2024年1月9日火曜日

【読書感想文】山崎 雅弘『未完の敗戦』 / 批判が許されない国

未完の敗戦

山崎 雅弘

内容(e-honより)
コロナ対策、東京五輪強行開催、ハラスメント、長時間労働、低賃金…。なぜ日本ではこんなにも人が粗末に扱われるのか?そんな状況と酷似するのが戦中の日本社会だ。本書では、大日本帝国時代の歴史を追いながら、その思考形態を明らかにし、今もなおその精神文化がはびこっていることを様々な事例を通して検証。敗戦で否定されたはずの当時の精神文化と決別しなければ、一人一人の命が尊重される社会は実現しない。仕方ない、という思い込みとあきらめの思考から脱却するための、ヒントと道筋を提示する書。


 日本は無謀な戦争につっこんでいった大日本帝国時代の総括をまだきちんとできていない。それどころか民主主義を否定し、戦前の時代に近づけようとする輩が跋扈している……と警鐘を鳴らす本。


 書いてる内容自体にはすこぶる共感できるんだけど、さして新しい主張ではないのと、著者の気持ちが強く出すぎていて、新書を読んでいるというより演説を聞いているような気分になる。

 演説って不愉快なんだよね。選挙の街頭演説なんて、主張に賛成だろうと反対だろうと、どっちにしろ気持ち悪い。人前で「おれはこうおもう!おれは正しい!」って唱えてる声が聞こえてくるだけで気分が悪くなる。

 クールな視点で淡々と書くからこそ届くものってあるとおもうんだけどね。




 二〇二一年五月十四日、菅首相は首相官邸での記者会見で、記者から「東京五輪を開催するメリットとデメリットは何か?」と問われて「五輪は世界最大の平和の祭典であり、国民の皆さんに勇気と希望を与えるものだ」という「メリットだけ」を答え、「デメリット」には一切触れませんでした。
 菅首相は、六月二日夜に首相官邸で応じた記者の「ぶら下がり」取材でも、記者からの「東京五輪を開催すべきだという理由をどのように考えるか?」との質問に対し、次のように答えました。
「まさに平和の祭典。一流のアスリートがこの東京に集まってですね、そしてスポーツの力で世界に発信をしていく。さらにさまざまな壁を乗り越える努力をしている。障害者も健常者も、これパラリンピックもやりますから。そういう中で、そうした努力というものをしっかりと世界に向けて発信をしていく。そのための安心安全の対策をしっかり講じた上で、そこはやっていきたい。こういう風に思います」
 まるで、オリンピックという商品を売るセールスマンのような、東京五輪の「良い面」だけを強調する言葉ばかりで、日本の首相として日本国民の命と健康と暮らしを優先順位の第一位にするという責任感は微塵も感じられません。

 首相が国民のことを考えないのは今にはじまったことでないからもう慣れっこになってしまったんだけど(ほんとはそれもよくないんだけど)、良くないのはそれをそのまま垂れ流す報道機関。

 首相が質問に真っ向から答えなかったときは「~と、首相はデメリットを隠した」と伝えなきゃいけないのに。


 戦争中、日本の大手新聞三紙(朝日、毎日、読売)とNHKラジオは、大本営すなわち政府と軍部の戦争指導部による発表の内容を無批判に社会へと伝達し、国民が「敗戦」を受け入れる心境にならないようにする心理的な誘導に加担しました。
 新型コロナ感染症が国内で大流行している最中でも、感染予防よりオリンピックの開催が大事であるかのような、戦争中の戦意高揚スローガンを彷彿とさせる薄気味の悪い政治的アピールの言葉が、日本の総理大臣の口から繰り返し語られ、NHKと大手新聞各紙、民放テレビ各局が、それらの言葉をほとんど無批判に報じて、政府広報のような役割を果たす図式は、戦争中の図式と瓜二つだったと言えます。
 本章で具体的な事例と共に紹介した、新型コロナ感染症流行下でも東京五輪の開催に固執し続けた菅首相と日本政府の姿勢に見られるのは、厳しい現状と「こうあって欲しいという願望」を混同する思考形態の危うさです。

 おかしな人はいつの世にもいるし、私利私欲に走るのは人間としてあたりまえの姿だ。だからこそ定められた手続きを踏まないといけないし、そのプロセスを公開して批判的な意見を集めるのが民主主義国家だ。

 ずるいやりかたでお金儲けをするのが大好きな人が「税金でオリンピック! 税金で万博&カジノ!」と叫ぶこと自体はあたりまえのことで、そいつらを根絶やしにするのは不可能だ(オリンピックや万博にだってメリットがないわけではないし)。

