2019年4月4日木曜日
百点満点の接客
テレビで何度かやってるのを観たことがあるんだけど、接客コンテストってのが世の中にはあるらしい。
スーパーマーケットの店員たちが集まって、舞台の上で「いらっしゃいませ!」とか「またのご来店をお待ちしております!」とかでかい声出しあって、そのチャンピオンを決めるような大会。
で、たまに「接客コンテスト上位入選者なのかな?」みたいな店員に出くわす。
こないだドラッグストアでティッシュ買ったら、やたらはきはき元気よく挨拶する店員がレジの担当だった。
正直言って、げんなりする。
たぶん店員本人は「わたし今すごくいい接客してるわ!」って気分なんだろうけど、それが鼻につく。
個人的な意見を言わせてもらえば、「気持ちいい接客」も度を超すと「不快な接客」になる。
スーパーマーケットの店員にぼくが求めるものは、「早く正確にレジ打ちをしてくれること」「こちらを不快にさせないこと」だけで、それ以上のものは一切求めていない。
明るさもさわやかさも過剰な笑顔もいらない。淡々と処理をしてほしい。
接客は空気みたいなのがいい。まったく気にならない接客。
レジで支払いを終えた三十秒後に
「すみませーん、接客品質向上のためにアンケートをとってるんですけど、先ほどの店員の接客はいかがでしたか?」
と訊かれて
「あー……。すみません、どんな接客だったか覚えてないです」
と言っちゃうような。
そういうのが百点満点の接客。
「スーパーマーケットの店員の接客の評価」みたいなことに脳のメモリを一バイトたりとも使いたくない。
ぼくは店員を会計をするだけの機械と思いたい。だから店員もぼくのことを品物を持ってきて金を払うだけの機械だと思ってほしい。
だから「元気のいい店員だなー」とか「すごく笑顔のすてきな店員さんだな」とか客に思考させた時点で、その接客は失敗だったと思ってもらいたい。
2019年4月3日水曜日
【読書感想文】価値観を押しつけずに教育は成立するのか / 杉原 里美『掃除で心は磨けるのか』
掃除で心は磨けるのか
いま、学校で起きている奇妙なこと
杉原 里美
教育の現場で「価値観の押しつけが起こっているんじゃないか」という疑問をもとに、様々な教育方針について調査した本。
うーん……。正直、「どっちもどっち」だとおもえるな……。
日本会議とか親学推進協会に関してはぼくも「気持ち悪いな」とおもうし。「どんな思想を持つのも勝手だけどまともなデータもないのに教育に口出しすんなよ」と。
「弁当を作るようになると親子の会話が増える」なんてどこにそんなデータがあるの?
そういう傾向があったとしてもそれって疑似相関でしょ? 弁当をつくる時間的余裕があるんだからそりゃ会話も多いでしょ。
と。
でも、著者の意見も極端すぎるというか、過敏すぎるんじゃないかとおもってしまうんだよね。
教科書に、ひとつのモデルケースとして「学校を卒業して仕事をして結婚して子どもを生んで……」という例が載っていることについて
これはちょっと言いがかりが過ぎるんじゃないかな。
「こういう人生が一般的ですよと伝えること」の先に「マイノリティーを排除」はあるのかもしれないけど、密接しているわけではないでしょう。それはそれ、これはこれじゃないか?
ぼくは大学卒業後に仕事を辞めて無職だったことはあるけど、だからって「大人は働くものと決めつけるのはよくない!」とはおもわない。
ひとつの指針を示すことは教育において必要不可欠なもんじゃないか?
「勉強するのはいいことですよ」
「先生の言うことは聞きましょう」
「周りの人と仲良くしましょう」
「家族とも仲良くね」
といった方針を共有せずに、学校教育を成立させることなんかできる?
