2019年7月16日火曜日

【読書感想文】ミニオンアイスみたいなことをやられても / 湊 かなえ『少女』

少女

湊 かなえ

内容(e-honより)
親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を、ある種の自慢のように感じた由紀は、自分なら死体ではなく、人が死ぬ瞬間を見てみたいと思った。自殺を考えたことのある敦子は、死体を見たら、死を悟ることができ、強い自分になれるのではないかと考える。ふたりとも相手には告げずに、それぞれ老人ホームと小児科病棟へボランティアに行く―死の瞬間に立ち合うために。高校2年の少女たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー。

ううむ。
よくできている。が、よくできているがゆえにおもしろくない。
とにかく偶然がすぎる。
「たまたま〇〇が□□の親だった」「あのときの××がなんと△△につながっていた」みたいなのがひたすら続く。
天文学的確率の20乗。いくら宇宙が広いからってこれはやりすぎ。


リアリティのない小説が嫌いなわけじゃない。
「ありえねーよ!」って設定も、それはそれでいい。

ただ。
ありえない展開の小説にするには、それなりのテイストが必要なわけ。

『ホーム・アローン』はコメディだからおもしろいわけじゃん。ケヴィン少年の策略がことごとくうまくいくのはご都合主義だけど、それも含めて楽しいわけじゃん。コメディだから。
でもサスペンス映画のラストで、主人公が敵を撃退するために『ホーム・アローン』みたいな仕掛けをやったら興醒めするよね。

べつのたとえをするとさ。
サーティワンアイスクリームに「“ミニオン” フラッフィワールド」って味があるのね。
映画のミニオンとコラボした商品で、公式サイトによると「ストロベリー風味、マシュマロ風味、コットンキャンディが織りなすフワかわいい美味しさ!」って書いてある。

“ミニオン” フラッフィワールド

まあばかみたいなアイスクリームだよね。
でもアイスクリームだからこれでいいわけじゃん。
だってみんながサーティワンアイスクリームに求めるのは「楽しさ」「おもしろさ」「はじけとんだ感じ」であって、「素材にこだわったおいしさ」とか「プロの料理人の熟練した技術」とか「栄養」とかじゃないから。
だからミニオンのハチャメチャな味でもぜんぜんオッケー。

でも老舗の天ぷら屋が「“ミニオン” フラッフィワールド味はじめました!」ってやったらげんなりするでしょ。いや天ぷら屋にそういうの求めてないから、ってなるじゃん。


そういうことなんだよね。
だから『少女』もかる~いタッチで書いてくれたらおもしろかったはず。よくできてるなーって素直に感心できたとおもう。
映画『キサラギ』なんかやはり死を扱った作品だったけど、とことんポップに描いていたから、ストーリーのありえなさも含めて楽しめた。

かといって湊かなえさんがポップで底抜けに明るい小説を書いたら、それはそれでなんかイヤだな……。


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2019年7月12日金曜日

男らしさ、女らしさ


娘の中で「おかあさんは家事をする人。おとうさんは遊ぶ人」という意識ができているようだ。

おとうさん(ぼく)としては、べつに亭主関白を気どっているわけではない。
共働きなのでぼくも家事をやる。少しは。
でも、
  • 妻は神経質でぼくの料理や掃除のやりかたが気にいらないことが多い
  • 下の子の妊娠・出産・授乳などで妻が家にいないといけないことが多かった
  • 妻の職場は時短勤務が認められているので、妻のほうが早く帰ってくる
  • ぼくは自分の子にかぎらず子どもと遊ぶのが好き。妻はあまり好きではない
といった理由から、自然と「休みの日はおとうさんといっしょに遊んだり買い物に行ったり。その間におかあさんが料理や洗濯をする」という役割分担になった。



あるとき、ぼくが洗い物をしていると、娘が「おとうさん、あそぼ」と言ってきた。
「洗い物してるから終わるまで待ってね」というと、娘はこういった。
「洗い物なんかおかあさんにさせたらいいやん」

