2018年10月2日火曜日

【創作落語】金メダル


〇「ごめんよ」

△「どないしたんや。あわてて飛び込んできて」

〇「えらいもんとってもうた。金メダルや」

△「はぁ? 金メダルって、あの、オリンピックのかいな」

〇「そうそう、オリンピックの金メダル」

△「誰が」

〇「おれが」

△「おまえがオリンピックの金メダルを? 何をあほなこと言うとんねや」

〇「ほんまやねんて、ほら」

△「うわっ。これは、たしかに本物!……っぽいな。本物見たことないから知らんけど」

〇「でも重みがちゃうやろ」

△「うん、重い。少なくともおもちゃではなさそうやな」

〇「ほら、このケースに五輪のマークも書いてあるやろ」

△「おお、ほんまや。たしかに本物っぽいな。けど驚いたな、おまえとは長い付き合いやけど、まさかおまえが金メダルとれる実力の持ち主やとは思わんかった。何の競技でとったんや」

〇「それが……わからんねん」

△「はぁ? おまえがとったんやろが」

〇「そう、おれがとった」

△「ほな、わからんことがあるかい」

〇「それがほんまにわからんねん」

△「どういうことやねん」

〇「さっきのことや、新大阪の駅で急におなかが痛くなって、トイレをさがしてたんや」

△「何の話やねん」

〇「まあ聞けって。トイレをさがして走ってたら、横から出てきた男とぼーんとぶつかってふたりとも尻もちをついた。すまんと謝って、ぶつかったはずみに落とした鞄を拾った。ちょうどそのときトイレの案内を見つけたから、そっちに向かって走りだした。さっきぶつかった男が後ろから『ちょっと待て』と呼びとめる声が聞こえてくる。因縁でもつけようと思ってんのやろな。ふだんなら売られた喧嘩は買うところやが、トイレに行きたくて必死や。後ろも振りかえらずに全速力で走って、トイレに駆けこんだ。やれ一安心。ちょっとしか漏らさへんかった」

△「ちょっとは漏らしたんかいな。汚いやっちゃな」

〇「で、ふと見ると持っている鞄がおれのと違う。色も形もよく似てるけど、ちょっと違う。さっきぶつかったときに、とりちがえて相手の鞄を持ってきてしもうたんや」

△「だから呼びとめられたんやな」

〇「トイレを出て探したけど、さっきの男がおらん。あわててたからどんな顔やったかも覚えてへん。手掛かりでもないかいなあと鞄の中を開けてみたところ、入ってたのが金メダルや」