 必要なのは、オリンピックや万博で儲けようという政治家に対してきちんと批判の目を向けること。

 なのだが、本邦では新聞社やテレビ局がオリンピックのスポンサーになっているわけで……。




 先の戦争で、無謀な特攻により多くの兵士が戦死した。ぼくは“無駄死に”だとおもう。特攻兵は悪くない。特攻を考案して強引に推し進めたやつが悪い。

 鴻上尚史『不死身の特攻兵』によると、特攻は人道的でないだけでなく、戦術としても愚策だったそうだ。斜め上からの攻撃だと戦艦に大きなダメージを与えられない、爆弾を落とすよりも飛行機で突っ込むほうが衝突時のエネルギーが小さい、引き返せないのでタイミングが悪くても無理して攻撃しなければいけない、そして操縦技術を習得した兵士や戦闘機を失うことになる……。どこをとってもダメダメな攻撃だ。ダメダメな攻撃で死んだので特攻死は犬死にだ。

 が、こういうことを書くと文句を言うやつがいる。「国を守るために命を落とした英霊を侮辱する気か!」などとずれたことを言う、論理性のかけらもない人間がいる。

 このように、靖国神社という特殊な施設は、戦前戦中の日本において、軍人が死ぬという「マイナスの出来事」を、「国難に殉じた崇高な犠牲者」という「プラスの価値」へと転化し、教育勅語に基づく教育によって国民に定着した「天皇のための自己犠牲を国民の模範とする風潮」をさらにエスカレートさせる役割を果たしていました。
 こうした精神が膨張すれば、日本軍人が戦争でいくら死んでも「失敗」や「悪いこと」とは見なされなくなります。当時の大日本帝国の戦争指導部は、どれほど多くの軍人を前線や後方で死なせても、靖国神社という施設が存在する限り、無制限に「免責」される。つまり指導部の道義的な責任を問われない仕組みが成立していました。
 死亡した日本軍人が、靖国神社で自動的に「英霊」として顕彰されるなら、その死を招いた原因は追及されません。なぜなら、彼らの死の原因が戦争指導部の「失敗」や「不手際」ということになれば、「英霊」の名誉も傷つく、との考えが成り立つからです。

 戦争の話だけではない。2021年の東京オリンピックのときもやってることは変わらない。

 感染症対策、莫大な費用、汚職にまみれた誘致、やらないほうがいい理由は山ほどあった。けれど「このために何年も努力してきたアスリートが……」「闘病から復帰した女性アスリートの夢が……」と美談らしきものを引っ張り出してきて、政府とマスコミが一丸となって「やるしかない」ムードを作り上げていた。

「ここで降伏したら国のために命を捧げてきた英霊たちの犠牲が無駄になる」の時代とやっていることは変わらない。




 この本で書かれているのは至極まっとうなことで、批判的精神を持ちましょう、批判を認めましょう、ということだ。

 でも批判を許さない風潮は今でも強い。

 たとえば政治について「もっといいやりかたがあるんじゃないか」「こうすればもっとよくなるんじゃないか」とおもうから政権批判するわけだけど、それだけで反射的に「なんでもかんでも反対するな! アカが!」と青筋立てる連中がいる。

「自民党がやるからすべて賛成!」の人と「もっといいやりかたがあるはず」の人ではどっちが真剣に考えているか明らかだとおもうんだけど、後者許すまじの人はすごく多い。

「盲目的に従わないやつは反抗的」って考えは強いんだよね。政治でも、企業でも、学校でも。




 著者が書いていることには概ね同意できるんだけど、読めば読むほど
「でも、こういう本を出しても、ほんとに届いてほしい人には届かないんだよなあ」
という虚しさをずっと感じてしまう。


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2024年1月5日金曜日

小ネタ9

クッキングパパ

 漫画『クッキングパパ』の初期の設定に「パパは料理が上手なのに会社では隠している」という設定があった。おいしい料理をつくっても、妻がつくったことにしたり、部下の女性がつくったことにしたりしていた。

 この設定、今読むと意味がわからないかもしれない。「なんで料理ができることを隠さなきゃいけないの?」と。

 連載初期の1980年代後半、特に九州(『クッキングパパ』の舞台は福岡)では、「男が台所に入るなんて恥ずかしい」という価値観がまだまだ強かったから、荒岩一味(主人公)はこそこそ料理をしないといけなかったのだ。だが作中でははっきりとその理由が描かれていない。なぜなら「言わなくてもわかること」だったから。それぐらい「男が料理なんて」という風潮はあたりまえのものだったのだ。今の時代から見ると隔世の感がある。今だったら料理をできることを恥ずかしいとおもう男はほぼいないだろう。

 その時代の変化に一役買ったのが『クッキングパパ』でもある。『クッキングパパ』により価値観が変わり、『クッキングパパ』が時代にあわなくなったのは皮肉なことだ(だから中盤からはパパは堂々と料理をすることになる)。


 美味しんぼ

 もう一翼の有名料理漫画『美味しんぼ』。当時も斬新だったのだろうが今読んでもなかなか斬新だ。料理漫画はその後もたくさん生まれているが、「作ってもないやつがえらそうに料理を語る」ことにおいて『美味しんぼ』の右に出る作品はない。

 つくってもないやつがあれはダメだ、これは不勉強だとえらそうに語るのだ。バブリー!

