2019年5月10日金曜日

【読書感想文】主婦版サラリーマン小説 / 加納 朋子『七人の敵がいる』

七人の敵がいる

加納 朋子

内容(e-honより)
編集者としてバリバリ仕事をこなす山田陽子。一人息子の陽介が小学校に入学し、少しは手が離れて楽になるかと思ったら―とんでもない!PTA、学童保育所父母会、自治会役員…次々と降りかかる「お勤め」に振り回される毎日が始まった。小学生の親になるって、こんなに大変だったの!?笑って泣けて、元気が湧いてくる。ワーキングマザーの奮闘を描く、痛快子育てエンターテインメント。

PTA役員、学童保育の父母会役員、自治会役員……。
こういうの自分とは無縁とおもっていたけど、そうも言っていられなくなった。

一昨年、長女の保育園の役員をした。
去年と今年は住んでいるマンションの住民会の役員をしている。
来年、娘は小学生。学童保育にも入れるつもりなので、そこでも諸々の役員業務がついてまわるだろう(個人的にはPTAは入会拒否したいのだが妻は「子どもの立場があるから……」と及び腰だ)。次女も保育園に行くから、そこでも役員はまわってくる。
うちは共働きだが、保育園や学童保育に通わせている家庭なんてみんな共働きなのでそんなことは言い訳にならない。なにしろシングルマザーとか三つ子とかもっとたいへんな家庭も役員をやっているのだ。


しかしなあ。
役員会というのに出席したことあるけど、ほんとに効率悪いんだよなあ。
マニュアルがなくて口頭の伝達、前年の反省がまったく活かされない、役員自身が何をやるのかわかっていない……。
「波風を立てたくない」「なんとか今年さえ乗り切ればあとはどうでもいい」という事なかれ主義が蔓延していて、誰も改善とか効率化とかをしようとしない。そして令和時代になっても旧弊が代々受け継がれてゆく……。
まあぼくも旧弊を翌年にバトンタッチしている人間のひとりなのでえらそうなことは言えないけど……。

だって効率化したって自分には何の得もないもん。マニュアル作ったり改革を手がけたりしたって、翌年以降が楽になるかもしれないけど自分は苦労するだけだもん。

ねえ。ほんとなんとかならんのか。
お金で解決できるんじゃないの。
保育園の役員なんて、いっそ仕事にしたらいいのに。近所の年寄りにパートタイムで働いてもらって。
土曜日や平日の昼間をつぶされるぐらいだったらいくらか払うし。


ぼくは「そんなに親しくない人に嫌われてもかまわない」という人間なので、PTA脱退とか「役員やりたくありません」と断るとかもぜんぜん辞さない覚悟だけど、「そのせいで娘が居心地悪くなるかも……」とおもうとやっぱり気が引ける。
できるだけ穏便に、少々の面倒なら引き受けてでも波風を立てず……とおもってしまう。

『七人の敵がいる』には「子どもを人質にとられている」という表現が出てくるけど、これは言い得て妙。
子どもの立場を考えると言いたいことも言えず……って人が多いから悪習がいつまでも続いてしまうんだろうな。

(自分以外の誰かが)なんとかしてくれ、とおもっているだけじゃいつまでたっても変わらない。
自分の子が小学校に入ったときは(あまり敵をつくりすぎない範囲で)戦うぞ、とこの小説を読んで弱く決心した。



幼い子を持つぼくにとってこの題材はすごくおもしろかったけど、小説としてはちょっとものたりない。

勧善懲悪的なスカッとするストーリー、主人公を筆頭にわかりやすく直情的な登場人物、はじめは嫌なやつと思っていた人も腹を割って話してみればみんないい人……と朝ドラを観ているよう。
月曜日に問題が発生しても土曜日には解決してる、みたいな(朝ドラってそんなイメージ。あんまり観たことないけど)。
人物に深みがないし、そんなうまくいくかよと言いたくなることばかり。

これはあれだな。
主婦版のサラリーマン小説だな。『PTA役員・島耕作』だ。

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2019年5月9日木曜日

マンション住民会における老人のふるまい

マンションの住民会というのに出席した。

役員紹介、昨年度の住民会の取り組みの報告、昨年度の収支報告。
一切波風の立たない退屈な進行。
ぼくは、もらった資料の余白に「ごんべんの漢字」を思いつくだけ書いて時間をつぶしていた。

