2019年9月5日木曜日

【読書感想文】お金がないのは原因じゃない / 久田 恵『ニッポン貧困最前線 ~ケースワーカーと呼ばれる人々~』

ニッポン貧困最前線

ケースワーカーと呼ばれる人々

久田 恵

内容(e-honより)
政府の締めつけとマスコミによる福祉たたきの狭間で、貧困層と直接向き合ってきたケースワーカーたち。福祉事務所で働く彼らの悩み、怒り、喜びを通して、過剰な期待と誤解を受けてきた生活保護制度の実情を明らかにする。未曾有の発展をとげた戦後日本の「見えない貧困」を描き出した衝撃のルポルタージュ。

ケースワーカーとは、自治体で生活保護に関わる業務をおこなう人たち(それ以外の業務もあるらしいが)。
ケースワーカーの仕事内容、抱える問題、とりまく環境などについてまとめたルポルタージュ。

この本で紹介されている時代、場所、ケースなどはさまざま。
 ワーカーには立入り調査票が発行されているが、本人の留守中に勝手に部屋に入っていいわけではない。その日、沢井は新人ワーカーを一人連れて、吉沢のアパートに行き、管理人に言って鍵を開けてもらおうとしたが、合鍵などないと言われた。
 困り果てていると、ドアのガラスの割れているところに広告の紙が貼ってあるのを見つけた。破って覗くとすごいスルメの臭いがして、蠅がぶんぶん飛んでいた。やつめ、また飲んでスルメを出しっ放しにして逃げたな、そう思って腕を差し込んでみるとうまい具合に鍵が開いた。中に入り、なんだこりゃ、と言いながらすさまじい臭いの中で、酒瓶の転がった台所を点検していると、連れて行ったもう一人の新人ワーカーが、隣の部屋を覗いて妙に冷静な声で言った。
「あのう、この方ですか?」
 見るとそこに、すでに腐敗し、真っ黒になって転がって死んでいる吉沢がいた。
 その時、さすがの沢井も、もう駄目だ、と思った。ワーカーを辞めたいと思った。
読んでいておもうのは、つくづくたいへんな仕事だということ。
戦後に生活保護制度ができてから今まで、そしてこれからも、ケースワーカーの仕事がたいへんじゃなかった時代などないんだろう。
ぼくだったら「見るとそこに、すでに腐敗し、真っ黒になって転がって死んでいる吉沢がいた」なんて状況に遭遇したら、もう続けられないとおもう(たぶんそれよりもっと前に辞めてる)。

精神的にハード、業務量も多い、感謝されることはほとんどなくて恨まれたり非難されることのほうがずっと多い、身の危険もある、だからといって給料がいいわけではない。

ケースワーカーをやっている人たちにはただただ頭が下がる。



この本を読むまで、生活保護受給者の問題は「お金がない」ことだとおもっていた。
もちろんお金がないから生活保護を受けるわけだが、問題の根っこはそこではない。

今の日本で「食っていくだけのお金がない」という人には、それなりの原因がある。
病気やケガ、老い、障害、失業のようなわかりやすい原因もある。たいていの人が想像するのはこっち。

でもそれだけじゃない。
「人付き合いができない」「決まった手続きに従って作業をすることができない」「持ってるお金より多くを使わないようにすることができない」「ストレスの原因になる家族がいる」といった、病気未満、障害未満の問題を抱えている人がいる。
それも少なくない数。
たぶん小学校の一クラスに三十人いれば、そのうち何人かは該当するぐらいの。
 ワーカーになって川口がしみじみと実感したのは、この社会には周りと折り合いをつけて上手に生きていくことが、どうしてもできない人たちがいるということだった。
 そういう人にとってこの社会は恐怖と不安に満ちている。一人暮らしのアパートを訪ねてくる新聞の勧誘員や、「世界が滅びる」などと言ってくる宗教の勧誘者に、過剰に反応して恐がったりもする。
 働くどころか、一人で生きていく、それだけで大変なのである。
 また、不運がいくつもいくつも積み重なってついに立ち上がれなくなった人や、本人のあまりに弱い資質のせいで、まっとうに生活できなかったりと、原因はいろいろあるが、ギリギリのところで生きている人は、担当のワーカーに過剰な期待をもっている。
 それが思うようにいかないと、延々とウラミの感情を溜めこむようなところに陥ってしまう。そこにいってしまったらもう説得も納得も不可能になる。ワーカーとの関係も悪くなる。

