2019年4月3日水曜日

【読書感想文】価値観を押しつけずに教育は成立するのか / 杉原 里美『掃除で心は磨けるのか』

掃除で心は磨けるのか

いま、学校で起きている奇妙なこと

杉原 里美

内容(e-honより)
いま、学校現場では奇妙なことが起きている。体操服の下に肌着を着てはいけない、生まれつきの茶髪でも黒に染めろといった、不合理な校則の数々。客観性に疑問符がつく「道徳」教科の成績評価。偽史「江戸しぐさ」にならった「○○しぐさ」の流行。掃除やマナー、挨拶など「心を磨く」活動が重視され、教え方の「マニュアル化」が進む。こうした動きを、第一線の記者が各地へ足を運び、多角的に取材。いま、教育現場で起きている「奇妙なこと」の全体像を浮かび上がらせる。子どもの教育に関心を持つすべての人に向けた緊急レポート!

教育の現場で「価値観の押しつけが起こっているんじゃないか」という疑問をもとに、様々な教育方針について調査した本。

うーん……。正直、「どっちもどっち」だとおもえるな……。
日本会議とか親学推進協会に関してはぼくも「気持ち悪いな」とおもうし。「どんな思想を持つのも勝手だけどまともなデータもないのに教育に口出しすんなよ」と。

「弁当を作るようになると親子の会話が増える」なんてどこにそんなデータがあるの?
そういう傾向があったとしてもそれって疑似相関でしょ? 弁当をつくる時間的余裕があるんだからそりゃ会話も多いでしょ。
と。

でも、著者の意見も極端すぎるというか、過敏すぎるんじゃないかとおもってしまうんだよね。

教科書に、ひとつのモデルケースとして「学校を卒業して仕事をして結婚して子どもを生んで……」という例が載っていることについて
 文科省は、「生涯の生活設計のところに、『人の一生について、様々な生き方があることを理解する』という文言が含まれている」と説明する。
 だが、特定の生き方を推奨することになりはしないか、不安が残る。高校生が、必ず結婚しなければいけないと考えたり、故郷を出て就職することをためらったりすることはないのだろうか。子どもを持ち、「父母」として生きることを標準と思わせたり、若い時期での出産を推奨したりすることは、同性愛などの性的マイノリティーの子どもたちを排除することにつながりかねない。
これはちょっと言いがかりが過ぎるんじゃないかな。

「こういう人生が一般的ですよと伝えること」の先に「マイノリティーを排除」はあるのかもしれないけど、密接しているわけではないでしょう。それはそれ、これはこれじゃないか?
ぼくは大学卒業後に仕事を辞めて無職だったことはあるけど、だからって「大人は働くものと決めつけるのはよくない!」とはおもわない。

ひとつの指針を示すことは教育において必要不可欠なもんじゃないか?
「勉強するのはいいことですよ」
「先生の言うことは聞きましょう」
「周りの人と仲良くしましょう」
「家族とも仲良くね」
といった方針を共有せずに、学校教育を成立させることなんかできる?

どうしても適応できない子に強制させるのはよくないにしても、教育が価値観の押しつけになってしまうことはある程度避けられないとおもう。
「勉強したって幸福になれるとはかぎらない」
「教師の中には誤ったことをいう人もいる」
「どうしても仲良くなれない人もいる」
「距離をとったほうがいい親もいる」
ってのは正しいことではあるけど、それを子どもに公言してしまったら学校教育は崩壊するしかなくなるとぼくはおもう。

著者は新聞記者で教育現場の人ではないので、ちょっと理想論が過ぎるようにおもう。



しかし「昔はこうだった」という無根拠な(本人は根拠があるとおもっている)思いこみをもとに、教育現場に口出しをする素人って多いよね。

「今の学校は〇〇だ。昔はもっと□□だった。だから今の子どもは××なんだ」

みたいな言説。
こういうことを言ってる人間に、根拠となる数字を出している人を見たことがない。
みんな印象だけで語っている。
素人の酒場談義ならまだいいけど、政策を決める立場にある人間までが印象だけで語って方針を決める。

