2021年11月30日火曜日

ダイエットと節約に失敗する方法

 節約もダイエットもそうだけど、「節約してる」「ダイエットしてる」とおもってる時点でもうほとんど失敗してる。

 だって痩せてる人ってダイエットしてないもん。食べたいのを我慢してるわけじゃなくて、そもそも食べたくない。

 節約もそう。貯金をしてる人は買いたいものを泣く泣く我慢してるわけじゃなくて「そんなに欲しいとおもわない」。


 ぼくは生まれてからこのかた、一本も煙草を吸ったことがない。だから煙草を吸いたいとおもうことがない。あたりまえだけど。

 禁煙中の人は、ずっと煙草を吸いたい、でも吸っちゃいかんというストレスにさらされる。

 でも煙草を吸ったことがない人は、煙草が吸えないことに関して一切のストレスを感じない。ノーストレスで禁煙に成功しているともいえる。

 当然、禁煙に成功する確率が高いのは「ついこないだまで煙草を吸っていた人」ではなく「一本も煙草を吸った人」のほうだ。吸ったことない人が吸わないことを禁煙っていうのか知らんけど。


 だからさ。

 身も蓋もないことを言うけど、ダイエットも節約も成功しないのは当然なんだよ。

「痩せなきゃ」「お金貯めなきゃ」っておもう時点でもうストレス環境に自分を追いこんでるんだから。成功する人はがんばらずに食べる量や使うお金を減らすんだから。


 ということで、「ダイエット」「節約」で検索してここに来たあなたには残念なお知らせなんですが、あなたはもう失敗してるんですね。ごめんなさいね。でもそうなんです。


 ところでさ。

 さっき「煙草を吸ったことがない人は煙草が吸えないことをストレスとは感じない」って書いたじゃない。

 あれ、ほとんどすべてのことにあてはまるよね。

 お酒を飲んだことがない人は酒が飲めないことをストレスに感じないし、ラーメンを食べたことがない人は夜中にラーメンが食べたくなったりしない。

 でも、例外もある。

 童貞の性欲。

 あれだけは、経験したことがないのに猛烈に追い求めてしまう。

 なんでなんだろうね。


2021年11月29日月曜日

【読書感想文】中町信『模倣の殺意』 ~そりゃないぜ、なトリック~

模倣の殺意

中町信

内容(e-honより)
七月七日の午後七時、新進作家、坂井正夫が青酸カリによる服毒死を遂げた。遺書はなかったが、世を儚んでの自殺として処理された。坂井に編集雑務を頼んでいた医学書系の出版社に勤める中田秋子は、彼の部屋で偶然行きあわせた遠賀野律子の存在が気になり、独自に調査を始める。一方、ルポライターの津久見伸助は、同人誌仲間だった坂井の死を記事にするよう雑誌社から依頼され、調べを進める内に、坂井がようやくの思いで発表にこぎつけた受賞後第一作が、さる有名作家の短編の盗作である疑惑が持ち上がり、坂井と確執のあった編集者、柳沢邦夫を追及していく。著者が絶対の自信を持って読者に仕掛ける超絶のトリック。記念すべきデビュー長編の改稿決定版。


 この作品、『そして死が訪れる』というタイトルで乱歩賞への応募され、その後『模倣の殺意』と改題されて雑誌に掲載、単行本刊行時には『新人賞殺人事件』というタイトルになり、文庫化の際は『新人文学賞殺人事件』とまたタイトルが変わり、そして復刊の際には『模倣の殺意』に戻った、という複雑な経緯をたどっているそうだ。
 つまり(いくらか手が加えられているとはいえ)ひとつの作品なのに、四つの題名を持っているわけだ。なんともややこしい。


 最初に刊行されたのが1973年ということで、今読むと「うーん……当時は斬新だったのかもしれないけど……」となんとも微妙な出来栄えである。

 トリックも強引だし、アリバイ工作も嘘くさすぎる。
「○時にちょうど時計台の前で撮ってもらった写真があります」とか
「○時には××にいました。ちょうどその時刻に知人に××に電話をかけるように依頼していたので証明できます」とか。