仕事はふつうにできるけれど、金銭感覚だけが著しく欠如している人がいる。あればあっただけ、あるいはある以上に遣ってしまう。
知能に問題はないのに他人と話をする能力だけが欠如している人がいる。
話しているとふつうなのに書類の記入だけができない人がいる。

「訊かれたことに答える」「お手本通りに書類に記入する」「支出が収入を上回りそうなら倹約する」というのは、ほとんどの人にとっては難なくできることだ。努力でもなんでもない。
だから“ふつうの人”からしたら
「こんなかんたんなこと、どうしてやらないの?」
と言いたくなる。
まさかできないのだとはおもわない。
怠慢、無計画、身勝手といった烙印を押してしまう。

生活保護を受けている多くの人にとって、お金がないことは「結果」であって「原因」ではない。
現代日本では“あたりまえ”とされていることをできないことが原因だ。

だからお金を支給するだけでは解決にならない。

羽が折れたせいでエサがとれない鳥に対して、エサを与えて「次からは自分でエサをとれよ」と言っても何も解決しないのと同じように。

この先、“あたりまえのことができない人”は増えていく一方だとぼくはおもう。
社会が複雑化するにつれて“あたりまえ”のハードルがどんどん上がっていくからだ。



第四部『ケースワークという希望に向けて』では、生活保護制度が時代によってどう変わってきたのかが紹介されている。
どうやってできたのか、世間の反応はどう変わったのか、そしてこの先どうなるのか。

戦後の日本中が貧しかった時代にGHQの指示でつくられた生活保護制度。
当初はほんとに「税金で保護しないと餓死する」レベルの人を対象に、ぎりぎり食つなぐだけの給付をする制度だった。
しかし人々の生活が豊かになるにつれて、生活保護の趣旨も「健康で文化的な最低限度の生活」を守るための制度へと変わってゆく。
同時に性善説を前提にした制度だったために不正受給の温床にもなり、厳しい目も向けられるようになった。

生活保護の不正受給が明らかになればケースワーカーが非難され、生活保護を受けられずに亡くなる人がいればケースワーカーが非難される。
かといってすべての申請に対して厳しくチェックするだけの時間も予算もない。

生活保護という制度は長年使っているうちにずいぶん綻びが出てきたようにおもう。

たとえばこんなケースが紹介されている。
 母親は五十代で、慢性的な病気を抱えていた。以前は多少なりとも働いていたが、今は仕事ができず、現在、低賃金のお風呂のない老朽化した民間アパートで、公立高校に通う娘と二人で保護を受けて暮らしている。
 苦労して育ててきた長男は、無事高校を卒業して就職している。彼もやっぱりワーカーの配慮で自立して、寮生活をしていたが、勤めて二年が経った。申し込めば、家族と一緒に社宅に入居できることになったのである。
「おかあさん、部屋も広くてさ。風呂もあるよ。みんなで一緒に暮らそう」
 彼から勢い込んで言ってきたのである。
 ところが、同居して家族がひとつになれば、彼の給料が世帯の収入として計算されてしまう。山本が、三人世帯として保護の要否判定をすると、彼の収入が保護費を若干上回り、母親と妹の保護が廃止になってしまうという結果が出た。
 そうなれば、十九歳の息子が一家の柱になって自分の給料だけで家族を扶養し、母親と妹を食べさせていくことになるのだ。

泣く泣く、長男は家族との同居をあきらめたそうだ。
おかしな話だ。
同居しようがしまいがこの一家の給与収入は変わらない。だったらいっしょに住んだほうがいい。生活費も抑えられるし、お互いに安心感もあるだろう。
なのに同居すると生活保護が受けられなくなるから、不便な道を選ばざるを得ない。

息子の収入が十分に多いのならわかるが、高卒で二年働いたぐらいであれば給料はしれているだろう。病気の母親と高校生の妹を養うことが困難なのは誰だってわかることだ。
けれど今の制度では同居はできない。

生活が苦しいから保護する、ではなく、保護されるために苦しい生活を送る、になってしまっているのだ。制度の欠陥だろう。


こういう例をいくつも読んでいると、生活保護制度ってもうかなりボロボロなんだなとおもう。そろそろ大きな改革をする時期に近づいてるのかもしれない。


この本にも再三「人々の生活が苦しくなると生活保護に向けられる厳しくなる」と書かれている。
「おれはこんなに苦しいおもいをしながら働いているのに、生活保護を受けているやつらは税金で楽しやがって」という憎悪を抱くのは、年収1000万円の人ではなく年収100万円の人のほうだろう(税金を多く払っているのは前者のほうなんだけどね)。