虐待も子売りも家庭内暴力も昔のほうがずっと多かったのに。
「今の子どもは××なんだ」と言いたくなったら、口を開く前にパオロ・マッツァリーノ氏の本を読みましょう。

しかも決まって教育なんだよね。
たとえば介護とか医療とかに関してはそんなに門外漢が口をはさまないじゃない。
「わたしも病院に何度か行ったことがありますけど、その立場から言わせてもらえば今の医療方針はまちがっている!」
とか言わないじゃない。
なのに教育に関しては「学校に通っていた、子どもを学校に通わせている」だけの人が、自分の観測範囲を根拠に一席ぶったりする。

ああいうのはまともにとりあっちゃいけない。
印象だけで語っているかぎりは、永遠に議論にならないのだから。

しかしこの本の著者も、「こういう傾向はこわい」とか「〇〇が教育現場に介入することに不安がぬぐえない」とか「こういうことをすると教師が委縮してしまうのでは」みたいなことを書いているだけで、何がどう問題なのかをまったく客観的に示せていない。

感情論に対して感情論で反対しているだけで、読んでいるこっちからすると「どっちもどっちだな」としかおもえないんだよなあ。



論理的な主張には欠ける本だけど、著者の「なんでも体験してみる」という姿勢には感心した。さすがは記者だねえ。

自分と相容れない思想を持つ団体の集会にも参加するし、「素手でトイレを磨く講習」にも参加する。
反対意見であろうと批判する前にまずやってみる、というのはなかなかできることじゃない。

特におもしろかったのが甲南大学の田野大輔教授がやっている「ファシズムの体験学習」に参加したときのレポート。

教授を偉大なる指導者としてあがめたてまつり、メンバーは同じ服を着て同じ挨拶をおこない、キャンパス内でいちゃついているカップルという「共通の敵」(仕込みだそうだが)に向かって「リア充爆発しろ!」という罵声を浴びせるという実験をするようだ。

参加した学生の感想も紹介されている。
  • グラウンドに出る前は、おもしろ半分な雰囲気だったけれど、教室に戻る際には「やってやった」感がどこかで出ていたように感じる。
  • 自分が従うモードに入ったときに、怠っている人がいたら、「真面目にやれよ」という気持ちになっていた。
  • 最初は乗り気ではなかったが、ひざ枕のカップルの前では最前列に自分がいた。教室内で行動するより、外に出て他人から見られるほうがやる気が出た。
  • 制服もシンボルも身につけていないくせに集団にまぎれこんでいる人を見ると、憎しみすら感じさせられた。規律や団結を乱す人を排斥したくなる気持ちを実感。
  • 実際に同じようなことが日本でもあり得ると思うと、すごくリアルで恐怖を感じた。
集団心理のおそろしさがよくわかる。
特にインターネットやSNSによって同じ思想の持ち主同士が連携しやすくなったことで、こうした傾向はどんどん強くなっているのかもしれない。

いわゆる「ネトウヨ」はこういう心理なんだろうし、逆にネトウヨを過剰攻撃している「パヨク」たちもまた同じ心理を共有しているんだろう。

ヘイトスピーチも反政権デモも、何かを変革しようとするというより自分たちが気持ちよくなるためにやっているようにしか見えない。
あの人たち、向かっている方向は真逆だけど、ぼくから見るとよく似ているんだよなあ。


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2019年4月2日火曜日

「いい独裁制」は実現可能か?


ウィンストン・チャーチルの言葉に
「民主主義は最悪の政治形態だ。これまでに試みられてきたあらゆる政治形態を除けば」
というものがある。

はじめにこの言葉を聞いたときは「ずいぶん皮肉屋だねえ」としかおもっていなかったが、最近つくづくチャーチルの言うとおりだと感じる。
民主主義なんてぜんぜんいい制度じゃない。かといって、じゃあどんなシステムがいいのかといわれると思いつかない。



「民主主義の限界」という言葉が叫ばれて久しい。
冷戦が終わったときは、多くの人が「これで世界中が民主主義の社会になる」と思ったはずだ。
だがそうはならなかった。
アメリカは相変わらずいろんな分野で世界ナンバーワンの座を享受しているが、内部の対立は深まるばかり。
一方で、没落したとおもわれていたロシアや中国などの独裁国家は成長著しい。

独裁国家のほうがいいんじゃないかとおもうこともしばしばだ。

決定スピードが早い。形式的な議論や無駄な手続きを省くことができる。世論に流されずに最善の決定ができる。
「正しい判断ができる為政者がいれば」という条件付きではあるが、独裁国家には多くのメリットがある。