どうしても適応できない子に強制させるのはよくないにしても、教育が価値観の押しつけになってしまうことはある程度避けられないとおもう。
「勉強したって幸福になれるとはかぎらない」
「教師の中には誤ったことをいう人もいる」
「どうしても仲良くなれない人もいる」
「距離をとったほうがいい親もいる」
ってのは正しいことではあるけど、それを子どもに公言してしまったら学校教育は崩壊するしかなくなるとぼくはおもう。
著者は新聞記者で教育現場の人ではないので、ちょっと理想論が過ぎるようにおもう。
しかし「昔はこうだった」という無根拠な(本人は根拠があるとおもっている)思いこみをもとに、教育現場に口出しをする素人って多いよね。
「今の学校は〇〇だ。昔はもっと□□だった。だから今の子どもは××なんだ」
みたいな言説。
こういうことを言ってる人間に、根拠となる数字を出している人を見たことがない。
みんな印象だけで語っている。
素人の酒場談義ならまだいいけど、政策を決める立場にある人間までが印象だけで語って方針を決める。
虐待も子売りも家庭内暴力も昔のほうがずっと多かったのに。
「今の子どもは××なんだ」と言いたくなったら、口を開く前にパオロ・マッツァリーノ氏の本を読みましょう。
しかも決まって教育なんだよね。
たとえば介護とか医療とかに関してはそんなに門外漢が口をはさまないじゃない。
「わたしも病院に何度か行ったことがありますけど、その立場から言わせてもらえば今の医療方針はまちがっている!」
とか言わないじゃない。
なのに教育に関しては「学校に通っていた、子どもを学校に通わせている」だけの人が、自分の観測範囲を根拠に一席ぶったりする。
ああいうのはまともにとりあっちゃいけない。
印象だけで語っているかぎりは、永遠に議論にならないのだから。
しかしこの本の著者も、「こういう傾向はこわい」とか「〇〇が教育現場に介入することに不安がぬぐえない」とか「こういうことをすると教師が委縮してしまうのでは」みたいなことを書いているだけで、何がどう問題なのかをまったく客観的に示せていない。
感情論に対して感情論で反対しているだけで、読んでいるこっちからすると「どっちもどっちだな」としかおもえないんだよなあ。
論理的な主張には欠ける本だけど、著者の「なんでも体験してみる」という姿勢には感心した。さすがは記者だねえ。
自分と相容れない思想を持つ団体の集会にも参加するし、「素手でトイレを磨く講習」にも参加する。
反対意見であろうと批判する前にまずやってみる、というのはなかなかできることじゃない。
特におもしろかったのが甲南大学の田野大輔教授がやっている「ファシズムの体験学習」に参加したときのレポート。
教授を偉大なる指導者としてあがめたてまつり、メンバーは同じ服を着て同じ挨拶をおこない、キャンパス内でいちゃついているカップルという「共通の敵」(仕込みだそうだが)に向かって「リア充爆発しろ!」という罵声を浴びせるという実験をするようだ。
参加した学生の感想も紹介されている。
集団心理のおそろしさがよくわかる。
特にインターネットやSNSによって同じ思想の持ち主同士が連携しやすくなったことで、こうした傾向はどんどん強くなっているのかもしれない。
いわゆる「ネトウヨ」はこういう心理なんだろうし、逆にネトウヨを過剰攻撃している「パヨク」たちもまた同じ心理を共有しているんだろう。
ヘイトスピーチも反政権デモも、何かを変革しようとするというより自分たちが気持ちよくなるためにやっているようにしか見えない。
あの人たち、向かっている方向は真逆だけど、ぼくから見るとよく似ているんだよなあ。
その他の読書感想文はこちら
2019年4月2日火曜日
「いい独裁制」は実現可能か?
