2018年10月29日月曜日

【読書感想文】ピタゴラスイッチみたいなトリック / 井上 真偽『探偵が早すぎる』


『探偵が早すぎる』

井上 真偽

内容(e-honより)
父の死により莫大な遺産を相続した女子高生の一華。その遺産を狙い、一族は彼女を事故に見せかけ殺害しようと試みる。一華が唯一信頼する使用人の橋田は、命を救うためにある人物を雇った。それは事件が起こる前にトリックを看破、犯人(未遂)を特定してしまう究極の探偵!完全犯罪かと思われた計画はなぜ露見した!?史上最速で事件を解決、探偵が「人を殺させない」ミステリ誕生!

莫大な遺産(5兆円!)を相続した女子高生・一華。その遺産を狙い、親戚一同が警察にはばれないように、しかし半ば公然と殺害計画を立てる。
命を狙われていることを知っている一華は犯行を防ぐために探偵を雇う……。

というリアリティもへったくれもないミステリ小説。一日に十件ぐらいの殺人未遂事件が起こるからね(ターゲットは同一人物)。
まあこれはこれでアリだと思う。
米澤穂信作品とか好きな人には合うかもしれないなあ。ぼくの好みじゃないけど。

会話文とか行動規範とかがぜんぶマンガっぽい。マンガのノベライズを読んでいるようなうすら寒さを感じてしまう。要するに、マンガの様式をそのまま小説に持ちこんでもギャグがうわすべりするよね。
うーん、いわゆるライトノベルって読んだことないけどこんな感じなのかなあ。ライトノベル好きなら違和感なく入りこめるのかも。



文章とか登場人物の名前とか(伯父さんの名前が「大陀羅 亜謄蛇」って!)はぜんぜん好きになれなかったけど、殺人事件を防いでしまう&同じトリックをやり返す探偵、という試みはおもしろかった。

「探偵」という古くさい装置をうまく機能させているのもいい。
ホームズや江戸川乱歩の時代ならいざしらず、現代において殺人事件が起こったら探偵の出番なんてない。殺人事件の捜査は刑事の仕事だ。
だから探偵マンガでは「たまたま殺人事件の現場に居合わせた名探偵」という無茶な設定が必要になり、名探偵が歩けば殺人にあたる、という穏やかでない状況に陥ることになる。

ところが「殺人を未然に防ぐ」という設定であれば、警察の出番はない。事件が起こる前に警察は動けないからだ。
おまけに「同じトリックでやり返す」なんて乱暴も、公務員である警察にはできない。探偵ならではだ。

廃れかけていた探偵小説にこの小説が新たな息吹を吹きこんだ、といったら大げさだろうか。大げさだね。



トリックは探偵ガリレオの劣化版、という感じ。
よく考えている、と思うけど、裏を返せば不自然きわまりないということでもある。

種明かしのためのトリックなんだよなあ。

「どうやって謎解きをするか」を先に考えて、その都合にあうような殺し方を考えました、なんだろうなあ。無茶すぎる。
ピタゴラスイッチみたいなトリックなので、とにかくばかばかしくて、そういう意味ではおもしろいと言えないこともない。
しかし金田一耕助の『本陣殺人事件』みたいなのを今の時代にやられてもなあ……。

「未然に防ぐ」という高すぎるハードルがあるから、「わざとかと思うぐらい不自然に犯人が痕跡を残している」か「探偵が他人の心を読めるのかってぐらい鋭い」か「根拠薄弱な思いこみで探偵が動きすぎ(そしてことごとく的中する)」の連発になってしまう。
もともとの設定に無理があるからしょうがないんだけど。

あんまりまじめに謎解きに向き合う類ではなく、「ばかばかしいなあ」と言いながら気楽に楽しめばいい小説なんだろうな。
とはいえバカミスと呼べるほどの突きぬけたところもないんだよなあ。