問題が起こったのは、今年度の予算報告のときだ。
会計担当のじいさんが予算報告をすると、窓際に座っていたじいさんが異議を申し立てた。

親睦費に対してお金を使いすぎじゃないかという内容だ。

「毎年この金額でやっておりますので……」と会計じいさんが答えると、窓際じいさんが「毎年予算オーバーしてるんだから見直すべきでしょう」とつっこむ。

「ではこの点については検討します」と会計じいさんが逃げようとすると、窓際じいさんが「それを検討するのがこの場でしょう」と追い詰める。

なかなかスリリングな攻防だ。
他の出席者も「予算見直したほうがいいんじゃないでしょうか」などと言い、窓際じいさんが優勢だ。

ぼくはにやにやしながら眺めている。
親睦日の内訳を見ると「親睦旅行等」と書いてある。
要するに住民会の役員を中心とする老人たちが会費で旅行に行ってるんだろう。
あまり感心したことではないが、みんなやりたがらない役員をやってくれているのだからそれぐらいの役得があってもいいんじゃないか、ともおもう。
つまり「どっちでもいい」。

しかしジジイ同士の口論はなかなか見られるものではない。
こっそり机の下でスマホを取りだし、家にいる妻に「やべー。めっちゃ紛糾しとる」とLINEを送った。笑顔の絵文字入りで。

十分ほどの闘いは、窓際じいさんの勝利に終わった。
会計じいさんは来年度予算を修正することに合意し、後日訂正した資料を配布することを約束させられた。

だが窓際じいさんは満足しなかった。
再び手を挙げて「祭事費用についてなんですが、これについても予算をオーバーしておりますが……」と言いだした。

うへえ。
会計じいさんはもちろん、その場にいた全員が「もういいぜ」という気分になった。
さっきまでは窓際じいさんの見方についていたのに「まだやんのかよ」「ちょっとぐらいの超過はいいだろ」という空気になった。
露骨にためいきをついたり時計を見たりする人もいるが、窓際じいさんは気にも留めない。
やべえ、会計のごまかしを見抜くスーパー監査じいさんかとおもっていたら、単にケチをつけたいだけのクレーマーじいさんだった。



住民会の間、もうひとつ気になったことがある。

ばあさんたちがずっとおしゃべりをしているのだ。

びっくりした。
住民会がはじまるまでの間しゃべっていて、会長のじいさんが「ただいまより住民会をはじめます」と宣言している間もずっとしゃべっていて、活動報告や収支報告をしている間もずっとしゃべっている。
しかも一切ボリュームを落とさず。

「人が前に出てしゃべっているから静かにしよう」という意識が微塵もない。
一度しゃべりだしたら止まれないのかとおもうぐらいしゃべりつづけている。

ごんべんの漢字をおもいつくかぎり書いていたぼくですら、「人が前に出てしゃべっている間は静かにする」という最低限のルールは守っていた。
五歳の娘を連れていったのだが、五歳児ですら静かにえほんを読んでいた。ぼくに話しかけるときは声をひそめていた。
保育園児ですらできることなのに、このババアたちには「人が前に出てしゃべっている間は静かにする」ができないのだ。

呆れるのをとおりこして感心した。
すげえな。
このばあさんたち、義務教育受けてないのか? 人が話している間は静かにしようって尋常小学校で教わらなかった? それとも寺子屋?

加齢とともに体力と常識が落ちたのか、耳が遠いのか、声のボリューム調整機能がぶっこわれたのか、それともそのすべてなのかしらないけど、とにかくすげえな。


で、前に立って報告しているじいさんのほうもおかまいなしなのね。
自分が報告している間、ずっとボリューム大でババアが鳴っているのに、いっこうに気にしないの。
怒鳴るまではしなくても、にらみつけるとか静まるのを待つとか一切なく、ずっと話している。

加齢ってすごいな。何も気にならなくなるのかな。



そういえば、母が昔町内会の役員をやっていたのだが
「町内会のじいさまたちはなかなかのものよ」
と語っていた。

なんでも、町内会長などをやりたがるじいさんたちは権威欲も強いので、まず人の話を聞かないし、すぐにじいさん同士でぶつかるそうだ。

そして口論になると、最終的には
「私は〇〇社の経理部長をやっていたからわかるんだが……」とか
「〇〇さんは高卒だから」
とか言いだすのだという。七十歳を過ぎたじいさんたちが。

