2022年6月23日木曜日

【読書感想文】半藤 一利『B面昭和史 1926-1945』 / 昭和もB面も遠くなりにけり

B面昭和史

1926-1945

半藤 一利

内容(e-honより)
「六十年近く一歩一歩、考えを進めながら、調べてきたことを基礎として書いた本書の主題は、戦場だけではなく日本本土における戦争の事実をもごまかすことなしにはっきりと認めることでありました。民草の心の変化を丹念に追うということです。昔の思い出話でなく、現在の問題そのものを書いている、いや、未来に重要なことを示唆する事実を書いていると、うぬぼれでなくそう思って全力を傾けました」ロングセラー『昭和史1926‐1945』の姉妹編!

「昭和史」を名乗ってはいるが、書かれているのは昭和20年まで。サブタイトルに「1926-1945」とつけてはいるが、63年のうち20年だけを書いて「昭和史」と掲げるのは景品表示法違反じゃないか。

 ま、それはいいとして。

 昭和元年から20年までの、一般庶民の風俗についてのトピックを拾い集めた本。A面(政治・経済)に対するB面ということだが、そうはいっても政治や経済について語ることなくこの時代を語ることは不可能なので、じっさい半分近くはA面の話題。まあこれはしかたない。




 大正12年、つまり昭和元年の3年前に起こった関東大震災について。

 相当のちの話となるが、東京横浜電鉄の社長として、腕をふるい昭和十七年にはこの小田急までも合併して東京急行電鉄(現東急)という大鉄道会社を設立した五島慶太が、徳川夢声と『夢声対談』で少なからず得意そうに語っている。
「まったく関東大震災さまさまでした。震災後、日本橋や京橋におることができないから、みんな郊外に出た。ちゃんとこっちが郊外に住宅地を造成しておいたから、そこへみんな入ってくれたんです。その前は、あんなところに住むものは、退役軍人以外になかった」
 これはもうなるほどネと合点するばかり。大震災が東京の住宅地を東西南北とくに西の郊外へとぐんぐんひろげていったのである。さきの五島慶太の履歴をみるとそのことがよくわかる。そもそもが目黒蒲田電鉄にはじまって、彼がつぎつぎに買収ないし合併していった鉄道会社の名はざっとつぎのとおり。池上電鉄、玉川電気鉄道、京浜電気鉄道、東京横浜電鉄、京王電気軌道、相模鉄道……。すべて鉄道建設と沿線の住宅地分譲をいっしょに行う積極的な企業家活動が成功したのである。
(中略)
 こうして東京はぐんぐん変貌していく。震災のため下町から焼けだされた人びとが、山の手からさらにその先の、とくに西や南の郊外へと移っていった。必然的にその郊外への起点である渋谷や新宿が存在を重くしていく。単なる盛り場にあらず、いまの言葉を借りれば副都心的な繁華街へとのし上がっていったのである。
 と同時に、地方からの人びとの流入、その結果としての東京の人口の爆発的な増加ということも、忘れずにつけ加えておかなければならないであろう。

「まったく関東大震災さまさまでした」なんて今だったら大炎上してる発言だけど、まあ鉄道会社社長からしたら本音だろう。

 結果的に関東大震災があったからこそ東京は鉄道網や住宅地の整備が進み、都市化が進んだ。地震が起こる前の東京都の人口は400万人ぐらいだったが、昭和15年には700万人を超えている。空襲で激減したものの、その後に起こった再度の人口増加はご存じの通り。地震と空襲という二度の災害が、東京を大都市にしたんだね。

 そういや大地震にも空襲にも襲われていない京都市の中心部では、地上を鉄道が走っていない(昔は路面電車が走っていたが)。阪急も京阪も地下。JR京都駅は中心部からずいぶん離れている。道は狭く、バスやタクシーは渋滞で動けない。

 大きな災害がないのはいいことだが、都市開発という点では必ずしもいいこととはいえなさそうだ。




 昭和6(1931)年の話。満州事変後の報道について。

 さらには忘れてはならないことがある。新聞各紙が雪崩をうつようにして陸軍の野望の応援団と化したことである。背後から味方に鉄砲を撃つようなことは出来ぬと格好のいいことをいい、あれよという間にメディアは陸軍と同志的関係になっていく。
 その理由の一つにラジオの普及があったことは、すでに拙著『昭和史』(平凡社)でかいている。九月十九日午前六時半、ラジオ体操が中断されて「臨時ニュースを申しあげます」と元気よく江木アナウンサーが事変の勃発を伝えた。これがラジオの臨時ニュースの第一号。新開はこのラジオのスピードにかなわなかった。負けてなるかと号外につぐ号外で対抗しようとするが、号外の紙面を埋めるために情報をすべて陸軍の報道班に頼みこむほかはない。勢い陸軍の豪語のままに威勢のいい記事をかくことになる。軍縮大いに賛成、対中国強硬論反対、さらには満蒙放棄論までぶって陸軍批判をつづけてきたこれまでの新聞の権威も主張もどこへやら、陸軍のいうままに報じる存在となる。ああ、こぞの雪いまいずこ。どの新聞も軍部支持で社論を統一し、多様性を失い、一つの論にまとまり、「新聞の力」を自分から放棄した。