いろいろ目についた欠点も書いたけど、でもこういう新しい試みをしている小説は応援したい。
乾くるみのような個性派ミステリ作家としてがんばってほしい。

個人的にはしばらくは読まないと思うけど。


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2018年10月26日金曜日

【読書感想文】骨の髄まで翻訳家 / 鴻巣 友季子『全身翻訳家』


全身翻訳家

鴻巣 友季子

内容(e-honより)
食事をしても子どもと会話しても本を読んでも映画を観ても旅に出かけても、すべて翻訳につながってしまう。翻訳家・鴻巣友季子が、その修業時代から今に至るまでを赤裸々かつ不思議に語ったエッセイ集。五感のすべてが、翻訳というフィルターを通して見える世界は、こんなにも深く奇妙でこんなにも楽しい。エッセイ集「やみくも」を大幅改編+増補した決定版。

米原万里氏、岸本佐知子氏、田丸公美子氏など、翻訳家や通訳者には、いいエッセイを書く人が多い。
言葉に対する感覚が鋭敏だからなのだろう、何気ない発言や文章をきっかけに話がどんどんはずんでゆくのが楽しい。

『全身翻訳家』というタイトルが表すように、鴻巣友季子さんという人は骨の髄まで翻訳家だ。
この本には数々のエッセイが収録されているが、どれも翻訳、外国語、日本語、異文化、外国文学という切り口で料理されている。
何をするにも「これをどう訳すか」「これは日本人に伝わるだろうか」「書き手はどういった意図でこの文章を書いたのか」と考えているように見える。

たとえばこんなエッセイ。
 友だちの息子は四歳か五歳のころ、こんなことを言ったそうだ。ある日、家のなかを駆けまわっていて、むこうずねを家具の角かなにかに思いきりぶつけてしまった。痛い! 痛い! ものすごく痛い!
「だいじょうぶ? そんなに痛いの?」
 うずくまる息子に母親が尋ねると、彼はぶつけたむこうずねをしっかり押さえながら、痛みをこう表現した。
「痛いの! おふろに入りたくなっちゃうぐらい痛いの!」
 風呂に入りたくなるぐらいの痛み。この痛みは大好きなおふろに入ることでしか癒やし得ぬ、ということか。ぼくの受けたこの心身の痛手、もうこれはやさしいお湯に浸かってリセットするしかないんだ、ということかもしれない。「シャワーで流せる痛み」ではないということだ。いずれにせよ、湯槽にゆっくり浸かってなごむという風呂文化のある国でしか理解されにくい単位だろう。
 1オフロ(Ofro)。
 これまた翻訳するとなると、手こずりそうな単位だ。

「子どもならではのほほえましい表現」でも、やはり翻訳者の視点でどう訳すかを考えている。
そのまま外国語に訳しても、風呂文化のない人には伝わらない。訳すならたとえば「あたたかい毛布にくるまれたくなるぐらい痛い」といったところだろうか。それだって南国の人には伝わりにくいだろうなあ。



「うるかす」という言葉について。
 そして、父と母が結婚後、長く暮らしていた北海道のことば。貼りついたものを剥がすために水に浸しておくことを「うるかす」と言う。これも大学生になるまで方言とは知らなかった。「うるかす」にあたる語彙が標準語にはないようだが、困らないのだろうか。たとえば、間違って貼った切手を浸けてある水をうっかり家族が捨てそうになったりしても、「それは間違って貼っちゃった切手を剥がそうと思って水に浸けているところなんだから触らないでよ」などと長々しく注意を与えるのだろうか。言ってる間に捨てられてしまうのではないか。
西日本で育ったぼくは、「うるかす」を一度も聞いたことがない。

炊飯釜やお茶碗を洗う前には水に漬けておくが、はたしてこれはなんと表現するだろうか。
「ふやかす」がいちばん近いかな。ただし「ふやかす」には「剥がすため」という意味はなく、「柔らかくするために水に浸しておく」という意味なので、微妙に違いそうだ。
ただし「剥がすために水に浸しておくこと」を他人に説明する状況はあまり多くないので、「ふやかす」でも困ったことはない。

そういえば、香川出身の人が「ひちぎる」という言葉を使っていた。
「どういう意味?」と訊くと
「うーん、『ひちぎる』は『ひちぎる』やきん、他の言葉でよう説明せんな……。強いていうならおもいっきりつねって少し加えながら引っぱる、みたいな感じかな。『引きちぎる』に似てるけど、『ひちぎる』はじっさいにちぎるわけではないからな……。引きちぎる寸前まで持っていく、みたいな感じかな……」
となんとも長ったらしい説明をしてくれた。