 いやいやいや。
 アリバイがどうとか以前に、それもう「私が犯人です」って言ってるようなもんじゃない。犯行時刻にたまたま時計台の前で撮った写真があるって……。


 それから、トリックは賛否両論あるとおもうけど、ぼくは「否」だとおもう。これはフェアじゃない。

 以下、そのトリックについて語る(ネタバレあります)。




(ここからネタバレ)


『模倣の殺意』のストーリーをかんたんに説明すると、坂井正夫という売れない作家が不審な死を遂げ、それを中田秋子という編集者と、津久見伸助というルポライターがそれぞれ追う。中田秋子のパートと津久見伸助のパートが交互に語られる。


『模倣の殺意』には、犯人が仕掛けたトリック(さっき挙げたアリバイ工作など)とは別に、〝著者から読者に仕掛けられたトリック〟がふたつある。
 いわゆる叙述トリックというやつだ。

 ひとつは、中田明子と津久見伸助が同時期に別行動をとっているように見えて、じつは中田秋子のパートが、津久見伸助のパートの一年前の出来事であるということだ。

 これは(今となっては)めずらしい叙述トリックではない。というか定番といっていい。ぼくもすぐにそうじゃないかとおもった。
 ミステリで別々の語り手による話が交互に進んでいく場合は、時間や空間が隔たれていることをまず疑ったほうがいい。


 もうひとつのトリックは、中田明子が追っている坂井正夫と、津久見伸助が追う坂井正夫が、同姓同名の別人ということだ。

 これはフェアじゃない。
 前にもやっぱり〝同名の別人〟が出てくるミステリを読んで、同じことをおもった。ずるい。

 いや、同姓同名を登場させるのが全部反則とはいわないが、同姓同名の人間がいることを早めに提示するとか、坂井正夫Bは坂井正夫Aになりすますために同じ名前を名乗ったとか、もう少しフェアな書き方があるだろう。

 だってさ。それってミステリのルール以前に、小説のルールに違反してるじゃない。

「田中は家に帰った。その夜、田中は彼女を殺した」
って書いておいて、「じつははじめの〝田中〟と次の〝田中〟は別人でしたー!」っていうようなもんじゃない。そりゃないよ。
 特にことわりがなければ、同じ名前が指す人物は同じものっていう暗黙のルールがあるじゃない。この、日本語の最低限のルールを破っておいて「トリックでしたー!」ってのはずるすぎる。それはトリックじゃなくてただの反則だ。

 下村敦史『同姓同名』っていう同姓同名を扱ったミステリ小説があるらしいけど(読んだことはない)、同姓同名をミステリに使うならそんなふうに最初にことわらなきゃいけないとおもうよ。


 しかもこの『模倣の殺意』、どっちも坂井正夫が出てくるんだけど、どっちも作家志望で、どっちも七月七日の七時に殺されるんだよ(一年ちがいだけど)。
 強引すぎでしょ。

「だまされたー!」じゃなくて「著者と読者の間にある最低限の信頼関係を踏みにじられたー!」という気持ちしか湧いてこなかった。そりゃないぜ。


【関連記事】

【読書感想文】ルール違反すれすれのトリック / 柳 広司『キング&クイーン』

【読書感想文】叙述トリックものとして有名になりすぎたせいで / 筒井 康隆『ロートレック荘事件』



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2021年11月26日金曜日

本屋で働いていたころの生活

 十数年前、本屋で働いていたころの生活。


 朝四時半に起きる。
 朝食。まだ胃が起きていなくて気持ち悪くなることもよくあった。

 五時二十分に家を出る。冬だと外は真っ暗。当然めちゃくちゃ寒い。
 車をびゅんびゅん飛ばして六時ぐらいに職場に着く。

 始業が六時半なので、それまでの間職場の椅子で寝る。椅子をふたつ並べて横になる。
 家でギリギリまで寝ていると遅刻するので(そして車を飛ばしすぎて事故ったことがあるので)、早めに着いて職場で寝ていたのだ。
 慢性的に寝不足だったので、仮眠なのにすごく深い眠りに達した。携帯のアラームをかけるのだが、アラームが鳴って「起きなきゃ」とおもうのに身体がまったく動かないことがあった。脳は起きているのに身体が起きられなくて金縛り状態になっていたのだ。