 このへんはひとつの分岐点だったのかもしれない。陸軍の暴走があったことはまちがいないが、ここで報道機関や国民が冷静になっていれば……ひょっとして無謀な戦争への突入は避けられたのかもしれない。

 翌昭和7年の話。

 そう思うと満洲事変いらい、日本は戦時下となったといえるのかもしれない。召集令状の赤紙がしきりに舞いこんでくる。戦死者の無言の遺骨が帰国してくる。そのなかで思いもかけぬ事件が起こった。大阪の井上清一中尉に赤紙が届けられたとき、夫に心残りをさせないためにと、彼の妻がみずから命を絶った。この行為が軍国主婦の鑑ともてはやされたのである。井上中尉と親類筋にあった大阪港区の安田せい(金属部品工場主の妻)が、この事実に感激し、友人や近所の婦人たちに呼びかけ、お国の役に立つための女だけの会の結成をよびかけた。これが国防婦人会の発足なのである。それがこの年の三月十八日のこと。
 着物で白いかっぼう着にたすきがけの女性四十名近くが、新聞記者を前にさかんに気勢をあげる。
「銃後の守りは私たちの手で」
 それが会の目的である。そのために出征兵士の見送りや慰問をすすんでやることになる。喜んだのは軍部である。女性のほうから積極的に戦争協力に挺身し、さらに五・一五事件の減刑運動をするというのであるから。
 会はどんどん大きくなる。関西ばかりでなく東京にも進出、十月二十七日に関東本部発会式。十二月十三日には大日本国防婦人会へと発展する。やがて会員も七百万人を超えるようになる。恐るべし、女性の力。

 NHKの朝ドラなんかだと「勝手な戦争をしかけたえらいさんのせいで、我々庶民がひどい目に遭う」みたいな描き方をされがちだけど、そんなことはない。庶民こそが旗を振って戦争突入を後押ししたのである。

 斎藤 美奈子『モダンガール論』にも同じような記述があった。それまで女は家の外のことに口出しするな、だったのが、勤労奉仕、銃後の守りを理由にどんどん家の外に出て活躍できるようになった。多くの女性にとって戦争協力は喜びに満ちたものだったにちがいない。




 昭和11年。国際連盟を脱退した3年後。日中戦争開戦の前年である。

 それと都市を中心に結婚ブームが起こったという。八年ごろからの軍需景気がつづいて失業者は減り、蒼白きインテリなどといわれた大学卒業者はみな大手をふっていい職業につくようになる。それと軍人たちが救世主のように思われ、娘たちの憧れの的となっている。加えて、新婚生活のすばらしさを歌った歌謡曲がやたらに売りだされ、それがまた大いに売れた。(中略)
 こんな風に、時代が大きく転回しようとしているとき、民草はそんなこととは露思わずに前途隆々たる国運のつづくように思い、生活にかなりの余裕を感じはじめていたのである。東北地方の貧農の娘の身売り話などまったくといっていいほどなくなっていた。

 このへんが最後の平穏という感じだろうか。昭和9~10年頃は景気もよく、喫茶店やミルクホールが流行るなど都市の市民は平和を謳歌していたらしい。 岩瀬彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』にも、昭和10年頃のサラリーマンが銀座で飲み歩いたりしていた様子が描かれている。まさか数年後に、南国に出兵して命を落としたり、空襲で家を焼かれたりしているなんて想像もしていなかったことだろう。たった数年で「大卒サラリーマンの結婚ブーム」から「戦争で焼け野原」になるなんて。

 もっとも平和を謳歌していたのは都市部の話で、昭和9年の東北は大飢饉で娘を身売りする家が相次いでいたそうだ。都市と地方の生活格差は今の比ではなかったのだ。




 昭和15年。太平洋戦争開戦前夜。

 雑誌「文藝春秋」の十五年新年号に、時代の風潮を知るうえに面白い世論調査が載っている。東京・神奈川・埼玉・千葉の読者六百九十六人に質問十項をだしてその回答を得たものである。
「・現状に鑑みて統制を一層強化すべきか
  強化すべし四六一 反対二二八 不明七
 ・対米外交は強硬に出るべきか
  強硬に出る四三二 強硬はよくない二五五 不明九
 ・最近の懐具合は良いか
  良い一〇八 悪い五七三 不明一五」
などなどであるが、これでみると、〝最後の平和〟を愉しんでいる人びとのいるいっぽうで、そうした悠長な国民的気分にかなり苛々として、もっと指導者による強い国家指導を望む声の高くなっているのがわかる。それに「懐具合」がかなり悪くなっているのも、はなはだよろしからざる気分を助長していたのであろう。それでなくとも統制が強化され、新聞も紙の事情からすべて朝刊八ページ、夕刊四ページ建てを余儀なくされ、情報量は減ってきている。そのことが人びとによりいっそうの思考停止をもたらしているのかもしれない。