今の日本は、多額の借金を抱えていたり、破綻することが明らかな年金制度を維持していたり、少子化や高齢化がが手の付けられないぐらい進行していたり、「いつか誰かがやらなきゃいけないこと」を後回しにしつづけてきたせいで、さまざまな問題が噴出している(しかし政治家も官僚もこの期に及んでまだ見て見ぬふりをしようとしている)。
「今の人気を失いたくないから国民受けの悪い改革を後回しにする」という選択をしつづけてきたせいだ。

一党独裁国家なら、こんな問題も起こらなかっただろう(年金制度自体がなかったかもしれないけど)。

こないだ知り合いの中国人に「もう中国では一人っ子政策はなくなったんでしょ?」と聞くと、「それどころか今は二人以上産まないと罰金を科せられます」と言われた。
とにかく中国はやることが極端だ。
しかしこれぐらい思いきったやりかたをしないと人口構成なんてそうそう変わらない。
どっちがいいやり方かと考えると、なかなかむずかしい問題ではある。

……と日本人が「なかなかむずかしい問題ではある」なんてのんきにつぶやいている間に、中国はどんどん改革を進めていってしまうのだ。そりゃ差も開くわ。



良い寡頭制 > 民主制 > 悪い寡頭
なのだ。
特に政策の決定にスピードが求められる局面においては。

今の日本のように転げ落ちていく国は、一か八か、民主制を捨てることも本気で検討しなければならないのかもしれない。

三頭政治なんてどうだろうか。ローマ帝国にならって。
何かを決めるにあたって国民の承認も不要、議会の採決も不要。
トップがいいと思ったことはどんどん推し進める。

ただし当然ながら暴走を防ぐ仕組みは必要だ。
権限は与えるが任期は厳密に定める。もちろん天下りも禁止。
権力の移譲は禁止。後継者の指名には直接・間接を問わず関わらない。

「憲法を変えるには国民の承認が必要」
「人事権を握る別組織が存在する」
「司法権は完全独立。違憲立法審査権を適正に行使する」
このへんのことが守られるなら、独裁制もいいかもしれない。
(とはいえ今の司法は腑抜けすぎるから、このままだと実現は無理だが)

あとは軍をどうするか、だよね。
暴力装置である軍や警察の問題さえなければ民主制を捨てて少数の人間に政治を一任してしまってもいい気もするんだけどなあ……。

しかしそこは権力と不可分だし……。
やっぱり民主主義が「いちばんマシ」なのかなあ……。



そもそも、市民の代表として国家が国を治めるというやり方自体が時代遅れなのかもしれない。

住む場所で区切るのが古いんじゃないかな。
昔は物理的制約があったから地域で所属国を決めるしかなかったわけだけど、インターネットで世界中どこにでもつながれる今なら居住地に関係なく国を選べるようにしてもいいんじゃないかと思う。

なんてことも思いついたのだが、話がまとまらなくなってきたのでそれについてはまたべつの機会に……。

2019年4月1日月曜日

【映画感想】『のび太の月面探査記』

『のび太の月面探査記』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編劇場版シリーズ39作目。直木賞受賞作「鍵のない夢を見る」、ドラえもんのひみつ道具を各章のタイトルに起用した「凍りのくじら」などで知られる人気作家の辻村深月が、映画脚本に初挑戦し、月面を舞台にドラえもんとのび太たちの冒険を描いた。月面探査機がとらえた白い影がニュースとなり、それを「月のウサギだ」と主張したのび太は、周囲から笑われてしまう。そこで、ドラえもんのひみつ道具「異説クラブメンバーズバッジ」を使い、月の裏側にウサギ王国を作ることにしたのび太。そんなある日、不思議な転校生の少年ルカが現れ、のび太たちと一緒にウサギ王国に行くことになるのだが……。監督は「映画ドラえもん」シリーズを手がけるのは3作目となる八鍬新之介。ゲスト声優に広瀬アリス、柳楽優弥、吉田鋼太郎ら。