 タイムカードを押し、業務開始。金庫を開けてレジ金の準備をする。冬は寒すぎてうまく指が動かないこともあった。
 売場に行き、レジの電源をつけたり釣銭の用意をしたりしていると早朝番のバイトがやってくる。ほとんど大学生。フリーターのバイトも多かったが、フリーターは早起きができないのだ(偏見)。


 七時から本の荷出し。
 本屋で働いているというと、よく「本屋って朝遅いからのんびりできそうだよね」と言われた。とんでもない。
 店にもよるが、ぼくが働いていた店では六時前にはもうその日発売の雑誌が到着していた(書籍はもうちょっと遅くて七時ぐらい)。本を届けてくれる人が店の鍵を持っていて、勝手に鍵を開けて本を置いていってくれるのだ。
 もっとも、到着時間は店によってずいぶんちがうようだ。ある店の新規オープンを手伝いに行ったことがあるが、その店は九時ぐらいだった。それはそれでたいへんで、到着から開店まで時間がないのでめちゃくちゃあわただしい。オープンと同時に買いに来る人もいるし、そういう人は目当ての本がなければよそに行ってしまったりする。しかも開店してから本を並べることになるわけだが、客がいるとものすごく本を並べづらい。本屋の客は本に集中しているので、近くで店員が本を並べたそうにしていてもどいてくれないのだ。


 毎月一日や二十三日、二十五日あたりは雑誌の発売が多くて忙しかった。一日はわかるとして二十三日や二十五日の発売が多いのは、給料日をあてこんでのことだろう。ぼくは幸いにして「給料日まで買いたいものを我慢する」という生活をしたことがないのでこのへんの感覚はわからないが、世の中には給料日にふりまわされる人が多いことを本屋で働いて実感した。雑誌に限らずすべての賞品で月末は売上が伸びて二十日頃は低迷するのだ。

 入荷した本をすべて並べおわるのが、早くて開店の十時ぐらい。つまり最短でも三時間かかる。
 なんでそんなにかかるのかとおもうかもしれないが、数百冊の本を所定の位置に並べるのはかなり大変なのだ。郊外型の大型店舗だったし。
 特に時間がかかるのが雑誌とコミック。雑誌は付録がついているので、ひとつひとつに輪ゴムで止めなくてはならない。コミックはシュリンク袋(透明袋)をかけないといけない。あの袋ははじめからついているとおもうかもしれないが、あれはひとつひとつ書店でかけているのだよ。そして返品するときには破って捨てる。返品した商品は別の店に行き、そこでまたシュリンク袋をかけられる。うーん、無駄だ。
 あれはなんとかならんもんかねえ。客の質が良ければあんな袋かけなくてもいいのだが。そうはいっても立ち読みで済ませちゃう客はいっぱいいるわけで。ううむ。元も子もないことをいうと、コミックというもの自体が店舗で売るのに向いていないのかもしれない。
「短時間見てしまえばもう用済みになるもの」を売るのは難しい。効率だけを考えるなら、タバコ屋みたいに客が「『ONE PIECE』の15巻ください」と言って店員が奥から取ってくる……みたいにするのがいいのかもしれない。よくないな。


 それから、定期購読や注文品があるので、これは売場に出さずに取り置かなくてはいけない。新刊雑誌は発売日がわかるからいいとして、注文品はいつ入荷するかわからない。
「今注文されているのは何か」を頭に入れておいて、売場に出さないように気を付けなくてはならない。