 この感じは今の状況にも近いかもしれないね。

 景気は悪い、経済が上向く見通しも立たない。こうなると人々は「強いリーダー」「現状を打破してくれるおもいきった方針」を支持するようになる。

 漸進的に変えていきましょう、という地に足のついた意見は人気を集めず、改革だ、維新だ、刷新だ、という聞こえのいいだけの言葉に飛びつくようになる。貧乏人ほど一発逆転を狙って宝くじやギャンブルに走るようなものだね。もちろん『カイジ』じゃないんだから崖っぷちのギャンブルで勝てるわけないんだけど。




 昭和19年の「竹槍事件」について。長くなるので要約。

 毎日新聞が「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ 海洋航空機だ」と見出しをつけ「敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍では戦えない」と書いた。
 これを読んだ首相の東条英機が激怒。「国民一丸となって戦え」と演説をしたことにケチをつけられたと感じたこと、海軍が戦力増強を求めても陸軍がこれに応じなかったことなどが背景にあった。面子をつぶされたと感じた東条は、毎日新聞の記事は反戦思想だとして毎日新聞社に記者の処分を求めたが、毎日新聞社はこれを拒否。すると軍は書いた記者に召集令状を出す。

 これに海軍が「大正時代に徴兵検査を受けた記者を徴用するとは何事か」と抗議。すると、陸軍はなんと大正時代に徴兵検査を受けた他の兵役免除者250人にも召集令状を出したのだ。

 もう、むちゃくちゃ。「竹槍では戦えないから飛行機を増やしたほうがいい」は誰が見たって正論だ。しかし正論なのがよくなかったのだろう。無茶を言っている人は正論を言われると逆ギレする。さらに見せしめのような徴兵、さらには東条英機のプライドを守るためだけにルールまでねじ曲げる。ひでえ。

 ひどい時代だったんだなあ。まるで、賭け麻雀をやった黒川弘務検事長たったひとりを守るために、強引に法律をねじまげて不起訴にした検察組織みたいなむちゃくちゃだ。あっ、今もひどい時代だった……。




 読んでいておもうのは、ほんとに国全体が戦争に向かって突き進んだんだなってこと。もちろん中には戦争反対を貫く人もいたけれども、総体としてみれば戦争に傾いていた。そりゃあ軍部や政治家は特に悪いけど、そこだけの責任ではない。国民も報道機関も、みんなで突き進んだから、もう誰にも止められなくなっていた。総理大臣でも、天皇でも。

 そして、人々の気質は今もそんなに変わってないなってことも感じる。みんな、なんとかなるさとおもっている。自分がなんとかしなきゃとはおもっていない。国会議員も、総理大臣も。もちろんぼくも。

 だからまあ、戦争かどうかはわからないけど、似たような大失敗をまたやらかすんだろうな。反省もなく。

 国民が〝強いリーダー〟を求めているんだから。自分が強くなることよりも。

 そんなわけでもうすぐ参院選です。選挙に行きたい人は行きましょう。行きたくない人は行かなくてよろしい。


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2022年6月22日水曜日

人は変えられない


 上野 千鶴子『女の子はどう生きるか』にこんな文章があった。

 朝日新聞の世論調査(二〇一八年)では、夫婦別姓選択制を支持するひとは六九%にのぼっています。ですから、最高裁の判事の意見は、世論の動向ともかけはなれています。それに夫婦別姓選択制は、「選択できる」という制度のことで、別姓にしなさいという強制ではありません。同姓にしたいひとはどうぞ、そうでないひとは別姓を選ぼうと思えば選べる、というものですから、誰も不幸にしません。現行の「夫婦同氏」の制度は、同姓にしなさいという強制です。強制をやめて選択にしようという法律の改正に反対するひとの理由が、わたしにはわかりません。国会議員のなかには強力な反対派がいます。反対派の言い分は、家族のなかで姓がばらばらだと家族の一体感がこわれるから、だといいますが、同じ姓でもばらばらの家族はあるし、姓がちがっても仲のよい家族もあるのにねえ。自分が認めないことは他のひとにもやらせない、って押しつけだと思うんですけど。
 ちなみに国連は日本政府に、男女平等を推進するなら夫婦別姓を可能にしなさい、とずいぶん前から勧告しています。この勧告を聞き入れようとしないのが今の政府です。あなたが結婚する頃までに、夫婦別姓選択制が実現しているといいですね。

 もっともだ。多数派である夫婦別姓選択制賛成派はだいたい同じ意見だとおもう。

 別姓を強制するわけじゃないんだよ?
 やりたい人がやるだけで、同姓がいい人はこれまでと同じようにすればいいんだよ?
 反対する理由ある?