そういえば少し前、『翻訳できない世界のことば』という本を書店で見かけた。
「パンに乗せるもの全般」を指す言葉や、「身体についたベルトなどの痕」を指す言葉など、他の言語にはないユニークな意味を持った単語を集めた本だ。

日本語だと「わびさび」や「積ん読」などが、翻訳不能な概念らしい。しかし「買ったものの読む時間や気力が起きずにいつか読もうと思ったまま放置されている本」は世界中にあるだろうから、言われれば「あーたしかに」と思う。

「パンに乗せるもの全般」なんてのも、日本語だと「なんかジャム的なもの」なんて言い回しをするしかない。そういう言葉があると便利だ。

グローバル化によって世界中の言語は少数に集約されていっているけど、言語が消えるということは「その言語にしかない概念」も失われてしまうということだ。
めったに使わないけど言い換え不能な言葉たちには、ぜひとも来世紀以降まで生き延びていってほしい。

そういや「あざとい」なんて言葉も、外国語に言いかえるのがすごく難しいんじゃないかなあ。



保育園の連絡ノートの話。
 子どものようすを自由に書く欄もある。さっさと事務的に書けばいいのに、「えーと、どう書こうか」と、いちおう文章の組み立てなど考えてしまうのは、文筆業者の哀しい性である。夕食の片付け物などしながら、そうだ、あのネタをこう書いて……と思いめぐらしたりする。雑誌などに書くエッセイの仕事とほとんど同程度の気合いの入れようだ。こういう力を入れなくてもいいことに限って、やみくもにがんばるから始末がわるい。四百字ぐらい書いてからぜんぶ気に入らなくなって、全文しこしこと修正液で消したこともあった。そうやって「原稿」を書きあげた後は当然ながら小さな達成感があり、思わずひとりで祝杯をあげてしまったりする午前三時。
 先日は、「お風呂で子どもが急に『ママ、お顔が汚れてるからふいてあげるね」と言って、タオルでごしごしやってくれました。ただ、それは汚れではなく肌のシミだったのです……」という自虐ネタを書いたのに、先生から反応のコメントがなく、密かに傷ついた。
これ、わかるなあ……。
ぼくもほぼ毎日保育園の連絡ノートを書いている(昨日は熱があったとかご飯を食べなかったとかの重要な連絡だけは妻が書く)。

これがけっこうたいへんだし、その分やりがいもある。書けば確実にレスポンスがある(先生がコメントを返してくれる)のだから書いていて楽しい。
娘がおもしろい発言をしたときは「よっしゃ、ノートに書くネタができた!」と思うし、ネタがない日は家を出る直前まで「何書こう……」と唸っている。

親ですらたいへんなのだから、十数人分のノートを読んで書かないといけない先生は、もっと骨の折れる作業だろう。
だからこっちが「今日のはおもしろいぞ」という会心のネタを書いても「今日はみんなで公園に行きました」なんてぜんぜん見当はずれのコメントが返ってきたりもする(特に若い先生ほどその傾向が強い。時間的余裕がないんだろう。たいへんだ)。
でもそういうときがあるからこそ「おもしろいですね!」なんてコメントが返ってきたときはすごくうれしい。