△「ええっ。それがこの金メダルかいな」

〇「そうや」

△「おまえさっき、おまえがとった金メダルやと言うとったがな」

〇「そう。おれがとった。正確には、おれがとった鞄の中に入ってた金メダルやな」

△「そういうことかい」

〇「まさか自分が金メダリストになるとは思わんかったわ」

△「いやいや、それは金メダリストとは言わへんやろ。金メダルぬすっとやで」

〇「とにかくメダルなくしたほうも困ってるやろから、返してやろうと思うねんけどな」

△「そらそうや。そう簡単にとれるもんやないんやから」

〇「しかしどこのどいつかわからんねん。金メダルに油性ペンで名前でも書いといてくれたらええのにな」

△「そんなもん書くかい。しかし金メダルとった人なんてそうたくさんおらへんやろ。限られてるで」

〇「金メダルとった人というたら……。マラソン選手のあの人とか」

△「いやいやそれはない」

〇「なんでや」

△「だっておまえに追いつかれへんかってんやろ。マラソン選手がおまえに追いつけないなんてことあるかい」

〇「いやでもおれもトイレ探してたから相当急いでたで」

△「そやかてマラソン選手やったら追いついてるわ。マラソンは違う」

〇「ほんなら柔道とかレスリングとかかな」

△「それもちゃうやろ」

〇「なんでやねん」

△「だっておまえにぶつかって尻もちついたんやろ。柔道選手やレスリング選手が、おまえみたいなひょろひょろの男にぶつかられて尻もちつくかい」

〇「ほんなら卓球は」

△「卓球選手は反射神経がすごいからおまえにぶつからへん」

〇「じゃあ体操」

△「体操選手やったら宙返りでかわしてる」

〇「ラグビー」

△「タックルでおまえをふっとばしてる」

〇「射撃」

△「おまえは背中から撃たれてる」

〇「そんなわけあるかい」

と、わあわあいうておりますと、突然家のドアが開いてひとりの男が入ってきた。

〇「わっ、なんやなんや」

選手「すみません、ぼくの鞄がここにあると聞いたんで」

△「えっ。ということはあんたが金メダリスト……?」

選「はい、そうです」

△「あんたかいな。ちょうどこっちから探しにいこうと思てたんや。しかしようここにあるってわかったな」

選「はい、金メダルをぶらさげて歩いている人を見たって人がたくさんいたもんで」

〇「ああ、さっきおれが見せびらかしながら歩いとったからな」

△「自分が獲ったわけでもないのに見せびらかすなや、そんなもん。しかしあんた、なんの選手なんですか」

選「水泳です」

△「あーそういえば見たことあるわ。服着とるからわからんかったわ。
  しかしさすがは水泳の選手やな。すごい勢いで飛びこんできたわ。いっつも飛びこんでるだけのことはある」

選「いえ、ぼくは背泳ぎの選手なんで飛びこみはしないんです」

〇「はあ、背泳ぎは飛びこみせんのですか。知らんかったな。
  ……なるほど、背泳ぎの選手か。それでおれとぶつかったんやな」

△「どういうことや」

〇「背泳ぎの選手って、いっつも上ばっかり見てるやろ。その習慣で上見て歩いとったからぶつかって尻もちついたんちゃうか」

△「そんなわけあるかい」

選「えー、ではそろそろメダルを返してもらってもよいでしょうか」

〇「えっ、返すんですか」

△「そらそやで。この人が獲ったメダルやないか」

〇「一晩だけでもうちに置いといたらあきませんやろか。この子も名残惜しいというてますし」

△「犬の仔みたいに言いな。ほら、返さんかい」

〇「わかりました。はいどうぞ」

選「どうもありがとうございます」

△「しかしあんた、金メダル見つかってよかったな。せっかく優勝したのに、メダルをなくしたらどうにもならんからな」

選「いえ、どうにもならないことはありません。銅より上の、金ですから」


2018年10月1日月曜日

作家としての畑正憲氏




中学生のときぼくが好きだった作家のひとりが畑正憲氏だ。

……というと、たいていこう言われる。
「畑正憲? 知らないなあ」

「ほら、ムツゴロウさんだよ。知ってるでしょ」

……というと、たいていこう言われる。
「えっ、ムツゴロウさんって作家なの?」


今から二十年ぐらい前には『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』というテレビ番組があった。そのイメージが強すぎたので「動物たちと暮らしてテレビに出るのを生業としている変なおっちゃん」と思っている人が大半だった。
それはそれでまったくの間違いでもないのだが、畑正憲氏のおもしろさは著作にいちばん現われているとぼくは、テレビのイメージがひとり歩きしていることに不満だった。

たしかに畑正憲氏は奇人だ。
動物の身体をべろべろなめたり、動物のおしっこを飲んだり、飼っていた動物が死んだら食べたり、テレビで観る分には「イカれているおじさん」だった。
でもそれは一面しか表していない。
彼の著作を読むとわかる。「めちゃくちゃイカれているおじさん」だということが。

テレビで映されるのは彼のぶっ飛んだエピソードのうちほんの一握りにすぎない。その数倍の奇行や蛮行は、あまりに異常すぎてテレビで放送できなかったのだろう。


畑正憲氏のエッセイは、エロ、バイオレンス、ばかばかしさにあふれていた。
でもそれらはすべて科学的視点に基づいたものだ。
ばかな人がばかなことを言うのと、賢い人がばかなことをいうのはぜんぜん違う。畑正憲氏は圧倒的に後者だ。東大から理学系の大学院に行って研究をしていた人なので豊富な知識と優れた洞察力がバックボーンにある。それをもとにばかを書いているのだからおもしろくないわけがない。