劇場にて、五歳の娘といっしょに鑑賞。

「娘といっしょにドラえもんの映画を観にくるのははじめてだな」とおもっていたけど、よく考えたら、ドラえもんの映画を劇場に観にいくこと自体はじめてだ。

子どもの頃、テレビでやっているのを観たり漫画版で読んだりしていたので、すっかりよく観ていた気になっていた。
1作目『のび太の恐竜』 ~14作目『のび太とブリキの迷宮』あたりまでは、読んだりテレビで観たりしていた。
そのへんでぼくが大きくなったのと、内容が説教くさくなってきたので、しばらく遠ざかっていた。
昨年、娘がドラえもんを楽しめるようになってきたので、AmazonPrimeで『のび太の南極カチコチ大冒険』を鑑賞。 「最近のドラえもん映画ってこんな複雑なストーリーなのか……」とおもった記憶がある。
(あと『緑の巨人伝』を観て「これはひどい……」とおもった)



さて、『のび太の月面探査記』である。
映画館の入場時に、特典グッズ(ドラえもんのチョロQ)をもらえる。子どもだけかとおもっていたらおっさんにももらえる。うれしい。
これこれ、子どもの頃こういうグッズほしかったんだよなー。テレビで予告編を観るたびにほしいとおもっていた。

べつにぼくのうちが貧しかったわけではないけど、田舎だったので映画館まで行くためにはバスと電車二本を乗りつがないといけなかった。だから基本的にぼくらの町の人間にとって映画というのはテレビかビデオで観るもので、そもそも「映画館に行く」という発想がなかった。

今回の『月面探査記』だが、原作が辻村深月氏だと聞いていたのでおもしろそうだとおもっていた(とはいえデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』が好きになれなかったのでそれ以降の作品は読んでないんだけど)。
『凍りのくじら』でドラえもんを扱っている人、という知識だけはあったので。読んでないけど。


映画の感想だけど、まず、「これドラえもんの映画にしてはむずかしくない?」とおもった。

[異説クラブメンバーズバッジ]という道具が出てきて、これが今回のキーアイテムになる。
というかほとんど他の道具が出てこない。他に目を惹くのは[エスパー帽]ぐらいで、あとは映画でおなじみの[どこでもドア][タケコプター][ひらりマント][空気砲][コエカタマリン]などで、使用にあたって説明すらされない。

[異説クラブメンバーズバッジ]がなかなかややこしい。
天動説やツチノコ生存説のように、異説として一定の支持のある説をマイクに吹きこむと、メンバーズバッジをつけている人たちにはその説が実現しているように見える、という道具。
ううむ、むずかしいね。
「異説として一定の支持がある説じゃないとダメ」「バッジをつけている人にしか共有されない」という制約があるので、なんでもやりたい放題&全人類に適用される[もしもボックス]の劣化版という感じの道具だね。

しかしこの制約がストーリー上重要なカギを握っている。特に終盤の大逆転は、[異説クラブメンバーズバッジ]によく似た道具が登場することで実現する。
が、[異説クラブメンバーズバッジ]がすでにわかりにくいのに(うちの五歳の娘はぜんぜんわかっていなかった)、それに似ているけど異なる効力を持つ道具が登場するので(しかも簡素な説明しかない)、「え? つまりどういうこと?」とおもっている間にどんどんストーリーが進んでしまう。
ラスボスとの戦闘中なのでくだくだ説明する時間がないんだろうけど、メインストーリーにからんでくる話なのでもう少しわかりやすく表現することはできなかったのかな……とおもってしまう。


また、今作には[カグヤ星][エスパル][エーテル][ムービット]という独自の概念がいくつか登場する。
[エスパル]は[カグヤ星]から脱出して千年前から月に住んでいた種族、[ムービット]は月に住んでいるがのび太たちが[異説クラブメンバーズバッジ]によってつくりだした種族。

のび太たち地球人を含めれば三種類の種族が月にいる(さらにカグヤ星にはカグヤ星人もいる)わけで、このへんもややこしい。


観終わった後で娘に「どんな話だった? おかあさんは観てないから、おかあさんにわかるように教えてあげて」と言ったところ、エピソードひとつひとつはちゃんとおぼえていたが、やはり「どういう種族がいて何のために戦ったのか」「[異説メンバーズクラブバッジ]がどういう役割を果たすのか」については理解できていなかった。