と、おもうだろう。ぼくもそうおもう。

 でも、最近わかってきた。反対派にとっては、そんなことはどうでもいいのだと。




 ぼくが結婚するとき、姓をどうするか妻と話しあった。

 ぼくはどっちでもよかった。自分の苗字はあまり好きではない。嫌いというほどでもないが、ありふれていてつまらない。

 じっくり考えてみると、

・ぼくの苗字は、同じ読み方で複数の漢字のパターンがある(安部と阿部みたいな)ので他人に説明するときめんどくさい。妻の苗字はそこそこありふれている上に漢字のパターンはほぼ一種類なのでわかりやすい(佐々木とか石田みたいな)。

・結婚するタイミングでぼくは転職することが決まっていた。仕事も変わるタイミングで苗字を変えれば手続きが少なくて済む。

・妻のお父さんは長男だがは女きょうだいしかいないので、ぼくが改姓すれば苗字が途絶えなくて済む。一方ぼくの父は次男。長男(伯父)のところには息子がふたりいる。

など、ぼくが苗字を変えたほうがいい理由のほうが多かった。


 ということで、両親に「結婚したら向こうの姓にしようとおもう」と言ったら、母親には賛成されたが父親に反対された。

 そのときの父親の態度はなんとも煮え切らないというか、ぼくから見るとよくわからないものだった。

「うーん、絶対にダメってわけではないんだけど、でもふつうは男の苗字になるものだし、養子に入るわけでもないんだったら変えなきゃいけないわけじゃないんだし、変えなくてもいいんだったらふつうのやりかたにあわせといたほうがいいんじゃないか……」

みたいな曖昧模糊とした言い方で、けれども退く気はないといった様子で反対された。父はわりと合理的な考え方をする人だったので、これは意外だった。

 妻に「うちの父親が嫌がってるんだよね。なにがなんでも反対ってわけじゃないから強引に改姓することもできるとおもうけど」と伝えると、「これからの付き合いのこともあるからここで遺恨を残すのもよくないし、だったら私が姓を変えるよ」とのことで、結局ぼくの姓を名乗ることになった。




 そんな経験があるので、夫婦別姓反対派の態度もなんとなく想像がつく。

 結局、理屈じゃないのだ。「イヤだからイヤ!」なのだ。


 人間の「今の状況を変えたくない」という本能はすごく強い。

 たとえば「今と同じ仕事、同じ労働条件で今より給料が千円高い仕事がありますよ。転職しませんか?」と言われたとする。今の職場に強い不満がある人以外は断るだろう。
 合理的に考えれば千円でも給料が高いほうに転職するほうが得だ。人間関係などが今より悪くなる可能性もあるが、今より良くなる可能性も同じだけある。それでも、千円の得よりも「変えたくない」のほうが上回る。


 夫婦別姓や同性婚に反対している人は、家族共同体だとか伝統だとかなんのかんのと理屈をつけるが、あんなのは全部ウソだ。いやウソとは言わないが後からつくった理屈だ。ほんとのほんとのところは「イヤだからイヤ!」なのだ。

 キュウリが嫌いな人は「青臭い。あんなのは虫の食べるものだ」とか「ほとんど栄養ないから食べなくてもいい」とか「小学校の給食でむりやり食べさせられて余計嫌いになった」とかいろいろ理屈をつけるが、ほんとは「イヤだからイヤ!」だ。


「夫婦別姓になると家族の絆が弱くなる」も「伝統だから」も「親と子の苗字がちがうと子どもがいじめられる」もぜーんぶ後づけの理屈だ。正直に「イヤだからイヤなの!」と言うのが恥ずかしいからもっともらしい言い訳を並べたてているにすぎない。

 なのに、賛成派はいちいちそれを真に受けすぎだ。

 上の例だと、上野千鶴子さんは「誰も不幸にしません」とか「同じ姓でもばらばらの家族はあるし、姓がちがっても仲のよい家族もある」「自分が認めないことは他のひとにもやらせない、って押しつけだと思うんですけど」とか書いてるけど、そんなことは何の意味もない。正論だけど意味がない。だって反対派の本当の理由はそんなことじゃないんだもの。

 キュウリが嫌いな人に「キュウリは低カロリーだし、カリウムやビタミンもけっこう含まれてるし、食物繊維もとれるから便秘にもいいし……」なんていくらいっても意味がない。だって「イヤだからイヤ!」なのだから。

 上野さんは「強制をやめて選択にしようという法律の改正に反対するひとの理由が、わたしにはわかりません」と書いているが、わからないのもあたりまえだ。理由なんてないんだもの。




 夫が妻の苗字を名乗るのに反対したぼくの父親の考えは古いとおもう。非合理的だとおもう。

 でもぼくは父を説得しようとはおもわない。無駄だとわかっているから。

「イヤだからイヤ!」な相手に、何を言っても変わるわけないのだ。


 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』に、こんなことが書いてあった。

 地動説が出てきたあとも、ずっと世の中は天動説でした。
 古い世代の学者たちは、どれだけ確かな新事実を突きつけられても、自説を曲げるようなことはけっしてなかったんですね。
 でも、新しく学者になった若い人たちは違います。古い常識に染まってないから、天動説と地動説とを冷静に比較して、どうやら地動説のほうが正しそうだってことで、最初は圧倒的な少数派ですが、地動説の人として生きていったんです。
 で、それが50年とか続くと、天動説の人は平均年齢が上がっていって、やがて全員死んじゃいますよね。地動説を信じていたのは若くて少数派でしたが、旧世代がみんな死んじゃったことで、人口動態的に、地動説の人が圧倒的な多数派に切り替わるときが訪れちゃったわけですよ。結果的に。
 こうして、世の中は地動説に転換しました。
 残念なことに、これがパラダイムシフトの正体です。
 身も蓋もないんです。
 新しくて正しい理論は、いかにそれが正しくても、古くて間違った理論を一瞬で駆逐するようなことはなくてですね、50年とか100年とか、すごい長い時間をかけて、結果論としてしかパラダイムはシフトしないんですよ。