 カバ夫くんが「おなかへってるのかい。アンパンマンの顔をお食べ」と勝手にいうようなものだ。ちがうか。


生産量全国1位


 徳島県と大分県、ほぼ一緒じゃねーか。

 子どもに「すだちとかぼすって何がちがうの?」と訊かれたけど、「……大きさ?」としか答えられなかった。





2023年12月27日水曜日

M-1グランプリ2023の感想

 M-1グランプリ2023の感想です。小学生の娘といっしょに敗者復活戦~決勝までほぼ通しで鑑賞。敗者復活の途中じゃなくて終わった後にニュースをはさんでほしいな。




敗者復活戦

 好きだったのは、Aブロックはロングコートダディの「真逆」。
 大喜利力の強さと構成の巧みさを見事に両立させていて、これは決勝で披露していたとしても相当いい順位だったとおもう。ボケを詰めているが、すべて説明しないところがロングコートダディらしくておしゃれ。オチの「もうええわ」をなかなか言わないとこまで隙のない構成。

 Bブロックはエバース「ケンタウロス」。ケンタウロスって、お笑いの世界ではまあまあ手垢にまみれた題材だとおもうんだけど、通りいっぺんのなぞりかたで終わらせず、とことんまで掘り下げたからこその斬新な切り口で魅せてくれた。まったく予期しないところからボケが飛んでくる。特に「上座」はすばらしい!

 Cブロックはシシガシラ「カラオケ」。実はハゲをいじっているのは一回だけなのに、後は表情とお客さんの想像力にゆだねてなぜかずっとハゲいじりをしている気にさせる。観客を共犯者にする計算高さ!

 あえて一組選ぶならロングコートダディだけど、シシガシラもすごいことをやっていたので納得の結果。

 倫理観むちゃくちゃなニッポンの社長「女」、奇抜な設定なのになぜかドラマ性のあった20世紀「怪人居酒屋」、中盤以降ほとんど擬音語しか言っていないトム・ブラウン「スナック」も笑った。

 審査の順当さもあいまって今年の敗者復活戦は過去最高クラスだった。マヂカルラブリー野田さんも言ってたけど、ほんと去年までの審査はなんだったんだ。

 これまでこのブログでもさんざん敗者復活のシステムについて悪態をついていたので、制度変更してくれてよかった。去年までの人気投票システムだったらシシガシラは勝てなかっただろうなあ。

 人気投票だったから、人気では勝てないことがわかっているコンビはハナから勝負を捨ててたもんな(それはそれでオールザッツみたいでおもしろかったけど)。制度変更したことで今年はほとんどのコンビがちゃんとネタで勝ちに来ていて、見ごたえのある敗者復活戦だった。決勝戦よりもおもしろかったかも。




 ここから決勝ネタの感想。


令和ロマン(転校生)

 漫画でよくある(とされる)、投稿中に角でぶつかった男が実は転校生だったという展開はほんとに起こりうるのか……。というあるあるにツッコミを入れる導入。

 前半は共感性の高いツッコミを入れながらお客さんをノせていくのだか、それっぽい答えを提示しておいてから「これはおもしろくない」と自分たちが築いた世界をぶっ壊してしまう剛腕っぷり。下手するとここで客が冷めてしまいかねないのだが、ちゃんと観ている人の心をつかんだまま後半の「そんなわけないゾーン」へと連れていったのが見事。

 空気の作り方、お客さんの巻き込み方がとにかくうまい。「日体大の集団行動」なんて本来そこまで伝わるボケじゃないとおもうんだけど、空気をつかんでいるから無理やり受け入れさせてしまう。

 テレビで観る漫才と生で観る漫才は違う。師匠と呼ばれるようなベテラン漫才師ってテレビではそこまで笑えなくても、生で観るとめちゃくちゃおもしろいんだよね。あっという間に会場を自分たちの空気にしてしまう。以前、大木こだま・ひびきの漫才を生で観る機会があったんだけど、あっという間に場を支配して観客を惹きつけてしまった。