プロの文筆家であっても(翻訳者なら特に)読者からのダイレクトな反応というのは貴重なものなんだろうね。

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2018年10月25日木曜日

一度は宇宙人に連れ去られたものの「やっぱりいいや」と突き返された人あるある


・宇宙まで行った人に対しては劣等感があるが、連れ去られたことのない人のことは正直下に見ている。

・問診表の備考のところに「連れ去られた」と書くべきかどうか毎回悩む。

・自動改札に引っかかると「あのときの影響か……!?」と一瞬思う。

・今度連れ去られたときはもっと従順にふるまおうと思っている。

・「こんな人は献血できません」の項目にあてはまらないけど、やっぱり献血を躊躇してしまう

・UFOのイラストを見ると「まあ想像で描いたにしてはいい線いってるけどわかってないなー」と思ってしまう。

・「宇宙船から帰ってきたときの気分のカクテルを」と注文してバーテンダーを困らせてしまう

・宇宙船に連れていかれるとき、死んだおじいちゃんが夢の中に出てきて「おまえが来るのはまだ早い」と言われた。


2018年10月24日水曜日

【読書感想文】わかりやすいメッセージで伝えるのはやめてくれ / 本間 龍・南部 義典『広告が憲法を殺す日』


『広告が憲法を殺す日
国民投票とプロパガンダCM』

本間 龍  南部 義典

内容(e-honより)
憲法改正には、国会で三分の二以上の賛成と、「国民投票」で過半数の賛成が必要だが、二〇〇七年に制定された国民投票法には致命的な欠陥がある。海外の多くの国では原則禁止となっている「広告の規制」がほとんどなく、CMが流し放題となっているのだ。さらに日本の広告業界は、事実上の電通一社寡占状態にあり、その電通は七〇年にわたって自民党と強固に結びついている。これが意味することは何か―?元博報堂社員で広告業界のウラを知り尽くす本間龍と、政策秘書として国民投票法(民主党案)の起草に携わった南部義典が、巨大資本がもたらす「狂乱」をシミュレートし、制度の改善案を提言する。

近いうちに改憲の是非を問う国民投票がおこなわれるのではないかと言われている。
少なくとも首相は憲法を変えたそうだ(憲法改正、という手段が目的になっているように見えるが)。

個人的には改憲には消極的(というより改憲を目的とした改憲には反対)だけど、正当な憲法に記された手続に従って「国会議員の3分の2の同意」→「国民の過半数の賛成」という手順を踏んで改憲されるのであれば反対する理由はない。

ところが、その国民投票に関する法整備が欠陥だらけだと、本間龍氏(作家、元博報堂社員)、南部義典氏(法学者)は指摘する。
具体的には、広告を制限する仕組みがまるでないこと。このままだと、金を持っている陣営(今だと改憲賛成側)のCMがじゃんじゃん流されて、金にものを言わせた国民投票論争になるんじゃないか、ということだ。



ぼくは仕事で広告の運用をしているので、広告の効果をよく知っている(ネット広告だけだけどね)。

かつて、ぼくはこのブログで「広告の効果は大きいからデモ行進やるよりネット広告でも出したほうがよっぽど効果的だよ」と書いた。そしてその記事を広告配信した(数百円でも広告配信できるのがネット広告のいいところだ)。

すると「わざわざ広告をクリックしてサイトを見にくるやつなんかいない!」というコメントがつけられた。
ところが、そのコメントをつけた人は広告からやってきた人だったのだ!

広告は、多くの人が思っているよりずっと人々の行動に影響を与える。
にもかかわらず影響を受けた人が「自分は広告の影響を受けた」と思わない。
操られていることに気づかずに操られてしまうのが、広告のすごいところであり怖いところだ。

影響を与えないのであれば大企業が多大な金を広告に投じるはずがない。
広告を配信する側から言わせると、「自分は広告に影響されていない」と思っている人こそがいちばんのカモだ。