 客観的に観測可能な科学的事実でさえ、人の考えを変えられないのだ。思想信条がそうやすやすと変わるわけがない。


 たぶん夫婦別姓も同性婚も同じだ。今反対している人は、死ぬまで考えを変えないだろう。どれだけ正論で説得されても変わらない。説得によってキュウリを好きになることがないように。

 だから変えようとおもったら、投票行動によって反対派を政界から退場させるか、現世から退場なさるのを待つしかない。

 残念ながら、議論では変わらない。


2022年6月21日火曜日

自宅バーベキューがいやな7個の理由。

 娘の通う保育園の保護者から自宅バーベキューに誘われてしまった。

 断りたかったのだが、浮世のしがらみというやつで断り切れずに参加した。

 案の定、やめときゃよかったと心からおもった。


 ことわっておくが、べつに親睦を深めることに反対しているわけではない。

 特に次女は一昨年保育園に入園したので、ずっとコロナ禍である。園の行事はことごとく中止・縮小され、遊びに誘うこともしにくくなり、保護者同士が話す機会はぐっと減った。

 ぼくは大人と話すのは苦手だがよその子と遊ぶのは好きなので、子どもたちが集まる場があるのは素直にうれしい。

 ただ、その手段として自宅バーベキューはないだろうとおもっているのである。その理由を挙げていく。


1. 家の人に気を遣う

 微妙な距離感の人の自宅でのバーベキューはものすごく気を遣う。トイレを借りるだけでも遠慮する。しかも幼児連れ。やつらは遠慮なんてないので、目を離すとすぐになんでもかんでもさわる。遠慮ばかりしてしまって楽しめない。

 ほんとは「こぢんまりした家ですね」とおもっているのに「うわー、立派な家ですねー」と言わなきゃいけないのも煩わしい。


2. 近所の人にも気を遣う

 自宅の庭でのバーベキュー。はっきりいって近所迷惑だとおもう。ぼくが隣人だったらうれしくない。煙はくるわ、子どもはさわぐわ、子どもが闖入してくるわ。


3. 洗い物めんどくせえ

 バーベキューの後片付けってすごく面倒じゃない。網の掃除とか。

 できることならほったらかして帰りたいけど、そういうわけにもいかない。他の人が持ってきた網だから、自分の家でやるときよりぴかぴかに洗わなきゃいけない。

 だったらちょっとぐらい高くついてもお店でご飯食べて洗い物放置して帰りたいよ。


4. うまくない

 はっきりいってバーベキューの料理なんてべつにうまくない。焦げるし、自分の好きなタイミングで食べられない。ちゃんとキッチンで料理したもののほうがおいしい。

 バーベキューは雰囲気を楽しむもので、料理を楽しむものではない。そして雰囲気を楽しめるのはよほど気心の知れた間柄だけで、〝保育園の保護者同士〟の関係では楽しめない。


5. 落ち着かない

 ただでさえ小さい子どもとの食事は落ち着かない。さわぐし走り回るしものを落とすし。

 バーベキューだとなおさらだ。火の加減は見なくちゃいかんし、肉や野菜が焦げないか見なきゃいかんし、子どもが火に近づかないように見張らなきゃならんし。ただただ疲れる。


6. 余る

 バーベキューをやったことのある人に訊きたい。ちょうどいい量を食べられたことありますか? と。

 バーベキューの食材はたいてい余る。そして後半は食べたくもないのに無理して食べるはめになる。九割方余る。残りの一割はもちろん「足りない」だ。


7. 子どもは食べない

 小さい子どもとバーベキューをやったことのある人ならわかるだろう。子どもは食べない。

 おにぎりとトウモロコシとソーセージを食べてそこそこ腹がふくれたら、もうじっとしていられない。席を立って歩きまわる。一人でも歩きはじめたらもう終わりだ。残りの子もじっとしていられない。メインの肉なんて見向きもしない。あとはせいぜいデザートのフルーツかお菓子をちょっとつまむぐらい。

 おにぎりとトウモロコシとソーセージしか食べないんだったらバーベキューでなくていい。自宅のフライパンで焼いて持ってくればいい。洗い物もずっと少なくて済む。
「バーベキューで子どもは食べない」これはまちがいない。

 中学生ぐらいになったらたくさん食ってくれるだろうが、言うまでもなく中学生は親とのバーベキューなんて来てくれない。


 というわけで、自宅バーベキューなんかなんのいいこともない。迷惑でしかないから招待しないでほしい。

 やっていいのは、自宅の敷地面積が1000㎡以上あって、専属シェフが準備から焼くのから後片付けまで全部やってくれる家だけ!