 本の注文というのはほんとゴミ制度で、いつ入荷するかもわからないし、へたすれば注文後一週間ぐらいしてから「やっぱ無理でした」と言われることもある。
 それを客に伝えると、当然ながら怒られる。「無理なら無理って注文したときに言ってよ!」と。
 しごくもっともだ。ぼくでもそうおもう。
 でも書店の注文制度って、今はどうだか知らないけど、当時はほんとにひどかったのだ。そりゃAmazonに客とられるわ。


 あと本を並べるだけならいいのだが、売場の面積は有限なので、新たに何かを並べるならその分何かを減らさないといけない。「売れる量=新たに入ってくる量」であれば返品がゼロになるので理想だが、現実はそううまくはいかず新たに入ってくる量が圧倒的に多い。

 雑誌は鮮度が短いので、「発売から二十日経ったものを返品する」とかでなんとかなるのだが(しかし雑誌の発売日はばらばらではなく同じ日に集中しているのでそう単純な話でもないのだが)、問題はコミックや書籍、文庫だ。
 鮮度が長いので「どれを残してどれを返品するか」を判断しなくてはならない。これは店の売れ筋傾向や担当者の好みによって変わるのでなかなかむずかしい。本を読まないバイトに任せると「出版日の新しさだけで残すかどうか決める」とかになってしまうので任せられない。

 まだコミックや文庫は最終的には担当者が「おもしろそう」とおもうかどうかで決められるのだが、どうしようもないのが実用書だ。
「はじめての料理」みたいな本が各出版社から出ているのだが、どれも同じに見える。じっさい内容は大差ないにちがいない。
 これを、どっちを残してどっちを返品するかなんて決められない。最後は「出版社の担当がいい人か嫌なやつか」で決める。
 だいたい料理とか手芸とか家庭菜園なんて次々に新しい本出さなくていいんだよ。十年前とやることはほとんど変わらないんだから! ……と書店員はおもうのだが、出版社には出版社の事情があるのだろう。


 本の荷出しは力仕事だ。
 ファッション誌なんかめちゃくちゃ重い。それを何十冊と運ぶのだ。
 ぼくがいちばん嫌いだった雑誌は『ゼクシィ』だ。めちゃくちゃ重い上に、毎号かさばる付録がつく。その割に値段が三百円しかなかった(広告だらけなので安いのだ)ので、利益にならない。
 大嫌いだったので、自分が結婚するときも『ゼクシィ』は買わなかった。

 荷出しをしていると汗をかく。夏なんかクーラーをつけていても汗びっしょりだ。冬でもあたたかくなる。とにかくハードな仕事だ。


 本を並べおわると銀行に行く。
 ぼくが働いていたのはまあまあの大型店舗だったので、一日の売上が百万円ぐらい(本だけでなくDVDレンタルやCD販売もやっていた)。その売上を午前中のうちに入金しないといけないのだ。

 ATMではなく窓口で入金していた。なのでけっこう待たされた。
 ただ、待たされている間は本を読めるので好きな時間だった。

 日によっては銀行の後、配達に行く。喫茶店や美容室で定期購読をしている店に雑誌を届けにいくのだ。
 ぼくはこれが大嫌いだった。
 まあ配達については以前にも書いたけど割愛。

【読書感想文】書店時代のイヤな思い出 / 大崎 梢『配達あかずきん』


 十二時ぐらいに店に戻る。十二時~十四時ぐらいはバイトが交代で休憩をとるので、その間ぼくはレジに立たなくてはならない。

 平日の昼間は暇なので、レジ内で返品作業や発注作業をする。
 返品もまた力仕事だ。本がぎっしり詰まった段ボールを運ばなくてはならない。

 十四時頃、バイトの休憩が終わってやっと休憩をとれる。
 六時半から働いて十四時まで休憩なし。すごく疲れている。

 が、休憩は三十分しかない。今おもうと完全に労基法違反なのだが、当時はそういうものとおもっていた。
 十五分ぐらいであわただしく飯を食い、寝る。十分ぐらいなのに熟睡する。
 休憩の途中でもバイトから内線で呼びだされることがあり(クレーム対応とか)、心底いらついた。この時間に訪問してくる出版社の営業は嫌いになった。

