
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
「あーもしもし。何年か前に、そちらの市役所に電話して『クマを殺すな。かわいそうだろ。人間のエゴで動物を殺すな!』ってクレーム入れた者だけど。
ニュース見てて、おれの考えがまちがってたことに気づいたよ。ほんとに申し訳なかった」
「嘘つけー! 縁もゆかりもない役所にクレームの電話するやつが己の過ちを認めて反省できるわけないだろー!」
「りんごを収穫するところを思い浮かべてください」と言うと、りんごが木になっているところをイメージできる。
だが「桃を収穫するところを思い浮かべてください」だと、頭に浮かんでくるのは桃が川から流れてくる映像だけ。
役者をやってる子どものことを「子役」と呼ぶのは変じゃないか?
「悪役」は悪人を演じる役者、「刑事役」は刑事を演じる役者のことだ。
であれば「子役」かどうかは「芝居による」としか言いようがない。
30歳でも子どもを演じていれば子役だし、逆に5歳でも大人を演じていれば子役ではない。
役者をやってる子どものことは「子役」ではなくちゃんと「ジャリタレ」あるいは「激イタ親持ちガキ」と呼ぶべきだ。
長年いろんな人間を見てきて得られた真理のひとつに「返事がいいやつはだめなやつ」というものがある。
こちらが何かを注意したときに「はい!」と気持ちいい返事をしてくるやつ。打てば響く、というやつだ。そういうやつは同じ失敗を何度もくりかえす。
なぜなら何も考えずに返事をしているからだ。「この人はどういう意図でこんな注意をしているんだろう」とか「おれの考えとこの人のやり方は違うんだけどなあ」とか「いやそれ逆にあんたがまちがってるだろ」とか何も考えずにとりあえず「はい!」と返事をするくせがついているのだ。
ある種の部活ではこういう人間を育成している。
カーペンターズに『SING』という曲がある。これはカーペンターズのオリジナルではなく、セサミストリートで用いられていた曲のカバーらしい。
これは完全に想像なのだが、きっとカーペンターズが営業の仕事で子どもが多い現場に行って、なかなか曲を聴いてもらえなくて苦労して、子どもウケするようにセサミストリートの曲を歌いはじめたんじゃないだろうか。
以前なんばグランド花月に行ったとき、春休みだったので子どもや学生の客が多く、2丁拳銃が童謡をテーマにした漫才を披露して爆笑をとっていた。きっとカーペンターズも同じことをしていたにちがいない。
同僚の女性が「Googleで『秋服コーデ』で検索するとレディースファッションばかりが表示される。Googleはちゃんとユーザーが女性であることを認識しているんでしょうね」と言っていた。
半分正解だが半分間違いだ。なぜなら秋服とは女性だけが持つ概念で、男の服に秋服なんてものは存在しないからだ。
男の服には夏服と冬服しかない。より正確に言えば半袖と長袖があるだけだ。
夏は半袖。秋は長袖。秋服にアウターを羽織ったら冬服で、冬服からアウターを脱いだら春服だ。
2人用対戦カードゲーム。
カードの枚数はたったの16枚。同じカードは2枚としてなく、それぞれが異なる効果を持っている。それぞれ「ライフ」を4ポイントずつ持っており、カードを交互に出して相手のライフを0にした方の勝利。
相手のライフをなくすゲームだが、相手のライフを削ることのできるカードは意外と少なく4枚しかない。相手に2ダメージを与える『そらとぶナイフ』、毎ターン相手に1ポイントを与える『こどもバハムート』、受けたダメージを相手にはねかえす『はねかえしゴブリン』、そして一度に4ダメージを与えることのできる『はらぺこバハムート』だ。
一撃必殺の『はらぺこバハムート』を出せば勝ちじゃん! でもまあそうかんたんにはいかないんだろうな。