2022年6月20日月曜日

【読書感想文】中谷内 一也『リスク心理学 危機対応から心の本質を理解する』 / なぜコロナパニックになったのか

リスク心理学

危機対応から心の本質を理解する

中谷内 一也

内容(e-honより)
人間には危機に対応する心のしくみが備わっている。しかし、そのしくみにはどうやら一癖あるらしい。感情と合理性の衝突、リスク評価の基準など、さまざまな事例を元に最新の研究成果を紹介。


 世の中にはリスクがあふれている。我々はリスクに備え、様々な手を講じてリスクを回避・軽減しようとする。

 でも我々はリスクの計算が苦手だ。大した危険のないものにおびえ、ほんとに危険なものは軽視してしまう。

 よく言われるのが「多くの人間の命を奪った生き物だ」だ。ヒトを除けば、最も人間の命を奪った生物は蚊である。蚊が媒介した伝染病により、今でも多くの人が命を落としている。
 一方、サメで命を落とす人は年間数人程度。日本にかぎっていえば、ほぼゼロ(数年に一度負傷者が出るレベル)。でも我々は蚊よりもサメのほうが怖い。これはリスクを正しく判断できていない例だ。


 だからこそ保険が商売として成り立つ。スマホや家電を買うと、有償の保険に勧められる。壊れた場合に無償で修理できますよ、というものだ。数万円のスマホに対して数千円の掛け金。故障の確率を考えると、どう考えたって加入すると損だ(頻繁に壊す人は別)。それでも加入する(そして故障しない)人が多いから商売として成り立つんだろう。ぼくは加入しないけど、それでもちらっと「どうしよっかな」と迷ってしまう。




『リスク心理学』では、なぜ我々はリスクを誤って査定してしまうのかについて説明してくれる。

 スターの分析結果のうち、後の研究により影響を与えたのはもうひとつの方の知見でした。それはスキーや喫煙のような能動的に行う行為は、電力や自然災害のように、通常の日常生活を送るだけでかかわることになる受動的なハザードに比べて一○○○倍もの大きなリスクが許容されている、ということでした。
 例えば、自家用飛行機の事故率は一般の商用飛行機よりも格段に高いのですが、自家用機は自分の意思で利用するのでリスクが大きくても利用者は受け入れます。一方、一般の商用飛行機は人々は移動にそれを利用せざるを得ないのでより低いリスクでないと受け入れない、というわけです。
 つまり、社会は、一定のリスク/ベネフィット関係でいろいろなハザードを受容しているのではなく、自発的に接するハザードと非自発的なハザードとでは、別のリスク/ベネフィット関係があって、自発的ハザードは高リスクでも受け入れるダブルスタンダード(二重規範)になっていたのです。スターは徹底してリスクとベネフィットを数量的に扱い、両者の関係を定量的に求めてきました。その結果として自発性という定性的な要因の影響が顕わになってきたという点が面白いですね。

 つまり、自分が好きでやっていることはリスクを低く見積もってしまうのだ。

 新型コロナウイルスでいえば、満員電車はみんなマスクをして口を閉じていても怖い。でもマスクを外して会食する飲み会は大丈夫だとおもってしまう。

 かつてぼくが視力回復手術をしようとしたところ、父親から「やらなくていいことでリスクがあることはやめとけ」と反対された。でもそんな父親はゴルフが趣味だ。ゴルフなんて「やらなくていいことでリスクがあること」の筆頭みたいなものなのに(父親の反対は無視した)。


「自分の意思でコントロールできないもの」「大惨事になる可能性があるもの」「すぐに死につながるもの」「目に見えないもの」「リスクにさらされていることに気づきにくいもの」「新しいもの」「よくわからないもの」は、じっさいよりもリスクを高く算定するそうだ。

 新型コロナウイルスなんかまさにその代表例で、コントロールできない、目に見えない、感染してもすぐに発症するわけではない、新しくてよくわからない、といった条件が重なり、人々はパニックに陥った。特に2020年の右往左往っぷりは(ぼくも含めて)滑稽なほどだった。

 個人だけではない。子どもの死者がひとりも確認されていない時点で国があわてて全国的に休校をしたり、一日の感染者数が日本中で数十人しかいないのに実質ロックダウン状態にしたり。国の対応も、2022年の今からおもえば「もうちょっと落ち着け」と言いたくなるようなものばかりだった。まあ今だから言えるわけだけど。

 そのくせ、2021年に東京オリンピックが近づくとあれやこれやと「オリンピックを開催できる理由」をアピールしはじめた。これなんかまさに「自発的ハザードは高リスクでも受け入れる」の典型例だ。つまり政府といったって結局は人間の集まりなので、ぼくら個人と同じくらいバカでよくまちがえるということだ。