ひ、ひどい。
令和の時代を背負って立つ女の子だというのに、昭和の横暴亭主みたいな価値観に染まっている……。

「おかあさんもお仕事に行ってるんだよ」
「おとうさんも料理できるよ」
「こどもを産んだりおっぱいをあげたりはおかあさんしかできないけど、ほかのことはだいたい男でも女でもできるよ」
と、ことあるごとに男女平等思想を持ってもらおうと教育しているつもりだったのに。



これからの時代を生きる人間として、「男は外で仕事。女は家で家事育児」という価値観を持ってもらいたくない。
妻も同じ考えだし、周りのおとうさんおかあさんも同じ考えの人が多いとおもう(保育園の友だちの家は当然ながらみんな共働き世帯だ)。

でも、親がそういう意識を持っていても、子どもは自然と「男らしさ、女らしさ」を学習してしまう。

絵本ではおかあさんが家事育児をしていることが多いし、幼児雑誌にも「ママといっしょにやってみよう」とか書いてあったりする。

四~五歳ぐらいから娘も「ピンクや赤は女の子の色、男は青とか緑とか」なんてことを言うようになった。親は教えていないのに。
「男らしさ」「女らしさ」に敏感になる年頃なのだろう。


だからって、べつにジェンダーの押しつけは許さん!と憤るつもりはない。
「男女はどんなときでも平等であらねばならない!」って世の中になったらそれはそれで「男は外で稼いでこい、女は家で子どもを守れ!」って世の中と同じぐらい息苦しいし。

ただ、令和の時代になっても子どもたちは「女らしさ、男らしさ、母性、父性」的な価値観をいったん身につけてから、学習によってジェンダーフリーを習得していかなくてはならないんだなあ。

ぼくらの時代はそうやって一度習得した価値観を後から修正する必要があったけど(修正できていない人も多いけど)、そのへんのわずらわしさは今の時代もあんまり変わらないのかもしれないな。


2019年7月11日木曜日

政治家を増やそう


政治家の定員を削減しろっていう人が多いけど、ぼくはむしろ、定員をおもいっきり増やしたらいいとおもう。たとえば10倍に。


議員の数は10倍、議員報酬は10分の1、責任も10分の1。町内会の会長ぐらいの感覚だ。
議会には基本的に出席しなくていい。月に1回ぐらいでいい。
議会は基本的にチャットでおこなう。採決もオンラインで。

それぐらいならやってもいい人は多いんじゃないだろうか。
ぼくも副業としてやってやってもいい(えらそう)。

地方議員の報酬は、少ないとこだと年に120万円くらい、多いとこだと1000万以上だそうだ(ばらつきすげえな)。
10分の1にしたら年12~100万円。副業としては十分魅力的だ。でも専業で食っていくには厳しい。
だから政治家は年金受給者以外みんな兼業になる。それでいい。経営者なら経営者、保育士なら保育士、工員なら工員、主婦なら主婦の考えをそのまま政治に反映させられる。無職の人がとりあえずのつなぎとして地方議員になってもいい。就職してもそのまま続けられるし。

今だとまず仕事を続けながら議員にはなれないから、選挙に出馬するのは年寄りと強固な地盤を持つ人ばかりだ。
兼業でやれるなら、いろんな立場の人間が議員になれる。
仕事をしている人、お金のない人、健康に問題がある人、育児中の人、介護中の人。いろんな事情で出馬をあきらめなければならなかった人が参政できる。
すばらしいことだ。



選挙のやりかたも変わる。

選挙に金をかける必要がなくなる。当選者が10倍になるわけだから、当落ボーダーラインが今よりもずっと下がる。
幅広い層にアピールする必要がなくなるのだから、選挙カーで名前を連呼して薄く広くアピールするよりも確実に入れてくれる強い支持者を育てるほうが重要になる。

そもそも金をかけられなくなる。
当選したって報酬は今までの10分の1。政治家ひとりあたりの権力も10分の1。
政治家の持つ金銭的なパワーは今よりずっと小さくなる。

議員数増加にともない供託金制度は撤廃でいこう。

当落ラインが下がれば自分の一票が当落を分ける可能性も高くなるし、定員が増えれば「知人」や「知人の知人」が出馬することも増える。
「1万人の代表」よりも「千人の代表」のほうがずっと身近に感じられるはずだ。陳情もしやすい。

関心が高くなれば投票率も上がるだろう。



「議員数削減しろ!」と声高にとなえる声は多いが、そんなことをしたらひとりあたりの権力が増してますます市民の声が政治に反映されなくなるだけだ。
国会が金持ちの世襲議員だらけになることを望んでいるんだろうか?