だがストーリーがこみいっているからといって、おもしろくないかというとそんなことはない。
娘は「おもしろかった! 来年も観にいきたい!」と言っていた。

細部はけっこう練っているし登場人物も多いが、
・のび太やジャイアンなどの主要キャラはきちんと自分に与えられた役割をこなしている。
・敵味方、善悪がはっきりしている。敵はいかにも邪悪な容貌・声をしている。
「悪人とおもったら実は善人」「悪人にも悪人なりの正義があり同情すべき点もある」といった多面性もほぼない。
・ストーリーの骨格は「仲間を守るために悪を助ける」というシンプルなものから大きく逸脱しない。

といったところはきちんと押さえられていて、だから五歳児が観ても(全部はわからなくても)楽しめるのだろう。
このへんはさすがドラえもん映画だ。



この映画の見どころのひとつは
「のび太たちが一度家に帰った後、さらわれた仲間を助けにいくために再結集する」というシーン。
ポスターにもなったシーンだ( https://corobuzz.com/archives/133477 )。

台詞はほとんどないが、「死をも覚悟して心の中で家族に別れを告げる」姿が胸を印象的だ。
特にスネ夫に関してはへたれであるがゆえにその葛藤も大きいであろうことが想像できて、より胸を打つ。

のび太やジャイアンは映画版だとやたらかっこいいが、スネ夫は映画でも臆病で保身的な人間として描かれる。
『のびたの恐竜』では、命の危険を背負ってでもピー助を故郷に送りとどけようとするのび太(とジャイアン)に対して、スネ夫はピー助をハンターに売りわたして自分たちの命を助けてもらおうとする。
のび太とジャイアンの男気が光るシーンだが、ぼくだったらスネ夫側につく。他者(しかも恐竜)を救うことよりも自分の身を守ることを真っ先に考える。ほとんどの人間はそうだろう。
じつはスネ夫がいちばん人間らしいキャラクターなんだよね。だからこそ『のび太の宇宙小戦争』で活躍するスネ夫にはぐっとくる。

『月面探査記』で、再集合の時刻にスネ夫だけは姿を現さない。
怖気づいてしまったのかという雰囲気が漂う中、ジャイアンが「もう少しだけ待ってみようぜ」と言う。
そこに現れるスネ夫。「前髪が決まらなくって」と言い訳。

このシーンが、いちばん好きだった。


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2019年3月29日金曜日

元号について


ふだん、元号はほとんど使わない。
会社の書類関係も基本的には西暦で作る。

元号なんてなくしてしまえなんていう人もいる。
ぼくはそうはおもわない。あまり使わないけど、あったほうがいいとおもう。


ぼくらはあまり時間をとらえるのが得意でない。
数十年単位で物事を考えることはほとんどない。長くて数年、ほとんどが一年以内だ。

一年先の予定なんてまったく決まっていないし、一年以上前の思い出がすっぱりなくなったとしても生活する上ではそれほど不自由は感じないだろう。

八十歳まで生きて、文書や写真や映像で記録を残せるようになった現代においてもこうなのだから、原始狩猟採集生活をしていた時代の人類には、数年単位で物事を考えることなどほとんどなかったにちがいない(そして人類の歴史の大部分はそういう生活をしていた)。
人類は長いスパンで物事を考えられるようにできていないのだ。



そこで役に立つのが、時代の区切りだ。

「平成時代」という区切りをつけることで、長い時代を脳の中で整理しやすくなる。

たとえばテクノロジーの分野だと
「平成は、携帯電話やインターネットが爆発的に普及した時代」
とか。

経済だと
「平成は、長く不況に苦しみ終身雇用制度や年功序列賃金が崩壊していった時代」
とか。

たいていの物事はいっぺんには変わらないので、一年単位だと短すぎる。
一世紀だと長すぎる。百年前と今とでは何もかもがちがう。そもそも百年前のことを記憶している人がほとんどいない。

ある程度の長期的な変化を把握するには、元号ぐらいの長さがちょうどいい。
(ただし昭和は長すぎる。戦争で出征していた世代と、生まれたときからコンビニもファミコンもあった世代を「昭和生まれ」で一緒くたにするのはさすがに無理がある)