 新型コロナウイルスとは逆に、リスクを低く見積もってしまうものもある。筆者が挙げるのは自転車だ。

 自転車は意外とリスクの高い乗り物です。自転車運転中の死亡者は減少してきているのですが、それでも毎年数百人(平成初期は一○○○人超、近年でも四○○人程度)が亡くなっています。バイクや原付は交通事故で死亡するリスクが高く思われますが、実は、死亡者は自転車の方がずっと多いのです。毎年安定して何百人もの犠牲者を出しているのですが、それでも反自転車団体が自転車廃止運動を展開し、多くの市民がそれに同調する、という話は聞いたことがありません。なぜか?
(中略)
 恐ろしさ因子からみていきましょう。自転車運転中の事故に関して、災害発生前の「制御可能性」はかなり高いですね。ブレーキという制動装置がありますし、周囲に注意を払い安全運転を心がけることで、事故に遭う確率を低くできます。そもそも自転車に乗るのは自分の意思による選択なので、乗らなければ被害に遭うこともありません。
 これは自発性ともからんできます。例えば、放射線だと、事故現場近くに居住しているだけで否応なしに被ばくしますので制御可能性はないといえます。
 自転車と耳にしただけで「恐怖を喚起する」ということはありませんし、自転車事故が世界中で同時多発的に起こって「大惨事となる潜在性」があるとは思えません。「致死的な帰結」については、実際には先述のようにかなり高いのですが、自転車事故=死、という印象はないでしょう。(中略)
 次に未知性因子をみていきましょう。自転車はそこにあれば誰にでも見えますので「対象を観察できない」ということはなく、自転車に乗っている人は自分でそのことがわかっていますから「リスクに曝されている本人がそのことを知り得ない」ということもありません。事故があればその場で怪我をしますので、脳震盪などを除いて「悪影響がその場でば顕れず、後になってから生じる」とも考えにくく、自転車は「新しい」ものでもありません。「科学的によくわからない」という要素もあまりなさそうです。

 なるほどねえ。

 飛行機が怖い人は多いけど(ぼくもそのひとりだ)、確率でいえば飛行機よりも自動車や自転車のほうがよっぽど危険な乗り物だ。それでもぼくらは自動車や自転車のリスクを軽視してしまう。

 リスクの算定を誤ることは避けられないけど、「こういうときにリスクを高く/低く見積もりがち」という己の傾向を知っていれば、その誤差は小さく抑えることができる。

 大事なのは「自分はバカでよくまちがえる」と知ることだ。




 バカな我々がまちがえる理由のひとつが「公正世界誤謬」だ。

 新型コロナ禍の中、厳しい労働条件におかれ、大きな負担を強いられている医療従事者が地域社会から排除されるというのはいかにも理不尽なことです。感染者や感染者家族が回復し、十分に感染リスクが下がっても不当な扱いを受け続けることも同様です。しかし、しばしば「ひどい目にあっている人は、そうなるだけの理由があるのだ」と考えられがちです。
 これを説明する心理学モデルがメルビン・ラーナーによって提唱された公正世界信念と呼ばれるものです。それによると、われわれは「世の中は公正にできていて、悪い人・悪行には悪い結果が返ってくるものだし、良い人・善行には良い結果が返ってくるものだ」という因果応報的な信念を持ちやすいのです。この信念を持つことには肯定的な側面もあり、例えば、目標を立てそれに向けて努力することや主観的な幸福感の高さに関連しています。けれども一方、この信念は正しい行いをしているのに理不尽にひどい目にあわされている人の存在を容認しにくくします。それを認めてしまうと自分の信念が脅かされるからです。

 世界は公正であることをうたう言葉は多い。「正義は勝つ」「お天道様は見ている」「悪銭身に付かず」「努力は必ず報われる」など。

 それ自体は悪いことではないが、こういう信念が強すぎると容易に「あの人が負けたのは正義ではなかったからだ」「おれが金持ちなのは正しいことをしているからだ」「あいつが報われないのは努力が足りないからだ」と信じこんでしまう。

 言うまでもなくこれは誤っている。どれだけがんばっても報われない人はいるし、畳の上で家族に見守られながら穏やかに死ねる悪党もいる。天災で死んだのはおこないが悪かったからではない。


 「正義が負けて悪が勝つこともよくある」と認めるのはしんどいんだよね。ぼくがテレビや新聞のニュースを見るのをやめたのも、それが理由のひとつだ。
「政権に媚を売っていれば検事長が違法な賭けマージャンをやっていても起訴されない」「権力を持っていれば有権者を接待しても検察が見てみぬふりをしてくれる」とか認めるのはすごくストレスだもの。検察が正しい仕事をしてくれるはず、検察が動かないということはそれ相応の理由があるからだ、それが何かはわからないけど、と無根拠に信じていればそれ以上頭を使わなくて済む。

 三歳児みたいに「正義は勝つし、常に正しい判断を下せる人がいるはず」と信じられれば楽なんだけどね。気持ちは。


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2022年6月17日金曜日

【漫才】将棋のルール


「将棋をやってみたいとおもうんだけどさ」

「いいじゃん」

「でもルールがなにひとつわかんないんだよね」

「あー。まあ最初はちょっとむずかしいかもな。でもすぐおぼえるよ」

「将棋のルールわかるの?」

「わかるよ」

「全部?」

「全部? ん、まあ、全部……わかるよ」

「じゃあ聞くけど、ごはんっていつ注文すんの?」

「ごはん?」

「ほら、棋士が対局するときってお昼ごはん食べたりするんでしょ。あれってどのタイミングで注文するの? 誰かが訊きに来るの? それともこっちから『そろそろ注文いいですか』って言うの?」