それに、テレビなどのメディアにCMを出稿するということは、いってみれば番組のスポンサーになるということだ。
ニュース番組や情報番組が、はたしてスポンサー様のご意向に反した報道をできるだろうか?
南部 「番組の提供枠」についてふと思い出したのですが、ドラマやバラエティ番組の出演者を選ぶキャスティングに、「スポンサーの御意向」が大きく影響するという話をよく耳にします。時にはそうした娯楽番組だけでなく、ニュース番組や討論番組などの報道番組でも、キャスターの降板や出演者の人選などについて、その真偽はともかく「スポンサーの御意向が影響している」といった声もありますよね。実際、ニュース番組の報道姿勢を理由に「スポンサーを降板する」と、公然と番組の内容に圧力をかける企業もあるようですし。
本間 僕が一番心配しているのも、実はその点です。賛成派と反対派、それぞれが流すCMは「立場」がハッキリしている。視聴者も「これは賛成派のCMだから」とか「これは反対派のCMだから」という前提で接するわけです。
 しかし、本来は「公平」な立場であるはずのニュース番組や朝のワイドショーなどでも、キャスター、出演者、コメンテーターなどの選び方、番組の構成やカメラワークなどの演出で、視聴者の印象を操作することは簡単にできます。例えば討論番組で、賛成派は若手論客を中心にキャスティングして、反対派は高齢の知識人を多めに呼ぶ、とかね。そうすると当然、賛成派は若々しく活発で、改革者的なイメージに映ります。
 放送法では、放送の「見せ方」や「演出」についての規定がありません。仮にそうした「番組内容」への間接的な影響、圧力があったとしても、それがあからさまなこと――例えば、各派の出演者の人数や、発言時間が明らかに不公平だというレベル――でない限り、基本的には「番組制作上」「演出上」の問題として扱われることになります。
 こうした、広告主に「忖度」して「便宜を図る」のは、放送局が日常的に行っていることです。



イギリスのEU離脱を問う国民投票の際は、離脱賛成派が嘘のデータを用いていたとして問題になった。
しかし、どれだけ嘘を並べたって投票日までにばれなければ問題にならない。
投票した後で嘘が明らかになったところで、投票の結果はひっくりかえらない。
国民投票は「騙したもん勝ち」なのだ。
本間 (中略)あとは、「フェイクニュース」まがいのCMもありうるでしょう。
南部 第1章で述べたように国民投票は人を選ぶ選挙ではないので、公職選挙法のように内容に踏み込んで禁止していません。もちろん明らかなデマや誹謗中傷する内容ならば民事、刑事の事件として司法上の解決を目指したり、JARO(日本広告審査機構)に訴え出ることはできると思いますが、結論が出るころには投票が済んで、その結果が確定している可能性がありますね。
少し前におこなわれた沖縄県知事選でも、候補者を貶めるデマが流出したことが明らかになった。
デマを広めるためだけの立派なサイトまで作られていたので、個人が勘違いで流してしまったようなデマではなく、明らかに組織的なデマの流布だ(そのサイトは選挙終了後すぐ閉鎖されたらしい)。

明確な罰則のある知事選挙でもそういった悪意のある戦術が用いられているのだから、規定のない国民投票であればもっとひどいデマが飛び交うことだろう。

国民投票制度のあるほとんどの国では広告規制があるにもかかわらず、日本ではまったく整備されていない。民放連も自主規制をしないそうだ。

テレビ局も、金になるならそれでいいという考えなんだろう。
経済は大事だが、憲法はもっと大事なんだけどなあ。
本間 やっぱり何度も投票を行っていろいろな経験も経ているから、テレビCMがヤバイということをよく分かっているのでしょう。CMは音と映像で非常に感覚的に人の興味を喚起できる。理屈ではなく、イメージや感覚で「人の心を操る技術」を使って作られるものですからね。
 EU離脱や憲法改正、あるいは脱原発だっていいのですが、そういう国の未来を左右するような、国民一人ひとりが真剣に向き合って考えるべき議論に、テレビCMを使ってイメージで影響を与えようという考え方が、根本的に間違っているのだと思いますよ。
 だから、なぜドイツは国民投票の制度がないのかという話になった時、その理由のひとつが「ナチスドイツ時代の失敗」にあるのだと聞いて、僕はとてもよく分かる気がしたのですね。というのも、ナチスは天才的に、当時のどの国よりも「広告」の力、それも「イメージ広告」の重要性と力を理解していたのだから。
 彼らは映像や音楽やファッションからプロダクトデザインに至るまで、今でいう「マルチメディア的」なアプローチで国民の気持ちを引き付けて独裁体制を確立した。そんなナチス体制下で行われた国民投票で、彼らの提案が有権者の約%%の支持を得て承認されたという事実は、そのまま「国民投票と広告」の問題がはらむ危険性を端的に示していると思いますね。
つくづく「憲法改正が是か非か」を問うより先に、「どういう国民投票制度をつくるべきか」という議論のほうが先だと思う。

頼むから、わかりやすいメッセージで伝えるのはやめてくれ。
憲法について話しあうのに、美しい音楽も容姿端麗なタレントもいらない。
ぼくらはばかなんだから、美しいプロパガンダCMを流されたらころっと騙されちゃうぞ!