ひゃあ、それは相当な地獄絵図だなあ。


近くにいないと「お年寄りを大切に」なんて言えるけど、いざ関わってみるととてもそういう気分にはなれないなあ。


2019年5月8日水曜日

【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』

原発 決めるのは誰か

吉岡 斉  寿楽 浩太  宮台 真司  杉田 敦

内容(e-honより)
「脱原発」を求める多数の声があるのに、政策の決定過程には反映されず、福島原発事故以前の原子力政策への回帰が進められている。政策を実際に決めているのは誰であり、本来は誰であるべきなのか。専門知識が求められる問題に、私たちはどう関わっていけるのか。科学技術政策を専門とする2氏の報告と、社会学者・政治学者を加えた4氏の討論を収載。

原発稼働に関する議論を見ていると、うんざりする。
稼働賛成派は「政府、電力会社が安全だと言っているから」「原発を止めて電気が止まっていいのか」と主張し、反対派は「リスクがあるから」「原発はとにかく危険」と主張する。

傍から見ていると「どっちも感情的になっているだけで永遠にわかりあえる日はこないだろうな」としかおもえない。

「健康・環境面からの意見」VS「(短期的)経済的な意見」というまったく異なる土俵で闘ってたって、そりゃあわかりあえないだろう。

原発という金のなる木を守ろうとする人の「大丈夫だ」も、リスクがどの程度なのかを調べようともしない人の「危険だ」も、どっちももう聞きたくない。

落ちついた、両論併記の議論をぼくは読みたいんだ!



ということで『原発 決めるのは誰か』を読む。

原発の構造とか安全性とか事故があったときの影響などにはほとんど触れられていない。
テーマは、タイトルの通り「決めるのは誰か」だ。

民衆による多数決で正しい判断が下せるのか、少数の専門家に任せていいのか、任せるとしたらその少数は誰がどうやって選ぶのか。
「決定」について多くのページが割かれている。

これはいいスタンス。
たしかに原発の善悪を議論しても意味がない。
原発利権を享受している人からしたら原発は「いいもの、正しいもの」だし、リスクのほうが大きい人からしたら「悪いもの、誤ったもの」だ。
そこを議論しても、立場がちがう以上いつまでも平行線だ。


まず前提として、原発は(少なくとも今日本にある原発は)時代遅れのものだ。
 まさに、「これでもか」というぐらいの過保護のなかで、日本の原発政策は進められてきたことがわかると思います。普通の経済感覚からすれば、原子力を進めるという道理はないのです。原子力というのは、言ってみれば極めて経営リスクの高い技術でして、国家の保護なしに競争市場に放り込むとすぐま敗北してしまうような技術なのです。
 全原発を即時廃止する道が最もわかりやすい選択肢ですが、原発を残す場合でも経済的にありうる道は、新増設はせず、既にある原発について投資を回収できるまで動かして、回収し終わったら止めていきゴールは完全な脱原発ということだろうと思います。もちろん安全面からはそれもどうかという話になるわけですが、この道以外には、原発を残していく経済的なメリットはまったくありません。ドイツが決めたのはまさにそういう路線です。今あるもののうち比較的新しいものは動かして使っていくが、なるべく早めに廃止し、新増設はせずに、二〇一二年には完全に脱原発を達成するというものです。日本もドイツと同じことをやるのが一番穏当だと、私は以前から言ってきました。「即ゼロがベターであるけれども、ドイツ方式でもいい」というのが現在の考えです。
原子力発電については、安全性を基準として追加しつつも、原子力発電は安定供給、コスト、環境保全の三つの面が優れているとしています。この三つの面は3E(Energysecurity,Economy,Environment)と呼ばれてきたものです。福島事故によって何年もほとんどの原発が長期停止していることを考えると、供給安定性が劣悪であることは明らかです。福島事故により何十兆円もの被害が出ることが確実であることを考えると、事故の後始末コストと損害賠償コストを加算すれば、原子力発電のコストは火力よりも大幅に高くなるはずです。さらに環境保全については、大量の放射能放出によって半永久的に居住不能な広大な地域を発生させてしまったことを、どう考えるのでしょう。福島事故は日本史上最大の公害事件であり、それでも環境保全性が優れているというのは道理に反します。
その証拠に、諸外国はどんどん原発を捨てている。
原発には先がない、というのが世界の共通認識なのだ。

