椅子の人いるんで降りてもらえますか」と他人をダシにしたのはよくなかった。ちゃんと「ベビーカー優先エレベーターなので」と言うべきだった。

実るほど頭が下がる稲穂かな。偉そうにならないように気をつけないとね。
ぼくは世界一地位の高い人間だからね(自分の中では)。