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2018年10月23日火曜日

【読書感想文】クルマなしの快適な生活 / 藤井 聡『クルマを捨ててこそ地方は甦る』


『クルマを捨ててこそ地方は甦る』

藤井 聡

内容(e-honより)
日本人のほとんどが、田舎ではクルマなしには生きていけないと考えている。ゆえに、日本の地方都市は「クルマ」が前提になってできあがっている。しかし、今地方が「疲弊」している最大の原因は、まさにこの、地方社会が「クルマに依存しきっている」という点にある、という「真実」は、ほとんど知られていない。本書では、そうした「クルマ依存」がもたらす弊害を理論的に明らかにした上で、富山市のLRT(ライト・レイル・トランジット)導入を中心とした「交通まちづくり」の例や、川越の歩行者天国、京都市の「歩くまち京都」の取り組み事例などを参考に、「脱クルマ」を通して地方を活性化していく驚くべき手法を紹介する。

ぼくは車を持っていない。
以前は仕事で使うために持っていたが、転職したことと、大阪市内に引っ越したことを機に売っぱらってしまった。
なんせうちの近くで駐車場を借りると月三万円もかかるのだ。おまけに市内だと駐車スペースのない店のほうが圧倒的に多い。自動車なんて郊外に出かけるとき以外は無用の長物なのだ。
ちなみに自転車もない。地下鉄・JR・私鉄の駅が徒歩五分圏内にあるし、スーパーもショッピングモールも百貨店も徒歩圏内にあるのだから不便を感じない。
どうしても必要なときはタクシーを利用する。それだって車を保有することに比べたら屁みたいな金額だ。

車を持たない生活はとても快適だ。
車の購入費も駐車場代もガソリン代もオイル交換も定期点検も車検も保険も反則金もタイヤ交換もいらないのだ。
仕事のために車を持っていたときは、給料のかなりの部分が車の購入費と維持費に消えるし、点検やオイル交換で時間もとられてたいへんだった。これでは仕事のために車を持っているのか車を持つために仕事をしているのかわからない。

なにより、ストレスがないのがいい。
ぼくは運転が嫌いだ。というより怖い。運転するときは「事故死したらどうしよう」「人をひいてしまったらどうしよう」と終始びくびくしている。
ドライブが趣味、なんて人の気が知れない。自分や他人の命をかんたんに奪えるものを扱うのが楽しいなんてサイコパスなのか。ぼくにとっては「包丁持って歩くのが好きなんですよね、ひひひ」っていってるのと変わらない。
通勤電車のストレスなんて、運転のストレスに比べたらどうってことない。ほどよい距離を歩くのはむしろストレス解消になる。なにより電車では本を読めるのがいい。

とはいえ郊外の町で生まれ育ったので「車がないと生活できない」人の気持ちもわかる。
ぼくの実家は駅から徒歩四十五分。バス停からでも徒歩十分。駅だって田舎の何もない駅だ。坂だらけだから体力がないと自転車で移動もできない。
ぼくの両親はどこへ行くにも車、駅に行くのも車、週末はより郊外のジャスコ(今はイオン)でお買い物、という生活をしていた(歳をとったので駅から近い家に引っ越したが)。

趣味で車に乗っている人はおいといて、「生活必需品だから車に乗っているけど無くてもすむのなら手放したい」と思っている人も多いはず。
そうはいっても、少し郊外のほうに行くと車なしでは生活できないのが現実だよなあ。
……というのが多くの日本人の認識だと思う。ぼくもそう思っていた。



『クルマを捨ててこそ地方は甦る』では、富山市や京都市でモーダルシフト(輸送方法の転換)に成功した事例を通して、脱・クルマ社会への導入を提言している。

京都市では、四条通(京都市のメイン通り)の車線数を減らし、歩道を拡張したことで観光客数の増加につながった。
京都市の場合、車線を減らしたことの混乱は一時的なもので、付近の他の道が渋滞するようなこともなく(むしろ他の道も交通量が減ったそうだ)、観光客が歩きやすい街になった。