それでも日本が原発に依存しようとしている理由は
「ここでやめたら今までやってきたことが無駄になる」
「過去の失敗を認めたら誰が責任をとるのか」
という二点のみ。

これは先の大戦で大敗につながったときとまったく同じ発想。
損切りができずにまごまごしているうちに撤退が遅れ、ますます損害が大きくなっているというのが今の状況だ。

もしも、もしもだよ。
シムシティみたいに国土を全部更地にできたとして。
「さあ、ゼロから国づくりをやりなおしましょう」
ということになったとき。
それでも原発建設を選ぶ人はひとりもいないだろう。

結局、原発を動かすかどうかを決める上で考えなければならないのは
「原発はいい選択か」ではなく(それはもう答えが出ている)、
「そうはいっても日本にはたくさん原発がある。これをどうするのか」なのだ。

シムシティとちがって、現実はリセットすることはできないのだから。



とはいえ。
原発がいい選択ではないからといって、
「原発は悪だ! 原発をゼロに!」
と叫んでもどうにもならない。

ガソリン車もパチンコもタバコも良くないものかもしれないが、現にその恩恵を受けている人、それで飯を食ってる人がいる以上、すぱっとなくせるものではない。原発も同じ。

それに「今だけ」を考えるのであれば、原発は悪くない選択肢だ。
原油価格に左右されにくいし、発電コストも比較的やすい。地球温暖化対策にもなる。
なにより、日本にはすでに多くの原発がある。
既存のものを使えるというのは大きい。

だから「段階的に廃止」「原発利権を享受している人には別のメリットを」というのが現実的な選択肢になる。
 また、原子力専門家に退場してもらえば、それで問題が解決するわけではありません。原子力から撤退するにしても、廃炉や放射性廃棄物のことなどがありますから、彼らの専門知は必要なのです。安易に彼らを追い出してしまったとしたら、私たち自身が専門的な問題と向き合ったり、あるいは実際に放射性物質のようなリスクのあるものを、専門知識を欠いたまま扱ったりしなければならなくなりかねません。少なくとも現状では、そうした専門知の多くは「ムラ」の中にあるわけですから、それをどうやって私たちの側に取り戻すのかを考えねばなりません。その延長線上にコミュニケーションの話もあるのではないでしょうか。「ムラ」を解体することが必要だとしても、それは、現時点で「ムラ」に属していると思われる原子力専門家をパージすることではない。彼らを「ムラ」のメンバーから市民社会の一員へと取り戻すことが必要なのです。
(中略)
 しかし同時に、どうして欲しいのか、どういう基準で仕事をして欲しいのかということを、ポジティブな言い方、建設的な方向で伝えることももっとあってよいと思うのです。「これをするな」と同時に、「これをしてほしい」という言い方が必要です。例えば、福島原発事故の被害を受けられた皆さんから、被害を少しでも回復したり、未来を切り拓いたりするために、原子力の専門家に対して「こういう研究をしてほしい」とか、「こういう技術を考えてほしい」ということを伝えるチャンネルがあってもいいと思うのです。私たちが何を望み、何は望まないのか、そのことを伝えるのも、リスク・コミュニケーションの真髄のひとつだと思います。「これが一番いい政策なのだから、あなたたちは不要です。それを理解しなさい」というモードで接しては、彼らのコミュニケーションが一方的であるのと同じ意味でこちらも一方的な要求になってしまって、敢えて言えばイデオロギー対立、プロパガンダ合戦になってしまいます。それでは不毛な争いが続くばかりで、結局、一番困っている人たちは困ったまま、厄介な問題は手が付けられないままという結果を招きかねません。

「原発なんて害悪しかないよ」といわれたら、深く関わっている専門家ほど「いや必ずしもデメリットだけではない」と反発したくなるだろう。
それよりも「五十年後になくすために知恵を貸してほしい」「原発よりももっと安全でもっと低コストな発電方法を考えてほしい」という言い方をすれば、話は前向きに進みやすくなる。

同じく、「原子力ムラが不当な利益を享受している!」と糾弾しても反発を招くだけ。
維持・開発に使っているのと同じお金を減炉・廃炉のために落としてやるようにすれば、少なくとも「今ある利益を失う」という理由での反発はなくなる。

利権というと悪いもののように言われるけど、利権があるからこそ原発や基地のような「みんなイヤだけどどこかが引き受けなければならないもの」を設置できるわけなのだから、なくすことは不可能だ。ある程度は目をつぶるしかない。