 そうそう、出版社の営業がやってくるのだ。アポなしで。

 で、「こんな本出るんで入荷してください」と言ってくる。
 最初のほうは言われるがままに注文していたら(本は返品可能なので売れなくても懐が痛むわけではない)、営業が調子に乗って勝手に送ってきたりするようになったので、厳しく接するようになった。

 で、営業が来る頻度がどんどん減っていき、仕事が楽になった。営業が来なくてもいっこうに困らないのだ。本はどんどん出版されてどんどん取次から送られてくるので。

 出版社の営業ってのはほんとに質が悪くて、たとえば「売場の整理していいですか」とか言ってきて、「ありがとうございます」なんて言ってると、自分の出版社の本をどんどん前に持ってきて、他の出版社の本を奥に押しやったりする。ひどいやつになると、勝手に返品用の場所に他の出版社の本を押しこんだりする。ほとんど犯罪だ。
 もちろん人によるけど、ひどい営業が多かったので、どの営業に対しても冷たくあたるようになった。
 今でも覚えてるぞ。特にひどかったのはSと生活社のジジイだ。なれなれしくため口で話してくるからこっちもため口で返してやったら、あからさまにムッとしていた。へへん。


 十四時半に休憩が終わって、発注業務をしていたら十五時。退勤時刻だ。六時半+八時間+休憩三十分。

 あたりまえだが、定時に帰ることなどできない。なにしろ交代の社員がやってくるのが十七時なのだ。社員不在になってしまう。
 二交代制なのだが、早番(六時半~十五時)と遅番(十七時~二十五時半)というシフトはどう考えてもおかしい。二交代制といいつつ空白の時間があるのだから。

 しかも、早番は最低二時間は残業しないといけないのに、遅番が二時間早く出勤するということは絶対にない。ちくしょう、遅番め!
 ……と当時は遅番社員を憎らしくおもっていたのだが、悪いのは遅番ではなくこの制度をつくった会社である。恨むのなら会社を恨まなくてはならない。でも現場にいると、身近な人間に怒りの矛先を向けてしまうんだよね。


 夕方ぐらいになると店が忙しくなってくるのでレジに立ったり売場に出たり。
 書店だけならそこまで売場は忙しくならないんだけど、レンタルDVDやCDも扱ってたからね。学生や仕事終わりの人が来て忙しくなる。

 十八時過ぎにミーティングをして、本格的に遅番の社員と交代。ここでやっと「レジが忙しいので来てください」と呼ばれることがなくなる。
 溜まっていた発注作業やメールの返信をする。話好きの店長(遅番)につかまってどうでもいい話につきあわされることも。

 早ければ十八時半ぐらいに退勤。遅ければ二十時半ぐらい。

 出勤時は道がすいているので家から店まで四十分だが、帰宅時は混んでいるので一時間かかる。

 勤務時間+通勤時間で十四時間から十六時間ぐらい。ぼくは最低でも七時間ぐらいは寝ないと頭が働かない人間なので、余暇時間などゼロだった。寝る時間ほしさに夕食を食べないこともよくあった。
 もちろん本を読む時間なんかぜんぜんなかった。本屋なのに。


 年間休日は八十日ぐらい。給料は薄給(時給換算したら最低賃金の半分ぐらいだった)。

 よう続けていたわ、とおもう。

 転職を二回おこない、総労働時間は当時の半分近くになった。そして給料は当時の倍以上。ってことは労働生産性が四倍になっていることになる。

 あの頃必死にがんばってたけど、今おもうと「あの努力はほとんど無駄だったな」とおもう。もっと早く転職していればよかった。
 環境が悪ければ努力をしても先がない。環境を変えるほうがいい。