ぼくもこないだ久しぶりに四条通を歩いて、ぐっと歩きやすくなっていたことに驚いた。
以前の四条通は人通りは多いのに道は狭いしタクシーやバスや自転車でごちゃごちゃしていて、とてもショッピングを楽しみながら歩けるような道じゃなかったもんなあ。

自家用車がいかに空間をとるか、ということがよくわかる図。

国土交通省資料『LRT導入の背景と必要性』より
http://www.mlit.go.jp/crd/tosiko/pdf/04section1.pdf
 そしてこの「モーダルシフト」は、街の中心部の渋滞緩和に極めて効果的なのである。
 写真11をご覧いただきたい。これは、「同じ人数を運ぶ場合の、クルマ、バス、LRTの道路占有イメージ」の写真だ。
 この写真を見ればいかにクルマという乗り物が、広大な道路空間を占拠しているのかをおわかりいただけよう。写真左に写された夥しい数のクルマで運んでいる人間は、バスならばたった3台で運ぶことができるのだ。LRT(ライト・レイル・トランジット)という新しいタイプの路面電車の場合には、たった1車両で運ぶことができる。

これを見ると、交通量の多い街で自家用車を走らすことがいかにマイナスか、ということがわかると思う。都市環境にとっても地球環境にとっても。

「歩くのがたいへんだから車」という人は多いだろうが、そもそも車にあわせた街づくりをしているせいで歩くのがたいへんになっているのかもしれない。
街から車を追いだせば、建物と建物の間は近くなり、信号も減り、今よりずっと歩きやすい街になるはずだ。



京都市はほっといても世界中から観光客が訪れる日本有数の観光都市だから同じやりかたが他で通用するかはちょっと怪しいが、富山市の事例は他の都市にも参考になるはずだ。

富山市では、LRT(次世代型路面電車システム)への投資をおこない、街のコンパクト化、公共交通機関の利用者増に成功した。
 さて、こうしたLRT投資の結果、「クルマをやめて公共交通を使う」という行動変化、モーダルシフトを多くの人々において誘発し、公共交通利用者数は着実に増えていった。
 富山港線(ポートラム)についていうなら、この路線はかつてJRが運営しているローカル線だったのだが、これを富山市が譲り受け、一部線路(1.1km区間)を追加投資しつつ、LRTとして甦らせたのであった。結果、LRT化されてから、利用者は平日で約2倍、休日に至っては約4倍に膨れあがった。
 そして、事後調査によれば、「かつてはクルマを使って移動していたが、LRTができたのでクルマをやめてLRTで移動するようになった」という人々は、この新しく増えた利用者たちの2割以上を占めていた。
この背景には北陸新幹線の開業という強い追い風があったわけだが、それだけではこの成功は語れない。

富山市(人口約40万人)のような中核市でも成功しているのだから、各県の県庁所在都市とか、かつて栄えた城下町や港町のようなある程度のインフラ基盤がある都市であればうまくいきそうだ。
タイトルは「地方は甦る」となっているけど、さすがにどんな田舎にでもあてはまる話ではないけどね。



筆者はクルマをなくせ、といっているわけではない。
必要以上のクルマ依存から脱却しよう、という主張だ。人も、街も。

脱クルマ社会の到来は自動車メーカーにとっては困るだろうが、人口減、高齢者の増加、通信機器の発達など、社会は確実に「クルマなしで生活できる社会」を求めている。
ただ残念ながら「クルマに乗ろう!」のほうが「クルマを捨てて歩こう!」より金になるから、「クルマに乗ろう!」の声のほうが世間的には大きくなってしまうけど。

高齢者の中には運転技術に不安を覚えている人も多いだろうし、先述のように車を持つコストは大きい。公共交通機関なら渋滞や駐車場探しで無駄な時間をとられることもないし、アルコールも飲める。

クルマなしで生活できる社会のほうがずっといいに決まっている。
それは、現にクルマなしで生活しているぼくがよく実感している。

この先、自家用車は大型バイクのように「一部の趣味人のもの」になっていくかもしれないね。そうなってほしい。

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