彼のエッセイはどれもおもしろかった。金がなかった中学生時代、古本屋をめぐって数十冊集めていた。
似たようなタイトルの本を何十冊も多く出していたので、まちがって買わぬよう、ぼくの財布には「まだ買っていない作品リスト」を書いたメモがしのばせてあった。

特に好きだったのが『ムツゴロウの博物誌』シリーズだ。
これは初期の傑作で、エッセイとフィクションが絶妙にまじりあったふしぎな話が並んでいた。エッセイのような書き出しなのに急に訪ねてきた客人がナマコだったり、魚が突然を口を聞いたり、自然とフィクションへと移行するのだ。
息をするようにほらを吹く畑正憲氏の技法はすごく好きだった。

ああいうエッセイ(というか半分ほら話)を書く人は他にちょっと知らない。
まったくのでたらめというわけでもなく、豊富な知識に裏打ちされたばか話だからこそおもしろいんだろうな。

畑正憲氏の著作がほとんど絶版になっているのは寂しいことだ。
学生時代に読んでいた本の多くは手放したが、畑正憲作品はすべて実家の押し入れに眠っている。

2018年9月28日金曜日

【読書感想文】矢作 俊彦『あ・じゃ・ぱん!』


『あ・じゃ・ぱん!』

矢作 俊彦

内容(e-honより)
昭和天皇崩御の式典が行われている京都の街中で、偶然、テレビカメラに映し出された一人の伝説の老人。「この男からインタヴューを取ってもらいたい」と上司から指示された人物は、新潟の山奥で四十年もゲリラ活動を展開してきた独立農民党党首・田中角栄その人だった。しかし、私の眼は、老人の側に寄り添う美しい女にくぎ付けになっていた。その女こそ…。来日したCNN特派記者が体験する壮烈奇怪な「昭和」の残照。

戦後日本がドイツや朝鮮のようにソ連とアメリカによって東西に分割されていたら……という設定の小説。
西側は「大日本国」として超経済大国になり、東側は「日本人民民主主義共和国」という名の社会主義国家になっているという設定(ちなみに東側の軍隊の名前が「社会主義自衛隊」で、西側からは「日本赤軍」と呼ばれているというのが秀逸)。
じっさい、ポツダム宣言の受諾がもう少し遅れていたらソ連が本土上陸して東西に分けられていた可能性は十分にあった。

村上龍『五分後の世界』も同様の設定の小説だ。
ただし『五分後の世界』はまだ戦争が終わっておらず、日本人同士が殺しあっているシリアスな物語だが、『あ・じゃ・ぱん!』のほうでは争いはほぼ終結しており、東西を隔てる壁(名前は「千里の長城」)によって分割されているものの人々の行き来もそこそこある。
パロディや諷刺などがちりばめられ、物語の展開はおおむね平和的。
読んだ印象としては、東北の寒村が突然日本から独立宣言をするという井上ひさし『吉里吉里人』に近かった。『吉里吉里人』を読んだのはもう二十年以上も前なので細かくはおぼえてないけど。

ひたすら長い小説、という点でも『あ・じゃ・ぱん!』と『吉里吉里人』は似ている。長い割にストーリーがたいして進まないところも。



設定はすごく好きだったんだけど小説としてはひたすら苦痛だった。つまんないとかいう以前に頭に入ってこない……。
行動の目的もないし、次から次へと人物が出てきてはたいした印象を残さないまま消えてゆくし、まるでとりとめのない日記を読んでいるかのよう。

ぼくは本をよく読んでいるほうだと思うが、それでもこの小説はちっとも頭に入ってこなくて読むのがつらかった。よほどのことがないかぎりは最後まで読むことを自分に課しているから、早く終われ、と念じながら読んでいた。