だから人口が減少している今こそ、議員数はどんどん増やすべきだとぼくはおもう。

まさか、自分の権力や報酬が減らされるからって反対する了見の狭い政治家の先生方はいないでしょ?


2019年7月10日水曜日

塾に行かせない理由


まがりなりにも人の親をやっている。
上の子は来年小学生。早いものだ。

保護者同士で話していると、小学校受験だ塾だといった話題も耳にする。
受験対策の塾に行っている子(月謝が五万円以上もするという。ひええ)、公文に通っている子、英語を習っている子。
みんないろんな教育を受けている。まだ小学校入学前なのに。

一方、うちの娘がしている習い事はプールとピアノ。勉強系はやらせていない。
他のお父さんお母さんから「受験させないんですか?」「いっしょの塾に行かせませんか?」と言われて「いやーうちはいいですわー」とへらへら答える。

しかし心の中ではこうおもっている。
「なんも考えてないわけじゃない。娘のためをおもった結果、塾に行かせないんです!」



塾に行かせていないのは、ぼくなりにいろんな本を読んだ(個人的な体験に基づく自称教育書ではなくデータに基づく本ね)結果、今の時期に塾に行かせて勉強させるのはデメリットのほうが多いと考えたからだ。

いくつかの本を読んで得た知見は、
  • 知能は遺伝によって大部分が決まる。
  • 幼少期の知性は教育によって大きく変わる。しかし思春期になると先天的な要因のほうがずっと大きくなる(つまり幼少期に与えた教育の効果は長続きしない)
  • 親が直接的に子に及ぼす影響はわずか。しかし親以外の環境の影響は受ける。
ということだ。

遺伝は今さらどうにもならないことなので、ここをあれこれ悩んでも仕方がない。
「ぼくと妻の子なんだから賢いはず!」と無根拠に信じこむしかない。

「親が勉強させる」はすぐ通用しなくなると知った。
幼少期は言われるがままにやってくれるかもしれないが、成長するにしたがって親の言いなりにならなくなる(もし親の言いなりで動く人間のままだとしたら勉強ができない以上にヤバい)。

だから、ぼくが子どもに対して求めるものはただひとつ。

「自発的に学習する人間になってほしい」

これが大目標。
自発的に学習する人間になれば、どんな学校に行っても、どんな仕事についても、どんな環境におかれてもそれなりにうまくやっていける。
「勉強ができる」はその結果であって、目的ではない




「自発的に学習する人間になってほしい」
この目標を達成するために必要なものは、ぼくの考えでは大きく三つ。

読解力」「論理的思考力」そして「知的好奇心」だ。

読解力

読解力はすべての基本だ。
情報の伝達は文字を通しておこなわれるのが基本。少なくともあと百年は変わらないだろう。本の役割は小さくなるかもしれないが、文字はまだまだなくならない。
「人から教えてもらう学習」には限界がある。能動的に学ぶためには読解力は必要不可欠だ。

論理的思考力

たとえば「AならばBは自明である。だからといってBならばAとはいえない」。こんなレベルの論理でも、わかっていない人は世の中には存外多い。
どれだけ文字を読んでも、論理的にものを考えられなければどうしようもない。

知的好奇心

勉強が苦行だとおもっている人のなんと多いことか。
何度も書いているが、勉強は本来たのしいものだとぼくは信じている。
わからなかったことがわかるようになる、こんなにおもしろいことはない。全人類に共通する悦びだ。
でも世にはびこる「勉強は苦しくてつらいもの」という言説のせいで嫌いになってしまう人は多い。
娘には、学ぶことを好きになってほしいと常々おもっている。