ウィンストン・チャーチルの言葉に
「民主主義は最悪の政治形態だ。これまでに試みられてきたあらゆる政治形態を除けば」
というものがある。
はじめにこの言葉を聞いたときは「ずいぶん皮肉屋だねえ」としかおもっていなかったが、最近つくづくチャーチルの言うとおりだと感じる。
民主主義なんてぜんぜんいい制度じゃない。かといって、じゃあどんなシステムがいいのかといわれると思いつかない。
「民主主義の限界」という言葉が叫ばれて久しい。
冷戦が終わったときは、多くの人が「これで世界中が民主主義の社会になる」と思ったはずだ。
だがそうはならなかった。
アメリカは相変わらずいろんな分野で世界ナンバーワンの座を享受しているが、内部の対立は深まるばかり。
一方で、没落したとおもわれていたロシアや中国などの独裁国家は成長著しい。
独裁国家のほうがいいんじゃないかとおもうこともしばしばだ。
決定スピードが早い。形式的な議論や無駄な手続きを省くことができる。世論に流されずに最善の決定ができる。
「正しい判断ができる為政者がいれば」という条件付きではあるが、独裁国家には多くのメリットがある。
今の日本は、多額の借金を抱えていたり、破綻することが明らかな年金制度を維持していたり、少子化や高齢化がが手の付けられないぐらい進行していたり、「いつか誰かがやらなきゃいけないこと」を後回しにしつづけてきたせいで、さまざまな問題が噴出している(しかし政治家も官僚もこの期に及んでまだ見て見ぬふりをしようとしている)。
「今の人気を失いたくないから国民受けの悪い改革を後回しにする」という選択をしつづけてきたせいだ。
一党独裁国家なら、こんな問題も起こらなかっただろう(年金制度自体がなかったかもしれないけど)。
こないだ知り合いの中国人に「もう中国では一人っ子政策はなくなったんでしょ?」と聞くと、「それどころか今は二人以上産まないと罰金を科せられます」と言われた。
とにかく中国はやることが極端だ。
しかしこれぐらい思いきったやりかたをしないと人口構成なんてそうそう変わらない。
どっちがいいやり方かと考えると、なかなかむずかしい問題ではある。
……と日本人が「なかなかむずかしい問題ではある」なんてのんきにつぶやいている間に、中国はどんどん改革を進めていってしまうのだ。そりゃ差も開くわ。
良い寡頭制 > 民主制 > 悪い寡頭制
なのだ。
特に政策の決定にスピードが求められる局面においては。
今の日本のように転げ落ちていく国は、一か八か、民主制を捨てることも本気で検討しなければならないのかもしれない。
三頭政治なんてどうだろうか。ローマ帝国にならって。
何かを決めるにあたって国民の承認も不要、議会の採決も不要。
トップがいいと思ったことはどんどん推し進める。
ただし当然ながら暴走を防ぐ仕組みは必要だ。
権限は与えるが任期は厳密に定める。もちろん天下りも禁止。
権力の移譲は禁止。後継者の指名には直接・間接を問わず関わらない。
「憲法を変えるには国民の承認が必要」
「人事権を握る別組織が存在する」
「司法権は完全独立。違憲立法審査権を適正に行使する」
このへんのことが守られるなら、独裁制もいいかもしれない。
(とはいえ今の司法は腑抜けすぎるから、このままだと実現は無理だが)
あとは軍をどうするか、だよね。
暴力装置である軍や警察の問題さえなければ民主制を捨てて少数の人間に政治を一任してしまってもいい気もするんだけどなあ……。
しかしそこは権力と不可分だし……。
やっぱり民主主義が「いちばんマシ」なのかなあ……。
そもそも、市民の代表として国家が国を治めるというやり方自体が時代遅れなのかもしれない。
住む場所で区切るのが古いんじゃないかな。
昔は物理的制約があったから地域で所属国を決めるしかなかったわけだけど、インターネットで世界中どこにでもつながれる今なら居住地に関係なく国を選べるようにしてもいいんじゃないかと思う。
なんてことも思いついたのだが、話がまとまらなくなってきたのでそれについてはまたべつの機会に……。
住む場所で区切るのが古いんじゃないかな。
昔は物理的制約があったから地域で所属国を決めるしかなかったわけだけど、インターネットで世界中どこにでもつながれる今なら居住地に関係なく国を選べるようにしてもいいんじゃないかと思う。
なんてことも思いついたのだが、話がまとまらなくなってきたのでそれについてはまたべつの機会に……。
2019年4月1日月曜日
【映画感想】『のび太の月面探査記』
『のび太の月面探査記』
劇場にて、五歳の娘といっしょに鑑賞。
「娘といっしょにドラえもんの映画を観にくるのははじめてだな」とおもっていたけど、よく考えたら、ドラえもんの映画を劇場に観にいくこと自体はじめてだ。