 令和ロマンは若いのにこの「なんかいい空気」を作り出すのがめちゃくちゃうまい。たぶん生で観たらもっといいんだろうなあ。令和ロマンなら、たぶん他の漫才師のネタをカバーしてもちゃんとおもしろくできるとおもう。


シシガシラ(合コン)

「看護婦さん」「スチュワーデスさん」と古い職業名で呼んでしまい、相方から時代にあってないとたしなめられる。だが看護婦やスチュワーデスはダメなのにハゲはいいのかと疑問を持つ……。

 去年か一昨年のM-1予選動画で観たことのあったネタ。そのときはウケていたしぼくも大笑いしたのだが、今回はどうもウケず。

 これは場の違いかなあ。劇場だとハゲいじりがぜんぜん許されるから「ハゲはいいのー!?」が活きるけど、テレビだと最初のハゲいじりの時点で「それ良くないんじゃない?」の空気になってしまう。最初のハゲいじりがウケて客との共犯関係が築けないと、後半が厳しいね。

 願わくば敗者復活戦でやったカラオケのネタを決勝でも観たかったけど、あれも準決勝のお客さんは漫才を見慣れているからすぐにその構造を呑みこんでくれたけど、決勝だとどうだったろうなあ。でもキャラクターが浸透すれば、マヂカルラブリーのようにM-1決勝の舞台で受け入れられる日が来るかもしれない。

 敗者復活戦を観ていない人は「なんでここが勝ちあがったんだ?」とおもうかもしれないけど、敗者復活戦では場の空気にばちっとハマっていてめちゃくちゃおもしろかったんだよ。


さや香(ホームステイ)

 ブラジルからの留学生をホームステイ先として受け入れることになったのだが、日が近づくうちになんとなく気後れしてきたのでこっそり引っ越そうとおもうと打ち明ける……。

「なんも言わんと引っ越そうとおもってる」という導入はよかったのだが、その後の論理がかなり甘く感じた。「むちゃくちゃ言ってる」ではなく「甘い」。

 たとえばコンビニバイトの例え。「バイト初日に行ったら店がなくなってるようなもんや!」と言っていたが、実際のところ、バイト初日に店がなくなっていることなんて「ホームステイに行ったらホストファミリーの家がない」に比べたらぜんぜん大したことない。「おまえがやってるのはこんなにひどいことなんだぞ!」と言いたいのに、例えのほうが弱かったらだめだろ。

 また「留学生が五十代だった」はそこまでの意外性がないし、五十代だったら逃げたくなるという論調にもまったく共感できない。片方がむちゃくちゃ言ってもう一方がたしなめるなら笑えるが、ふたりそろって留学生を見捨てて逃げようとするのは救いがなくて笑えない。だってエンゾは何も悪いことしてないもの。

 むちゃくちゃな主張を強引な論理で押し通す作りはかつてかまいたちがM-1で披露した「タイムマシン」や「となりのトトロ」のネタに通じる部分もあるが、かまいたちは無茶を貫き通すためにそれ以外の部分は強靭な論理でがっちり固めていた。主張も無茶、それを補強するはずの論理も穴だらけ、ふたりとも道徳観が欠如、ではね……。その話には乗れませんぜ。


カベポスター(おまじない)

 小学校のときにおまじないが叶ったという話。だがよくよく聞いてみると、校長と音楽教師の不倫をネタにゆすっているだけで……。

 あいかわらずストーリー運びが見事。ハートフルな展開だった昨年の「大声大会」のネタよりも、底意地の悪さを感じられ、後半サスペンス展開になるこちらのネタのほうがM-1向きかもね。「ずっゼリ」のようなパンチラインもちゃんと用意しているし。脚本のうまさでいえば「大声大会」のほうが上だけど。

 カベポスターはコントに力入れてもいいんじゃないかな、となんとなくおもった。


マユリカ(倦怠期)

 倦怠期の夫婦をやってみるという設定。

 ボケもツッコミもおもしろいんだけど、ずいぶん冗長に感じた。フリが長すぎるというか。フリ→フリ→ボケ、ぐらいのテンポを期待して見ているのに、フリ→フリ→フリ→ボケ、みたいな。あれ? まだボケないの?