きっと日本人はこれからどんどん貧しくなるから、生活保護受給者やケースワーカーに対する風当たりはさらに強くなる。

個人的には、もらうことに後ろめたさを感じずにすむ制度がいいとおもう。
たとえばベーシックインカムのような、全員が同額をもらえる制度とか。それだったらもらったお金を娯楽に使おうがパチンコに使おうが「ずるい」とケチをつける人は減るだろう。
人頭税の逆ですべての国民が年齢や能力に関係なくもらえるようになれば、子どもを産む動機にもなるし。
都市から地方への移住も進みそうだし(もらえる額が同じなら物価の安い地方に住むほうが得だから)。

問題は財源だけ。たったそれだけ……。


【関連記事】

【読書感想】紀田 順一郎『東京の下層社会』

自分のちょっと下には厳しい



 その他の読書感想文はこちら


2019年9月4日水曜日

【読書感想文】最高! / トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』

ゼロからトースターを作ってみた結果

トーマス・トウェイツ(著) 村井 理子(訳)

内容(e-honより)
トースターをまったくのゼロから、つまり原材料から作ることは可能なのか?ふと思い立った著者が鉱山で手に入れた鉄鉱石と銅から鉄と銅線を作り、じゃがいものでんぷんからプラスチックを作るべく七転八倒。集めた部品を組み立ててみて初めて実感できたこととは。われわれを取り巻く消費社会をユルく考察した抱腹絶倒のドキュメンタリー!
いやあ、おもしろい!
今年読んだ中でナンバーワンのおもしろさだった。

内容は、タイトルがすべて表している。
トースターをゼロから作る。一からではない。ゼロから。
だから鉱山に行って鉄鉱石を拾い、じゃがいものでんぷんからプラスチックを作ろうとし(これは失敗したけど)、銅の含有量の多い水を電気分解して銅をとりだし、辺境の山でマイカ(雲母)を採取する。

この世紀のプロジェクトに挑むのはイギリスに住むただの大学生。
無謀すぎる。
じっさい、かなり失敗している。ずるもしている(ニッケルはかなりずるい)。
それでも著者は、あの手この手を使いながらトースター(らしきもの)をゼロから作ってしまうのだ。



本を読んでいてこんなにわくわくしたのはひさしぶりだ。
子どものときに『ロビンソン・クルーソー』や『あやうしズッコケ探検隊』を読んだと同じぐらいの興奮を味わった。

たとえば、これは家庭用電子レンジで鉄鉱石から鉄を精製しているところ。


ははははは。どこが「なんかよさげ?」なんだ。
SHARP製電子レンジの断末魔の絶叫が聞こえてくるようだ。

しかしこれで鉄が取りだせたというのだから驚きだ。SHARPの技術者もびっくりだろう。

ちなみに「電子レンジを使うなんてずるいじゃないか!」とおもうかもしれないが、著者ははじめはちゃんと溶鉱炉を作ってるからね。それで失敗してるからね。



こんな調子で次々にトースターのパーツをつくっていく。

工夫と妥協を重ね、ときにはカナダの法律も犯しながら、ついにはトースター(らしきもの)を完成させる(そのトースターでパンが焼けたかどうかは本を読んでたしかめてね)。

この本の表紙に載っている、黄色い汚らしいかたまり。それが手作りトースターだ。
これを作るのになんと15万円かかったそうだ。

こんな代物(といったら失礼だけど)でも作るのに15万円かかるわけで、もしも店で売っているのと同じ性能・デザインのトースターをゼロから作ろうとおもったら100万円じゃきかないだろう。
それが店に行けば1000円もしないぐらいの価格で買える(しかもその中には製造元や販売店の利益も入っている)わけで、なんともふしぎな感覚になる。