子どもの頃、テレビでやっているのを観たり漫画版で読んだりしていたので、すっかりよく観ていた気になっていた。
1作目『のび太の恐竜』 ~14作目『のび太とブリキの迷宮』あたりまでは、読んだりテレビで観たりしていた。
そのへんでぼくが大きくなったのと、内容が説教くさくなってきたので、しばらく遠ざかっていた。
昨年、娘がドラえもんを楽しめるようになってきたので、AmazonPrimeで『のび太の南極カチコチ大冒険』を鑑賞。 「最近のドラえもん映画ってこんな複雑なストーリーなのか……」とおもった記憶がある。
(あと『緑の巨人伝』を観て「これはひどい……」とおもった)
さて、『のび太の月面探査記』である。
映画館の入場時に、特典グッズ(ドラえもんのチョロQ)をもらえる。子どもだけかとおもっていたらおっさんにももらえる。うれしい。
これこれ、子どもの頃こういうグッズほしかったんだよなー。テレビで予告編を観るたびにほしいとおもっていた。
べつにぼくのうちが貧しかったわけではないけど、田舎だったので映画館まで行くためにはバスと電車二本を乗りつがないといけなかった。だから基本的にぼくらの町の人間にとって映画というのはテレビかビデオで観るもので、そもそも「映画館に行く」という発想がなかった。
今回の『月面探査記』だが、原作が辻村深月氏だと聞いていたのでおもしろそうだとおもっていた(とはいえデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』が好きになれなかったのでそれ以降の作品は読んでないんだけど)。
『凍りのくじら』でドラえもんを扱っている人、という知識だけはあったので。読んでないけど。
映画の感想だけど、まず、「これドラえもんの映画にしてはむずかしくない?」とおもった。
[異説クラブメンバーズバッジ]という道具が出てきて、これが今回のキーアイテムになる。
というかほとんど他の道具が出てこない。他に目を惹くのは[エスパー帽]ぐらいで、あとは映画でおなじみの[どこでもドア][タケコプター][ひらりマント][空気砲][コエカタマリン]などで、使用にあたって説明すらされない。
[異説クラブメンバーズバッジ]がなかなかややこしい。
天動説やツチノコ生存説のように、異説として一定の支持のある説をマイクに吹きこむと、メンバーズバッジをつけている人たちにはその説が実現しているように見える、という道具。
ううむ、むずかしいね。
「異説として一定の支持がある説じゃないとダメ」「バッジをつけている人にしか共有されない」という制約があるので、なんでもやりたい放題&全人類に適用される[もしもボックス]の劣化版という感じの道具だね。
しかしこの制約がストーリー上重要なカギを握っている。特に終盤の大逆転は、[異説クラブメンバーズバッジ]によく似た道具が登場することで実現する。
が、[異説クラブメンバーズバッジ]がすでにわかりにくいのに(うちの五歳の娘はぜんぜんわかっていなかった)、それに似ているけど異なる効力を持つ道具が登場するので(しかも簡素な説明しかない)、「え? つまりどういうこと?」とおもっている間にどんどんストーリーが進んでしまう。
ラスボスとの戦闘中なのでくだくだ説明する時間がないんだろうけど、メインストーリーにからんでくる話なのでもう少しわかりやすく表現することはできなかったのかな……とおもってしまう。
また、今作には[カグヤ星][エスパル][エーテル][ムービット]という独自の概念がいくつか登場する。
[エスパル]は[カグヤ星]から脱出して千年前から月に住んでいた種族、[ムービット]は月に住んでいるがのび太たちが[異説クラブメンバーズバッジ]によってつくりだした種族。
のび太たち地球人を含めれば三種類の種族が月にいる(さらにカグヤ星にはカグヤ星人もいる)わけで、このへんもややこしい。
観終わった後で娘に「どんな話だった? おかあさんは観てないから、おかあさんにわかるように教えてあげて」と言ったところ、エピソードひとつひとつはちゃんとおぼえていたが、やはり「どういう種族がいて何のために戦ったのか」「[異説メンバーズクラブバッジ]がどういう役割を果たすのか」については理解できていなかった。
だがストーリーがこみいっているからといって、おもしろくないかというとそんなことはない。
娘は「おもしろかった! 来年も観にいきたい!」と言っていた。
細部はけっこう練っているし登場人物も多いが、
・のび太やジャイアンなどの主要キャラはきちんと自分に与えられた役割をこなしている。
・敵味方、善悪がはっきりしている。敵はいかにも邪悪な容貌・声をしている。
「悪人とおもったら実は善人」「悪人にも悪人なりの正義があり同情すべき点もある」といった多面性もほぼない。