 昨年の敗者復活でやっていたドライブデートのネタとかのほうが濃度が高く感じたけどな。

 しかしここは漫才よりもその後のキモダチトークが盛り上がってたから、ある意味いちばん得をしたコンビかもしれない。バラエティとかに呼ばれそう。


ヤーレンズ(大家さんに挨拶)

 引越しの挨拶を大家さんにしにいくというコント形式の漫才。

 おもしろいし、特にツッコミのうまさが光る。おもしろいんだけど、どうしても2008~2009年頃のM-1がよぎってしまう。ノンスタイルやパンクブーブーが優勝してた頃の手数重視時代。そして、パンクブーブーに比べると、ちょっとボケの精度が粗く感じる。パンチの数は多いけどちょいちょい外してる。それだったら打たないほうがいいのでは、というパンチがいくつか。

 うちの子はいちばん笑ってた。


真空ジェシカ(Z画館)

 えいがかんより安いB画館があるという話から、まずはZ画館に行ってみたらいいという流れになり……。

 いやあ、よかったね。手数が多い上に、一発一発のパンチが重たい。おまけにボケが後の展開につながっていてコンボが決まっている。Z画館→Z務しょ→刑務所→税務署の流れとか、エンジン式のスマホ→電話の声が聞こえない→検索エンジンとか。ボケの数は多いけど脈略のない羅列ではなく、映画泥棒の勝利とか、ラジオネームのような映画監督名とか、どれも映画というメインテーマにつながっている。ただえいがかんより安いB画館、というだけでなく、「下っていうとまたアレなんだけど」と謎にリアルな配慮をしてみせることで、一見突飛な世界観を強固なものにしてみせている。

 これはすばらしい! とおもったので、あの結果(最終順位7位)には驚いた。この出来で!?

 ううむ、パンチが重いわりにスピードが速すぎてついていけない人がいたのかなあ。また「Z画館」という設定が突飛すぎたのかなあ。


ダンビラムーチョ(カラオケ)

 口だけでカラオケの伴奏をする、という漫才。

 んー、まったく笑えなかったなあ。そもそも狙いがよくわからなかった。

 歌ネタは盛り上がりやすいけど、ベストなタイミングでツッコめないのが弱点だよね。歌にあわせなくちゃいけないから。溜めて溜めてよほど切れ味の鋭いツッコミがくるのかなとおもっていたら、期待を下回っていた。おいでやすこがのように「わかっていてもツッコミそれ自体で笑わされる」ぐらいのパワーがあればまたちがうんだろうけど。


くらげ(ど忘れ)

 サーティーワンアイスクリームの種類を忘れてしまったので思いだしたいという設定。

 ここ数年、毎年一組ぐらいは「準決勝の審査員はなんでここを決勝に上げたんだろう」とおもう組がいるよね。去年でいうとダイヤモンド。

 いや、おもしろいんだけど。ダイヤモンドもくらげも個人的には好きなんだけど。でも、決勝の舞台で、会場を盛り上げて、プロの審査員に漫才技術を評価されて、点数をつけられるという状況で、ここが勝つ可能性があるとおもったの? ビジュアルに頼っているネタでもあるし。

 たとえば、ダンビラムーチョなんかは、ぼくはぜんぜん好きじゃなかったけど、客層とかタイミングとかがちがえばめちゃくちゃウケることもあるのかもな、とおもえる。でもダイヤモンドが昨年披露した「レトロニム」のネタとか、くらげのこのネタとかは、お客さんを変えて出番順を変えて100回やってもトップ3位以内に入ることはほぼないんじゃないの、とおもっちゃうんだよなあ。おもしろくないわけじゃなくてM-1決勝戦の舞台にあわないというか。盛り上がりようがないネタだから。これが勝つとしたら、相当他がスベりまくったときだけだよ。

 何度も書くけど、個人的にはぜんぜん悪いネタじゃないとおもう。準決勝の審査員が悪い。


モグライダー(空に太陽があるかぎり)

 錦野旦の『空に太陽がある限り』はめんどくさい女にからまれている歌詞だ……という暴論からはじまり、歌いながらめんどくさい女をかわす練習をする。

 構造は一昨年の決勝で披露していた「さそり座の女」と一緒だが、こっちのほうがずっと見やすくなっている。最初の説明が丁寧になっているし、芝さんがお手本を見せるところ親切だ。

 とてもわかりやすくなっている……が、その反面「こいつらは何をやってるんだ」というおかしさが薄れてしまったようにも感じる。むずかしいな。

 アドリブ性の強いネタなのでしかたがないのだが、調子が良くなかったように感じる。たぶんまったく同じネタでももっともっとおもしろくなるときもあるんだろうなあ、という印象。

 そしてこれまた歌ネタの宿命で、「途中のくだりを省略できない」というのもマイナスポイント。もうそこはいいから次のくだりに行ってくれよ、と観ている側はおもうのだが、歌だと飛ばせないからねえ。




令和ロマン(ドラマ)

 ドラマを人力で演じたい、という漫才。

 ダンビラムーチョ、くらげ、モグライダーとボケのテンポが速くない漫才が続いた後だったこともあって、見やすいボケがポンポンと飛び出してくるのは楽しくて見ごたえがあった。たくさん用意していたネタの中から状況に応じたものを選んでいたらしいので、そのあたりも考えていたのかなあ。策士!