昭和は例外(大正時代が短かった+医学の驚異的な進歩があった)にしても、元号は天皇の世代交代が区切りになるから、必然的に二十~三十年ぐらいの長さになる。

平成は三十年と四ヶ月。
これはちょうどいい長さだ。

女性の初産時の平均年齢がだいたい三十歳ぐらいだそうだ。
つまり平成元年に生まれた子どもが、次の元号の元年に親になるぐらい。

元号がちょうど一世代。
これぐらいのスパンだと「ひとつの時代が終わる」という感じがして、感覚的にはちょうどいい。

数十年たってから「たまごっちが流行ったのっていつだったっけ」「CDを買わなくなったのっていつだったっけ」「あいつと出会ったのはいつだったっけ」と振りかえったときに、西暦何年かはわからなくても「平成時代だったな」ということぐらいはわかる。

数十年前の記憶なんてそれぐらいでいい。
こういう節目があるのはけっこう便利だ。

だから元号はこれからもぜひ存続させてほしいとおもう。



とはいえ、役所の文書で元号を使わせることには反対だけどね。

それとこれとは別問題だぜ。


2019年3月28日木曜日

【読書感想文】全音痴必読の名著 / 小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』

オンチは誰がつくるのか

小畑 千尋

内容(e-honより)
「オンチはなおりますか?」実に多くの方が質問されます。オンチはなおすものではありません。克服するものです。オンチは病気ではなく、生まれながらの能力の欠如でもないからです。歌唱スキルは、適切なトレーニングを行えば、発達可能な能力であり、大人になってからでも十分に向上します。

ぼくは音痴だ。ものすごい音痴だ。
どのぐらい音痴かというと、2音を聴いて「どっちが高い?」と言われてもよくわからないときがある。それぐらい音痴だ。

中学生のときに友だちから「おまえ歌へただな」と言われ、そのときは「まさか」と思っていたのだが、合唱コンクールの練習時に教師から「まったくちがう」と言われて自分が音痴だと確信した。

それ以来、自分は音痴だという自覚を持って生きている。
中高生のときはすごく恥ずかしかった。音痴であることがコンプレックスだった。音楽の授業や合唱コンクールが苦痛だった。
人前では歌わない。カラオケにも行かない。どうしようもないときはしぶしぶ付きあうが、どれだけ勧められてもマイクは握らない。

もうこれは一生治らないものだからしょうがない、とおもって生きてきた。

おっさんになってからはカラオケに誘われることもなくなってきたので、特に不自由しなかった。ようやく音痴で苦しむことから解放されたとおもった。

だが娘が生まれてそうも言ってられなくなった。
子どもを寝かしつけるとき。
子どもから「いっしょに歌おう」と言われたとき。
歌ってあげたい。だが歌えない。ぼくのへたな歌を聞かせたら娘も音痴になってしまうかも。


……そんな心配もむなしく、娘は音痴になった。

娘の歌はへただ。
音痴のぼくが聞いてもめちゃくちゃだとおもうので、相当ひどいのだろう。
まあ子どもだからこんなもんかとおもっていたのだが、娘の友だちが歌っているのを聞いて驚いた。うまいのだ。
幼児でもうまく歌える子はいる。だとしたら娘は音痴なのだろう。

もうぼくが音痴なのはしょうがないが、娘にはこれから音楽の授業や合唱コンクールや友だちとのカラオケなどの試練が待ち受けている。
つらい思いをさせるのはかわいそうだ。

ということで、一縷の望みをかけてこの本を読んでみた。

いい本だった。すごく。

音痴になるメカニズムや克服トレーニング方法だけでなく、オンチの人の抱える精神面での悩み、それが生まれる社会的背景、トレーニングによって音痴を克服した人のエピソードなどじつに丁寧に説明されている。
非常に読みごたえがあった。



ぼくの妻は歌がうまい。
おまけに絶対音感もある。
ぼくがピアノで2つの鍵盤を同時に叩いてみせると、聴いただけで「ドとソのシャープ」なんて言いあてることができる。
一度聴いただけの曲でも、ピアノで演奏することができる。

特別なトレーニングをしたわけではないという。ピアノは習っていたが趣味程度。絶対音感は「自然に身についた」という。

ぼくからしたら驚異的だ。
体操選手の後方抱え込み2回宙返り3回ひねりを見ているような気持ちだ。とても同じ人間の所業とはおもえない。


歌のうまい人の例に漏れず、妻には歌のへたな人の感覚がわからない。
娘に歌を教えるときも
「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」
なんて言う。