我々の生活が、どれだけ多くの科学技術に支えられているか、そしてその恩恵を我々がどれだけ安価で享受しているかを気づかされる。

 ということで僕は、インペリアル・カレッジを飛び出し、さらなるリサーチを行った。そしてついに、科学博物館の科学史図書館で『デ・レ・メタリカ』を探しあてた。
 それはゲオルク・アグリコラによって、16世紀にラテン語で記されたものであり、英語版は、第31代アメリカ合衆国大統領に選出される前のハーバート・クラーク・フーバーと、彼の妻、ルーによって翻訳されている。
 ヨーロッパ史上初の冶金学専門書である『デ・レ・メタリカ』には、その当時知られていた、世界各地の採鉱、および金属の製錬について、年代順に記されていた。この本は、ほぼ500年前に書かれたものにもかかわらず、僕にとっては、現代の教科書よりもずっと役に立った。そのことは、少なからずショッキングなことでもあった。
 というのもそれは、16世紀以降に発展してきたさまざまなメソッドは、僕一人ではまったく使いこなすことができないものであることを意味するからだ。

産業革命以後の技術というのは、ほとんどが大資本や工作機械や電気エネルギーがあることを前提にしたもので、個人が利用するにはまるで役に立たないものなのだ。

もしも地球からあらゆる機械が消えてしまったとすると、我々の暮らしはあっという間に16世紀頃の生活に戻ってしまうのだろう。 いくら21世紀の知識があったとしても、機械を持たない我々にはそれを使いこなすことができないのだから。

科学技術に支えられた暮らしについての認識を改めて考えなおすきっかけになる……とかむずかしいことは考えなくていいから、とにかく読んでみてほしい! ただ単純におもしろいから!

【関連記事】

【読書感想文】 春間 豪太郎『行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』



 その他の読書感想文はこちら


2019年9月3日火曜日

【読書感想文】直球ファンタジー / 三浦 しをん『白いへび眠る島』

白いへび眠る島

三浦 しをん

内容(e-honより)
高校最後の夏、悟史が久しぶりに帰省したのは、今も因習が残る拝島だった。十三年ぶりの大祭をひかえ高揚する空気の中、悟史は大人たちの噂を耳にする。言うのもはばかられる怪物『あれ』が出た、と。不思議な胸のざわめきを覚えながら、悟史は「持念兄弟」とよばれる幼なじみの光市とともに『あれ』の正体を探り始めるが―。十八の夏休み、少年が知るのは本当の自由の意味か―。文庫用書き下ろし掌篇、掲載。

ファンタジーというかホラーというか。青春小説でもある。

生まれ故郷の小島に帰省した高校生の主人公。怪物が出る、といううわさを耳にして不吉な予感をおぼえる……。
という導入。島に伝わる伝説になぞらえた殺人事件でも起こるのかな、とおもいながら読んでいたら、ほんとに怪物が出る。
あっ、そういう話ね。

持念兄弟、神としてまつられる白蛇、うろこを持つ一族、ふしぎなものが見える少年、とけれん味の強い設定がたっぷり。
設定が語られ、徐々に不吉な予感が高まり、怪異現象が島を襲い、主人公が友情に支えられながら島を救う……というストーリー。

なんというか、順当すぎて拍子抜けしてしまった。
いや、悪いわけではなかったんだけど、定番のストーリーを素直に楽しむにはぼくがすれすぎてしまったというか……。
中学生ぐらいで読んでいたらまた楽しめたんだろうけど。

ストーリーにそんなにひねりがないところも含めて、民話っぽい雰囲気はよく出ている。
神話とか民間伝承ってそんなに意外性のあるストーリー展開じゃないもんね。
意外な正体もどんでん返しもない。正義が負けることもないし悪は封じこめられる(滅びるわけではない)。
だからこれはこれでいいのかもしれない。


ところで、離島に起る怪異現象、ということで堀尾省太 『ゴールデンゴールド』という漫画を思いだした。
 『ゴールデンゴールド』も神様の出現により島中がじんわりと破滅に向かっていく話ではあるんだけど、 『ゴールデンゴールド』は神様が直接手を下さずに人間の欲を利用していさかいを起こさせる。
狭い島の住人たちの様々な思惑が衝突しながらじわじわと人間関係が壊されていく。

ぼくにとってはこっちのほうがずっと怖い。


【関連記事】

地に足のついたサイコホラー/堀尾 省太 『ゴールデンゴールド』【漫画感想】



 その他の読書感想文はこちら


2019年9月2日月曜日

女は騒ぎすぎる、男は隠しすぎる


こないだ、娘の友だち(五歳男子)と遊んでいたら、彼がこけて膝から血を出した。
すると彼は目に涙を浮かべ、無言でぐっと痛みをこらえていた。

その姿にぼくは心を打たれた。
なんでいじらしいんだ!