ところどころはおもしろいんだけどさ。
大阪府警が商売に精を出していたり、奈良ディズニーランドがあったり田中角栄率いる新潟だけは東西どちらとも距離を置いていたり。

でも通して読むとやっぱり話についていけない。
すごく時代性の強い小説だからかもしれない。
この本の発表は1997年。天皇崩御の少し後の時代(1990年ぐらい)が舞台だ。

1980年代後半生まれのぼくは、田中角栄も天皇崩御もベルリンの壁もリアルタイムではほとんど知らない。本で読んだので何が起こったのかは知っている。けれどその当時の空気まではわからない。

パロディというのは、知識として持っているだけではおもしろさが伝わらない。
身体感覚として共有するぐらいでないとその味を感じられない。
『ドラゴンボール』を大人になってから一度読んだだけの人と、小学生のときにかめはめ波の修行をするぐらいどっぷり漬かっていた人とでは、ドラゴンボールパロディにふれたときの心の震えも異なるように。

たぶん発表当時はすごくおもしろかった小説だったんだろうとは思うが、発表から20年以上たった今あえて読むほどの小説ではなかったな。


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表現活動とかけてぬか漬けととく/【読書感想エッセイ】村上 龍 『五分後の世界』



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2018年9月27日木曜日

自分のちょっと下には厳しい


あくまで観測範囲の話でしかないけど……。

生活保護叩きなど貧困層に厳しい人は、貧困層のちょっと上~中流ぐらいの人に多くて、
大金持ちはむしろ最低賃金のアップやベーシックインカム導入など「貧困層に手厚い支援」を提唱している人が多い。

貧しい人が増えれば消費は鈍るし治安も悪化するし良いことなんてないのに、それでも貧困叩きをする人がいなくならないのは
「自分より下の階層がいてほしい」
という願望によるものだ。



ぼくが本屋で働いているとき、1日12時間労働、年間休日80日、年収200万円台というワーキングプアだった。
そんなとき、某有名芸人の家族が生活保護を不正受給しているというニュースを見て「なんてひどいやつだ! 許せん!」と思っていた。

でも、転職してもうちょっとだけマシな生活をできるようになった今、生活保護をもらっている人に対して寛容になった。
「まあそこそこの生活をできるようになるのはいいことじゃないかな」と思う。
不正受給は良くないけど、そっちを防ぐことよりも支援すべき人に支援の手を届けることのほうが優先事項だろう。多少の不正受給が紛れこむのはまあ仕方ないだろう、と。

月収16万円の人は、生活保護受給者が月15万円をもらっていたら許せないだろう。
でも月収50万円の人はいちいち目くじらを立てない。「まあ15万円ぐらいなら」と思うだろう。

月収1000万円の人なら「みんなに一律15万円配ってもいいんじゃない?」と思うかもしれない(稼いだことないから想像だけど)。
でも「月収800万円以下の人に200万円あげます」だったらやっぱり憤るだろう。
みんな、自分のちょっと下には厳しいのだ。



ぼくは勉強ができた。
中程度の公立高校で、校内トップクラスの成績だった。
これはすごく自信になった。
もし進学校に通っていたら学校内では下位だったかもしれない。そしたら勉強を嫌いになっていたかもしれない。

「鯛の尻尾より鰯の頭」とか「鶏口となるも牛後となるなかれ」なんてことわざがあるが、集団の中で上位にいることはすごく満足感を与えてくれる。


ぼくの旧友に経営者をやっていてそこそこ稼いでいる男がいるが、傍から見ていると「余裕がないなあ」と感じる。
休みなく働いていて、ひっきりなしに電話をかけていて、もっといいビジネスはないかと常にギラギラしている。
人よりずっと稼いでいるのに、まだまだ足りないという顔。
より稼いでいる経営者との付き合いが多いからじゃないかな。