音痴代表として、ぼくはおもう。
ちがうんだって。
よく聴いてるんだよ。よく聴いてもどっちが高いかわからないんだよ。そもそも「音が高い」という感覚もよくわかってないんだよ。

音痴にとっての「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」は、真っ暗な部屋で「ほらこれと同じ絵を描いてごらん。見たまんまに描けばいいから」と言われているようなものだ。
技巧がどうこう以前に、見えてないのに描けるわけがない。

でも歌がうまい人には、音痴の人が「見えていない」ことがわからないらしい。
 オンチだと言われてきた方は、「なんで音が外れるんだ」「なんでみんなは合わせられるのに、自分は合わせられないんだ」と思い続けてきたかもしれません。でも私がレッスンを通して強く感じるのは、彼(彼女)らは同一の音高で合わせる感覚を単に知らなかっただけだということです。
 歌唱指導で、内的フィードバックができない人に対して、いくら「この音に合わせて」「よく聴いて」なんて指示を出しても効果はありません。一体「何をよく聴いたらいいのか」がわからないからです。音楽の指導者のほとんどは、そのことが想像できていないのではないでしょうか。

学校の音楽の先生はほとんどが子どもの頃から歌が得意だった人だろう。音程を理解するのに苦労した、なんてことはまず経験していないはず。

だから「音の高低がわからない」という感覚がわからない。
平気で「よく聴いて、同じ音で歌って」なんて口にする。

英語のネイティブスピーカーが[a]を使うべきか[the]を使うべきかなんて考えなくてもわかるように、音楽の先生にとっては「ドよりレが高い」なんてのは自明のことなので考えて理解するようなことじゃないのだろう。
 私は、音程が著しく外れる歌を聴くと、どのように音程が外れているのか、本人がそのことを認知できているのかを分析しています。それは、「教育者が使う言葉として『オンチ』はふさわしくないから、使わないようにしよう」という発想からではありません。
 音程が外れた歌唱を聴いた時、「オンチ」というレッテルしか貼れない音楽の指導者だったら、(ちょっときつい言い方になってしまうかもしれませんが)それは専門性に欠けると思うのです。もし歌唱を指導する立場の人だったら、著しく音程が外れた歌を聴いた時、その人がどうして音程を正しく合わせることができないのか、その原因を探り、指導をすべきではないでしょうか。
 これも、体育に置き換えて考えてみると、わかりやすいと思います。たとえば、水泳で息継ぎができない子どもに対して、「どうして息継ぎができないのか」「どうやったらその子どもが息継ぎをできるようになるのか」を考え、その子どもにとって 必要な指導をするのが体育の先生の仕事です。それを、体育の先生が「この児童は、運動オンチだなぁ」と思って、息継ぎの方法を教えないのはかなり妙な話ですよね。音楽の先生が「オンチだ」と思って具体的な指導をしないのは、これと同じことだと私は感じています。

そうそう、指摘だけされて指導してもらえないってのが、音痴にとっていちばんつらいとこなんだよね。

ぼくも音楽の先生から「音がずれてるね」と言われたことがある。
でもそれだけ。
修正するための指導を受けたことはない。
どうやったらずれずに歌えるのか、そもそもずれてるとはどういうことなのか、ずれてないのがどういう状態なのか、音痴のぼくが理解できるような説明を誰もしてくれなかった。
通知表には10段階評価で3か4がつけられて、それで終わり。改善のしようがない。