うちの子は女なので、女の子たちといっしょに遊ぶことが多い。
子どもなのでよくこける。ぶつかる。そしてよく泣く。

その泣き方が、ちょっと大げさすぎる。
たしかにこけたのは痛いだろうけど、ちゃんと手をついたし血も出ていない。そこまで痛いか?
「あいててて……」ぐらいで済むレベルじゃない?

完全に言いがかりとしかおもえないときもある。
「〇〇ちゃんに足ふまれたー! いたいー!」と言って五分以上泣きつづけられたりすると、口にこそ出さないが「嘘つけ」と言いたくなる(自分の娘なら口に出す)。

女子の泣き方って大げさすぎやしません?
ちょっとすりむいただけなのに、どてっぱらに銃弾喰らったぐらいの泣き声出すでしょ。
あれは「みんなあたしを見て!」って言ってるだけなんだよね。
「ほらあたしこんなにかわいそうなのよ! みんなしてあたしのご機嫌をとりなさい!」って言ってるんだよね。

ほんと、女の子とサッカー選手は痛がりすぎだ。勘弁してほしい。





じゃあ男子の反応のほうがいいのかというと、男子は男子で別の問題がある。

女子は被害度合いを過大報告するのに対し、男子は過少申告する。

どう見ても大丈夫じゃないときにも「大丈夫、まだ遊べる」と言いはなつ。ケガを隠す。熱があってもしんどくても無理をする。

ぼくもそうだった。
小学生のとき、よくケガをしたことを隠していた。ろくに洗わずに手当もしないから化膿した。傷口がじゅくじゅくになったところで母親に発見され、怒られた。
「どうしてもっと早く言わないの!」

そして「ケガしたことを報告すると怒られる」と誤った学びを得たぼくは、次もまた隠す。化膿する。怒られる……という傷口じゅくじゅくスパイラルに落ちこむのだ。


自分ではおぼえていないが、ぼくは三歳のときに自転車でこけたそうだ。
ぼくがすぐに泣きやんでまた遊びはじめたために、母は大したことないとおもい、放置した。
その晩、ぼくがまったく寝返りを打たず、腕をかばうような動きをしていたため翌日病院に連れていったところ、肘の骨が折れていたそうだ。

骨折していたにもかかわらず、「今遊びたい」という気持ちのほうが痛みを上回ってしまい痛みを隠そうとするのだ。阿呆である。



あくまでぼくの観測範囲の話だが、女子は痛みを大げさに訴えすぎるし、男子は痛みを訴えなさすぎる。


で、大人になってもその傾向は続いているような気がしてならない。

女はちょっとした不具合でも世界の終わりのように大げさに騒ぐし、男は失敗を隠そうとするので失敗が明るみに出たときにはもう取り返しのつかないことになっている……。


2019年8月30日金曜日

今からだとまにあわない! 読書感想文の書き方 ~感想文嫌いの小中学生のために~


やあこんにちは。
君は小学生? それとも中学生かな?

読書感想文の書き方が知りたいんですね。もう大丈夫ですよ。

おっと、ちょっと待った。
今、「なんかこのサイトはあやしいな。他のちゃんとしたとこを見よう」とおもいましたね。

まあそれはそれでまちがいじゃありません。
他のサイトに行くのもいいでしょう。

でも、これだけは言っておきます。
検索結果の上位に出てくるサイトには
「読書感想文を書くにはまず全体の構成を考えましょう」とか
「読書の前と後での心境の変化について表現しましょう」とか、まっとうなことしか書いていません。

君が求めているのはそういうのじゃないよね?
すばらしい読書感想文を書いて全国読書感想文コンクールで入賞しようなんておもってないよね?

ずばり言いましょう、君が知りたいのは「とにかくラクをしてそれなりの読書感想文を書く方法」ですね?
「宿題の締め切りぎりぎりでも間に合う読書感想文の書き方」ですね?

その答えはここにあります。

わかったらもう少しわたしの話に付きあってください。



まずはわたしの話をします。

なに? 時間がない?
まあまあ、そうあわてないでください。
大丈夫ですよ、宿題の提出が遅れたって怒られるのはわたしじゃないんですから。

わたしは読書感想文の専門家です。
なにしろ学生時代は年に一回のハイペースで読書感想文を書いていたんですから。

なに? 年に一回はふつうだって?