そのとおり、あたりまえだがかんたんには一撃必殺は決まらない。まず『はらぺこバハムート』は手札から直接出せない。他のカードと交換する、捨て札から復活させる、などの手段をとる必要がある。首尾よく『はらぺこバハムート』を出しても、ダメージを与える前に相手に「モンスターを葬る」カードを使われてしまうこともある。
さらにこのゲームを複雑にしているのが「打ち消しの書」というアイテム。相手の出した札を無効化することができるアイテムだ。さらに「打ち消しの書」を2つ消費することで、「相手の打ち消しを打ち消す」という荒業を使うこともできる(「打ち消しの打ち消しの打ち消し」はできない)。
この「打ち消しの書」が強力なので、序盤~中盤は「いかに相手に打ち消しの書を消費させるか」の攻防がくりひろげられることになる。
「いかにダメージを与えるか」ではなく、「いかに相手がダメージを防ぐ方法を削れるか」の戦いだ。なかなか奥が深いじゃないか。
最初は攻撃のことばかり考えてしまうが、何度かやっているうちに防御の重要性に気づく。将棋の初心者が「どうやって詰ますか」を考えてしまうのに対し、中級者が「どうやって守りを固めるか」と考えるのにも似ている。
そう、味わいがけっこう将棋に似ているのだ。
もちろんカードゲームなので運には左右されるが、おもっていたよりも運の要素は小さい。
カードは全部で16枚しかなく、自分が数枚持っていて、捨て札にも何枚かあるわけだから、相手が持っているカードはある程度見当がつく。おまけに「相手の手札を見る」「山札をすべて見る」といった効果を持つカードもあるので、相手の手札がだいたい把握できる。なので「たぶん相手はあのカードを出してくるから、そしたらこれを出す。すると相手は取り消しの書を使うだろうから……」と数手先を読む思考が求められる。
自分の読み通りに相手が動いてくれて勝つことができればうれしいが、運の要素もあるので必ずうまくいくとはかぎらない。「相手があのカードさえ引かなければ勝てる!」という局面で、まんまとそのカードを引かれて負ける、なんてことも起こる。
このバランスが絶妙で、子どもと遊ぶのにちょうどいい。子ども相手に本気でやってもけっこう負ける。でも運任せでもなく、戦略を持って戦えば勝率は上がる。
1ゲーム5~10分ぐらいで手軽なのに、おもっていたより奥が深い。対象年齢10歳以上なだけはある。
軽く、でも頭を使ったゲームをしたいときにおすすめ。
環境問題について語る上で避けては通れない古典的作品。初出は1962年。今もって最も有名な環境問題の本といってもいい。
(学生時代に英語の問題集に載っていたのでごく一部だけは読んだことがあった気がするが)刊行から60年以上たって、今さらながら読んでみた。
今さら『沈黙の春』を手に取ったきっかけのひとつが、ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』に『沈黙の春』の引き起こした被害が書いてあったからだ。
『禍いの科学』によれば、『沈黙の春』が有機塩素系の農薬であるDDTの環境への悪影響を主張した結果、世界的にDDTの使用が禁止された。だがDDTはマラリアなどの疾病を抑えるためのきわめて効果的な薬だった。DDTが禁止された結果、ほぼ根絶できていたマラリアは再流行し、結果として5000万人がマラリアで命を落とした。そのほとんどは5才未満の子どもだった。
ことわっておくと、『沈黙の春』にはDDTなどの化学農薬や殺虫剤をすべて使用禁止にせよとは書いていない。ただ、環境に与える害を述べ、不適切な使用、過度の使用に対して警鐘を鳴らしただけだ。
だが、おそらくこの本は大きな反響を呼んでしまった。結果、カーソンが書いた以上に(カーソンはマラリア予防でのDDTの使用禁止は訴えていない)DDTは敵視され、過度に制限されてしまった。言ってみれば、科学肥料や殺虫剤のバカな使い方を批判したら、別のバカが過剰に反応してしまったというところだ。