 社会全体の労働生産性を上げるには、ブラック企業を廃絶することですよ。

 労働基準監督署に予算をまわしてちゃんと仕事をさせること。それがすべてじゃないですかね。



2021年11月25日木曜日

【読書感想文】知念 実希人『祈りのカルテ』~かしこい小学生が読む小説~

祈りのカルテ

知念 実希人

内容(e-honより)
新米医師の諏訪野良太は、初期臨床研修で様々な科を回っている。ある夜、睡眠薬を多量服薬した女性が救急搬送されてきた。離婚後、入退院を繰り返す彼女の行動に、良太は違和感を覚える。彼女はなぜか毎月5日に退院していたのだ。胃癌の内視鏡手術を拒絶する老人、心臓移植を待つ女優など、個性的な5人の患者の謎を、良太は懸命に解きほぐしてゆく。若き医師の成長と、患者たちが胸に秘めた真実が心を震わす連作医療ミステリ!


 少し前、通勤電車内で隣に立っていた小学生が文庫本を開いていた。
 電車通学しているので私学のかしこい小学生なんだろうが、それにしてもめずらしい。学校の図書室には文庫本はまず置いてないので、文庫本を読んでいる子はほんとの本好きだけだ。

 しかもちらっと見たら、医師とか捜査とかの文字が見える。ライトノベルではなく正統派ミステリっぽい感じだ。

 小学生が読むミステリってなんなんだろ。気になったぼくは、横目でちらちら見て、彼の読んでいる本の題名を突き止めた。『祈りのカルテ』。

 小学生が駅で降りていくと、スマホで『祈りのカルテ』を検索した(さすがに本人の横で検索するのは気が引けた。もしも小学生がぼくのスマホ画面を見てしまったら相当気持ち悪いだろうから)。
 そして購入。どれ、〝かしこい小学生が読むミステリ〟とやらを読んでみようじゃないか。




 うん、おもしろかった。やるじゃないか、かしこい小学生くんよ。

 主人公は研修医。総合病院で、あちこちの診療科をまわって研修をおこなっているのだが、その先々でふしぎな行動をとる患者に遭遇する。

 精神科では、毎月5日に退院するようなスケジュールで服薬自殺未遂をおこなって入院してくる女性。

 外科では、早期癌の内視鏡手術に同意していたのに、ある面会客に会ったとたんに手術を拒否した老人。

 皮膚科では、火傷での入院・治療の後になぜか火傷痕が増えた母親。

 小児科では、喘息の子どもに処方された薬がごみ箱に捨てられている。

 循環器内科では、秘密裏に入院していた女優の情報が知らぬうちにマスコミに漏れている。


 それぞれ殺人ほどヘビーでもないが、「日常の謎」と呼ぶにはいささか深刻な謎。その謎を、主人公である研修医が解き明かす。
 好感が持てるのは、あくまで研修医の立場から推理をおこなっていること。研修医だから忙しいし、治療の方針を決める権限もない。もちろん警察じゃないから強権的な捜査もできない。本業はおろそかにせず、研修をこなしているうちに偶然にも助けられてたまたま解決してしまう、というストーリー。
 で、それぞれにハートフルな結末が用意されている。

 いい、ちゃんとしてる。


 シリーズもののミステリの難しさって、トリックとか謎とき部分よりも「主人公を誰にするか」にかかってるんじゃないかとおもう。

 一般人が殺人事件を捜査することはまず不可能。むりやりやってしまうとおもえばナントカ田一とか江戸川ナントカみたいに、「行く先々でたまたま殺人事件が起こる死神のような探偵」になってしまう(まあマンガならギリギリ許されるかもしれないけど)。

 探偵でも同様。私立探偵のところに事件が持ちこまれる見込みは相当低い。大金持ちの遺産相続でもからまないと、わざわざ大金払って探偵に依頼する動機がない。

 じゃあ刑事を主人公に……となると、それはそれで難しそう。警察はきちんとした組織なので、権限や縄張りが決まっている。刑事が勝手にあちこち捜査するのには限界がある。
 数々の署員が集めてきた証拠をもとに丁寧な捜査をくりかえして着実に犯人を絞り込んでゆく……というのは現実的だが、小説としてはおもしろみに欠ける(横山秀夫氏のようにそれをおもしろく書ける人もいるけど)。