幸せに暮らすコツは、近くを見ないことじゃないかな。

プロサッカー選手が〇〇億円の年俸をもらっているとか大企業の創業者が〇〇億円の資産を持っているとか聞いても、「ふーん、すごいね」と思うだけでべつに悔しくない。自分とあまりにかけ離れた世界の話だからだ。
でも会社の同僚が自分より多くの給料をもらっていたら悔しい。「なんであいつだけ」と思う。「なんでイニエスタだけ」とは思わないのに。

サウジアラビアの王族が贅の限りをつくしたとか中国の昔の皇帝がハーレムを築いていたとか聞いても「すごいなあ」と思うだけで悔しくはない。
でも隣の男が自分よりちょっとモテていたら悔しい。

すぐそばを見ない。遠くだけを見る。
灯台下暗いほうが幸せでいられそうだ。


2018年9月26日水曜日

【読書感想文】人の言葉を信じるな、行動を信じろ/セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』


『誰もが嘘をついている
~ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性~』

セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ (著)
酒井 泰介 (訳)

内容(e-honより)
グーグルの元データサイエンティストが、膨大な検索データを分析して米国の隠れた人種差別を暴くのを皮切りに、世界の男女の性的な悩みや願望から、名門校入学の効果、景気と児童虐待の関係まで、豊富な事例で人間と社会の真の姿を明かしていく。ビッグデータとは何なのか、どこにあるのか、それで何ができるのかをわかりやすく解説する一方、データ分析にまつわる罠、乱用の危険や倫理的問題にも触れる。ビッグデータ分析による社会学を「本当の科学」にする一冊!

Googleのデータサイエンティストが、検索データやその他さまざまなビッグデータから人の行動を解き明かしていく。
社会学や心理学といえば、これまではフロイトのように「ほんまかいな。わからんと思ってテキトーに言ってるやろ」的な言説が幅を利かせていた分野だが、数多くのデータが手に入るようになったことで統計的な裏付けのある事実が次々に明らかになるようになった。
この本の中でも書かれているように、ビッグデータを扱えるようになったことで社会学は検証可能な「本当の科学」になるのだ。
意外な事実が数多く紹介されていて、すごくおもしろい。

ただサブタイトルがどうも安っぽいのだけがマイナス点。
『ヤバい経済学』もそうだけど、この手の翻訳書ってどうしてこういうダサいタイトルをつけちゃうのかなあ。



2016年の大統領選挙で、大方の評論家の予想を裏切ってドナルド・トランプがアメリカ大統領選挙に勝利した。
多くの人の予想がはずれたわけだが、Googleの検索結果にはトランプ勝利の兆候は表れていたという。
 2012年、私はこのグーグル検索を通じて得た人種差別地図を使って、オバマが黒人であったことの真の影響を検証した。データは明白に示していた。人種差別的検索の多い地域でのオバマの得票率は、彼の前の民主党大統領選候補者として立ったジョン・ケリーの得票率よりもはるかに低かった。当該地域におけるこの関係は、学歴、年齢、教会活動への参加、銃所有率など他のどんな要因でも説明できなかった。そして高い人種差別的検索率は、他のどの民主党大統領選候補の劣勢ぶりの説明にもならなかった。オバマだけに当てはまることだったのだ。
この傾向は2012年だけの話ではない。

「あなたは有色人種に対して差別意識を持っていますか?」という質問をすれば、ほとんどの人はノーという。
ところが、「人種差別意識を持っていない」と答えた人が、ひとりでパソコンモニターやスマートフォンを前にするときは「Nigger」といった人種差別的な言葉を打ちこむのだ。
トランプ氏が下馬評を覆して勝利したのは、表にはあらわれないが根深く残る人種差別意識も一員だったとGoogleの検索データは教えてくれる。