・ストーリーの骨格は「仲間を守るために悪を助ける」というシンプルなものから大きく逸脱しない。
といったところはきちんと押さえられていて、だから五歳児が観ても(全部はわからなくても)楽しめるのだろう。
このへんはさすがドラえもん映画だ。
この映画の見どころのひとつは
「のび太たちが一度家に帰った後、さらわれた仲間を助けにいくために再結集する」というシーン。
ポスターにもなったシーンだ( https://corobuzz.com/archives/133477 )。
台詞はほとんどないが、「死をも覚悟して心の中で家族に別れを告げる」姿が胸を印象的だ。
特にスネ夫に関してはへたれであるがゆえにその葛藤も大きいであろうことが想像できて、より胸を打つ。
のび太やジャイアンは映画版だとやたらかっこいいが、スネ夫は映画でも臆病で保身的な人間として描かれる。
『のびたの恐竜』では、命の危険を背負ってでもピー助を故郷に送りとどけようとするのび太(とジャイアン)に対して、スネ夫はピー助をハンターに売りわたして自分たちの命を助けてもらおうとする。
のび太とジャイアンの男気が光るシーンだが、ぼくだったらスネ夫側につく。他者(しかも恐竜)を救うことよりも自分の身を守ることを真っ先に考える。ほとんどの人間はそうだろう。
じつはスネ夫がいちばん人間らしいキャラクターなんだよね。だからこそ『のび太の宇宙小戦争』で活躍するスネ夫にはぐっとくる。
『月面探査記』で、再集合の時刻にスネ夫だけは姿を現さない。
怖気づいてしまったのかという雰囲気が漂う中、ジャイアンが「もう少しだけ待ってみようぜ」と言う。
そこに現れるスネ夫。「前髪が決まらなくって」と言い訳。
このシーンが、いちばん好きだった。
2019年3月29日金曜日
元号について
ふだん、元号はほとんど使わない。
会社の書類関係も基本的には西暦で作る。
元号なんてなくしてしまえなんていう人もいる。
ぼくはそうはおもわない。あまり使わないけど、あったほうがいいとおもう。
ぼくらはあまり時間をとらえるのが得意でない。
数十年単位で物事を考えることはほとんどない。長くて数年、ほとんどが一年以内だ。
一年先の予定なんてまったく決まっていないし、一年以上前の思い出がすっぱりなくなったとしても生活する上ではそれほど不自由は感じないだろう。
八十歳まで生きて、文書や写真や映像で記録を残せるようになった現代においてもこうなのだから、原始狩猟採集生活をしていた時代の人類には、数年単位で物事を考えることなどほとんどなかったにちがいない(そして人類の歴史の大部分はそういう生活をしていた)。
人類は長いスパンで物事を考えられるようにできていないのだ。
そこで役に立つのが、時代の区切りだ。
「平成時代」という区切りをつけることで、長い時代を脳の中で整理しやすくなる。
たとえばテクノロジーの分野だと
「平成は、携帯電話やインターネットが爆発的に普及した時代」
とか。
経済だと
「平成は、長く不況に苦しみ終身雇用制度や年功序列賃金が崩壊していった時代」
とか。
たいていの物事はいっぺんには変わらないので、一年単位だと短すぎる。
一世紀だと長すぎる。百年前と今とでは何もかもがちがう。そもそも百年前のことを記憶している人がほとんどいない。
ある程度の長期的な変化を把握するには、元号ぐらいの長さがちょうどいい。
(ただし昭和は長すぎる。戦争で出征していた世代と、生まれたときからコンビニもファミコンもあった世代を「昭和生まれ」で一緒くたにするのはさすがに無理がある)
昭和は例外(大正時代が短かった+医学の驚異的な進歩があった)にしても、元号は天皇の世代交代が区切りになるから、必然的に二十~三十年ぐらいの長さになる。
平成は三十年と四ヶ月。
これはちょうどいい長さだ。
女性の初産時の平均年齢がだいたい三十歳ぐらいだそうだ。
つまり平成元年に生まれた子どもが、次の元号の元年に親になるぐらい。
元号がちょうど一世代。
これぐらいのスパンだと「ひとつの時代が終わる」という感じがして、感覚的にはちょうどいい。
数十年たってから「たまごっちが流行ったのっていつだったっけ」「CDを買わなくなったのっていつだったっけ」「あいつと出会ったのはいつだったっけ」と振りかえったときに、西暦何年かはわからなくても「平成時代だったな」ということぐらいはわかる。
数十年前の記憶なんてそれぐらいでいい。
こういう節目があるのはけっこう便利だ。
だから元号はこれからもぜひ存続させてほしいとおもう。
とはいえ、役所の文書で元号を使わせることには反対だけどね。
それとこれとは別問題だぜ。
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