『祈りのカルテ』は、研修医という(推理に関しては)素人を主人公に据えながら、研修医の立場を超えた出すぎた真似をせず、それでいてきちんと証拠を集めて推理をする。うん、よくできた小説だ。




 五つの謎を解きながら、五篇を通して「主人公はどの科を選択するのか」という小さな(当人にとっては大きい選択だけど)謎も語られる。

 ミステリでありながら、研修医の成長物語にもなっていて、いやほんとよくできた小説だ。

 そして、よくできた小学生だぜ、あいつ。


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2021年11月24日水曜日

ポートボールにおけるドリブル再発明の瞬間

 ポートボールを知っているだろうか。

 Wikipedia『ポートボール』


 バスケットボールの子ども向け版というか。だいたいのルールはバスケットボールと同じだが、いちばんのちがいはゴールリングの代わりに人が立つこと。台の上にゴールマンが立って、その人にボールを渡せば得点が入る。

 みんな小学校でやったよね? とおもったが、今調べたら大阪発祥のスポーツなので全国区ではない可能性もある。兵庫県の小学校に通っていたぼくは何度かやったことあります。


 どんなへたくそでも適当にボールを蹴っていれば得点が入る可能性のあるサッカーとちがい、バスケットボールはある程度技術がないと点が入らない。小学校低学年だとそもそもゴールの高さまでボールが届かない、なんてこともある。

 その点ポートボールなら、ゴールは低い(台に乗ってもにせいぜい二メートルぐらい)し、シュートが正確でなくてもゴールマンが手を伸ばしてキャッチしてくれる。




 小学校低学年の子どもたちとよく公園で遊ぶ。

 子どもが未就学児のときはおにごっことかけいどろとか、とにかく走る遊びが主流だったのだが、ドッジボールなど多少複雑な遊びをやるようになってきた。

 ただ、ドッジボールって小学校低学年の遊びの定番でありながら、万人が遊ぶのにはあまり向いてないスポーツなんだよね。
 なぜなら強い子にばかりボールが集中するから。

 強い子は投げて、当てて、キャッチして、当てられて外野に行って、また当てて内野に復帰して……と八面六臂の活躍を見せる一方、弱い子は「逃げる」以外にはほとんどやることがない。

 いやほんと、「すごいスピードで飛んでくるボールから逃げまどい、ボールをぶつけられて痛い目に遭い、外野に行ってぼーっと過ごし、たまに転がってくるボールを拾って強い子にパスするだけ」のスポーツなんかおもしろいわけないよね。ほぼ罰じゃん。
 ドッジボールがスポーツ嫌いを生みだしていると言っても過言ではない。

(ちなみに、男子はそこそこ下手な子でも積極的に敵を狙いにいくのに対し、女子はそこそこうまい子でも空気を読んで自分では投げずに味方にパスすることが多い。既にはっきりと行動に男女差があっておもしろい)


 そんなわけで、ボール遊びが上手な子も下手な子もそこそこいっしょに楽しめるスポーツはないかなーと考えて、小学校のときにやっていたポートボールを思いだした。
 あれなら下手な子でもぼちぼち活躍できるかも。

 ということで、子どもたちにルールを説明してポートボールをやることにした。

  • ゴールマンは大人がやる(ゴールマンはただ立つだけであまりおもしろくないので。またゴールマンは背が高い人でないと点が入らないので)
  • ドリブルは教えなかった。うまい子のワンマンプレーにならないように、パスをつながないと点をとれないようにした。
  • 公式ルールだと2歩まで歩いていいらしいが、低学年には「2歩まで」を意識するのは難しい。また「3歩歩いた」「いや2歩だ」で喧嘩になることが目に見えているので、シンプルに「ボールを持っている人は1歩も歩いてはいけない」にした。投げるときに1歩踏みだすぐらいは黙認。
  • 危険な接触を減らすため「ボールを持っている人から奪うのは禁止」とした。ボールを取ったらあわてなくていい。小学校低学年には「一瞬で状況を把握してパスコースを決める」のは難しすぎる。スチールが禁止なので、ボールを手に入れるには、パスをカットするか、こぼれ球を拾うかしかない。
  • 怪我や喧嘩を招かないよう、2人同時にボールに触れたときはじゃんけんで所有権を決めることにした。