 クッキーに未来はない、まだライバルじゃない、トヨタにそんな人はいないなど次々に上質なボケが並ぶ。

 気になったのは、終わり方が唐突に感じたところ。しっかりとドラマの世界に引き込まれたからこそ、ドラマの冒頭部分だけで終わってしまったことに物足りなさを感じてしまった。もっと見たかった!


ヤーレンズ(ラーメン屋)

 変な店主のラーメン屋に行くコント漫才。

 昨年の敗者復活で披露したネタのブラッシュアップ版だが、そのときよりもボケ数が増えた分、ハズレも増えた印象。それでも数を入れながら、メンジャミン・バトン~スープな人生~のような重めのボケを織り交ぜてくる構成は見事。渡されたネギをずっと持っているような細かい描写も光った。唐突に終わってしまった印象のある令和ロマンとは違い、ラーメン屋に入店するところから出ていくところまでを描いているのでこっちのほうがまとまりの良さは感じる。

 余韻や広がりを感じさせた令和ロマンと、一本の作品としてきれいにまとまっていた屋―レンズ。いい勝負だった。


さや香(見せ算)

 加減乗除にプラスして、これからは「見せ算」が大切だと説きはじめる……。

 やりたいことはわかるけど、ぜんぜんおもしろくなかった。攻めたというよりただ奇をてらっただけのように見えてしまって。

 一言でいうなら「さや香にはシュールをやれる器がない」。数年前の敗者復活でやってた「からあげ」のときも同じことをおもったんだけど、シュールネタをやるには嘘くさすぎる。

 なんでかっていったら、さや香はちゃんとやれることをみんな知っているから。過去にM-1決勝に2回も出て、ボケツッコミを入れ替えて、王道しゃべくり漫才で準優勝までして、またチャレンジして、バラエティ番組でもちゃんとトークができることを見せつけて、その間に血のにじむような努力があったことは誰にでも容易に想像がついて、そんな人が本気で見せ算を提唱したいとおもってないことはわかってしまう。だから嘘くさい。「おれ、今からシュールをやるで!」って自分で言っちゃうような痛々しい感じ。

 こういうタイプのネタって片手間でやれるもんじゃないんだよね。天竺鼠とかランジャタイみたいに、ずっと奇抜なネタやってて、普段のトークでも奇天烈なことばっかり言って、はじめて説得力が出る。それぐらい人生を捧げてやっと、「この人なら本気でこんなこと考えてるかも」と思わせることができる。

 さや香が演じるには無理のあるネタだし、そもそもネタとしての出来がよくなかった。「どういうこと?」「何言ってんの?」と観客がおもうことを言い、「どういうこと?」「何言ってんの?」とツッコむ。なんら意外性がない。目新しさもない。

 今回の予選でいえばデルマパンゲや豆鉄砲や空前メテオがこういう「ぶっとんだ持論を展開する」系統のネタをやっていたが、そのどれもがさや香の「見せ算」よりもずっとよくできていた。めちゃくちゃを言いながらも、観客の中にも20%ぐらいは「たしかにそうかも」とおもわせるふしぎな説得力があった。

 かけあいの強さというさや香の持ち味も失われていたし、観客からも求められていなかったし、そもそもネタ自体の出来がいいとはおもえないんだけど、そんなにこのネタをやりたかったのかねえ。「勝てなかったけどこれをできたから満足です!」と言えるようなネタなのかなあ。




 ということで優勝は令和ロマン。おめでとう。

 来年も出たいと言っていたけど、ぜひチャレンジしてほしい。まだまだ伸びるコンビだとおもうので(だからここで優勝してしまったことにちょっと寂しさも感じる)。

 テレビで観ていて、オープニングは盛り上がっていたのに、途中で出てきた野球監督&選手あたりで急に会場の熱が冷めたように感じた。彼らがあまりに緊張してるからその緊張が観客席にも伝染したのか? もし今大会の盛り上がりが例年に比べてイマイチだったと感じたなら、犯人は彼らをキャスティングしたやつだ。

 敗者復活がやっとまともな制度に戻ったり、出番順の組が損をする風潮がほんのちょっとだけマシになったり(とはいえ相変わらず損だけど)、ちょっとずついい大会にはなってきている。あとはあの「誰も求めていない、アスリートにくじを引かせる時間」さえなくせばもっと良くなるね!