こういう道筋をつくるのが政治なんだとおもうけどねえ。
宮台 野次や吊し上げが典型ですが、糾弾モードの振る舞いが、市民運動側に蔓延していないでしょうか。そうしたことをやはり問いたいのです。相手方との合意に至ろうとか、知らなかった何かに気づこうという構えが、ほとんど見られないのは問題ではないか、ということです。
僕が大事だと考えるのは価値専門家です。ドイツのメルケル首相が、東日本大震災が起きて二カ月も経たずに二〇二〇年代には原発をやめると決めました。きっかけは、メルケルが招集した宗教学者、倫理学者、社会学者などからなる、安全なエネルギー供給のための倫理委員会です。
 原子力問題を、価値の問題、倫理の問題として議論しているのです。低線量被曝などの未確定の長期リスクについて、誰も責任がとれないのなら引き受けるのは非倫理的ではないか、一○○○年に一回だから無視していいというのは、後は野となれ山となれ的な反倫理ではないのか、などなど。
この姿勢、大いに学ばなくてはならない。
日本の議論は「カネ(それも今のカネ)」の発言力が強すぎるんだよなあ。

原発にかぎらず。

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2019年5月7日火曜日

駅のエレベーターに乗るやつは


子どもが生まれてから、駅のエレベーターに乗るようになりました。

それまでは駅のエレベーターに乗ったことなんて、ほとんどありませんでした。
海外旅行に行くときにスーツケースを持っていたから使ったかな? という程度。つまり人生で数回しか利用したことがない。

ベビーカーを押して出かけるようになってからは、駅のエレベーターをたびたび利用します。
ベビーカーだと階段やエスカレーターで移動できないからね(たまに子ども乗せたままエスカレーターで移動してる人いるけどあぶないからやめたほうがいい)。

そして気づいたことがあります。

大きな荷物もないのに、そして身体が悪いわけでもないのに駅のエレベーターを利用するやつは頭がアレ。




ふつう使わないでしょ。

ベビーカー? 当然エレベーター使うよね。
車椅子? 当然。
でかいスーツケース持ってる? わかる。
コントラバス持ってる? わかる。
松葉杖? わかる。
高齢者? わかる。

でも、健康で、大きな荷物もなく、若い人なら、まず駅のエレベーターを使わない。

だって不便だから。
エレベーターがある駅にはまずまちがいなくエスカレーターがありますし。
駅のエレベーターはあんまり大きくないですし。

だからエスカレーターや階段を使うほうがずっと早い。

百貨店とか高層ビルならまだわかりますけどね。
10階までエスカレーターで移動するのは時間かかるから。

でも、駅なんか1階分じゃないですか。深い地下鉄でも2階分ぐらいじゃないですか。
ぜったいエスカレーターのほうが早い。
それでもエレベーターを使う人がいるんです。


いやいいんですよ。誰が使ったって。
健康で荷物が少なくて若いやつは使うな、なんてどこにも書いてませんからね。

でも「健康で荷物が少なくて若いのに駅のエレベーターを使うやつ」は、ぼくが観測したかぎりではほぼ100%社会性がない。

具体的にいうと、車椅子の人がいようが、ベビーカーを押したおかあさんがいようが、ぜったいに譲らない

「私が先に並んでたんだからとうぜん私が先よ」という顔でさっさとエレベーターに乗りこむ。
車椅子の人を押しのけるようにしてエレベーターに乗りこんでしまうやつさえいる。



あなたは、エレベーターが到着するのを待っています。荷物は鞄ひとつだけです。

待っているのは、あなた、その後ろに車椅子の人、赤ちゃんをベビーカーに乗せたお母さん。

エレベーターが到着しました。ぎりぎり全員は乗れそうにありません。
十メートル先には階段とエスカレーターがあります。

あなたはどうしますか?