人はかんたんに嘘をつく。他人に対して見栄を張るのはもちろん、匿名アンケートや無記名投票でも嘘をつく。
 さらに人は時に自分自身に対しても噓をつくという奇妙な習性がある。「たとえば学生として、自分は落ちこぼれであるだなんて認めたくはないものです」
 これが多くの人が自分は平均以上であると考える理由なのかもしれない。その程度たるや甚だしい。ある会社では、技術者の40%が自分はトップ5%以内だと回答し、大学教授の90%が自分は平均以上の仕事をしていると考えている。高校3年生の4分の1は協調性でトップ1%に入ると考えている。自分さえ欺く人々が、どうして世論調査に正直になれるだろうか?
ぼくはマーケティングの仕事をしているが、「マーケティングリサーチなんて嘘っぱち」ということはよく知られている。
「〇〇という商品があったら買いますか?」とアンケートをとったら多くの人が「買う」と答えるが、いざ発売してみたらぜんぜん売れない。こういうことがよくある。
アンケートに答えた人だって嘘をついたつもりはない。「あーいいねー」と思って「買う」と答えるわけだ。
でもじっさいに自分の財布からお金を出す場面になると「やっぱりいいか」となる。

自動車会社の創業者であるヘンリー・フォードの言葉(とされる言葉)に
「もし顧客に彼らの望むものを聞いていたら、彼らは『もっと速い馬が欲しい』と答えていただろう」
というものがある。
消費者は、自分がほしいものをよくわかっていないのだ。

リサーチと実際の商売がぜんぜん異なる結果になることなんてごくあたりまえのことだ。

過去の社会学では、アンケートが大きなウェイトが占めていた。
「人々は〇〇と答えた。だから〇〇だ」
そんな血液型占いレベルの信憑性しかなかった調査に、ビッグデータが風穴を開けてくれる。
 ネットフリックスも似た教訓を早期に学んだ。人の言葉を信じるな、行動を信じろ、だ。
 かつて同社のサイトでは、ユーザーが今は時間がないがいずれ見たい映画のリストを登録できた。こうすれば、時間ができたときにリマインド通知してやれるからだ。
 だがデータは意外だった。ユーザーは山ほどこのリストを登録したのに、後日それをリマインドしてもクリック率がほとんど上がらなかったのだ。
 ユーザーに数日後に見たい映画を登録させると、第二次世界大戦時の白黒の記録映画や堅い内容の外国映画など高尚で向学心あふれる映画がリスト入りする。だが数日後に彼らが実際に見たがるのは、ふだん通り、卑近なコメディや恋愛映画などである。人は常に自分に噓をついているのだ。
 この乖離に気づいたネットフリックスは見たい映画登録をやめ、似たような好みのユーザーが実際に見た映画に基づいた推奨モデルを作り出した。ユーザーに、彼らが好きと称する映画ではなく、データから彼らが見たがりそうな映画を提案するようにしたのだ。その結果、サイトへのアクセス数も視聴映画数も伸びた。ネットフリックスのデータサイエンティストだったサビエ・アマトリエインは、「アルゴリズムは本人よりもよくその人をわかっているんだ」と語った。
そうそう、わかる。
ぼくのAmazonお気に入りリストにも、小難しい本が並んでいる。「これは今読む気がしないけどいつか読んどいたほうがいい」とウィッシュリストに放りこむ。
でもいざ本を買うときになると「もうちょっと手軽に読めるやつのほうがいいな」「これは時間があってゆっくり読めるときに」と、べつの本を買うことになる。
かくしてぼくのウィッシュリストにある『キリスト教史』『サピエンス全史』 『進化の運命 -孤独な宇宙の必然としての人間-』はずっと買われぬままリストの下のほうに居座りつづける。

「人の言葉を信じるな、行動を信じろ」ってのはいい言葉だね。



ぼくもマーケターの端くれとして、さまざまなデータを活用している。

広告運用をしているのだが、よくクライアントから「こんな広告文がええんちゃうか?」といった提案を受ける。
キャッチコピーは誰でもすぐに作ることができるので(作るだけならね)、素人でも口をはさみやすいのだ。
ぼくは云う。「そうですか、では試してみましょう」
Webのいいところは、かんたんに複数パターンをテストできるところだ。
「見た目の美しさ、信頼性、そして機能性をあわせもつ高級腕時計」と「超クールでイカした高級腕時計。99,800円」のどちらがいいか、頭をひねって考える必要はない。アンケートをとる必要もない。
両方均等に配信すれば、どちらがクリックされたか、どちらが購入につながったのかがすぐにわかるのだ。
素人が五秒で思いついたコピーがいちばん良い成果を出すこともめずらしくない。