今でこそ「ぼく音痴なんですよー」と堂々と言えるようになったが、思春期の頃はそれすら言えないぐらい恥ずかしいことだった。

カラオケに誘われたときも「音痴だからやめとくわ」とは言えずに、「あの狭い空間が苦手なんだよね。息苦しくって」なんて妙な嘘をついて逃げていた。

そこまでコンプレックスにおもっていた理由も、この本を読んで腑に落ちた。
 そもそも、「歌う」ことは楽器の演奏とは異なった感覚があります。弦楽器であれ、管楽器であれ、打楽器であれ、楽器は演奏する本人と、演奏する楽器が基本的に別物です。
 たとえば、ピアノは指が鍵盤に接触しています。でも、音を発する楽器本体は人間ではなく、ピアノです。弦楽器や管楽器も体が接触し、振動させる、息を吹き込むなどしても、やはり音を発するのは楽器本体です。熟練者になると、楽器がまるで自分の体の一部のように演奏する感覚もあるでしょう。でも歌は、体そのものが楽器なのです。話す時の声が体から発せられるのと同じように、歌声も演奏者自身の体から発せられます。
 ですから、たとえば学校の音楽の授業で、鍵盤ハーモニカを弾いている時に、「違う音を弾いてるよ」と指摘されたり、リコーダーを吹いて「押さえる指が間違っている」と指摘されたりするのと、歌って「音程が違う」と言われるのとでは、全く重みが違うのです。楽器だとワンクッションあるけれど、歌はダイレクトに感じられてしまうのです。
 こんなふうに考えてみると、歌に対する指摘を受けたとしても、その指摘が直接自分自身に向けられたように感じてしまっても不思議ではありません。「歌声」イコール「私自身」という感覚です。

そっか!
「歌声」イコール「私自身」だから恥ずかしいのか!

たしかにそうだよね。
ぼくは楽器全般ができないけど、それはべつに恥ずかしいとおもったことがない。
もし友人の前でリコーダーを吹くような状況になっても(どんな状況だ)、堂々とへたくそな演奏をやってやれる。
それで「おまえリコーダーへただなー」と笑われてもぜんぜん平気だ。「そやねん。へたやねん」と言える。

でも、友人の前でへたな歌を歌いたくない。「おまえ歌へただなー」と言われたら赤面してしまう。


歌のうまい人には理解できないかもしれないけど、「歌がへた」ってほんとに重いことなんだよね。
「リコーダーがへた」とか「バスケットボールがへた」とはぜんぜんちがう。
それらは「練習が足りないから」ですませられるけど、歌がへたなのは人間として欠陥があるような気さえする。


これは個人的な憶測だけど、音痴が恥ずかしいのってジャイアンのせいなんじゃないかとおもう。
『ドラえもん』の中で、ジャイアンの音痴ってめちゃくちゃひどい描かれ方してるじゃない。ジャイアンの歌声を聞いた子どもが気を失うとか、猫が木から落ちてくるとか、窓が割れるとか。
あれってべつに音痴なんじゃなくてただうるさいだけなんじゃないかとおもうんだけど、漫画の中では「歌がへたなせい」ということになっている(窓が割れるぐらいのボリュームだったらたとえうまい歌でも具合悪くなるとおもうんだけど)。

のび太が勉強できないこととかスポーツが苦手なこととかは同情的に描かれているのに、ジャイアンの音痴に対してはそういう視点は一切なく、とことん笑いものにされている。
リサイタル参加を強制する点についてはジャイアンが悪いが、音痴なのはしかたのないことなのに。

あれは「音痴は人前で歌うな」というメッセージになってしまってるんだよね。
ひどいや藤子・F・不二雄先生……。



くりかえしになるが、本当にいい本だった。

著者は東京音大を出てピアノの指導者をしている人なので、音痴で苦労した経験など一度もないにちがいない。
だけど音痴の人に寄りそう姿勢を持っている。
ちゃんと原因を分析して、音痴であることによってどんな精神的な苦痛を抱えているかをさぐって、歌が嫌いにならないようにすごく配慮しながら指導をしている。

もう、歌の先生というよりセラピストのようだ。

ぼくもこの著者みたいな先生に指導してもらいたかった……。
(学校のカリキュラムではそこまでの時間も割けないんだろうけど)

この本には、音痴のメカニズムや、修正するための方法、そしてじっさいに克服した人の事例が紹介されている。

自分はもう一生音痴として生きていくしかないとおもっていたが、この本を読んで「ぼくの音痴も克服できるかもしれない」とおもえるようになった。
もうそれだけで気持ちが楽になった。

ぼくの音痴はまったく治っていないが、しかし気持ちはまったくちがう。
「一生歩けません」と「リハビリをしないと歩けるようになりません」ぐらいちがう。

娘も、音楽の道に進むことは無理でも、友だちと行ったカラオケで恥をかかなくて済むぐらいにはなるかもしれない。
さっそくこの本に載っているトレーニングをやってもらおう(サポートするのは音程がとれる人じゃないといけないので妻にやってもらうのだが)。

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