そうですね。
いい大人は、車椅子とベビーカーに譲って、自分は階段かエスカレーターを利用しますよね。

べつに優しいとかじゃなくて、ふつうの感覚ですよね。
だって車椅子やベビーカーでは階段やエスカレーターを上がれないのですから。

でもね。
そういうふつうの感覚を持った人は、はじめから駅のエレベーターを利用しないんです



いやほんと譲らないんですよ、あいつら。
びっくりするぐらい。

男もいるし女もいる。二十代もいるし五十代もいる。
でもぜったいに車椅子やベビーカーより自分が優先。

こういう人が世の中にいるということをぜんぜん知りませんでした。
ベビーカーを押して出かけるようになって、はじめて知った。


わかりませんけどね。
見た目ではわからないだけで、ペースメーカーつけてるのかもしれませんけどね。難病かかえてるのかもしれませんけどね。
にしたって、エスカレーター使えよとおもっちゃうんですよ、ぼくは。

わかりませんけどね。
難病をかかえていて、かつエスカレーター恐怖症なのかもしれませんけどね。


しかしなあ。
「エレベーターでは車椅子やベビーカーを優先させる」なんてのはモラルの話だから、他人が強制するようなことじゃあないんですが。
だから、車椅子より先にさっさとエレベーターに乗りこむ人を見てもぼくは何も言わないんですが。
心の中で「クズ野郎」と毒づくだけですが。


2019年5月2日木曜日

【読書感想文】三浦 綾子『氷点』

氷点

三浦 綾子

内容(e-honより)
辻口病院長夫人・夏枝が青年医師・村井と逢い引きしている間に、3歳の娘ルリ子は殺害された。「汝の敵を愛せよ」という聖書の教えと妻への復讐心から、辻口は極秘に犯人の娘・陽子を養子に迎える。何も知らない夏枝と長男・徹に愛され、すくすくと育つ陽子。やがて、辻口の行いに気づくことになった夏枝は、激しい憎しみと苦しさから、陽子の喉に手をかけた―。愛と罪と赦しをテーマにした著者の代表作であるロングセラー。

1965年刊行、何度も映像化されている古典的作品。

病院の院長である父親、美しく優しい母親、かわいい息子と娘。
絵に描いたような幸せな家庭の運命が、ある日娘が殺害されたことで大きく転換する。
父親は殺人犯ではなく男と逢引きをしていた妻を憎み、妻への復讐のために犯人の娘を養子として引き取る……。

「原罪」という重いテーマを扱った作品(著者の三浦綾子氏はクリスチャンだそうだ)。
家族それぞれが秘密を抱えて互いに欺きながら暮らしてゆくうちに、幸せいっぱいの家族が徐々に壊れてゆく描写はスリリングで読みごたえがあった。

日本での殺人事件の半数以上が家族間の殺人だそうだ。身近で関わりが深いからこそ、愛情が憎悪にかわったときの恨みも半端ではない。
幸いぼくは親や姉や妻や子に対して殺意を抱いたことはないけど、激しい憎しみを抱いたことはある。「あのときあんなことを言われた」と二十年たっても根に持っていることもある。逆に親や姉だってぼくに対してひとかたならぬ恨みを持っているかもしれない。

今は親族と良好な関係を築いているけれど、なにかのきっかけで相手の人生をぶっこわしてやりたいと望むほどの憎悪に変わらないともかぎらない。

……そんなことを『氷点』を読みながら考えて背筋が冷たくなった。
愛情と憎悪は紙一重なのだとつくづくおもう。


家族間の深い愛情と深い憎しみを描いた『氷点』、これがほぼデビュー作だというからすごい。

まあ文章はあまりうまくないんだけど……(というか同じ段落の中で視点がころころ変わるのって第三人称小説でぜったいにやってはいけないことだろ)。

でも、「船舶事故」「失踪した看護師」といった“特に回収されないエピソード” がちょこちょこあるのは好きだ。
こういう本筋に関係あるのかないのかわからないエピソードがあると、小説にぐっと深みが与えられるね。



しかしクリスマスにプレゼントをもらうということ以外ではキリスト教とは関わりのない人生を歩んできたぼくにとっては、「原罪」なるものはよくわからない。
人は生まれながらにして罪を負っているとか、親が殺人犯だったから子どもが罪を感じるとか、とうてい理解できないんだよなあ。

「人は罪を犯しうる存在である」と言われればそのとおりだとおもう。
ぼくだって環境によっては殺人犯になっていたかもしれない。逆に、ヒトラーやポル・ポトのような悪名高い人物だって、べつの時代や場所に生まれていたら平凡な人生を歩んでいたとおもう。

でも、だからこそ「罪を犯しうる存在であるにもかかわらず、大した悪事もはたらかずに生きている」ことを肯定的に評価すべきなんじゃないかとおもうんだけど。

生まれながらにして清いものではないからこそ、まあまあ清く生きているのってすばらしいことだといえるんじゃない?


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