大目標達成のためにやっていること

まず読書。
月に一回ぐらいは本屋に行って、本を何冊か買ってあげる。
隔週で図書館に行って十数冊の児童書を借りる。
で、毎晩寝る前に読んであげる。それ以外でも読んでくれと頼まれたらなるべく読んであげる。
ぼく自身もよく本を読んでいるので、娘も本を好きになった(親が読まないのに子が読むわけがない)。
ひとりで本を読んでいることもよくある。

それからパズル。
ぼくは子どものころ、ずっとペンシルパズルをやっていた。クロスワードとか数独とか、ああいうやつね。『ニコリ』という雑誌を定期購読していた。『ニコリ』は日本唯一といっていいパズル総合誌だ。
ありがたいことにニコリには子ども向けコースがある(こどもニコリ)。
これを申しこんだ。娘は楽しくやっている。

他に、どうぶつしょうぎ、トランプ、バックギャモンなど、テーブルゲームをよくやっている。論理的思考力が鍛えられそうだし、なにより、いっしょに遊んでいるぼくが楽しいから。


なにより大事なことだが、読書もパズルもゲームも強制しない。
「本読む?」「パズルしない?」と誘うことはあるが、断られたら引き下がる。
買う本、借りる本は娘に決めさせる。「これおもしろそうじゃない?」と提案はするが、娘が「やめとく」といったらそれ以上は勧めない。
ぼくが「つまんなさそう」とおもっても、娘が読みたいといった本は買ってあげる。

他人に何かを嫌いにさせるのはかんたんだ。強制すればいい。
「毎日ゲームを二時間以上やること。どんなに忙しくても気が乗らなくても途中でやめてはいけない」というルールを決められたら、ゲームを見るのもイヤになるだろう。

だから、学ぶことを娘に対して決して強制しない。
「パズルしてもいいよ」とは言うが「パズルしなきゃダメ」とは言わない。

おもえば、ぼくの両親もそうしてくれていた。
母はぼくの手の届くところにいろんな本を置いていたし、父は「おもしろそうだったから」といってパズルやクイズの本を買ってきてくれた(『ニコリ』ともそうやって出会った)。
だが読書やパズルを強制されたことはない。
おかげでぼくは読書とパズルが好きになり、ついでに勉強も好きになった。
幼少期から塾に通わされていたら、勉強を好きにはなっていたかどうか。

ひとくちに塾といってもいろんな方針の塾があるのは知っている。
決して押しつけないやりかたをとっているところもあるだろう。

でも、その考えがすべての講師に徹底されているかどうか。
まじめな講師ほど「月謝をもらっているんだからちゃんとやらせないと!」とおもってしまうのではないだろうか。

それに、娘が「今日は塾に行きたくない」と言いだしたとき。
「じゃあ行かなくていいよ」とぼくが言えるかどうか。
月謝が月に五万円、ということは一回一万円以上、行かなかったらそれが無駄になる……。とそろばんをはじいてしまわないだろうか。
とても自信がない。



今のところ、娘は学ぶことが好きだ。
「本読みたい」「パズルやってもいい?」と言ってくる。図書館に行くのも本屋に行くのも好きだ。そしてなにより、新しい場所にいくこと、やったことのないものが大好きだ。

どうかこのまま勉強を好きでいてほしい、そのために全力でサポートしてやりたい。
それが「娘を塾に通わせない理由」だ。


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2019年7月9日火曜日

【読書感想文】ビミョーな間柄の親戚 / 新津 きよみ『孤独症の女』

孤独症の女

新津 きよみ

内容(e-honより)
甥の翔が生まれたとき、目元が由希によく似ていると言われた。似ていたのは顔だけでなく、幼い翔は絵の才能があった。画家になることが夢だった由希は、その夢を託すように彼に絵の指導を始めた。いつしかその思いは過剰なものとなるが、成長する翔の時間は他のものに奪われていく。焦燥を隠しきれない由希は―(「愛甥」)。全七篇、様々な家族のカタチを描く珠玉の作品集。