そうです。今のは君の読解力をテストしたんです。
「年に一回って多くないし」とおもった君は、今からでもそれなりの読書感想文を書ける能力がある。
おもわなかった君は……うんそうですね、笑顔の練習でもしたほうがいい。笑顔ではきはきと「すみません、宿題忘れました!!!」と言う練習です。
笑顔の相手に対して怒るのは案外むずかしいものです。
全力の笑顔を向けられたら、きっと先生も「おお……そうか……気をつけろよ」ぐらいしか言えないはずです。


何の話でしたっけ。そうだ、自己紹介の続きでしたね。

わたしはごくふつうのサラリーマンです。作家でもなければ書評家でもない。塾の講師でもなければ学校の教師をやった経験もない。
ときどきこうしてひまな時間に、あるいは忙しいはずの時間に趣味のブログを書いているだけのサラリーマンです。

だけど、君にぴったりの読書感想文の書き方を教えることはできる。
なぜか。
それは、わたしが学校の読書感想文とは何の関係もない立場にある人間だからです。

教師や書評家の教える「読書感想文の書き方」は、どれも正しい方法です。
本をしっかりと読みこみ、登場人物の内面や著者の内面にまで思考をめぐらし、己の内面と真摯に向き合い、読書の体験を通して得られた感情の揺れを的確な文字数・文章で表現する。そういった方法です。

私が教える書き方はそうじゃない。
ふだん本を読まない君が、文章を書くことが嫌いな君が、めんどくさがりやの君が、夏休みの宿題をぎりぎりまで溜めこむ君が、あげくにネットで検索して適当にお茶を濁そうとする君が、今も鼻をほじりながらこの文章を読んでいる君が、できるかぎり労力と頭を使わずに書く方法。

これをお伝えします。



読書感想文を書く前に、まず先生の意図について考えてみましょう。
君の学校の先生は、どうして読書感想文なんてめんどくさい宿題を出したんだとおもいますか?

読書の習慣を身につけてほしいから?
気持ちを言語化する練習をしてほしいから?
読書を通して己の内面を深く掘り下げてほしいから?

どれも不正解です。

正解は「先生が何も考えていないから」です。

君は誤解しているかもしれないが、先生は何も考えていません。意図なんてないのです。

他の先生も出しているから。毎年出しているから。
理由はそれだけです。

前例にならうのはいちばん楽な方法です。何も考えなくてすむ。

君がめんどくさいのと同じように、先生もめんどくさいんです。
だから判で押したように読書感想文の宿題を出す。


これはとても大事なことです。
先生もめんどくさい。これをおぼえておいてください。

先生はめんどくさい。
だから君が読書感想文を書いて提出したとしても先生はぜんぜん読まない。だって面倒だから。
ぱらぱらっとめくって、そこそこきれいな文字でそこそこの分量を書いていることが確認できれば、それでよしとする。

とはいえ、まったく読まないわけではありません。
ふだんから国語の成績がよく、大人の喜びそうなことを書いてくれる子の感想文だけはそこそこ時間をかけて読みます。
そして、その中でいちばんマシなものを選んで読書感想文全国コンクールに応募するんです。

つまり。
宿題が出された時点でもう勝負はついているんです。
君たちのような夏休みの終わりになってあわててネットで「読書感想文 書き方」で検索するようなタイプは、読書感想文コンクールのスタートラインにすら立っていないのです。

悔しいですか?

悔しくない? そうでしょう。
ここで悔しさを感じて発奮するような子であれば、ふだんからちゃんと勉強しています。
読書感想文の感想を探してネット検索して、そのついでにネットサーフィンをしたりしません。


君たちが書いた読書感想文は、誰も読まない。

どうですか、気持ちが楽になったでしょう。
どんなに一生懸命書いたって、どうせ誰も読まない。
だったら一生懸命書く必要はない。
一生懸命本を読んだり、しっかりと構成を考えたりする必要もない。