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2023年12月26日火曜日

都市と郊外の外食文化について

 通信技術の発達により、都市と文化で入手できる情報の差は大きく縮まった。

 もちろん劇場に足を運んだり、映画館に通ったり、展覧会に行ったりは圧倒的に都市のほうがしやすい。とはいえ、まったく同じではないにせよ、オンライン配信などで現地に行かなくてもアクセスできる機会は大きく増えた。

 また、ネット通販などの普及で、ほとんどのものが日本中どこでも買えるようになった。


 そんな時代において、都市と地方でもっとも差が大きいのは外食文化じゃないだろうか。

 そもそも外食店がほとんどない田舎はもちろん、郊外都市においても、外食文化は都市部と比べて大きく見劣りする。

 イオンモールや国道沿いに立ち並ぶ店に行けば、ひととおりのものは食べることができる。ラーメン、ハンバーガー、うどん、そば、和食、中華、イタリアン、寿司、お好み焼き、しゃぶしゃぶ、洋食、牛丼、カレー、珈琲……。一通りはある。一通りは。

 だが、選択肢は少ない。そばならあの店、寿司ならあそこかあそこ。選択肢はせいぜいひとつかふたつ。

 また、一通りはあるが、それ以上はない。スリランカカレーの店も、スペインバルも、タコスのうまい店も、太刀魚料理専門店も、高知郷土料理も、創作寿司の店も、立ち呑み屋も、鯨料理の店も、玄米食堂も、ない。

 ぼくが生まれ育った郊外の市(人口十数万)がそんな感じだった。だいたいの店はある。けれど個性的な店は少ない。そもそも個人店が少ない。人口百万超都市に引っ越して、世の中にはこんなにもいろんなめずらしい料理屋があったのかとおもったものだ。


 日本中、いや世界中どこにいてもいろんな情報やモノにアクセスできる時代になったけど、メシばっかりはそうかんたんにはいかない。お取り寄せは食べに行くのとぜんぜんちがうものだし。そもそも「注文して、1週間後に到着して、盛り付けたりあたためたりして食べる」と「今日何食べよっかなーと考えながら店に行く」が同じ体験であるはずがない。

 メシって人生においてかなり重要な部分なのに、地方移住の話をするときにそのへんの話が語られなさすぎるんじゃないかな。

「うちの市は人口のわりに飲食店がすごく多くて、バラエティも豊富で、台湾みたいに外食文化が盛んなんですよ」って街があったらけっこう人を惹きつけられるんじゃないかな。外食好きな人が集まれば飲食店も増えて、相乗効果でどんどん盛り上がるだろうし。


2023年12月21日木曜日

【読書感想文】矢部 嵩『保健室登校』 / 唯一無二の気持ち悪さ

保健室登校

矢部 嵩

内容(e-honより)
とある中学校に転入した少女。新しい級友たちは皆、間近に迫るクラス旅行に夢中で転入生には見向きもしない。女子グループが彼女も旅行に誘おうとすると、断固反対する者が現れて、クラスを二分する大議論に発展。だが、旅行当日の朝、転入生が目の当たりにした衝撃の光景とは―!19歳で作家デビューを果たした異能の新鋭が、ごく平凡な学校生活を次々に異世界へと変えていく。気持ち悪さが癖になる、問題作揃いの短編集。


 まず断っておくけど、ハッピーな小説を読みたい人、わかりやすいお話が好きな人、グロテスクな描写が苦手な人にはまったくもっておすすめしない。とにかく展開はグロいし、わけのわからないことが起こるし、文章は癖が強くて読みづらい。でも、慣れるとそれが病みつきになってくる。珍味。

 ぼくは『魔女の子供はやってこない』ですっかり矢部嵩氏の濃厚な味付けにハマってしまったので(といっても頻繁に読みたいわけではない。たまに無性に読みたくなる)、『保健室登校』も読んでみた。こっちのほうが古い作品集だけど。




 うん、おもっていたとおりの変な味付け。『魔女の子供はやってこない』もずいぶん癖の強い味だとおもったけど、『保健室登校』はもっと洗練されていない。

  特に会話文はすごい。

 口語文とか言文一致とかいっても、小説の会話文と現実の会話文はまったくちがう。小説の会話は文法的に正しいし、無駄も誤りもない。ドラマのセリフもたいていそう。でも現実の会話はそうではない。もっとむちゃくちゃだ。省略も多いし語順も時系列も変だし文法的にもぜんぜん正しくない。矢部嵩作品は、その実際の会話文を忠実に再現している。