「えっ、えっ、ちょっと待って。プロ棋士の対局の話?」

「そうだよ」

「いや、将棋のルールっていうから、駒の動かし方とかそういうのかとおもったんだけど」

「そんなのは本読めばすぐわかるじゃん。今知りたいのはごはんの注文に関するルール」

「それはルールじゃないでしょ」

「じゃあルール無用で注文していいわけ? 板前呼んで十万円ぐらいする寿司のコースを握らせてもいいわけ? 対局やってる横でマグロの解体させてもいいわけ?」

「いやさすがにそれはだめでしょ」

「ほら、だったらルールがあるんだよ。将棋のルールは全部知ってるんでしょ。いつ注文するのか教えてよ」

「いやおれがおもってたのは盤上のルールだったんだけど……。まあ、十一時ぐらいに主催者が訊きに来るんじゃない? おひる何にしますかって」

「何頼んでもいいの?」

「いや……さすがにマグロの解体ショーやられたらまずいから……。あ、そうだ、メニューがあるんだよきっと。和食、洋食、中華それぞれのお店の。その中から選ぶんだ。だからいちばん高くてもうな重(上)の五千円とかだろうね

「棋士はいつお金払うの? 注文するとき? それともごはんが届いてから?」

「えっと……どっちでもないとおもう。対局中に財布出してるの見たことないもん。トーナメントのときは主催者持ちかな。将棋以外のことに頭使わせたら悪いし」

「ふだんの対局のときは?」

「どうしてるんだろ。あれかな、将棋協会とかが立て替えておいて、給料払うときにその分差し引いて振りこんでるとかかな」

「でも労働基準法第二十四条に賃金の全額払いの原則があるから貸付金との相殺は禁じられてるんじゃなかったっけ」

「なんだよ妙にくわしいな。将棋のルールは知らないくせに」

「法学部だから」

「めんどくせえなあ。じゃあ対局が終わってから請求してるんじゃないの」

「あのさ、テレビで観たことあるんだけど、棋士って対局中におやつも食べるでしょ」

「ああ、食べてるね。ものすごく頭使うから、甘いものがほしくなるらしいよ」

「おやつを持ち込んで食べるんだってね」

「そうそう。誰が何食べたかとかもけっこう注目されてるよね」

「あれは何持ち込んでもいいの」

「まあだいたいいいんじゃない。そりゃパティシエを持ち込んで作らせるとかはだめだろうけど」

「たとえばお汁粉とか」

「ぜんぜんいいでしょ。甘いし、冬なんかはあったまるだろうし」

「お汁粉の湯気で対局相手のメガネが曇らせる作戦」

「そううまくいくかね。そんなの一瞬でしょ」

「いつまでもメガネが曇るように、煮えたぎったお汁粉を……」

「そんな熱いの自分も食えないじゃん」

「食うときははフーフーして冷ますから大丈夫。あ、待てよ。フーフーしたら二歩で反則負けか」

「くだらねえな。将棋のルールなにひとつ知らないって言ってたくせに、二歩は知ってんのかよ」

「おまえこそ将棋のルールぜんぶ知ってるっていってたくせにぜんぜん知らないじゃないか」

「おれが言ってるのは将棋のルール。さっきからおまえが訊いてきてるのは棋士のルールじゃないか」

「じゃあ将棋のルールについて質問するよ。新しい駒を考えたときはどこに申請したらいいの?」

「……は?」

「だからさ、おれが新しい駒を考えたとするでしょ」

「なに言ってんの?」

「たとえばね、土竜(もぐら)って駒を考案したとするよ。相手の駒や自分の駒の下をくぐって前に進めるやつ」

「だからさっきからなに言ってんの

「これを正式に採用してもらいたいとおもったら、どういう手続きで日本将棋連盟に申請したらいいの? 決まった書式とかあるの? どこで申請書のPDFファイルをダウンロードしたらいいの? 採用された場合の権利関係はどうなるの? 発案者にはいくら入ってくるの?」

「ちょっ、ちょっと待って。ないから。新しい駒が採用されることなんかないから」

「ないの?」

「ないよ」

「えええ……。じゃあおれはなんのために三年もかけたんだ……」

「新しい駒考えてたのかよ」

「数百種類も考えたのに……」

「それもはや将棋じゃなくてポケモンバトルだろ」

「じゃあさ、また別の質問」

「もうやだよ。ぜんぜん将棋のルールの質問じゃないじゃない」

「次で最後だから。次こそちゃんとした質問」

「……わかったよ。最後な」

「ありがとう。じゃあ最後の質問。もしも将棋の駒が寿司ネタだとしたら、それぞれの駒はどの寿司ネタに該当するとおもいますか? また、どの順番で食べるのが正解だとおもいますか?」

「どこが将棋のルールなんだよ!!」