姑、異母兄弟、義理の兄、兄嫁、別居中の夫など「ビミョーな間柄の親戚」との関係を描いた短篇七篇を収録。


ぼくもいい歳になったし結婚したことで「ビミョーな間柄の親戚」が増えた。
義父母、義妹、義妹の夫、義兄、義兄のおとうさん、義兄のおとうさんが再婚した相手(つまり義兄の義母)、いとこの夫、いとこの子(従甥(じゅうせい)/従姪(じゅうてつ)っていうんだって。なんか怖い響きだよね)……。

配偶者は自分で選ぶけど、その親戚までは選んで親戚になったわけじゃない。妻の妹の夫、なんてほぼ他人だ。
だけど親戚の集まりや法事などで顔を合わせる機会はけっこうある。むげにもできない。
けれど年齢も職業もぜんぜんちがうし共通の趣味もない。
ちょっとした話はしなければならないが共通の話題もない。「お正月休みはいつまで?」とか「お子さん大きくなりましたよねえ」「いやまだまだわがままな子どもですよ」とか毒にも薬にもならぬ話題でなんとかやりくりをする。大人ってたいへんだ。

幸いうちの親戚はみんな常識人だし(たぶん)、そもそもお互いそんなに濃密な付き合いをしないようにしているので「間が持たなくて気づまり」ぐらいで済んでいるが、「金に困っている親戚」とか「良からぬことを生業にしている親戚」とか「やたらとなれなれしくしてくる親戚」とかがいると、苦労もそんなもんでは済まないだろう。

誰しも「この人と結婚していいだろうか」と悩むだろうが、ぼくに言わせれば結婚がうまくいくかどうかなんて運でしかないとおもう。
結婚してから豹変する人は(たいていの場合悪くなる)いくらでもいるし、それを事前に見抜くのはほぼ不可能だろう。
結婚相手ですらわからないのだから、結婚相手の親戚がマトモな人かどうかなんてわかるわけがない。完全に博打だ。

無作為に選んだような相手と、家族同然の付き合いをしたりお金の交渉をしたりしなければならないわけだから、当然そこにはサスペンスやホラーのドラマが生まれる。
小説としていい題材だとおもう。




中でもいちばんおもしろかったのは『愛甥』。

顔も才能も自分に似た甥に対して、果たせなかった夢を投影する独身の伯母。甥に期待するあまり両親の教育方針に疑問を持ち……。

正直早い段階でオチは読めたが、それでもよくできた小説だとおもう。
叶えられなかった過去の夢を投影する先として、甥という存在はすごく絶妙だ。

ぼくにも姪と甥がいるが、すごくかわいい。
自分の子に感じるのとはまたちがった愛おしさがある。

姪や甥に対しては、ただかわいがるだけでいい。将来をおもって厳しく叱ったりしなくていい。たまに会うだけなので好きなだけかわいがってやればいい。会うたびにお年玉やプレゼントをあげて、いっしょに遊んでやる。甥姪がおかあさんに怒られていたらなぐさめてやる。多少のわがままも笑って許してやる。
甘やかすので、向こうもこちらになついてくる。なおのことかわいい。

甥や姪は遺伝子的にはけっこう近い。四分の一は自分と同じ遺伝子を持っている計算になる。孫と同じだ。
働きバチは子どもを産むことができないが、妹のために働く。妹や姪が出産することで自分の遺伝子を残すことができるからだ。
甥や姪がかわいいのは、遺伝子を残す上でもあたりまえのことだ。

わが子であればふだんから見ている分、欠点も見える。
けれどたまに会う甥や姪はいいところしか見えない。ぼくが彼らに「優しいおじさん」の顔しか見せないのと同じで。
だから余計に期待を抱いてしまうのかもしれない。


遠くから応援する程度であれば過度な期待に害はないかもしれないが、なまじっか距離が近ければその期待は甥姪を苦しめる刃になるかもしれない。

「おじ/おば」と「甥/姪」の関係って、家族であり他人であり上下関係であり横の関係であり、じつは愛憎紙一重な間柄かもしれない。


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