「私廊下見てたの教室のドアが開いてて確か、風入って寒いから誰か閉めればいいのにと思ってずっと気にしてたんだけど、それもあいまって覚えてる」
「ちょっと待って」吞み込みながらもう一度、可絵子は念を押した。「本当だね、授業中ずっと気にしてたのね。一人二人見逃したりしないで、ずっと廊下見てたのね。あなたの席から見える廊下はどれくらい」
「多分ずっと見てたと思う、席は一番後ろの列で、ドア開いてるとちょうどそこの」そういってA子は廊下の奥を指差した。「トイレあるでしょ、あれが男女とも見える。私の机から。その横の階段は見えないけれど、トイレの前を誰か通ればきっと見える感じ」

 じつはすごくむずかしいことをやっている。「私廊下見てたの教室のドアが開いてて確か、風入って寒いから誰か閉めればいいのにと思ってずっと気にしてたんだけど、それもあいまって覚えてる」なんて、口では言うけど、書こうとおもっても書けない。義務教育を受けていたらぜったいに修正されるから。

 すごいよねえ。どういう人生を送ってたらこういう文章書けるんだろう。学校行ったことないのか? とおもってしまう。

 こういう文章が並んでいるのですごく読みづらいんだけど、慣れてくるとリアルな会話を聞いているようでわりとすんなり入ってくる。黙読だと気持ち悪いけど、音読するとけっこう理解できるんだよね。




 転校したばかりなのにクラス中からあからさまに嫌われる『クラス旅行』

 クラス対抗リレーで勝利するために足の遅い生徒が次々にけがを負わさればたばたと死んでゆく『血まみれ運動会』

 頭のイカれた教師がお気に入りの生徒の関心を引くために暴走する『期末試験』

 理科の実験中に宇宙人が盗まれてクラス内で犯人探しがはじまる『平日』

 合唱コンクールに向けて命を削った練習がおこなわれる『殺人合唱コン(練習)』

の五編を収録。

 どうよ、この異常なラインナップ。ちなみに上に書いたあらすじはこれでも抑えていて、本編はもっともっと異常だからね。作中で数十人は死ぬか重傷を負わされている。


 通っているときはなかなか気づかなかったけど、学校ってかなり異常なことがおこなわれていて、たかが遊びにすぎない部活のために他のあらゆることを犠牲にしたり、一イベントである文化祭や合唱コンクールのために遅くまで残ったり朝早く登校することを強いたり、なにかとおかしい。運動会とか文化祭とか合唱コンクールとかのためにがんばらないやつが悪いみたいな風潮とか。なぜ悪いかと訊かれても誰も説明できないだろう。
「そりゃあみんなががんばっているから……」
「みんなががんばっているときに自分だけがんばらないのがなぜ悪いんですか」
「……」
みたいに。

 でも学生にはその異常さがわからない。教師にもわからない。

『保健室登校』は、学校が抱える異常さを大げさに表現して教育問題に鋭いメスを入れる……というような大それた小説じゃないです、たぶん。ただただ気持ち悪い小説。




 ばったばった人が死ぬし、血は流れるし、脚はちぎれるし、のどは焼けるし、はらわたは飛び出る。

 グロテスクな話が続くが、それでもどこかユーモラス。

「あなたサブリミナル効果って知ってる」
「はいあのコーラですでもそれが何ですか」
「体育でビデオ見せられたでしょう走り方講座的なビデオを。あれがそうだったのよ」
「何ですって」
「あのビデオには知覚できないほどの短いコマ間隔でトラックを走る短距離走者の映像が挟み込まれていたのよ。おそらく実行委員は何度も見て個人の気持ちや事情に先立ちまずとにかく走らねばという観念にとらわれていたのよ。頭が」
「何てこと」駅子は戦慄した。「走っている人間の映像の間に走っている人間の映像が巧妙に挟み込んであったなんて」
「そう走っている人間の映像の間に走っている人間の映像をカットバックさせることで知覚出来ない人間の意識下に走っている人間の映像を刷り込んで秘密裏に脳に働きかけていたのよ。見ている人はただ自分は走っている人間の映像を見たと思うだけ、その裏に刻まれた走っている人間の映像の影響に気付くことはないというわけ」
「でっでもそんなことで本当にこんな事態に」
「のみでなくさらにこれよ」先生は包みを取り出した。
「それは差し入れの」
「お菓子なんかじゃないわこれ元気の出る薬よ」
「それじゃみんなは元気の出る薬と元気の出るテレビの影響でおかしくなってたというんですか」
「いえないでしょう」

 いろいろ書きたいことはある気がするけど、でもこの本の魅力は説明しようがない。だって類似の本がないんだもの。唯一無二の気持ち悪さ。

「変な本が好き」という人は読んでみてください。ハズレを引きたくない、という人にはまったくおすすめしません。


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