少し前なら広告代理店のコピーライターという人種にコピーを作ってもらう必要があった。作ってもらったコピーをありがたく拝受して、それがどれだけ売上につながっているのかもわからぬまま漫然と垂れ流すしかなかった。
そんな不確かなものに高いお金を払っていたのだから、今の時代から見るとなんてばかばかしいお金の使い方をしていたんだろうと呆れるばかりだ。



題材はGoogleの検索データだけではない。
ポルノサイトの意外な検索データ、「大成する競走馬を見つけるにはどうしたらいいか」や「好きなプロ野球チームは生まれた年によって決まる」など、話題は多岐にわたっている。どれもおもしろい。

データ解析の強みだけでなく、「ビッグデータではまだまだ予測できないこと」も書いているのが誠実でいい。

個人的に強い将来性を感じたのは医療の分野。
 結果は驚くべきものだった。当初「腰痛」を調べ、後に「肌の黄ばみ」と検索することはすい臓がんの予兆となるが、単に「腰痛」だけを調べた人の場合はさにあらず。同様に「消化不良」と調べてから「腹痛」を検索した人はすい臓がんになるが、「消化不良」と調べたものの後に「腹痛」と調べていない人はすい臓がんと診断されてはいないようだった。研究者たちは、すい臓がんらしいパターンで検索する人の5%から15%は、ほぼ確実にがんであるようだと突き止めた。あまり高い率ではないと思うかもしれない。だが本当にすい臓がんにかかっていれば、その程度でも、生存率を倍にできると思えば福音には違いない。
たとえば子供の身長と体重をデータベース化して、そこに彼らの持病を加味するだけで小児科分野での一大飛躍だというのだ。こうすれば子供の成長過程を、他の子の成長過程と比較できるようになる。コンピュータ分析によって、似たような成長軌道を示す子供同士を見つけ出し、自動的に警戒信号を発することもできる。身長の伸びが早期に止まってしまうこと――甲状腺機能低下症や脳腫瘍が疑われる――も発見できる。いずれも早期に診断ができれば恩恵は大きい。「子供はおおむね健康なものなので、これらは非常に珍しい症例で、1万人に1人というレベルです。データベース化されていれば、診断を少なくとも1年は早められると思います。請け合いですよ」とコハネは言う。

これはすごい。

1万人に1人というようなめずらしい病気であれば、ベテランの医師でも過去に1人診察したかどうか。人間の目だとどうしたって見落としが起こる。
しかし1万人に1人でも、世界中の子どもの成長履歴をデータベース化すればまとまった量になる。予測精度は人間よりもずっと高くなるだろう。

こういう研究が進めば、医師の仕事はずっと少なくなるだろう。少なくとも診察は機械任せにできそうだ。
発見の制度は上がる、医師の負担は軽減される、やればやるほどデータは溜まって正確になる。いいことだらけだ。

AIが人々の仕事を奪うと言われているが、医師の仕事がなくなって看護師の仕事だけが残る、みたいなことになるかもしれないね。



ビッグデータからさまざまなことがわかるようになって、これから仕事や学習の方法はどんどん変わるだろう。
今までは「なんとなくよさそうだから」「ずっとこうやってきたから」「経験者がおすすめするから」「専門家がこういうから」という理由でやってきたことが、「それじつは意味ないよ」「もっといい方法があるよ」となってしまうのだ。それも、統計的にきちんと裏付けられた形で。

それってすごくいいことだよね。従来のやりかたでやってきた年寄りは困るだろうけど。

ただ気がかりなのは、こうしたデータを誰が持つのかってこと。
人類に広く共有されるのか、それとも数少ない大企業が独占して利益のために使うのか……。

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