「とにかく殺虫剤をばらまいて環境を破壊する人間」と「すべての農薬や殺虫剤を敵視してむやみに禁止させようとする環境保護主義者」は、主張こそ反対ではあるが思考はきわめて近いところにある。どちらも実験や観測を軽視して感情のために行動し、己の行動を顧みないという点が一緒だ。
環境問題にかぎらず、あらゆる問題がそうだよね。政治的極右と極左とか、エネルギー問題とか、両端にいる人たちって実はけっこう似た者同士なんだよね。バカ同士仲良くしなよ、と言いたくなる。
『沈黙の春』は(おそらく著者の想定以上に)大きな反響を引き起こした。ちょうど、虫を殺すためだけに殺虫剤を使ったのに、他の虫や鳥や魚や獣まで殺してしまったように。
『沈黙の春』が過剰な反応を引き起こしたのは、刊行されたタイミング(科学の進歩によるひずみが表面化してきたころ)が良かったのもあるだろうし、カーソン氏の文章がうますぎるのもあるとおもう。情景を想起させる力が強いし、よくできたストーリーは人間の感情に訴えかけてくる。
読んでいると「このままじゃだめだ。なんとかしないと」という気になってくる。60年後の日本人にすら強く訴えかけてくるのだから、当時の人々はより強い危機感を抱いたことだろう。
多くの客観的な数字やグラフを並びたてるよりも、一行の詩のほうがはるかに力強く人間の心を動かしてしまう。
『沈黙の春』はそこそこのページ数があるが書かれている内容はシンプルで、だいたい同じことのくりかえしだ。
害虫を殺すために殺虫剤を使っているが、その薬は他の生物も攻撃する。他の虫、魚、鳥、場合によっては獣やヒトも。直接害を及ぼすこともあるし、間接的に(殺虫剤を浴びた虫を食べることなどで)健康被害を受けることもある。
また、狙った害虫だけを殺せたとしても、それがさらなる悪い結果を生むこともある。害虫が激減 → その害虫を食べていた虫や魚や鳥がエサ不足で減る → 捕食者がいなくなったことで再び害虫が増える(しかも薬品に対する耐性をつけている)、ということも起こる。
生態系は無数の生物が複雑にからまりあって構成されているので、ピンポイントで「この生物だけを絶滅させる」「この生物だけを増やす」ということができない。何かが増減すれば、必ず他の生物も影響を受ける。
そのあたりは納得できる。殺虫剤の農薬の過剰な使用は良くない。その通りだとおもう。
ただ同意できないのは、終章『べつの道』で著者が提唱する化学薬品の代わりとなる手法。
要するに、ある種の虫を減らしたいのであれば、その虫の天敵となる菌、虫、鳥などを連れてきて、捕食(または病気に感染)させよ、というのが著者の主張だ。
いやあ……。それはそれでだめでしょ……。
外来種とかさんざん問題になってるし、沖縄でハブ退治のためにマングースを連れてきたらマングースがハブ以外の生物を食べて害獣化しちゃったなんて例もあるし、うまくターゲットとなる虫を減らせたとしてもどこにどんな影響が出るかわからない。
60年後の世界から批判するのはずるいけどさ。でも化学薬品はダメで外来種ならいいというのは、やっぱり近視眼的だ。生態系は複雑で影響を予想できないのとちゃうかったんかい。
環境問題ってつきつめていけば最後は「人間がすべての文明を捨てて原始的な生活をするしかない。子どもや働き盛りの人がばたばた死んでもそれはそれでしかたない」になっちゃうから、どこかで許容するしかないんだよね。農薬を使わないほうがいいといったって、農薬なしで今の人口を支えられないのもまた事実なわけで。
まるで環境問題に“正解”があって、その“正解”を著者が知っているような書き方がきになったな。研究者として誠実な態度ではない。ま、だからこそ大きな反響を呼んだんだろうけど。世間は「Aが正しそうだがBの可能性もあるしCも否定できない」という人よりも、「Aが正解! 絶対A! 他はだめ!」っていう単純な人に扇動されてしまうものだから。