 ということで、小学2年生4人+大人2人でポートボールをやってみた。

 うん、いい。かなり白熱する。

 パスをつながないと点がとれないので、全員にまんべんなくボールを触る機会がある。ゴールマンを除けば1チーム2人しかいないので、必然的に下手な子にもボールがまわってくる。これが1チーム4人とかになると下手な子はパスしてもらえなくなるんだろうけど……。

 子どもは走りまわるけど大人はまったく走らなくてもいい、というのもいい。

 子どもは体力が無尽蔵にあるので、子どもといっしょにおにごっこなどをやっていると大人が先にばてるのだ。

 気を付けないといけないのは、なるべく接触を避けるようなルールにしているが、それでもやはりボールをめぐって子ども同士の接触が発生することだ。お互いに頭をぶつけるとか、別の子に引っかかれるとかは多少覚悟しなければならない。

 そうか、小学校でドッジボールが人気なのは、プレイヤー同士の接触が少ないからってのもあるんだろうな。ボールをぶつけられるのは痛いけど、怪我をするほどじゃないもんな。




 子どもたちははじめてのポートボールを楽しんでいた。ルールもそれほど難しくないので、みんなすぐに飲み込めた。

 特に教えたわけじゃないけど、「パスをカットするためにボールを持っている子と、パスを待っている子の間に入る」なんてプレーも自然にできるようになった。

 ところが「パスをカットされないように、ボールを持っていない子が右に左に動きまわる」はなかなかできない。みんな、ぼーっと突っ立ってパスを待っている。目の前に敵がいるからパスがもらえるはずないのに。

 そういやぼくも小学校のときにサッカーをやっていたけど、コーチから「パスもらいに行け!」とよく怒られたなあ。
 小学生にとって「パスをもらいやすい位置に移動する」というのはかなり難しいのだ。自分を客観的に見る、俯瞰的な視点が必要になるもんな。




 おもしろかったのは、自然発生的にドリブルが生まれたことだ。

 歩いてはいけないので、パスコースとシュートコースをふさがれるとどうすることもできない。立往生だ。

 あるとき、ひとりの子がボールを少し前に投げて自分で拾いに行った。ちょっと投げる、拾いに行く。ちょっと投げる、拾いに行く。そうやれば少しずつ前に進めることに気づいたのだ。
 他の子が「あれいいの?」と訊いてきたが、「ボールを持ったまま歩いてはいけない」というルールは破っていないので問題ない。
 OKと答えると、他の子も真似をしはじめた。


 ちょっと投げて、拾う。またちょっと投げる、拾う。

 ああそうか。これは原始的なドリブルだ。この子は、教えられていないのに自然にドリブルを発明したのだ。


 想像だけど、たぶんバスケットボールのドリブルもこうやって生まれたんだとおもう。

 バスケットボールが生まれたとき、「ボールを地面にバウンドさせながらだったら歩いていい」というルールはたぶんなかったはず。あったのは「ボールを持ったまま3歩以上歩いてはいけない」というルールだけ。
 たぶん最初期のバスケットボールにはパスはあってもドリブルはなかったはずだ。

 だがあるとき、誰かが「ボールを地面にバウンドさせながらならルールに抵触せずに進める」ことに気づいた。周囲は「あれアリなの?」とおもっただろうが、ルール的にはセーフだった。
 そこでみなが真似をはじめ、ドリブルが生まれたのだ。

 

 今、ぼくはポートボールにおけるドリブル再発明の瞬間を目撃したのだ!


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