自由に書いてかまわないんです。



とはいえ「自由に書く」のがいちばんむずかしい。
それができる子なら、一ヶ月も前に読書感想文を書き終わっていることでしょう。

だから具体的な書き方を教えます。

まず本を読む。
一冊全部読む。

全部読むのが嫌なら最後の一章だけ読む。なぜなら最後には重要なシーンがあることが多いから。

一部だけ読むのも嫌ならまったく読まなくていい。
表紙や裏表紙を観察する。
どんな絵が描いてあるか、どんなあらすじが書いてあるか、帯にはどんなことが書いてあるか。

で、気に入らない点を探す。
どんな些細なことでもいい。どんな身勝手な理由でもいい。
気に入らないことを探す。

「台詞がキザ」
「説教くさい」
「難しい漢字を使いすぎてて偉そう」
「表紙の絵がさわやかすぎてかえって鼻につく」
「値段が高い」

いくつも見つかりましたね。
そうなんです、他人がやったことにケチをつけるのはかんたんなんです。

現実味のある話であれば「平凡。よくある話」と言えばいいし、
非現実的な話であれば「リアリティに欠ける」と言えばいい。

どんなものにでもケチはつけられます。特別な知識も技能もいりません。
「この歌手、歌へただよな」と言っている人のうち、その歌手より上手にうたえる人がどれぐらいいるでしょうか。ほとんどいないはずです。
でもそれでいいんです。批判はタダですから。

逆に、褒めるのはむずかしい。

ひさしぶりに会った親戚のおばちゃんから「あら~、かっこよくなったわね~」と言われたことがありますね?
かっこよくなったと言われて、君はうれしかったですか?
べつにうれしくないですよね。おばちゃんの褒め方が適当だから。
誰にでもあてはまることをうわっつらだけで言っていることがまるわかりですから。

夏休み明けにひさしぶりに会ったクラスの女子が
「あっ、〇〇くん……。ひさしぶり……。あの、なんていうか……かっこよくなったね……」
と頬を赤らめながら言ってくれたらうれしいですけど、それは発言者・状況・言い方すべてが適切だからです。
誰にでもできることではありません。

でも「おまえきもいな」という言葉を言われたら、どんな発言者でも、どんな状況でも、どんな言い方でも不愉快です。
褒め言葉はなかなか届きませんが、悪口はかんたんに相手に届きます。

悪口のほうが称賛よりもずっとかんたんなんです。


読書感想文を書くのがむずかしいのは、本のいいところを書こうとするからです。
おもしろかったところ、胸を打ったシーン、心に染みるフレーズ、人生の指針となるメッセージ。
そんな「いいところ」をさがして、かつ第三者に的確に伝えるのはすごくむずかしい。
本を全部読んで、書かれていることを正しく理解して、裏に隠れた作者のメッセージ(そんなものがほんとうにあるのかわかりませんが)まで汲みとって、気持ちを整理して、客観的な言葉にして書く必要があります。

けれど「気に入らないところ」ならかんたん。
むずかしい文章、読めない漢字、冗長なシーン、不自然な会話、退屈な結末、不当に高い価格、変に気取ったポーズの著者近影、著者のいけすかない学歴……。

読書が好きじゃない君にも、いや、読書が好きじゃない君だからこそかんたんに気に入らないところを見つけることができるはずです。
あとはそれを原稿用紙に書くだけ。

書き方も自由。
全体の構成なんて気にする必要もありません。どうせ誰も読まないんですから。

おもいついたままに
「〇〇が嫌でした。□□が気に入りませんでした。××がなければもっといいのにとおもいました。△△なところが肌に合いませんでした」
と書けばいいのです。
嫌いな理由もいりません。
「批評」であればどこがどう悪いのかを的確に示す必要がありますが、君たちが書くのは「感想文」です。イヤだからイヤ、これで十分なのです

ただひたすら悪口を書く。
ふだんからインターネットで悪口になれしたしんでいる君にとっては造作もないことでしょう。
そして最後に
「以上のように欠点もあったが、さまざまな感情を喚起してくれるという点では刺激的な本だった。この本に出会えたことを感謝したい。」
と一文つけくわえておけば完成です。

最後の一文はべつになくてもいいのですが、これは自分に対する免罪符のようなものです。
悪口だけで終わってしまうと、「おれってなんて嫌なやつなんだ」と自己嫌悪につながってしまうかもしれません。
最後にとってつけたような感謝の一文を入れて「いろいろイヤなこともいったけど、これは愛情の裏返しなんだよ」と自分に嘘をつくことで、自己嫌悪に陥らずに済むのです。



以上が、読書感想文嫌いの小中学生のための感想文の書き方です。

では最後までお付き合いいただいたみなさん、どうせ今から書いてもまにあわないとおもいますので、笑顔ではきはきと「すみません、宿題忘れました!!!」と言う練習、がんばってください!